206話 ウサ耳
アブラムシ人族のミケル。
かつて二十九区のソラマメ畑で出会ったモコカの兄。
二十九区に妹がいるってことは、ミケルも二十九区出身なのだろう。
各区の傷付いた獣人族がこの教会に集められるってのは本当らしいな。
「オレに話ってなんだぜ? 聞いてやるだぜ」
……確かにモコカの兄で間違いないようだ。しゃべり方がそっくりだ。
どうせ、この口調を敬語にすると「聞いてやるだぜです」とかになるんだろ?
教育って、環境が大事なんだなぁ。
「ヤシロ。とりあえず探りを入れてみよう」
エステラが耳打ちをしてくる。
そうだな。
リベカの思い人がこの教会にいるとするなら、なんとなく、このミケル辺りが怪しいんじゃないかと俺たちは思っている。
その思い人を突き止めた後、どうするべきなのかはまだ分からん。分からんが、まずは突き止めなければ話は始まらない。
なら、エステラの言うとおり探りを入れておくべきだろう…………だが、どうやって攻めるかな……
「な、なぁミケル。お前、好きなヤツとか、いるか?」
「モコカだぜ!」
「いや、そうじゃなくて。女でだ」
「モコカだぜ!」
「妹だから女なのは分かるけど! ラブの方で、だよ!」
「モコカだぜ!」
「お前も病気か!?」
妹をラブな目で見ちゃう重度のシスコンなのだろうか……
「ミケルさんは、本当に家族思いの優しいお兄さんで、端から見ていると気持ちの悪いくらいに妹さんを溺愛されているんですよ」
「さらっと毒吐いてるぞ、あのシスター」
「ソフィーさん的には悪意はないんだよ、きっと」
客観的事実として気持ち悪いってことか。
どっちにしろ末期だな。
「モコカは、少ない稼ぎの中から毎月仕送りをしてくれる心優しい妹なんだぜ。オレには出来過ぎた妹だぜ」
モコカは確か、ソラマメを育てつつ、アルバイトで害虫駆除をやっているとか言っていたはずだ。
生活が苦しいとも言っていたはずだが……仕送りまでしてたのか。
ルシアが聞いたら、即「引き取る! ウチで面倒見る!」とか言い出しそうだな。……モコカの身の安全を考えて、絶対口外しないようにしよう。
……っていうか、さっきソフィーは、「故郷に残してきた妹さんに仕送りをしたいからと、毎日毎日、限界がくるまで働いて」とか言ってなかったか?
「お前が仕送りする方じゃないのかよ?」
「そのつもりだぜ! ……けど、いつももらってばっかなんだぜ…………」
もっと頑張れよ、兄貴!
……まぁ、こんなフラフラじゃそう無理も出来ないか。
つうか、教会内での畑仕事なんか、いくらの稼ぎもないだろうしな。
「出来た妹さんなんだね」
「そうなんだぜ! あんなに可愛くて、愛嬌があって、お兄ちゃんっ娘で、優しくて、頑張り屋さんなモコカを、好きにならない方がおかしいだぜ!」
「いや、お前の愛情は行き過ぎてるけどな」
「モコカ、ラァァアアアーーーーッブ! ……ごふっ!」
「血ぃ吐いたぁ!?」
「……す、すたみな……きれ…………た…………だぜ」
「ミケルさん!?」
テンションを上げ過ぎて血を吐いたミケルは、そのまま土の上へと倒れ込んだ。
ソフィーが慌てて介抱に向かうが……なんでかな、一切手伝う気が起きない。
「バーバラさん! シスター・バーバラ!」
ソフィーが慌てた様子で教会へ向かって声をかける。
