霜月――変身の物語 世の中を夢と見る見る儚くも



「ふられたからって、バクになる奴があるか。この、大馬鹿ものがっ」

 耳に届いたのはミズキさんの怒り声。ドカ・バキと書き文字の入るマンガのような粗暴さでミズキさんに叩かれている浅倉くんを見たのは日曜の夜、七時を回ってすぐ。電話がきたのが六時すぎだったから、ものすごく早くここについたようだ。

 こことは、TVの置いてある居間のことだ。築地の木造一軒家。今は奇妙な閉塞感でいっぱいだ。そりゃあそうだろう。なにせ、ありえないほど大きな生物がいる。

 ああ、でも、色合いはあってるね。

 場違いを承知で乾いた笑いがもれそうになった。だって、この部屋の雰囲気にめちゃくちゃあってるんだもん。

 もとの持ち主の住まいに極力変化を加えないようにという配慮のせいなのか、床は畳のままなんだけど、カーペットはごく淡いグレー、今どきの洋室にもあう細長いコタツのカバーも生成り、ピーター・グリーナウェイのDVDやとくに意味もなさそうな色合いだけが美しい写真集が目立つ場所に置いてある棚もオフホワイトで、無彩色とのバランスをとっている。ミルクベージュの北欧ブランドのソファはTVが見れるむきじゃなく縁側のほうを向いていて、やたら高価そうなステレオが横に置いてある。鉢植えの胡蝶蘭はどこかからもらったものみたいで、脇にサボテンが並んでいる。日本人にとって北欧インテリアってむちゃくちゃ相性いいんだよね。

 ナチュラルカラーの白黒濃淡でそのニュアンスをすみずみまで計算された場所に、精彩のあるものは白磁の鶴首に投げ入れられた深紅の八重椿一本のみ。

 この均衡を壊さずにいられるのはもうだって、マレー獏以外には、パンダかペンギンかシマウマくらいしかありえないもの。

「ミズ、イっ、痛いよ、本気で殴るなってば」

「本気じゃないよ。痛いってことは、着ぐるみじゃないってことは証明されたわけだ」

「ミズキさん、それだけすれば着ぐるみだとしても痛いと思うからやめなよ」

 着ぐるみじゃないことは百も承知で暴れているミズキさんの狂乱は、相手が大事で心配しすぎると却って横暴になる自然な態度かもしれないけど、でも、暴力はいけません。それで問題は解決しないんだからさあ。

「深町さん、でもこいつ、ちっとも慌てないんだよ。こっちがこんなに気を揉んでるのに、病院にはいかないって言い張るし誰にもどこにも電話もするなっていうしジッとしてればそのうちどうにかなるだろって、んな馬鹿なことあるかよ」

 があっ、と吠えないだけましなような悲痛な声で振り返るミズキさん。整った顔で凄むように見下ろされると、ちょっとこわい。

「ミズキ、センパイにあたるなよ」

「アサクラ君は、今は黙ってて」

 また爆発しそうなミズキさんを左手でおしとどめ、中はすきすきの旅行鞄といつものショルダーバッグをおろしてコートを脱いで畳んでソファにおいた。足下のカーペットに転がる「存在」が、皺になるからハンガーつかってくださいよ、などと長い頭を回らしていうものだから、抑えていながら切迫したようすで電話をかけてきたミズキさんの声を思い出すと、この、泰然自若な「アサクラ君」の態度がたしかに恨めしくなるくらいには腹も立つ。だって、ミズキさんの声がすごく低くなるときって、要するに感情が素直に出てるせいなんだってよおくわかったよ。正直、相手の都合を聞かずにとにかく来てくれって言えるひとだと思わなかった。デートの約束をけってきたよ。

「ふたりとも、なにか食べた? とりあえずお茶でも淹れるから、ミズキさんも座りなよ」

「深町さん」

 責めるような視線に、私はわざとらしく両手を腰に当てていいきった。

「だいじょうぶよ」

「大丈夫って」

「私が来たから、もうだいじょうぶ」

「それ」

 何か言い返したそうな顔をするミズキさんにきいた。

「どうして私を呼んだの。原因が私にあるって思ったからでしょ? なら、私が来たんだからもうだいじょうぶ。どうにかするから安心して」

 視線をおとすと、獏になった浅倉くんは目をしばたいてこちらを見あげていた。それは何か問題が発生したときに、とりあえずハッタリでもなんでもどうにかすると言い切ることで自分を立て直す私の癖を見切るような視線だった。ヤバイと思っていることが伝わるより前に、とにもかくにも周りをまず落ち着けてしまおうと考える私を、昔と変わらない信頼に満ちて見つめていた。頼りにされるのは嫌いじゃない。というより、それでこそやる気も出るというものだ。

「まあとりあえず、お茶でも飲もうよ。美味しいのを淹れるから」

 浅倉くんはそれを聞くと、前足をおってうずくまった。いい傾向だ。でも、ミズキさんには通用しない手なことはわかってる。眉を吊り上げたままこちらを見下ろしてきた。

「深町さん、今それどころじゃ……え?」

 私は勝手に他人の家の曇りガラスの引き戸をあけて台所に入り、食器箪笥をあけた。こちらはほとんど前の持ち主の時代から変わっていないようだ。いいのが揃ってる。とても、趣味がいい。二重蓋の茶筒をあけてかたむけると木でできた飴色の茶匙がとび出してきて、お茶も深蒸しのいいものだとすぐわかった。柳宗理の薬缶の取っ手をつかもうと手をのばしたところで、ミズキさんが全身から文字通り怒りの波動を漲らせて横に立った。

