190話 変わることと変わらないもの
「あと三日で試作品が完成するそうなんです」
そう熱く語っているのは、早朝、陽だまり亭に顔を出したアッスントだった。
マーゥルと麹職人の双方に会い、しっかりとした手応えを感じているらしい。いつにも増して鼻息が荒い。
ので、両方の鼻の穴に指を突っ込んでみる。
「ぷひぃ! ……って、何するんですか、ヤシロさん!?」
鼻を押さえて俺から四歩遠ざかるアッスント。……いや、あまりに近付いてくるから暑苦しくて。
「ジネット。熱湯を沸かしてくれ。指が汚れた」
「熱湯殺菌しなきゃいけないくらい汚いと思うなら、人の鼻の穴に指なんか入れないでくださいませんかねぇ!?」
懐から小洒落たハンカチを出して鼻をぐじゅぐじゅと鳴らすアッスント。
「悪かったよ。お前ら夫婦の甘いメモリーに土足で割り込んで」
「そんなメモリーは持っておりませんよ!」
本当はもっと早く会いに来たかったそうなのだが、昨日一昨日と陽だまり亭にはトレーシーたちがいて、その情報をどこかで聞きつけたアッスントは日を改めることにしたらしい。
なんでも、「ホスト的立場にいる時のヤシロさんはゲストを優先させる傾向がありますからね。重要なお話はゆっくりと膝を突き合せてしたかったのですよ」――ということらしい。
つまり、自分が主役じゃないと舞台に上がりたくないってわけだ。なんてわがままなヤツだ。
あ、あと、「準備もなく貴族様にお会いすると……妬みが顔に出てしまいますので……」とかも言ってたな。……よくマーゥルに会いに行けたな、そんなんで。
「で、試作品ってのは豆板醤のことでいいんだな?」
「当然です! 熟成させるほど辛みが抑えられて旨みが引き立つということでしたので……でしたよね? ……ですので、熟成は引き続き行うとして、とりあえずの品として試供品で味を見てもらいたいと、先方がおっしゃっているんです」
俺から得た知識を念のために確認してから話を進める。
先方ってのは麹職人だろう。
熟成を進めるにあたって、最初に味を見てもらいたいということらしい。
まぁ、元になる味が見当違いなら熟成させるだけ時間の無駄だからな。
「随分と乗り気なんだな」
「それはもちろん。『これはワクワクする仕事だ』とまでおっしゃってくださいましたよ」
随分と持ち上げるな。そんなに難しい相手なのだろうか、麹職人というのは。
……会いに行くのが面倒くさくなってきたな。領主にだけ会ってスルーするか? 面倒な人間はアッスントに丸投げして、俺は豆板醤の利益だけを吸い上げる…………いや、会って話をした方が後々旨みがあるだろう。
話が通じる相手であれば、今後も何かと力を借りられるかもしれないし、上手くいけばアゴで使うことも…………ふふふ。
「ヤシロさん。麹職人に会いに行く際は私がお供いたしますから」
「なんでだよ?」
「絶対、失礼を働くでしょう?」
「決めつけんなよなぁ。仲良くなろうって思ってるだけだよ…………にやり」
「その顔! そのあくどい顔が不安を煽るんですよっ!」
いや、だってさぁ、俺のあくどい顔は落ち着くってベルティーナも言っていたしな。
癒し系なんだぞ、俺のあくどいスマイルは。ほっとするだろう?
「……わたしも、お会いしてみたいです」
俺とアッスントのやりとりをにこにこと眺めていたジネットがぽつりとそんな言葉を漏らす。
じゃあ、一緒に行ってみるか? ――と、聞こうとジネットに顔を向けると、ふいに視線がぶつかり……瞬間ジネットの顔が赤く染まり顔を逸らされた。
「あ、いえ! でも、大丈夫です! ……お店も、ありますし」
なんだ?
何かがジネットの中で湧き上がって急速に弾け飛んだような、この慌しい感情の起伏は………………まさか、「他所の区の人間には仲良く見える」的な俺の言葉を真に受けて思わず付いていきたいとか口にしちゃって、そんなことを口走ったことに気付いて照れて誤魔化している…………なんてことはないよな? あはは、ないない。……ないから、落ち着け、心臓。つか、この部屋ちょっと暑くないか? 暑いよな、なんかな、さっきから急にな!