すると、「はいはい、何事ですか?」と、よれよれの婆さんが姿を現した。
「あら、まぁ。ミケルさん、また妹さんのことで興奮し過ぎたんですか? 本当に……若いわねぇ」
血を吐き、ぴくぴくしているミケルを慈愛に満ちた表情で眺める老シスター。……のんびりしてんな、おい。
「ミケルさん、大丈夫? ダメそう?」
「だ……だいじょうぶ、だぜ……」
「なら、平気ね。お部屋に行って休んでなさいな」
「こ、こころづかい、かんしゃする……だぜ」
「ほらほら、みんな。ミケルお兄さんをお部屋に連れて行ってあげて」
「「「「はぁ~い!」」」」
『かくれないんぼ』を楽しそうに実践していたガキどもが、老シスターの言葉に元気よく返事をし、倒れたミケルを全員で担ぎ上げる。
「いつも、すまない、だぜ……お子たち……」
「「「「いいってことよ、きにすんなー!」」」」
ミケルを担ぎ上げたまま、ガキどもはわいわいと教会へ入っていく。……アリがセミの死骸を運んでいくようだ……
「安らかに眠れ……」
「彼は死んでないよ、ヤシロ」
「…………安らかに眠っとけ」
「安らかな眠りを強要しないように」
安らかに眠っておけばいいと思う俺の優しい心遣いを一蹴するエステラ。
そして、ぐっと身を寄せて耳打ちをしてくる。
「アレが、リベカさんの思い人だと思う?」
「もしそうなら、リベカの恋愛はどん詰まりで破局確定だからフィルマンにももうワンチャンスあるんだが……まぁ、アレはないだろうな」
「だろうね……。他に何人くらいいるのかな、候補が」
ここで働く者たちは、まだ何人かいるらしいし……地道に当たっていくか。面倒だけど。
そんな密談をする俺たちを見て、先ほど教会から出てきた老シスターが口元を緩める。
「ソフィー。あちらの方たちは?」
「あ、すみませんバーバラさん。説明が遅れました」
慌てた様子でベルティーナからの手紙を差し出すソフィー。
老シスターはそれを受け取り、懐から大きなルーペを取り出して黙読を始める。
「まぁ、まぁ、シスター・ベルティーナの……」
ルーペを外し、俺たちをまじまじと見つめる老シスター。
ベルティーナからの紹介というのは、そんなに珍しいものなのだろうか。まるで珍獣でも見るかのような視線を向けられている。
「シスター・ベルティーナはお元気かしら?」
「はい。毎日笑顔でボクたちを見守ってくださっています」
「そう。あの方らしいわねぇ」
あの方……
え、このババアもベルティーナを上に見てるのか?
「一つ聞いていいか、シスター・ババーラ」
「シスター・バーバラだよ、ヤシロ」
「おっと、失礼。シスター・ババア」
「失礼だよっ!」
いや、だから、人間は視覚からの情報が八割を占めているからだな……
「うふふふ。手紙に書いてあったとおり、面白い方ねぇ。あなたが、オオバヤシロさんね」
……何を書きやがった、ベルティーナ。
「ちなみに、『この手紙は絶対お二人には見せないように』とお願いされていますので、お見せ出来ませんよ」
ババアがにっこりと笑う。……くっ、先手を打たれたか。
「それで、聞きたいこととは何かしら?」
「えっと、もしかしてなんだが……シスター・バーバラは、ベルティーナより年下なのか?」
「えぇ、そうよ。幼い頃、とてもお世話になったの」
マジでか!? すげぇな、ベルティーナ。
不老不死なんじゃねぇの?
