水無月――学生時代の物語  夢はいつも歌とともにやってくる 



「センパイ?」

 いつのまにかちょっと眠っていたらしい。そっと揺り起こされて柱時計を見ると、十時をすこし回ったところだった。十五分くらい、気を失ってたのか。うわ、恥ずかしい。

「ご、ごめん。寝ちゃった。この後、仕事なんだよね。間に合う?」

「だいじょうぶですか」

 心配そうな顔で見おろされて、なぜだか気分がささくれだった。

「アサクラ君こそ時間、平気?」

「オレは平気です。ミズキが店にいるし。それより、顔色悪いですよ」

「昨日、夜明かししただけ。年取ると、オールはツライんだな」

 自分でいって、落ち込みそうな台詞だった。さっきおトイレの鏡で見たら目の下が青かった。皮膚が薄いせいか血行が悪いせいか寝不足は覿面だ。肌だけは自慢だったはずなのに、マスカラを洗い落とし忘れたかのようにしつこく居座られると気落ちする。

「オレんち、すぐそこだから寝てきますか?」

 アサクラ君はちょっとどぎまぎしたような顔で早口に言い切った。

「オレもミズキも朝まで戻ってきませんから。明日土曜日だし、ゆっくりしてってください」

 口を開きかけると、髪をふりみだして先を続けた。

「知ってます、知ってますっ。オレたちもう、みんなして闇鍋したり雑魚寝して寝ゲロしたりする学生じゃないってことくらい」

「そこまではいってないけど……」

 あの当時、学園祭実行委員は「一人暮らしやみなべ襲撃隊」または「なんでも焼き隊」というのを大真面目にやっていて、その日突然、実行委員の中から犠牲者が選ばれ、待ったなしでいきなり大挙しておしかけるのだ。施設管理のガスコンロと鍋、または鉄板を荷台にのせ、食材とお酒を手分けして買い漁り、思う存分食べて飲んでベッドひとつしかないワンルームに六、七人でゴロ寝する。

 今思うと犯罪のようだけど、当時はそれで異様にもりあがったのだ。とくに実行委員結成一月後の六月には三日おきくらい頻繁に、梅雨空をぶっとばす勢いで体育会とサークル系同好会の実行委員たちも巻き込み、好き放題暴れまわっていた。

 アサクラ君は買出し係としてこれ以上ないくらい優秀で、まるで主婦のように折り込みチラシを比較検討し肉はどこで野菜はどこと指令を出し、割引券は必ずもらって使い切り、溜めた特典でワイングラスやマグカップ、貯金箱など一見、要らなさそうなものを確実に手に入れて、意外なことにどれもこれも施設管理室や自分の家でちゃんと立派に活用していた。

 それにしてもあの頃の無茶を思うと怪我人も出ず事故もなく、よくぞみな無事だったと感心する。居酒屋のトイレに足を突っ込む、階段から飛び降りる、ベランダに攀じ登る、ピンポンダッシュする、道のど真ん中で寝る――いやはや凄いモノを見たことがたくさんある。正直をいうと、それが心配で自宅組の私は最後まで根気よくつきあっていたのだ。身内から急性アルコール中毒や不祥事で救急車や警察を呼ぶような真似だけはしたくないじゃないか。あれを思うと、酔って絡んでねちねち説教を垂れるおやぢ(ここは是非とも「ち」に点々でお願いしたい)や、手を握って離さない御取引先様くらい、笑顔でビールを注いでさしあげる。

 とはいえ無様なのは今の私だ。アサクラ君はじっと、息を詰めるような様子でこちらを見下ろしている。学生時代には気をはって飲んでたので泥酔して倒れるなんてしたことがなかった。おかげで社会人になってからも失敗したことはない。だいたいホントは酔っ払いが嫌い。相手は飲み物だよ、呑まれてどうする。酔ってふらふらするなんていうのは、演技以外でする女は緩すぎる。

「センパイひとりで帰すの心配で……それとミズキなら、時任さんのことも知ってると思うんで」

 心配されたくない、という言葉はどうにか理性でしまいこんだ。お店で寝るヤツが言えた台詞じゃないし相手に対して失礼すぎる。自分の不甲斐なさにイラついてあたり散らしそうな予感に身震いし、意味もなく時計を見あげた。獏とふたりでいるとき、私は時計を見たりしなかった。いっしょにいるときに時計を見られることくらい嫌なことはない。これで二度、アサクラ君に見られてしまったわけだ。いや、もっとたくさんかもしれない。