「ヤシロさん……今後も仲良くいたしましょうね。……お互い、触れられたくない部分も多分にあるでしょうし、限りなく友好的な関係を維持出来ることを私は望んでいますよ……にやにや」
……くっ!
弄られっぱなしではいないアッスントが、いやらしい笑みをこちらに向けてきやがる。
だからこいつは嫌なんだ。察しがよくてムカつく。
「三日後に出来るってんなら、その日に会いに行くか。その場で試して、ついでに味見でもしてもらえばモチベーションも上がるだろう」
「なるほど。それはいいですね。彼女も、自分の作った調味料がどのような料理になるのか興味があるでしょうし」
アッスントも俺の案に異論はないようで乗り気な様子だ。……だが、一個引っかかるワードがあった。
「彼女?」
「おや、言っていませんでしたか? 今現在、麹のすべてを取り仕切る麹職人は女性なのですよ」
「初耳だな」
「まぁ、性別はさほど問題ではないでしょう。重要なのはその腕前ですから」
「何言ってんだよ。商品はそれでいいかもしれんが、交渉はそれだけじゃダメだろうが」
相手の性別や年齢によって戦略を変えていく必要がある。
頑固ジジイとオシャレ女子とじゃ、交渉術がまるで変わってくるだろうに。
こいつは、『麹職人』と交渉するということしか頭になかったのか?
「小手先の戦略では通用しない方なのですよ。性別や年齢で対応を変えると、それこそ不興を買って追い返されかねませんよ」
「じゃあなんだ? 女相手にオッサンにするような対応をしろってのか?」
「『オッサン』ではなく、『職人』を相手にする対応を心掛けてください」
アッスントがここまで気を遣うとは…………焼きが回ったな。
お前なら、相手が誰であれ利益を最優先に考えると思っていたのに。ひよりやがって。
「アッスントがそう言うんなら、『エステラのうっふんお色気作戦』を一度試してみるとするか」
「誰が協力するものか、そんなもん」
こういう話をすると、いつもいいタイミングで口を挟んでくるのがエステラだ。
お前は、どこかに潜んでいて登場するタイミングでも見計らっているのか?
「随分とタイミングのいい登場だな」
「むしろボクは、君がボクの足音でも聞きつけてふざけたことを口にしてるんじゃないかと疑念を抱いているけどね」
「いえいえ、エステラさん。ヤシロさんのおフザケは年中無休ですよ」
あぁくそ。
口の減らないヤツが二人も揃っちまった。
「麹職人に会うのが三日後になるなら、二十四区の領主との会談もそのあたりで調整したいね」
「マーゥルからの返信次第だな。アポがいつ取れるかは分からん」
とはいえ、マーゥルのことだ。すぐにでも取り付けてくれそうな気がしているのだが……過信はしないに限る。
「タイミングが合えば楽でいいんだけど、領主の都合をこっちに合わさせるってわけにもいかないからね」
「出来れば、麹職人の方もあまり待たさないでいただきたいですね。気難しい方ですので」
どっちも、敬って高待遇しなければいけない相手か。面倒くせぇ。
「むしろ、逆に呼びつけてやるか? 『飯食わせてやるから』って」
「ヤシロ、君はバカなのかい?」
「ほっほっほっ。エステラさん、何を今さら」
……な?
こいつらが揃うとこうなるだろ?