「とても厳しい、でも、それ以上に優しい方だったわね……」
「今も変わらずですよ」
「うふふ。でしょうね」
バーバラとエステラが微笑み合う。
だがな、エステラ。
俺がこれまで聞いてきた話を総合すると、ベルティーナが今のような食欲を体得したのは、ジネットがそこそこ大きくなってかららしいぞ。
……変わっちまったんだよ、ベルティーナは。
その婆さんに大食いしている姿を見せたら腰を抜かすぞ、きっと。
「私も、昔は四十二区でお世話になっていた時期があったのよ」
「そうなんですか?」
「えぇ。貧しくも、楽しい日々だったわねぇ」
意外なところで四十二区の話が出て、エステラが興味深そうに身を乗り出す。
もしかしたら、ゼルマルの爺さんやムム婆さん辺りなら知っているかもしれないな。
「シスター・ベルティーナほど、聖女と呼ぶにふさわしいシスターを、私は知らないわねぇ」
べた褒めだ。
ベルティーナは、他のシスターからも好意的に見られているようだ。尊敬と言っても差し障りないレベルで。
「そんな凄い人が、ずっと四十二区に留まってくれているんだよね。感謝しなきゃ」
当たり前にそばにいてくれるベルティーナ。
そのありがたさを再確認したようで、エステラが嬉しそうに微笑んでいる。いつもの四割増しくらいで。
だが、そんなエステラの言葉を聞いて、今度はソフィーが口を開いた。
「それは違いますよ、クレアモナ様」
「へ?」
幾分真剣みを増した目で、ソフィーは静かに、俺たちに言い聞かせるような口調で語り始める。
「ベルティーナさんは、好意で四十二区に留まっているわけではありません。あの方は、あそこにいなければいけない方なのです」
突然の全否定に、エステラが息をのむ。
そろっとこちらに視線を向けてくるが、俺に分かるわけないだろう。黙って話の続きを待つ。
「ベルティーナさんは、精霊神様に選ばれた唯一のシスターなのです」
「精霊神様に……選ばれた?」
エステラの表情が困惑の色を増す。
エルフで美人で年を取らず衰えず、鋼鉄の胃袋を持つベルティーナ。
確かに特殊な人間であるのだろう。
そもそも、ベルティーナ以外にエルフってのを見たことがない。
だが、それは人種的なものであるはずだ。
獣人族が人智を超えるパワーを持っているのと同じように。
精霊神に選ばれたってのは、一体何を指しているのだろうか。
「あの方だけが、精霊神様のお告げを耳にすることが出来るのです」
「……あ」
俺は、随分と前にジネットから聞いた話を思い出していた。
ベルティーナはたまに夢でお告げを聞き、湿地帯へ向かうことがあった。
そして、そんな時は必ず新しい家族が増えるのだと。
それはつまり、湿地帯へ子供が捨てられた時に、精霊神から何かしらのメッセージが発信され、それをベルティーナだけが受信出来る――ということなのではないだろうか。
……なんだろう。
ジネットの話を聞いた時は、捨てられた子の命を守るためにベルティーナに授けられた特殊能力、みたいな解釈をしていたのだが……今はなんとなく――精霊神が湿地帯を守るために紛れ込んだ異分子を排除させている――ような気がする。
語り手によって、同じ話でも受ける印象が違うもんだな。
「ベルティーナさんがあの場所にいることで、カエルが街へ溢れ出してこないのです。つまり、あの方がこの街を守ってくださっているのです……たった一人で」
おっと。
語り手は俺と違う解釈で話をしていたようだ。
カエルは精霊神に見捨てられた存在。
だから、精霊神の加護を受ける人間たちの世界とは隔離し、閉じ込めている。
それを監視するのが、精霊神のお告げを聞ける唯一のシスター、ベルティーナだと。
……う~ん。
なんかピンとこない話だ。
ベルティーナの性格を考えると、そういうんじゃない気がするんだよなぁ。
ベルティーナに似合うのは『監視』ではなく、『保護』の方だ。
「シスターには、その者に適した場所で、その者にしか救うことが出来ない者たちに手を差し伸べる役割があります。私が、ここにいるように」
自身の胸に手を当て、一種の誇りを持ってソフィーが言う。
傷付いた獣人族を救うために自分はここにいるのだと、そんな強い意志を見せつける。
ベルティーナと同じように――とでも言いたそうだ。
「そうねぇ」
