200話 フィルマン・ドナーティ
「ふぃ……ふぃるまん・どなーてぃです……」
すっげぇ小声だ。
ものすげぇ怯えられている。
領主ドニスへの反発心から、客である俺たちを盛大に待たせた後、不遜な態度で食堂へとやって来たフィルマンことリベカのストーカー。
俺たちが麹工場で会った者であると分かった途端、借りてきた直後に掃除機でこれでもかと腹の肉を吸われまくったネコのように怯えて小さくなっている。
「……え? 聞こえない」
「フィルマンです! お待たせして申し訳ありませんでした!」
一度落ち着けた腰を再び持ち上げて、元気のよい挨拶を寄越してくる。
うんうん。若い子はこういう元気な感じが好印象だよな。
「君は、物の一分で相手の嫌がることを見抜く天才だよね……」
エステラから大絶賛をもらう。
頼りになるだろう、俺?
エステラとこそこそ話していると、使用人の一人が背後に忍び寄り、綺麗に折りたたまれた小さな紙を手渡してきた。人目を避けるようにこっそりと。
中学の頃、授業中にこういうのをもらったことがあるな。
『速報! 吉村先生(巨乳な美人英語教師)のブラウス、第二ボタンが摩耗してそろそろ限界!』
そんな些細なニュースを知らせてくれる気のいい仲間がクラスに一人はいたものだ。
その日の授業は、頭に入ってこなかったっけなぁ。男子全員が一点に集中してたっけ。
で、そんな甘酸っぱい記憶をくすぐるようなこの手紙の差出人は、当然、向かいに座るフィルマンだ。
視線を向けると、俺の手元の紙を指さし『見ろ』と合図を送っていた。時折、隣のドニスを気にする素振りを見せながら。
……まぁ、さすがにバレバレだとは思うけどな。
折りたたまれたそれを広げると、中には慌てたような文字で簡潔に――
『今朝のことはどうかご内密に』
――と、書かれていた。
なので、俺はその紙に返事を書いてやることにした。
『誠意って、知ってる?』と。
「なぁ、エステラ。ペンを貸してくれ」
「碌なことを書きそうにないから断る」
くっ。こいつは、目の前に転がっている儲け話を足蹴にするような真似を……
仕方ないので、YESにもNOにも取れるような、曖昧な感じで目配せをしておいた。
フィルマンは不安が拭えない様子で、まだ成長しきっていない薄い胸板をきゅ~っと押さえつけている。
「んん? なんだ、そなたらは面識があるのか?」
「うっ、いや……」
俺たちのやり取りを見て、ドニスがフィルマンに言葉を向ける。
「面識がない」とは言えないフィルマンは言葉に詰まり、面白いほどに汗をかいている。
「以前、街でお見かけしたことがあったんです。まさか、ミスター・ドナーティの血縁者だとは存じませんでしたが」
さらりと、エステラが助け舟を出す。
その瞬間のフィルマンのほっとしたような、嬉しそうな顔……あぁ、こいつには恩を売ることで盛大に見返りが期待出来そうだ。そういうタイプだな、こいつは。
感情がすべて顔に出てしまっているフィルマンは、とても領主に向いているとは思えない。
だが、身内故に、ドニスは少し評価が甘くなっているのだろう。親バカならぬ、……甥の息子相手の場合は『何バカ』って言うんだろうか…………まぁ、思いつかないんで『バカ』でいいや。バカジジイなのだろう。
「そんなことよりも、折角ですので、少しフィルマンさんとお話をしてみたいです」
「そ、そうですね! 話しましょう!」
どこで会ったのだと追及される前に、素早く話題を変えるエステラ。
これ幸いとそれに乗っかる……というより、飛びつくフィルマン。隠し事が出来ないタイプなんだろうな、きっと。
「なんだ、そなたらは互いに興味があるのか?」
「え、えぇ、まぁ」
「そうですね。ミスター・ドナーティが目をかけるほどの方ですから、興味深いです」
しどろもどろのフィルマンと、無難に受け答えるエステラ。
そんな二人を交互に見やり、ドニスはにっこりと顔のしわを深くする。
「じゃあもう付き合っちゃえよ、ひゅーひゅー!」
「いえ、そういうことではないです」
口の両サイドに手を当て、ひょっとこみたいな口をしておどけるジジイ。……燃えるゴミの日に出したい系男子だな。
「ドニスおじ様。そういうお話はやめてくださいと何度も言っているでしょう」
フィルマンの声にうんざりとした苛立ちが含まれる。
先ほどまでの慌てた様子も消え、ただただ鬱陶しそうな表情を浮かべている。
しかし、当のドニスは一切気にする素振りも見せない。
むしろ、一層生き生きとしてきている。
「なぜだ? 見ろ、ミズ・クレアモナを。息をのむような美人ではないか」
目の前で褒められて、エステラが少しだけ頬を染める。
こいつは、褒め言葉に弱いな。
日本の商店街を歩かせたら、八百屋と魚屋と肉屋とクリーニング屋あたりにいいカモにされることだろう。
「それにな、年上の女房というのはいいものだぞ。しっかりとしていて、落ち着きがあり、貞淑で、教養があって……」
「そんな話は聞いていません」
