皐月――深町姫香の物語 夢もなく、怖れもなく



 酒井晃と付き合いはじめたのは、大学三年生のGW明けのことだった。

 彼のことは文化会の部長会議で紹介される前から知っていた。なにしろ学内一のハンサムに選ばれるくらいだから当然だと友達はいったけど、私からいわせればそれは違う。お互い構内に部室がある文化会に所属する人間なら、昼休みや放課後、空き時間はどこかですれ違う。そのなかで、誰かが誰かを見分けるには何か理由があるはずだ。好みというわかりやすい指標とは別のひっかかりがある。どっちかっていうと、気に障るという感覚にちかいかもしれない。

 昼休みに彼がよく、メインストリートを見下ろす文化棟の二階テラスで煙草をふかしていたのを思い出す。たいていのひとたちは丸テーブルを囲む椅子に座ってランチを食べたり、または缶コーヒーを片手に柵に寄りかかって外を見ていたりするものなのに、晃は三台ならんだ自販機の横の壁に背をついて、ジーンズの裾を切ったことがないと自慢するその長い足をちょっと組むようにして、階段をあがってくるひとを黙って見つめていた。

 見定められていると意識させない程度にぎりぎりの節度をもった視線は、誰かに見つめ返されることをしっかりと拒絶していて、振り返ってやろうかと、何度思ったかしれない。

 その彼に、会議室を出ようとしたところで横から声をかけられた。

「去年の学園祭で亭主したよね?」

 亭主という言葉が、二十歳そこそこの男の子の口からすらっと出ることが驚きだった。私は足をとめて、相手の顔をまじまじと見つめた。てっきり目を合わせるのを嫌うかと思ったのに、よけられなかった。先に視線をはずしたのが自分だと気づいたとき、舌打ちしたい気分にさせられた。彼は扉を左手でおさえてくれていて、私はそれを確認してしまったのだ。正直、行く手を遮られる思いだったけど、ありがた迷惑だという顔はしないですんだと思う。

「長く習ってる? 母親がお茶の先生もしてるから」

 なるほど。それならわかる。

「高校も茶道部だったの。それだけ」

「こないだ中庭でも見たけど、キモノよく似合うよね」

「ありがと」

 なんとなく、そのあたりで奇妙な感じをおぼえたのだ。首の後ろがチリチリするようなといえばいいのだろうか、ただたんにお世辞を言われているわけじゃないと知れた。新入生勧誘で派手なパフォーマンスしたからゼミや本部役員はもちろん先生や職員のひとたちにまで声をかけられた。キャンパス内で着物姿というのはムチャクチャ目立つ。レッドマーク付絶滅指定動物みたいなものだ。民族衣装が美しいのは当然で、もちろん似合うように着てるのだ。あれは洋服と違って選び方と着付けさえ間違わなければ見られる程度には仕上がる。でもこの場合、そういうことが言いたいらしいわけじゃない。

 彼は最後に残った他の文化会本部役員たちのためにも扉をあけて、みんなが興味深げに振り返るのを肩をすくめてやりすごした。気障な身振りが鼻についたけど、衆目監視の恥をかかされた責任は負ってくれそうだった。

 階段を下りていく足音が遠ざかったところで、頭の上から声がした。

「今、彼氏いる?」

 どう答えても結果は同じだろうな、とわかっていた。女のひとならここで頷いてくれると信じて告白すると、この男と付き合うことになるという直感があった。それでも、いやそれだからこそか、当然ながらまず、反撥があった。手首を返して追い払うほうが賢明だと思えた。事実、本部役員でこの現場を見ていた後輩の来須ちゃんはそういった。だめですよ、ああいうひとに捕まったら。私は苦笑して受け流した。評判、悪いんですから。そう続けて彼女はこちらを見下ろし妙に大人っぽい吐息をついた。その時にはもう、わけのわからない覚悟を決めていた。彼女のいうように、当時の私にはもっと好ましいひとがいたと思う。たとえばまあ、アサクラ君とか。

