葉月――作者の物語 ドリーム・タイム
・深町姫香 年齢三十六歳 身長百五十二センチ 体重四十一キロ 株式会社ジェイ・プラン勤務(日本橋本町) 趣味は読書(イラストとは書かない)――と履歴書的内容を並べても、「キャラクター」というものが立ち上がるのかどうか、それは謎。
・コートはベージュでカシゴラウール混、マックス・マーラーの膝下丈Aライン。靴はセルジオ・ロッシで黒革のロングブーツ。髪型は真ん中わけのセミロングにデジタルパーマのゆるカール。お気に入りの鞄は軽くて丈夫なゲラルディーニの黒。
ファッション用語ほど不可解なものはないだろう。なにしろ時代や場所によって同じ物体をさすはずの言葉が違ってしまうなんてことが常識なのだ。『ことばの国』の「ファッション用語の不思議」を読んでゲラゲラ笑ってしまう。
または、彼女の着ている服について書こうとする。「贅沢な手触りと光沢をもつ黒のヴェルヴェットドレス。足長効果抜群のハイウエスト切り替え」と女性誌風に書く方法もあるし、「白い肌を引き立たせる、胸元の開いた黒のワンピース」という色ボケ表現もアリだ。
とはいえ、ここまで書いて彼女の着ている服一枚でさえ、絵に描けるひとはいない筈だ。襟の開き方もラウンドなのかⅤ字なのかさえもわからない。ファッション用語でなくてもわからないことだらけだ。
まじめな話、思ったことありませんか? 小説を「小説」とならしめている根本は、作者ではなく、「読者」の想像力でしかないのだと。小説は作者の頭のなかにあるのではなく、今、この瞬間にこれを読んでいる、あなたのなかにしかないものなのだということを。
まして、深町姫香の来し方や性格なんて、作者はまったく考えてなかったりするというのも十二分に有り得る。
「まさか、それはないでしょう?」
『姫香』が不満げに声をあげた。常々思っているのだが、なぜに登場人物をさすとき、男性の場合は苗字で語られ、女性は名前のことがあるのか。それってどうよ?
「もしかして、だから僕、ミズキが名前か苗字かわからないままなんだ」
その通り。異議申し立てしておくの。
「オレ、センパイやミズキにくらべて微妙に扱いが雑な気がするんだけど……」
そうかもね。そう感じるのは、君に語らせていないせいだろう。一人称というのは読者の共感を呼びやすく便利で、それでいて本人がいない時空のことは一切記すことのできない非常に厄介な「語り口」と、よくその手の本には書いてある。ほんとかいな?
正直にいえば一人称も三人称も実のところ、その区別は曖昧じゃないのか。もちろん、一流の文学者なら違うのだろう。
神の、主人公の、第三者の視点、その切り替え、キャラクターへの成りきりによる文体の変容における単語選び、役割語、性差、階級その他もろもろの表現。
もしも視点や語りに意味があるのだとすれば、作者でさえ知らないことを、彼らキャラクター達はそれぞれ知っているというとても当たり前のことを改めて教えてもらえることくらいだろうか。
わたしという作者は小説中の出来事やキャラクターに小突かれまくり、ひいひい言いながら予想もしなかったところに連行され、この世の果てを垣間見る瞬間がある。わたしはまだ、その気配しか知らない。ただ、その一瞬が訪れる予感のために、小説を書き続け、読み続ける。
そして、二人称小説というのも一度はやってみたいものだが、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を読んでしまった今、手も足も出なくて蹲ってしまう。
はい、それじゃあ、ちょっと趣向を変えようか。
場所・ミズキの家(築地の木造二階建て一軒家の一階)
時間・土曜日の午前十一時半
「やだ、なにこれ?」
「まあどうせ、今までのパターンでは一ヶ月だけのことっすから」
「なんでもいいけど、作者は何をやりたいんだろうね?」
「それがわかれば苦労はしないって、いってると思うわよ」
「そうっすよ。だいたい、自分が何をしたいかわかる人間なんてめったにいないんですから。それを一生懸命に探すだけで」
「そうかなあ」
「うん、そうかも。ふつう、毎日生きていくだけで大変で、もしくはだらだらして、どっちにしてもいつか後悔して死ぬだけよ」
「センパイ、そこまで言わなくても……」
「甘い。甘いよ、アサクラ君。だいたい、『自分』なんて探してもそれ、落ちてないから」
「いやあ、意外と落ちてるかもしれませんよ。さ、音楽おんがくオンガク」
ミズキは立ち上がり、CDをかける。
(お好きなものをここで、かけにいってください)
「オレも、落ちてるとは思いませんが」
「が、なに?」
「おお、激しいツッコミ」
ミズキ、浅倉と深町両方に睨まれる。ミズキは肩をすくめてみせる。
「が……探すこと自体に意味があるっていうか」
一瞬、静寂につつまれる。
オンガクだけが、ひたすらに流れている。
「アサクラ君、そういうのってモラトリアムっていうんじゃないの?」
