極月――私とあたしの物語 夢は個人の神話


 私は歌舞伎役者よろしく大見得をきって、花道ならぬ廊下へと消えた。場面展開としてはこれでいいのだが、鍵が見つからない。

「浅倉くん、玄関のどこっ」

「あ、ええと、靴箱の横の」

「あ、あった! ありがと、じゃあねっ」

「センパイ、ドコ、行くんすか! もしかして店?」

「それは秘密」

「って、え、ウソ、マジで行っちゃうの?」 という間抜けな会話が交わされた。

これでそのまま出ていければまだ格好がつくのだけど、ドラマと違ってそうはいかない。

「ごめん、内側からちゃんと戸締りしてね。待っててね!」

 浅倉くんの返事を聞かず、ガラガラと音をたてて玄関を締めた。門も締めておけば誰かが勝手に入ってくることはないだろう。

 私は鞄を自転車の前籠にほうりこむ。手袋をつかんだ左手をポケットにうつし、右手だけでハンドルを制しペダルに左足をかけると同時に両手でグリップを握る。右足でアスファルトを強く蹴り、その勢いのまま颯爽と跨ってこぎだした。

 颯爽と。

 こういうときの主人公がかっこうよくなくて、何時かっこよくなれるのだ。たとえ乗っているのがママチャリでも、ここは背景がそのスピードに追い抜かれて 斜線になるくらいの印象で、信号につかまったりしないで目的地までいってほしい。中央区役所を過ぎて首都高を下にして昭和通りを横切り銀座を抜けて、目的地まで突っ走る。

 ブレーキに一度も手をかけずに乗ってきて、ビルの斜め前の柳の木の下で初めて両手の小指を縮めるように握りこむ。高く金属的な音がして、私はゆっくりと両足先をつけた。ここまできたら、焦ることはない。

 《敵》はここにいるはずだ。

 その確信が揺らがないうちに、後輪に鍵をかけて壁にぴったりと自転車を寄せる。いちおう、歩道があるのだった。

 裏返した手首に鞄の持ち手をひっかけそれが左肘におさまる瞬間に、自分の耳と頬の冷たさを存分に味わった。それから手袋が落ちていないことをたしかめてコートのポケットに深く押し込んだ。

 今日は、フラットヒール。飾りも何もない、エアーの入った黒革ブーツを履いている。

 目指すは「時任洞」。

 さあ、振り出しに戻ったぞ。

「なにか、御用ですか?」

 三階まで昇ったところで男の人に声をかけられた。この階の画廊のオーナーだ。ひょこっと首を傾けていた。

「すみません。時任さんに用があって」

「彼女はいませんよ。今日は休みだし、今は別の男のひとが来てるみたいで」

「ええ。知ってます。実は時任さん自身と連絡取れなくて。なにかご存知ですか?」

 この言い方は不審者っぽいかと思ったけれど、相手は気にとめた様子もない。事務所にもしかしたら連絡先がと呟いて戻ろうとした。

「あ、いえ、だいじょうぶです。合鍵預かってるんで。失礼しました」

 話しを無理やりうちきると、

「……あの、気をつけて」

 背後から、そう声がかかった。ぺこりと頭をさげて、何に気をつけるのか考えた。もう十一時をまわっているのだった。こんな時間にお店にいくひとはいないよね。

「はい。気をつけます。だいじょうぶです。ありがとうございます。失礼します」

 今度こそ、失礼しますと返る言葉をちゃんと聞いてから、階段を登る。

「こんばんは」

 ドアを開けると、あたりまえに暗い。まっくろくろすけがいそうな感じだ。壁のスイッチを探り当てようとしたところで、ホラー映画よろしくバタンと扉がしまる。

思わず身をすくめ、じぶんの心臓が妙に高鳴っているのを感じとる。ひどく、緊張している。あたりまえだろう。ドアに手をかけた憶えはないのだから。それならいったいこの「閉じこめられた空間」にいる理由はいったいなんになるのだろう。

 とにかく明りをつけよう。そう思い、再び壁に手を這わせたときのこと。

「待って。明かりはつけないで」

 聞きなれた、可愛らしい声が聞こえた。

「生きてたのね……」

「そんなふうに喜ばないで。うれしくなっちゃうじゃないのよ」

 甘えた、それでいて恨みがましく泣きそうな声が続けた。

「ねえどうして、ひと月っていう時間さえ、あなたたち人間は待てないの」

「獏?」

「あたしはひと月って言った。まだ今日は二月二十四日よ。貴女はここに来ちゃいけなかったのに、あたしを探してはダメなの。貴女は預かると言ったんだから」

 切羽詰った声をさえぎるように、落ち着いた声が出せているか気をつけて口にした。

「でも、壷はもってこなかったわ」

「え?」

「二万円、もってきたの。鉄瓶の代金」

 闇の中で、驚いたような、呆れたような、不思議な感触があった。私はわざわざ用意しておいたピン札の入った封筒を床においた。ほんとうはお金のはいったものだからきちんと手渡したかったのだけど、それが出来ないことを察していた。言ってみれば、その時点でさえも、そのくらいのことは、とうにわかっていたのだ。

「私は、あなたとの約束を守る。でもね、ひとは約束を守れない生き物なの。どうしてかわからないけど、何でだか、人間は約束を守れないようにできてるみたいなの。大昔からずっと、人間はあなた達との約束を破り続けてきたし、たぶんこれからもそれを繰り返すでしょう」

 妙に威勢のいい私の態度に、

「自分だけは違うっていうつもり?」

 俄かに緊張をはらんで、獏の声が震えた。

「いいえ」

 首をふって頬にあたる髪は冷たかった。

「違わない。私も同じ。たまたま今回は浅倉くんがいてくれただけのことで、彼がいなかったらここに壷を返してたし、壷の蓋を開けてたと思う」

「それで、貴女を庇った彼が、代わって呪いをうけたとでもいうつもり?」

 憫笑とでもいうように、語尾が揺れた。その掠れた音は生ぬるく、私の耳朶をうつ。相手の言葉が自身の肉体を撃ち抜いていくように、ただひたすら正直に、思っていることだけを言おうと覚悟した。

「それは、私にはわからない。ただ言えるのは、浅倉くんがバクになってしまったのはあなたに関係があるってことだけ」

「……あたしに、お願いをしているの?」

 どうこたえようかと悩んでみても始まらない。毅然と、とはとうてい呼べないくらい、だいぶ弱々しい声で、私は用意してきた言葉を口にした。

「私に対価が支払えるなら」

いくらか間があった。それから、少しだけ苛立ったような声で獏が問うてきた。

「どうして。あの男が好きなわけでもないのに、どうしてそんなことが言えるの」

 不誠実を詰られることに慣れていたのかもしれない。次の言葉はすぐに出た。

「それは私にしかできないことだって、私が知ってるからじゃない?」

 ただそれだけのことだ。犠牲的精神ではない。本当にただのナルシズムとヒロイズムの極致にあるだけのこと。だって、こういうときにそうする以外はないってこと。獏だって、それはわかっているはずだ。

「……そうね、貴女は正真正銘、主人公ね。で、何をさしだすつもりでいるの」

「それってたいてい、魂とか、命より大事なものとか言うんだよね?」

「質問に質問で返さない」

 厳しい声で返されて

「だって」

 と、あまったれた声がもれた。

 ふう、と獏が吐息をついた。今度は背中で気配がした。

 背中? そこは壁だったはずだ。

 無意識に明かりをつけようとのばした手を、自分で懸命におさえこんだ。見てはダメなものは何があっても見てはダメなのだ。この誘惑に抗えて初めて、ナニモノかになれるのかもしれない。でも、それは難しい。

 暗闇に、獏の声が高らかに響く。

「ねえ、じゃあ、あたしの質問にこたえて」

 これは、いかにもそれらしいシチュエーションだった。異界のものからの質問には、ちゃんとこたえないとならない。正解し続けなければならない。間違ったらすぐ命を奪われるか、人間の姿を失うか、大事なものを取られてしまう。ここで、人間の叡智が試されるといっていい。