「センパイ?」

 アサクラ君の家なら、居心地がいいだろう。来須ちゃんや龍村くんと一緒によく泊まりにいっていた。適度にきれいで適度にきたないという絶妙なバランスで、玄関に靴は脱ぎっぱなしなんだけどトイレとお風呂とキッチンが綺麗なのだ。彼の作るチャーハンがまた美味しいんだな。卵がご飯をくるむように混ざってて。あれ、どうやっても会得できない。ああ、違う。そんなことじゃなくって。

 頭をふって壷の入った紙袋を見た。けっきょくこれに関しては獏と話をしないかぎりこたえはでない。携帯電話は、現在使われておりませんときた。さらにメールも届かない。宛先不明で戻ってこられるとなんだか不安になる。となると、ミズキさんに会う必要がある。

「とりあえず、出ますかね」

 アサクラ君はそういって、こちらがぐずぐず迷っている間に相変わらずのフットワークの軽さで机のうえを片付けて戸締りをして小さな紙袋を手にした。

 無地の、味も素っ気もない茶色の袋に、かたくて指ほどの厚さの四角い縦長のものの入っている気配。ああ、きっと本、だ。

 しかも文庫本。

「それ、なに?」

 お行儀が悪いのは承知で、きいた。

「あ、本です。店主から、ミズキ宛であずかってるんで」

 あたり、だ。

 彼はセロテープをはって内側に折りこんであったメモ紙を見せた。右肩上がりの几帳面な文字。サインペンで、ミズキさんへ、と書いてある。間違いない。獏の文字だった。

「時任さん、ここにきてるの?」

「夜か朝か、たまに来てるみたいなんすよ」

 じゃあ、ここで待ってると会えるんじゃない? そう思った私の頭を見透かすように。

「ここに泊まったりできませんよ」

 彼が早口にいった。風邪ひいちゃいますよ、と。ばれなきゃわからないとも暖房あるじゃないとも言い返そうとすればできたけど、やめた。アサクラ君は早く家に帰らないとならないんだった。

 手をとられなかったのが不思議なくらいの勢いで、彼のあとについて階段をおりた。上から見下ろすと、本のタイトルが見えた。ああ、やっぱり。獏は気に入ってくれたんだ。嬉しいと思ったと同時に、その本に隠れた小さな壷をみとめて足がとまる。

「センパイ?」

 すぐにも異変に気づいてアサクラ君がふりかえる。

「なんでもない」

 目が、紙袋を追いそうになって横をむく。そして、ごまかすように伝えた。

「胃が痛い」

「だいじょぶですか?」

 階段を登ってこられそうになって、あわてて首をふる。

 あ、と彼はそこで声をあげた。

「すみません。ちょっとここで待ってて。看板しまうの忘れました」

「袋、もってよっか?」

 こくこくとうなずいて、手渡される。なんだ、今、見れたじゃん。バカだなあ、私。

 アサクラ君はブーツの靴底を鳴らして階段をおりていき、すぐさま二つ折りの看板を脇に抱えて左手に重石のブロックをつかみ、一段飛ばしでのぼっていった。あいかわらず身が軽いなあ。感心するそばから、頭のすみでは紙袋の中身が気になっていた。うっとおしい執着に唇をかんで立ち尽くす。

「いきますよ?」

 アサクラ君は息を乱しもせず横に立った。紙袋を返し、うなずいた。顔色をうかがおうとする彼に背をむけるように先をいく。

昔から、さりげなくそばに立たれた。私は鈍感な女じゃない。いや、鈍感な女はこの世にいない。すくなくとも私は会ったことがない。

 あの当時、彼が、自分に気があることは知っていた。でも、晃と付き合っていることはみんな知っていると思っていたのだ。だって、別に隠れてつきあってたわけじゃないから一緒にランチもしたし送ってもらってた。よっぽどタイミングが悪かったのか、または晃が他の女の子といすぎたからか、よくわからない。でも、知らないひとがいるなんて思わなかった。だから絶対、告白されるはずはないと高をくくっていた。されるとしても、うかがうように訊かれるんだろうと思ってた。

