長月――獏の物語 夢を見ることに妙をえた人間


 

 ひとは夢をみる生き物ね。眠っているときに見る「夢」をいうのではなくて希望や願望というやつよ。ひとによっては野心とも欲望ともいうかもしれない。どう呼ぶのも勝手だけれど、「夢」はそれで迷惑をしているの。

 その夢と「夢」はつながっている。

 少なくともこちらの世界では間違いなくつながっていて、あたしはそれを感じることができて、だからこういう「商売」をすることで「夢」をどうにかしようとしていて、自分がなんの罪を犯したのかはとうに忘れてしまったけれど、あたしは流刑者でひたすら「夢」の根源を求めてその夢と「夢」のつながりを絶ったり結びなおしたりし続けないとならなくて、でも、ときどきその間違いというものもおきて、間違いというのは文字通り「あいだ」を「違える」ことで、そのつなぎのおかしいことで、この世のすべてがおかしくなったりすることでもあって、だからあたしは…また、この調子でバグりっぱなし。

 おかしいわ。こんなことを言い出すつもりじゃなかったのに。あの壷を姫香に渡してから、あたしはおかしい。

 ミズキが会った女の子と姫香の友達は同一人物じゃないの。そこまで物語は都合よくはできていない。でも、姫香は忘れていたことを思い出して今夜その夢を見るでしょう。

 夏休みが開けてすぐ、高校の屋上でその子に突然、卒業したらニューヨークの大学に行くつもりだと告白されて自分がなんてちっぽけな世間知らずの子供なんだろうと劣等感をもったことを。洋楽が好きで英語の成績も同じくらいで、それなのにまるで違うものを見て生きていたことを。やっぱり美大にいくの、と訊かれて口ごもったことを。野暮ったい紺サージの箱ひだスカートの制服を、その子がどんなに凛として着こなしていたかを。九月九日がお誕生日で、部室でお酒の代わりにレモンスカッシュを注ぎ、いくつもの小さな泡が黒楽茶碗の内側で弾けるのを眺めながら菊の花をうかべて回し飲みしたことを。レモンとソーダの香料ばっかりで菊の香りなんて全然しないねって笑いあい、たぶん楽茶碗でレモンスカッシュを飲んだのはこの世で自分たちが最初じゃないかと想像して、これって何に似てるかと思ってたら昔の阪神タイガースの帽子だねなんてバカなことを言ったことを。

 それから、卒業式の後、本当はずっと深町さんが好きだったと告白されて、気が動転して何を言っていいかもわからずに元気でねとだけ返事をして後輩達に貰った花束を全部、部室に忘れて帰ってしまったことを。日本を離れると分かっていて告白する臆病者と少しだけ恨んで自己嫌悪に陥ったことを。

 今までの人生で自分をいちばん大事にしてくれたひとだったのにと気づいて泣いて、それは今現在も有効な事実のような気がして悲しくなることも……。

 その切なさはこのあたしにもわからないものではないわ。それは知ってしまったがゆえの悲しみで、智慧の実を食べた人間の罪かもしれない。つまりは一方向にしか時間が流れないと信じる存在のもつ、根源的な哀切。忘却や喪失が癒しであると思えない間のこと。

 「夢」には時間がない。いいえ、時間軸というものが成立しない。過去も未来もなく、豊かな流れのただなかにある。

 ミズキが殺そうとした若い女性は彼の夢のなかでは肉体を持たない「生物」になりさがっている。彼は文字通り必死で、そのひとの命の重みを忘れようとして、彼女から名前も年齢も住んでいる所も何もかもを奪おうとしているのだけれど、それがすでに「彼女」を二度、殺そうとする行為だと彼はきっと気付こうとしない。ミズキの善意は相手の鼓動や肉体の熱にだけ拘り、もっと奥深く底意のある「抹殺」行為をそしらぬ態度でやりすごすことで悪意と手をつないでいる。相手をモノに落とし込め、個という殻を剥ぎ取って、もう少し大きくてわかりやすく、それでいて実は曖昧な存在の圧倒的な現実感に自身を食らわせて、食らわせたことで安堵して生き永らえようとしているのだけれど、かえってその重みの物量の凄まじさに、「夢」の中で疲弊している。個と全体こそが彼の拘りであり、自分自身が見つめ直さないとならない根源であり、ミズキはでも、どちらもその大きさに見合わない方法でしか捕らえようとしなくていつも失敗してしまう。彼のDJの仕事とあたしの仕事はとてもよく似てるのにね。なんのためにあたしに会ったのかを無意識に気づきながら、怯えているの。