 私はうなずいて深呼吸した。そうして質問を、待ち受ける。

「あたしはナニモノなの」

「人間以外」

「ずいぶん簡単に言うわね」

 鼻であしらわれたけれど、はずしてはいないようだった。まずは、ひとつの関門を切り抜けたらしい。

「あたし以外にも、そういうモノはいるのね? 貴女は会ったことがあるの?」

 その問いには、すらすらとこたえられた。

「いるでしょう。いなきゃおかしいもの。でも、会って、コミュニケーションがとれたのは初めて。私はずっとあなた達を、あなたを、待っていた気がする」

 どんなに狂おしく、彼らを待ったかわからない。夜寝る前に手を組み合わせて、なにかはわからないけれど、その、よくわからない何かにむかってお願いした。どうやったら、お話の主人公のようにこの世界から旅立てるのか、そればかり考えていた。古い洋服箪笥があれば必ず覗いたし、扉があれば必ず開けてみた。どこかに、きっとどこかに、不思議な国へと通じる道があるはずだと、ずっとずっと信じていた。

「だって私、ずっと、小さい頃からきっと会えるはずだと思ってた。どうして、妖精も妖怪も宇宙人もなにもかも、いないなんて言い切れるのかわからなかった。会えなきゃおかしいと思ってた。だから、会えてうれしかった。ありがとう」

 じぶんの知るかぎり、このありきたりの感謝の言葉が、こんなに真実の響きをもったことは今までになかった。

 ありがとう。

 文字通り、有り難い、ものたち。ありがたい、存在。

 やわらかな呼吸が聞こえた。戸惑いのような、ため息だった。それがさざ波のように押し寄せて、私のからだをやさしく包みこむ。

「姫香。貴女、手馴れすぎてるわ。もう少し、敬虔になりなさい」

 けれど言葉は当たり前に厳しかった。無理もないと感じながらも、腹立ちはおきた。だからむっとして言い返す。

「だって、だって、ずっとずっと今日みたいな日のために、おはなしを読んできたのよ!」

「それでも」

 厳然と返すことばを馬鹿のようにくりかえす。

「それでも? どうして、そんなことをいうの。どうして。それでもってだって、私、失敗したくないの。ちゃんと、主人公をやりたいの」

 私の反論に、獏はまたしても冷然とこたえる。

「ダメよ。貴女はお話しの意義を忘れて、役目を乗り越えようとしている。あたし達を待つなんて、白馬の王子さまを夢見るより質が悪いって言ってるの」

「そうかな。根っこは同じじゃない?」

 食い下がった私に、獏はほとんど説教でもするように告げた。

「似てるけど、違うわね。貴女はあちこちの扉を開けまくるけど、彼女たちはあちこちの扉を閉めまくるのよ。誰かが自分の扉を叩くのを待つのは、期待がある分、ましよ。貴女はもう、誰をも期待してない。自分だけを頼りにして、何もかもを切り捨てるつもりで生きている」

「そうかな」

 そこまで思ってはいない。そこまで、覚悟を決めていないだろうと考えて、いや、と否定した。

「だって、いつまでもお姫様ではいられないでしょう?」

 それを聞いて、獏が声をあげて笑った。

「貴女はさいしょからお姫様なんてやれる玉じゃないわよ。自己主張が強くて頑固でワガママで意地が悪くて、それでお姫様をやろうなんていうのは間違ってるわ」

 そのせりふには誇らしげに胸をはって私はうなずいた。

「うん。知ってる。何があろうとも、お姫様にだけはなるまいって心に決めてるの」

「どうして」

 こんどこそ、素直な問いが返ってきた。私はほっとして肩の力をぬく。

「あのね、お姫様というのは時空を超越してないとならないの。年をとる生き物にはむいてない職業なの。それにね、誰からも顧みられないお姫様くらいこの世でいちばん哀れな存在はないの」

 じぶんでは、決まりきったことを言ったつもりだった。どうだ、これで反論できまいというくらいの事実を口にしたはずだった。ところがそこへ、獏の高い声で反駁が襲ってきた。

「でも、そういう哀れなものだからこそ、いとおしいんじゃないの?」

真摯な、ひたむきな、訴えかけるような声を聞いて初めて、獏が《お姫様》だという可能性を失念していたことに思い至る。

 塔の上のお姫様。囚われの、美しの姫君。どこへも行けず、本来の姿を奪われた哀れなお姫様。都会の真ん中の雑居ビルの四階、そこから一歩も外に出たことのない、古道具に囲まれて救援者を待つ姫君。

 さまざまなイメージが頭のなかをいきすぎて、息苦しいような気分で尋ねた。

「獏、もしかして……」

「言わないで!」

 甲高い悲鳴をあげられて確信した。だから、

「私にできること、ない?」

 勢いこんで口にすると、沈黙が落ちた。予期することの出来なかった、そして当然予測してしかるべき居心地の悪い、間があった。

 当たり前に、私たちは異類なのだ。

それを知っているつもりだった。十分によく理解していると思っていたはずなのに、この妙な沈黙がその想いをはっきりと裏切っていた。

 身の置き所のなさに震えながら、そうしてはじめて、私はここが『時任洞』ではないかもしれないことに気がついた。いくらなんでも、もう目が慣れたはずだ。古道具屋とはいえ電話器の留守電の赤いランプや、ライトのスイッチを示す黄緑色の明かり、そういったものが何ひとつないなんてあり得ない。

 私は、靴が踏みしめるフローリングの感触を思い起こそうとして諦めた。そういうことをしてはダメだ。そういう姑息なことをするくらいなら、はっきりと問うたほうがいい。それが、自分のやり方だった。でも今、それが出来ない。怖いからじゃなくて、いや、こわい。でも、それだけでなくて、それを聞いてしまったら最後、たぶん、獏とはもう会えなくなる。おしまいになる。

「……いるの?」

「いるわよ」

 返事があることにほっとした。ほっとして、甘えた声をだした。

「ねえ、ここはどこ」

「そういう質問は馬鹿げてるわ」

 一蹴されて、その言いっぷりの高慢さに笑いが漏れた。たしかに馬鹿げている。言われなくともわかりそうなものだ。じぶんの愚かさをも笑い終えて息をつくと、珍しく遠慮がちに、獏がきいてきた。

「姫香、貴女が本当になりたかったものを教えて」

「笑わない?」

「それは聞いてみないとわからないわ」

「じゃあ、言わない」

「ダメよ。あたしの質問にこたえないとならないんだから」

 そうだった。忘れてた。私は観念して目を閉じた。

「……王子様」

 相手がはっと、息をつめるのを聞いた。それから、いつもの高い声が聞き返した。

「ほんとに?」

「ほんとに。正真正銘、王子様」

「どうして。お姫様とかお嫁さんならわかるけど」

 幼稚園生のとき将来何になりたいかという質問があって、みなが「お嫁さん」というのが理解できなかった。自分にはそれが職業だという認識がなかったのだ。主婦なら、わかる。そう思ったけれど黙っていた。ただでさえ口煩いこどもだった。いや、口数は多くない。どちらかといえばおとなしやかなこどもだった。けれど疑問な点には執拗にこだわった。扱いづらいと思われていたに違いない。

 なんとなく、今の獏にもあのとき周囲が感じていたような気配がある。もうすっかりそういう態度には慣れている。ほんとうの自分を見せるとまわりから浮く。私はもう、だからなるべくおとなしくしていた。

