[BL短編集]弟が殺人犯になった朝、僕は絶望を笑った。

残響29.4m/s（前編）

いつの間にか雨は止んでいた。かなりの強風に木の枝がしなっている。その内折れてしまいそうだ。せっかく銀杏が綺麗に色づいていたのに、風が容赦なく葉たちを落としにかかっている姿は、俺が３ヶ月前に行くことを辞めた高校を連想させた。

「……傘、もういらないか」

人気のない駅から歩いて辿り着いた雑居ビルを前にして、俺・沙原 南（さはら みなみ）は傘を持つ手を離した。安いビニール傘が湿った音を立てて、地面のぬかるみに横たわった。

ついでに耳につけていたヘッドフォンを外す。遮音性の高いそれのおかげで聞かずに済んでいた風の音が、一気に鼓膜を震わせた。

雑居ビルと言っても、今や完全な廃墟だ。

10年前に建築申請されたが、倒産により建設途中で放棄されたビル。コンクリート打ちっ放しの要塞のような外観、その周囲には雑草や木々が生い茂っている。

ビルの外壁を這う壊れかけの雨水菅がギィギィと軋んでいた。

「どっちかと言うと、心霊スポットみたいだな」

自殺の名所。ここは、多くの人からそう呼ばれている。

3年前まで、都内はこの雑居ビルに関するニュースが頻繁に流れていた。ここ10数年で景気が最も悪いと言われていた当時だ。まるで世相を表すかのように特定の事件や事故が起こるのは、珍しいことではない。

独居アパートを狙った放火、ネットのいじめ問題、宗教施設の立てこもり……あとは最近なら連続突き落とし殺人。指折数えてみる。物騒な世の中だ。でもそのおかげで、この廃墟ビルの警備はほとんど行われていないままになっている。

俺はビルの入り口に張ってあるロープをまたいで侵入した。

ロープのちょうど真ん中に吊ってある「侵入禁止！崩落の危険あり」という錆びた看板がわずかな振動に揺れた。

「ねえ、あんた何してんの」と背後から声がして、体が凍ったように動かなくなった。

しばらくして、ゆっくりと振り返る。俺がさっき傘を捨てた場所に男が立っていた。俺と同じ高校生くらいの風貌。知らない高校の制服にアンバランスな金髪とピアスが目立っていた。

ひとまず警備員の類ではなかったことに安堵する。今ここで止められるわけにはいかないのだ。

「聞いてる？そこ、入ると危ねーよ」

そいつの言葉とともに、いっそう強い風が吹いた。木の葉に溜まっていた水がぱたぱたと音を立てて落ちる。ほとんど同時に、俺は前に向き直って、ビルの奥へと走った。

「あっ！おい、待てって！」

制止の声が後ろで響いた。もちろん答えない。だって俺には、時間が無いのだから。

コンクリートでできた廊下の突き当たりまで進んで、上階に昇るための階段を探す。

背負っていたリュックから懐中電灯を取り出してスイッチを押した。ぼんやりと映し出される無機質な空間。黴臭いような鉄臭いような臭いを鼻腔に感じながら、ただただ進んだ。

しばらく歩いてようやく３階まで登った時、また後ろから声がした。

「やめときなよ」

まさか着いてくるとは思わなかったので、驚いた。懐中電灯を向けたまま振り返る。

そいつは「まぶしっ！」と笑いながら片手で目を覆った。

「どうせ死ににきたんだろ」

そいつが発する言葉が持つ意味とは裏腹に、緊張感の無い声だった。

「……やっぱり、今でも自殺するやつが多いんだな。ここは」と返してみる。

「んー、昔はもっと多かったって聞いたけど。今でもたまに、あんたみたいなやつがいるんだ」

お前みたいなやつ。それは俺みたいに、この廃ビルの屋上から飛び降りて自ら命を絶とうとするやつのことだ。

「お前は何だ？警備員？」

制服を着ている時点で絶対に違うけれど、一応聞いてみる。

「いや俺はただの地元の高校生。通学路の近道なんだ、ここ。」

「ああ。そう」

気のない返事をしたにも関わらず、そいつは人懐っこそうな笑顔を浮かべた。

「俺は、萱城（かやしろ）って言うんだ。あんたは？」

「お構いなく。放っておいてほしい」

「いやいや、どう考えても放ってなんて……あ！またかコラッ！」

萱城と名乗る男を無視して、ずんずんと廃墟の奥へと進む。俺は四階への階段を探していた。

俺は救いも同情も欲しくないのに、なぜそっとしておいてくれないんだろうか。

「まじかよ。あんた、すっげーな」

「……は？」

このビルは普通のビルと違って、階ごとに階段のある場所が違う。崩れたコンクリートや放棄された資材が散らばっているのを避けたり跨いだりしながら、階段の踊り場の前に立つ。

あとから着いてきている萱城が、感嘆の声を上げた。

「ここのビルって迷路みたいだろ。景色にも特徴無いから、方向わかんなくなって、普通は同じところグルグル回るんだ。なのに速攻で階段の場所見つけるなんて普通はできねーよ？」