「どういうつもりで」

「どうもこうもなくて、古来、男のひとが獣になる話はどれも女が鍵になってるって思ったから、私を呼んだんじゃないの?」

 問い返されて、彼は虚をつかれたようだ。ゆっくりと、まさか、とつぶやいた。どうやら少しは物語の法則ってやつに騙されてくれそうな感じだった。さあ、ここでたたみかけておこう。

「ミズキさん、だいたいバクはしゃべれないと思うのよ。喉頭の造りとか違うんだから」

「なにか知ってるのか」

 今にも両肩をつかまれそうで、私は一歩、しりぞいた。その拒絶に気がついて、彼は自分自身でぎょっとしたみたいに頭をふった。なれないことをしているという自覚に苛まれているのがわかる。ふだんフェミニストで通ってるものだから頭から怒鳴りつけるなんてやりつけないのだろう。

「深町さん、浅倉は……」

「だいじょうぶよ」

「でも」

「だいじょうぶ。私が来たからもう、だいじょうぶ」

 我ながら嘘つきも甚だしい。気持ちが挫けそうでも、ここは言い切ることが肝要だ。理詰めでこられたら敵わないことは先刻承知だ。ただでさえ、相手のほうが背も高くて修羅場をくぐったインテリで、常々ひとを圧することになれている。オーナー社長なんてのはふだん上からモノをいわれることがなくて、己の信ずる道に誤りなしっていう強権のカリスマだ。だからこそ、言葉だけでも強気に攻めておきたい。コンサルOLを甘くみないでほしい。とりあえずここらで思いきり内省をうながしておこうかな。

「それとも、なにか自分に原因があるって思う契機でもあった?」

「深町さん」

 おや、瞳が揺れた。思い当たることがあるっていう顔をした。

「でも、それは違うよ。この場合、私が原因でしょう。さっきもいったように『高野聖』も『変身物語』も、獣と変異に相性のいいのは常々どうしてか、女なのよ」

 視線をあわせて数秒、効果がはかばかしくなかったかと案じて首をかしげそうになったところで、ミズキさんがきゅうにしゃがみこんだ。

「み、ミズキさん?」

「お湯は上に……でん、きポ、トが……」 

 お湯は二階に電気ポットがある、だろうね。

丸まった背中を見下ろすと、頭頂部の、絵に描いたように美しいつむじが目に入った。いやだこのひと、こんなところまで綺麗だ。

 ミズキさんは浅倉くんよりすこし背が高い。それなのに、今はとてもちっちゃく見える。高価そうなスーツはさしずめサビル・ロウ仕立てというところか。元アパレルOLの審美眼で判断を下したのは、高級スーツというのは胎児の姿勢でしゃがみこむにはまったく似合わない衣服だと思い知らされたからだった。

 だいじょうぶ。私は冷静だ。ちゃんと、モノが見て取れる。だいじょうぶ。

 呪文のようにくりかえし、息をつめて、しずかに両膝をつく。ジーンズを通して板張りの床の冷たさがつたわり、一日火の入らなかった台所の静けさを思わせた。

 その肩に手をのばすと拒絶はなく、すうっと目に見えて肩のラインがやわらかくなる。そっと撫でると、抱き込まれた。抱きつかれるとは思わなくて一瞬だけ身体がこわばったけれど、子供のようにしゃくりあげる喉のひきつった音を耳にすると力が抜けた。スーツに染みついた香りはエゴイスト・プラティナム。一筋縄ではいかない癖のある香りに、思った以上に落ち着いた。これを嗅ぐと、辛口の、きんきんに冷えた白ワインが飲みたくなる。自分の指先が震えて冷たくなっていることにようやく気がついたのは、相手の体温のせいだった。哺乳類らしい本能で、気持ちがいいとすなおに感じた。

「どう、なっ……」

 言いたいのが、どうなってるんだろうなのか、どうしたらなおるんだろうなのか聞き取れなかった。嗚咽がこぼれそうになるのを押し殺しながら、それでもミズキさんは今、私を頼りにしてるとたしかに感じた。

 よく今まで我慢したねと言ってあげたいところだけど、でも、私もこわい。こわいけど、自分よりこわいはずのひとが震えないでいられるのなら、やれることはあるはずだ。とりあえず、具体的なことを考えてもらおう。

「浅倉くん、トイレにいった? 着てた服とか、どうしたの?」

 ミズキさんは拳で目の下をぬぐい、顔をむけた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃながら、目許の赤くなったところは艶めいて見えた。彼は睫を濡らしたまま、いや、と首をふる。それから綺麗にアイロンのかかったハンカチを取り出したのに使わず、考えこむように瞳を伏せた。

「あいつは昨日の夜飲んで帰ってきて、僕が今日三時過ぎに居間に入ったときにはもうバクだった。それから四時間、飲まず食わずでそのままだ。服は、ソファの横に無傷で落ちてた」

「飲むと脱ぐひとだったっけ?」

「わからない。そんな泥酔するまで飲んだことがないから」

 なんとなく、その声がさみしそうに聞こえたのは気のせいかもしれない。今はまあ、そこはおいておこう。

「寝転がったまま? 浅倉くんのお父さんかお母さんが実は獏だったとか」

 言ってから、自分で笑ってしまった。それじゃ萩尾望都先生の『イグアナの娘』だ。だいたい、浅倉くんは落ち着いているわけじゃない。いつもクールなミズキさんがほとんど泣きそうになっていたからパニックになれなかっただけだ。人間、さきに壊れなかった場合、そうは容易くあとに続けないものなのだ。それはそのひとの強弱や覚悟とは関係ない。ちょっとタイミングがずれただけのこと。