けれど今この場所では、そういうのを気にしなくていい。獏の質問にすなおに嘘偽りなく、目を閉じたままこたえることにした。

「もしも前世があるのなら、私のは絶対、何がなんでも王子様なの。そう決まってるの」

「なにそれ?」

 くすくすと、慣れ親しんだ笑い声が続いた。笑われるのは百も承知でいったのだ。今さら怯むことはない。だから決然と口にする。

「王子様になりたいの。お伽話のように、自分だけの大切なお姫様を探して旅に出るのが夢なの」

「王様じゃなくて?」

「そう。国を治める責任もなく、ただ自身の誇りと名誉と、愛する姫君への忠誠だけで生きて死にたいの」

 一瞬の間のあと、獏がいった。

「無責任で自分のことしか考えない、狭量で我が儘であまったれた根性の持ち主じゃないとできないシロモノね?」

「まあね」

 言葉ほどの嫌悪はないように感じたから、頬にかかった髪を揺すって言い返した。

「でも、やるならサイコウじゃない?」

「そう?」

「そうよ。だって王様ほど権力がないから誰かを不幸にする能力もないし、まあできてもお姫様と自分の運命を決するくらいのことしかできないっていうのが、実にちょうどいい感じでね」

 今度の沈黙は、やわらかく優しかった。すくなくともお互いの了解があった。だから安らかに息を継いで告げた。

「だから私は王子様を待ったりしない」

 何故ならじぶんが王子様だから。じぶんを待つのはおかしい。たんじゅんなはなしだ。

「かわりに、あたしみたいなものを待つのもどうかと思うわよ」

 冷然と、さきほどとはうってかわった声音で獏が詰る。獏ってば、ちょっとはかっこつけさせてくれたっていいのにいつだってツッコミが厳しい。

 そりゃ私だって、言われている意味はわからないではない。それは宇宙人やUFOを待つのと変わらない。陰謀論を信じてるひとみたいでかっこ悪い。

ただし、人類より優れた神のような存在を待ち望むのもごめんだ。そういうのは、小説の中だけで充分だと思っている。

「そうね。ほんというと、私もそう思う」

 瞳を開けて、肩をすくめた。

 のっそりとしたマレー獏の姿に騙されていたけれど、意外とこの、いかにもお姫様っぽい高い声が獏の本性な気がした。凛と澄んでいて、意地悪なことをビシバシいわれても気持ちいい。我ながらマゾっぽいなと反省した。

「つまりは姫香、貴女は小説のなかの主人公になりたいって思っているわけ?」

「そうかもね。っていうより、すでにそうだし」

「昨今では、主人公が主人公のまま終われるとは限らないものよ」

 脅されても、怯えるわけにはいかなかった。

「まあそうね。ただし、旧態依然のお話しなら、まずは死ぬか結婚するかで決まりがつくことになってるわ」

「それ、カルヴィーノが小説の終わりに書いたんだっけ? 貴女もそうするの?」

「しないわよ。死ぬのはともかく、結婚はひとりじゃできないわ。まずもって、そこが問題。あとはね、主人公が小説家になる、もしくはお話を書かなくなるっていう二種類もあるんだけど、この場合は無効だし」

「無効なの?」

「だってほら、私は一応、絵描きの設定だからね?」

「そうだったわね。それに媒体が小説のせいか、絵描きっていうのはあんまりインパクトなくて面白くないわね」

 そう、妙に分別くさい声で獏がこたえた。それから少し遠慮がちな声で続けた。

「貴女はてっきりなりたいものに画家ってこたえるものだと思ってたわ」

獏にしてはストレートな物言いだった。ツッコミは厳しいけど、そのことだけはずっと、触れないでいてくれた。私は頑なに沈黙を守った。それを認めることも、否定することも、どっちもしたくなかったから。

「ねえ姫香、貴女のいう王子様って、いわゆる《英雄》とどこが違うの?」

「《英雄》ってキャンベルあたりのいう、ギリシャ神話とかに出てくる英雄のこと?」

「そうね」

「じゃあ、たぶん違うと思うよ。王子様は王の子供であって、父親がいなくなれば即、王様だもん。だから、冒険をする前の存在を王子様っていうんじゃない の? 《英雄神話》ってオイディプスのことをさすんでしょう? 父親を殺さず母親と結婚しない、放浪の旅にでたまんまの王の子供が、王子様だよね」

「ああ、なるほどねえ。それならわかるわ。それで合点がいったけど、貴女の貸してくれたホイジンガの『中世の秋』のどこかにも、無名の救出者が有名になるっていう……あら、有名っていま気づいたけど、名が有るって意味ね」

「なにそれ、そんなの当たり前なこと、今さら?」

 笑って問うと、

「だからけっきょく、冒険すると名前がもらえて『何者』かになるってことじゃないの?」

「うわ、短絡的。名前のないものなんて、この世にないとおんなじよ?」

「みんな、そう思ってるんじゃないの? だから、なんだか『自分』とか探しちゃうのよ。だって、何もしなければ、いないのと同じよ。放浪したままのオイディプスは何者でもないってこと。彼の名前が語り継がれるのは、たとえそれが悲劇であっても、ちゃんと王様におさまったからじゃない? 名前って、他者から呼ばれないことにはナイものなのよ。

 もうそうなると、聖杯探しの旅みたいなものね。この世でいちばんの重用事だから、あるかどうかわからないんだけど出かけないではいられない」

 以前、ソレは落ちてないから、と姫香がいったことを忘れていないらしい。

「いちばんの重要事なの?」

「とりあえずは、ね。けっきょく、生きてるってことの実感? 生きてることの幸福、じゃないのかしら」

「幸福とか、いきなり難しいこといわないでよ」

「他になんていえばいいのか知らないもの。せいぜいよく苦しむことじゃないの?」

「ひどっ。ひとごとだと思って」

「他人事よ~。いつだって、ひとごとよ。どんな悲惨な出来事だって、自分のことじゃなきゃなんだって他人事よ。違う?」

「チガワナイ」

 がっくりくる。

「姫香、じゃあ、貴女が今まででいちばん、イヤだったことを教えて」

「ええええ」

 拒否の声をあげると、さらっと言い切られた。

「なによ、こたえないつもり?」

「どうしても?」

「どうしても」

「うっ、獏、やさしくない~」

「泣き真似しない」

 ばれたか、と舌を出し、もう一度。

「なんでそんなこと、聞きたいの?」

「諦めが悪いわね。理由を貴女が知る必要はないでしょ」

「まあ、そうね」

 姫香はそこで、ふう、と息をついた。

「昔ね、まだ制服をきてたころね。私の学校の近くでね、やっぱり制服をきた女の子が誘拐されたことがあるの」

 獏が身を凝らせたのがわかった。

 そうだよね、いきなりこんなハードな話しを聞かされたらビックリするよね。

「そんな事件があってそのこと自体が怖くて嫌だったんじゃなくて、ううん、怖くて嫌だったのもあるけど、私、その子がそれからどうなったんだろうって想像して……ひどい目にあって殺されたに違いないって、そんなふうに考える自分も嫌だし、自分じゃなくてよかったって安心するのもなんだか嫌だし、校長先生の話があってさらに担任の先生からもくりかえして話があって、しばらくは集団登校集団下校して送り迎えがあったり、不安でこわいような、ざわついた日が続いてて、でも、だんだん忘れられていって……。そうやって日常を守ること、続けることも大亊だからそれでいいんだけど、でも、あの子はいったいどこにいっちゃったんだろうって、そのことをだんだん考えなくなる自分も嫌で、なんでそういうことが世の中にはあるんだろうってことも嫌だし、そういうことって絶対になくならないんだろうなあって考える、決め付ける自分もイヤだし、嫌なことがあるのに毎日生きていかないとならないことも嫌だし……かといって死にたいっていうんじゃないけど、なんだか……イヤだなっ て」

「なにもかもイヤだって聞こえるわ」

「そうじゃ、ないのよ。そうかもしれないけど、でも」

「だから貴女、いっつもフェミニズムっぽいこといってたの?」

「そんな難しいことは言わないよ」

「いってたわよ」

 一蹴されて、吐息をついた。

「かなあ。わかんない。わからないことばっかり」

「じゃ、わかることを話すことにする?」

獏が調子をかえて口にした。

「借りた本にあった聖樹船ってまさにバルトルシャイティスみたいで、宇宙樹らしくて素敵よね。それに、あの『エンディミオン』の出だし、あれで貴女、シュレディンガーの猫だなんていってたのね」

