卯月――桃園式部卿の物語 春の世の夢の浮橋 

 

アサクラ君はなんでもないようすで、卒業してからのことを語ってくれた。ある朝、会社のシャッターが閉まっていて張り紙一枚で倒産したと知らされたことや、東京に出てきて職を転々とし――ここの話しはそれ創作入ってないって何度もきいてしまうくらい変な会社ばかりだった。会社のお金を持ち逃げする社員や愛人を秘書にする社長とか実際いるとは思わなかったよ――今は友達が経営する輸入レコード店にいるのだという。

 そのお店と店主のミズキさんの名前はラジオで知っていた。ラジオ番組とタイアップした六本木のクラブDJと仲良しで、日曜夜の番組にたまに出てる。甘いテノールが心地よくてけっこうマメにチェックを入れていた。そのセレクトはいつもすごくお洒落で女の子受けすること間違いなしのラブチューンがいっぱいで、ニーヨの曲を初めて聴いたのもあそこだったと思う。

「あれでけっこう、売り上げあがるんですよ。ミズキ、女の子に人気あるし曲もいいんで」

「でも、アサクラ君の好みとずれてない?」

 ミズキさんのジャンルオーバーはハンパじゃなくて、いつだったかはハードコアなヒップホップの途中で尺八が聞こえたり、セクシーな女性ボーカルのR&Bに五十年代の映画音楽をさりげなくかぶせたり、いかにもなハウスで一七、八世紀に活躍したフランスの作曲家クープランのクラブサンがミックスされたりすることもあった。

けど、アサクラ君はそうじゃない。わりに頑固にロック系だった気がする。

「それはいいんです。今はどうしても流行りもんもやってかないとならないんで。ミズキ、今年中にもう一店舗出したいとかいって、クラブイベントのプレミアにダブルネームで限定コンピ作ったりしてるんですよ」

 ミーハー丸出しで、ミズキさんってラジオの噂どおりに美青年なのって聞きたいのを我慢した。実は、ラジオ局のHPまでチェックしたけど、レギュラーじゃなくてゲストだから顔はうつっていなかった。リンクしてあるお店まで覗く気にならなかったのは、そこまでしなくてもと自分で思ったからだ。古書店巡りはするけれど、CDショップを熱心に開拓したりすることはない。

 そして今、がらにもなく遠慮したのは三十女の嗜みじゃなくて、ちょっとした、今となってはもうすっかり忘れてしまったと言いたいわだかまりのせい。

むかしアサクラ君に、顔は関係ないでしょって一蹴されたことがある。新人バンドのCDジャケットを見ながら、ルックスか音楽性かだなんて流れだった。あんなささいな言葉を忘れないでいたのは、なんとなく責められたような気がしたからだ。アサクラ君にはそのつもりはなかったかもしれないけど、私がそう感じる理由はあった。

 あの年、恥ずかしいことに自分の彼氏が大学でいちばんカッコイイ男の栄冠に輝いてしまった。ミスコンと違ってまじめに出るひといないから学園祭実行委員から頼まれて出たのは知ってたけど(しょせん世の中すべてヤラセなのかもしれないが)、偏見と矛盾を承知のうえで、私はむちゃくちゃ嫌な気分になった。勘弁してよ、と言いたくなった。言わなかったけど。そして、そんなふうに感じながらもどこかでちょっと得意になっている自分を見つけてさらに落ちこんだ。

 そうしてうつむいているとアサクラ君が黙ってビールをついでくれた。とりあえず口をつけてから注ぎ返そうとすると、先に缶をつかまれた。

「どうぞ」

「ありがと」

 おつまみもなくお寿司が来る前だというのに、あっという間に六缶が空になっていた。私はそんなに飲んでないけど、彼はこれから仕事なのに大丈夫なのかと思いつつ、そういえばザルじゃなくてワクっていわれてたなあ、と思い出す。

「ワイン、飲みます?」

 返事をきく前に仕切りの奥に入っていって左手に壜をつかんで右手にグラスをもって戻ってくる。

「どうしたの、これ」

 壜をとりあげる。あ、ブルゴーニュワインだ。

「前のひとが置いてってくれたみたいで」

 じゃあ美味しいだろう。獏はあれで銘柄にうるさいのだけど私は気にしない。でも、名前は見ちゃうんだよね。

 グラスはまがりなりにもバカラで、いかにも半端ものを引き取ったようで同じ型じゃなくて、うっすらと埃をかぶっていたのをあわてて拭ったあとがついていた。まあ、我慢する。