「成熟忌避? 現代文明病とでもいいますか? 差別と貧困と疫病と暴力と銃弾塗れで、今日生きるのに必死で、息切れしながら生きてみたいとは思わないだろ。それとも、生きているっていう実感ほしさにちょっとだけでも憧れて夢見たりする? 戦争にわくわくするように、非日常や特別な時間に期待したり」
「ミズキ、そういう言い方は」
「そういう言い方でしか、言えないよ。僕はゲイでカラードでアジアテークで大学中退で、それでも、カラードで高卒でレズビアンの女性よりはいい部屋を借りることができた。もちろんセクシュアリティは周りに秘密にしたし、それは関係ないだろうけどね。イラクがクゥエートに侵攻してすぐの頃で、親は夏休みの旅行か語学研修に出したくらいのつもりでいて早く帰ってこいっていったけど、僕は真剣に家を探してた。彼女は『自分』を探しにニューヨークへ出てきたって言ってたよ」
深町、うつむく。
「……その子の名前、覚えてる?」
「ごめん。もう忘れた。ユキとかミキとか、そんな名前だったかな」
「そう……まあ、そういうひとって、他にもいるよね、きっと」
「センパイ?」
「その頃やっぱり海外にいたからなんとなくその鬱屈がわかる気もするけど。ミズキさんは日本人が嫌いなの? それとも他に何か、個人的に思うところがあるの?」
ミズキ、質問の意図を探るように彼女を見る。
「要領を得ない質問だと思ってるんだろうけど、その通り。いろいろとミズキさんに問いただしたいことがあるのに、でも、うまく上手に言えないの。だいたい、大事なことをきこうとか話そうと思うときほど、言葉って逃げていくような気がする。信用できないものになっていくっていうか……」
「シカシ、言葉ナクシテハ何モ始マラナイ」
「その通りなんだろうね。自分を探してとか夢とか幸せとか、わかりやすいくせに何だか曖昧な記号みたいな言葉じゃなくて、せめて、飾らない自分を受け入れてくれる世界とか、十二時間やり続けても楽しいこととか、そういうのをもっと、少しずつでも具体的に言えればいいのかもしれない。言えないから難しいんだとも思うけど。でも、考えるっていうのは一方では言葉をあやつる力だとも思うし、どんなことでも言語化できるとけっこう落ち着くしね。まあ、できてよけいドツボにはまることもあるけど、もやもやしてるときはブログでも書けばいいと思うよ」
「そのほうがまだ、建設的だと思う。どちらにしても、そんなこと言っている間に目の前のことに取り組んで仕事しろ、かな」
「さすが起業家社長!」
深町、言葉と裏腹に気のない様子で手をたたく。
「……」
「アサクラ君?」
「や、なんでもないっす。なんていうか、こう……」
しばらく無言。ミズキと深町が顔を見合わせるが、アサクラは気づかない。かるく首をかしげて笑ってから深町。
「そうね。言えないことってたしかにいろいろあるよね。ミズキさんがニューヨークにいたころ私、フランスにいて、あの時、CONQUERIRって単語を新聞でみて凄くびっくりしたのね。征服だか侵攻だか侵略だか知らないけど、その下にいかにもフランスっぽいカリカチュアチックな戦車の絵がかいてあったの。ジョルジュ・ビゴーみたいな、ちょっとよれってした線の。写真じゃなかったの。絵だったから余計、変な、落ち着かない感じがしたのかもしれないけど、いかにもな報道写真のほうが客観視できたかもしれない。とにかく、あんな言葉は自分が一生ナマで見るはずはないって、オカシイって感じたのね……だって、コンキスタドール・ピサロとかノルマンコンケストとか、教科書で習ったような単語じゃない? 違和感ありすぎだと思って。じゃなきゃ、サッコ・ディ・ローマ、あの『ローマの劫略』みたいっていうか……フランス語読んでていきなりイタリア語が大文字で挿入されちゃうっていうのかなあ……私のいってる変な感じ、ちゃんと伝わってる?」
深町、顔をあげて二人を見て。
「ミズキさんならこういうこと、かっこよく、わかりやすい言葉で言えちゃうような気がする」
「そんなことないよ。立派な文学者じゃあるまいし言えるわけない」
「そうなの?」
「そうだよ」
「アサクラ君は?」
「オレはぜったいに無理!」
「うそ。だって、オススメ盤のポップの文章かいてるって言ったじゃない?」
「や、あれはムリヤリっていうか……テキトウ、じゃないけど、ええと、うう」
呻く浅倉を横目に。
「ミズキさんみたいなひとならそういうの、わかるように言ってもらえると思ったんだけどなあ」
「ひとに甘えないで、自分で考えれば?」
「うわ、ツメタイ」
「冷たいんじゃなくて、僕にはそれがわからないから。そういうのはちゃんと自分で考えたほうがきっといいよ。それから、深町さんは絵をかいて、できればそれで食べていけるようになったほうがいいと、僕は思う」
「……どうして」
「どうしてっていわれると、そのほうがいいと思うからとしか言えない」
「そんなかんたんに言わないでよ。ミズキさんは若いうちに自分のやりたいことを見つけてまっすぐにそこに向かって成功したけど、たいていのひとはそうはできないってことは、私もアサクラ君と同意見なの」
「……」
