188話 帰る前に

 泣きながらカレーを食べていたトレーシーとネネのアルバイト期間も無事終わりを迎えた。

 いつまでも拘束しておくわけにはいかない。

 昼のピークを越えたあたりで二人のお勤めは終了ということとなった。


 この後は、一度エステラの館に戻って、領主的な話なんかをしてから、二十七区へと送り届けるのだそうだ。


 俺がとどけ~る1号を見に行ったあたりで、一足先に館へと戻ったナタリアがそこら辺の準備を滞りなく行っているはずだ。あとは丸投げでいいだろう。


「お世話になりました。本当に楽しいひと時でした」


 トレーシーが恭しく目礼をくれる。

 とても優雅で、感謝の気持ちがはっきりと見て取れる。


 初めて経験するアルバイトは、トレーシーにとって楽しいものになったようだ。


「オオバ様を始め、皆様にはよくしていただいて、感謝の言葉もありません」


 と、こちらは深々と頭を下げる。

 相変わらず給仕長というには頼りない雰囲気のネネではあるが、顔つきは変わったような気がする。


「たった二日……それも限られた時間ではありましたが、私は給仕として大切なものを見つけられたような気がします」


 今回のアルバイトは、ネネにとって大きな転換期となるだろう。

 トレーシーをフォローするというのはどういうことか、どういう時にトレーシーがフォローを欲するのか。それらは、一度感覚を掴んでしまえばあとは体が動いてくれる。

 ネネにしたって、もともとダメな給仕なわけではないのだ。これまではただ委縮していただけで。

 恐怖とは、未知への不安が膨れ上がった結果もたらされるものだ。

「怒鳴られるかもしれない」の「かもしれない」の部分が恐怖に起因し、そしてそれは、慣れによって払拭することが出来る。


 おそらくネネはもう大丈夫だろう。


「二十七区に帰った途端、元通りになったら…………その時はジネットを派遣するからな?」

「だ、大丈夫です! ね、ねぇ? ネネさん!」

「は、はい! 大丈夫です、きっと、たぶん……」

「たぶん……か」

「いいえ、必ずやっ!」


 これで言質は取れた。

 もし、二十七区に帰って『癇癪姫』と『怒られたくない病』がぶり返していたら、足つぼと『精霊の審判』のダブルパンチだ。

 そう思えば、こいつらだって、意地でも再発を防ごうとするだろう。

 これぞ、『精霊の審判』のいい使い方の見本だな。うん。


「ヤシロ……、君は精霊神様までもを利用するのかい……」

「心外だな。人のためになれるんだから、精霊神にしたって本望だろうに」

「その上から目線が怖いんだよ、君は……」


 エステラは、どうにも権力に媚びる傾向が強いよなぁ。

 もっといろんな領主だとか王族だとかに会わせて耐性をつけさせないと。

 遠慮したり萎縮したりすれば、それだけで上下関係が形成されてしまいかねない。

 交渉事は、マウントポジションをとった方の一人勝ちだからな。卑屈になる必要などないのだ。遠慮してやる必要もないのだ。


「お前はもっと図太くなれよ」

「君にはもう少し繊細になってもらいたいところだね」


 他人の心の機微に敏感なこの俺に何を言う。

 俺ほど繊細な男はそういないぞ。

 なにせ、布のこすれる音でサイズが分かっちまうくらいに繊細なんだからな。……なんのサイズかは、割愛するが。


「みなさんのおかげで、とても穏やかに過ごすことが出来ました。ノドも、痛くありませんし」


 茶目っ気たっぷりにトレーシーが笑う。

 怒鳴らないからノドへの負担も少ないのだろう。もっとも、今のは冗談なのだろうが。


「本当に、私は必要のないことまで怒鳴っていたのですね……ネネさん、ごめんなさいね」

「そんなこと……っ!?」


 トレーシーの謝罪に、ネネが慌てて体の向きを変え、トレーシーに向かい合うように全力で否定する。


「あれはすべて私のためを思っての行動であると、私は理解しています! 謝られるようなことなど何ひとつなく……むしろ、こちらこそが申し訳ないくらいで……私が不甲斐ないばっかりに……っ!」