にっこりと、そしてのんびりと、老シスター・バーバラが言葉を漏らす。
ソフィーを見つめ、咎めるでなく、諫めるでなく、ただ一つの事実を話すように。
「何を思い、どこに留まるのかはその人個人の意思によるもの。それは否定出来ません。でもね、他の方の意思までもを見透かすことは出来ませんよ」
そう。
ベルティーナが何を思い、あの場所に留まっているのか……それは、ベルティーナ本人にしか分からないことだ。
だが――想像することなら出来る。
「私には、シスター・ベルティーナは、使命感に縛られているようには、見えませんものねぇ」
バーバラが顔をくしゃりと歪めて笑う。
刻まれたしわが一層深くなり、言葉に説得力を持たせている。
こんな顔で言われたら、反論は出来ないだろう。
バーバラの言葉を聞き、ソフィーのウサ耳がかすかに垂れる。
「シスター・ソフィー」
そんなソフィーに、エステラが静かに声をかける。
「ベルティーナさんは、確かに素晴らしいシスターです。でも、それ以上に、素晴らしい女性であり、素晴らしい母であり、素晴らしい――ボクたちの友人です」
「……友人」
「ベルティーナさんは、あなたのことをとても嬉しそうな顔をして話してくれていました」
「ベルティーナさんが!?」
「えぇ、それはもう」
「そう…………なのですか」
ソフィーの表情がほころんでいく。
本当に嬉しそうな笑みを浮かべている。幸せを噛み締める。そんな表情だ。
「だから、シスター・ソフィーも一度、ベルティーナさんのことを『シスター』としてだけでなく、一人の『大切な友人』として考えてみてください」
「友人……ベルティーナさんを?」
「そうです。そうすれば、ベルティーナさんの違う一面が見えてくると思います。彼女は、一面的な人物ではなく、もっと魅力的で、面白い人ですから」
ソフィーの口がぽかーんと開く。
目から鱗がぽろぽろ零れていく様を幻視出来そうな表情だ。
「ねぇ、ソフィー」
バーバラがソフィーの背をぽんと叩く。
そして、幼い子にするように、柔らかい声で語りかける。
「あなたも使命感だけではなく、もっと大切なものを見つめてみなさい。そうすれば、シスター・ベルティーナが見ているような色鮮やかな世界が見えてくるかもしれませんよ」
「ベルティーナさんの見ている……色鮮やかな世界…………」
こうでなければいけない。
こうあるべきだ。――と、そんな使命感でシスターをやっているのであれば、世界は随分と単調な色に見えることだろう。
ベルティーナは教会のガキどもを育てる上で、何よりも自分が全力で楽しんでいる。そうすることで、その姿を見たガキどもが心から人生を楽しめるようになると信じているから。
ベルティーナの大食いが始まったのも、そこがきっかけだったらしいしな。
ソフィーははじめ、こちらの用件や素性を確認する前に問答無用で会話を拒絶していた。
人間を、傷付いた獣人族のガキどもに会わせないために。
そうすることが、ここのガキどもを守ることになると、本心から信じているから。
そんな、規則やルールを重んじるソフィーには、まだ少し難しいことかもしれないが……
ベルティーナみたいなやり方もある。
そういう柔軟な発想を持って接した方が、ガキどもの可能性ってのは広がっていくんじゃないかな。
ほら。現に俺は鬱陶しいほどに懐かれちまったわけだしな。
「ですから、あなたもこだわらなくてもいいのですよ……妹さんのことや家族の……」
「あっ! 誰か来たようです! 私、ちょっと見てきます!」
バーバラの言葉を遮るように大きな声を上げて、ソフィーは門の方へと走っていった。
脇目も振らず、こちらの反応も見ずに。
まるで逃げ出すように。
「……あの娘も、もう少しシスター・ベルティーナのような余裕を持てればいいのですが」
ため息は吐かず、それでも少しだけ寂しそうにバーバラが呟く。
ソフィーは、どうもリベカを避けているようだ。
門の前でも感じたことだが、会わないようにしているらしい。
「妹というのは、リベカさんのことですよね。麹職人の」
「えぇ。そのとおりよ」
「なぜ、ソフィーさんはリベカさんに会うことを避けているんでしょうか? 姉妹なのに」
何か理由があるはずだ。
だが、それを俺たちが聞いていいのか。
そして、このシスターが話してくれるのか。