「乾杯しますか」

「再会を祝して?」

 縁をあわせたいところだけど、クリスタルなので掲げるだけで。たいてい自分で飲むのは白だけど、この、葡萄酒色っていうのはなんて血の色に似て綺麗なんだろう。子供のときは最後の晩餐でキリストの血と肉だときいてそれを飲んで食べるひとたちを不気味な、おぞましいような気がして仕方がなかったのに今じゃうっとりするんだから、酒飲みとは恐るべし。

 さいしょは舐めるように口をつけたけど、すぐ空きっ腹なのを忘れて煽ってしまった。こたえそうな重さだった。あ、でもこれはとても美味しい。自制心のなさが表に出てつるつるとそのまま干してしまいそうでグラスを置いて時計を見あげたところで、彼が名刺を出してきた。恭しい態度でお互い初心にもどって名刺を交換した。彼が左手にもったそれを見下ろしながら、口にした。

「携帯ナンバー見ないで言えます?」

 私の名刺には自分の番号や個人のメールアドレスはない。取り返して書いてから渡そうとすると、言ってみて、と頤でうながされた。頭の中で字面を思い浮かべるように目を閉じて口にすると、彼はそのまますぐにくりかえした。

「センパイ、目で覚えるんでしょ? 絶対、目ぇつぶると思った」

 軽く笑われた。そのとおり。英単語のテストとか、いざとなるとテスト範囲だけ一覧にずらっと見て記憶する。耳でなんて、覚えられないよ。

「昔から考え事とか何か思い出すとき必ずうつむいて、目、閉じてましたもんね」

「そうかなあ」

「そうですよ」

 きっぱりと断言されて、首をかたむける。するとアサクラ君と目があってぎこちない、不用意な、居心地のよくない空気が落ちてきた。やばい。なにか、言われるかなと身構えると、彼はすっと濃い眉をひらいて視線をずらし、出前くるの遅いっすね、とつぶやいてチラシをひっくりかえして話題を変えた。 

「去年はけっこうビッグアーティストが来たじゃないっすか。何かいいライヴいきました?」 

その言葉につられるように話しは思い出のコンサートやお気に入りのアルバムにかわった。花火好きのアサクラ君らしく、サマーソニックで花火を打ち上げてくれたグリーン・デイの感動を思いっきり語られた私は、負けじとビョンセのライヴ「B‘DAY」の話をして、ラジオの抽選でもらったサマンサ・タバサのネーム入り化粧ポーチを見せてあげたのに、彼はぴんと来なかったようだ。ビョンセからジェイ・Zに話は流れ、リンキン・パークへとつながった。

 アサクラ君はロックの話しばかりするのかと思ったらぜんぜん違って、好みはともかく流行は押さえるという趣旨に転向したようだった。働くというのはそういうものかもしれない。もちろん専門職っていうのもあるけど、とりあえず守備範囲は広いほうがやれることが多い。でも、趣味の世界はそうじゃない。わりに狭隘なジャンル主義者がいたりする。アサクラ君も、バンドの路線変更とか、私なんかにはちっともわからない「違い」についてよく友達といっしょに喧々諤々話しあっていたように思う。

 それにしても、好きってことはそういう偏屈でどうにもしがたく身勝手なところがあるのかも。ちょっとした拘りが山のようにあって、よっぽど近づいてみないとわからないような些細な違いに気づくっていうか、傍から見ると、自分からせまっくるしい処にわざわざはまり込んでわけがわからなくなってるみたいだと、あの頃からぼんやりと思っていた。これはパンクじゃないとか、これはSFじゃないとか、こんなのバッハじゃないとか、どれもこれも実際に施設管理室で聞いた台詞だけど、ああもう、あなた達みんなソレを愛してるのねえって微笑ましく思っていた。