「時任さんには連絡した?」

「彼女になんの関係が?」

 彼女ときたか。じゃあ。

「ミズキさんは彼女から『夢詩壷』を買ったんでしょう?」

 証拠はもう、見ている。紙袋に入った壷と文庫本。世界文学全集にあるような本でも、ベストセラーでもなんでもない。ライアル・ワトソンの『未知の贈りもの』。無人島にもっていくなら、この本だと決めている。

「それは……でも、あれは変なクスリじゃない。お香みたいなもので」

「ミズキさんには、彼女がバクには見えなかったのね」

 ミズキさんは不思議そうな顔をしてこちらをうかがっていた。

「誰から、彼女を紹介してもらったの?」

「誰って……」

 心底うろたえたひとの顔は、こわい。記憶の抜け落ちは、ミズキさんのようなひとには耐え難いに違いない。

「忘れちゃった? あれはじゃあ、地球侵略者かもしれないね」

 口にしてみると、それは案外、正しい気もした。バク型宇宙人だっていないわけじゃないだろう。SFの読みすぎか。北野勇作の『空獏』は絶品だった。でもじゃあ、これも夢?

「ミズキさん、お仕事は?」

 うなだれて肩をすくめる。こたえたくないというジェスチャーは、ぎゃくにそれを肯定している。日曜夜のラジオ番組、あれはいつも生だった。でも、バクになった浅倉くんを独りでおいていけないと思って私に電話をかけた。ミズキさんは計算高い自分が嫌いなのだろう。それはでも、生きていくのに必要な資質だ。本人はそうと認めないだろうけど、繊細な彼には備わってしかるべき能力だと思う。ただ、そうしていつも賢明で逃げをうってばかりじゃダメなときもある。

「今日は泊まってくから、安心して」

「深町さん」

「……たぶん、ミズキさんは浅倉くんに頼ってきた部分がたくさんあると思ってるんだろうけど、それって彼はぜんぜん気にしてないと思うよ。気にして欲しいんだろうけど、彼は気にとめてない。だから言わないと、通じないよ?」

 見あげると、何かを、唇をかみしめて抑えこんでいる。傷ついた顔を見せようとしなかったミズキさんの気丈さには覚えがある。よく、晃がこういう顔をした。今だからわかるんだけど、この強気なミズキさんですら不意をつくと無防備な顔をしてしまいそうになる。

 喉がかすかに鳴って、でも、彼は口を閉じたままこちらを見下ろし続けた。私はそれを了解とうけとって、先をいう。

「腹が立つのは愛してるからだよ」

「……それで、深町さんは?」

「私は浅倉くんを好きなわけじゃないから」

 言ってから、これはふたりを侮辱していないといえるだろうかと考えた。もう考えても遅いはずだが、でもそのままほっておいていいことでもない気がした。

「深町さんて実は、男に恐がられてひかれるタイプだよね」

 頭の上からふってきた言葉は嫌味の応酬でなく、たんたんと事実を述べるふうだった。

「僕は、好きだけどね」

 瞳が合うと、ミズキさんは微笑んでいた。可愛い顔だった。綺麗というよりとっても可愛らしくて、ちょっと意表をつかれて目をしばたいた私に、どうして気づいたの、と彼が首をかしげて訊いた。

「どうしてって、むちゃくちゃ彼のこと罵るからだよ。男の子が好きな子の三つ編ひっぱるみたいだもん」

「そっか、そうだよね」

 吐息のような声でつぶやいて、彼は顔を右手で覆った。なんだか見ていられなくて、茶碗ときゅうす、茶筒をお盆にのせていると背中に声がかかる。

「ねえ、三人でここに暮らさない?」

 ふりかえると、ミズキさんはもう本来の調子をとりもどし、取り戻したことで獲物をとらえる狩人のような顔をしていた。って、そういうちっともリアルじゃない間抜けな慣用句はこの場に相応しくないくらい、剣呑な顔だった。ちょっと、マジでこわいよ。

「結婚、やめなよ。姫香ちゃん」

 そう呼ばれるのがイヤだって言っておいたのをわざと口にされ、ざわついた神経のまま、言い返す。

「今は、浅倉くんのことを考えるときでしょう」

 お盆をとりあげた肘をつかまれた。やわらかく、でも強く、押さえつけるように。さっき泣きながら抱きついてきた同じ人物とは思えないような態度で見下ろしている。

「彼のためだよ。どっちにしても、外には出せないんだから」

「どうしてそんな言い方をするの?」

「浅倉を、どこの誰に見せればいい。まさか札幌の家族に連絡するわけにはいかないよ」

 けっきょく私は虚勢を張っただけで、まともに事態を考えたわけじゃないことを見抜かれていた。うつむいた私からミズキさんはお盆をとりあげて断罪した。

「君は秘密を知っている。とにかく、逃げるような真似はさせないから」

「そんなこと」

 顔をあげて反撥すると、冷たく笑われた。

「しないって言える? 浅倉のことが好きじゃないなんていうのは、愛してないから責任がないって言い切ったようなものだよ」

 今度は私が黙り込む番だった。

 なをおどろかぬ我が身なりけり、か。

 この、醒めない夢のような出来事の意味を考えないとならない。


「すみません。変なことにまきこんで」

 ふたりだけになってすぐ、浅倉くんが頭を下げて口にした。四足の生物らしい、背中のしなりをともなわない一礼だ。正面の壁を見上げると時計は十一時だった。TVは気が散るからと、つけていない。さっき、私とミズキさんは食事をした。といっても、私が地元の駅前で買ってきたパンを食べただけのことだけど。

