弟が殺人犯になった朝、僕は絶望を笑った。(3)

「やあ、お待たせ」


くたびれたスーツに緑色のネクタイをつけた長谷川さんが現れた。1ヶ月と少し前に咲也に手錠をかけた時も、二週間前にここで聴面談を受けた時も、長谷川さんは緑色のネクタイをしていた。刑事にしては珍しい明るい色だったからよく覚えている。


30歳にしては童顔だけど背は高い。明るく穏やかで、悪く言えばお人好しそうに見える男だ。


「急に事件の後処理に駆り出されてね。最近はこういうのが多くて参るよ」


そんなことは知っている。この人は覚えていないだろうけど、二週間前も同じ理由で遅れてきたからだ。長谷川さんは、ホテルのラウンジの店員にアイスコーヒーを注文すると、僕をじっと見た。


「ええと、穂積くんは大学生だったよね。勉強は順調かい?」

「それなりには。……それで、今日は何について話せば良いんでしょうか」


長谷川さんとの会話は嫌いだ。僕を傷つけないように言葉を選んでわざと遠回しにしているのだろうが、かえって要領を得ずにイライラする。優しさの意味を履き違えているに他ならない。


「いやいや、特に何かを質問したいわけじゃないんだ。これは君たちが問題なく日常生活を送れているかを知るための面談だからね」


長谷川さんは僕を安心させるように笑みを深くして、膝の上で手を組んだ。


「……はあ」


僕は生返事をした。表向きは親切なアフターフォローだけど、本当の目的はあからさまだ。これはただの“監視"なのだ。その証拠に、君たち、と言う割に僕と咲也は別々に面談を受けさせられている。


「近頃、何か変わったことは無いかな?」


長谷川さんは手帳とペンを取り出して言った。僕は心の中で溜息をつきつつも、笑顔を装う。


「特に何も」

「自宅にはまだ戻ってないんだよね。今もビジネスホテル住まい?」

「はい。……戻れると思ってるんですか?」


僕は自重気味に笑って問い返した。


長谷川さんは問いかけを誤ったことに気づいたのか、慌てて「ごめん」と口走った。視線を落として、メモにペンを走らせている。呆れるほどわかりやすい誤魔化し方だ。


「他に悩んだり、困っていることは?」


長谷川さんは懲りずに僕へ尋ねる。


「ありませんね」


「どんな些細なことでも良いんだよ」


「長谷川さんには、僕がそんなに困っているように見えますか?」


僕は椅子にもたれて、一歩距離を置く感じを見せる。さあどうぞあなたが疑う健康そのものの身体を好きなだけ見てください、とでも言ってやりたい気分だった。


「ご、ごめん。疑ってるわけじゃないんだ。ただ心配なだけで」

「心配?何がですか?」

「ほら……きみの場合は、その、随分酷い目にあっていたから……」


言葉を濁しながら目線をあっちこっちにやっている長谷川さんの姿を見て、僕は「ああ」と口を開いた。


「僕が鷲田に強姦されていたことですか」


時間が止まる。空気が凍る。長谷川さんの表情からなんとなく、そんないたたまれない雰囲気を感じ取った。僕は彼を安心させるつもりでニコリと微笑む。


「大丈夫ですよ。もう終わったことですから」


もう終わったこと。それは鷲田が出資している高級ホテルの一室で繰り返された悪夢のような日々と、鷲田の死という二つの事象が終わったという意味を持ち合わせている。


長谷川さんが口元を引きつらせながら苦笑いをした


「何度も思い出させるようなことを言って悪いね。これも仕事だから」


それは誰に向けられた謝罪と言い訳なのだろう。きっと僕じゃない。長谷川さんは僕に言う振りをして、彼自身の罪悪感を振り払うために口にしているに過ぎない。


「それにしても穂積くんは強いね」


重苦しい沈黙をどうにか破ろうと、長谷川さんが言った。


好きでもない議員から辱めを受けて、その議員が死んで、疑いをかけられた家族が逮捕された悲劇の兄。マスメディアが報じた事件の全貌は、世間からこれでもかというほどの同情を買った。僕がそんな不幸にも“めげずに"“たくましく"“わらって"“つよく"日常を生きなければいけないのは、日夜自宅に押しかける記者や、どこへ行っても向けられる無遠慮な視線のせいだということを知っているのだろうか。