 変な話、自分が「彼氏」っていう免罪符をもっていると勘違いしていたのだ。しち面倒くさく遺恨を引き摺りそうな恋愛のゴタゴタをスルーしたいばっかりにお布施を払って安穏としていた。考えてもみてほしい。結婚制度の利点のひとつは、とりあえず伴侶は自分のもので自分も相手のものだから手出しはご無用願いますって言っとくようなものじゃない? 私は学生生活を大いにエンジョイしたくて、そのゴタゴタから免れるために早々に、手近で、しかもとても有効なお札を、キョンシーのように額にはって歩いたつもりだったのだ。なにせ学内一のハンサムだ。霊験あらたかに違いない。

 その思い込みのせいで、アノ瞬間、無茶苦茶びっくりした。さらには、自分のしていたことの罪深さに愕然とした。相手が勘違いしてもおかしくないことをしまくってたから。そのくせ私は申し訳ないと思わずに、あのとき実は自分のことだけ考えていたのだ。この先、気まずいことになるんじゃないかと、そのことばかり気に病んだ。打ち上げで変な雰囲気になったらどうしよう、来須ちゃんや龍村くんは知ってるの、でも実行委員は解散するんだから今までみたいに頻繁に会うことはない……。情けないことに、自分が傷つかないように、そればっかり考えてた。

 あのあと、黙りこんだ私に、アサクラ君はなんていったんだっけ。今の、忘れてくださいだったかな。気にしないでだったかしら。わかりました、だった? ああ、私ってばほんとに忘れてるよ。私、ちゃんと、ごめんなさいとか言ったかしら? もしかして、すごくむっとして沈黙してただけかもしれない。ひどい。

 だめじゃん。また、同じことをしているのかもしれない。アサクラ君は絶対に、私の嫌がることはしないと信じている。

 でも、どうして、自分の予想と違うことをされただけで、裏切られたとか思ってしまうんだろう。期待をかけたのはこちらの勝手で、私は面と向かって相手にお願いしたわけじゃない。ヒトリヨガリ、ここに極まれり。

 獏のこともそうだ。

 私は自分で、自分を、獏にとって特別なひとに違いないと思ってきた。それがどうだ。獏はあの口で、ミズキさんにも同じことをいったのかもしれない。さっきは気に入ったのだと喜んだけど、私のいちばんのお勧め本を他のひとにも話すなんてって妙な悋気にとらわれた。おかしい。本は誰のものでもない。お勧めして気に入ってくれるひとがいるのなら、そのほうが絶対にいいはずだ。

 なのに何故、腹が立つんだろう。

 胃の底が焼けて、苦しい。飲みすぎか。睡眠不足か。その両方だ。もう、いい。忘れよう。忘れたいことばかり覚えてる。

 アサクラ君のうかがうような視線がうっとおしい。ああもう、かといって見ないで、というのもおかしいだろう。ううん。

「ちょっと、ここで待っててください」

 外に出る前に、彼がいった。離れたところに自転車を停めているらしい。

 顔をあげると、目の前の歩道に柳が立っていた。すごく気になるんだけどその根元にゴミ袋が三つ、投げてある。ここは柳通りというらしい。中央区の木だってこないだ獏が教えてくれたけど、でもそれ、なんかとってつけてないかなあ。しかもいつも思うけど、ビルの間に立つせいかここのはとても貧相だ。あんまり痩せて細くて背も低くて枝も短くて、ないほうがよっぽどスッキリするんじゃないかと思うほど頼りない。おまけに、わざわざ支えの木の棒を立てて括りつけられていた。びょうびょうと吹く風に枝が面白いように煽られて揺れていて、申し訳程度には常緑樹なのだという自己主張をして葉が青く、それが翻るたびに電灯の明かりに黄緑色に変わる。なるほど、数歩進んで真下に立つとそれなりだ。大きな一尺球の花火、あの枝垂れ柳を見たくなる。今は二月か。二八の言葉どおりに今月は暇でよかった。こんな体調で忙しかったらマジでやばいよ。

 お待たせ、という声に顔をむける。おお。

「ママチャリ~」

 タクシーでもいいけど、センパイあの匂いダメでしょうが、と彼は私の鞄を籠に入れた。ほんとうに何の変哲もないママチャリで、しかもなんだか古臭く見えるのは子供のころに母が乗っていた形とよく似てるせいだ。ギアも何もないし、後ろの荷台には黒々としたゴムの綱が巻いてある。コート、ベージュだし、この上におしりを乗せるのはちょっとなあ、と思ったけどしょうがない。横長の深い籠だけはやたらぴかぴかの銀色で、妙に三角形を意識させるサドルの革の部分が一部、はげている。