たまには俺も敬えってんだ。
「日程が決まりましたらご連絡ください。仕事を調整して時間を作りますので」
「では」と、アッスントが陽だまり亭を出て行く。
アッスントと一緒に二十四区へ、か。
「美女率が下がるな」
「褒めてくれてありがとう。でもなんでか一切嬉しくないね」
呆れ顔でエステラが嘆息する。
こいつも、きちんとした格好をしていればお嬢様ビューティーなんだけどなぁ。
「エステラさん。今日は随分と早いですね。何かあるんですか?」
アッスントを見送り、戻ってきたジネット。
確かに、エステラとはいつも教会で落ち合うことになっている。その前にやって来るのはたまにしかない。
だが……
「え? いや、早く目が覚めたから、なんとなく」
「そうなんですか。では、ゆっくりしててくださいね」
「うん。あ、紅茶もらえる?」
「はい、ただいま」
……だいたいそんな理由なのだ。
こいつは陽だまり亭を実家か何かだと勘違いしてるんじゃないだろうか。ちょいちょい落ち着きに来やがる。
「たまには手伝えよ」
「そうしたいところなんだけど……前に、野菜の切り方でマグダに怒られたんだよ…………マグダに」
あぁ、そうか。
普段料理しないからな、こいつは。いつの間にか、マグダに追い抜かれたのか。
マグダも、ここに来た当初は出来ない娘だったのに……時間って、偉大だな。
「ナタリアみたいに上手く出来ればいいんだけど、まだ練習中なんだよね」
「練習してるんですか? 偉いです、エステラさん」
「そ、そう? えへへ」
ジネットに褒められて嬉しそうに笑う。
あんまりエステラを褒めるんじゃねぇよ。こいつはすぐ調子に乗るんだから。
「じゃあ、練習の成果をちょっと見てくれるかな?」
……な?
「ジャガイモはあるかな?」
「はい。立派な男爵をいただいたんです」
モーマット所有の『ハムっ子畑』で採れたジャガイモだ。
いただいたのではなく、あそこは俺たちのための畑なのだ。投資したからな、最初に。優遇されてしかるべきなんだよ。
ハムっ子の労働力に、最初に目をつけた俺は偉いのだ。
「凄いね、このジャガイモ」
「ニンジンも玉ねぎも、今豊作なんだそうです」
「……モーマット、追い抜かれてないよね、技術的に?」
「まさか、そんなことは……たぶん、ないかと」
ハムっ子の吸収力は凄まじい。毎日畑いじりをさせていれば、モーマットを追い抜くのも不可能ではないだろう。たとえ師匠といえどもな。
「じゃあ、見ててよ。――はぁっ!」
何を思ったのか、エステラは突然ジャガイモを高く放り投げた。
そして、懐から取り出したナイフを「シュピン、シュピン!」と、振り回し…………サッと皿を差し出してジャガイモをキャッチする。
皿の上で、ジャガイモが「ぱかっ」と八つに割れた。
「まだ大きさが不揃いなんだよねぇ……」
「そこじゃねぇよ、問題なのは」
なんの練習をしてんだ、お前は!?
「最初に皮を剥いた方がよかったですね」
「あぁ、そうか!」
「『そうか』じゃねぇ! そこでもねぇから、問題点!」
ちゃんとまな板の上で切れ!
パフォーマンス的な見栄えとか求めてないから!
「こりゃしばらく、嫁のもらい手はなさそうだ」
「う、うるさいなっ!? 花嫁修業をしたところでもらい手が出来るわけじゃないだろう!?」
「エステラ、お前……ノーマに向かってなんて酷いことを……」
「言ってないよ!? そう解釈するヤシロの方が酷いんじゃないか!」
ここでの会話を聞かせたら、ノーマとエステラの間で戦争が起こるな、きっと。
「だ、だいたいボクは嫁に行く気なんかないんだ。婿を取る立場だからね」
「巨乳な男が見つかるといいな」
「お断りだよ、そんな男!?」
バカ、お前。遺伝子的には必要だろうが! 子供を負の連鎖に巻き込むんじゃねぇよ。
「子供を負の連鎖に……」
「それ以上言うと剥くよ?」
おぉっと、しまった。
今エステラはナイフを持っているんだった。
少し言葉を控えよう。
「もう、お前の手伝いはいらん。マグダを起こしてきてくれ」
「えぇ……マグダって寝起き悪いんだよねぇ」