 泣き出しそうなネネを見て、トレーシーは眉根を寄せて、けれど優しげな笑みを浮かべる。


「ほらほら、ネネさん。またネガティブな思いが言葉に表れていますよ。そんなんじゃ、また足つぼされてしまいますよ」

「ひぅっ!?」


 泣きそうだったネネは体を震わせ、身を縮めて、無意識にジネットから距離を取る。

 その様に、ジネットが微かにショックを受けていたが、まぁ、足つぼハッスルの後遺症だ。甘んじて受けておけよ。


「あ、あの、決してネガティブなわけではないですよ。皆様のおかげで、私は随分と前向きになりましたし、これからもきっといい方向へ変わっていけると、そう確信しております」


 所信表明というほどではないにせよ、ネネはネネなりにここでの時間を今後に生かしていくつもりのようだ。その意気込みは見せてもらった。


「もう、自分のことを『ボロ雑巾』なんて言ったりしないようにね」


 エステラがからかうように言う。

 初めて会った時には、それはもうネガティブで自分を『ボロ雑巾』なんて言っていたっけな、ネネは。

 そんなことを揶揄されて、ネネは照れ笑いを浮かべる。


「はい。もう、自分をそんな風には思いません。私はこれから、マッカリー家に相応しい、おろしたての綺麗な雑巾のような人間になりますっ!」

「結局雑巾なのかよ!?」

「い、いえ! ポジティブに! 真新しい雑巾を使う時はわくわく感と贅沢をしているような多幸感がありますし、そのような人間になれればと……っ!」


 どんなに力説しても、結局は雑巾だ。

 こいつは雑巾の汚れ具合でしか自分の価値を表現出来ないのか?