「……まきこんだのは、私かもよ?」

 前足をおりこんで腹這いになったまま首をかしげる。バクは大きい。それなのに獣の匂いがしない。だから、犬や猫が隣にいるときのあの温みがなくて、空々しい。

「お腹すかないみたいね。喉も渇かないしおトイレにもいかないし、ヘンだよね」

「生物としてってことっすか?」

「まあ、喋れること自体が不思議なんだけどね。おとぎ話ってのはしょせんそんなものだと思うけど……」

 彼に、触ってもいいだろうか。そう考えたときに、また浅倉くんが謝った。

「センパイ、怒らせてごめん」

「怒ってないよ。困ってるけど」

「違います。バクになったことじゃなくて、その前の……」

 バクの目が揺れた。私は体育座りをといて、きちんと正座した。

「どうして怒ってるって思うの?」

「や、それは、怒ってたから」

 それはこたえになってないと思うのだが。

 呆れきった私の気配に気づいてか、浅倉くんは人間だったときとそっくりの身振りで首を揺らして退いた。こういうのは、なんだか切ない。けれど、右から左に聞き流すことはできなかった。

「あのね、だからって謝ればすむものでもないでしょ?」

「でも、オレにはそのくらいしかもう、できることありませんから」

「そのくらいしかできないってどういう意味よ」

「バクになっちゃったからですよ」

「だから、バクになったって言葉が喋れて頭が使えるなら他にもいうことがあるでしょう?」

「他って何を言うんですか。オレは……バク、なんですよ」

 そうだね。私は浅倉くんの肉声を今はじめて聞いた気分でいる。実は、さっきからものすごい自制心だと感心してる。でも、そう言ってしまえば浅倉くんは自分を殺してしまうだろう。自殺するってことじゃないけど、バクが死ねるのかどうかもワカラナイし、そうじゃなくて、なんだろう。

 浅倉くんもミズキさんも、ふたりはなんだか上野動物園にいる虎みたいなひとたちだ。虎の名誉のためにいっておくけど、あんなにかっこいいという意味じゃない。ただ、なんていうんだろう。

 あの、特徴的な縞模様をくねらして十分でも二十分でも同じところを歩き続けて突然、後ろ足立つ。ガラスに凄い勢いで体当たり食らわせて、こちらの心臓を跳ね上げさせる。あれはもしかすると遊んでるつもりなのかもしれないけど、私にはすごく狂暴に思えるし、野生で飢えて死ぬより餌がもらえるから幸せなのかやはり狭くて不自由で不幸なのかとか、そういう思いあがりめいた思考自体を忘れさせるだけの迫力がありながら、それでいてすごく無力な感じがする。

 それに、虎を見ているときは虎の幸不幸など本当のところ考えてなどいないのだ。そこに大きくて美しいものがいるというだけで、私はそのことだけでいっぱいいっぱいになっている。けれど、ドンという衝撃音の突きつける「境界」の存在によって、私は妙なことを考えはじめる。そしてすぐ、忘れる。なにかとても大事なことを感じたような気がするのに、隣の中学生グループの妙に興奮した叫び声やカップルのもう行こうかだなんていう囁き声なんかに気を取られ、明日の仕事の段取りなんてことを考えてしまう。虎は私を、またはそこにいる誰かを食べようとしてガラスに爪を立てたのかもしれないのに、または視線のわずらわしさを追い払うための威嚇なのかもしれないのに、次の瞬間にはそういう「関係」そのものをないことにしてしまう自分がいる。あれ? それってじゃあ虎じゃなくて、私のことじゃん。しまった。

 あれはそうか、もう一年以上前のことだ。十一月にしては寒い日で……私はあとのき、このひとと付き合ってもいいな、と思ったのだ。デートに誘われて、どこでもいいよというから「動物園」に決めたのだ。虎ばかりずっと眺めている私の横でぜんぜん気詰まりな顔もせず、手持ち無沙汰に携帯をいじることもなく、並んでガラスのむこうを見ていた。やっと振り返ると、集中力あるねと笑って、寒くない、と手を握った――って、それは私の話しだよ。違う、ちがう。

 とにかく、何でもいいけど、ふたりには、もっとちゃんと話しあいなよって言いたくなる。ミズキさんはまあそれが音楽なんだろうけど、もうちょっと言語でも伝達能力を磨けばいいのに。あんなに一緒にいて毎日話してて、でも人間て、けっきょく大事なことを伝え合わないでいるんだなってあらためて驚いてしまう。

 一年いっしょに住んで、ミズキさんの気持ちに気づかないっていうのはニブイを通り越して人間として危険だよ。隠し通すミズキさんもね。もちろん、それは私が言うべきことじゃないから黙ってるけど。

 浅倉くんはふらふらと自分を必要としてるひとに優しくしすぎる。頼られると嬉しいのだ。それはわかる。でも、こんなにべったりされてそれがなんともないってのは不感症だよ? そうかと思うと自分が欲しいとなったら後先考えず、距離感をつかむ前に近寄りすぎる。子犬じゃないんだからさあ。

 そう。子犬ならいい。でも正直、体長二メートルの生物といっしょにいるのはけっこうしんどい。獣臭くなくとも、大きさというのはそれだけでひとを圧倒するものだし、暴れたら手をつけられないことは明らかだ。でも、それは相手が人間であってもおんなじだ。そのことを、男のひとは自覚することがあるのかな。まあ、あるだろうね。じゃなきゃ三十女に、女の子、だなんて失礼な言い方しないだろうさ。男の子って呼び返すぞ。

「どうして黙ってるんですか」

「なにか言ってほしい?」

 冷たい声で言い返すと、ぺしゃんとなってしゃがみこむ。私は溜飲をさげて、カーペットの表面を撫でた。すると、彼はこちらの機嫌がなおったことを察したのか、ぜんぜん関係ないことをきいた。

「センパイ、なんで施設管理局長だったんすか?」

 あれってオレみたいにくじ引きじゃなくて立候補でしょ、と。どうしてそんなことを今、きいてくるのかわからなかったけれど彼には必要だったのかもしれない。あらためて訊かれると首をかしげてしまう。それでも、辛抱強く待つ姿勢の相手にいいかげんはこたえられない。