「家柄も釣り合っているし……」
「いい加減にしてくださいっ!」
しつこいジジイに、フィルマンが激昂する。
硬いテーブルを殴り、腹からの怒声を吐き出す。
細い肩が静かに上下している。
ドニスは渋い顔をしながらも、よく回るその口を閉じ、顎を撫でてフィルマンを見つめる。
するとおもむろに、右腕を持ち上げた。
「じゃあ、あっちの給仕長にするか?」
「ドニスおじ様!?」
「家柄を取っ払えば、あっちの方がいいかなってワシも思っていたんだ。超美人だし、パイパイデカいしな!」
「黙れジジイ!」
……あぁ。身内にもジジイ呼ばわりなんだ、こいつ。
つか、エステラ以上の大絶賛だな。
やっぱあれか? 『BU』では、ナタリアみたいな女が持てはやされるのか。
先ほどまで薄く染まっていたエステラの頬が、今は引き攣っている。
……だよなぁ。許せねぇよな、そんな言い方は。
「ドニス」
あえて呼び捨てで、殺気すらも混ぜた視線をドニスに向ける。
返答次第では、貴様は俺の『敵』だ――
ゆっくりと立ち上がり、俺はナタリアを指さして声を上げる。
「『パイパイ』とは何事だ!? ちゃんと敬意を表して『おっぱい』と呼べ!」
「どうでもいいことで騒がないでくれるかな!?」
「黙れノーパイ!」
「上等だ、ヤシロ! 表に出てもらおうか!?」
「まぁまぁ、お二人とも。ここは『絶世の美女』である私に免じて」
「「調子に乗るなよ、ナタリア!」」
皮肉にも、エステラと意見が合ってしまったので矛を収めることにする。
「そなたら、無礼にもほどがあるだろう」
「あなたも、人のことは言えませんよ。ドニスおじ様」
しわジジイが何かをほざいてストーカーに注意されている。
……この空間、まともなヤツが一人もいねぇ………………俺以外。
「いろいろと失礼をいたしました」
「いや、なに。ワシの方こそ、見苦しいところを見せしてしまったな」
互いに謝罪の言葉を述べ、その場が仕切り直される。
そっとドニスを窺い見ると、さほど不快感は表していないようだ。
思っていたほど短気でも偏屈ジジイでもなさそうだ。面倒くささはピカイチではあるが。
「それで、今回はなんの話をしに来たのだ? 旧知の者からの頼み故承諾はしたのだが」
今回の会談は、マーゥルの手によってお膳立てされたものだ。
マーゥルも、ドニスには話が通しやすいと言っていたし、ドニス自身も「マーゥルの頼みだから聞いてやった」という趣旨の言葉を口にした。
今回の訪問は特例なのかもしれないな。
「ご存知の通り、現在四十二区は『BU』加盟の各区から、水不足の原因を作ったとして賠償金を求められています。ですが、今回の異常気象に四十二区は一切関与しておりません。そのことを理解していただきたく参上しました」
「ふむ……」
アゴを掴むように手を添え、頬のシワをざりざりと撫でる。
老人ながら、髭は蓄えていない。そのせいで、細かな髭が音を立てているのだろう。
「もし、ボクたちの話を聞いて納得してくださるのなら、是非『BU』に加盟する他の区の領主にも、ボクたちの話を聞いてくれるように働きかけていただきたいのです」
「無理だな」
否定の言葉はあっさりともたらされた。
まだ、オードブルすら出てきてはいない。
「四十二区への賠償請求は多数決で決まったことだ。今さら蒸し返すことではない」
「で、ですがっ。ミスター・ドナーティは、最初反対の立場だったと……」
「面倒だったからな」
「…………めん、どう?」
アゴを撫でていた手を組んでテーブルに肘をつき、そこへ頭を載せる。
深いため息を吐いた後、ドニスは低い声で呟く。
「四十二区を引っ張り出して、金だ賠償だと集るような時間が面倒だった。ワシは、他にもっと大事な案件を抱えているからな。くだらないことで時間を使いたくなくて反対した。それだけだ」
後継者問題。
それ以外に割くような時間は惜しいと、それだけの理由でドニスは四十二区への賠償請求に反対した。余計な時間を取られないように。
「だが、多数決で請求することは決まり、ワシは時間を取られた。もう十分だろう。これで、四十二区が賠償金を速やかに支払えば、ワシはこれ以上この問題で時間を取られることはない。今さら、話を蒸し返す気はない」
「そんな……」
エステラのまゆ毛が歪む。
ドニスは、四十二区などどうでもいいのだ。
どうなろうと知ったことではない。
これ以上自分に関わるなと、そう思っている。
四十二区を助けるために行なった行動などでは、なかったわけだ。
「さぁ、食事にしよう。それが済んだらさっさと帰ってくれ。ワシはフィルマンとじっくり話さなければいけないことがあるのでな」
パンと、大きな音を鳴らしてドニスの両手が打ちつけられる。
それを合図に使用人たちがそれぞれの前にオードブルを運んでくる。
この食事が終わったら……時間切れ、か。
マーゥルのヤツめ。まさか、「食事の時間さえあればなんとか出来るでしょう?」なんて言うつもりじゃねぇだろな?