「……真新しい雑巾は、使うほどに汚れていく…………つまり、汚されたいという願望の表れ」

「うわっ、ネネさん、ドMです」

「い、いえっ! 決してそのようなことは!?」


 心理学的に、自分を雑巾で表現する者はドM――なんて話は聞いたことがないが、なんだろう、妙に納得してしまうくらいの説得力はあるな。


「……マグダは真新しい雑巾で、零した牛乳をあえて拭くっ」

「やめてです! 今後その雑巾で拭く場所拭く場所臭くなるですから!」

「……そんな雑巾と、ネネは同等」

「うわぁ……臭給仕長です……」

「な、なんだか酷いことを言われている気がします!?」


 気がするも何も、完全にからかわれてんだよ。


「あ~ぁ、エステラのせいで……」

「なんでボクのせいなのさ!? そりゃ、話を振ったのはボクだけどさぁ」


 ネネがあわあわして、それをトレーシーが笑って見ている。

 ほんの数日前なら、こういう場面で怒声が飛び出していたことだろう。

 本当に、驚くほど感化されたな、この陽だまり亭のまったり空気に。


「あの……みなさん」


 恐る恐る、ジネットが声を発する。

 珍しく怖がられているポジションのため、怖がらせないように配慮しているのだろう。

 足つぼでハッスルした後は、こういう場面をよく見かける。


「おい、みんな。聞いてやってくれ。ジネットが最後に足つぼ納めをしたいそうだ」

「「ぴぃっ!?」」

「違います、違いますっ! もう、ヤシロさんっ」


 トレーシーとネネが身を寄せ合って捨て犬のように震え出し、ジネットが頬をぷっくり膨らませて俺を睨む。

 いや、だって。こういう弄りが出来るチャンスってそうそうないからさぁ。


「あの、お二人にウチのコーヒーを飲んでいただきたいなと思いまして」


 二十七区がコーヒー豆の産地だということはジネットにも言ってある。

 なので、陽だまり亭のコーヒーを本場の人間に飲んでもらいたくなったのだろう。


「コーヒーを出していただくのは初めてですね」

「喜んでいただきます」


 トレーシーもネネも嬉しそうだ。

 こいつらにしてみれば、コーヒーは客に出すものであって、振る舞われるようなことはなかったのだろう。


 客の引けた陽だまり亭は、静かでゆったりとした空気に包まれている。

 アルバイト店員から客へと立場を変えたトレーシーとネネが席に着き、ジネットとロレッタが厨房へ入る。


「なんだか、落ち着きませんね」

「お客さんはこういう風景をご覧になっていたんですね」


 そわそわと、座ったままで店内を見回す二人。

 賄いを食う時はすみっこの席で壁に向かっていたためか、座って見る陽だまり亭の店内が珍しいらしい。


「あ、そうだ。もう『さん付け』をやめてもいいぞ」


 二人とも、突発的に発症していた悪癖が大分収まった。

「さん付け」をやめても、もうトレーシーは怒鳴ったりしないだろう。

 ネネも、これまで通り『トレーシー様』と呼べばいい。二十七区に帰ったらそう呼ぶわけだしな。


「呼び捨てでも『様付け』でも、好きに呼んでいいぞ」


 俺が許可を出すと、トレーシーとネネは顔を見合わせて、お互い遠慮するように相手に視線を投げかける。


「ネ、ネネさんからどーぞ。私を呼んでみてください」

「い、いえ。トレーシーさんから……給仕は主に付き従うものですから」

「では、その主として申し上げますね。ネネさんからどーぞ」

「恐れ多いです、主を差し置いて私などが先行するなど……」

「ネネさん……?」

「怖い顔をされても無理なものは無理です」

「…………」

「…………」


 これまで見せたこともないような険悪な空気を醸し出し、二人が見つめ合う……というか、睨み合っている。


「何をそんなに睨んでるんだよ、二人して」

「「だって、……『さん付け』をやめた途端、店長さんに拉致されそうで……」」

「あ、あの、わたしって、そんなに怖いでしょうかっ?」


 コーヒーを持って戻ってきたジネットが少し泣きそうな表情を見せる。

 そうかそうか。

 この中にいる間は怖くて「さん付け」を止められないのか。

 パブロフの犬的効果……かな。


「うぅ……コーヒーです」


 しょんぼりとした顔で、ジネットがコーヒーを俺たちの前に置く。

 いい香りが立ち上り、肺の中が幸福感で満たされる。


「いい香りですね……」

「焙煎の仕方が上手いのでしょうね」


 そんな感想を聞いて、ジネットの顔に笑みが戻る。

 コーヒーを褒められることは、そのまま祖父さんを褒められることでもあるからな。