「お前は文句ばっかりだな。たまには進んで、『よぉ~し、耳元で「あっは~ん」って吐息を漏らすセクシーな起こし方をしてくるよっ!』とか言えんのか?」
「言えないよ! まず、そんな奇妙な起こし方はしないからね!」
ぷりぷりと文句を垂れながらも、エステラはマグダを起こしに二階へと向かう。
その間、俺とジネットは教会への寄付の下ごしらえだ。
「ヤシロさんも、朝は苦手ですよね」
「今日は起きてるだろうが」
「そうですね、うふふ」
嬉しそうに笑いながら、器用にジャガイモの皮を剥くジネット。
アッスントに用がある等、用事がある時のみ、俺は早起きをする。
そして、その度にジネットは嬉しそうな顔をしている。
いつもは一人でやらせちまってるからな。
「毎朝手伝おうか?」
「いいえ。たまにの方が嬉しさが増していいです。それに――」
ジャガイモで口元を隠すようにして、ちらりとこちらへ視線を向ける。
「――寝ぼけたヤシロさんを見るのも、割と好きですから」
少し小憎たらしく、少し可愛く……非難の言葉も浮かんでこない、そんなからかいの言葉に口をつぐむ。
なんだか悔しいな、くそっ。
言う言葉が見つからず、黙々と作業を続けていると、マグダが不機嫌そうな無表情で厨房へと入ってきた。
「……エステラは分かっていない。『起こし』の才能がない」
どうも、エステラの起こし方が気に入らなかったようだ。
少し遅れて戻ってきたエステラに向かって指を差し、説教を始める。
「……乳も揺れない残念ボディなのだから、『あは~ん』と吐息を漏らすくらいのセクシーさを身に付けるべき」
「なんでマグダはどんどんヤシロ化していくのさ!? ボクがそんなことするわけないだろう!?」
「……相手がヤシロだったら、分からない」
「そっ、そんなわけないだろう!? し、しないよ! ……しないからねっ!」
別に期待もしていないのに、わざわざ俺の顔を見て念を押してきやがった。
そう力説されると「フリ」みたいな気がしてしまうんだがな。「押すなよ」的な、な。
「マグダさん。顔を洗ったらお手伝いをお願いしますね」
「……任せて」
ゆっさゆっさと尻尾を揺らして厨房を出て裏庭へ向かうマグダ。
あの尻尾の揺れ方は機嫌が悪い時だな。エステラの起こし方がよほど気に入らなかったのだろう。
…………不貞寝しそうだな。
「マグダさん、顔を洗う前に二度寝をしそうですね」
くすりと笑って、ジネットが言う。
こいつも分かるんだな、マグダの考えていることが。
まぁ、顔を洗う前に寝てしまえば「顔を洗ったらお手伝い」という約束は嘘にならないからな。下ごしらえが終わったとしても、寄付のお手伝いは残っている。
顔さえ洗わなければ、ずっと自由時間だ。
「どんな起こし方したんだ、お前は?」
「え? 普通だよ」
「ロレッタくらい?」
「……そこまで普通じゃないかな」
ロレッタの普通は、そんじょそこらの人間には超えることが出来ない普通だからな。
さすがのエステラも、普通に普通は超えられなかったようだ。
「揺すっても起きなかったから、布団を引っぺがしただけだよ」
「「あぁ……」」
「え、なに!? どうして、二人一斉にため息!?」
俺は隠すことなく落胆し、ジネットは苦笑いを浮かべて、同時に息を漏らした。
エステラ……それ、一番やっちゃいけないヤツだ。
「マグダさんは寒がりさんですので、お布団をいきなり剥ぎ取るととても不機嫌になられるんですよ」
「だって、起きないからさ……」
「そういう時は、『早く起きてくれると嬉しいなぁ~』というニュアンスのことを耳元で囁くと、割とスムーズに目を覚ましてくれますよ」
「……なにその面倒くさい優遇」
なるほど。ジネットはそんな起こし方をしているのか。
どうりでジネットが起こしに行く日は機嫌がいいわけだ。
ちなみに俺は、朝食のメニューを耳元で囁いてやる。
すると、物の二分ほどで腹を鳴らして起きてくるのだ。こちらの方が効率的だといえるだろう。
「君たちが甘やかすから、マグダがどんどんヤシロに似てくるんだよ……」