 獏があの長いダン・シモンズの『ハイペリオン』シリーズを、もう最後まで読みきってくれたのだと嬉しくて、深くうなずいた。。

 本を読むことの楽しみのひとつは、なにかの〈つながり〉を見つけ出すことじゃないかと考えていた。あるとき真顔でそういった獏に、それ、まるっきりバル トルシャイティスじゃん、と突っ込むんでふたりして声をあげて手をたたいた。今、それを思い出しながら、獏と小説の話しをすることくらい面白いことはないと思うその気持ちが、おかしかった。

 そのときすでに、私は失われつつあるものを予感していたのだ。けれどそれを笑うことでやりすごし、目じりにうかんだ涙を拭いながら言った。

「だってさ、小説を読んでいて、どうしてこのひと自分の事情をしゃべってるのかいつも不思議でしょうがないんだもの」

「あいかわらず、ひねくれてるわねえ」

「そうかな。もう二十一世紀なんだからメタ小説なんて珍しくもないでしょ」

「世の中の多くのひとはただ面白いおはなしが読めれば満足なんだと思うけどね」

獏がすらっと本質を突いた。私もそう思う。でも、もうおはなしでは救われないこともあるのだ。さっき話したみたいな出来事があると。

 けど、それは言わない。

 かわりに私は違うことを語りだす。

「子供のころ、昔話とか民話や伝説に違うヴァージョンがあるって気がついたの。ほら、ラストシーンが残酷だから変えたり、性的な部分が省かれたりするじゃない? ああいう感じで大人むきがあるっていうことや、昔はこうだったけど今はこうだとかっていう違いに気づいたら、なんだかいたたまれないような気持ちになったのね。落ち着かないっていうか、悲しいんだか嬉しいんだかわからないけど、そわそわしちゃったのよ。完全無欠なおはなしが一個あるわけ じゃなくて、そこかしこで違うふうに語られていることへの不安と期待、だったのかなあ。まあ、だから、おはなしって日々変化していく生き物みたいに思ってたのね。

 絵も、主題の描かれ方が時代や場所によって変わるよね。マリア様の処女懐胎を描いた『受胎告知』の絵もさ、お告げの天使とマリア様が美青年と美少女すぎて、不敬だけど、これってガールミーツボーイか、はたまた不倫礼賛の絵かっていうバージョンもあるでしょ? 

 そんなだから、私、このおはなしはあのおはなしと筋が似ててあっちのバージョンとこっちのバージョンの複合型でみたいに構造とか背景とか視点とか登場人物とか、すぐ考えちゃうの」

 獏が笑いをかみ殺しているのが伝わってきて私も喉をならした。 

「ねえ姫香、さっきも言ったけど、小説のことを書く小説ってメタ小説とかいうでしょ? 絵についての絵っていうのはあるの?」

「たぶん、有名なところは『絵画芸術』っていうタイトルもついてる、フェルメールの『画家のアトリエ』じゃないかなあ」

 獏が不服そうに鼻をならした。

「フェルメールってすごくスノッブな感じね」

 ふきだしそうになったのをこらえた。たしかに、フェルメールというと何か、ちょっとしたいやらしさを感じなくはない。

「それは、それこそスノッブな後世の美術愛好家の扱いのせいでしょ? 彼のせいじゃないよ。タイトルは誰がつけたか知らないけど『絵画芸術』っていうたいそうな名前に負けない素晴らしい絵だったよ」

「どうせ、そこにあるモノの意味を知らないとわかんないんでしょ? イコノロジーだっけ? 美術史って門外漢がみたらなんだかとっても難しいじゃない?」

 反発のようなことを言いながら、ちょっとだけ、獏の声音がよわくなった。

「そんなこと、ないよ。ただ見ればいいんじゃない? いい絵はその文化圏にいなくてもその時代の文脈を知らなくても、実はわかるんじゃないかと思うの。わかるじゃダメなら、愛する・愛せる、かな。前にはなしたボッティチェッリの《春》なんて、毎年のように新説が出るくらい幾つもいくつも解釈があるのに、なんにも知らないでみても、すばらしいと思う気持ちは変わらなもの。もちろんそういう背景をわかったほうが面白いだろうけど、でも、もう、その前にいってしまったら、『絵』そのものだけ。もう、膝を屈するような気持ちで祈るように、これがこの世にあって、これを見せてくれて、ほんとうにどうもありがとう、っていう気持ちだけよ」

 私はもう、そのときふたりの関係を忘れて絵のことだけ、絵について思うことだけを真剣に語っていたのだ。

 しばらくまた、獏が黙りこんだ。

 私はようやくその不自然な沈黙に気づいた。

「獏?」

「……ねえ、絵をかけば?」

「かいてるよ」

「そうじゃなくて。画家なんて、自分がそう名乗ってしまえばなれるのに……」

 獏が言いたいことはわかったけれど、私はこたえなかった。それはもしかすると、ふたりのあいだで実はひそかにくりかえされてきた攻防だったのかもしれない。だから私は意識して話題を変えた。

「それよりも、さっき獏は面白いこといってたわね」

「なに?」

 すっかり己の立場を忘れたようすで問い返された。

「おはなしの意義、よ」

「それはひとが成長するってことじゃないの?」

 なんの衒いもなくこたえが返り、私は反射的に声をあげた。

「うそ」

「嘘じゃないわ。それにだいたい、人間以外が主人公のおはなしって圧倒的に少ないでしょ? ないとはいわないけどね。たいていのおはなしは主人公の成長モノっていうので括れるし、それが読んでてやっぱり気持ちいいものよ。もしも成長って言葉がいやなら、変わる、でもいいわ」

「うそ、だって」

「嘘じゃないの。貴女は私に会ったことで成長する。大人になる。いつまでも、何処かに行けるなんて思ってちゃダメよ。キャンベルだって、神話について似たようなこと、かいてるじゃない」

「どうして」

「どうしても」

 押し問答になりそうな気配を悟り、私はいったん息をこらえてうつむき、それからひそかに笑った。

「あなたに、諭されるとは思わなかったな」

 獏が躊躇うように私の名前を呼んだ。それから、聞こえよがしな吐息をついた。癇の立つ、やり方だ。私は、声にならない呻きをもらした。油断すると泣きそうだった。

「姫香、諭してるんじゃないわ。貴女はここにいるしかないの」

「どうして」

 私の諦めの悪さに呆れたように、闇が一瞬、だまりこんだ。執拗に問いつめる態度に出て、自ら大人気ないとわかってはいてもやめられなかった。

「どうして? どうして私がここにいないとならないの?」

 闇が静まりかえっていた。

「ねえ」 

「……どうしても、聞きたいの」

「うん」

「後悔しても?」

「だって、知りたいもの」

「好奇心猫を殺す」

「無知も致命的よ」

 レイ・ブラッドベリの『火星年代記』の名科白で応酬する。ふたりには、ポーではないのだ。

 ややあって、それでも諦めていない様子の私を見定めるように何かが蠢き、その蠢動にうろたえた隙に言い切られた。

「ひとは必ず死ぬからよ。いつか間違いなくこの世から旅立つから」

 ものすごいことを口にされた。

 自分が死ぬだなんて、今の今まで真面目に、真剣に、深くは考えたことがなかった。こどもの時には夜、ひとりで怖くて震えたことがあることさえ、忘れてしまっていた。けれど今、私はあの時の深い暗闇のなかに取り残されているように感じた。

 闇が、問う。

「驚いたの?」

「う、ん」

「ダメね。そのくらいで驚いてちゃダメよ。相手の台詞くらい、先に読まなきゃダメじゃないの。自分だってほんとは知ってるんでしょ? どうして貴女たちはいつも、それを忘れたようなふりをしてられるのかしら」

「忘れてる……の、かな?」

「きっと、ね。ふりをしてるっていうか。どうしようもないわね。もうひとつ、おはなしに意義があるとしたら、何処かへ旅立つ予行演習みたいなものかしら。貴女たちは残念ながら、死へとむかってしか旅立てないようにできてるの。もうこれは、決められたことなの。それは、変えられないの。どうしてか、変えられないのよ……」

