文月――ミズキの物語 一期は夢よ、ただ狂え 


 僕はひとがいうほど潔癖じゃない。その証拠に浅倉悟志と同居している。

 こういう言い方をすると浅倉がものすごく不潔な男のようだがそんなことはない。たぶん平均的な男よりずっと綺麗好きだ。すくなくとも僕の今まで付き合ってきた男よりはましだと思う。いきなりカミングアウトするのもなんだけど、僕はそういうひとでもあったりする。正確に言うとどちらでもあまり気にしない。いや、いくぶん若い女の子は面倒くさいのでゲイだと言うことにしている。そして浅倉は、女にだらしがない。

 さっき、大学の先輩を泊めたから、と端末(スマートフォン)にかけてきた。事務所の電話ではなく僕のプライヴェートナンバーだ。あと十五分もすれば顔を合わせるというのにそういう無駄なことをして、ごめんもすまないも前置きせず、泊めたから、ときた。

「女?」

 例のいがらっぽい声で、ミズキも気に入ってたあの絵をかいた人だよ、とこたえた。

「ふーん」

 だいぶ皮肉をこめて鼻をならした。浅倉がたじろぐのを期待したのにそのときにはもう、地下鉄に乗り込むところだったようで、じゃ、とだけいって切れてしまっていた。時計を見て僕も店を出る用意をした。

 あの絵というのは、あの絵だ。CDケースにさしこまれたケント紙。

 前の女が結婚するからと家を追い出された浅倉が築地に引っ越してきたとき、手持ちで運んできたCDケース。彼はまず、それをベッドヘッドにおいてから作業をはじめた。浅倉はビールやコーヒーについてくる景品のカップや目覚まし時計を平気で使う男で、日用品にまるでこだわらないところがあるのに(あれだけその手の販促グッズのCMが流れるのだから、世間では僕のようなタイプのほうが珍しいのだろうが)、そんな目立つことをされた日には忘れられない。

 いわゆるジャケ買いがあるようにCDのアートワークが重要な購買ポイントになるのは当然だ。ただし浅倉はいっそ潔いくらい純粋に「音作り」重視なタイプでそういうことをするのを意外に思ったものだが、その絵を見て納得した。

 なんというか、魅力的だった。フランスの片田舎にこんな少女がきっといるに違いないと思わせる、こちらを無理やり絵のなかに引きずり込むだけの力があった。絵の説明くらいばかばかしいものはないと承知でいうと、十三、四歳くらいの金髪の少女が頬杖をついている、その斜め四十五度のバストアップで、いま僕は不用意に金髪といってしまったけれど本当のところはわからない。鉛筆でかいただけの素朴な表現はデッサンというにはへたくそで、かといってマンガ絵とも言い切れず、なんとも中途半端な感じだった。彼女の着ているブラウスの刺繍があまりにも手が込んでいて、そのわりに編みこんだ髪の毛や、薄い、小さな形のいい耳のあたりを適当に雰囲気だけで描いてしまっているせいもあったかもしれない。

 難をあげれば幾らでもいえる。ただ、何の説明もアトリビュートなくフレンチ・ロリータらしく見えるという、その「らしさ」を表現できることくらい得難いものはないし、なによりもその驕慢な表情には魅かれるものがあった。醒めきった視線にどのくらい媚が含まれているのか彼女自身計りかねている様子で、いっそ挑発的だった。

思わず、浅倉ってロリコン? と言ってしまったくらいだ。彼はあの太い眉をしかめて憤然と否定した。よっぽど心外だったらしい。とはいえ、純粋に絵が好きで気に入っていただけではないことは見てとれた。

 もし他の絵があるなら見せて欲しいと思ったけれど訊けなかった。まして誰が描いたのかなんてとんでもない。僕はその一月前、浅倉にふられたばかりだった。なら家に転がりこむなよ、と言うのが普通かもしれない。でも僕は生まれてこのかたひとり暮らしをしたことがなかった。築地の家は広すぎた。それだけだ。