「たぶん、モノが好きなのかなあ。モノを介在してひとや事がぐるぐる動いてくのを見るのが好きなのかも。さいしょに入った会社もアパレルだったしね。それとまあ、初年度はなんだかわけわかんないうちに学祭終わったけど二年生になるとよそも見れるし、それでもっとお互い連携とって譲り合ってやれば上手にまわるんじゃないかなあって思ったのね。うちみたいに部になってからの歴史が長くて畳がないと話しにならないような部活は優遇されてるけど、そうじゃないとこってけっこう力関係で場所がきまっててね」

「自分たちのことしか考えない部に、カツを入れてましたよね。かっこいいなあって思ってたんすよ」

 おだてても、何も出さないよ。そう言おうと思ったところで、彼が口にした。

「センパイ、基本的に人に弱み見せないとこありますよね。困った顔しないで、先手をうって相手を叱り飛ばすっていうか」

「浅倉くん」

 びくっとバクの身体が震えた。昔から、私は浅倉くんをこわがらせているらしい。来須ちゃんいわく、こわがっていたのは彼だけじゃなかったらしいけど。 

 施設管理の仕事はモノを、要望するひとたちに過不足なく行き渡らせることだ。予算や資源は限られていて、誰もが均等に満足するのは難しい。慣例というのは恐ろしいもので、たかが大学の文化部といえどいったんそれが定着してしまうとそのまんま誰も不都合を省みないまま放置されることがある。私はどうもそういうのが嫌いで、というより我慢ならなく、理に適っていないと声をあげてあちこちにぶつかって問題をおこしてきた。不便でも、旧態依然のほうが慣れていていいと思うひとがいることを知ったのは、あの場所だった。人間、見ようとしないものはまるで見えないのだということをまざまざと思い知り、ときに痛い目をみた。それで、寝た子を起こしてどうすると晃の失笑をかったりした。

 もっとも、あとでそれとなくフォローしてくれたのも彼だった。部長同士は横でつながっているから晃がいてくれて助かったところはある。なのに私は余計なことをしてと思っていた。でもだって、ヒメはちっちゃくて可愛いんだから下手に出てお願い口調で喋ってくりゃいいんだよ、と言うからだ。そんな言い方をされてソウダネアリガトウって返事する? できる、そんなこと? いや、まあ、いざとなりゃするぞと思うけど、それこそ彼氏には言われたくなかった。

 浅倉くんは私や他のひとがああだこうだ案を出して計画を練っている間ひたすら無言で、だいじょうぶかな、話についてきてるかなって思うところでいきなり、むちゃくちゃ正論をついてきてみんなを仰天させるタイプだ。だからそれは無理だってばと、よく来須ちゃんにつっこまれ、いや、でも、これがいちばんですから、と眉をぎゅっと寄せて言い切るのだ。まあそれで十回に一回しか彼の正論は通らなかったのだけど、通ったときにはみんなで誇張じゃなく小躍りしたものだ。

「ねえ浅倉くん、卒論なに書いた?」

 これが、はぐらかしているわけでないことが伝わっただろうか。顔をあげて、この話がどこへつながるのか注意深くさぐるように、耳を立てていた。その沈黙に後押しされる。

「私はね、ほんとは『トリスタンとイゾルデ』について書きたかったんだけど、先生がご病気で大学を辞められてね。それでけっきょく美術史のほうになったの。でも、今もローランの歌とかアーサー王とか読むのは好きなのね。でもさ、たいていの騎士道物語って女のひとは美人でおとなしくて貞淑ならいいみたいな扱いで、まあ、ひどいものだと思うのよ」

 もちろん、男をやりこめる女の話もあるけれど、どっちにしてもそういう女はたいてい狡賢い魔女系統に連なってしまうのだ。そういえば、高野聖の美女も魔物だった。いつだって、他者の役目を振り分けられるのは女で、それは私をうんざりさせる。自然だの神秘だのを背負うには、すでにもう時代が下がりすぎているはずなのに。時代は関係ないか。でも、じゃあ、なんだろう? バイトとイベントにあけくれてないでこういう勉強をちゃんと大学ですればよかった。

「オレは、ポーでした。ポーの詩を……ひとの論文、切って張っただけっすけど」

 意外といえば意外なような、そうだといえばそうのような、へんなの。

「それでその?」

 浅倉くんはもう、自分の気持ちよりも私の言いたいことを汲もうとする。ま、それでもいいや。

「お姫様っているじゃない? 私、名前のせいでアレって大嫌いなの。子供の頃よくからかわれたし変に生き方を強制されそうで大嫌い。デフォルトで美人だったり何かに秀でてなきゃいけなかったりしてさ。他力本願で救い出されるのを待ってるかと思うと自己犠牲の塊で王子様や世界を救っちゃったり、もう、ほんっとうにどっちもイヤなの。とんでもなく役立たずで、冒険の後に報奨のように下される目的に成り下がってたりして、けっこうむかつくのね。モノじゃないんだからさあ、おかしいよ絶対」

 瞬きをくりかえすのは、驚いているせいなのだろうか。

「や、その……物だなんて、思ってないと思いますよ。センパイのこと、そんなふうには」

「でもだって、男ってやつは喋らないほうがいいとか黙ってれば可愛いのにとか無茶苦茶失礼なこと平気でいうよ? かわいくなくてけっこうだし、言論の自由を奪うなって思うのね、腹の立つ!」