 泣いているように聞こえた。

「獏?」

「……なんでもないわ。近ごろ、おかしいの。ねえ、あたし達はきっと、貴女たちが好きなの。大好きなのよ。裏切られても嫌われても怖がられても、それで忘れられて滅ぼされて無視されて存在しないように扱われても、あたし達は、貴女たちが好きなの」

 どう聞いても掠れ声で、泣いてるようにしか思えなかった。

「だいじょうぶ? ねえ、どうしたの」

「なんども、なんども、なんども思ったの。もう、こんなことやめようって、やめれば楽になるって、やっても無駄だし」

 喉に詰まるような声音で語られる内容にどぎまぎする。だから叫ぶようにして問うた。

「ねえ、なんのこと? どういうことなの」

「ううん。なんでも、ないの」

 獏の、鼻を啜る音が聞こえた。やっぱり、泣いていたのだと思った。不躾すぎて、大人相手に聞くのはためらわれる言葉ではあったけれど、おもいきってたずねた。

「泣いてるの?」

「ううん。平気」

 ちっとも平気じゃないような声で言われて、唇をかむ。それはとても気遣いのある拒絶で、あんな声をだしておいて平気なんて言われて、でもそれがこちらを想う親愛の情にあふれている場合、じゃあいったいどうしたらいいのか。

 わからない。

 わからないけど、でも、そんなふうな声で泣かれたら、言わずにはいられない。

「辛いんなら、やめればいいじゃない」

「姫香」

「だって、辛いんでしょ? しなくていいよ。そんなこと」

「でも」

「それ、私達人間に関係すること?」

「そうよ。あたしがこの仕事をやめたら、貴女たち、すぐにも滅んでしまう」

 そんなこたえが返ってくると想像もしていなかったなんて私は言わない。でも、それでも、驚かなかったわけじゃない。

「……あなたがいないと、私たち、滅んじゃうの?」

「たぶん」

「人間だけ? 地球ぜんぶ? それとも、銀河系?」

 闇が笑った。

「姫香、そこに差はあるの?」  

「あるよ! 人間だけなら、しょうがないのかもしれない。あなた達を殺して滅ぼしてしまったのが私たちなんでしょう? いっつも約束を破っていいかげんし て、自分の都合ばっかりで、それであなた達を辛い目にあわせてるんでしょ? だから滅ぼされてもいいって言うのとは違うんだけど、でも……」

「そうね。でも、殺されたわけじゃないのかもしれないわ。少なくとも、あたしは生きているし」

 母親のような声で、こたえられる。いま声が掠れたのは、笑ったせいだったろう。

「呆れてる?」

「貴女にね。こういうときは、全人類を代表してなんとかするべきなんじゃない?」

 たしかにそれは正論だった。いま、じぶんの肩に全人類の命運がかかっていたのだから。ある意味ではものすごくめんどくさい立場だけど、おはなしの主役をやりたいひとにとってはこれ以上ない絶好のシチュエーションに違いないと頭のどこかで冷静に考えてもいた。

 ところが、私は猛然と頭を振ってそれを拒絶した。

「そういうのはもういいよ。そういう、いい子ちゃんの主人公は他にもたくさんいるから。それにね、私は誰かを犠牲にしてみんなが助かるっていうおはなし、好きじゃないのよ。そういうヒロイズムは自分に対してはカッコいいナルシズムですむけど、けっきょく要は人柱みたいなものじゃない? 少人数の犠牲が出てもそれ以上多く助かったほうがいいってアレ、納得いかないのよ。そうやって自分が助かっても気持ちが治まらないでしょ? 犠牲になるほうだったらもっとイヤよ? とにもかくにもみんながよくなる、が理想なの」

「ただの現実逃避じゃない?」

 冷静な突っ込みには同じく返す。

「おはなしのなかくらい、現実逃避の理想をいうよ。違う?」

 違わないわね、と闇がいった。

 たぶん、お互いの了解があった。了解。それはふたりの想いがきちんと通じ合っていることの証でもある。

 思えば、獏くらい私のいうことを理解してくれた相手はそういない。ただひたすらに本を読み、それを語り合い、語り合うことで理解しあった。それは、どう考えてみても得難い体験だった。誰とでも築ける関係じゃない。

 だからこそ、私は日ごろの臆病さをかなぐり捨てていってみた。

「その仕事、そんなに辛いなら私がかわれるならかわろうか?」

「貴女みたいなうっかりしたひとには、それは無理」

 なのに、実にあっさりと言い切られた。さすがに不平はこぼすよ。

「はっきり言うねえ」

「言っちゃダメなの?」

「だめってことはないけど、もうすこし気をつかってくれてもいいじゃない」

「気は、つかってるわ。貴女にだけは、気をつかっていたわ」

 過去形の意味を、問いただす必要がありそうだった。けれど、そうかんたんに質問は口をついてでていかなかった。その無言を察して、獏の声が沈んだ。

「あいかわらず、勘がいいのね」

「そうでもない」

 憮然としてこたえると、くすっと可愛らしく笑われた。

 それから、小さな声がいった。

「ずっと、貴女が好きだったのよ」

予期していた言葉に震えないでいられた。だから次のことばもなんの衒いもなくすぐ口をついた。

「なんだ、私たち、両想いじゃん」

「そうね」

 でも、それは悲しそうな肯定だった。また、おいていかれるのだと、そのとき私は直感した。

「……ねえ、ここで、私も好きって言ったら、連れて行ってくれるの?」 

 すなおに、いえたと思う。

と、あとで私は思い返す。

そう、思い、返すのだ。あのときのことを。

 あとで、そう、あとで。

 それはもう、決まっている。どうしてか、どうしてかおはなしというものは後からしか描ききれないものなのだ。後から、あとから遅れてくる。もう間に合わない。間に合うことはないように定められている。

「おねだりしているの?」

 くすぐるような、まさに甘ったるい、愛撫のような問いかけを耳横で聞いた。

「そうだといったら?」

 続いてすぐ、口に出すか迷っていた単語を唇にのぼらせた。

「連れて行ってくれるなら、好きにしていいよ」

 そう、身をすくませて問い返すと、すうっと何かが漂う気配を感じた。目には見えなくとも、そこにたしかに何かがいるという存在の重みみたいなものがたゆたって、凝っていた。

「姫香、あたしを誘惑しないで」

 ほとんど怯えているような声がそこに響いた。

「なんで」

「あたしは夢を、食べているの……食べないと、生きていけないの。死にたくは、ないの……だから……」

 奇妙に昂奮した声が、私の身体を取り囲んだ。声自体がその肉体の輪郭をたしかになぞろうとしてすり寄ったのだ。

「獏?」

 異変を感じて声をあげたその瞬間、背筋を這い上がる戦慄にとらわれた。首の後ろに痛みをおぼえるほどの熱が一気に押し寄せて、悲鳴をあげて蹲る。

 事実をいえば、その悲鳴よりほんの少し前に「気配」は去った。

 去っていた。

 それでも、屠られるという根源的な恐怖が内臓を焼いた。何もされていないはずなのに頭の中をぐるぐると掻き回されたように上下が消えて、骨を折った瞬間の痛みと同じくらいの衝撃が心臓に伝わって胸を撃ち、獣めいた声が唇から漏れた。漏れ続けた。

「ひめか? ひめか??」

 名前をくりかえす声がきこえる。少し遠くに。つまり、先ほどよりずっと離れた位置で。

 私の輪郭線に触れようとした「気配」が、その名をくりかえして呼んでいた。とても心配そうな、取り乱した声音で。

 そのことに気づき、寸前の恐怖がたちきえたあと、私がさいしょに感じたものは「怒り」だった。理不尽な、不当な欲望を押しつけられたように感じ、襲い来た憤りを抑えきれず私は口にした。

