夢詩壷
磯崎愛
睦月――時任洞の物語 うつし世は夢 夜の夢こそまこと
失敗した。こんな日にかぎってピンヒールのブーツ履いてきちゃったよ。
二十二半の靴の踵が落ちるほど狭い、手すりのついた急な階段を見あげていったん立ちどまる。カラオケボックスの派手な蛍光看板をちらりと横目にし、気合を入れて鞄を肩にかけなおす。左手には本の入った紙袋の持ち手が食いこんでいる。
目指すは「時任洞」、古美術・古道具屋だ。
一階に大衆居酒屋、二階にカラオケ、三階には現代アート画廊というエレベーターもない雑居ビル最上階の四階にそれはある。
「こんばんは」
入り口にかかる藍染の暖簾を右手でおしあげて見えるのは、正面に陣取る階段箪笥だ。その上にそれぞれ、紫座布団に座った金色の招き猫、マサカリ担いだ金太郎さん、ガラスケースに入った博多人形が置かれている。これだけ頭身の違うものを同じ高さだというだけで並べられる店主のセンスがすごい。
まったくもう、お客がきたのに出てきやしない。
古美術の部分はどうも、うそくさい。作り付けの棚には箱書きのついた萩茶碗もあるけれど、さっぱりよいものに思えない。その隣に安手のお題茶碗がばらばらと並べてあるのが艶消しなのだ。じゃあ何が目当てかというと焼き桐の箪笥におさまった古裂とアンティーク着物だ。これにはまって二年ばかり、月一ペースで通っている。初釜におよばれしたあと、茶道具セールの看板につられたのがはじまりだ。
これで店主が眼鏡の似あう美青年だったなら、私だってもっと頻繁に来ることだろう。ところが、鳩時計のかけられた仕切りの奥にいるのは、美青年どころか人間でもない。
まあ、ありていにいって、いやもうこのさいはっきりいうけれど、そこにいるのは正真正銘の獏なのだ。夢枕獏じゃないよ。もしそうなら、即刻『キマイラ』の続きか、いや、なによりも『ねこひきのオルオラネ』をまた書いてほしいと懇願する。十代のころ胸に抱えて寝たこともあるロマンチックファンタジーだ。
「あら、いらっしゃい」
ようやく目の前にあらわれたのはおよそ.体長二メートル、熱帯地方にいて夢を食べるという奇蹄目バク科の獏。ただし、動物園にいる獏ほど泥っぽくない。いま特別な洗剤で洗ったばかりというくらいツルピカの、白黒の巨大なマレー獏がのっそりと長い顔をあげて口にした。
「さっきからずっと、誰に話しかけてるの?」
生意気に、こんなデカブツなのにめちゃくちゃ可愛い声で話すのだ。
「読者だよ」
「それ、いないと思うよ?」
チチチ、私は舌をならして人差し指をふる。
「いないかどうか確かめる手段は私達にはないの。シュレディンガーの猫といっしょでね」
「なにそれ、トリビア?」
「ちがうよ。読者が本を開いて読み始めるまでその中身がどんなものなのか、ほんとうのところは誰にも確かめようのないものなの。書評とか帯の文句に騙されちゃだめよ。本の中身はそのひと自身の一回ごとの体験で、けっして同じように繰り返されることのない、再現不可能な貴重な体験をいうの。本というのは本来、そういうもの」
「そうかなあ」
獏が長い口吻を左右にふる。ちょっと、象に似てる。そのまま、よっこいしょ、と近くの丸椅子に腰掛けた。いつも不思議なんだけど、座れるんだよね。
「読書がいったい何に似ているか、考えたことがある?」
「なにって」
「人生」
「はあ~?」
今、半目になったよ。獏のくせに!