「センパイ、落ち着いて。ええと、その、オレは少なくとも、違います」

「それって浅倉くんが例外なの?」

 たたみかけると、ゆらゆらと頭を動かしてこたえた。

「他の男のことはよくわかりません。でも、センパイの話しならずっと聞き続けても飽きない自信がある」

 それ、えらそうに言わないでよ。

「とりあえず、じゃあ他のひとのことも考えて」

「はあ……考えます」

 私もたいがいヒドイ女かもしれないが、そうやって騙される浅倉くんが悪いのだ。うん。そうだ、そうに決まってる。

「もしかして、やっぱり怒ってますよね?」

 上目遣いできかないでよ。

「オレが自分の気持ちだけ押し付けたっていうか、勝手に押し付けられて思いやられなかったって思ってますか?」

 う……。

 ちゃんと突っ込んできたな。

 浅倉くんはちょっと小首をかしげ、機嫌をうかがうようなそぶりでこちらを見あげてきたかと思うと、実際はもっと怖い顔をしていた。けれど、すぐに私の緊張を感じ取り、すこしだけ視線をはずした。

 そういう感じ方は嫌い。でも、たぶん私はそう感じている。

 対等の関係なんてありえない。でもどこかに、もっと相手も自分も大事にできそうな場所がないかと願ってしまう。

「センパイ、実はけっこう臆病だよね。言うこと言うし黙っててもやることやってくからずっとすごく勇敢な人かと思ってた」

 膝うえで重ねた手をほどき、吐息をついた。バクの視野はどのくらいあるのだろう。色は見えているのかしら。聞けばこたえてくれるかもしれないけれど、彼を質問責めにしたくない。することで、さらにこんがらがりそうだし、まともにこの浅倉くんが返答するかも疑問だ。大いに疑問だった。その、疑わしげな視線にへこんだらしく、小さくなってきいた。

「センパイ?」

「あのね、弱い犬ほどよく吠えるは正しいの。さきに相手を牽制するひとっていうのはたいてい凄く臆病なの。だけどね、それで容赦してくださいって言えるほどには強くもなれなくて、浅倉くんが悪いわけじゃないのに理不尽に怒ってることも自分で知ってるの。ひとの気持ちは自分の自由にはならないからね。自分だって思うようにならないし」

「……」

 出たな、無言。浅倉くんの必殺技だ。あの学祭のときだって、私はこれに如何ばかり傷ついたことかって、何を言わすのだ。

「やっぱ、オレ、静かな女の人のほうが全般的には好きかも」

「は?」

「え?」

「浅倉くん、その台詞、今、言うとこじゃないんじゃないの?」

「や、でも、考えてたらとりあえず、言っといたほうがいいかと思って」

「でも、でも、その流れとは違うじゃん!」

「流れってなんすか、それ。だいたいドラマじゃないんだから、そんなにうまく話がかみ合うわけないじゃないですか」

「でも、たしかにそうだけど、でも!」

 私の憤りをものともせずに、声が弾けた。

「オレだってセンパイがこわいんだよ。そんなことくらいでバカだと思うけど、オレだって落ちこむし傷つくんだよ。たかがふられたくらいで。しかもたしかに猪突猛進で呆れられるのも無理ないけど、センパイ、オレには携帯ナンバーもアドレスもきかないと教えてくれなかったのにミズキにはすぐに渡すし、ミズキとばっか話してもりあがるし、たぶん次に会うときにはもう言えそうもないって思ったから言っちゃっただけで、今だってこんなになって迷惑かけて笑われて嫌われてるかと思うと生きた心地もしないほど恥ずかしくて惨めなんだよ!」

「……」

 あ、しまった。私がやっちゃったよ。これ、やられると辛いよね。でも。

「すみません。うざいですね」

 頭をさげている。

 うざいっていうか……浅倉くん、君はなにげにバクであることより、そのことのほうが気になるみたいな言いっぷりだけどそれは間違ってるような気がするよ。

 それに、ミズキさんにアドレスと番号教えたのはだって、イラストの仕事を引き受けたからでその後ちゃんと浅倉くんにも家の電話もパソコン用のメールアドレスも全部、メモして渡したじゃん。盛り上がるってそりゃあ、生まれて初めてイラストの仕事くれたひとだもん。ってそうか、本人はバクになってるっていう実感がないのかもしれない。

 ええと、実際のところはどうなんだろう?

「浅倉くん、実はお父さんとかお母さんがバクだなんて話じゃないよね?」

「そんなわけないでしょ。とにかくもう、同情でそばにいられても迷惑なんで、帰って下さい。明日、仕事でしょう?」

 うわ、一度キレたらそうくるか。そっぽを向いてる。扱いにくいなあ、もう。ミズキさん、私イチ抜けしますよ~。いいですか~? 

 って、それもそれで逃げをうったようでむかつくぞ。

 けど、イジケテ自己嫌悪の漲る白黒の生物に哀れさはなくてほっとする。バクは草食動物だからきっと温厚な生物のはずなのにこんなに棘トゲしちゃって……でも、それは悪くない。不安に怯えるよりましだろう。

 私はひとつ吐息をもらして呟いた。

「むかし、酒井くんがね」

 びくり、とバクの耳が揺れた。耳、動くんだね。知らなかったよ。そうか、馬と同じ仲間だったっけ? 