 その浅倉だけど今やっと到着して、なんだかやたらにテンションが高い。ご機嫌というのではなく文字通り緊張しきって神経を尖らせている。いつもやたら愛想がいいくせに今日に限ってバイト君の挨拶がわりの新譜情報をうんうんとだけうなずいて、首を傾げられていた。バカめが。友達を面白がらせる余裕くらい残しとかなきゃダメだろ。そう言ってやりたかったけれど、たぶんムリ。珍しく携帯電話を弄ったりして足が地についてない感じだ。慣れたイベントだと気を抜いているのが見え見えで、僕は気づかれないように吐息をついた。今日は実は恵比寿に出店目処のたっためでたい日のはずなのに、そのこと自体すっかり忘れているようだ。

 こんな彼は初めて見たし微笑ましいというより心配になる。仕事を一緒にやりはじめて、浅倉がまず緊張しないことに僕は驚いた。それこそ、インタビュー先で海外アーティストとそのプロデューサーが喧嘩、またはイタシテいるところに出くわそうと(それに近い場面は二度ほど、あった)、顔色も変えず飄々としている男だった。 僕が知る限り、今がもっとも平静から遠い感じだ。

 出会ったのは七年前、オフシーズンのイビサ島。僕はクラブDJとして働き、それ以外はそこのオーナーの愛人という自堕落な日々をすごしていた。浅倉は当時つきあっていた女との旅行で(たぶん、こいつも不倫だったと僕は見ている)、その店のフライヤーを拾ったせいらしい。すぐにも意気投合したと言いたいところだけど、そうはならなかった。お互い遠慮がちに話をしてアドレスだけ交換して別れた。僕はその頃ひたすらハウス、トランス、プログレをかけまくり――イビサのクラブは今でもそうだ――彼はあの調子でロック一辺倒だったので当たり前だ。

 ところで、僕がどうして日本を離れたのか説明しないとならないだろうか。

 二十歳で芸大の筝曲科をやめた。表向きはDJになるためだと言うことにしているけれど正直なところ、逃げ出したというのが正解だ。

 筝曲を始めたきっかけは祖母の会で見かけた男性師範に憧れたからだった。黒紋付に似合うきっちりと七三に分けた清潔な髪と襟足の白さに魅かれただけだ。国立劇場の楽屋裏で摺足のもたらす小気味いい衣擦れの音を聞き、汗で重く湿った絹の匂いをかいで、喉がしめつけられるような鬱陶しい興奮をおぼえた。象牙の爪の手触りと琴柱にぴんと張られた弦の不思議をそのひとの手から教わりたいと思った。

 実際は別の女の先生に習うことになったけれどピアノよりよほど面白かった。なにより母や姉と比べられないですんだのが幸いし、のびのびとそれを楽しんだ。僕は貴重な若い男の子でどこにいっても大事にされて、それで深く考えることもなく芸大に入学した。

 そして――たった六人しかいないそこに、独り、凄いやつがいた。いっしょに組まされた僕は萎縮して師匠の海外公演で弾いたことのある曲を、ただのおさらい会で失敗した。べつにそれくらいのことを気にする必要がないことは当時の自分だってわかっていた。けれど、彼女にくらべて自分がひどく劣っているという事実からだけは目を逸らせなかった。

 今ならわかるけれど、あの音に恋焦がれていた。

 見た目はなんていうことのないふつうの女の子で、でもとても変わっていた。なにしろよく道に迷った。姉のリサイタルに箏曲科の仲間をみんな誘い、僕は彼女に一時間も待ちぼうけを喰らった。それだけで死にそうな気持ちになり、息を切らして謝る彼女を見下ろして、もういいから中に入ろう、というのが精一杯だった。家まで迎えに行かなかったのは、一度そう言いかけたらすごく迷惑そうな顔をされたからだ。よく考えれば彼女は親戚の家に下宿していた。何度かそういうことがあった後、僕は彼女を無視するようになった。というより、目を合わせられなかった。

 それまで、自分の思惑通りに動かない人に会ったことがない。人間観察ができていたという話じゃなくて、ただただ勘がよかっただけのことだ。この手のことは女性の専売特許だと思われているけれど、そうでもない。

 たとえば、電話のベルが鳴れば相手がわかる。大学の休講は掲示板をみる前に気づく。どこか遠くの地震も飛行機が落ちるのも感じる。誰かと誰かが結婚することも生まれる子供の性別も予想は外れない。もちろん、よいことだけじゃなくて悪いことも同じだ。