エステラは真剣な表情でバーバラを見つめる。
バーバラは笑みを浮かべたまま、しばし口を閉じ――何も話さなかった。
ただの好奇心では教えてくれないようだ。語るに足る何かを提示しないと。
「あの耳が原因なんだな」
俺が言うと、細められていた目がかすかに開いた。
推測でしかなかったのだが、どうやらアタリのようだ。
ここにいる獣人族は、みんな深い傷を負っている。
そんな連中を、ソフィーは守ろうとしていた。それも、ただならぬ気迫で。
本当に信頼出来ると判断した者でなければ、見せることもしない。徹底した態度。
それは、ともすれば自身の怪我に対する思いの裏返しではないかと考えたのだ。
『こんな耳を見られたくない――』
それは、特定の誰かに対して抱く強い感情。
特定の相手に対するものだと思ったのは、ベルティーナの手紙を見た後、俺たちの前に姿を見せたから。
誰にも見られたくないのであれば、バーバラに丸投げすることだって出来たのだ。
対応をすべてバーバラに任せて、自分は姿を隠すことだって出来た。だが、そうはしなかった。
その点からも、ソフィーは折れた耳を『誰にも見られたくない』とは思っていないと分かる。
では、その特定の人とは誰か…………言わずもがな、リベカだ。
もしくは、リベカを含む自身の家族、親族、一族……
「折れた耳ではホワイトヘッドを名乗れない――そんなことを考えているんじゃないのか?」
「驚いたわね……その通りよ」
沈黙を守っていたバーバラの口が開かれる。
その声音は、少しだけ嬉しそうだった。
「ウサギ人族の中でも、ホワイトヘッドの一族は特別耳がいいのよ。そして、ホワイトヘッドの一族は『耳』で麹を育てる」
リベカもバーサも、麹を作ることを『育てる』と言っていた。
それに必要不可欠なのが、ホワイトヘッドの『耳』なのだという。
ウサギ人族の中でも抜きん出た超聴力……か。
「幼い日に事故で耳を負傷し、あの娘の聴力はとても悪くなった……そう言っていたわ」
「聴力が落ちた者は、麹職人になれない……だから、家を出たということでしょうか?」
「さぁ、どうかしらねぇ……本当のところは、本人にしか分からないわねぇ」
麹職人への道が断たれ、後継者にはなれなかったソフィー。
それで家を出た……自分が継げない家になど興味がないと…………いや、違うな。
リベカの話をした時のあの寂しそうな目は、全く逆の感情を如実に表している。
リベカが気に病むから、あえて会わない――そんなところだろう。
「あの怪我、リベカが原因なのか?」
「直接的ではないけれど……」
バーバラは目を伏せる。
周りの景色を完全に遮断し、俺たちの姿を視界から消す。
さも、これから話すのは独り言だというアピールでもするように。
「リベカ・ホワイトヘッドは、百年に一人の天才と呼ばれるような娘だった。生まれてまもなく麹の『音』を聞き分け、それを『声』と呼んだ。先代や先々代ですら聞くことの出来なかった麹の『声』を聞き分けられたのは、彼女だけだったわ。まだ、ろくにしゃべれもしないような年齢のうちから、その才覚は現れていたの」
そんな天才が生まれて、先に生まれていたソフィーはどんな気分だっただろうか。
先代や先々代をも凌ぐ天才。
リベカを見る限り、ソフィーの上に兄姉はいないのだろう。
そして、ソフィーの年齢を考えると、リベカが生まれるまでの数年間はソフィーが後継者として期待されていたに違いない。
後継者としての才能を持って生まれた妹に、軽く追い越され……ソフィーは必死になったはずだ。
必死になって……そして、無理をし過ぎた。
「麹の『声』を聞こうと無理な努力を繰り返し、ソフィーは事故を起こしたんだな」
「そう聞いているわ。麹の樽に落ちて、耳を折った……育てていた大量の麹をダメにしてね」
育てるべき商品をダメにした。
職人に必要な耳を負傷した。
果たして、ソフィーの心をより深く傷付けたのはどちらだったのか。
「ほどなくして、ソフィーは教会へ訪れ、シスターの道を目指すようになった……彼女が九つの時だったわ」
そして、それから数年が経ち、リベカが麹職人を継承した。
「リベカさん……寂しがったんじゃないかな」
「そうね。幼いながらにソフィーが出て行くことが分かって泣きじゃくっていたらしいわね」