彼は無言のまま、なんだか恨みがましいような目つきでこちらを見た。まあ、聞いてよ。ここで何も、彼が大好きだったっていうわけじゃないから。

「別れ際にね」

 ああ、すぱっていえないものだな。しょうがない。思い出すと、きゅっと心臓をつかまれたような気持ちに今でもなる。取り消せない言葉というのは、いつでもどんなときでも、心の片隅にあって、ふいに何でもないときに押し寄せてきてこちらを喘がせたりするものだけど、自分でわかってて掘り起こすのもまた苦しいものだ。

「やっぱり、同情でつきあってくれてもみじめだっていったことがあってね」

 浅倉くんは彼の理性を総動員して衝撃に身を震わせないようにしていたようだった。ヤバイヤバイシマッタ地雷ヲ踏ンダという肉声が聞こえそうで、聞こえなかった。ここで自嘲するのもカッコツケすぎると思って、私は頬にかかった髪の毛をはらいあげてそれを受け流した。彼はじっとして、いつものように、次に私が何を言い出すのか身構えていた。

「学生時代からラブラブって感じじゃなかったしね。来須ちゃんいわく、私が根負けしたみたいに始まって、それなのにいざ付き合い始めたら温度差があってあっちが遊びまわって、でしょ? まあそれってみんな別れるときはそうなのかもしれないけど、酒井くんが二股男でヒドイみたいな言い方であの当時いわれてたって聞いたことがあって、それ、違うから」

「違う……って?」

 浅倉くん、知ってるくせに。とぼけてるのか、意味がとれてないのかわかりづらいなあ。バクだから、か。いや、浅倉くんはもともと、肝心なところで表情を読み取らせないところがある。あのときの無表情と無言は、別れ際の晃の雄弁以上に私をうろたえさせた。

「だから、私がいつも、酒井くんを痛めつけてたらしいの。彼いわく、私はうわべは優しいようで肝腎なところで冷たくて情に薄いらしいの。ほら、酒井くんって他の女の子とよく飲みにいったりしてたじゃない? あれってね、ほんとはそういうのをしないでほしいって私に言ってほしかったみたいでね。それを私はべつに好きにすればって、売り言葉に買い言葉じゃなくてむちゃくちゃ冷静に言ったのね」

「や、でも、それは」

「うん。それは、そういう相手への期待っていうか、そういうのは正直いうと私は苦手で、つきあってるからって束縛するのもどうかなっていうか、彼がそうしたいならそうすれば、みたいなちょっと突き放したところがすごくあって、学園祭のときもやり方変えたから、けっこう揉めたじゃない? 酒井くんによく言われた。なんで俺を頼りにしないの、って」

 浅倉くんが何を言おうとしたのかはわからない。でも、聞いてしまうと次がいえなくなる気がするから、ごめん。

「まあけっきょく、さしのべる手を払ってばかりで、おんなじように彼がひよってるときも私は、ちゃんとすれば、みたいに言い続けたわけ。彼からすれば私はいつも強者で、正しいことをいって曲がったことが嫌いで余裕があって、好かれてるって思って相手をなめてるっていうか……」

「そんなことな」

「あるの!」

 強い声で遮ると、浅倉くんは固まった。

 別れたときに、晃がえんえんと口にしたのがこのことだった。このことというか、もっと上手く立ち回れってことも含めて、お互いの立ち位置の違いだったような気がする。価値観の違いっていう言葉だとちょっとずれる。それは突き詰めなさすぎだ。都合のいい言葉で内省を促さない。もうそれ以上、お互いに突っ込めない。美しくて傷つかない実のない言葉に思えて、私と晃は使わないようにしていた。

 あのとき私は、はっきりと思いやりがないって言えばいいのに、と思っていた。そうでも思わなきゃ、聞いていられなかったというせいもある。

 上手くいえないけど、彼は私がいつも鳥瞰的俯瞰的に上からモノを見ようとする態度が傲慢だと、そんな完全で都合のいい神のような視点はないだろうと責めていた。公平とか善悪とか、その立場にもなってみないで見分けられるはずはないだろうと、いつも言われた。正論だ。でも、それは一見正しそうで、みんなに配慮してるようで、私の傲慢同様に危うい。立場によって容易にひっくり返されることもある、逃げ道をあらかじめ用意するやり方に思えた。仕方がなかったとか、みんなそうだったとかに傾きやすい。

 晃がいうように、それじゃあ私は強者だろうか。彼に好かれていると思って余裕ぶって驕っていたのだろうか。ほんとうに? 

 ひとが、強者であることなんて、人生のうちそう何回もないんじゃないのかしら。いえ、まったくといってないんだと思う。それに、強者も弱者もなく、強くても弱くても、相手を傷つけることはかんたんにできる。それだけじゃない。殺すことだってかんたんだ。ひとは高いところから落とせば絶対に死ぬし、重いものを振り上げれば非力な私だって頭くらい潰せると思う。ガラスに身体をぶつけてきた虎のように圧倒的な力がなくても、ひとひとりくらい殺す能力が私にもある。誰にでも、ある。

 目に見えるわかりやすい暴力じゃなくて、言葉ひとつで相手を追いつめることもできる。弱さや脆弱さばかり思いつめることがあるけれど、ほんとうはけっこう強かでずるくできている。

 それよりなにより、みんなしてるからっていうのはどうも、生理的に受け付けない。みんなって誰だ、言ってみろ! と脅しつけたくなってしまう。

 とはいえ、マジョリティとマイノリティというのがこの世に存在しないとはさすがに思っていない。どっからそうなのかと線引きする能力が自分に備わっていないだけだともいう。時勢を読む眼力がないのだ。コンピューターのように「数える」ために生まれてきたものじゃないんだもの、それでいい。大勢がいつも正しいというわけじゃないし少数も同じだ。

 どこに中心があって、なにが大事で、それがいつも、わからない。

 誰に感情移入したらいいのか、誰がいうことが正しいのか、いつも、わからない。

かといって自分がこの世の中心にいるとも思えない。でも、それをいちばんの頼りにするしかない。こんなチャチなものからしか、この世を眺められないのは不幸じゃないかしら。

