弥生――浅倉悟志の物語 ドリーム・オン
深町姫香。一目でわかった。そして、相手も自分のことを覚えていてくれたことが心底うれしかった。
出会ったきっかけは学園祭だ。入部してすぐ、実行委員として各部活ひとりずつスケープゴートのように新入生がかりだされる。軽音楽部だった浅倉は部長の酒井に命じられて委員になり、くじ引きで施設管理局長の深町の下に配属された。
もともと中庭の舞台で演奏する軽音楽部は自分たちの使い勝手のためにこのポジションを取りたかったらしい。くじ引きから戻ってくるなり酒井にほめられたものだが、浅倉はもうその時にはこれから学園祭までずっと女の下でこき使われると思うと憂鬱な気分だった。
今までの経験上、役員をやるような女は口やかましくてろくな奴はいない。何も好きこのんで面倒な役目を引き受けるなんて奇特なやつだと、そう思っていた。週一回、水曜日の昼休みを準備のための会議にとられること自体、面倒でたまらなかった。決まりきった規則の確認や連絡と報告に費やす時間に嫌気がさしそうな予感がした。
施設管理局(正式には施設備品管理局)にはもうひとり二年生の男がいた。管弦楽部の龍村功といって、黒ぶち眼鏡をかけた眉の短い吊り目の小太りの男で、一目で話が合わなさそうだと浅倉は決めつけた。深町が体育会本部役員と打ち合わせのため、妙に甲高い早口でしゃべる龍村から仕事のあらましを聞くことになった。対面で座り書類をはさんで説明がすすむうちに、性格は合わなさそうだが要領がいい、つまり頭の切れる相手だと理解した。これなら初めに心配していたほど嫌な仕事にはならないだろうとほっとした。
すぐあとでわかったのだが、龍村は一年次からこの仕事をしていた。三年生で茶道部長の深町がこの四月から立候補で本部役員になったため、局長は辞退したらしい。やな女、とまでは思わなかったが意外な感じがした。二年生の局長は他にもいたし、まさか大学で年功序列はないだろう。この場合、その逆か。わからんと思い、浅倉はすぐにそれを忘れた。ともかく、龍村のいうことを聞いておけば間違いない。体育会の男と話す深町の背中は小さくて、先生の説明を受ける生真面目な中学生のように見えた。
最初の会議が終わって、浅倉は各部から回収した提出書類を深町の机においた。すぐさま部室に引き上げて、新曲の練習をしたかった。黙って置いた書類を、深町はどうもありがとうと言ってもちあげて角をそろえた。そしてすぐさま一枚とって、左手をあげた。
「待って、アサクラ君」
「はい?」
ポケットに手を突っ込んだまま踵を返してふりかえる。彼女の着たメタリックブルーの本部役員用ジャンパーの左肩には「深町」と漢字で書いてある。そのときまで、浅倉は彼女の下の名前を一度も耳にしたことがなかったことに気がつかなかった。
「悪いけどこの書類、もう一度部長の酒井くんに持ってって書きかえてもらってくれるかな。部室、戻るんでしょ?」
浅倉は椅子に座ったままの彼女のハート型の顔を見おろした。そのときには顔は好みなのだと、とうに気づいていた。
「時間が長すぎるの。いくら要望の段階でもこれはちょっと非常識すぎる」
希望使用時間は去年と同じ、午後四時から花火のあがる直前までのロングラン。ただし、事実上はその後も音は出し続けてダンパに流れ込む。
「でもこれ、毎年オレら軽音がオーラスなんですよ」
「うん。知ってる。でも、龍村くんとも話したんだけど、今年から公平を期して順番はくじ引きにしようかと思ってるの。どこの部活だって長く、いい時間帯に演奏したいものでしょ? いつもは講堂で発表する部活も交えて、一度ちゃんと希望をきいてからやったほうがいいと思うの。サークルと同好会のひとたちもそう言ってるし体育会の局長も賛成してくれたしね」
「や、でも、それは」
「とりあえず、施設管理局長の深町がそう言ってましたって、コレもって言いにいってみて。自分の部活だからぎゃくにやり辛いと思うけど」
そこまでわかっていてどうして、という気持ちが顔に出たのだろう。
「アサクラ君、まずは当たり前の正論でいってみるの。しかも、下のひとから伝言って形でね。さいしょから私が出てくとお互い引っ込みつかないでしょ? 後がないんだから。お願いね」
とびきりの笑顔できちんと両手でさしだされた書類を、浅倉はわけもわからずに受け取ってしまっていた。お仕着せのジャンパーが大きすぎ指先以外ほとんど隠れていたことまで覚えている。
その後の顛末はどうでもいい。今となっては、学園祭の舞台のことがなんであんなに大事だったのかよくわからない。けっきょく彼は学園祭でもバンドでもなく、深町姫香に夢中になっていた。