そう言われると構造の謎にも納得がいく。ここはまるで迷路みたいだ。数多くのテナントが入る予定だったのか、仕切りや構造も複雑だった。

「もしかしてRPGゲームとか得意？」

萱城の声は楽しそうに跳ねていた。おどろおどろしいビルの雰囲気とは不釣り合いだ。

「ゲームの勇者とかって、こういうダンジョンの攻略するじゃん？」

萱城の発言の意味がわからなかった。悠長に雑談をするようなシーンでも無いだろう。俺は答えられずにいた。

「勇者様、もう諦めなよ。あんたが跨いできた入り口のロープあるだろ？あれってさ、センサー付いてんだ。すぐに警備員が来ると思うよ」

「……っ！」

予想していなかったわけじゃない。だからこそ、こんなところで、こんなお節介なやつに構っている暇は無いのだ。

俺は背負っていたリュックを思い切り萱城に投げつけた。萱城は「うわあっ！」と間抜けな声を出して、それを顔面でもろに受けた。

階段を一段飛ばしで登る。否、登ろうとした。いつの間にか萱城は俺の方に一歩踏み込んで、飛び出すようにして俺の腕を掴んでいた。

「ってーな……落ち着けよ。まずは話そうぜ」

萱城がごそごそと俺のリュックの中を漁っていた。あまりの突拍子もない行動に、制するのを忘れてしまった。

一枚の黒い手帳を取り出して、萱城はそれを眺めた後、俺に見せる。

「なあ。沙原……南くん？」

俺の学生手帳だった。身元不明で死ぬよりも、せめて色々と調べるのが楽だろうと思って持ってきたものだ。余計なことをした。

萱城が軽く首を傾げながら、ニッと笑った。

萱城がぴらぴらと俺の学生手帳を持って揺らす。取り戻そうとしてみたが、すぐに避けられて無駄だった。

「そーか、南くんは俺と同い年か」

「気安く、くん付けすんな」

「いいじゃん。どうせ死ぬんだろ」

二人で並んで、ただひたすら最上階を目指して階段を上っていた。シチュエーションの不可解さに頭がくらくらした。

なぜ死ぬ直前だと言うのに、俺はこんな男と話しているんだろう。

「17年の生涯を終えるのに、こんなトコじゃ味気なくね？寂しくね？」

萱城は言う。そしてそのままばっと両手を広げた。

「少年よ大志をいだけ！……ってな！」

「うるさい。だまれ」

「そんな短気で、死に急いでどーすんだよ。悩みなら俺が聞くから。な？」

ひょいと顔を覗き込んでくる萱城。全力で無視することにした。

ある１フロアの踊り場についた時、俺はぴたりと足を止めた。

「……ここのドア開けたら、きっと屋上だ」

「え？」

きょとんとする萱城を置いて、金属製のドアに手をかける。鍵がかかっていなくて本当に良かった。その代わりとでも言いたげにグルグル巻かれている針金は、容易く取り外すことができた・

「……本当に屋上じゃん。何も書いてないのによく解ったなぁ」

萱城がまた妙な感心をしていた。

ビルの屋上に出る。簡単に乗り越えられる高さのフェンスで四方を覆われたスペース。

地上よりも強く吹き抜ける風が身体を抜けていく。夕日はすでに沈み始めていて、赤色と紫色の絶妙なグラデーションが空を塗りつぶしていた。

目を閉じる。呼吸をする。吐いた空気は、無駄に長い時間を過ごした都会の地元よりも、ずっと透明なものに感じた。俺はここに来るために進んできたんだ。

「ここまで迷うこともなく、一直線か。もはや特技じゃん」

萱城が金髪をビル風になびかせながら、つぶやいた。

「特技？」

「そう。絶対的直感って言うの？それだけで大儲けできそうだなぁ」

「そんな大層なものじゃない」

はあと俺はため息をついた。ついにこのビルで一番高いところ、俺がずっと辿り着きたかったところまで萱城はついて来てしまった。

「音が聞こえるだけなんだ」

俺は萱城に教えてやることにした。

「音？」

「ここ、ビルの南側だけに雨水菅が通ってるだろ。その音で方角がわかるんだ」

「雨水菅……って、そんな音してたか？雨降ってないのに？」

萱城が不思議そうな顔をした。それもそのはずだ。雨が止んだ後だから、ごうごうと水が流れる音がしていたわけでもない。ぽつん、ぽつん、と菅を雫が滑るくらいの音だ。

萱城に聞き取れていたとも思えない。

「あとは……風の音。行き止まりとか、屋上みたいに開けたスペースに出る通路はそれでわかる」

「……え？」

萱城はいよいよ目を丸くした。

もういいんだ、どれだけ引かれても怖がられても。もう少しでこの世とはおさらばだ。

「この世の中にある音なら、どんなに小さい音でも認識できる」

首にかけていたヘッドフォンを外した。ゆっくり腕を下ろすと同時に掌の力を緩める。機械が壊れる、乾いた嫌な音が耳の奥に滑り込んだ。

「それから、一度聞いた音は絶対に忘れない」

俺は物心ついてから今まで、雨音、雷鳴、音楽、他人の声、雑音雑踏、機械音……耳にするありとあらゆる音を、一つも逃さず全て覚えていた。

雨水菅に残っていた最後の一滴が、ぱたり、と音を立てて地面に落ちる音が聞こえた。

萱城は未だ何も言わずに、口元を引きつらせている。