「あいかわらず鞄、重いすね。何、入ってるんですか」

「本と雑誌と、お絵かき帳」

 彼はそのおんぼろサドルに手をおいて振り返り、意外そうに眉をひらいた。

「絵、今もかいてるんですか」

「うん。お友達の誕生日にあげたりすると喜ばれるからね」

 イラストは趣味でかいている。昼間、お弁当を食べてから雑誌やCDを見て、ロックスターやアイドルを色鉛筆やパステルなんかでかきおろすだけのこと。興がのると家で水彩を塗ったりする。お洋服や靴は完全オリジナル。マドンナとかビヨンセとかリアーナとか、けっこう可愛くかけるんだ。

「ふたり乗りって交通法違反じゃない?」

「ミズキと二人でまだつかまったことないから大丈夫です」

 君達は男同士でママチャリ二人乗りしてるのか、とつっこみたかったけれどやめた。これって飲酒運転だったかなあ。まあ、ひとを轢き殺すことはないだろう。でも、よい子は真似しちゃいけません。悪い子も、です。

「はい、つかまって。行きますよ」

 掴まってというのはアサクラ君にだと思ったけど、それはさすがにできかねる。

 しょうがなくて、つま先を車輪の真ん中に軽くのせ、腹筋に力をこめて荷台の両端を握りしめた。ああ、手袋してくればよかった。すごく冷たいし、指がかじかむ。自転車より遅れてふわりと身体が後ろに傾ぐのは慣性の法則だっけか。一漕ぎ一漕ぎに力が入るのがわかったのは一瞬で、横乗りのコツを思い出すころにはスピードに乗っていた。

 アサクラ君はひくい声で、ほとんど聞こえないくらいの掠れ声でうたいはじめた。

学園祭を終えてあとも、私たちはみんな仲がよかった。大学から彼の家まで、自転車を三台連ねてよく走った。アサクラ君は実行委員だからその後はお役御免なのだけど、あんなことがあったせいか余計、四人の結合にひびが入るのは許さないっていう感じで、仲良くならないといけないように思っていたのかもしれない。

 あとで来須ちゃんが白状したのだが、龍村くんといっしょに陰でひっそり事態を見守っていたらしい。あのふたりのことだから充分に愉しんだだろうけど、友情に懸けてそれは追求しないでおいた。

 その冬はよく、四人で朝まで飲んで遊んだ。

 先頭の来須ちゃんは真っ赤な自転車を立ち漕ぎしながら尾崎豊の「I LOVE YOU」を思ったよりずっと高い、内容にそぐわない朗らかなソプラノで歌う。真ん中の龍村くんはゆっくりと電動自転車を走らせCDプレーヤーで「ゴールドベルク変奏曲」を鼻歌まじりに聞いていて、ときどき両手をはなしてグレン・グールドのモノ真似をするんだけどそれがもう、横から見てるとほんとにそっくりで。それを見てけらけら笑う私を乗せたアサクラ君は浪々と、ニルヴァーナの曲を次々と癖のある割れた声でうなっていた。

 今は、グリーン・デイの「ウエィクミーアップ」だった。寝るなというのだろうか。さすがにもう、モトリー・クルーの「ホーム・スイート・ホーム」ではなかったことが軽くショックだった。八十年代コンピアルバムとかついつい買ってしまうっていうのはもう年寄りのせいかしら。そんなことをいうと上司に叱られそう。

年といえばさっき、ビースティボーイズの名前が出たあと、なんでボーイズっていう名前をバンドはつけるんだろうねって話をして、「とりあえず年取るまで続くとは思わなかった説」と「いつまでも男は永遠に少年だ説」(これはアルバムに書いてあったかな。忘れた)をふたりして提出して、まあけっきょくは昔からこういうくだらないことを延々、パイプ椅子運んだり机を畳んだりしながら話したねえって結論も出さずに終わった。

 当時は龍村くんなんか、よっくそういうどうでもいいことに興味持つよね、と呆れてたけど、そのわりに彼のいうことがいつもいちばん理に適っていて「おお~さすが~」とかって私たちに手を叩いて褒められても調子に乗ることも満更でもなさそうな顔もせず、例のクールな調子でハイ、ちゃんと手え動かして、などと言ってすぐ局長の私のお株を奪うのだった。