「すっきりしていて飲みやすいですね」

「後味がいいですね。渋味もえぐみもなく、香りだけがいつまでも残って……」


 ジネットのコーヒーは、食後の口と胃を落ち着かせてくれる。そんな味わいだ。


「こっちも是非飲んでほしいです!」


 続いて、ロレッタがコーヒーを持ってくる。

 こっちは俺が教えたブレンドコーヒーだ。


「こちらはまた違った味わいですね」


 出されたコーヒーをブラックのまま一口飲んで、トレーシーが言う。

 本当に『味わう』という感じで、コーヒーを楽しんでいるようだ。


「苦みが際立ち、きりっとした味ですね」


 ネネもまた、コーヒーにはうるさいようで、細かい味の違いを的確に言い当ててくる。

 さすが、コーヒーの産地で生まれ育った二人だ。


 エステラなんか、どっちにもミルクをたっぷり入れて、砂糖で甘く甘くしているから違いなんか分かってないだろう。


「どちらも、私たちのコーヒーとは違う美味しさがあっていいですね。是非淹れ方を教えていただきたいです」

「それでしたら……」


 と、何かを言いかけたジネットだったが、ふと俺の顔を見るなり言葉を止めた。

 そして――


「是非、何度でも飲みにいらしてください。そのうちに、味の秘密が分かるかもしれませんよ」


 そんなことを言ってから、俺に向かってちろりと舌を覗かせた。

 さも、「ヤシロさんが伝染うつっちゃいました」とでも言わんばかりに。


 なんだ、それ。

 まだまだ甘いっつうの。

 だがまぁ、店のレシピを気軽に教えなかったのだけは褒めてやろう。

 他人が欲しているものは、それだけで金を生むのだ。知りたければ、相応の金銭を貢いでもらわなければな。


「……驚くのはまだ早い」


 ジネットとロレッタの後に厨房へと入ったマグダが、遅れて登場する。

 手に持ったお盆には――そうだな、四十二区でコーヒーを語るなら、こいつがないと始まらないよな――コーヒーゼリーが載せられていた。


「……さぁ、めくるめく魅惑のワンダーランドへ」


 そんな言葉と共に、コーヒーゼリーをみんなの前へと配る。

 エステラが、前二つのコーヒーよりも明らかに嬉しそうな笑みを漏らしている。……お子様舌め。


「なんでしょうか、これは?」

「コ、コーヒーが、固まっていますよ!?」


 驚くトレーシー&ネネ。

 俺たちはといえば、にやにやとしたり顔を浮かべている。


 ホイップクリームと一緒にコーヒーゼリーを掬い、そっと口へ運ぶ。


「ネネさんっ!?」

「トレーシーさん!?」

「「なんということでしょう!?」」


 お上品に口を押さえて、驚嘆を漏らす。


「これまでに食べたことのない味です」

「でも、しっかりとコーヒーの味がしますね」

「あっさりしていて……ほろ苦くて……甘い」

「オシャレな食べ物ですね……さすが、四十二区……『微笑みの領主』様の治める街ですね」

「よかったな、『微笑みの領主』。褒めてもらえて」

「……さすが、『微笑みの領主』」

「四十二区を統べる『微笑みの領主』は一味違うです」

「とりあえず、ヤシロ、マグダ、ロレッタ……黙って」


 ジトッとした目で俺たちを睨んでくる『微笑みの領主』。

 そういう目で見てくるのであればしょうがない。

 四十二区の領民たちに、俺の『会話記録カンバセーションレコード』を見せてやらねばなるまいな。自分たちの領主がなんと呼ばれているのかを知ってもらうために。


「是非、このデザートを輸入したいです! こんな美味しいコーヒーが、二十七区にないなんて……名産の地の者として耐えがたい思いです!」

「あぁ、でも……コーヒーゼリーはヤシロの発案だから…………ぼったくられるよ?」


 トレーシーに詰め寄られたエステラが、その矛先をこちらへ丸投げしてくる。

 何が「ぼったくられる」だ。……当然じゃねぇか。


「まぁ、交渉次第では教えてやらんでもないけどなぁ……ふっふっふっ」

「……ヤシロが、二十七区を乗っ取る気」

「お兄ちゃん、ついに領主になるですか……」

「えっ、あの、ヤシロさんはそんなこと……しません、よね?」


 ジネットの言う通りだ。誰が領主なんぞになるか、めんどくさい。

 だが、他区の領主を裏から操れるのはなかなかメリットのある話ではないか。……ふふふ。


「コーヒーゼリーで領主の座になんか就かれたら、オールブルーム全体がパニックを起こすよ」


 分かってはいるだろうが、念のために釘を刺しておく……みたいな感じでエステラが言う。

 ……目が、ちょっとマジだな。


「では、こちらも足しげく通ってその製法を盗み出してみせますね」

