弟が殺人犯になった朝、僕は絶望を笑った。(2)
コツコツコツ、石畳の道を歩く度にブーツの踵が冷たく響く。
モノトーンに染まるこの街は寂しく、すれ違う人々の表情は暗く、足取りは重かった。吐く息で視界が白く濁る。頰に雪が落ちたと思ったら、すぐにそれは水滴となり滑り落ちた。
「(……ああ、またか)」
景色は紛れもなく真冬なのに、雪も風も何もかもが冷たくないことに気づいて、僕はこれが夢であることを確信した。
夢の中でそれが夢であるのを自覚することを明晰夢(めいせきむ)と言うらしい。明晰夢に慣れすぎると、現実と夢の区別がつかなくなり危険だと聞いたが、もはや成す術など無い。
「穂積、今日の飯はどうしようか?」
明晰夢の中で咲也の声を聞いて僕は安堵した。穏やかで優しい、いつもの咲也だった。
僕にとってのいつもの咲也とは、“事件が起こる前の咲也"だ。
「家で作って食っても良いんだけど、ラーメン食べたくない?」
この辺りでうまい店を見つけたんだよね、と咲也は鼻歌交じりに言う。
「……そんなこと言って、料理当番サボりたいだけだろう」
僕は呆れて返事をした。
「あはは!バレたか。でもうまい店があるのは本当だよ」
僕の二、三歩前を歩く咲也はファーがついたカーキ色のダッフルコートの裾をひらりと翻して、笑いながら振り返った。
僕を元気づけようとする時は、決まって咲也がわざと無邪気な態度を取る。だから僕は、何回だって何十回だって、夢の中で懺悔を繰り返す。
「咲也、ごめんな」
「何が?」
咲也は立ち止まって、首を傾げた。
「母さんを引き止められなかったのは僕のせいだ」
「……まだそんなこと言ってんのかよ」
むっとした顔つきで咲也は僕に近づいた。そして僕の肩をぽんと叩いて溜息をつく。
「それは穂積のせいじゃない。それに前も言ったじゃん」
僕は俯いていた顔を上げて、咲也と目を合わせる。そこには狡い僕を救うように、柔らかく微笑む咲也がいた。
「俺は穂積がいてくれればそれでいいんだよ」
夢を見る度に咲也は同じ台詞で僕を許してくれた。この後に待ち受ける絶望は分かりきっているのに、夢にすがりついて同じことを繰り返す僕はどうかしているのだろう。
「……咲也」
名前を呼ぶ。咲也は答える代わりにそっと両手を差し出し、包み込むようにして僕の頰に触れた。
スゥ、と細く息を吸う音が聞こえる。
「にーちゃんをいじめるやつは、おれが××してあげるよ!」
急に幼い口調になる咲也は焦点の合っていない目で、心底嬉しそうにつぶやいた。
世界が急速にホワイトアウトする。
「おれがにーちゃんを、ずっとまもってあげるから」
「……ッ!」
そこで、意識は途切れた。
「にーちゃん、おきてー」
現実世界で目を覚ますと真っ先に咲也の姿が目に入った。舌足らずな言葉で僕を呼んでいる。それは間違いなく“いまの咲也"で、僕は煩い動悸を押さえることに集中した。
「……びっくりさせんなよ、もう」
咲也はきょとん、とした顔をする。訳がわからなくて当たり前だ。さっきのは俺の夢なんだから。
「ねえ、あそぼー」
「ダメ、遊ばない」
「ええー……なんで?」
咲也は不服そうに眉をひそめる。僕はソファの端に置いてあったスマートフォンを手に取った。点灯するバックライトが眩しい。
「もう午前1時だから。夜は遊ばないって約束だろ」
どうやら風呂上がりにソファで横になってテレビを観て、そのまま寝てしまったらしい。その時は咲也も寝ていたはずだが、最近はいつもこうだ。
咲也は夜泣きする子どもみたいに、深夜に目を覚ます。
「……やだ!」
「やだじゃない。重いから降りて」
仰向けになる僕の腰あたりで咲也は馬乗りになっていた。言動も行動も子どもそのものの咲也だが、体型は大学2年生そのままなので普通に重いし苦しい。
「ほら早く。言うこと聞かないと、またお仕置きするよ」
咲也が小さな頃、よく言うことを聞かずに母さんや父さんから同じことを言われていたのを思い出した。僕よりやんちゃだった咲也は、暗い物置に閉じ込められて泣いてたっけ。
それをこっそり助けて、後で二人して怒られるのが僕の役目だった。
「……」
「聞こえない振りしたってバレバレだからね」