「コンビニあったら止めてくれる?」

「どこでもいいっすか?」

「うん。贅沢いわない」

「わっかりました」

 昔から彼はそうだけど、姉持ちの男の子は察しもお行儀もいいから助かる。よくお姉さんに躾けられているのだと思う。女同士のなかにポツンと入っても彼らはあんまり浮かないものね。

 昭和通に出て空を見上げると、何も見えなかった。午前中ふっていた雨はあがってそれだけはよかったけど、寒い。

 アサクラ君の歌はまだ続いていて、今度はエアロスミスの「エンジェル」だった。ほんと、私の好きな曲をセレクトするよなあ。たんじゅんに、好みが似てるんだろうけど。苦笑のかわりにあくびがもれて、手を離すとバランスを崩しそうで、うつむいてやりすごす。彼が、バンドを続けていると言わなかったことにとうに気がついてたけど、それをきかなかった。

 カラオケ以外の場所で、ひとが歌をうたうのをひさしぶりに聞いた気がした。あの頃はなんにもなくても、施設管理局室で、役員本部室で、またはアサクラ君の家で、どこでも誰かが何かを歌っていた。「スタンド・バイ・ミー」だったり「六甲おろし」だったり、笑えるくらいジャンルはばらばらなんだけど、それでも、夢に落ちる瞬間に誰かの歌声が聞こえるのはいいものだ。

 夢はいつも歌とともにやってくる。

 そう書いてあった本が宝物になったころのことだった。わたしは文字通り、歌とともに夢がやってくることの幸福を知った。


 その家は築地警察署からそんなに離れていないビルの谷間に、ひっそりとあった。梅の匂いに顔をあげると、塀からのぞいた紅梅の枝先が見えた。ちゃんとしたお庭があるらしい。梅はこの雨でだいぶ散りかけているけれど、まだまだ満開といってよかった。夜の紅梅は花の兄とかいう高雅なイメージを裏切って、なんだか妖しいくらいよく香る。闇に花びらの色が沈むせいか、白梅と違って知らない土地を歩くと不用意にドキリとさせられる。散る寸前の桜の、樹木っぽいナマの匂いを嗅がされたときの戸惑いに似ている。

 子供のころ、ひとの声や音や匂いに色や形があるように思っていた。手で触れないのが不思議だった。どうやらそれは、大きくなるにつれていつのまにか是正されていったようだ。知覚融合、共感覚という言葉を覚えたのはずっとあとで、新古今など開いて定家の歌を読むにつけ、あ、こういう感じ、とひとりでこっそり嬉しかった。それからだいぶたって、世の中にはそういう子供がたくさんいると知って今度は不安になった。自分が見ているものはほんとにひとと同じではないと気づいて、二十歳になっていたのにこわくなった。あたりまえだけど、ひとの感覚の違いにあらためて空恐ろしくなった。

 まあそれも、例によって誰にも聞かずに忘れていた。だって、たぶん、いやきっと、ひとって絶対に同じものは見えてない。たとえ同じ絵を前にしていても、同じようには見ていない。いってしまえば当たり前なことだけど、ひどく理不尽で寂しくて、それでいて妙に嬉しい気持ちもあった。死ぬのが怖いと思いながら、じゃあ死ななければそれでいいのかというとそうでもなく、考えれば考えるほどわからなくなって泣きつかれて眠るような気持ちをじわじわと思い出してあたためた。あたためられる程度には、もうこわくなくなっていたらしい。

 自転車からおりて周りぐるりと見た。車がすれ違うのがやっとの細い道路のお向かいには、ずんとそっくり返るような真新しい十階建てのマンションがある。裏手も左隣も法律事務所とカイロプラティックとか水質検査会社とか、よくわからない横文字のロゴの入った看板の出た四階と三階の雑居ビル。そのせいですっかり日当たりが悪くなってしまったようだけど、横の駐車場スペースのせいで辛うじて二階の軒先にお布団くらいは干せそうな感じだった。