 とはいえ、白状するけれどかくいう私も着心地にはこだわる。コートやジャケットは裏地をたしかめ立体裁断を選んでしまう。結婚退職するとき買ったお洋服代の借金が会社に残っていた先輩ほどではないけれど、服なんてどれも同じじゃんとかいわれると、ぜんぜん違うと反論したくなるので同じ病なのだ。

 アサクラ君は仕事で、かつてのマイケルを凌ぐといわれる人気者、歌って踊れるアッシャーも見かけたことがあるというのでむちゃくちゃ羨ましがると(だってデビューの十五歳の頃から好きだったんだもん。今じゃグラミー取るわファッションビジネスに手を出すわ立派になってしまってまあっていう妙に母親みたいな気分で応援していたのに)、女の子ですね~と笑われた。ちょっとムッとすると、彼は気がつかなかったのかうつむいて、最近、ロック、聴かないみたいですね、と途切れ途切れに口にした。

 私はその声が小さかったのをいいことに、話題を変えた。思わぬ屈託に気づかされて、うろたえていたのかもしれない。こういうときは共通の友人の近況にかぎる。

「知ってる? 来須ちゃん、こないだ結婚して九州に引っ越したんだよ」

 へえ~、と何に感心したものか、あいつが結婚とはねえ、と彼は腕をくんでこっくりとうなずいた。なんだか失礼な言い草じゃない、と口にしようと思ったけどやめた。来須ちゃんは私の部活の後輩でアサクラ君と同じ学年だから、よくよく考えればふたりは私よりずっと長い時間一緒にいたはずだ。

 彼女は一年生からずっと文化会本部の編集局に入って活躍して、違う部署なのによく手伝ってくれて助かったのだ。ショートカットの背の高い女の子で、膝頭の小さい、まっすぐに伸びた足が素敵だった。絶対ミニスカが似合うってすすめても頑としてはかなかったけど彼女、就職活動もパンツスーツで通したのかなあ。

「龍村くんと会ったりする?」

 施設管理局の御意見番の名前をだすと、首をふる。

「最近はぜんぜん。オレ、家でる前は東京によく来てたんですけど、それからはほとんど大学の仲間に会ってないんで」

 連絡とってるのは中村とあと伊藤くらいかな、とつけたした。両方、私には覚えがない。ということは軽音部のほうじゃなくてゼミの友達かもしれない。ちょっと、意外な気がした。カフェテラスや学食で彼がひとりでいたのを見たことがない。こちらの無言の間を察して彼が説明した。

「仕事と仕事の合間はけっこう海外だったんですよ。その間、不義理しっぱなしで」

 苦笑をうかべた顔を見て思い出す。彼は一年長期留学組だった。ふらっと海外に出てそのまんま暮らしてしまえるひとたちだ。私にはとても真似ができない。語学力の問題もあるけれど心構えかも。うらやましいというか尊敬してしまう。そういえば、龍村くんもボーナスはたいて毎年必ずウィーンでお正月をすごすって年賀状に書いてあったからな。あの調子じゃ彼もしばらく結婚しないだろう。

 アサクラ君はまた、仕事の話をしだした。間があるのが不安なタイプだったかしら。これからまたクラブイベントの手伝いなのだそうだ。

「で、深町センパイは?」

 オレばっかしゃべってスイマセンとぺこりと頭をさげたあと、妙にさりげなさを装ってアサクラ君はきいた。まったく。この後輩はかわらずイイ根性をしてるのだ。前は、あんまり喋らない男の子だったように思う。じっと、ひとの話しに耳をすましているほうだったはずだ。いや、話の内容というより相手の様子を体感するのに全神経を傾けていた。

「べつにフツウ」

 語るべきほどのことはない。そう嘯くのは自己卑下というより、自己憐憫かしら?