 その「彼女」は元気でいる。これは本当に余談だけれども、彼女は酒井晃の妻の友人なの。そのうち山梨で夢日記を開けるでしょう。そして、彼女はその続きを奮然と書き始めるの。この物語のなかで「彼女」は今回、名前を与えられなかった。いいえ、剥奪されている。その不幸な「夢」の記憶は彼女を奮い立たせるわ。誰もが誰かを名もなき者として扱うことへの猛然とした反撥や誰もが自分の人生をたしかに生きているのだという実感を、彼女は懸命に書きつける。

 あたしはそれを褒め称えようとは思わないけれど、でも、すこし羨ましいのかなと考えて微笑んでしまう。どのくらい長く刑に服しているのかも忘れてしまったけれど、ごくたまに、あたしは笑うことができる。それをひとが幸福と呼ぶくらいのことは知っているの。

 でも、幸福を思いつめることくらい愚かなことはないと、浅倉は信じているようね。彼はこの世の働きかけに無関心を装い、夢を見ない。できることが多くて要領がよく、ミズキのような大胆な賭けに出ないでも物事を上手に運べることを自身で知っている。運を頼みにせず、ひとさまにも甘えない。どこに行っても生きていくのに困らないタイプ。

 だから、彼にはあたしは見えないのね。

 世の中のたいていのひとは、年齢や性別や収入や住所に関係なく、あたしが見えない。「夢」のお告げにそこそこ気がついて、あたしに勝手にあれこれ弄くられていても気にしないで生きて、上手に死んでいけるもの。

 ただ、時々、どうしてかあたしに出会ってしまうひとがいる。そういうひとは色々で、心が綺麗だとか目が澄んでいるとかそんな条件ならあたしも毎日穏やかにすごすのだけれども、そんなに簡単にはできていないようで、本当に千差万別なの。

 あたしはみんなが見る「夢」よりも、その人生のほうを見て読んで楽しみ、時たまそれを都合のいいように変えようと「夢」を使ってちょっとした悪ふざけをしてみたりすることもあるけれど、できた試しはないのね。あたしが一生懸命結びなおしたつながりをまた繰り返してこんぐらがしたり、切っても切ってもつながってしまったり、つなげて安心したと思うとまた切ってあったり、もう、どうしようもないのよ。 そういうとき、なんて人間っていうのは強情で意地っ張りで愚かで、でも愛しいんでしょうって思って泣きたくなる。絡まる夢と「夢」にふりまわされて、あたしは毎日、へとへとになってるの。

 夢詩壷は、そんなあたしの滋養だった。

 お金儲けじゃなくて、滋養。

 とびきり美味しそうな夢を見るだろうひとの夢に自分をもぐりこませて、その欲望に潜む快楽をひたすら味わい尽くすのを楽しみにしていたの。不味い夢ばかり見るひともいるのよ。そういうのは、起きているのか寝ているのかわからないようなひとね。

 深町姫香は夢を見ることに妙を得た人間であると自覚しているからこそ、恐れている。好きな夢がみれるときいて眉をひそめたきり、その後はその話題に触れようともしなかった。そういうひとのほうが実は、業が深いの。しょせんこの程度と高をくくっている「賢い」ひとたちとは彼女は違う。

 炎に魅かれて身を焦がす蛾のように、彼女はあたしのところにやってきた。

 彼女の夢は甘い。甘くて美しい。

 あたしはその香りを心ゆくまで吸い込んで、吐き出すのが惜しいので腹腔にためておく。舌で味わうのはもっと先。まずはこの鼻で嗅ぐだけで我慢しておくの。

まだまだ足らない。もっともっととおねだりして、爛熟の極みに追い上げて、重なり合った「夢」が蜜になるまで待つことにする。

 今はまだ透明でとろりとして光を孕む黄金の蜜が、さらに甘くて濃密な黒蜜になるまでゆっくり待つことにしているの。ああ、楽しみ。あたしは黒蜜が好き。黒蜜、黒蜜、くろ……あら? 

 こんなことを言うはずじゃなかったのに。また、バグってるのかしら。

 近ごろ、獏はバカになっているみたい。


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