「信じてないな」
「だ~って~」
獏は身をよじって上目遣いで私を見た。
「アタマ悪いひとに見えるから語尾をのばすなって言ってるでしょ」
「でもぉ、じっさいあたし、バクだしぃ」
「そこは馬鹿だよ、バ、カ」
「やだ~、あたしバクだからぁ、ウマシカだけは言われたくないのに、ひっどお~い」
獏は二足立ちになって長い頤したに両前脚をもってきて、頭を左右にゆるゆるとふってみせる。
これはもう、わざとやっているのだ。
ひねこびた三十代独身OLには何があっても真似できない荒業だ。もっとも大昔の美少女アイドルと違って、ふんわりカールした髪が揺れたりしないからただただ不気味なだけなんだけどね。
「それで、今日の呼び出しはなに?」
さっさとビジネスモードに切り替えた。月末の呼び出しは珍しい。出物でもあったのかしら。友達が吉祥寺でやっている古着屋さんにここの布地や小物を卸している。月に儲けは映画一本分もないアルバイトだ。去年一年の収支でいうと有田の鶴首(代金二万円)さえ回収できていない。でもまあ、自分の選んだ布地がお洋服や可愛い小物になって買われていくのはうれしいものだ。
獏もすぐ了解して、黒檀のテーブルにのった小さな壷を口吻でさししめした。人間でいえば、あごでしゃくったというところだろうか。
「これが?」
いつものアルバイトじゃないと気づいて眉をひそめた。これは商売のほうだ。つまり、獏の本業。夢売りの仕事。
「夢詩壷よ。あたしの商売道具。売り物ね」
「ムシ壷?」
どんな夢でも見られるそうだけど、なんだかそれはひどく淫らな気がして丁重にお断り申し上げていた。
「安くしとくわよ。でも、転売はしないでね。人死にが出るといけないから」
「そんな物騒な代物いらないよ」
怖気て口にすると、獏はさらりとこたえた。
「貴女なら平気。というより、それを持ってるとあたしも引き摺られていきそうだから、貴女を信用して預けたいの」
信用なんて言葉がとび出すとは驚きだ。すぐそばの藁張りの椅子に腰をおろす。
「何かあった?」
問いただすと獏はふっと皮肉っぽく笑う。獏も笑う。犬が笑うよりはずっと人間らしく。
「ちかごろじゃ、目に見えるものしか信じないひとが多くなって商売あがったりなのよ。雇われオーナーは辛いわ。ここのお家賃払うのも一苦労よ」
時代劇なら、こめかみに膏薬をはった女将が煙管から紫煙をはいて空いている手でぽんぽんと肩をたたきそうな素振りだった。年末に自分へのご褒美がわりに買った南部鉄瓶の代金三万円がまだだったことを思い出し、あわててお財布をとり出した。
「今日は一万円もってきただけだけど、来月のお給料日には二万円払うから」
「それじゃ月賦の意味ないじゃない」
「月賦って、懐かしいひびきだね」
獏は先ほどとはかわって可愛らしく笑ってから口にした。
「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」
「江戸川乱歩」
「ご名答。もっていって」
獏が壷を右脚でこちらのほうにすすめた。私達は本読み友達なのだ。お互いに本を貸し借りしてああだこうだいう仲で、たまに、こういう遊びをする。タイトルと作者名だったり名台詞や冒頭文だったり。
たとえば、映画にもなったマイクル・クライトンの『ジュラシック・パーク』を私が貸すと、獏から『琥珀捕り』という現代アイルランド作家の本が返ってくる。アルファベット順に並んだ、読み進めるのがもったいないくらいの二十六の物語に酔い痴れた私が、今度はジュール・ヴェルヌの『海底二万里』と『八十日間世界一周』を「ご主人様と執事&下僕萌え小説」だから腐女子視点で読んでみてと渡すと、同じくフランスの作家パスカル・キニャールの『シャンボールの階段』のピエールが主人公のエドワールに頑固にムッシューって呼び続けるほうが萌えじゃない、などと獏に押しつけられたりする。そんなふうにして楽しく遊べたのだ。
けれど今回はちょっと、趣旨が違うんじゃないのかな。
「いくら?」
「今のが代金替わり。それから、あたしはしばらく店を空けるから」