「こらこら。俺は甘やかしてないし、俺に似ることを悪いことのように言うんじゃねぇよ」
「おそらくだけど、ヤシロが三人現れたらこの街は消滅するよ? ……つまり、マグダが覚醒したらリーチなんだよ」
「俺は、どこぞの魔神か」
覚醒だ、消滅だと失敬な。
そこそこ街の発展に貢献してんだろうが、まったく。
相変わらず手伝わないエステラと、やはり戻ってこないマグダを放っておいて、俺とジネットで下ごしらえを進める。
「相変わらず、雨が降らないね……」
窓の外を眺め、エステラが呟く。
やはりみんな、空模様が気になるようだ。
雨期に雨が降らないってのは深刻な問題だ。作物にも悪影響が出かねない。
去年の今頃は水害だなんだと大騒ぎしていたのにな。
どんなに睨みつけても、空から雨粒が落ちてきたりはしない。
「影響は出てるのか?」
「まぁ、それなりにはね。足踏み水車のおかげでなんとかもってるって感じかな」
『BU』とは別に、こっちはこっちで頭の痛い問題だ。
だが、天候はどうしようにもない。自然災害に抗う術など、俺は持ち合わせてはいないのだ。
「雨に関しては、待つしかないね」
歯がゆそうに空を見上げるエステラ。
深刻な日照りというわけではないのが、せめてもの救いか。
「なんとしても、水源は確保しておかなきゃね」
空の色が映ったかのような、曇りのない瞳が俺へ向けられる。
『BU』との交渉を上手く運んで問題を解決しようという所信表明なのだろう。
こじれさせて水門を閉じさせたりしないように……とはいえ、向こうの要求を丸呑みすることは出来ないから徹底的に抗ってやろう――という、な。
「ボクに出来ることなら、なんだってするよ。ボクは、この街の領主だから」
トレーシーに会い、少し看過されたのかもしれない。
領民第一に考え、抗う時は抗うと言ったトレーシー。
お互い、若い女領主ということで、通じるものがあったのだろう。
前のめり気味に、何かをやりたい症候群にかかっているようだ。
「焦っても仕方ないだろう。今は、今出来ることを精一杯やるしかねぇよ」
「そうだね」
意気込みだけが空回りしそうだったエステラ。そいつを指摘してやると、照れ笑いを浮かべて頬をかいていた。
そう、今は、今出来ることをやればいいのだ。領民の助けになるようなことを。
「つーわけで、下ごしらえを手伝え」
「いやぁ、それはちょっと……」
「領民の手助けを買って出るのが領主だろうが!」
「ボクは、大きさの揃った、味も歯ごたえも口あたりもいい朝ごはんが食べたいのっ!」
「……つまり、自分が手を出すと台無しになると?」
「そうなる自信がある」
胸を張るな、見せつけるほどもない程度の胸を。
「もうすぐ終わりますから、ゆっくりしていてくださいね」
「うん。ありがとう、ジネットちゃん。あ、ヤシロ。お茶」
「ふざけんな、自分で入れろ」
まったく。ジネットは甘い。
そこにいるならアゴで使ってやればいいものを。
こいつは変わらない。今も昔もお人好しで、誰よりもよく働いて、いつも笑顔で…………変わらないから、安心する。
いや、まぁ、小さなところで言えばジネットだって変わっている。
自分から意見を言うことが多くなったし、食い逃げなどの悪事に対し、見て見ぬフリをするようなことはなくなった。
厳しさと責任感を、こいつはしっかりと身に付けている。
だが、それ以上に変わらない部分が大きくて、だから……ほっとする。
「あぁ、……そうか」
きっと、ベルティーナが言っていたのはこういうことなんだろうな。
変わることは悪いことではない。
でも、変わらないでいてほしいと思ってしまう部分が、必ずある。
陽だまり亭に人が集まるのは、そういう変わらない安心感が心地よいからなのかもしれないな。
「なんですか?」
しゃべっているうちに下ごしらえを終えたジネットが、包丁を片付けながら俺の顔を窺ってくる。
「『あぁ、そうか』って、何が『あぁ、そうか』なんですか?」
嬉しそうに、興味深そうに、瞳をキラキラさせて。
なんでもないことなのに、聞きたがる。
