如月――画家の物語 常によく見る夢ながら


【二月一日】  

 二月の巴里の寂しさを、寒さを、その侘しさを君は想像できるだろうか……。

 小さく吐息をついてペンを置き、東京に残してきた恋人、鏡子を思う。

 夢のなかで、鏡子は踊り場に集う人の群れに紛れ、こちらに背を向けて立っている。僕には彼らの話す言葉も室内楽のゆるやかな旋律もなにも、聞こえない。ただ、鏡子の軽やかな、鳩の鳴き声に似た、喉奥でくぐもらせる独特の笑い声だけが耳をうつ。

 鏡子が大理石でできた階段の手すりにやわらかく、まるで触れることをためらうようなそぶりで手をのせ、僕がそこに到着した気配に気づいて身をくねらせて顔をかたむける。

 すると、高窓に嵌められたステンドグラスを通して降りそそぐ陽光が彼女のうえに不思議な文様を描く。その魔術の儀式めいた文字をうつしこんだ鏡子の肢体を見あげ息せき切って階段をかけあがるのだか、急に足下が崩れ、僕は奈落の淵に落とされて夢はそこで終わってしまう。

 落ちた衝撃に肩を揺らして目をさませば、僕は独り、凍えそうに寒い冬の夜に置き去りにされ、足が無様に震えて引き攣っているというわけだ。

ああ、鏡子。君に会いたい。こんなさびしいところに来るのではなかった。ましてたった独りでなんて。

 手紙をください。

 最後に、小さく書き足しておいた。


【二月十四日】

 まだ返事は来ない。今日はなんでも異教のお祭りのひとつで、恋人同士が互いに贈り物をしあう日だそうだ。あいにく持ち合わせが少なく、本場のクチュリエで鏡子に何かを拵えてやることはできない。

 とはいえ、僕は鏡子の恋人で画家の卵だ。僕にできることは、愛しいひとの絵姿をかいて送ることくらいだろう。ところが、どうしたことか、画帳にむかってもこの左手はすこしも思うように動かなかった。

 思うに、彼女の美しさを描きとることの困難を、いま味わっているのかもしれない。恋人であり、僕の美神でもある鏡子。

 会いたい。


【二月十五日】

 まだ絵はかけない。あまりにも寒く、今日はカフェでショコラを飲む。身体が温まる。


【二月十七日】

 おかしい。先月からもうずっと手紙が来ない。何かあったのだろうか。

 鏡子に限って心変わりなどないとは思うが、鏡子は美しい、心配だ。


【二月十九日】

 いくど描いても、鏡子の顔に似ていない。あの愛らしさ、コケットな魅力、そういったものが少しも描けていない。才能のなさを思い知る。悔しい。


【二月二十一日】

 記憶というのは不思議なもので、胸に確かに刻みつけたと思うものほど危ういものはなく、正直なところ、僕はもうまったく彼女の顔を思い描けなかった。いやしくも画家を目指してこの街に来たというのに、なんということだろう!

 そのかわりといってはなんだが、鏡子の着ていたドレスの襟を飾るカメオの女性の横顔、そのなんともいえず優美なあごの線や、彼女の手にしていたオルゴォルの蓋に刻まれた薔薇の花弁のようすや、はたまた紅茶を飲むために用意された角砂糖をのせる銀のスプゥンの柄にある英国風の獅子の紋章――そうしたものは今も手にとって見なくともはっきりと思い出し、それをためしに画帳のうえに描き写すことができるのだった。

 それだけでなく、シャンデリアのしたで揺れるダイアモンドの耳飾りの煌めき、彼女の手をつつむ子羊の革でできた馨しい手袋のステッチが描く曲線、黒銀の狐のやわらかく豪奢なマフの手触り、巴里のクチュリエ仕立てのドレスとともの生地の絹の靴を飾るリボンの光沢、そうしたものも描き出すことができた。

 初めて会ったときに着ていた、扇面を華麗にあしらった紫縮緬の大振袖。刺繍された桜模様の半襟。胸高に締めた帯と紅い扱き。洋風の、がま口のついたビーズのバッグ。蒔絵の髪飾りの模様は流水で、房のついた薄い桃色のビロードのショールを肩にかけていたはずだ。僕の画帳には今、物ばかりが幾つも幾つも拡げられている。まるで、鏡子の衣装箪笥がそのままこの紙のなかに納まっているみたいだ!

 それなのに、鏡子。

 鏡子の姿がどうしても思い出せない。

 背は低かっただろうか、高かっただろうか。

 色は白かっただろうか、それとも日に焼けていただろうか。

 おかしい。僕はたしかに鏡子の婚約者だったはずだ。手紙が来ない。愛想をつかされたのだろうか。僕が勝手に旅に出てしまったから。

 鏡子、会いたい。


【二月二十三……ちょっおと、待った!

 私はベッドから飛び起きた。

「なんだこれ! だめでしょ、これじゃ。こんな夢ばかり見させられたら気が狂う。こんなのぜんぜん望んでないってば!」

 これで二十日間以上、この調子だ。しょうがない。ちかくのファミレスにでも逃げよう。インターネットカフェはなんとなく暗くてイヤ。寝てしまうと起こしてくれるロイヤルホストしか、行き場はない。今日という今日は眠ったら狂い死ぬ。

 徹夜は三十の大台をこえるとキツイというのに、なにが貴女なら平気、だよ? 嘘吐きめ。封を開けてないのに、いや、開けてないからか、ん?  私ってば開けてない場合の話しを聞いてなかったじゃん。

 それにしても、こんなものやっぱり受け取るんじゃなかった。こんなものつき返して……って、でも、そしたら獏はどうなるの? 