問いかけに、ひらりと身をかわすようなさりげなさでこたえられてしまった。あいかわらず、草食動物らしくない身のこなしだ。
「旅行でもいくの?」
獏が踊り子号に乗っているところを思い浮かべていた。某ペンギンには負けるけど、絵的にはわりと可愛いと思う。
「まさか。ちょっと身を隠してるのよ」
「このせい?」
壷に触れるのがいやな感じがしてたずねたのに、獏はこちらの問いかけを無視して、鉄瓶の分の領収書いる、などときいてきた。自宅用だからいらないとこたえて、お茶席で「拝見」するときみたいにテーブルに手をつきうつ伏せるようにして壷を見た。
とくにこれといって変わった様子もない、素焼きの壷だ。珍しいのは蓋が茶壷のように和紙の反古紙でしっかり封をされているくらいだ。でも、よく見ると、なんというか匂いがない。モノにはその所在を示す気配みたいなものが当然あるはずなのに、それが見えない。景色がない。文字通り釉の有無じゃなくて、背景とでも呼ぶべき何かがないのだ。遺跡から出てきて考古学博物館に記号番号付で納められててもおかしくないし南仏でリボンをかけられポプリを入れて売られてても変じゃない。自慢するけど、物を見るのは慣れてるの。
顔をあげて振り返ると、後ろから獏がいった。
「今までとモノが違うのよ。なかに銀河系まるまる入ってるって言われても驚かないくらい異質なの」
「それ、とってもアヤシイ感じよ?」
「あのね、怪しいものが怖くなくなったらおしまいよ。だいたい、しゃべる獏がいる店に長居できるんだから今さらでしょ」
「私だって、いくらなんでも命は惜しいよ」
一瞬の間のあとに、獏がけじめをつけた。
「そうね。じゃあ、一月たったら返してもらう。たぶん、その頃にはこっちもどうにかなってると思うから。じゃあ今その封を切って」
「待って。使わない」
「それは、無理よ」
獏が、心底呆れたような顔でいった。
「無理でも何でも、私は夢を買わないから」
「封を開けないなら、夢をコントロールできない」
コントロール? 夢くらい、無意識でもなんでもわけのわからない何かに任すよ。そう思ったのが通じたのか、獏が器用に肩をすくめた。
「変わってるわね。夢くらい自分の自由にしたいっていうひとが多いのに」
「私はイヤなの」
思ったよりずっときつい調子になってしまいうつむいた。獏がまだ何か言いたそうなそぶりを見せたので、
「とにかく、預かるから。任せて」
そう、強引に言い切って壷を紙袋にしまい、わざと話題を変えた。嫌な雰囲気のままではいたくなかった。
「それよりこれ、すご~く面白かった」
演出するドラマが好きだからきっとハマるだろうと思ってた久世光彦さんの『一九三四年冬―乱歩』、タイトル通りに江戸川乱歩が主役のあやしく美しい物語。いやもう、乱歩自身が嫉妬しそうな小説内小説の「梔子姫」の艶めかしさと切なさがたまらなかった。
鞄の仕切りポケットから角が折れないように紙袋に包んで入れてきた文庫本をとりだす。
「貴女が好きそうだと思ったのよ」
うん、ほんと大好きとこたえると、獏はちょっと自慢げに微笑んで本を受け取った。
「いつも、どうもありがとう」
「こちらこそ」
獏が深々と頭をさげた。私も踵をそろえ手を重ねて頭をさげた。下でいったん止まり、それからゆっくりと上半身をあげた。お辞儀のコツは、さげる速度より頭をあげるときやや遅くすること。貴女のお辞儀は見応えがするとウケてくれて以来、獏にはなおざりにしないことをしている。そんなことくらいで獏が喜んでくれるならいくらでもする。
「ところで、今日のブツはなに?」
獏の問いに、壮大なSF巨編ダン・シモンズの『ハイペリオン』シリーズを掲げてみせた。文庫落ちするまで待って大人買い。あまりに大部で気軽にすすめられないのが難だけど、獏ならば大丈夫と喜び勇んで運んできた。
「なんで貴女の持ってくる小説はいつもそう長いわけ?」
「だって、長いほうが好きなんだもん」
「こないだ『神曲』の三巻本を読まされたばっかりなのに。その前も五冊続きのSFで」
「『銀河ヒッチハイク・ガイド』。でも、面白かったっていったじゃない」
「それは否定しないけどぉ」