「そんなもったいつけずに」

 またワインを注ぎ足され、私は思いっきり笑う。学園祭実行委員のモットーである、とにかく相手に注ぎまくる精神は脈々と生きているようだ。

「それよりここの紹介もその店長のミズキさんなの? DJと古道具屋ってまったく接点なくない?」

「うちも中古品扱ってるし、そういう意味じゃないってわけじゃないんでしょうが、ミズキやたら顔広いし骨董趣味があるっていうか、あのとおり音楽も何でもありだけどその他の趣味も広くて付き合いもわけわかんないんですよ。絵とかイラストが好きで、ってもアニメとかそっちじゃなくて、古い本や絵を買って集めたりしてるんでセンパイと気が合うと思いますよ」

 ほら、あの、難しい漢字の、とアサクラ君がいった。稀覯本のこと? と鞄からボールペンとメモ帳を出して字を書いた。書きながら、ツキリ、と何故だが胃に痛みが走る。その言葉で、獏と本友達だとわかった。眉をしかめた私をどう思ったのか、アサクラ君が言い添えた。

「今度、紹介します。ミズキ、センパイ好みの美青年ですから」

 アサクラ君は口の端を歪ませて笑う。どうやら、あのやりとりは双方忘れなかったみたいだ。じゃあまあ遠慮なく。

「噂どおりなの?」

「ちょっと、こわいくらいに」

 その言い方はすこし、ひっかかる。アサクラ君はわりとなんでも手放しの言い方を好む。好き嫌いがはっきりしていてよくもわるくも裏表がない。とはいえ私の知っているのはもう十年以上前のことで、さっきの話ではいろんな経験をしたようだし人間変わるものだ。同居人へのらしくない冷めた物言いをとやかくすることはない。そう思っていると、いきなり。

「骨董趣味っていえば、酒井先輩もそういうとこあったじゃないですか」

 私は音をたててグラスをテーブルにおいた。

「センパイ、あの……」 

「酒井くんと別れた理由を聞きたいの?」

「や、そういうわけじゃ」

 髪を揺らして首をふられても、その名前を出されてしまったら話さないわけにはいかないじゃない。

 アサクラ君、ひとつ忠告しておくけれど、女って昔の男に未練のこれっぽっちもないものだって知らないの?

 だからこれは、私の物語ではなくて、私が聞きそびれた物語になる。 


 酒井徳次は毎夜、桃園を歩く夢を見る。はじめは目の前に桃色の雲がひろがるがごとく、ただ視界を埋める濃い花の色に圧倒される日々だった。そのうち、あやめを分けるように唐突に花の形を見出した。枝先に萌葱色の葉を芽吹かせ、直ぐな細枝にひとつふたつと這うように寄りそう濃い紅の桃花を見つけ、その丸まった花弁の快さ、中心にある蕊のやわらかさ、がくの依怙地なほど愛らしいふくらみを見分けられるようになったころには、自分が何者であるか知った。

 桃園式部卿だ。源氏物語にいう、アサガオの姫の父親だった。

 卿の人生は、酒井徳次の一生より平穏で、このうえもなく優雅で、そして自身が後悔とはっきり名付けることを躊躇われる憂鬱に支配されていた。

 徳次は大正の最後の年に、山梨のとある農村の名字帯刀の家に生まれた。彼が長男であったなら、近隣でいちばんの小町娘を嫁にもらい、兄と同じく甲州弁を話す、誰からも尊敬されるひとのいい裕福な名士となっていたことだろう。

 しかし徳次は東京に出た。田舎住まいが嫌だったわけではない。己を遠くから眺め、まるでまれびとのようだと思ったことがある。その目で見ている景色を我が物として感じられなかったのだ。映写機かなにかで映されたものを無理やり見せられているようだった。その思いは日増しに育ち、あるとき、これ以上ここにいてはならないという気持ちに急かされて矢もたてもたまらず故郷を出た。その後、患った肺病のせいで出征もせず教員になり、結婚して娘に恵まれた。その娘はもちろん伊勢の斎宮になどならずに嫁ぎ、孫も三人できた。

 ならば何故、こんな夢を見るのだろうか。

 桃園式部卿は憂えていた。なぜ、自分は娘を源氏の君と結婚させなかったのかと。 酒井徳次にはわかる。もう一度やり直せたらと思うほど、彼はそのことを後悔していたのだ。しかし、なぜそうしなかったのかと責める気持ちは娘の幸福を願う親心とは別ものであったかもしれない。ただ彼は、今いる世界を壊してしまいたいほどに何かを願っていた。だが、桃園式部卿は優雅をもって知られる貴人なのだ。矜持に満ちた自制心で彼は目を背けている。桃園はかわらずに美しく、仙人の住む居場所なのだから。