「……さいしょから、そうするつもりだったんじゃないの?」

 獏の謝罪の声を聞く前に、ほとんど復讐めいた声で非難した。

「こんなところにおびき寄せて、暗がりで、わけのわからないうちにどうにかしようと考えていたんじゃないの?」

「ひめ……」

「はじめから、私を狙っていたんじゃないの? 優しくして騙して、油断するまで待っていたんじゃないの?」

「ちが」

「ほんとに? あなたは何度も私に夢詩壷をすすめたじゃない。ほんとは私達人間のことを恨んでるんでしょ? 憎いんじゃないの、違うの?」

いいえ、と相手が強く否定した。

 その厳然とした声音のつよさに、私はそのとき息をのんだ。それは、私が生まれてはじめて聞く、そして今後も二度と聞くことのないほど高貴なものの声だった。

「姫香、信じて。それは違う。私は貴女を頼りにしたの。貴女の見る夢が欲しかったのは本当だけど、でも、無理やり奪うなんてことはしたくない。貴女だけ じゃなくて、他の誰からもそんなことはしていない。だけどあの壷はあんまりにも私が飢えすぎて、他の誰かに渡したらそのひとを夢ごと全部、喰らってしまい そうだったから貴女に預けたの。貴女だから、預けたの」

 その声音だけで、実はもう信じていた。けれど念を押す意味で、私はいちおうもういちど問いかけた。 

「ほんとに?」

「本当よ」

「ほんとに」

「ええ」

 応答はだからもう、ほとんど睦言めいてやさしかった。

「……わかった。信じる」

 そこで、ようやく立ち上がった。

 そうして少し、冷静になる。

 よくよく考えれば、食べられそうになったのだった。食べられそうに。殺されそうでも傷つけられそうでもなく「食べられ」そうに、だ。

 でも、さっきの一瞬の恐怖が通り過ぎたあとはもう、こわくなかった。からだから恐怖の残滓を拾い上げるのは難しそうだった。

 なんでもそうだ。すぐに、忘れてしまう。なんでも。こうやって、なんでも忘れてしまう。諦めて、しまう。辛かったこと苦しかったこと許せなかったことも、何もかも。

 自分ひとりの考えにうつむいていると、なにか、気づかわしげな吐息がきこえた。

「獏?」

「ごめんなさい。あたし、貴女をこわがらせてばかりいるわね」

「そんなことも、ないよ」

 ずっと前に、自分が先に獏をこわがらせたのだと、私は口にしようとしてやめた。そのかわりにきいてみる。

「……もしかして、今、すご~くお腹がすいてるの?」

「すいてるわ。もう限界っていうくらい」

 苦笑をもらして、恩人の貴女を食べたくなるくらい浅ましく飢えてるわ、と切実な声がいった。その切実さすら、恐ろしく聞こえなかった。ただ、ただそれが切なかった。

「どうしてお腹がすいてるの?」

 浅倉くんはお腹をすかせていなかったな、と思いながらたずねた。

「近頃は、本当に誰も、夢なんかマトモに見ないのよ」

「私、みるよ」

「だから、そういう貴女だから」

 獏はそこで言葉をとめた。それからもう一度、今度はやけに盛大なため息のあとに続けた。

「誰も、私の夢を買わないわ。たまに買うひとがいても、自分勝手な夢しか見ないの。そういうのは、私の滋養にならないの」

「じゃあ、それならそうといってくれれば良かったのに」

 私はもうすっかり緊張をといて、だったらさっさと買ったのに、と口にした。

「それじゃダメなのよ。個人的な希望や願望の充足を願う夢っていうのは、あたしを疲弊させるだけなの。たとえあたし自身を救おうとするものであっても」

「なんで?」

 わかるような気もしたが、ほんとうのところでは理解していなかった。私はほんとうに獏の困窮をすくいたかった。さきほど飢えたままでいることの苦悩を感じとり、この身を譲り渡すことができないならばなおのこと、どうにかして獏をたすけたかった。

 獏はちいさく息をついた。そして言った。

「新しい世界を夢見ることに憧れる、純粋な欲望だけが、私を潤し、肥えさせる。そうして私は新たな夢を紡ぐことができるの。夢見ることは、この世を創造するただひとつの力なのよ」

 それはひどく誇らしげなものいいだった。それなのに私はすなおに感動できなかった。ううん、ほんとはすごく胸打たれたからこそ、突っ込まずにはいられなかった。

「うそみたい。それ、なんかの宗教?」

「姫香、違うから。どっかでジュール・ヴェルヌもいってるわ。想像力だけが自分を変え、そうして世界を変えていくの」

 素晴らしく当然のことのように、獏がつづけた。

「姫香、考えてもごらんなさいよ。だってそうでしょ? こうじゃないかって、こうだったらいいなっていうことでしか、この世は動いていかないものよ。夢は個人の神話なだけじゃないの」

 言っていることはわかる。でも、納得はしたくなかった。

「じゃあ願えば叶うっていうのと同じじゃない。どんなに願ってもダメなことだってあるわ。個人的な希望じゃなくても、世界平和とか?」

 切羽詰った疑問には、獏が闇のなかでしずかにこたえた。

「そこから先は、貴女たちの問題。私は神様じゃないから。どちらにせよ、しょせんこの星の薄皮一枚に守られているだけの生き物なのよ。そのことは、貴女のほうがよく知っていると思うわ」

 突き放されて、黙りこむ。

 そのとおりだ。そのとおりだからこそ、苦しい。とても、切ない。

その無言をぬって、獏が笑った。そして囁きのように問いかけた。

「怒った?」

「怒ってないよ。ショックだけど」

「失望した?」

「してない……と思う」

 正直すぎる返答をした私に、獏がなんのこともないといった調子でたずねた。

「本当は助けてもらいたいんじゃないの?」

 それは、残酷な問いではなかったはずだ。

「助けてほしいけど、あなたは今までずっと、そうしようとしてくれたんでしょ?」

「……そうね」

「だから、いいよ」

「そう」

「うん」

 また、しずかになった。無明の闇っていうのはこういうものかもしれないと考えながら、意外とそれもあたたかいものだな、とほっとした。

「姫香、実をいえば、貴女のおかげで、あたしはここから旅立てる」

「うそ、それ何?」

「あんまり飢えすぎて使い物にならなくなったから呼び戻されるのかもね」

 苦笑が聞こえ、姫香は首をふる。

「あたしのせいなの? 死ぬの? 死んじゃうの?」

「わからない。でも、貴女が約束を守ってくれたから、あたしは旅立つ用意ができたみたい」

「それ……いいことなの? そこ、あなたがもといたところなの?」

「……貴女、本当に、あたしと一緒に来たいのね?」

 心の底からの呆れ声で、獏がきいた。

「行きたいって言ったら、連れていってくれるの?」

 闇は、こたえを返さなかった。そこに拒絶を感じて、私はようやく自分が泣いていることに気がついた。

「ごめんなさい。さっきもいったように、貴女はここにいないとならないの」

「うそ。ふつう、連れて行ってくれるはずよ。私、ちゃんとするから、なんでもするから、ここじゃないところに行きたいの」

 必死のお願いだった。床に頭をこすりつけてでも聞き遂げてもらいたいと願っていた。

「姫香。ダメよ。なんでもするなんて、あたし達を相手に言ったらダメ。さっきあんなに怖い目にあったくせに、なんて堪え性のない」

「だって」

 ふうっと、闇が深い吐息をついた。聞き分けのない、という苛立ちが募って声が尖っていた。

「だってじゃなくて、絶対にダメなの。知っているでしょう? それに、嘘なんだから。貴女にはそんなこと、できないの。プライドが高くて怖がりで、そういう自分のことをよく知ってるでしょ?」