 でも、そうはならなかった。

 断っておくけど、かっこいい彼に恋していたというわけじゃない。それは自分の自由意志ではなくてすでに何かに定められていることのようだった。もうこれ以上どこにも行き場がないような気持ちになっていた。

 晃は誕生日や記念日を忘れることもなく、強引なところもあったけれど頼りがいがあるといえばそう言えたし、連れて歩くには申し分なかった。連れて歩かれていたのが自分のほうだとは、今をもって思わない。俗に女と車が似ているっていうけどアクセサリーという意味ならそれは女にとっても同じ、というよりさらに相応しいものだったかもしれない。

 もっとも、女と車の類似性が「馬」に起因することくらい、私だって知っている。トリスタンとイズーからサド侯爵あたりまで馬と性を巡る仏蘭西恋愛文学の流れを披瀝できはしないけど(なにしろ『トリスタンとイゾルデ』についてのゼミを取るはずが、教授が病気のために退官されてしまったのだ)、さてこの場合、慣例通りに私がじゃじゃ馬で彼がよい乗り手ではなかったと判断すべきか、それともやはり双方ともに騎手として落第と判を押すべきか、はたまた共に駄馬だったというべきか悩むところだ。

 もちろん、彼氏も彼女も自分の付与物ではないのだからそういう考えは馬鹿げている。でも、正直にいうと当時の私、そして晃も、そう思っていたのかもしれない。お互い嫌なやつだったのでそこは引き分けておく。ということに、してほしい。

 それにしても、回想というのはどうしても語り手のツクリを誘導しやすい。どんなに自分の気持ちに正直に主観だけを話そうとしても、そこにはもうすでに自己観察が入り、物事を俯瞰する姿勢が出てしまう。現在進行形で語りおろすなら、まだいい。競馬やスポーツ中継をきくと、そこに「おはなし」の入りこむ隙間はどのくらいあるんだろうと考えて、私はいつもドキドキする。

 過去のことを語るのはそれだけで特権者だ。ありえないくらい優遇されてる。早い話、ばっくれられるほどの度胸がない限り、過去の打ち明け話なんてのはやらないほうが身のためなのだ。ひとは神ではないし、神に似たことをしてもうまくいきはしないのだから。

 ってことを一応、断っておくのはやはり、晃と別れたときの会話にあるのだと思う。ここに正確にあのときのことを再現できるとは思わない。

 勤めて二年目の、GW明けのことだった。仲のいい会社の同僚とフランス旅行に出ていた私はお土産を渡すからといって、晃に成田空港まで迎えにきてもらった。五月のパリはほんとに綺麗で、オルセー美術館には予想よりずっとアカデミスムの画家の絵が増えていて、ギュスターヴ・モロー美術館の素敵なおじ様に顔を覚えてもらうほど通いたおした私のご機嫌は、車に乗り込むまで続いていた。有頂天というのは、ああいう感覚にちかいのかもしれない。

 助手席の足下に落ちていたアクアマリンのピアス。それを見つけて拾いあげた瞬間、私の胸にあったのは嫉妬でも疑惑でもなくて、こういうことってほんとにあるんだ、という素朴な驚きだった。すこし、わくわくしていたといってもいい。シートが動かされていたかどうかは、気がつかなかった。

「これ」

「ああ。送ってやった後輩がなくしたっていってたから、それだな」

 横顔には不審なところはなかったけれど、掌に乗ったままのピアスに視線をもどすと、問いつめるべきだと内なる声が囁いた。晃はなにしろモテたいためにバンドを組んだといって憚らなかったし、ステージがはねた後、私のいる前で女の子たちからプレゼントを平気でもらい、違う女性とよく二人だけで飲みに行ったりして来須ちゃんの不興をかっていた。私はそれをとくに問い質しもしなかった。自信があったといえばそれまでだし、信用していたのだとも思う。ただ、そのときだけやはり、いつもと違うという気がしたのかもしれない。