僕は苦笑いしながら、まだ上に乗ったままの咲也に手を伸ばして頰をつまんでみた。ムニ、と音がしそうなほど柔らかい。咲也はくすぐったそうに笑った。
一卵性双生児の僕たちは、顔のつくりはほとんど一緒だ。仲の良い友人や親戚にすら間違われるのが嫌で、生意気にも中学生にして髪染めやピアスに手を出したのは咲也だった。
咲也のアッシュがかった髪の毛が僕の手にかかる。今日はそれが合図だった。
「にーちゃん。いっしょにねよーよ」
寝ようと言いながら、咲也は僕の手を取って頰をこすりつけるようにしている。
「咲也さ、叱られたくてわざとやってるだろ」
「んー?」
知らばっくれる咲也。こうなってはもう寝るはずもないことを僕はよく分かっていた。
溜息をついて、僕は咲也を膝の上に乗せるようにしたまま上体を起こす。リモコンを手にして、付けっぱなしの深夜番組を消した。部屋が真っ暗になって「わあ」という咲也の声だけが聞こえた。
リモコンを持つ片手をテレビに向け伸ばしたまま、もう片手で咲也の後頭部を引き寄せた。
「……んっ!」
咲也の唇に自分のそれを押し付ける。角度を変えながら何度もキスを繰り返すと、咲也の苦しそうな息遣いが暗闇の中で聞こえた。
「ぷ、はぁ」
頭から手を離してやると咲也は慌てて息継ぎをして、僕を見つめた。ようやく目が慣れてきて、窓から差し込む月明かりでも咲也の表情がわかるようになる。
咲也の頰は、熱を出したみたいに赤く染まっていた。
「これで満足したら、ちゃんとベッドで寝ような。」
「やだ」
咲也は物足りなさそうな表情を浮かべて僕に抱きつく。
兄弟でキスだなんてどうかしていると重々承知しているけれど、こうでもしないと咲也は寝ないし、ひどいと過呼吸になるくらい泣きじゃくってしまう。
ビジネスホテルで咲也と仮暮らしをし始めて数日が経つ。初日に咲也の泣き声で隣の部屋からこっぴどい苦情をくらってから、僕はできるだけ咲也の要求には答えるようにしていた。
「日に日にワガママになってくね、咲也は」
「わがままじゃないもーん」
抱きついたまま僕の右肩に顔をうずめる咲也。このまま寝てくれないかなと願って、僕は咲也の髪の毛をできるだけ優しく撫でた。
ちらりと見えた咲也の耳にそっとキスを落とす。
「んー……」
咲也のくぐもった声を聞いて、僕は笑う。
「……っと、ごめん。いまのはやり方が違ったね」
それまで指で梳いていた咲也の髪の毛をぐっと掴んで、僕は白くて細い首筋に噛み付いた。
「いっ……!?」
咲也の声が痛みで弾んで、体も跳ねた。
「ひどいことされないと満足しないんだよな、咲也は」
「……うんっ……!」
痛みに顔をしかめながらも、目をとろんとさせる咲也。正直、ぞくぞくした。
「……なんて顔してんの」
兄弟そろってどうかしている。こんなの完全にイカレている。それなのに僕は、この無意味な行為を止めることはできなかった。
深夜になると咲也は、僕に酷いことをされるのを望むようになった。まるで焼け付くような喉の乾きに、本能で水を欲するみたいに。
痛いのも苦しいのも咲也は受け入れて、涙をにじませながら満足そうに僕を見上げるんだ。
「ねえ、にーちゃん。もっと」
咲也が、瞳孔が開きっぱなしの眼で、誘うように首を傾げる。そのまま咲也をソファの上で押し倒した。まるで咲也も自ら罰を受けて、何かに許されたいみたいだ。
それは夢の中の僕と同じじゃないか。
咲也の幼児退行は、違法薬物によるものであることが解っていた。
感情を昂ぶらせ強制的に覚醒させる“クスリ"を乱用すると、錯乱状態になる。この錯乱は、感情を司る脳の機能がグチャリと萎縮し細胞が破壊されることで起こる。萎縮が元どおりになれば錯乱は治るが、一度破壊された脳の神経細胞は戻らない。
つまり、パニック状態を抜け出しても、感情だけは退行し「幼児化」が後遺症として残るのだ。
「にーちゃん、いってらっしゃーい」
朝になって、咲也は何事もなかったかのように俺に手を振った。こんな日々を、俺たちはいつまで繰り返すんだろう。
「うん。勝手に外に出ちゃだめだからな」
「はーい!」
幼児化した脳の感情機能は、子供が育つようにまた成長をしていくらしいが、身体機能の心理機能の不一致によりどこかが狂ったり鬱になるケースも多いと警察病院の医者から聞いた。