「大したことじゃねぇよ」
「では、遠慮なく聞き出せますね。さぁ、吐いてください」
どこで覚えたのか、ジネットには似つかわしくない言葉を口にする。
似合っていない自覚があるのだろう。自分の発言にくすくすと笑いを零す。
「ヤシロさんの真似です」
「俺、そんなこと言ってたか?」
「はい。『吐けー!』って、たまに」
まぁ、言ってるかもな。記憶にも残らないほど、何気なく。
そんな言葉をいちいち覚えていて、ここぞとばかりに使って、嬉しそうに笑って……
「俺のやり方は少し強引過ぎるのかもしれないな……」
「え?」
「なんとなく、そんな風に思ったんだよ」
何もかもをぶっ壊して、今までになかったものをブチ立てる。
俺のやり方はいつもそんな感じだ。
ジネットのように、少しずつゆっくりとってのは、俺のやり方にはない。
じわじわと罠に追い込むことは、稀にあるけどな。
「いいんじゃないでしょうか、強引で」
その言葉を期待したのかもしれない。
だから、こんな愚痴っぽいことを言ったのかも、しれない。
「ヤシロさんが始める新しいことは、みんなが楽しみにしていますし」
ジネットなら、そう言ってくれると分かっていたから。
「それに――」
こうやって、笑顔を向けてくれると、確信していたから。
「ヤシロさんが楽しそうにしていると、わたしも楽しいです」
変わってほしくないってのは、こんな感じなんだな。
「あ、でも。あまり早く歩かれると追いつくのが大変ですので、ちゃんと待っていてくださいね」
そして、これが変わったところ……
「どんなに遅れても、ちゃんと、追いつきますから」
ささやかな自己主張。
相手に対して、自分の要望を伝えることを、ジネットは覚えた。
「別に、無理して追いつかなくていいぞ」
俺も下ごしらえを終え、包丁やらザルやらを片付け始める。
視線は道具へと向け、聞こえなくても構わないと思いながら、汚れを洗い流す水の音に紛れ込ませるように呟く。
「……ちゃんと、帰ってくるから」
ザバッとやかましい水音が止み、心なしか重さを増した視線をちらりと持ち上げると――
「それは、いいことを聞きました」
極上の笑顔がこちらを向いていた。
……ちっ、聞こえたか。
「でも、追いつきますよ。頑張って」
水を切り、道具を片付け、ついでのように言葉を寄越す。
「ヤシロさんの隣を歩くのは楽しいですから」
その言葉には、返事は、ちょっと出来なかった。
好きにすりゃいいだろう……って、言葉にするのは、ちょっと違うかなって。
「ヤシロ」
俺が言葉を返さなかったために、静寂に包まれた厨房で、エステラが俺の前にカップを置いた。
琥珀色の紅茶が注がれたカップ。
顔を見ると、柔らかい笑みが浮かんでいた。
「飲んで」
労いのつもりか、俺にお茶を勧めてくる。
まぁ、自分の分を入れるついでに入れただけなのだろうが……このタイミングで出されると、ちょっと、気恥かしい。まるで気遣われているような気がして……
「さんきゅ、な」
それだけ呟いて、出されたお茶を飲む。……と。
「渋っ!?」
ものすっげぇ濃かった!
「……お茶っ葉って、どれくらい入れるものなの?」
「お前……お茶もろくに入れられないのか…………」
ナタリアに基礎を教わって、ノーマのもとで半年ほど修行してこい。
マジで嫁のもらい手がなくなるぞ。あ、婿をもらうんだっけ? 逃げ出されるわ、こんなもん飲まされたら!
「エステラさん。今度、お茶の入れ方をお教えしますね。一緒にやりましょう」
「ジネットちゃ~ん! その変わらない笑顔が好きだ~!」
ジネットの胸に飛び込んでぎゅっと抱きつくエステラ。
……うむ。変わらないのも、いいことばかりじゃないな。
ジネット。お前はもうちょっとエステラに厳しくなれ。甘やかし過ぎだ。
一頻りエステラを慰め、マグダが起きてきたところで、俺たちは店を出た。
まったく、朝っぱらから賑やかだな、この店は。
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