第5話 私誘拐事件 04

 男の顔がハッとする。どうやら正気に戻ったようだ。

 しかし逆に焦りを顔に張り付けて、声の方へと顔を向ける。

 私が良く知る声の方へと。


「ぼく? これはおじさんのベビーカーだよ。何を言っているんだい?」

「嘘だー。だってほらー」


 ててて、と走って回り込み、私の顔が見える位置まで移動する。

 そこにいたのは、少年。

 五歳児の少年。

 無邪気に笑顔を魅せる少年。


「やっぱりいたー。この子、僕の家族だよ」


 兄。

 私に唯一存在する兄弟。

 五歳という年齢にそぐう少年だった。むしろ少しおっちょこちょいな面もある、普通の少年だ。半年暮らしていたが、年相応の言動をする彼に、わざとらしささえ感じる程である。


「元気―?」


 そちらこそ元気良さそうだね、と返しをしたかったが出来ない。

 残念ながら私は赤子だ。


「えへー」


 だが。

 兄の笑顔でようやく安心も出来、私は自然と泣き止んで赤子特有の笑顔を返せるようになった。うん。兄は癒し要素なのかもしれない。


 さて。

 兄は良いタイミングで来てくれたものだ。


 モールに着いた途端に元気よく親元から離れて自由行動をしていたのだから。子供用の携帯電話を持たせているとはいえ、母親もよく放任できるものだ。その点、母親は少し普通の人間から軸がズレているようだ。ベビーカーを外に置きっぱなしにするし。まあ、でもあれは短時間で誘拐されるとは思えなかったから、一概に母親を責めるわけにはいかない。


「ねえねえ、何でおじさんがうちのベビーカーを持っているの? お母さんどこ?」


 兄は子供特有の場の空気を読まない大きな声で男性を糾弾する。


「ねえ、どうして?」


 無邪気に問い掛ける。


「ねえねえ、どうして?」

「……」

「ねえねえねえねえ?」


「……っ!」


 周囲の目に耐えられなくなったのだろう。

 男がその場を離れていくのを感じた。


「あ、逃げたー泥棒ーっ!」


 兄の大声がショッピングモールに響く。

 同時に、


「泥棒だって」

「こいつ犯罪者らしいぞ」

「マジで? 写メ取っておこ」


 カシャ カシャ カシャ。


 携帯カメラ特有のシャッター音が鳴り響く。現代の利器は凄いものだと感慨深く思うのと同時に現代の闇だねえ、と密かに憂う。


「誰か警備員を呼べ!」

「いやオレが捕まえる」

「待て!」


 おお、正義感が強い輩も残っていたのか。これを待っていた。なかなか最近の人達も捨てたもんじゃないな。

 ……上から目線だが、別に私が太古の人間だった記憶は無いので、ただの戯言である。

 だが、もう大丈夫だろう。

 命の危機は去った。


「大丈夫―怖かったー?」


 兄が無邪気な笑顔を再び向けてくる。

 大丈夫だ。

 兄のおかげで、私の不安は拭い去ることが出来た。

 だからだろう。

 私は自然と笑みと、ほとんど言葉になっていない笑い声を返していた。


「良かったー」


 兄もまた表情を崩し、そして二度、うんうんと頷くと、


「君のことは僕が絶対守るからね」


 強く、しかしながら痛すぎない範囲で、兄は私の手を握った。

 その行動に私は、ひどく安堵した。

 それ故だろう。

 張りつめていた緊張の糸が途切れ、急に眠気が襲ってきた。ずっと泣き続けていたことも、体力の損耗を激しくした原因であろう。

 私の瞼が徐々に閉じられてきた。

 今はこの身体の要求に応えるのもいいのかもしれない。

 そう判断し、私は微睡みに身を任せる。



 ……いや、駄目だ!



 私はすぐに思い直す。

 男が捕まればそれでいい話ではない。

 考えなくてはいけないことがあるではないか。

 何故男が、ベビーカーを盗んだのか。

 ベビーカーを元に戻そうとしたのか。

 そして、ベビーカーに何をしたのか。

 それらの謎が残っているのに、オチオチと寝ていられるか。

 頑張れ。

 ファイトだ私。



 ――そんな努力もむなしく。

 私の意識は眠りへと誘われていった。

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