「そうですね。いろいろ試してみてください」


 トレーシーとジネットがにっこりとした笑みを交わす。

 まぁ、本当に何度か通ってくれば、ジネットがぽろっと教えちゃうんだろうけどな。


「『BU』での多数決で、俺たちに有利になる方へ一票入れてくれるというのであれば、今すぐ教えてやってもいいぞ」


 試しに、そんなことを言ってみる。

 だが、予想通り――トレーシーは苦笑と共に首を横に振った。


「領主である以上、私には領民の生活を守る義務があります。個人の感情や利益で身勝手な行動を取るわけにはいきません」


 そんな買収は通用しないと、やんわりと忠告される。


「ですが、私が考えて『領民のためになる』と思えた時は、あなた方に有利な方へ一票を投じたいと思います。それがたとえ、他の領主たちと相反することになったとしても」


 同調現象に逆らって、同調を強要される圧力に抗うことも厭わない。

 トレーシーの口からその言葉を引き出せたのは大きい。

 ほんのわずかな時間ではあったが、ここでの経験は、トレーシーに自分の意見を貫くきっかけを与えたのかもしれない。


「まぁ、領主が領民を大切にしたい気持ちは、ボクにもよく分かるからね。こればっかりは強要出来ないよね」


 領主同士、通じるものがあるのだろう。

 エステラとトレーシーは視線を交わし、にこりと微笑み合う。


「なら、エステラとの添い寝券ではどうだ?」

「ちょっと待ってくださいっ! ……今、考えますので……っ!」

「トレーシーさんっ!?」


『個人の感情や利益で身勝手な行動を取るわけにはいきません』とは一体なんだったのか……

 トレーシーがとんちの得意な小坊主みたいに頭を抱えて黙考を始める。

 いや、よく聞くと何かをぶつぶつと呟いているな。


「……私の幸せがそのまま領民の幸せに直結する可能性が…………」


 ねぇよ。

 お前がエステラと添い寝して、領民たちが「ぃやっほ~いっ!」ってなったら、二十七区は深刻な病に冒されてもう手遅れだってことになるぞ。


「あ、あの、オオバヤシロさん……その、とても、とっても残念なのですが、やはり、私個人の幸福と領民の生活を天秤にかけることは……」

「添い寝券、十枚綴り」

「すみませんっ、もうしばらくお時間をっ!」

「心揺れ動いちゃダメだよ、トレーシーさん!?」


 同じ領主として、誘惑に屈しそうなトレーシーを思いとどまらせようと画策するエステラ。

 しかし、「そんな券くらい、ボクがいくらでもあげるから!」とは、言わないんだな。

 やっぱりこいつも、自分の身が一番可愛いってことだ。


「利己的なヤツめ」

「君にだけは言われたくないよ」


(女子に)モッテモテのエステラに睨まれる。怖くねぇよ、そんなもん。


「トレーシーさん」


 頭を抱えるトレーシーに、ネネが優しく声をかける。

 こういう時にフォローに入るのが給仕長の務めだよな。


「添い寝でしたら、私がいくらでもお付き合い致しますから」

「ネネ……」


 優しい微笑を浮かべてトレーシーを見つめるネネ。

 母性に溢れ、また同時に妹のような可愛らしさも含みつつ、トレーシーを大切に思っているとハッキリ分かる微笑みだ。

 そんな笑みを向けられて、トレーシーは短い言葉を返す。


「イラネッ」

「なんでそういうことを言うんですか!? 昔、よく一緒に寝たじゃないですか!?」

「ネネは寝相が悪いので、ゆっくり眠れないのです」

「そ、そんなことはっ、ある、かもしれませんけども……」

「その点、エステラ様は、きっと女神のような寝相に違いありません」


 女神がどんな格好で寝てるのかは知らんが……エステラの強張った失敗笑顔を見るに、相当寝相が悪そうだぞ、あいつ。


「そ、それならトレーシーさんだって! 寝返りを打った時におっぱいが『ばちーん!』ってぶつかってくることが何度もありましたからねっ!」

「そ、そんなことないですよ!? 何歳の頃だと思っているんですか。一緒に寝ていたのは幼い日の話ですよ!?」

「トレーシー様は六歳から巨乳でしたっ!」

「ふぐっ!」


 なぜか、関係のないエステラがダメージを受けた。

 エステラは蹲って、身動きが取れなくなっている。


「そ、それは不可抗力だから仕方ないのですっ。それくらいのことなら、エステラ様にだってあるはずです!」

「「「いやいや、ないない」」」

「どうして君たちが否定するのかな、ヤシロ、マグダ、ロレッタ!?」


『無い乳は揺れない』ということわざがあってだな…………袖、だったかな?


