残響29.4m/s(後編)


17年間という地獄のような月日の中で、蓄積され続けた音たちが頭の中で行き場を失い、反響する。人工的に発せられた音には想いが乗せられている。


それは好意と同じ数だけ、悪意に満ちているんだ。


『おい根暗。誰が学校来て良いっつったよ、また痛い目みたいのか?』


これは中学生の時。幼い暴言と暴力の数々に晒され続けた。言った本人はきっと覚えていないだろうけれど、俺は全部覚えている。

 

『あああああぁぁぁっ!』


これは学校から帰る時。駅のホームで、俺の隣に並んでいたサラリーマンが線路に頭から落ちていった時の断末魔。その頃から多発し始めた「突き落とし殺人」だった。それから、ホームに入ってきた電車の劈くようなブレーキの音。耳にこびりついて離れない。

 

『……なあ、本気……なわけ、ないよな?』


これは3ヶ月前、渋谷のビルとビルの間にできた隙間の暗い小道で。あの日は巨大な液晶から流れる広告の音楽、雑踏、笑声や罵声、クラクション、色々な音が混じり合っていた。それらを全て掻き消すように、あいつの声だけは一等絶望的に響いた。


『男が好きとか、無いわ。気持ち悪い。お前はずっと俺のこと裏切ってたのかよ?』


求めていないリピート・リピート・リピート。


願っても縋っても泣き喚いても、音は消えてくれない。俺は耳を塞いでその場に蹲った。ぎょっとした顔の萱城の口が「どうしたんだ?」と動くのがわかる。


それにしても俺は馬鹿みたいどころか、本物の馬鹿だ。自分が普通じゃないことくらい、とうの昔にわかっていたのに、ここに来るまで17年もの月日を要してしまったのだから笑えてしまう。


なぜこんなに生に執着したのかわからない。息を吸う。呼吸を整える。頭の中で音の暴走が止んだ頃、夢から醒めたみたいに途方もない空々しさと虚しさが胸に流れた。澄んだ空気のせいか、気道が涼しくて叶わなかった。


耳を押さえていた手を、そっと離した。


「南」


名前を呼ばれた。顔を上げる。萱城は、ぱらぱらと本をめくっていた。何かと思えば国語の教科書だった。自分の学生鞄から引っ張り出したらしい。


「『よだかの星』」

「は?」

「宮沢賢治だよ。南も学校で習ったことあるだろ」


それくらいは俺でもわかる。聞きたいのは今なぜこのタイミングで、ということだ。


「何も見ないで、最初から読んでみろよ」

「何の意味があって……」

「いいから。な?」


俺の意見なんて真っ向からスルーして、はいどうぞ、と萱城が言う。訳が分からないと思いつつも萱城の有無を言わせない感じに何となく黙っていられなくて、口を開いた。


「『……よだかは、実はみにくい鳥です。』」


高校の教室で、教師に命じられ学生が一人一説ずつ朗読していたのを思い出す。誰がどこを話していたのかさえ、鮮明に覚えている。


「『ところがよだかは、ほんとうは鷹の兄弟でも親類でもありませんでした。』」


あいつが読んでいたところだった。ずっと好きだった。あいつに関する声なら何回も何回も頭の中でリフレインした。今はそんなことしたくなくても、思いとは裏腹に反芻される。


涙がぼろぼろとこぼれた。


「『風を切って……駆けるときなどは、まるで鷹の、よう、に……』」


声が震えて、海底に呑まれるみたいにフェードアウトする。萱城が俺の肩を掴んだ。


「うん、わかった。もういいよ」


俺は黙った。萱城は言う。


「はは……すげーな、本当に全部覚えてんだ。一字一句」

「疑ってたのかよ」


俺は白いシャツの袖で目元を拭った。つまらない鎌掛けに乗ってしまったと自己嫌悪する。


「今まで聞いてきた音を全部か。そりゃ頭もおかしくなるよな」


萱城の声が少しだけ寂しさを帯びた。今更同情なんていらない。萱城の腕を掴んだが、一層ぐっと指先に力を込められる。


「だから死にたいのか?」


萱城は穏やかに笑いながら問うた。俺は戸惑いながらも、頷く。


「もう……全部終わりにしたい」

「そっか」


震える俺の声を聞いて、萱城ははぁーと長い息を吐きながら空を見つめていた。グラデーションは徐々に濃い紫と紺色に染まっている。願ってもいないのに、夜が近づく。


「お前って女と付き合ったことある?」


萱城が突拍子もないことを言った。


「……え?」

「あ、もしかして男の方が好き?どっちでも良いんだけど」

「な、何言って……!?」

「図星か。わかりやすいなぁ」


萱城のクスクスという軽い笑い声に、顔が真っ赤に染まる。なんなんだこいつは。何が目的だ。


「このまま死ぬのも、もったいないと思わねえ?」


萱城の手が、肩から首筋へと滑る。こいつの喋り方も態度も何もかも気に食わないのに、その手つきだけは嫌じゃなくて驚いた。


萱城と目が合う。不可解な引力に縫い止められる。


「最後に良いことしようぜ。死なないだけの価値があるか確かめよう」


気がついた時には、押し倒されていた。背中に感じる冷たいコンクリートの感触。萱城の後ろに見える空がどうしようもなく広く見えた。


どれくらい時間が経っただろうか。みっともなく荒い息をあげているのは自分ばかりだと気づいて、悔しくなった。


「んっ、あ……なあ、おい……!