なんにせよ、開きかけていた穴が物凄い速度で閉じているのだ。そんな時に取る行動はただ一つしかないだろう……
「フィルマンはどう思う?」
「……え?」
――閉じかけた穴は、こじ開ける。
俺はフィルマンへ挑発的な視線を向ける。挑発的な笑みを浮かべて、挑発的なポーズを取る。
「あっはぁ~ん」
「何がしたいんですか、あなたは!?」
「いや、すまん。つい、挑発的な吐息を漏らしてしまった」
勢いというヤツだ。そんなに気にすることじゃない。
「人間が、天気を左右させるほどの影響力をこの世界に及ぼせると思うか?」
真面目な顔をしてフィルマンに問いかけると、フィルマンは分かりやすく眉根を寄せた。
質問の意味が分からない……という顔だ。
「四十二区がお祭り騒ぎをした結果、雨が降らなくなったそうだ」
「その話は、聞いています。……けど」
「そんなことが可能だと、本当に思うのか?」
フィルマンは少し考えた後で、考えることを放棄した。
「僕には分かりません。でも、『BU』の領主たちがみな、その可能性があると判断したのであれば、そういう事例もあり得るのかもしれませんね」
フィルマンはドニスと違い、『イマドキ』の『BU』っ子らしい。
要するに、「みんながそう言っているからそうなんじゃないのかなぁ」って思考の持ち主だ。
そうしていれば、大きな間違いを犯さずに済むと勘違いし、仮に失敗をしても自分一人で責任を負うことはないと高をくくっている。
どっちも大間違いなんだがな、それは。
……まぁ、それは追々嫌ってほど分からせてやるさ。
責任逃れに躍起になるヤツは、自分に責任がのしかかってくることにとにかく弱い。
もし、避けられないような状況に追い込まれたら、こいつはどんな反応を示すんだろうな。
「天気を自在に操れるヤツがいるなら、この街の麹職人なんか、存在価値がなくなるな」
「なっ!?」
フィルマンが思わず立ち上がる。
一見すれば、二十四区自慢の職人を侮辱されたことへ怒りを感じたように見えるだろう。
だが、違うよな?
「天気を自在に操れるのであれば、毎日毎日、日が昇るよりも早くから気温と湿度をチマチマ調節する必要はないからな。汗水流して躍起になってる麹職人など、滑稽に見えてくるよな」
「そんなことはありません! 麹職人は尊い存在ですっ!」
そこまで言い切って、熱くなり過ぎていた自分に気が付いたのだろう。
フィルマンは息をのんだ後で、「この、二十四区にとって」と、慌てて付け足し、そそくさと椅子に座った。
だが、そんなことで逃げられたと思うなよ?