 絵のことならばたぶん、私はどこからそれを見ればいいのか、どの順番で展開されていくのか、画家がどこから見て欲しかったのかわかる気がする。ある程度、読みとれているという自信がある。自分でその絵をなぞることができるから。かいた順番やくりかえされるモチーフを見分けられるから。誰の何から影響をうけたのか想像できるから。

 でも、この世界を、この自分をとりまく状況を、わたしはどこからどう見たらいいのかわからない。

「センパイはただ……」

 長い沈黙のあとでおずおずという調子で、浅倉くんが口にした。目が合うと、彼はすこし戸惑うようなそぶりで首をふった。

 それを見て、吐息をついて笑った。バクになった浅倉くんにどうしてこんな話をしているのか、心の底で私は知っている。

「……誰かに頼るのはこわいことよ。そのひとがいないと生きていけないとか思いつめるのはすごくこわい。いつもそばにいて助けられるわけじゃないしね。だけど酒井くんは自分に頼れよって助けてくれようとしてくれてたのはわかるんだけど、ワカルんだけど。でも、イヤだったの」

 浅倉くんは黙って、顔をあげて私の言葉をきいていた。まるでふだん庭にいるのに家のなかに入れられた犬のようにちょっときょとんとした顔で。彼はそれが居心地の悪さだと自分でも気づいたようだ。

「……どうして、嫌だったんですか」

「どうしてって」

「もしかして、期待が裏切られるのがこわかった?」

「そうかもね。そうなったらすごく理不尽に相手を恨みそうな気がして」

 なんとなく、そうだろうと思う。似たようなことは、その後に付き合ったひとにも言われたことがある。最後の部分で何かを譲り渡さないとも、ひとりでも平気そうとも、何とでも。そういうふうに非難されても、私は、自分を独りで立たせておきたい。立たせられるかぎりはいつまでも、ちゃんと、まっすぐに、立たせておきたいのだ。

「私はできるだけ独りでやれるところはやりたいの。いけるとこまでいきたいの。酒井くんにも、そういう風にちゃんと言えばよかったって思うのね。それで、彼がなんでああいう風にしたのかとか、そんな風に言ったのかとか、もっともっと聞けばよかった。ただ自分の意見を押しつけて彼のいうことを否定することばかりしてたんだろうから。そうじゃないふうにすればよかったの……って、でも、そう思うそばから浅倉くんを糾弾してしまったわけ。浅倉くんに怒ってるって思わせたのは、私が悪い。怒るっていうのは相手に期待をかけてそうならなかったことで自分勝手に失望することで、誰も彼も、私のために存在しているわけじゃないし、逆もそうなの。そう思ってるのに、そう理解してるはずなのに、上手くできないの」

 それを聞いて、浅倉くんは、きゅうにはなにもしゃべれないという顔をしていた。ものすごくすなおに、混乱してるから何を言っていいかわかりません、という風だった。

 さっきのミズキさんとは違う。

 それでも、浅倉くんは私がこわいという。自分よりぜんぜんちびちゃくて、腕力も権力も何もない私がこわいという。不思議。

「や、でも、それは……そんな、そ、えっと……」

 浅倉くんはぶつぶつと口にして深く考えこんでいた。たぶん、私を慰めようと言葉を選んでいるに違いない。同情でそばにいられて迷惑だなんて言いきって、それでいて私の告白を真剣に聞いている。いいように甘えられていると思わないのかしら。気がついていないのかもしれないと考えて、さすがにそれほど無邪気じゃないかと自分を叱る。

 浅倉くん、実は女たらしだからな。こちらの情報網はたしかなのだ。卒業まで、彼が独り身だったことはない。優しいしマメだし、もてないことはない。女の話をいちいち聞ける能力以上の「モテ道」を私は思いつかない。ぎゃくも然り、かな。けっきょく、ひとって自分のことをわかってほしいのだ。わかって愛して認めて許して欲しい。ここにいていいよって言ってもらいたい。独りでいたいと言いながら、私だって、誰かに甘えて許して欲しいこともある。

 私は誰かに、本当はこの場合、晃に許してもらいたいのだ。それができなくて、浅倉くんにもういいよって言ってもらいたい。

 彼くらい、そういうことを上手に言えるひとはいないと、私もミズキさんもよく知っている。

 でもやっぱり、それは「違う」ことだ。

 私はこれをずっと抱えて、一生考えていかないとダメだ。誰かにすくいとってもらっちゃダメだ。それはかんたんすぎる。そんなに簡単なことじゃない。それを忘れちゃいけない。

 唐突に、浅倉くんがいった。

「オレやっぱ、訂正します。センパイはそんなに臆病じゃない。かといってすごくクールに醒めてるわけでもない」

「は?」

「だから期待したとおりの結果にならなかったらって怒るってことはすでに期待して何度も裏切られてるのに実はまだ諦めてないってことじゃないすか。諦めてたら怒らないで許しますよね」

「浅倉くん?」

「本当は誰かに期待をかけたいって思ってるんじゃないですか」

「ええと」

 なんだかちょっと、話しの雰囲気が違ってきた気がした。心なしか、鼻息が荒いような。勢いづかせた? やばい。守勢に回っていることに気がついて腰をうかそうとすると、バクが覚悟を決めたように顔をあげた。   

「浅倉くん、お店の鍵と自転車の鍵、どこ?」

 完全に虚をつかれたらしく、反射的に玄関のほうを見た。素直でよろしい。そのすきにコートをつかんで鞄をひっかけた。その背中に声がかかる。

「センパイ、待っ」

「待つのは君だ、浅倉くん」

 ここは指をつきつけて、見得をはろう。ひとを指さすのはマナー違反で下品だけどこの場合これ以上の身振りはない。びしっと、書き文字つきでかっこつけよう。

 行くぞ私。

 さあ、出番だ。

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