詩聖ダンテ様の『神曲』はSFだろ、というのが私達ふたりの共通見解だ。それだけでなく極上の「師弟萌え」話なので師弟好きなひとはこの本を閉じて今すぐそちらを読みに行くといい。本当だ。うそはつかない。
それにしても、美女は早死にせねばならぬというフィクションにおける掟は、かのダンテ様の嘘偽りない初恋から始まったわけじゃないだろうけど、解せない。映画『タイタニック』はその点、えらかったかも。かといって、戦争もので愛する女性を守るために死にます、とかいうのも興醒めなのだ。さいしょから戦うなよ、といいたい。
「じゃあ、次にくるときはアルフォンス・ドーデかモーパッサンの短編集もってくる。こないだ読み返したら心洗われるような気持ちになってね」
「どっちも古典じゃない。新刊はないの? 小説はノベルっていうくらいだから新しくなくっちゃ」
ハートマークがつきそうな勢いでうきうきと宣言されても困る。獏のいうことはもっともだけどそうそう買ってはられないし、新刊なら必ず新奇かっていうとそんなこともないじゃん。
「さいきん本屋さんには寄らないの」
お金を貯めて『ボッティチェッリ全作品集(六万四千円税別)』を買おうと思ってるから近づかない。行けば、色んな本が欲しくなるんだもん。
美術書でいいんなら、と私が口を開きかけると、
「あんまり専門的なのはやめて。じゃなきゃ、貴女の話を聞いたほうが面白いから」
おもいっきり釘をさされた。フランスの碩学アンドレ・シャステルの『ルネサンス精神の深層――フィチーノと芸術』を読まされたことを思い出したようだ。
獏に世界的ベストセラー『ダ・ヴィンチ・コード』を貸したあと、あの世界観を理解するためにヨーロッパ文明の背景に流れるオカルト思想にが描かれた本を貸そうと思っていた。つまり、ウンベルト・エーコ先生の傑作『フーコーの振り子』やコリン・ウィルソンの『賢者の石』、またはそれそのものの『レンヌ=ル=シャトーの謎 ・ イエスの血脈と聖杯』といった書物だ。ところが獏は、陰謀史観やクトゥルフ物はもうけっこうと西洋美術史へと意欲をみせた。ではと意気込み、仕切りなおしでレオナルド・ダ・ヴィンチが登場する小説を列挙した。そのまま西洋絵画オタクとしてはプッサンの絵を見てぜひともフランスアカデミーの成立起源まで辿りたかったのだが、私の「計画」の前に大きな壁がたちふさがる。
そもそもネオ・プラトニズム(新プラトン主義)ってなにというのだ。それを説明しろといわれると、どこからどう話せばいいかわからない。日本語でいうところのプラトニック・ラブの語源になった思想だけど、これがもうほんと複雑すぎて大変なのだ。哲学なんて難しくてわからないし、プラトン全集は拾い読みだし、キリスト教公会議の歴史やら教会分裂、コンスタンティノープル陥落等など、私の手に負えなかった。負えないから件の本を貸したのに、読んだらかえってわからなくなったらしい。
なんでギリシャ人のプラトンとキリスト教が一緒になるのっていう至極真っ当な質問に、私は獏を納得させられるようにこたえられなかった。ちゃんとした、百科事典にのっているみたいなことを述べたつもりだったんだけど、全然、通じなかった。まあそうだよね。自分でも正直、ナゾだなあって思ってるんだもん。
だからしょうがなくて、ボッティチェッリの《春》と《ヴィーナスの誕生》、それから『神曲』の挿絵について、ネオ・プラトニズムの影響があるんじゃないかって思われることを語ってきかせたら、妙に感心された。すごくウケタのだ。
「私の話でいいの?」
「貴女の話だから面白いんじゃない」
真顔で口にされると、正直、照れる。こういうのを面映い、というのかもしれない。だって、ほっぺが熱くなる。
獏が本の表紙を見ながらいった。
「……ほんとは、小説じゃなくて絵のことが話したかったんじゃないの?」
返答に困り、うつむいている獏の長い顔をじっと見た。
「あたしも、貴女みたいに絵をかけるとよかったんだけどねぇ」
「かけばいいじゃん」
かるくいなすと、獏はひどくおおげさに首をふった。
「だめだめ。まったく、ぜんぜん、絵心ってものがないからダメ」