「随分と、二十四区に思い入れがあるようだな」
「……当然でしょう。生まれ育った街なのですから」
「大切にしているんだな」
「ですから、…………当然でしょう」
「じゃあ、継いでやれよ。領主」
「…………っ!?」
「おぉ、いいことを言うな、若いの! そうだぞフィルマン! この街を大切に思うなら、必死に勉強をして、早くワシの跡を継ぐのだ!」
「そ、それとこれとは話が別です!」
堪らずといった風にフィルマンが立ち上がる。
立ち去ろうとした背中に、ドニスの怒声が飛ぶ。
「何が気に入らんのだ!?」
ビクッと肩を震わせ、フィルマンは足を止める。
しかし、振り向かない。
ドニスは怒りをあらわに、ゆっくりと立ち上がる。
「栄光ある二十四区の領主になるのに、なんの不満があるというのだ? なりたくてもその資格がない者が何人もおるのだぞ。その者たちから見れば、そなたがどれほど恵まれているか……っ」
「僕は、自分の将来を自分の手で決めたいんですっ!」
振り返ったフィルマンの目には涙が浮かび、食いしばられた歯はガチガチと震えていた。
怒りと恐怖が混ざり、複雑な表情を見せている。
逆らえない相手への恐怖。
譲れない強い想い。
思い通りにいかない己の人生への苛立ち。
本当に分かりやすい少年だ。
青春、してんなぁ。
「……将来、だと?」
フィルマンが顔を背ける。
怒りは爆発しやすいが、その火は比較的早く萎んでしまう。消えることはないが、ずっとくすぶり続ける。ただし、燃え上がることも出来ない。
「まさか、お前も大豆農家になりたいとか言い出すのか?」
自身の甥たちが皆選んだ道。
フィルマンもそうなのかという疑念を隠さずぶつけるドニス。
だが、フィルマンは何も答えない。
「領主とは、誇りのある仕事だ。農家が悪いとは言わん、だがっ! ……農家と比較して劣る職業では決してない!」
「……それは、承知しています」
「では、なぜ!?」
「…………」
フィルマンは答えない。
答えられない。
「領主になれば、メリットも多いぞ? 一生困らぬ金が手に入る、使用人たちも思いのままに扱える、貴族連中を傅(かしず)かせることも出来る」
そんな甘言を囁くも、そんなものはフィルマンの心へは届かない。
「結婚だってそうだ」
フィルマンの方が微かに揺れる。
「最高の相手を選べるのだぞ。良家の娘が、何人もお前の相手に名乗りを上げているのだ。名のある貴族の娘ばかりだ」
フィルマンが唇を噛み締める。
「あ、あの、ミスター・ドナーティ!」
事情を知るエステラが、堪らず口を挟み込む。
一度だけフィルマンに視線を向け、なるべく勘付かれないように気を遣って言葉を選ぶ。
「さ、最近は、貴族でも身分にとらわれず、自由な恋愛を望む者が増えていると聞きます。結婚にしても、家柄の釣り合いを度外視して、本当に愛することが出来る相手を選ぶ者も多いとか」
エステラのフォローに、フィルマンが顔を上げる。
闇の中で淡く輝く光を見つめるように、すがるような表情をしている。
「確かに、最近はそういう者も増えているそうだな。重婚を嫌う者が過半数だとも」
「そうです。人間はみな平等です。自らその可能性を狭めるような行為は、先細りの衰退する未来を自ら招くのと同義です。揺るぎない信念と同時に、新しい時代への理解と寛容さを持ち合わせている二十四区の領主であれば、それを許容するくらいの度量はお持ちであると、ボクは信じています」
「無論だ」
ドニスの表情がほぐれ、フィルマンの頬からも、緊張が取れていく。
「ワシはかねてより、家柄にこだわった婚姻関係に疑問を呈していた者の一人なのだ。結婚に、政略的なものを絡ませるのは間違っている、とな」
「さすがです、ミスター・ドナーティ」
貴族であれば、自分よりも目上の者との婚姻を望み、最低でも自分と同程度の家柄を要求するものなのだろう。
だが、ドニスはそれを嫌った。
その結果、独身を貫くことになってしまったのかもしれないが。
「いくら領主の座を奪われようと、それが原因で区内の外れに追いやられようと、そんなもので没落したなどとは到底思えない。もし仮に、世間がそれを没落と呼ぶのであろうとも、ワシはそんな些末なことなど一切気にするべきではないと、ずっと、何年も訴え続けていたのだ」
……ん?
「聞く耳を持たん老人どもには、何度も業を煮やしたものだ。理解の無い者の愚かさ、狭量さ、みっともなさ、そんなものを嫌というほど見てきたワシだ。若者に対し、新しい時代に対し、理解がある方だと自負しておる!」
…………ん~、それはつまり……
「結婚とは、好きな者同士が、愛を育んでするものだと、ワシは強くそう思うっ!」
………………マーゥルに惚れていたのに、マーゥルが領主の座を追いやられ落ちぶれたからという理由で結婚を反対され、破談になって、意地になってこれまで独身を貫いてきたと……そういうことか?
なんなら、このジジイは今もなお、マーゥルを慕い続けていると……あぁ、それでこの館の中にいる使用人は全員男なのか? 給仕であっても、女を館に置かないのは、マーゥルに操を立てる……というか、変な誤解を与えたくないという思いの表れなんだな? そうなんだな?