「ん?」


俺の首筋あたりに顔を埋めている萱城が、すんと鼻で息を吸った。俺は反射的にびくりと体を揺らす。


「こんなことして、警備員とか……来たらどーすんだよ」

「ああ、あれね。嘘」

「嘘!?」

「うん。もうとっくにセンサーに電気通ってないし、最近はお前みたいなのもめっきり減ったからな」


けろりとした萱城に、空いた口が塞がらなかった。たまらなくなって俺に覆いかぶさっている萱城の肩を押し返すが、無駄だった。


「そんなことより、集中しろって」


少しだけ苛立った萱城の声が低く響く。


「う、あっ……!」

萱城に上から唇を塞がれる。噛み付くようなキスだった。萱城の手が俺の耳塞ぐ。ぴちゃぴちゃと水音が頭の中で響いて、目眩がした。


きっとわざとやっているんだろうな、というのは萱城の楽しそうな表情で分かった。


「南、かわいい」


萱城に抱きしめられると気持ちよくて、訳がわからなくて、目尻から涙が一滴こぼれた。


死のうと決めた日に、しかも初めて会ったやつに、なぜ自分の体を好きにされているんだろうと思えば、馬鹿らしくて嘲笑が浮かぶ。


萱城が愛おしそうに俺の髪の毛をくしゃり、と撫でた。


「お前っ……あたま、おかしーんじゃねーの……」と精一杯毒づいてみせた。

「こんなとこで押し倒されて喘いでるやつに言われたくねーな。」

「あ、喘いでなんか!」


反論しようとすると、萱城がまた俺の口を塞いだ。狡いやつだ。


「嫌な音とか記憶とかさ、こーやって気持ちよくして、全部消しちゃえよ」


萱城の唇が離れる。透明な糸が引いて、恥ずかしくて目を逸らす。さっきとは違う、萱城のどこか落ち着いた男っぽい声に、どきりとしてしまった。


「過去の記憶のせいで、ちゃんと今を生きられないなんてさ。勿体無いじゃん」

「簡単に、言うなよ……んっ、あ……!」


萱城の舌が俺の耳の縁を滑る。声がダイレクトに響いて、くすぐったくて目を瞑る。いつの間にか肩を押し返していたはずの俺の手は「こっち」と言われんばかりに、萱城の首の後ろに回されていた。


溺れてしまいそうで、怖くて、萱城に縋りつく。


「なんなら俺がずっと相手してやってもいいよ」


萱城の声が降ってくる。俺は眉を顰めて、ゆっくりと首を振った。


「そういうところはかわいくねーな」

「……どうせなら、このまま死にたい」


地面に叩きつけられて痛みを感じるくらいなら、このまま首でも締めて殺してほしい。それはきっと気持ち良いだろう、と頭の片隅で思った。


「そんな寂しいこと言うなよ。俺、南のこともっと知りたい」

「寂しい?平気で人を殺せるやつが、何言ってんだ」


辺りの空気がピシリと固まるような感覚。萱城の表情でわかった。驚いたように目を見開いているけれど、すぐに口元は余裕を見せつけるように弧を描いた。


「2014年6月3日、下り2番線のホームで何してた?」


空気を切り裂くように、できるだけ静かな声色で伝えた。萱城の指先が止まる。


「……俺の声、聞かれてたってわけか」


本当に全部覚えてるんだな、と萱城が感嘆した。


最初に呼び止められていた時から、あの時の声だとわかっていた。萱城がぐっと顔を寄せる。


「サラリーマンを線路に突き落とす時、お前、『ごめんな』って言ってたよな」


悲鳴と怒声、ブレーキ音で支配された空間で、唐突に耳に飛び込んできた言葉。無差別に何人も突き落として殺している奴があんな悲しそうに謝るとは思えなかった。


どういう意味だ、と聞いてもしばらく萱城は何も答えなかった。


ずいぶん時間が経ったような気がする。萱城が絞り出すようにして言った。


「俺だけ救われてごめんな、って意味だよ」


それだけ言うと萱城はふっと目を瞑った。この時ばかりは集中しろ、と言わんばかりに俺を抱きしめる。不思議と恐れも嫌悪感も、無かった。


すっかり夜になって、辺りは暗闇に沈んだ。ステンレス製の手すりに寄りかかって、俺はぼうっとビルの下で揺れる木々を見ていた。はだけた服を直して、萱城が俺の隣で同じようにして立つ。