そこまでいわれてしまうと返す言葉がない。だから話をもとにもどした。
「でもさ、絵について語るなんて無謀だと思わない?」
「それをいうなら、そもそもなにかについて語るってこと自体、無謀というか野望じゃないの?」
野望といわれると、ちょっとかっこいい。
ただ一枚の絵を理解するのにさえ人類史を知ることなしには不可能と感じるようになった、と『薔薇のイコノロジー』で書いた若桑みどり先生の言葉くらい、私を納得させ、怯えさせ、鼓舞する言葉はない。それはすごく正直な、うそのない、掛け値なしの真実の告白だと思う。読書中になかなか、そういう声を聞けるものじゃない。みんな、わかったようなことを言いたがるものだ。
昔から、「物語る」ということが気になる。それはもっぱら文字のことじゃなくて視覚芸術についてのほうだけど、絵に「おはなし」がどうやってかかれているのかが気になる。場所、時系列、登場人物の姿かたち、動き、感情表現、などなど。なにかを読みたくなってしまうというか、読まされているというか……。
絵のなかに描かれている「おはなし」を理解しようとすると本を読まないとならない。けれど逆に、いったん絵として流通してしまった「おはなし」がまた今度、「おはなし」そのものに立ち返っていく。そういう連鎖の輪に触れてしまうと、いくら本を読んでも絵をみても、まだまだ足りないと思ってしまう。理解なんて不可能だとわかっていても、やめられない。とまらない。
「話の前提条件として、獏と私が《同じ本》を読んだってことはまあいちおう信用できるじゃない? 本は印刷技術のおかげでとりあえず落丁本みたいなものを抜いては、今現在は信用できるテキストがあるような気がするっていうか」
「写本だと、写し間違いなんかありそうね」
「そう。一応、流通してる本の場合は版を確認できれば、とりあえず《同じ》ものを見ているっていう信頼感があるけど、絵はね、現物にあたる以外、本当にもう、どうしようもないの。フレスコ画なんかまず簡単に動かせないし、とりはずしてもダメなのよ。その場所に行って見ないとわからないことがあるから。なにより、人間の目くらい信用のおけないものはないもの」
「バルトルシャイティスの『アベラシオン 形態を巡る四つの伝説』。錯視、目の迷いのことだよね」
深く、ふかく、何度もうなずいた。
今まで貸した美術書関係で獏にいちばん評判がよかったのが奇想の美術史家ユルギス・バルトルシャイテイスだ。澁澤龍彦のネタ元である。澁澤と種村季宏、荒俣宏といった方々がお好きならきっとハマる。獏はその流れで読み進められたんだと思う。しまいには、誰かこのひとのことを小説に書けばいいのに、とまで言っていた。ほんとにね。美術史家は小説の主人公に向いてるとおもう。絵を見ることは謎解きにちかいから。それに本人たちの人生も何故かしらドラマティックだ。「神は細部に宿りたまう」と言ったらしい、イコノロジー(図像解釈学)の始祖ヴァールブルクというひとは、ナチスから逃れてロンドンに渡ったり、家督を弟に譲るから研究費出してとねだったそうで、ほんとに小説の主人公みたいだと思う。
そんなふうにして紅茶を飲みながらこの一月の間に読んだ本の話をして八時をまわった。するとそこで獏から遠慮がちに声がかかった。閉店時間だ。私はよほど、驚いた顔をしたらしい。
「ごめんなさい。悪いわね」
ひどく申し訳なさそうに、獏が謝った。帰りをうながされたことは今まで一度もなかった。前は十一時になろうと、ふたりきりで話し続けていたんだから。
「代わりの人のために色々整理しとかないとならないのね」
そりゃあそうだ。私も謝った。でも、さっきみたいに嫌な感じにはならなかった。お互い仕事のある大人だし、そういう了解がちゃんとあった。
ソーサーのない半端もののノリタケとウェッジウッドのカップをそのままにして立ち上がる。獏はほんとに自分でなんでもやりたいひと。自分がお客さんの場合の「そのままでいいから」の見分け方はなかなか難しい。洗い物はすみからすみまで自分でしたいタイプなのか他人に任せても平気なのか、こまめにしたいのかまとめてさあと腕まくりしてやるタイプなのか、拭いてちゃんと棚に収めないと気がすまないのか洗い籠に置いて乾燥するのを待つほうなのかとか。