「つきあってるの?」

「わかってて、なんでもない顔してきくなよ」

 こちらに顔を向けずに言いきると、晃は命の終わりのような吐息をついた。それは長いあいだ溜め込んできたものを一気に吐き出す絶好の機会で、その始まりの合図だったのだ。

「おまえのそういう、何でもわかっててお見通しっていうとこ、ほんとにうんざりするんだよ」

「なにそれ」

「違うか? どうせ俺のすることなんて何でもわかってるんだろう? おまえは頭がいいし勘もよくて、物事がよく見えるんだから」

「晃?」

「もういいよ。どうせ、今まで俺に合わせて付きあってくれてたんだよな。さっさとふってくれればよかったんだ」

「なに言って……」

 この頃になってやっと、いつもの言い争いやケンカとは趣が違うことに気がついた。晃はこちらを見ようともしない。口論になっても、彼はいつだって私の反応を見守っていたはずだった。それに思い当たり、自分の鼓動が静かに耳をうつにまかせながら、彼を見つめた。

「おまえは俺のことなんて何とも思ってないんだよ。告白した時だって困った顔ひとつしないで、あのとき他の大学の男と付きあってたくせに」

 そんな昔のことをなぜ今になって言い出すのかわからなかった。そして、誰からその情報を仕入れたのかも見当がつかなかった。

「どうしてそんなこと?」

「どうしてって、おまえはいつだって俺の方をまっすぐ向いたことないじゃないか。上から俺を見下ろすように見てるんだよ」

 私の態度に傷ついていたと言っているのだとわかったけれど、なんといっていいかは思いもつかなかった。ひとしきり、彼はひどく抽象的なことを口にし続け、こちらがずっと無言だったことに気づいて顔をあげた。そして、窓の外を見るように視線をずらしたままで告げた。

「別れたい。山梨に帰ろうかと思ってるんだ」

 ふたつの言葉の意味が、ひとつの行動をさすものだと気づくのに時間はかからなかった。

 晃はその子と結婚するつもりなのだ。

「銀行、辞めるの?」

「そうなると思う」

 すでに、晃の身体からさきほどの怒りと緊張は抜けていた。私は掌に乗せていた小さな可愛らしい花の形のピアスをつまんで彼に返した。こういうのはつけないな、と瞬間的に思って笑いそうになったその、笑いかけの気配さえ晃は気づこうとしなかった。

 彼はそれをジーンズのポケットにしまおうとしてやめて、いったん掌を広げてそれを見下ろし足元に置いた鞄に手を出しかけて身体を起こし、そのままそっと握りこんで胸ポケットに落とし込んだ。ティッシュか何かに包んだほうがいいんじゃない、と言いそうになってあわてて口を閉じた。

 その様子をじっと見守っていた私へと、晃は向き直った。それから、きちんと私の眼を見て告げた。

「ごめん。今までありがとう」

 ここまで言われて、なにをどうしろと?

 晃は見たことがないほどさっぱりとした顔をしていた。それは悪くない。というより、今まででいちばんいい顔だった。

 ふられた瞬間、彼を好きになっていた。時差ぼけかと思ったけれど、違った。家まで送るという晃をふりきって車を降りた。慌ててスーツケースを持とうとした相手を危うく罵りそうになり、唇を噛んでこらえた。周囲にひとがいなかったら声をあげていたかもしれない。連休明けの国際空港駐車場の混雑が理性を呼びさましてくれた。私はこれだけはすぐにも渡せるようにと手荷物のバッグに押し込んできたオレンジ色の包みをさしだした。彼は決まりきった顔をして首を横にふり、私もそれにうなずいた。