 いつの頃からか彼は昼には酒井徳次として、夜は桃園式部卿として暮らすようになる。それはふたり分の人生を生きるようなものだ。夢は連続性を伴いながら淡々と時をつむぐ。途切れることなく続く日常の些細な出来事が、二倍ではなく二乗されて積み重なっていく。その重みは自身を早々に老け込ませるかと思えたが、事実はその逆だった。

 五つ年の離れた兄が六十を境に入退院をくりかえす頃、徳次は句会で知り合った人妻から夫が浮気をして悩んでいるという相談を受けるようになった。句会ごとにこっそりと手紙のやり取りをくりかえすうちいつしか相手の口調は熱をおび恋文の様相をもちはじめ、家を出てふたりで旅をしたいと洩らすようになった。その手紙を読んですぐ、彼は妻子持ちであることを理由におずおずと断りの手紙を書いた。心浮き立つことはなく、諌めるような調子にならぬよう相当に気を遣った。書き終えて吐息をつき万年筆をおいて冷えきって乾いた手を見た瞬間のことだ。徳次は長年自分を悩ませ続けた正体のわからぬ不信の理由を悟った気がした。

 彼の手は男にしては肉が薄く、その掌はまだらに赤らんでうすく皺を刻んでいた。指をおりこんで見えた爪は平らで、四角張っていた。近衛兵を務めた兄とは顔は似ていたが、手の形が違った。兄の手はまるみがあった。だいぶ痩せたと思ったのに指の一本一本にまだ、むっちりと肉がついていた。それはそっくり母親のまあるい桜色の爪をのせたふくよかな手の記憶を連れてきた。父親の手を思い出せなかった徳次はこめかみをおさえた。ふと、もう一度、自分の手をみて思い出した。妹の乳母をした女が、あかぎれだらけの乾いた手で寝ている自分の頬を撫でたことを。あの手はもしや、自分とそっくりではなかったか――

 それから彼は女への手紙を破り捨て、電話をかけようと下におりた。すまないけれど、貴女の境遇には同情するが今後こういうことは遠慮してほしいのだが。そういうつもりで呼び鈴の鳴る間、心の準備をしていたはずが、受話器のむこうで男の声がした途端、用意していた言葉は霧散した。ほとんど家に寄り付かないと書かれていた夫だった。徳次はしどろもどろで句会の連絡だと偽り相手が面倒くさそうな様子で相槌を打つのを聞き、丁寧に礼を言って両手で受話器をおいた。彼は一息ついてから電話横の壁にかかっていたカレンダーの集まりの日にボールペンでバツをつけた。徳次はその後、返事も書かずその会も辞めた。妻はせっかく入選したところなのにと、しきりに首をかしげていた。

 その頃から、式部卿の憂いが徳次自身をも支配しだしたようだった。娘にカルチャーおじさんとからかわれながら、彼はつぎつぎに趣味を変えた。書道、陶芸、観劇会と何をやっても続けられなくなっていた。 

 そうして老境を迎えたある日、それは突如、桃園式部卿の中に屹立した。嵐の訪れを告げる黒雲を見たときか、春雷の唸りが身内に凝る刹那のことであったかもしれない。

 とにかくも、式部卿は知ってしまった。自分は実は、桃よりも桜のほうをずっと愛していたことを。業平卿のように桜がなければこの世が色褪せたものになるとひそかに思っていたことを彼はもう、隠し切れなくなってしまったのだった。それはすでに植物の生命力に似た充分な用心深さをともなって、種子が芽吹く勢いの緩慢さでありながら彼の中心に深く根をおろしていた。

 今しも曇天から雨の雫が落ちようとするそのとき、式部卿は花びらが降りしきる庭にふらりと降り立った。湿ったやわらかな土を踏みしめ、地熱の心地よさにひかれて式部卿は微笑んだ。桃園の慣れ親しんだ広がり、木々のざわめき、その気配、慕わしく愛らしい花の形、芽吹きの葉のやわらかさ、そうしたものがことごとく式部卿を迎え入れ、ましてや濃艶な香りは衣擦れの音と馴染み、今もまとわりつくように身を寄せてくる。だが、何かがすこしだけ、前と違っていた。何かは、わからない。