「ソフィーは今年でいくつなんだ?」
「十五歳ね」
ってことは、ソフィーが家を出た時、リベカは三歳か。
もしかしたら、大人たちに凄いと褒められる自分の才能を姉にも褒めてほしかったのかもしれないな。それが姉を追い詰めることになるなんて、理解出来る年齢じゃない。
当時のリベカにとっては、青天の霹靂だっただろう。
「あまりに大泣きをする妹に、ソフィーは言ったそうなの。『あなたが大人になったら、また会えるわ』と――」
大人に……
「ねぇ、ヤシロ。もしかして、リベカさんはそれで……」
「あぁ。自分のことを『大人』だと言っているんだろうな。一日でも早く、姉に会いたくて。だが……ソフィーは頑なに妹に会おうとはしない」
視線を向けると、バーバラはゆっくりと首肯する。
「えぇ、そうよ。あの娘は恐れているのね、妹に会うことを……自分は、逃げ出したのだと、思い込んでいるから」
ぐんぐん頭角を現し、今や歴代最高の呼び名も高いリベカ。
一方の自分は、努力が空回り取り返しのつかない負傷を負った……そして、教会へと逃げ込んだ。――なんて考えているわけか。
「それじゃあ、リベカさんの思い人って……」
「間違いなく、ソフィーだな」
「男の人じゃ、なかったんだね」
「みたいだな」
その点は安心出来た。……だが。
くっそ、なんとかならねぇもんかな、この問題……………………あ、よりよい麹製品をリベカに作ってもらうためにな! 精神の安定は、麹の品質に影響を及ぼすだろうからな。最高の豆板醤を作ってもらわないと、陽だまり亭の売り上げにも影響が出かねないからな。うん。
――と、遠くで『カンッカンッ――』と、金属を打ち鳴らす音が響く。
「えっ? ……ヤシロ、今のって?」
「あぁ。たぶん、門のところにあったドアノッカーだな」
先ほど、ソフィーは「誰か来た」と言って門へと走っていった。
単純に、バーバラの話を煙に巻くための方便だと思っていたのだが…………よく考えたら、気心が知れた間柄でも、そんなあからさまな嘘を吐くだろうか? 『精霊の審判』が存在するこの街で生まれ育った者が。
その中でも、敬虔なるアルビスタンたるシスターが。
ということは……
「本当に誰かが来ていたんだね」
「それも、門にたどり着くかなり前に気が付いていた……おそらく、『聞こえた』んだろうな、教会に向かってくる足音が」
エステラと一緒にバーバラの顔を窺う。
バーバラは否定も肯定もせず、ただにこっと笑っていた。
「ここから門までだって、結構距離あったよね?」
「さらに、ソフィーがここを離れてからドアノッカーが鳴らされるまでの時間を考えると……ソフィーが足音を聞いたのは、教会にたどり着くかなり前ってことになるな」
この教会の物々しい鉄門扉に圧倒されている時間や、ドアノッカーを鳴らす前に軽く相談したり身支度を整える時間なんかを最大限考慮しても、かなり遠くの足音が聞こえたことになる。
「大通りを曲がってから、この教会までは一本道。あの道を歩く人は、ここに来る人以外いないのよ。だから、分かるんですって」
いや、分かんねぇだろ、普通。
確かに、大通りからこの教会に来る時には一本道を通ったさ。
道の両側を壁に挟まれた一本道。
適度に広い一本道を30メートルくらい歩いたさ。
――その足音が聞こえるって、耳がいいなんてレベルじゃないだろう。
「それで、ソフィーさんは『耳が悪くなった』と、言っているんですか?」
「そうねぇ。麹工場内の会話は耳を澄まさなくても聞こえる――というのが、ホワイトヘッドの一族の聴力らしいわよ」
「あの広大な麹工場でですか!?」
領地が狭い二十四区ではあるが、畑の面積を可能な限り削減して、麹工場に広大な敷地を与えている。ちょっとしたテーマパークくらいはあるぞ、あの敷地面積。
「もっとも、麹を作る……えっと、『室(むろ)』だったかしら? そこの中に入ると周りの音は聞こえなくなるらしいわね」
麹の『声』を聞くために、室の中は完全防音となっているらしい。
室にこもっている時は、周りの音は聞こえない。俺たちが工場周りでどんなに騒いでいたとしても――例えば、俺たちが初めてフィルマンと会った時に交わした騒がしいやり取りなんかも――リベカが室の中にいる時には聞こえないということだ。
では、リベカが室から出ている時は?