「何をすればいいの?」

「だから何も、なにもしなくてもいいの。何もしなくても、貴女が貴女であれば、それでいいの」

「そんなこと、いうひと、他にいないもん」

 むくれた子供のような言葉に、闇が笑った。

「いなくても、いいじゃない? あたし以外、誰もそんなこと言わないわ。お話しじゃないのよ」

 私はうなずいた。そしてたずねた。

「ねえ、どっちなの?」

「どっちって」

「これは、夢なの?」

 闇が静まりかえった。 

 ひとりで、こんなところで、泣いているのだろうか。そう思ったところで。

「どっちでも、同じじゃない? たとえあたしが貴女の夢のなかの存在であっても、貴女の想像の産物であっても、貴女の人生に必要なものだっていうことに変わりないでしょう?」

 ひどく優しい声が頬を撫でていった。ようやく、体温のある声を聞いた気がした。そして、二月の夜の冷たい空気が自分をつつんでいることに気がついた。ブーツの底に確かに、フローリングの床を感じた。ここは、じぶんが望んだ「異世界」じゃないのだと身体が知った。

 ごめんなさい。

 闇がそう言ったあと、膝が震えだした。もう、自分を立たせておけないくらい泣きたかった。

「ごめんなさい。貴女を泣かせたかったわけじゃないの。違うの。あたしもどこから来たのかわからないのよ。あたしは流刑者なの。ここに流されてきたのに、でも、どこにいたのかわからないの」

「でも、あなたはそこにもう、帰るのでしょう? 戻れるのでしょう? ずるい……」

 涙の熱だけが、暗闇に溶けていく。頬はすでに温かく、指の冷たさが痛いほどで、涙の雫が指の股にこぼれて掌と甲を濡らしていた。

「……私、こ……じゃないとこに、い……たい。ひと……りにしないで、おい……か、ないで」

 言ってしまってから、後悔した。旅をしても家を出ても会社を替わっても、けっきょく何処かへ行ったことにならない世界に、どんなに厭き厭きとしていたか実感してしまう。親もいる友人もいる彼氏だっているのに、何故じぶんはこんなに毎日ツラくておはなしの、なかにばかり逃げてしまうのか、わからない。

ううん、ほんとうはわかっている。

「泣かないで」

 頬とこめかみに、声が触れたような気がした。けれどそれは慰めという名の優しさでしかなく、自分を連れ去るものの強靭さではなかった。

「ね、泣かないで……あたしも、泣きたくなるから、ね。また会えるから、ね。たぶん、最後に行くところは同じなの。あたしも、貴女も、みんな」

 嗚咽が号泣にかわる。それを、許したのはその瞬間だった。膝が床に触れて尻が踵のうえにのったのも一瞬で、手をついて、肘を折って、蹲ってうつ伏せて泣いた。撫でさする腕もなく、受け止める胸もなく、ただ冷たい床に突っ伏した。ぱたぱたと雨音に似て涙が床を濡らし、ハイネックセーターの隙間へと流れ込んで鎖骨を滑った。指の間に涙がつたい、しゃくりあげるそばから喉が狭まって息苦しくなればなるほど、身体中の水分が外に出そうなほどの勢いで涙があふれた。

 ひとは暗いところから出てきて、暗いところへ戻っていくのかもしれない。昔は光のような明るいところに還るのかと思っていたけれど、たぶん違って、闇のなかに落ちるのだ。なにも、見えないほうがいい。見えれば違いがわかるし、ばらばらなのもわかる。でも、かたまって寄り添っていられるならそれでいい。みんな、一緒なら――……

 それは、イヤだ。

 やっぱり、それは嫌だと思った。一緒でいいなんて思いたくなかった。そういうのは危険だ。おんなじになんてどうせ、なれないんだから。安心なんてしてやらない。不安で疑り深くて、天に唾して生きてやる。

 どれくらい時間がたったのだろう。そろそろと顔をあげると、すぐ耳横で声がした。

「ねえ……気が、すんだ?」

「獏、どこにいるの?」

「ここにいるわよ」

「うそ。触れないもの」

 しゃがんだまま、腕をふりまわしても、何も触れなかった。

「……貴女には、さわれないわ。貴女は一度もあたしにさわらなかったでしょう? さわれないことを、ちゃんと、知ってたのよ」 

 そうだったのかもしれない。

 バクに出会ってからずっと、触れたらそれが消えてしまう幻だと思い続けていた。夢から醒めるのがこわくて、せっかく出会った不思議をだいなしにしたくなくて自分を抑え続けた。本当は、秘密を暴きたくてしょうがなかったのに、触れず問わず、何気なさを装ってただ見守るだけ でいた。すぐ手をのばせば触れるはずなのに、もしも手にして、そのとたんに消えてしまうのがこわかったのだ。

 なんて臆病者なんだろう。ひりひりする目許をこすり、明日きっと、濃いくまになってしまうに違いないと考えて私は笑った。じぶんを笑えたのだ。と同時に口のなかが塩辛くてぬ るっとした。鼻水だと思って鞄を探っても入れたはずのティッシュがみつからず、しかたなくてハンカチで顔中をぬぐって鼻をかんだ。

 思い出してみると、ミズキさんの顔はこの状態でも美しかった。ちょっと、いやすごく、うらやましい。そう考えて、少しだけ気が抜けた。たぶん、彼はこの先もうまくやるだろう。この世界から逃げ出したいと願って泣く自分よりもずっと、彼のほうが勇敢なのだから。

 笑って気が楽になって、私はつい、口にした。

「ねえ、お迎えってどこから来るの。どうして獏は流刑者なの。獏のほんとうの名前はなんなの? ねえ、ほんとうは知ってるんでしょ?」

「それは全部、秘密ですぅ」

 うれしそうに、はにかんだ声がこたえた。

「うわ、意地悪して~陰険」

 イケズという言葉を思い出し、私は口をとがらせた。

「陰険でも意地悪でもないわ。それはまた、別の『おはなし』なの」

「ずっるいなあ」

「しかたないでしょ。いつだって、どこにだって、誰にだって、『おはなし』はあるものなの。誰もがみんな、自分だけのそれをもっているの」

 それにはしぶしぶ、納得した。私だって、そのくらいのことは知っている。だからこそ、ひとは、どんな時代であろうと「おはなし」を読み、また「おはなし」を語りついでいくものだ。きっと、ひとが、ひとである限り、その営みは続くことだろう。

 私がその遠い未来へとうっとりと想いをはせた瞬間、念をおすようにいわれた。

「約束のひと月がたったらムシ壷の封を切ってね。そのなかに貴女の《夢》を籠めて、土に埋めてちょうだい。たぶん蜜でいっぱいのはずだから虫が入らないように封をして。できれば、景色の綺麗なとこがいいけど」

 最後まで、獏はわがままなことを口にした。でもそれが、なんだか嬉しかった。その気持ちのまま、私はたずねた。

「あのさ、ムシ壷ってどういう字をかくの?」

「それは、貴女の好きでいいのよ」

 この字はだから、私の当て推量だ。無死壷でも夢死壷でも、夢詩壷でもなんでもいいのかもしれないけれど、でも、これがイイと思ったのだ。

 獏はとうとう自分が何者であるかいわなかったけれど、ただ謎めかしを残すだけではなく、私に贈りものをしていった。

「ひとつ、いいことを教えてあげる」

「なに」

「あたしはここを、チカイって呼んでいるわ」

「地界?」

「約束の、《誓》よ」

 それ、いいね、と私は微笑んだ。

「うつし世は夢 夜の夢こそまこと。たまに、真実を知るものがいるの」

 獏が謳うようにつぶやいた。

それから、ああ、と何かに驚いたように声をあげた。

「来た……!」

 なにか、とても美しいものを見たときの感嘆の声が、私の聞いた獏の最後のそれだった。

 そして、それはまた、その夜の夢の終わりを告げるもの――……


 夢オチというやつはおはなしのなかでは最悪なパターンなのだけど、この場合は相当してしまう。

 目をさますと、私は床に這いつくばって寝ていた。頬にはしっかりとシーツならぬストールの後が残り、みっともなくも涎と口紅がついていた。シルク混のカシミアなのに。クリーニングに出さなきゃだよ。