 左手にそれを握ったまま、スーツケースの取っ手をひっぱった。引き上げた瞬間、腰に巻いたGジャンの袖の釦がかすれて金属音がなった。ただそれだけのことが癇に障り、頬に血がのぼっていた。さすがに追って来なかった。安心したと同時に喉奥に何かがせりあがってきてあわててそれを押しもどし、足を止めて背筋をのばして包みをしまった。ゴミ箱に捨てるほど思いきれなかったのだ。舗装整備されたはずのアスファルトのつくる振動が腕に伝わるたびに、こんなことなら父親か弟を呼べばよかったと歯軋りしてやりすごし、案内板に従ってエスカレーターを折り右に左に進むうちにその指示を追うことに夢中になり、四度目の海外旅行にして送迎なしとはようやく慣れたもんだと自分を褒めることにした。

 成田線のホームで電車を待つ間に旅の余韻というやつがひたひたと押し寄せてきて、盛りの春を彩るシテ島の花屋の賑やかさや、スニーカー履きのアメリカ人学生が商品に手を伸ばすたびに勝手をするなとばかりにヌ・トゥシェ・パ(触らないでください)を連発していた権高なブロンドマヌカンのきつい香水と眉間のしわや、リュクサンブール公園でスケッチする老人のセーターの綻び、ホテルの壁紙の豪奢な花模様、メトロ乗車券の紙の厚みなどが次々と思い出されて、つかの間の休息を味わった。

 窓から見えるのは、田植えが終わったばかりの陽光を照り返す水をたたえた田んぼだ。その「キラキラ」を身のうちに溜めこむように眺めわたし、何かを失ったような気がして取り返しのつかなさに憤る自分の滑稽さを笑った。滑稽だと思えることに安心した。こんなに景色が綺麗に見えるなら傷ついてショックを受けているはずはない、なんて考えていた。すでにそれが、冷静じゃない自分のとても立派な状況証拠だったのだけれど。

 それからしばらく服をやたら買った。貧乏性で臆病者なので、情けないことに要らないものは一つも買えず、エルメスで奮発したお土産の財布は弟へと渡った。今でも、あの頃に買ったブランドバッグにはお世話になる。つくづく計算高い弱虫にできていて、晃じゃないけどうんざりした。

 二ヶ月のあいだに美容院を四回、変えた。さいごの美容院で担当してくれたひとが鏡の前に私を座らせ髪に触りながら、御髪が痛んでいるようですのでパーマはやめてトリートメントだけになさいますか、と言ってくれなければこの髪はどこまでも短くなっていたかもしれない。けっきょく私はハンドケアとネイルを頼み、ブースにはいって洗いざらい吐き出した。初対面の、頬のふっくらとした、自分と同い年くらいの女性の前で号泣した。友達の前でも親の前でもこんなに泣いたことがないっていうくらい、泣いた。

 その後、彼は都市銀行を辞めて高校の後輩と結婚した。彼女の実家である土建屋さんの若社長に納まった。私はというと、先ごろまでつい長居していた会社の吸収合併に際して教授のコネで転職した。ここのゴタゴタはなかなか味わい深いものがあったけれど、まあそれは別の話しだ。

 晃の後にも彼氏はいたし、彼のことはもう忘れている。ひきずっているのは彼自身のことではなく、自分の失敗のことだと思う。女というのは勝手な生き物でふられた相手の魅力など気にはしない。気になるのは、そういう相手をつなぎとめておけなかった我が身の不甲斐無さだ。相手の幸せを願うだけなら泣いたりしない。この世でいちばん愛している「自分」がかわいそうで、泣いている――。

 けっきょくは、相手が己の予想を上回ったことだけが腹立たしく自分の非ばかり目がいくのだ。そして、嫌な女だと自分で自分をいうことと悲劇のヒロインぶって泣き暮らすことの差はないことも、知っている。

 夢もなく、怖れもなく――子供の頃に読んだルネサンス時代の女性のモットー。そんなふうに生きるのは絶対に嫌だと思いながら、そんなふうに生きていた。

 違う。ほんとうはその言葉通りに、物事を不安も欲望もなくきちんと見極められるほどの力量が欲しかった。晃が言うほどのことができていなかった。私は見誤っていたのだから……。


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