 土壁風に化粧張りされたコンクリートの塀の内側に山茶花の垣根があって、塀はあとから造られたものなんだろうと思われた。目を落とすと、つわぶきの狂い咲きの黄色い花が点々と並んでいた。その形のよく丸い、濡れてさらに光って見える照りのある麩入りの葉のうえには白梅の花びらが散っていた。外からは見えなかった、男性用の傘くらいの大きさの枝垂れ梅だ。下ばえに七色に光る貝の裏や木賊を目にすると、なんとなく気持ちが浮き立つ。

 荷物整理中で散らかっててすみません、と案内された部屋は一階のとっつきの八畳だった。内側から鍵かかりますから、とアサクラ君はいった。鍵っていうか、まあ、鍵だろう。昔のおうちって、こういう捻るだけの鍵だったね。たしかに。

 スイッチが壁になくて、アサクラ君はすたすたと歩いていって近頃めったに見ない和風の笠付き電灯の線をひっぱった。押入れと箪笥二棹、その横に小ぶりなダンボール箱が三つ重なっている。閉じて布のかかったままの三面鏡、やはり袋に入ったままのお琴二面、蓋の開いたダンボールには束になって結ばれた長唄の教本の山が幾つも入っていた。太棹だろうか、三味線がはいった箱がひとつ。畳床だ。へえ。庭の様子といい、これはきっと炉が切ってあるはずだ。そう思うせいか、かすかに炭とお香の匂いがするような気がした。

「ミズキのお祖母さんの家です」

 押入れを開けると豪華な客用布団が二組。なんとなく気恥ずかしくて、自分でするから、と彼を追い出した。どうやらよくひとが泊まる家らしく、アディダスのロゴのついたパジャマ代わりの黒いスエットの上下、バスタオルや枕カバー、石鹸はもちろん爪切りまで入ったシャンプーリンスや歯磨きセットなんかのアメニティグッズまで添えられて、高級旅館にあるような立派な塗りの乱れ箱に用意されていた。ロイヤルパークホテルのグッズだ。特徴的な深緑を見つめていると、後ろから声がかかる。

「風呂の使い方わかります?」

「だいじょぶ。こういうお家ってどこも似たようなものだと思うから」

「そういうもんですか?」

 そうだよ、とこたえる。ここは客間で、隣の部屋や居間に置かれてたものがこっちに運び込まれてるのだろう。床の間に「無事是貴人」と書かれた御軸はかけっぱなしのようだけど、白玉椿が備前の花器に入れられて敷き板にしつらえてあった。こういう仕事は、若いひとのすることじゃない。掃き清められた玄関にも桃と菜の花があったしお手伝いさんが入るのかと問うと、お祖母さんの元弟子さんが週にいっぺん来てくれるのだという。

「勝手に知らないひと連れてきて、ミズキさんの気に障るんじゃない?」

「や、それはないでしょ」

「そうかな。なんだか潔癖な感じだけど?」

 そうっすね、と彼はそこにはうなずいた。

 予想が外れていなさそうな気がしてちょっと後悔した。偏見かもしれないけど、芸術家気質のひと特有の癇性を思う。そういえば、玄関には波みたいに見える青と白の油絵が額もなくキャンバスでそのままかかっていた。

「ミズキの家、みんな音楽関係なんですよ」

 聞けば、お姉さんがヴァイオリニストでお母さんがピアニスト、お父さんが音大の教授だという。そりゃあもうサラブレッドだわ。いるんだよね、そういうひと。それでお祖母さんは長唄とお茶の先生かしら? そう尋ねたらあたっていた。これはきっといいお道具があるに違いない。 

 アサクラ君は妙にぐずぐずして聞いてもいないことを話し、あれこれ声をかけてきた。早く仕事に行きなさいと言ってあげるべきだろうか。私は逃げないよ。ここまで来たんだから朝まで寝てる。

「センパイ、あの」

 眉間にしわをよせた切羽詰った顔をして見下ろされたので、柱時計を指さしてあげた。「もう十一時になっちゃうよ?」

あ、と声をあげ、腕時計を見た。同じだってば、合ってるならね。彼は急いで階段をかけあがっていった。私はその間に布団をしいた。家で洗ってる風なのにシーツもラヴェンダーの、すごくいい匂いがする。