いや、きっと知らないだろうな。僕は諦めにも似た笑みを零す。目の前の男ですらこうなのだから。


「……物忘れがひどくなったことは多少困りものですけど、元気ですよ」


長谷川さんは目を丸くする。


「それは……今でもやっぱり治らないのかい?」

「ええ。特に日常生活に支障は無いので、もう諦めました」


僕は、咲也が逮捕された頃の記憶が曖昧になっている。正確にはその前後数ヶ月に渡る記憶だ。例えば取っていた講義の内容だったり、奨学金の手続きが途中のままだったり、心当たりの無い手紙の返事が届いたり、脈絡なのない細かいことばかりだ。一番参ったのはアルバイト先の上司の名前を忘れてしまったことだ。


さすがに不思議に思って病院に行ってみると、医師は気の毒そうな顔で「事件のショックで、一部の記憶が歯抜けになっている可能性が高いです」と答えた。こうして僕はさらに“可哀想な人間"に磨きをかけた。


「忘れたのが言葉や歩き方じゃなくて良かったですよ。あ、でも、そうしたらこの面談も受けずに済んだのかな」


僕なりに冗談を言ったつもりだったけれど、長谷川さんは笑っていいのか心底迷っている顔をした。


「何もできなくて悔しいけど、早く良くなることを願ってるよ」

「ありがとうございます」

「それじゃあ今日はこれで。……大変だと思うけど、頑張るんだよ」


ああ、まただ。この人から発せられる言葉は、いつも的外れでイライラする。


「頑張れって、何を頑張るんです?」


俯いたまま、ぼそりと小さく呟いた。


「……え?何か言った?」

「いえ、何も。さようなら、長谷川さん」


僕は決して可哀想な人間なんかじゃない。だって、世界で一番大切な咲也が戻ってきたんだから。これ以上に幸せなことはないんだ。


長谷川さんの背中を見送りながら、僕は乾いた笑いを抑えきれなかった。長谷川さんが出て行った後も、僕はしばらく椅子に座ってぼうっとしていた。


都内で最も高級とされるこのホテルのラウンジは、要人のために一部の席が個室になっていて、よっぽどの大声でなければ周囲には漏れないし目にも触れない。平日の昼間なら尚更人気は少ない。警察署ではなくこういった場所を選んだのは、日常生活に戻ろうとしている僕らへ向けられた長谷川さんなりの配慮だ。


「(……値段の割に、あんまり美味しくないな)」


僕はカフェラテのカップをカチャリと置いた。長谷川さんの奢りでなければ絶対に頼まなかったであろう値段の代物だが、味は相応とは言えない。そう言えば、鷲田議員が贔屓にしていたホテルのスイートルームで用意された紅茶はこれよりも高価だった。味はどうだっただろうか。覚えていない。味覚や嗅覚が正常に働かなくなる程、苦痛にまみれた時間だったからか。


僕は鷲田に身体を売っていた。否、売らされていた。二年前から月に2〜3度のペースで鷲田に呼び出され、高いのか安いのか僕に判断がつかない金を受け取った後にホテルで行為に及んだ。


始まりは、そのホテルでアルバイトをしていた僕を鷲田が気に入り、半ば強引に部屋へと連れ込まれたことからだ。就業後、何も解らないまま宴席に付かされ、今思えば一服盛られていたのであろう酒を飲まされ、気づいたらあの忌々しいスイートルームにいた。それからのことは思い出したくもない。下劣な言葉で脅され、口止料と言わんばかりの金を受け取り、簡単に関係を切ることもできなかった。


事が明るみになったのは鷲田の死後だ。それは咲也が不起訴となり釈放される前だったが、週刊誌では「兄に代わり復讐か、鷲田議員殺害事件」という見出しが掲載された。世間は咲也と僕に同情的だった。


「ただいま。遅くなってごめんな」


ラウンジで時間を潰したのは、咲也より後にビジネスホテルの部屋へと戻るためだ。僕に比べて咲也の面談は何倍も長い。咲也がきちんと答えられないからか、それとも多くのことを聞かれているからか。きっとそのどちらもだろうなと思った。


僕は咲也の担当刑事に会いたくはなかった。


「おかえりー!おそい!」


ベッドにいた咲也が飛び起きて、後ろ手に扉を閉めた僕に抱きつく。胸に顔をうずめている咲也の頭を、とびきり優しく撫でてやった。


「あはは、ごめんな。面談は大丈夫だった?」


鞄を置きながら咲也に尋ねる。咲也はきょとんとして首を傾げた。


「えーっと……何か嫌なこと言われなかったか?って意味だよ。」


咲也の顔がぱっと明るくなる。


「うん!だいじょーぶだった!」


こくこくと頷く咲也の動きが、一瞬ピタリと止まる。


「ねえ、おれはいつからガッコーにいっていいの?」


片手でワイシャツの一番上のボタンを外しながら、僕はドキリとした。


「ガッコー……って、大学のこと?」

「そう、それ!おれもいきたい。にーちゃんと、いっしょにいく」


全身から血の気が引いていくような感覚がする。なんで急にそんなことを言い出すんだ。


今の咲也を大学に連れていくなんてとてもできることじゃない。譲には何て言えば良いんだ、その前に周囲の野次馬から傷つけられるのは目に見えているじゃないか。咲也が傷つくなんて、そんなことは許さない。