 こちらが変わったからかもしれないといぶかしみ、卿はゆっくりと膝をつき、自分が長の年月をかけて育んでしまった偽りの芽を摘むように、節くれだちながら今なお白く、老人斑など浮かぶことなく美しい指を、生温く濡れた黒土に埋めた。

 轟々と耳横で鳴るのが風の音か、己の不審を問う血の逸りかわからぬなか、もうひと掻き爪を立てたところで烏帽子が突風をうけて傾いだ。はっとして、土塗れの手を頭にやり、空を仰ぐ。

 ぽつり。

 まず秀でた額に、ついで薄い頬に、そして高く繊細な鼻梁に切れ長の目じりに、乾いて皺の刻まれた首に、甘い香りの水滴が次々と落ち、それに混じって紅ほども濃い桃色の花弁がぺったりと唇横に張りついた。舌先で舐めとり口に含むと、そのみだりがわしい色艶を裏切って舌を刺すほど苦かった。

 このように甘い香りを放つものがこれほど苦いとは、きっとこれは夢に違いない。

そう思ったのは式部卿か、それとも夢を見る酒井徳次か。それさえも、わからない。もう一度おのれの手を見ようとしたところで、闇に攫われた。

 脳溢血だった。

 隣に寝ていた妻がトイレに立ち、その高鼾に気づいたため、彼は一命をとりとめた。後遺症もなく、以前と変わらぬ日常を送ることができた。ところが、日記はある歌をしるして終わっていた。


 春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空

 

「ってな話しをだね、酒井くんの大叔父様から聞いたの。というか読んだというか」

「は?」

「酒井くんのおうちに遊びに行ったのがもう四月も終わりでね、桃の花は見れなかったんだけどそのときに大叔父様が書いていた夢日記を見せてもらったの。その頃にはちょっとボケが入ってて、その続きについては聞けなくって、まあ、あれで終わりもアリなんだろうけど」

「ええと、その、酒井先輩の大叔父さんが夢でモモゾノシキブノキョウになるっていう話のですか?」

「そうなの。でもね、あれ、ただの夢日記っていうより、なんだろう……あのさ、アサクラ君は源氏物語ちゃんと読んだことある?」

「いえ。オレ、国文とか漢文苦手で」

「英語学科だもんね。私もそれがあって現代語訳で読んでみたんだけど、男のひとなら桃園式部卿じゃなくて頭の中将とか、他の登場人物になりたいって願うような気がするの」

「や、ふつうは光源氏なんじゃないんすか?」

「うん、そうなの。でもほら、主人公以外になってその話を眺め渡してみたいっていう気持ちはよくわかるのね。あの小説は国語の先生らしくて源氏物語の薀蓄裏話的な面白さがあってよかったんだけど……ほんとうは、桃ではなくて桜が好きだってことに気づいた式部卿じゃなくて作者であるおじいさんが、自分の実人生にどうやって決着をつけたのか、それがツボだったんじゃないかって今は思うの。まあ、自分の人生なんてそれこそ小説ほど上手に決まりがつけられないものだろうし、だからこそあの屈託そのものが、なんか気になるの」

「つまりそれは夢日記じゃなくて、けっきょくは彼の私小説だったってことっすか?」

「そうなのかなあ。小説っていうか、ううん、小説って何のためにあるのかっていうか、そういうことを考えてしまわない?」

 私がそう質問すると、アサクラ君はおしだまった。そして、唐突に口をひらく。

「……今ごろ気づいたんですけど、センパイってごまかすの上手なんだ。けっこう白黒はっきりしてるひとだと思ってたのに」

「それは、キミの洞察力がなさすぎる。で、聞きたいことは聞けた?」

「ええまあ。とりあえず、酒井先輩のことはとうに過去のことで、今は気にしてないってことはわかりました」

 また騙されてるよ。アサクラ君は酒井くんいわく、器用で気のきく使えるヤツなのだが肝腎なところの詰めが甘い、のだった。

 この伝でいけば、酒井晃は「器用で気のつく使える奴で、非常にクレバーで嫌な男」だった。ほめているのだ。

 ここらでひとつ、別の話をしておこう。迂回するのはもう疲れた。さあ、どこからお話しようか。


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