彼女は会議の席で質問にこたえるのにこれ以上ないくらいテキパキと流れるように話していたかと思うと、施設管理室に戻ったとたん、時間が押してんだから何度も説明させるなよ、説明書ちゃんと読め! と叫ぶほどめっぽう口が悪かった。けれども、あとで聞きに来たひとには自分の昼休みがなくなるのも気にせず懇切丁寧に説明をした。編集局員のくせに施設管理室に入り浸る茶道部の後輩の来須美奈子が心配して、サンドイッチを買いに走ることもあったくらいだ。常にマイペースの龍村でさえ、深町がヤルと言ったことには、また無理ばっかいってどうなっても知りませんよ、と口にしながらも従っていた。
浅倉は、いちど素直にいうことをきいてしまったせいか使われっぱなしだった。あのちょっと先の尖った、いかにも脆そうな三角形の頤にいいように振り回された。バイト先の中華屋の店長も部長の酒井も人使いが荒いと思っていたが、深町も堂々、負けていなかった。
彼女の命令で混沌としていた施設管理室の備品はきちんと一個一個にラベルが貼られて整理整頓され、作業スペースさえ設けられた。今まで会議室を利用していた文化会編集局はそこで発行紙を綴じるようになり、何故かは知らないが深町はもちろん浅倉や龍村も手伝わされた。わら半紙を折って畳んでまとめてホッチキスで留める作業の間、各自順番に好きな音楽をかけていいことになりCDやカセットを持ち寄った。
そこでわかったのだが、ふたりの音楽の趣味は一部かぶっていた。三年前の同じ日に、武道館で右手の拳を突き上げていたことまで打ち明けあうと、彼はすでに運命を確信していた。カラオケでスティーブン・タイラーの物真似をした浅倉を、ほとんど尊敬の目で見あげていた深町。ロックスターがギターを弾くのは女の子にもてたいためだという真実を、浅倉は思い知ったところだった。
告白は、花火の打ちあがる瞬間に決めた。
どこの学校にもあたりまえに存在し、うそかほんとかわからない迷信ながら強固に信じられている伝説があるものだ。その時その場所で告白したカップルは、というやつ。
バカだったのだ。
浅倉は自分のことをつねにバカだと思っていたはずだが、そのときの自分ほど愚かなヤツはこの世にいまいと今は思う。
充分に予想できて然るべきことだが、学園祭当日の実行委員くらい忙しい者はいない。しかも施設管理局の最大の仕事は撤収にこそある。花火なんて見るヒマはない。トランシーバーを持たされながら昼は警備で混雑の整理をし、夕方からは立て看板を崩しテントをたたみゴミを集め、中庭の舞台を壊し始めた瞬間に、花火があがった。
出遅れたと思ったが、深町はすぐそばにいた。すっかり葉の落ちた桜の木の下で彼女は花火を見る余裕すらなく、ふくれあがったゴミ袋の口を縛ろうと腕をついて体重を乗せたり肘で押さえたりしてようやく口を結び終えたが、今度はその黒いゴミ袋を箱からもちあげるのに難儀していた。浅倉はなにかの競技でも目にするような気持ちで眉を寄せた生真面目な横顔を見つめていたが、さすがに自分の立場を思い出しトンカチの柄をジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
「センパイ、それ重いっしょ。運びますよ」
「ありがとう」
彼女は息をついてそこでやっと顔をあげた。花火を見るにはまだ少し空は明るかったが、中庭は中央棟とカフェテラスの間にあり木々にかこまれた楕円形の広場になっていて、ひとつだけある電灯は真下にあるこげ茶色のベンチを照らすだけで、二人のまわりには闇が濃く落ちているようだった。彼女の着るメタリックブルーのジャンパーがひどく浮いて見えた。平らな空き地を取り囲む低い木々のほとんどが桜だと気づいた浅倉は、入学式の日に新入生勧誘の声を聞きながらごった返すメインストリートを歩き、ふと横を見たときにここが濃い緑のむこうに花の色を隠していたのを思い出した。
あの時、足をとめて中に入ってみようと思わなかったのはどうしてかわからない。来須はこの中庭で、桜吹雪の下で彼女に逢ったのだという。そんなドラマみたいな、と突っ込むのも忘れ、浅倉はたしかにあの日は風が強かったとこたえ、自分が見たはずもない彼女の姿を思い描こうとしてやめた。かわりに、そんなんだったらいやでも目を引くよなと口にすると、来須は真顔で、あれは忘れられない、と追い討ちをかけた。桜が四月に満開になる場所にいることを改めて感じ、演出入りすぎだろ、と誰にともなく文句を言いたい気分になった。
部長の深町のアイデアだといっていたが、茶道部は他の部活のようにメインストリートで机を出して歩いている新入生を呼びとめるのではなく、ここでお茶を点ててデモンストレーションしたらしい。やるとなったら徹底してやらないと気がすまない彼女らしい、思いきったやり方だと思った。それを聞いた頃はどこから涌いてきたのかと不思議になるほど毛虫がうようよいてぞっとしたし、このあたりで昼を食べる奴の気が知れないと思っていた。そのくせ、彼女が水曜日の昼に中央棟から中庭を通って文化棟に来るのを知ってからは、二限がすぐそばの二棟の一階なのをいいことにベンチに座って待ったりした。
