弟が殺人犯になった朝、僕は絶望を笑った。(1)


2014年3月30日AM8:50、日付と時間まで鮮明に記憶するのは人生であの日だけだと思っていた。つけっ放しのテレビの音がやけに遠くで聞こえたんだ。


自宅に警察がやって来るまで、僕は何をしていたか鮮明に思い出せない。こじ開けられた扉の外には春先の青い空がどこまでも続いていて、桜が風に遊んでいた。


茫然とする僕の視界に焼きついたのは、双子の弟の手首に当てられる金属の鈍色で。


「知名崎 咲也(ちなざき さくや)くんだね」


穏やかな声が、狭い部屋中に響いた。


「……はい。」


この後に及んでまだ逃げる算段を探る僕とは正反対に、咲也は毅然とした目つきで答える。


「午前8時50分、鷲田議員の殺害容疑で君を逮捕します」


年老いた警部が発するぴんと張り詰められた声に、僕は体の芯が冷え切っていくのを感じた。ありえない、なんでそんな、うそだろう、叫び出したい言葉の数々が喉の奥で渦巻いて、僕はだらりと腕の力を抜いた。



津波のように込み上げてくるのは、どうしようもない呆れと諦めだった。



事の始まりは、区議会員の鷲田 直剛(わしだ なおたか)が、何者かに殺されたからだった。


彼に深い恨みを持つ者による犯行と推測され、関係者の洗い出しから捜査は進められた。その裏づけとして遺体には刃物による首への致命傷の他に、全身十数箇所の打撲と、手や腕にも身を守る際に負ったとされる無数の切り傷があった。


黒い噂の絶えない彼を殺したいと切望する者は当初数え切れないほど予想された。しかし程なくして得られた、犯行現場のビルに詰めるガードマンの目撃証言と、現場に残された衣服の装飾によって、捜査開始からそう日は経たない内に容疑者は絞られた。


それが僕の弟、咲也だった。


「それじゃあ今日の講義はここまで。各自、資料室で副読本を借りて帰るように」


教諭の一声でたちまち教室はざわめきに包まれ、僕はハッと目線を上げる。


咲也が逮捕されてから20日と少しが経った。やむを得ず逃げるようにして手配したビジネスホテルにまで怒涛のように押しかけていたマスコミ陣も、ある日を境にピタリと姿を見せなくなった。


「穂積(ほづみ)、お前、こんな日に大学なんか来てて大丈夫なのかよ」


大学で一限目の講義が終わって、幼馴染の成田 譲(なりた ゆずる)に声をかけられる。いつも強気で調子の良い譲は、めずらしく不安な眼をしていた。


「うん、必修の英語は出ておかないと後から面倒だしね」


譲はそんなことを聞いているんじゃないという表情をした。相変わらずわかりやすい。


「……平気だって。今日の昼に迎えに行くよう約束もしてるし、手続きもあるから」

「穂積の母ちゃんは?」

「さあ。何も聞いてこないから、来ないんじゃないかな」


譲は何かを言い淀むようにして口をつぐむ。僕はできるだけ彼を見ないようにして、机の上に広げていた英語の教科書やノートを片付け始めた。


「あのさ、その、俺も穂積と一緒に行こうか」


俺は一瞬片付けの手を止めて、譲を見た。


「……何言ってんだよ、お前は今から壮行会だろ」


体育会ラクロス部に所属している譲は、昼から大学で行われる新人戦の壮行会で選手代表の挨拶をすることになっていた。僕は笑って、譲の右肩を叩く。


「いいんだ。今日くらいは一人で行きたいから。……それじゃ」


譲にひらりと手を振って大学構内を出る。浮かれたように並んで歩く新入生たちに逆行して、僕は歩調を速めた。あの日の桜は、新入生を歓ぶ役目を終えもう散り始めている。


僕の咲也だけを、置いていけぼりにして。




そして僕はいま、あれから2度目になる日付の記憶を胸に刻み込もうとしていた。


無機質なコンクリート製建造物の階段を、ゆっくりと降りてくる姿を見とめて、思わず口元が綻ぶ。


「……にーちゃん、ただいまー」

「おかえり、咲也」


所構わず僕に抱きついてくる咲也は、心なしか随分と痩せてしまった気がする。僕は唇を噛んだ。


「おれ、ちゃんともどってきたよ。ほめてよ、にーちゃん!」


緩みきった微笑みを浮かべて、僕に柔らかい髪の毛を押し付けて甘える。待ちわびた再会は喜ばしいのに、心のどこか奥底で、やっぱり咲也はずっとこのままなんだと複雑な気持ちになった。


当初、事件のショックで精神が錯乱したのかと僕を含む誰もが思っていたが、咲也の極端な幼児退行現象はそれよりもずっと深刻だった。


「……帰ったら、な」と俺は咲也をなだめるように、髪の毛をくしゃりと撫でる。



2014年4月22日AM11:00、証拠不十分と違法薬物の強制投与が認められた僕の弟は不起訴となり釈放された。


僕たちが揃って大学2年生になった春のことだった。

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