……思春期か、このジジイ。
「で、では、ミスター・ドナーティ。もし、もしもですよ? もし、万が一にも、フィルマン君に、心に決めた相手がいたとしたら……」
エステラの言葉に、フィルマンがぎょっと目を見開く。
随分と大胆な賭けに出たな。
まぁ、この流れなら「OK」と言わざるを得まい。
流れに載せて言質を取ってしまうのは良い手かもしれない。
「もし、そんな相手がいるのであれば、むしろワシは嬉しいぞ」
ぱぁ~っ! ――と、分かりやすくフィルマンの顔が晴れやかになっていく。
「まぁ、一般の娘であるというのであれば、多少の教育は必要になるかもしれんが――あくまで、領主の嫁になる者の嗜みとしてなわけだが――結婚には支障はないだろう」
反射的に、フィルマンの拳が固く握られる。
小さなガッツポーズだ。言質を取ったな。
「結婚さえすれば、外野からうるさく言われることもなくなる。ワシと同じような目には遭わせたくないのだ……」
そう言ったドニスの顔は、しわだらけながらも柔らかく、優しそうに見えた。
「それに、結婚さえしてくれれば、その後は領主の責務に専念出来るからな。いいこと尽くめだ。もし、気になっている娘がいるのであれば、ワシも微力ながら協力するぞ――」
「ドニスおじ様……」
思春期の少年が、自分の恋心をひた隠しにしていたせいでこじれてしまった親族間のわだかまりは、なんとか解消されそうだ。
ここ数年、ずっとドニスを悩ませていた後継者問題も解決して、これでドニスの機嫌がよくなれば四十二区への賠償請求に対してもこちらへ力を貸してくれるかもしれない。
まぁ、リベカがOKするかは別として、こっちの問題はこれで解決。めでたしめでた……
「――相手が、亜人でもない限りはな」
ドニスの一言で、空気が凍った。
いや、……ひび割れた。
「…………」
フィルマンの顔が完全に下を向く。
柔らかそうな前髪に隠れて表情を窺い知ることは出来ない。
ただ、微かに震えている。……怒りによって。
「さぁ、気になる娘がいるなら言ってみろ! ワシが良縁を取り持ってやるぞ!」
「…………大きなお世話ですよっ!」
テーブルからひったくったグラスを振り回し、ドニスに水をぶっかける。
フィルマンはそばにあった椅子を倒しながら食堂を飛び出していった。
「……なっ……………………なんと無礼なヤツだ! 今すぐ捕らえて地下牢へ監禁してしまえっ!」
「し、しかし、お館様!」
「黙れ! 貴様も投獄されたいかっ!?」
「い、いえ! 申し訳ございませんでした! た、直ちにっ!」
初老の執事が慌てて食堂を飛び出し、十人弱の使用人がそれに続く。
「…………まったく!」
乱暴に椅子へと腰を落とし、ナプキンで濡れた顔を拭く。
そして、片方の肘をテーブルに突き、重たそうに頭を預ける。しわが伸び、頬が歪み、悲痛な表情を浮かべて、重いため息を吐いた。
「…………すまない」
消え入りそうな声で、ドニスが謝罪を寄越す。
何か反応を示したかったのだろうが、目の前で起こった一連の騒ぎに、エステラは上手く言葉を見つけられないでいる様子だった。
結局、エステラは視線を落とし、息を漏らしただけだった。
「…………いつもこうなのだ」
誰もしゃべらない重たい空気の中、ドニスが罪滅ぼしのように古木のようなしわだらけの口を動かす。
「ワシには、あいつの考えていることがさっぱり理解出来んのだ……そして、どうすればワシの思いをあいつに届けることが出来るのかも…………ワシには、分からんのだ」
こめかみを押さえて、ぐりぐりと指で圧迫し、ジジイが泣き言を漏らす。
おそらく、もう後一分もすれば「……つまらんことを言ってしまったな。忘れてくれ」と、そんな言葉を漏らすのだろう。
……だが。
「教えてやろうか?」
そんな俺の言葉に、その場にいた全員が視線を向ける。
「というか、むしろ……手を貸してやろうか?」
「何事だ」という驚きと、「そんなことが可能なのか」という猜疑心と、「出来ることなら救ってほしい」という希望を込めた瞳。
そんなジジイの視線と――
「次は一体何を仕出かすつもりなんだい?」という、エステラの冷ややかな視線――
まぁまぁ。どっちも落ち着け、そう慌てんな…………見てりゃ分かるよ。
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