 自分が特別な人間だと驕っているわけではないと、彼女に会うまでは思っていた。僕より姉のほうがよほど不幸せそうだったせいもある。それに、相手の言動を先回りして予測できたからといって世の中どうにもならない。せいぜい心構えができているくらいだと高をくくっていたのだけれど、次になんて言われるのかまったくわからないというのがあんなに心乱れるものだと僕は知らなかった。

 その頃にはなんで箏曲なんていうものをやっているのかわからなくなっていた。とたんに熱が醒めたように、練習しなくなった。あの音が出ないのなら、ああ弾けないのなら、もうやってもしょうがない――

 けっきょく僕は奏楽堂の定期演奏会で袴をつけて先輩や後輩と並んで弾くだけでは満足できなかった。まして師匠の新作にお呼びがかからないと失望した。本当に失望していたのはあちらだと気づくこともなかった。

 臆病者といわれても反論しない。祖母だけが僕の味方だった。応援してくれたわけじゃない。入学祝に新調してくれた象牙の爪を受け取って、男は弱虫だからしょうがない、と笑っただけだ。あの柳眉を寄せて吐息でもつかれた日には一生立ち直れなかったに違いない。

 僕は時差ぼけのまま昼夜逆転の生活に足を踏み入れた。NYから、パリやロンドンでなくベルリンに飛んでしまったのが僕の天邪鬼なところだったかもしれない。ベルリンの留学生たちのハウスパーティでまずひとを踊らせるコツを会得して食いつなぎ遊ぶ金を得た。

 あの頃、一番影響をうけたのは正真正銘英国貴族階級出身でチェンバロを弾く男だった。貴族の集まりでは女王陛下の隣に座る、ある老舗ブランドの当主(これじゃ名前を伏せた意味がないかもしれない)を遠縁にもつ彼が、ゲイスキャンダルの発覚する前に家を出てオランダ出身の建築家とクラブを造り、そのオープニングに誘われたのが事の始まりだった。文字通りの意味も含めて、彼らにとって僕は、ちょっとした「イロモノ」だったわけだ。

 次第に僕は自分のしていることが何なのか理解しはじめた。クラブDJというのは人を踊らすマジシャンだ。フレーズを操りビートを聞き分け二つの曲から新しい曲を作り出すのはただ人を「踊らす」ためだ。

 あらかじめ「ストーリー」を用意しておく。歌詞に敏感じゃないDJがいないように、ある流れのない唐突で浮ついたプレイは嫌いだ。けれど用意しておいた「ストーリー」通りにことが進まないのは勿論のこと、アクシデントはしょっちゅうだ。変幻自在こそが本質で前のDJがどんなプレイをしようとどんなお客がこようと、そこにいる人を楽しく踊らせることがお仕事だ。

 いつの間にか人の鼓動が聞こえるようになっていた。嘘じゃない。密閉型のヘッドフォンで、その音をたしかに聞いた。その魔法の手と耳で、人の心と身体を操ることができると本気で信じていた。  

 沸かす醒ます、揺らす飛ばす、動かす抑える、いかせるとどまらせる。ありとあらゆる緩急の要請にこたえ、少しずらして焦らしてもどし、とっかえしてはさらに引き、怒涛のように覆いかぶせて、一気にさらう――

 この世は夢だ、踊り狂え。本気でそう、思っていた。売り出し中の若いデザイナー達と組んでヨーロッパの地方都市をまわった。最新モデルの靴を履きゴシップ浸りでカクテルを煽り、パーティピープルらしい狂奔に巻き込み巻き込まれ、その波と渦の根源にいるのだと浮かれていた。

 日本に帰ってきてからは、出来たばかりのクラブの雇われDJから始めた。七夕イベントと銘打って、プロモーション来日していた若い女性アーティストを迎えていた。出だしはキャッチーに、彼女の曲とその元ネタでフロアを沸かせることに成功した。たいがい、日本のお客はウブだ。ひねった曲をかけるより、流行をつないでいったほうがウケル。ただノリのいい曲で踊りたい、アゲアゲをご希望のお客たちが群れていた。