最初は怖かったけれど、咲也を見ていると、身体はそのままで十数年前の無邪気な咲也に戻っているだけのようにしか思えなかった。
「(……あ、クリーニング出しといてって言うの忘れてた)」
時計を見ると、もう時間に余裕は無い。僕は諦めてビジネスホテルのエントランスを出た。
咲也が“いまの咲也"になってしまったのは、鷲田議員が死んだあの日からだ。
子供のように喉を鳴らして泣きじゃくる咲也を、僕は真夜中の公園で見つけた。すぐに救急車を呼ぼうとしたが、ろくに歩きもしない咲也の様子のおかしさに気づいて思いとどまった。弛緩しきった咲也の服のポケットを探ると、大量の薬物の空き殻が出てきた。
一体何がどうなって咲也が薬物中毒になってしまったのか、その夜咲也が何をしていたのか、僕にはわからない。
それから間もなく、その夜に咲也が着ていたコートのファーと全く同じものが鷲田議員の殺害現場に落ちていて、その部分も一致したこと、ビルのガードマンが殺害時刻に咲也とよく似た不審人物を目撃していたことが突き止められ、咲也は逮捕された。
「おはよ。ギリギリ入室なんて穂積にしては珍しいな」
大学の教室に滑り込むと同時に始業の鐘が鳴った。譲が笑いながら話しかけてくる。
「うん、ちょっと夜更かししちゃってさ」
僕は大きく欠伸をして、目尻を擦った。
「ふーん。……咲也は、やっぱり来ねえの?」
譲なりに気を遣って何気なく話しかけてきたつもりだろうけれど、動揺しているのはバレバレだった。
「今はまだ人目も気になるだろうし、あいつも色々と整理が必要だろうから」
「そっか……。そう、だよな」
譲は小さな声で、ごめん、と呟いた。
何も言わなくてもできるだけ他の学生から離れた、一番後ろで日当たりも悪い、端っこの席を選んでくれる譲の優しさに僕は気づいている。世間の注目を浴びているのは咲也だけじゃなかった。
「心配するなよ。あいつは元気にしてるし、すぐ会えるって」
僕が譲の背中をトン、と叩く。譲はホッとしたように笑った。
「あいつが犯人扱いされるなんて、ひでーよ。疑いが晴れて本当に良かった」
譲が言った。
「僕もそう思う。譲が信じててくれて、咲也も喜んでたよ」
真っ赤な嘘だった。いまの咲也は、幼馴染の譲のことは少しも覚えていない。嬉しそうに頷く譲を見て、僕は少し胸が痛んだ。
「……あのさ、穂積」
「ん?」
「俺が言うのもおかしな話だけど……あんまり危ないことすんなよ」
譲が言った。それはつまり咲也が釈放されたことで再開された、警察の真犯人探しに首をつっこむなと言う意味だろう。
家族や恋人の仇討ちで素人が事件に入り込み、危険な目に遭うケースは珍しいことではない。僕は目を瞑って首を振った。
「大丈夫。僕も咲也も、できれば早く忘れたいくらいだし」
ほとんど犯人だと断定されていた咲也が不起訴となったのは、証拠が不十分だったというだけではない。
ガードマンが目撃したはずの咲也が、同時刻に現場から遠く離れた図書館入り口付近の監視カメラに映っているのが発見されたからだ。これにより、あくまでも人的記憶に依存するガードマンの目撃証言は劣位となった。
それに咲也が薬を自ら飲んだのではなく、無理やり飲まされた形跡があることから、咲也も何らかの事件に巻き込まれた被害者である可能性が高いとされ不起訴に至った。
世間では咲也への疑いが綺麗さっぱり晴れたとは言えないものの、真犯人捜索へのインパクトと注目の方が勝っている。
「俺は何があっても咲也と穂積の味方だからなっ!」
講義が始まり教室が静まり返る直前、譲が照れ臭そうに言う。僕は幼馴染かつ親友である譲へありがとうを告げる代わりに、ぐっと笑みを深くして教諭へと向き直った。
例えば僕が今、ここで真相を打ち明けたとしても、譲は味方でいてくれるのだろうか。
鷲田議員殺害の同時刻、図書館の監視カメラに映っていたのは咲也じゃない。それは紛れもなく、双子の兄である僕、知名崎穂積だからだ。
つまり咲也は、あいつは、紛れもなく鷲田議員を殺した犯人だ。
「(……僕が咲也をずっと守ってあげるから)」
モノクロームの夢で咲也が言っていた言葉を、僕は心の中で繰り返す。
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