第7話 私誘拐事件 06

 私の顔を覗き込みながら挨拶してくる女性。

 母親だった。


「怖かったでちゅねぇ。お兄ちゃんが来てくれたってねぇ」


 母親の言葉に、きゃっきゃっと笑いを返しておく。


「……やっぱりあのベビーカーは買い換えるしかないかなぁ……この子のトラウマにならないようにねぇ……」


 母親が心配そうにそう呟く。

 大丈夫だ。私はそんなにやわではない。むしろそんなにやわだと思われていることが心外だ。ついさっきまでベビーカーを買い替えてほしいとは思ったが、それはそれ、これはこれだ。

 今までの言動を見て私がそんな弱い人間だと思えるのか。

 喋ったことなどないけれど。

 しっかし、母親であるから言わなくても伝わっては欲しかったが――

 ……あ、そうだ。


 伝えると言えば、一番伝えやすくて近い人間は母親じゃないか。


 ならば、さて、どうやって伝えよう。

 その方に思考を切り替える。

 とりあえず、アクションを起こすか。

 私は渾身の力を振り絞ってベビーカーを示す。

 

 ――だが、誤算。


 私がいくらベビーカーを示そうとも、腕がそこまで上がらない。

 上がっても筋力が無いのですぐに落ちる。

 仕方ない、作戦変更だ。

 私は母親の腕を叩く。

 これだ。

 私は何かに気が付いているぞ。

 あうあうと声を出しながら、限りある筋力を使って腕を上げ下げさせる。


「あら。あらあらあらぁ」


 母親は微笑みながら私の頬を触る。


「じたばたして、どうしたんでちゅかぁ? お腹空きまちたかぁ?」


 駄目だ。分かってもらえていない。

 私が泣いていないんだから、おむつでも食事でもないことは分かって欲しい。

 考えてくれ、母親。

 ……無理な話か。

 傍から見たら手足をじたばたさせているだけだ。何かが不満で訴えたい、というところまでは分かっても、それがベビーカーを差しているとは気が付くことが出来ないだろう。

 もっと具体的に、ベビーカーが怪しいということを伝える方法が何かないのか。


 何か……何か言葉以外の伝達手段が……


「はいはーい。分かりまちたよ」


 悩んでいるこちらをよそに、母親は私を揺らしながら首を縦に動かす。

 分かった、と言っているが、それは確実に私が伝えたいことを分かった、ということではないだろう。

 恐らくは……


「ごはんの時間でちゅね。よちよち」


 やっぱり。

 お腹が空いたという勘違いをしたのだろう。いや、お腹が空いていないといえば嘘になるから、そこに対して勘違いと言うのは少し異なるだろう。

 ……ん? ごはん?


「すみません。少し離れていいですか? この子にご飯を与えたいので」

「ええ。構わないですよ。――あ、そこのドアを出て右手の方に共用トイレがありますので、もし良ければそこをお使いください」

「ありがとうございます」


 母親は私を連れて事務所から出る。

 向かう先は共用トイレだと言ったから、恐らくは私に食事を与えるのだろう。

 赤子に食事を与える方法は限られている。

 その中でも母親が取る方法は、これだろう。

 授乳。

 自分の母乳を私に与えることであろう。そのために人目に付かない所を行こうとして、それを察した事務員がトイレの場所を伝えたのだろう。

 しかし、授乳か……

 必要な行為と分かっているが、知識ある分、少し恥ずかしい気持ちも生まれてくる。


「……」


 閃いた。


 その場で閃いた。

 その手があったではないか。

 授乳であれば、私の身体を大きく動かさずとも、母親に伝達する手段がある。

 体力もあまり消費しない。

 方法は簡単だ。

 母親の母乳を貰う際に伝えればいい。

 しかし、ベビーカーもないのに、どうやってベビーカーを示す?

 それは違う。

 ベビーカーがその場になくても、ベビーカーに何かがあるというということを伝える方法はある。

 発想を転換させる。

 言葉を発せられない私が出来ることは、身体で指し示すことしか出来ないと思っていた。


 違う。


 言葉は伝達手段だ。

 私は言葉は喋れないが――伝達手段は持ち合わせている。

 肌と肌が重なれば、相手に振動は伝わる。


 振動じゃなくてもいい。

 違いが判ればいい。

 言葉のように無数に無くていい。

 ひらがなのように四十八文字もいらない。


 二種類――正確には三種類。

 三種類の違いだけで、人は相手に伝達する手段を持っている。


 そう。



 だ。

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