「ホワイトヘッドの中でも飛び抜けた聴力を持つリベカなら――」
「――麹工場の外の音まで聞き取れるかもしれないね」
「あぁ。それも……聞き逃してしまいそうな小さな呟きだったとしてもな」
エステラと顔を見合わせる。
瞳に力がこもり、勝ちを確信した者特有の明るい表情を見せる。
俺もそんな顔をしているのだろうな、きっと。
俺たちは勘違いを二つした。
一つは、教会にいるリベカの思い人が男だという勘違い。
そしてもう一つは――リベカが「耳にくすぐったい」と言っていた囁きが、『耳元で囁かれたのだ』という勘違いだ。
囁きなんか耳元でされなきゃ聞き取れねぇもんな、普通。
だが、リベカはそうではない。
俺とエステラは、絶対的な確信をもって頷きを交わす。
「リベカの思い人は、フィルマンだ」
リベカを見て、誰にも聞かれないような小さな声で「かわいい」だ「好きだ」と呟く男なんか、あの初恋を拗らせたフィルマン以外にいるわけがない。
普通の男ならさっさと声をかけるか、そうでないなら声に出さずに己の胸の内に秘めておくはずだ。
知られたいけど知られたくない。
そんな面倒くさい拗らせ方をしているのはフィルマン以外にいるはずがない!
「そういえばあの時――リベカさんに会った時、フィルマン君は一言もしゃべっていなかったよね」
「あぁ。緊張して筆談してやがった」
「おまけに、仕事中のリベカさんは室にこもっているから――」
「二度目の訪問の前、あの角で交わしていた俺たちとフィルマンの会話は耳に届いていなかった」
くそ。
絶妙にタイミングを外されて、フィルマンの声はリベカには届いていなかったんだ。
フィルマンの声が聞こえていたら、きっとリベカの表情にも変化があったはずなのに……えぇい、くそ、もどかしい!
「とにかく。フィルマンの方はなんとかなりそうだな」
「そうだね。でも……」
勝ちが見えたというのに、エステラは拳を握らなかった。
代わりに、憂いを帯びた視線を門の方へと向けていた。
「……救ってあげたいよね、どっちも」
ふん。それは俺たちのすることじゃねぇよ――と、ばっさり切り捨ててやりたいところだが…………
「リベカさんの幸せがフィルマン君の幸せに直結するような気がするなぁ、ボクは」
……この腹黒領主め。
へいへい。領主命令ならしょうがねぇよな。
「あ~ぁ。どいつもこいつも、素直になりさえすればこんな面倒なことにはならなかったってのによ」
今回の話をまとめてみれば、どれもこれも、勘違いに行き違いにすれ違いばっかりだ。
ドニスの悩みの種も、フィルマンの恋煩いも、リベカの寂しさも、ソフィーの意地っ張りもだ。
「聞きたい」――聞けない。
「言いたい」――言えない。
「知りたい」「知ってほしい」……でも怖い。
酒でも酌み交わしてバカ騒ぎすれば、こんな些末な行き違いはすぐに解消されるだろう。
酒……酒か…………
「よし! 大宴会を開こう!」
「お酒の席で腹を割って話そうっていうのかい? けど、ミスター・ドナーティは下戸だと聞くし、リベカさんとフィルマン君はまだ子供――他の子供たちよりもさらに強力に子供だし……お酒は無理なんじゃないかな?」
はは、さらっと毒を吐くな、エステラ。
まぁ、否定はしないが。
「大丈夫だ。酒を飲むだけが宴じゃない」
こういうこんがらがった案件は、崩しやすい一角から徐々に撃破していくのがセオリーなのだ。
「美味いご馳走を大量に用意すれば、アイツを引っ張ってこられるぞ」
「あっ! ソフィーさんに効果絶大な!」
「そう、――ベルティーナをな!」
よし。じゃあ、四十二区の連中を巻き込んで――二十四区を盛大に釣り上げるとするか!
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