まあでも、獏と私がそういうことに一々緊張してしまう時間はとうに過ぎている。獏は紅い飲み物が好き。私は白い飲み物が好き。紅茶は絶対ストレートという獏と、ワインは白だよ絶対という私と、それでお互い楽しくやっている。
帰りはいつも通り扉まで獏が見送ってくれる。手をふって、またねという。またね。じゃあ、またね。
でも今日は、扉をふさぐくらい大きな獏が、何故だかすごく頼りなく見えた。薄っぺらく、揺らいでいた。それは獏がバクに見えると口にした時以来の、奇妙な見え方だ。
あれは出会ってから一年もすぎたころ、私達はもうすっかりお客と店主というより読書仲間になっていた。本を貸して読みあう関係もディープで遠慮がなくなった。私がフランスで文化大臣をつとめたアンドレ・マルローの若い頃の作品『風狂王国』を貸したあとイタリアの作家カルヴィーノの傑作、マルコ・ポーロがフビライ・ハンに物語る『見えない都市』が返ってきて、澁澤好きだという獏にその絶筆である『高丘親王航海記』を枕に、おそるおそる切り出した。
獏の巨体がその瞬間、ひらたく潰れてこの世界に刻み込まれたように感じた。輪郭線が際立って、白黒の陰影がそこにあらわれた。それこそ天才彫刻家ドナテッロの浅浮き彫りみたいだった。実際はほんのわずかしか高低差がない彫りなのにびっくりするくらいの奥行きが出現して、獏が遠いところにいるのかすぐ近くなのかわからなくなった。目を凝らしてそれを眺めていると、獏は甲高い声をあげ、なんで今まで黙ってるわけ、もう一年もたってるのに、今頃いわなくてもいいじゃない、とこちらを責めた。
私はなんといっていいかわからなくて、バルトルシャイティスの『幻想の中世』をさしだした。獏は表紙を見てすぐ表情を変えた。ついでに元に戻っていた。あ、これ読みたかったのぉ、といってそそくさと受け取った。無言のまま様子をうかがっていたら、さすがにばつが悪かったらしく、そういう秘密を打ち明けるときはもうちょっと気をつかってよ、とうつむいた。
こちらが謝る番なのかと微妙に納得がいかないような気がしながらも謝罪した。あやまったら、意外と気持ちが落ち着いた。やっぱり私が悪かったかもしれないと反省したところで、獏が吐息をついた。
ごめんね。びっくりしたの。ほんと、ごめんね。
そう、かわいらしい小さな声がいった。大きな獏が、すごく小さく見えた。私は本当に悪いことをしたと思い、もう二度と獏を驚かせないようにしようと誓った。本当はいろいろ聞きたいこともあったし(なにしろしゃべる獏だもの)、ひとりになると疑問が胸に渦巻くことばかりだったけれど(気が狂ったかとか、妖怪か宇宙人かとか)、それは無理やりに押し込めた。
初めて会ったときからいつも獏は本を読んでいた。あるときなんの気なしに、それ面白いですかと尋ねたところ、よかったら貸しますよ、と言われたのがダンセイニ卿の『最後の夢の物語』だった。
夢、か。
獏を守りたかったから壷を受け取ったくせに、軽くなったはずの紙袋が妙に重く感じて足をとめた。本を貸してもらえなかったことに気がついたのは、二階と三階の踊り場まできたときだった。
下から足音が聞こえたので立ち止まると、看板を抱えた小柄な男のひとに、すみません、どうぞ、と逆に譲られた。一度だけのぞいたことがある三階の画廊のひとだ。上の時任洞によく来るんですよと話したことがあるのに、こちらを覚えていないようだった。
あのとき、このひとは獏を時任さんと呼んでいたから知り合いってことだ。獏についてきいてみたくなった。喉元まで出かかった言葉の気配を察してか、そのひとは立ち止まったままの私を不思議そうに見あげた。
「あ、いえ。すみません。さようなら」
「あ、どうもありがとうございます。さようなら、お気をつけて」
その言葉を聞き終わらないうちに自分でもこわいくらいの早足でその横をすりぬけて、階段をかけおりた。
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