ところで、作者はいつも「……」に悩まされる。このテンテンこそ読者様の想像力、その限界値のありようを白日のもとに曝しているシロモノだ。ためしに、このテンテンに変わる「文章」をここでぜひとも、書いていただきたい。
え、ムリをいうな? 言えないからテンテンなんだろうという方は、ものすごく素直で正しい。ええとたぶん、などと浅倉の内面の心理描写を設問にこたえるがごとく考えてしまった方は今すぐ、小説を書いたほうがいいと思う。きっと。
テンテンはキャラクターの内面を書くことを怠っている? 書かないことで、読者の想像力を刺激してキャラクターに奥行きをもたせている? または彼らのいる場所の背景を書かず、曲を描写せず、設定を説明しないことは、作者がサボっている? はてさて。
ここで唐突に、作者のささやかな「娯楽」を紹介する。電車のなかでそこにいるひとの来し方行方、その人生を勝手に物語ることだ。
作者は深町姫香を、三十を境に春日部の実家を出て、今はTXと日比谷線に乗って流山から茅場町に通う似非コンサバOLとしてかこうと思った。制服があるからといいかげんなカッコをして通勤していた作者とちがい、きちんとしたスーツを着てオシャレでかつA4書類の入るバッグをもち、携帯電話やスマートフォンを弄るのでなく革カバーした文庫本を読む、背筋の伸びた美しい女性たちを日比谷線でよく見ていたからだ。
そして、見ているだけなら彼女たちは「キャラクター」と同じで奥行きもなにもない存在だ。ストーカーすれば着ている物も読んでいる物も勤め先だって判るけれど、ソレを知ったとして、作者が地下鉄に揺られながらこの「お姉さん」はどんなひとなんだろうとお頭の弱さ丸出しで想像する以上のことではないとも、思う。はたして、その想像と彼女の生い立ちが事実としてあたっているかどうかなど、まったく誰にも何にも意味のないことのように――そう考えてから、作者は紙の上にひとりの「人間」を立ち上らせようと躍起になることはもうやめようと思ったりした。
しょせん、小説などというものは実人生を学ぶ実践書でも、ましてやその手助けになる教養書でもないのだろうから。というか、そう思っているひとってどれくらいいるんだろう。読むひとは、書くひとは、どのくらいの割合でどう考えているんだろう。
でもじゃあ、小説はその他あまたある「娯楽」のひとつ、なのだろうか。時間潰しか余暇か。そうであるともいえるし、そうじゃないことがあっていいはずだと思う。そうしてなにを期待して読みつづけるのかというと、自分でもわからない。
小説とはいったいなんなのかと問われれば今は、それは言葉でできた何ものかなのだとしか思えない。言葉の芸術ともいえるけど、芸術なんて言葉がとびだすとわけがわからなくなりそうで、こわいので措いておく。
とりあえず、小説に言葉や文字があることだけは間違いないと思う。本ならば表紙もあるし挿絵もあるかもしれない。いわゆるテキストだけが「小説」なのだろうか。
そのうち、「書物」という形態が失われれば、また何か変わるだろうか。ネットなどで発表されるものには異本ができそうだ。流布するうちに変化して、それは「物語」になっていくのかもしれない。
もしも、本が何に似ていますかときかれたら、わたしなら、「乗り物です」とこたえると思う。なんらかの移動手段、または装置のような存在で、乗りこなすのにそれなりの技量が必要なものもあるし、体調やそのときのコンディションに左右されることもある。
子供のころは本をひらくとと違う世界が広がっていて自分がそこに入りこんでいるのだとずっと思っていた。いっそ旅といってもいいかもしれない。
たとえ全世界の危機に立ち向かうヒーローとしてジェットコースターに乗ったようなハラハラドキドキの連続でも、きちんと決まりきったコースを回って一周し、始まりのときと同じ自分に戻ってくる本もある。そうじゃなくて、とくに波乱万丈なことは何もないのにその本を読んでしまったがために、もう二度と元の世界には戻れないのじゃないか、かつての自分はあの本の前にたったひとりで置き去りにされているのじゃないかと読み終えたあとに考えてしまう本もある。
そんなとき、そんなときこそがもっとも幸福だ。切なかったり怖かったり疑い深くなっていたり背後を振り返ったり泣いていたり苦しくなったりしているんだけど、だからこれをここで使うのは間違っているかもしれないけど「生きててよかった」っていう気がする。
またひとつ、告白をしておこう。
昔むかし、作者が生まれてはじめて「おはなし」を書いたときのことを。
何をかいたのか。
『夢』を書いたのだ。ただ、それだけ。
こんな夢をみたということをひたすら、その夢の時間を書きつける自分ごと、ぐるりと画用紙の裏に書きつらねた。
それだけ。それだけのこと。ほんとにそれだけ――
そろそろ、誰かにこの「小説(?)」の舵取りを任す時間だ。
さあ、次は誰になるだろう?
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