「どうしたんだよ。何で急にそんなこと……」


俺はハッとした。話しづらいので、俺に抱きつく咲也の両肩に手を当てて少し離れてもらう。


「そっか。今日はそういうことを言われたんだな」


担当警部も大方話すことが無くなって、適当に口にしたに違いない。学校へは行っているのかだとか、いつから行くんだとか、その類のことだろう。


「残念だけど、まだ学校は行けそうにないな」

「ええーっ!?なんで?」

「なんでも」


咲也が頰を膨らませて、すねたように俺を見つめる。


「にーちゃんといきたいのに」

「あはは。学校なんて行かなくても、こうやって一緒にいるだろ」

「でもー……」

「学校だと、こんなこともできなくなるよ。咲也はまだ我慢できないだろ?」


咲也をぎゅっと抱き締める。甘えるようにすりすりと頭を肩や腕に擦りつけてくるのは、咲也の癖だった。もっとも、それは幼児退行してから始まった癖だ。


「んー……そだね!がまんできないかも」


咲也は無邪気にくすくすと笑った。僕は命拾いしたように胸を撫で下ろす。今日の咲也は聞き分けが良くて本当に助かった。


「咲也、腹減ったよな?何か外へ食べに……」


腕時計を見ながら紡いだ言葉を途中で止める。咲也のまじまじとした視線を感じたからだ。


「にーちゃん、どうしたの」

「どうしたのって、何が?」


咲也が少しだけ眉根を寄せた。相変わらず瞳孔は開きっぱなしだが、咲也なりの心配している仕草だった。


「なんかいやなことあった?」


思い当たる節が無いわけでもなかった。久しぶりに鷲田に買われていたことを思い出したからだろうか。僕は無意識に顔に疲れを滲ませていたのかもしれない。


子供のように無邪気になった咲也は、子供のように怒りや疲れに敏感になった。子供が両親の不仲や喧嘩を何となく肌で感じ取るようだ。


「にーちゃん」

「ん?」

「きもちいいことしよーよ」


それは咲也なりの励ましであり、どうしたらいいかわからない不安へのレスポンスのようだった。咲也は僕の服の裾をぐいぐいと引っ張って、ベッドへと引っ張っていった。


舌足らずな声も、その眠れない子どものような仕草も幼いから、咲也がしようとしていることへのギャップが余計に際立つ。頭がくらくらしそうだった。


「お前なあ……」


呆れた僕の声には聞こえないふりを決め込んだらしく、咲也は僕に覆いかぶさるようにして一緒にベッドへと倒れた。これは今日に始まったことではない。咲也は僕が悩んでいたり疲れていたりすると、即座に「きもちいいことをする」という短絡的な解決策に走る。


咲也にとって心配ごとを忘れるために快楽という手段は、直接的で手っ取り早くて何より分かりやすいのだろう。それは一種の依存ではないのかと頭をよぎったが、そんな余裕もない。


「触ってよ、にーちゃん」


見上げれば、自分からキスしておいてとろんとした顔をしている咲也。こうなってはもう聞く耳を持たないのがいつものことだ。僕は何度目かもわからない溜息をついて、咲也の肩を引き寄せる。


「自分から言っておいて、命令すんな」

「んっ」


咲也の耳を噛んでみる。お仕置きのつもりだったが、今の咲也にはもう効かない。全く困ったものだ。


「それに……お前はこっちだろ」

「わあっ!」


力が抜けている咲也を引き戻して形勢逆転し、押し倒すのはそう難しいことではなかった。ベッドの錆びたスプリングが軋む。もうこのホテルも飽きたな、と心の隅で思った。


「にーちゃん。おれさ、がまんできるよーになったらガッコーいける?」

「……なんでこのタイミングでそういうこと言うんだよ」

「えへへ」


咲也が照れたように笑った。僕はベッドサイドにあるスイッチに手を伸ばして、電気を消す。


「やくそくだよ」


暗闇の中、手でなぞった部分がそのまま咲也の輪郭になっていくような錯覚に陥る。消えてしまわないように、無くなってしまわないように、僕はゆっくりと咲也の体に手を滑らせた。


「ああ、わかったよ。約束な」


やった、と小さく笑う咲也にそっとキスをした。


夜明けはまだうんざりするほど遠い。

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[BL短編集]弟が殺人犯になった朝、僕は絶望を笑った。 秋吉キユ @akiyoshixx

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