 いつものように、そこから流れに乗せることはすぐできた。平たい肢体にキャミソールドレスをまとわせた女の子たち。そのエクステで作られた人形じみた巻き髪が揺れ、細い踵がリズムを刻んでいた。アルコールのせいか、重苦しいくらいマスカラを塗った睫のしたの瞳孔が開き、パールを乗せた鎖骨にうっすらと汗がにじんでいて爬虫類めいて見えた。狭い箱は僕の攪拌によって渦をまき、楽しげに身をくねらして熱狂の竜巻となった。

 ところが、僕の耳にはひとつだけ、なにか異質な音が聞こえていた。その不協和音の耳障りなことに苛立ち、さらに速度をあげて煽ることにした。あるべきところにあるべき音を。同じ速さで、同じ流れで、同じ……にならない。消えない不快な音の存在。それがあるために、この流れが滞り、最高潮を極められない。邪魔だ。ここから消えてしまえとそう願った。ひねりつぶすように、僕は、その音の出所をもうひとつの手で押し潰していた。すると、今までどくどくと脈打ち、鳴動していたそれがきゅうに停止した。

 その瞬間、フロアでひとが倒れた。周囲が割れて、黒服が走り、そしてなにかくったりとした力弱く細いものがすばやく運ばれていった。悲鳴は聞こえなかった。あたりまえだ。ヘッドフォンをしてたんだから。それでも、目は見えている。何が起こったのかはわかっていた。

 僕はでも、ターンテーブルを回しつづけた。冷静だった。ひどく、冷静だった。続けないといけなかった……指は押さえるべきところを押さえ、溝を見分け、掠っていた。

 運ばれていった人の顔は見えなかった。僕には何も見えなかったけれど、感じていた。耳に、指先に、強張った筋肉の感触とぬるい熱が残った。

 もう、他人の身体に触れないとその時に思った。

「だいじょうぶですか」

 その朝、裏通りの扉の横にしゃがんでいた僕の肩を叩いたのが、浅倉だった。彼は当時、そのアーティストの所属するレコード会社のアルバイトをしていた。病院も警察も、彼と上司、クラブのオーナーがきちんと対応していた。事故でも薬物等のヤバイ事件でもなく、生来の病気だということだった。僕は、花とお見舞いを送ってそれですませた。詳しいことは聞かなかった。

 浅倉は、僕が自分のプレイ中に人が倒れたことでショックを受けるくらい繊細な人物だと思っているようだった。それが事実であるかのようにも思えた。あれはただの錯覚で、たとえていうなら幻想のようなもので、僕は誰かの心臓を握り潰したわけじゃない。

 それ以来この二年、ターンテーブルに触れていない。適当な理由をつけてDJの仕事を断った。どうしてもというときは、CDで回した。急場、食いつなぐのに知り合いがもてあましていた中古のレコード屋を引き取った。おかしなことに、肉類を食べると吐き気がした。もともとそんなに好きじゃなかったのでかまわないけれど、実家の犬の頭が撫でられなくなったことには驚いた。

 柴犬の、毛足の短い直毛のすぐ下の熱に手をひっこめた。頭蓋骨を覆う皮膚の熱さにどきりとした。タロウはあの、ほとんど白目のない、濡れた焦茶色の大きな瞳で不思議そうに小首をかしげて僕を見あげていた。なにもなかったふりをしてリードをつけて外に出た。でもタロウは幾度もいくども首をまわして振り返った。先導されていたのは、僕のほうだった。

 それでも、一年前になにかと鷹揚でマイペースな浅倉と暮らすようになって、手を洗う癖はなくなっていた。

 一期は夢よ、ただ狂え。

 ずっと、それが真実だと思っていた。

 夢の中でひとを殺してもそれは罪じゃない。ほんとうに?

 知られなければ罪じゃない。

 ほんとうに?

 僕は、何かをこの世から消そうとした。ただそれが邪魔だというだけで、なくなってしまえばいいと思った。僕はそのとき、それが「命」だと知っていただろうか。夢であろうと現実であろうと、何かを排除しようとした僕の「傲慢」を誰が赦すだろうか―。

 こたえは出ない。こたえは、ない。

 僕の手のなかにあった熱い塊の震えと強張り、ぬめる筋肉の弾力とその拒絶の、圧倒的な快さを、知っている。

 支配と全能感の快楽を、僕はきっと……忘れない。

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