「ええと、じゃあ、おやすみなさい」

 後ろから声がかかったので振り返ると、スーツを着たカッコで立っていた。極細のピンストライプに赤のシャツが効いている。

「ジャック・ホワイトみたいじゃない?」

「あんなにオシャレじゃないっすよ」

 と口ではいったけど、内心すごく喜んでいるのがわかる。ザ・ホワイト・ストライプスの、あの赤と白と黒のアートワークが大好き。

「おやすみ。気をつけてね」

「は、はい。いってきます」

 手をふると、律儀に手をふりかえす。とても嬉しげにアサクラ君は出て行った。扉が閉まり、まずいことしたかなあって思っても、もう遅い。頬を掻いて、私はそっと息をつく。彼がさっき玄関の横に無造作においた紙袋を、とりあげようとして足を踏み出しそうになるのが恐ろしい。

 あの中の壷と、私の持っている壷は同じものだろうか。考えると、眠気が消えた。怖い。誰にでも魔がさす瞬間というのがあるかもしれない。それが今だという気がする。

 やばい。

 夢が救いであり、唯一の報酬であることを私は知っている。ある本によれば、だけど。

 私は夢を見ることが得意なほうだ。眠りが浅く、一晩のうちに幾つも幾つも夢を見る。

 そして、好きな夢が見たいと願うことがどれほど自制心のない、はしたないことかと想像できる。それは己を律することの対極にあって、夢という、うつろで実のない、はかないものだからこそ、厄介だ。夢を買うなんてことだけは、したくない。

 獏は、そういう私を笑った。ある種の感受性をもったひとは必ず、獏の夢を買うそうだ。けれど私は、夢を購うことだけはしたくなかった。そんなことをしたら自分の魂が穢れる気がした。さすがにそこまで気恥ずかしい台詞は吐かなかったけれど(いちおう、自尊心というものがあるのだ)、気持ちの上では本音だった。

 でも、アサクラ君にくっついてここに来たのは、あの袋の中身を確かめたかったからだ。もう、あんな夢を見るのはいやだ。

 腰をかがめて紙袋を持ち上げるのを他人事のように感じた。こめかみのあたりがぼうっと痺れたまま、左手のうえに小さな袋の底を載せた。カサリ、と乾いた音。まちの薄い、縦長の紙袋の口にへばりついたメモ紙のセロテープ。そのぺたっとした感触を指の腹に感じたところで、コートのポケットに投げ込んでいた携帯電話の振動が太ももに伝わる。

 あわてて右手をポケットに入れた。バランスを崩した紙袋が揺れて落ちそうになり、私はいったんつかんだ電話をはなし、紙袋を元の位置に置いてからモニターを見た。見慣れない番号だけど、誰かはすぐわかった。

『すみません、アサクラです。あの、もう寝てました?』

 ううん、と首をふる。歩きながら電話をかけてくるひとの声だ。背後で走る車の音が聞こえた。

『さっき説明しなかったけど一応、風呂のガスなんですけど台所の湯沸しと連動してて』

「わかった」

 耳に電話をおしあてたまま暗い廊下を歩いて台所の扉をあけた。私が聴き返しもしないで電気もつけず、目的地にたどり着いたことに驚いている気配が伝わってきた。お勝手の小窓からうっすらと外の明かりがさしこむだけの室内だけど、湯沸し器の操作くらいはできそうだ。息遣いが、耳もとに感じられた。それ以上説明する必要がないことを彼は知っている。私も黙ったまま、ガスの元栓を開き、スイッチを押し回しして種火をつけた。湯沸かし器のたてる点火の音がうるさいくらいの沈黙だった。それから手を離さず待つこと十五秒、無事、湯沸かし器の扇形の窓から青い炎が見えた。

「ついたから、大丈夫だよ」

 安心させるようにいうと、はい、と声が聞こえてきた。じゃあお休み、と切ろうとすると、何か言い出しそうな気詰まりな、あ、というはっきりしない声がした。無視するわけにもいかず、なに、と聞き返す。自分でも思ってもみないほど硬い、尖った声が喉からとび出してきてびっくりした。むこうも同じだったらしく、

『あ、なんでもないです。じゃあ、お休みなさい。ゆっくり、眠ってください』と、やけに緊張した生真面目な声がこたえた。

 先に、彼のほうが切った。

 私は携帯電話を閉じて、もう一度ひらき、着信履歴を呼び出していったん片仮名でアサクラサトシと入力してから、考え直して『浅倉悟志』と登録した。

 妙に、疲れていた。それでいてほっとした。

 夢も見ないで眠れそうな予感がした。たぶん、私は何かをやりすごすことができたのだ。 


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