「高いだろ。余計な障害物が無いから都会の7階建てより、高く見えるんだ」

「……ああ」

「駅のホームから突き落とすよりも、ここの方が楽だって気づいた。元から死にたい奴しか来ねえし、死体も自殺として処理されるだろ?」


物騒なことを真顔で話す萱城は、どこからどう見たって、普通の高校生だった。


ぼんやりと姿を現し始めた月が厚い雲に潜る。夜闇が覆い被さるように視界を濁らせる。


「俺はもう限界だと思ったから……自分が狂っていくのが分かったから、死のうと思った」


俺は言った。


「うん」と萱城が頷く。


「でもお前は死ぬんじゃなくて、人を殺してしまう方に狂ったんだな」


萱城がふっと顔を横に向けて、俺を見た。


「お前も、俺と同じだろ」


人を食ったような態度の萱城の顔色が、ここへきてようやく変わった。


「……なんでわかった?」


萱城が静かにつぶやく。目線が絡んで、ジッと焼き付くような音がする。そんな気がした。


「ビルの奥まで逃げた俺を、お前は懐中電灯すら持たずに正確に追いかけてきた。普通の人間ができることじゃない」


俺の答えを聞いて、萱城は何も言わなかった。肯定も否定もしないけれど、前者だと俺は確信した。


「そこまで考える余裕があったか。見くびってたな」


萱城が乾いた笑いを浮かべながら、ゆっくりと俺の正面に回る。俺の背後には頼りない柵、その後ろはすぐに空中だ。


「勘違いすんなよ。誰彼構わずに殺してるわけじゃねえんだ」


萱城が俺を咎めるように言った。足元に目線をやって、俺が捨てたヘッドフォンを拾い上げる。さっきまで俺に触れていた萱城の指先が、鈍った金色のイヤフォンジャックを撫でた。


「俺たちみたいなやつはすぐに分かる。ノイズが一切聞こえなくなるような高級イヤフォンつけてるのに、その先に繋がってる音楽プレーヤーは笑っちゃうくらい安モンなんだ。音楽なんて聞いてないのが丸わかりだっつーの」


萱城が力なく笑い声をこぼした。


萱城の言う通りだった。意識もしないのに音が流れ込んでくる日常に嫌気がさして、それでも耳栓をつけたまま外出するわけにはいかないから、俺はそうしていた。


萱城の遠い目を見て思い出す。そう言えばあの時、線路に突っ込んでいったサラリーマンも、安っぽくてシワだらけのスーツとは見合わない、高級そうな耳掛けイヤフォンをつけていた。


あのサラリーマンも俺たちと同じ。だから殺した、と萱城は言っている。


「こんな体で、正気でなんて生きられるわけねえよ。だから俺が殺してやってんだ」


あくまでも救うために殺しているんだと萱城は主張する。それでも、人間は誰にだって生きる権利はあるだろう。こいつが言っていることは正しくない。狂っている。


けれどこいつは「俺だけ救われてごめんな」と言っていた。


突き落とすことで救われているのは、「良いことをした」と思い込んでいる萱城自身なんだと気がついた。


「……残念だな。俺、初めて、殺したくないなって思ったのに」


萱城が俺の両肩に手を置いた。そのままぐっと力を込められる。押し倒されていた時とは比べものにならない強い力だ。


特に抵抗をすることもなく、俺は押されるがままに一歩後ずさった。すぐに背中に冷たい手すりが押し付けられる。俺はただ、萱城を哀れむような目で見ていた。


「俺は初めて、殺されたって良いなって思ったよ」


「そんなこと言うなよ」


萱城の声は微妙に震えていた。


錆びついてぐらついている脆い柵は、萱城がスニーカーを履いた足で思い切り蹴ると、壊れて下へと落ちていった。ガシャン、と音がする。俺は振り向かない。


「お前は……いいな。もう苦しまなくて済むんだもんな」


心底羨ましがっている萱城。ドン、と胸のあたりに衝撃を感じる。


気づいた時には、宙に浮いていた。


浮遊感はたった一瞬。


1秒目には9.8m/s、2秒目には19.6m/s、重力加速度を思い出す。


「俺だって、そろそろ救われてもいいよな。南」


最期に、萱城が泣いている声が聞こえた。届きもしないのに俺は手を伸ばす。


全ては月も見ていない夜の出来事だった。



(すぐとなりは、カシオピア座でした)


(天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました)


(そしてよだかの星は燃えつづけました)


(いつまでもいつまでも燃えつづけました)


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