 私が四階の「時任洞」に入ったところまでは事実で、なんなら下の階の画廊のオーナーにきいてくれてもいい。

 そこから先は、誰にもわからない。たしかめようがないんだから(ただし、私が床においた封筒から二万円は消えていて、あとで浅倉くんに調べてもらったら、十二月に買った南部鉄瓶の代金としてちゃんと入金されていたそうだ)。

 気をとりなおし、私は大きく息をすいこんでその部屋を出た。変な姿勢で寝たものだから、背中が痛かった。でも、気分は悪くない。

 夜明けの、日が昇ったばかりの中央区を自転車でかっとばして築地に戻った。朝は気分がいいね。ひともいないし。でも、昭和通りはけっこう通行量があるんだね。よくよく考えれば昨日が休みの二十五日、明けて月曜だから当然かもしれない。

 そして、案に相違して玄関は内から鍵がかかってて、それはバクだった浅倉くんが苦労して鼻の先で下ろしたものだった。

 もちろん、物語の常として彼は一夜明けたら元通りの姿で、ほとんど抱きつかんばかりに私を出迎えたのだけど、そうは都合よく終わらないのが現実というもので、私は腕を突っ張って拒絶し、後ろからミズキさんが彼を羽交い絞めにして抱きとめるというオマケつき。世の中そうは甘くないのだよ、浅倉くん。

 昨日の晩、オレ夢を見たんだ、とタブッキの『夢のなかの夢』みたいに、アプレイウスの夢で、驢馬になったルキウスのように彼が語りだしはしまいかとドギマギしたものだけど、そんなことはなかった。期待は裏切られるものだ。

 まあ、封印したい記憶なのかもしれない。ここは、お行儀よく突っ込むことはしないのが主人公の領分だろうと思うことにする。すこし、残念。

 それよりなによりびっくりしたのは、時任獏は、画廊のオーナーいわく年の頃二十代後半の背の高い美人だそうで、この見解はミズキさんもそうはずれておらず、すこし翳のある三十代半ばのスレンダーな美女だったそうだ。獏に見えていたのはどうやら私だけだったらしい。それにしても、痩せていたのかと思うとびっくりだよ。ねえ?

 ミズキさんだけは私の話を信じてくれて――つまり、あんな目にあった張本人のくせに浅倉くんは私を信じず、というより信じないのではなく信じられないようだった――あのお店の正式なオーナーに話しを通して彼女の履歴書の住所まで聞き出してくれたのだけど(これって犯罪じゃないのかなあ)、それを聞いても しようがないと思ったので知らないふりをした。

 ところが、どうやら彼はそこにこっそり独りで行ったらしいのだ。けっきょくは、まったく関係ない他人のマンションだった。いちおう実在するところが妙にあやしいと思ったのは私だけではあるまい。

 履歴書の写真? 見なかったよ。獏が見るなというモノは見ないの。名前もね。だって、教えてくれなかったんだから。異界のものには真実の名を明かしちゃダメなように、私もズルはしないの。

 そして一月たった約束の日の夜、夢のなかで、件の鏡子に会った。

 私は左利きの画家で、彼女はまるでモナリザのようなポーズをとって、もちっとした頬をゆるめて微笑んでいた。あの夢だとどんな美人かと期待していたけれど、なんというか、 ちんまりとした可愛い感じのひとだった。まあそんなことはどうでもよくて、何よりもふたりはちゃんとした恋人同士で、新婚さんで、とにかくほっとした。すごくほっとして、幸せだった。

 つつみかくさずにいえば、目が覚めた私は羨ましくて泣けてしまった。貧乏画家と貴族の令嬢に幸いあれ。

 そうして夢詩壷の蓋を開けると、中にはとろりとした七色の蜜が入っていた。ゼリービーンズの素みたいに見えたけど、舐めてみる勇気はなかった。これが獏の滋養になるのならいいんだけど。

 ついてくるという男二人を邪険に追っ払い、ひとりでシャベルをもって外に出た。

 埋めた場所は内緒。絶対に、内緒。

 そうだ、ミズキさんの「三人で暮らす計画」は、着々と進んでいる。あのときの台詞はどうもただの思い付きじゃなくて、本気だったらしい。僕は欲しいものは絶対に手に入れるからなどとあの顔でいわれると、寒いような熱いような変な気分になる。

 おまけに、この私が口でかなわない。恋愛を『薔薇物語』で語るな、似非インテリが! ああいうひとは法律で取り締まったほうがいいと思う、まじめに。向かうところ敵なしじゃないか。くみしやすいと見てこっちを攻めてきたよ。やめてほしい。彼を繊細だなどと言ったのは誰だろうって、私だね。ふう。

 私はというと、あの後いきなり婚約を破棄され職にあぶれ(いやもう、このあたりの流れはお話しよりもコワイよ、事実は小説より奇なりだ)、流山のマン ションはこの四月に従兄一家が大阪から戻ってくるので早々に落ち着き先を探さなければならなくなり、一緒に住めとうるさくミズキさんにせっつかれている。 水道光熱費込み三万でいいと言われるとかなり迷う。飴と鞭、使い放題だ。築地駅から徒歩三分、歩いて銀座へお買い物にいけるなんて、これ以上の立地条件はないよねえ。身も心も奪われそうな悪魔の囁きだわ。

 いっぽい浅倉くんはミズキさんに、人間は古来、恋人には詩を書くものだと唆されて、卒業以来やめていた詩を書きはじめた。もともとバンドもオリジナルだったし前の会社で新譜のライナーノートを執筆してたので文才はあるんだろうけど、それだけはよせばいいのに超甘あまの恋愛詩だ。しかも韻を踏んでいた。こっそりここで告白するけれど、実はすごく感心した。すこし、惚れたかもしれない。言わないけどね。口が裂けてもいわないけどね。うん。もっとも、ミズキさんに言わせればまだまだぜんぜんダメらしい。厳しいんだ、彼は。

 私も、ミズキさんに絵についていろいろ言われて悔しくて泣いたりした。三十過ぎて、趣味で泣く目にあうとは思わなかった。趣味だというと叱られるしな。スパルタ過ぎると文句をいうと、じゃあやめれば、僕は他をあたるからべつに困らないし、と例の涼しい顔で口にされた。黙り込むと、やりたいならやればいいじゃん、と何もかもお見通しってふうに微笑まれた。

 自分の実力を思い知るのは怖い。それ以上に、やりたいことをちゃんとやっているのか知ることのほうがずっとこわい。見たくないものを見ないように目を瞑っても生きていける。ほぼ毎日絵をかいていたのにもかかわらず、ちゃんと美大に行ってないとか働いてるとか自分に言い訳をして、できればやらないですまそうとしていた。でももう、自分をごまかせない。私は、あの三階の画廊で個展もすることにした。あの夜に会ったのも何かのご縁だと思ったのだ。美大も出ていないのに個展なんてするなんて無謀だし、苦しくて泣きながらになりそうだけど。それでも、たぶん、やると思う。 

 それにね。

 私は今回、残念ながら「銀河ヒッチハイク・ガイド」をもらえなかったけど、虎視眈々と旅に出る準備はしておくことにする。さすがにバスタオルは用意しないけど、今度の件で綺麗なだけの薄っぺらなハンカチは役に立たないってわかったから、大きめのハンドタオルは常備してるのだ。いつでも駆け出せるようにピンヒールもしばらく遊ばせておく。次には、連れてってもらえるかもしれないからね。諦めが悪いのだ。

 自分はここにいて、ここ以外、どこにもいけないなんて、そんなふうに思い定めて大人になるにはまだ早い。四捨五入して四十だろうと突っ込まれても、物分りのいいオトナになんてなってやらない。どうせ、いつか旅立つことはわかったのだから、少しはここを楽しめばいいのにだなんて、言わないでほしい。楽しんでる。でも、やっぱり何処かにいきたいの。

 何処かに。

 私はそうして今日も絵をかいて、本を読む。

 とりあえず、自分の『魂』くらい旅立たせてあげたいからね。

 違いますか?

                                終

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夢詩壷 磯崎愛 @karakusaginga

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