 ダメだめ! 返しちゃダメ。

 でも、じゃあどうすればいいんだろう?


 その夕方、請求書の切手を貼りながらゆっくりと考えた。

 今日は来客も少なくて週末なのにバタバタしないですんだ。応接室においでのお客様は今夜宿泊予定で金沢からお越しのお取引先様だから、このまま接待先に車をまわせばいい手筈。呑む前にあんまりお腹をたぽたぽにしてしまっては申し訳ないからお茶を差し替える必要はなし。お店に連絡は入れてあるしタクシーは外に出ればすぐ拾えるし、お土産の手配もしてあるし問題ない。企画御提案書もさっき全部、もれなくお渡し済み。応接室のお片づけ&お掃除は、週明けでいいや。ガラステーブルは手垢がつくからクリーナーで拭かないとならないけど、マメな社員が多いとはいえさすがにそこまでやってくれない。早くテーブル買い換えてほしい。

 今の勤めは、小さなコンサルタント会社だ。コンサルOLというのは一度やってみたい憧れの職種だと思っていたのだが、実情はただの零細企業の事務員さんだった。京都の創業三百年をこす老舗呉服問屋の次男坊である社長が外資系製薬会社を辞めて呉服屋さんをお客様にして始めた会社で、女性社員は私しかいないって言っただけでそのこぢんまりさがわかるかしら? 

 今朝は早く出社したから余裕があった。本当は昨日までに出したかった請求書をようやく終わらせられてほっとする。だって五組も打ち合わせのお客様がこられて伝票入力なんてしてる時間はなかったんだもの。世の中には二十日締めというのが存在して、なぜかそれは十日や月末締めよりすこしだけ偉そうで、月末にすべてを締めるとき同様の緊張をこちらに強いるのだ。でも、請求書をつくるのは支払い書をつくるよりなんとなくうれしい。こういうのをゲンキンというのかも。これで世の中がうまく回るという気がする。

 そうだ。やっぱり絶対に返すのはダメだ。でも、話しくらいもっとちゃんと聞かないといけない。取扱説明書くらいもらっておかなきゃ。大人なんだから。

 タイムカードの表示は五時五十一分だ。早く来た甲斐があった。角のポストの集配がくるのが五十五分。間に合うね。切手を貼った請求書の束をもって、さあ、これをポストに入れてから行くわよ。


「いらっしゃい」

 暖簾をくぐると、男のひとの声がした。ぎくっとして立ち止まると、そのひとはスポーツ新聞から顔をあげてこちらを指さした。

「深町センパイ?」

「アサクラ君?」

 どうして、という言葉が双方からもれた。それから、ふたりして笑いあった。

「北海道にいるんじゃなかったの?」

「そんなの、卒業してすぐのことっすよ」

「じゃあ、ずっと東京だったの?」

「まあとにかく座って、お茶でもどうですか。まずお客さんにお茶を出せっていわれてたんで」

 そうか。今、彼はここのアルバイト(パート?)なのだ。それにしても、獏も嵩高くておかしかったけど、長髪に革ジャン、スキニーなブラックジーンズに鋲付ベルトと全身カラスのように黒いアサクラ君も、この空間にはミスマッチすぎる。

 あいかわらず、足、ほっそいなあ。隣立つのいやだったんだよねえ。茶托を忘れて仕切りの奥に取りに戻る後姿だけ見ると、あの頃とそう変わらない。ぎょろっとした大きな目は昔どおりで、ちょっと頬がこけた気がするせいか前よりもさらに濃い系だ。あの髪の長さだととりあえず前の仕事もサラリーマンじゃあないなと検討をつける。さて、ひとさまの見かけを判断するということは相手も同じようにしているってことだ。

「アサクラ君、ということで、君もここでひとくさり、ぶちかましてくれていいよ?」

「センパイ?」

「遠慮はいらないから。老けたでも、まだ結婚してないのかなでも、かまわないからね」

「いえ、あの、オレはですねえ」

「頁数もったいないから、言わないんなら本題にはいっちゃうよ」

「はあ、望むところです」

 望まれたようなので、続けよう。いや、待った。これだけは最低限、確認しておかないとならないことがある。

「アサクラ君は、バ……時任さんを知ってるの?」

「オレ、オーナーも前の人も直接会ったことないんすよ。このバイトも友達からの紹介で」

 ということは、獏がバクだと知らずにいて、ましてや夢売りだとも知らないと思ったほうがいい。

「そう。じゃあ、まあいいや。ところで、アサクラ君は今までどうしてたの?」

 そこで彼はきゅうに立ちあがる。

「センパイ、夕飯まだでしょ? 寿司とるんで、いっしょに食べてきませんか。さっき景気付けに友達からビール半ダース貰ったし」

「なに、いきなり。贅沢ねえ」

 そういうと、彼は派手な割引券をひらひらと指の間で揺らした。

「どこでもらったの、それ?」

「ポストに入ってたんですよ。期限今日までなんで使っちゃおうと思って。給料日前だけどたまにはオレが奢っちゃいますよ」

 変わらないなあ、と笑う。すると彼は受話器を肩にはさんで振り返り、十年ちょっとじゃそうそう人間変わりませんって、とこたえた。 

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