「今年は何発あがるかな」
深町が期待をこめた声でつぶやいた。
「はじめて見るけど、秋の花火もいいもんですよね」
「そうだね」
よし。ここだ。
持ち場があるせいか、いつも彼女にひっついている来須もいなかった。悪いけど、今がチャンスだ。
カフェテラスから流れる曲はエアロスミスの『ドリーム・オン』。ちょっと景気は悪いが彼女の好きなエアロの名曲だ。いけ、言ってしまえ。浅倉は何度もイメージトレーニングしてきた言葉をのぼらせた。
「来年も、一緒に花火を見たいですね」
「来年はどうかなあ。今のとこ、四年は卒論と就職活動があるから学祭に参加しないつもりなんだよねえ」
ここまでボケられるとは思っていなかった。察しのいい深町のことだからイエスノーでくると踏んでいたのだ。浅倉はうろたえた。
「や、そういう意味じゃなくって、その、センパイと二人だけで……」
そこまで口にしたとたん、深町の身体が急にこわばった。そして、軍手をしたまま両手で、顔を覆う。
「うそ、ほんとに……」
「え、あ、オレ」
「アサクラ君、あのね、私、てっきり知ってると思ってたから、その……」
いつでも、なんでも、物事をごまかしたり言いよどんだりしたことのない深町が今、はじめて俯いて視線をずらしている。こんなときなのに、その富士額がかわいいなどと思うヘンな余裕もあった。
「センパイ?」
「……私、酒井くんと付き合ってるの!」
泣き声に近かったと思う。
いやあほんと、何で気がつかなかったか不思議なくらいだと、浅倉は当時の自分のにぶさかげんに腹を抱えて笑いたくなる。
ふたりだけでカラオケに行ったのも、ランチを一緒にしたのも、深町にとって浅倉は「アウトオブ眼中」で、彼氏と仲のいい後輩だったからだ。学園祭の前日、来須が彼を呼びとめ、何か言いたげにしながらけっきょく首をふって、明日から本番がんばろうと当たり前の、言わずもがなのことを口にしたのはそういう意味だったらしい。
それからも、軽音楽部は意地で続けた。たぶん、深町はその話をしなかったのだろう。酒井は変わらず浅倉をかわいがり、そのせいか次の年には会計、三年では部長になってしまった。その三月には髪を切って真面目に就職活動した。Uターンというやつで札幌に帰って働くことに決めた。
浅倉にとって最後の学園祭に、酒井は深町とは違う女を連れてやってきた。聞けば、デキチャッタ婚だという。心中で毒づいた。
そのとき深町に連絡すればよかったと、なんど思ったかしれない。でも当時、彼女がいたのだ。それに、このタイミングはなんだか嫌らしい気もした。しかも札幌の会社の内定をもらった後だった。いや、何もかもそれは言い訳で、けっきょくのところ、浅倉はもう一度ふられるのが怖かったのだ。
今でも夢に見る。
パイプ椅子の積み重なる施設管理室の埃っぽい傷ついたリノリウムの床。堆く積まれた備品の長テーブル。音の割れる巨大なラジカセ。作業中にかかりっぱなしのニルヴァーナ。湯沸しポットとそれぞれ形の違うマイカップ。長い髪をひねって器用にまとめあげる深町の細い手首。備品のボールペンを回収して数えて綺麗に並べなおす姿。学園祭前日、合宿の夜明け前にふたりで歌った「ホーム・スイート・ホーム」。メタル系バンドのバラードを呆れるほど甘くて大好きだといって照れ笑いした深町の横顔を見ながら、浅倉はあのとき、もっと恥ずかしいことを思っていた。こっそりと、ふたりのテーマ曲に決めていたのはエアロスミスの「エンジェル」だ。今ならギャーと叫んで走って逃げ出したくなるけれど、本気だった。
本気で、バカだったのだ。
浅倉はいくつか単位を落としながらも無事に大学を卒業した。札幌に戻って三年間、乾物問屋の実家から勤め先に通っていた。その会社が倒産するまで。
北海道不況の始まりだった。実家は辛うじて倒産は免れたが、事業の継続がせいいっぱいだった。父親は肝臓をやられて引退し、姉の旦那が社長を継いだ。
さて、この場合、職なしの長男のすべきことはひとつだ。可及的すみやかに家を出るべし。両親が哀れな長男可愛しなどと思い出しかねぬ前に。姉夫婦のため、いや、そして何よりも自分のために。何年も前、大学のために家を出たのと同じ三月に、北海道を飛び出した。
ボーイズ・ビ・アンビシャス!
はたして、その後の浅倉の運命はいかに?
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