「まったくっ。領主は領民のためにいろいろ考えているっていう真面目な話だったのに……ヤシロといるといっつもこういう結果になるんだ……」

「俺のせいじゃねぇだろ」


 おっぱいの話を持ち出したのはネネだぞ。

 乗っかったのは俺だけじゃないし。

 ほら、俺の責任なんて、全体の10%にも満たないくらいだ。


「……仕方ない。だってここは、『おっぱいの街、四十二区』だから」

「それ、ギルベルタが勝手に言ってるだけだから!」

「いえ。二十七区にも、そのような噂が流れてきていますよ」

「ホントにっ!? トレーシーさん、冗談ですよね!?」

「まぁ、風の噂程度ですので」


 床に四肢をつき、エステラががっくりとうな垂れる。

『おっぱいの街』の『微笑みの領主』か……面白い肩書きを持ってるな、お前……ぷぷっ。


「ま、まぁ……二十七区は比較的三十五区と近い区だし……噂って言っても、そこまで広がってはないはず……だと、思いたい……」


 人の口に戸は立てられないと言うし、もう諦めろ。

 いいじゃねぇか。「『おっぱいの街』の領主におっぱいがない」とか噂されたって……ぷーくすくす。


「……ヤシロ。さっきから、ボクを見つめる視線が癪に障るんだけど?」

「八つ当たりはやめてもらおうか」

「半笑いで言わないでくれるかな!? ほら、肩がぷるぷる震えてるじゃないか!」


 領民を大切に思う領主なら、領民である俺に八つ当たりなんかしないでもらいたいものだな。


「もう、行きましょう、トレーシーさん!」

「そうですね」


 涙目のエステラに促されて、トレーシーとネネが出発の準備を始める。


「店長さん、みなさん。短い間でしたが、お世話になりました」

「本当に、ありがとうございました」


 トレーシーとネネが、二人揃って頭を下げる。


「悪癖が再発したら、すぐに連絡を寄越せよ。ジネットと一緒に会いに行くから」

「だっ、……ダイジョウブデスヨ……ネェ、ねねサン……」

「ハイ、モチロンデストモ、とれーしーサン……」

「あ、あのっ、大丈夫ですよ! 他所ではそんなに強くやりませんからっ」


 慌てて否定するジネットだが……

 ある程度の強さでならやるって言ってるようなもんだし、『他所では』ってことは、ここでは全力を出すともとれる発言だぞ。……「また来てくださいね~」が、恐ろしい言葉に聞こえかねないな。


「もし、何か伝えたいことが出来た時は、マーゥルさんに使いを出して、あのとどけ~る1号を使わせていただきますね」

「そうですね。その方が早く伝わると思うよ」


 トレーシーとマーゥルの関係は良好なようだし、あまり大々的に触れ回らないのであれば、とどけ~る1号を使ってもらっても問題ないだろう。

 ……ただ、あんまりマーゥルに貸しを作るのはお勧め出来ないけどな。


「では、これでお暇させていただきます」

「皆様、本当にお世話になりました」


 陽だまり亭を出て行く二人を、庭まで見送る。


「……いつでも手伝いに来るがいい」

「そうです。お二人は、あたしたちにとって大切な後輩アルバイトですから!」


 ……それは、喜ばしいことなのか?

 相手が領主であれ誰であれ、こいつらはいつも変わらない。

 良くも悪くも、陽だまり亭とはそういう場所なのだ。


「オオバヤシロさん。二十四区へ行くのでしたら、覚えておいてください」


 最後にトレーシーがとても重要なことを教えてくれる。


「二十四区の領主は、己の考えのためになら結束を乱すことも厭わない、強情で頑固な方です。……対話だけでは、突き崩すことは難しいかもしれませんよ」


『BU』に参加しつつも、我を通す利己的なジジイ。

 まぁ、二十四区は『大豆』という強みを持っているからな。強気に出ることも可能なのだろう。


 話だけを聞けば厄介な相手だ。

 だが、マーゥルがGOサインを出したのだ。そこには何か理由があるに違いない。

 会ってみる価値は、あるはずだ。


 何より……


「対話だけではなびかないってんなら、お前たちだってそうだったろう?」


『癇癪姫』と呼ばれたトレーシーは、奇遇にもエステラのファンであり、対話のドアをオープンにしてくれた。

 その結果、『癇癪癖』を直したいと思っていることが分かり、俺はそこにつけ込んだ。


 真っ向から正攻法では、こいつらをここまで信用させることは不可能だっただろう。

 少なくとも、『BU』内の情報をリークしてくれるほどにはならなかったはずだ。


「手は尽くすさ……いろいろな」


 極めつけにあくどい顔をしてやったつもりなのだが、トレーシーは俺に笑みを返してきた。


「オオバヤシロさんが望むような街になれば、いろいろと変わるのかもしれませんね、『BU』も」


 ほのかな期待を覗かせるような、意味深な言葉を残して、トレーシーは帰っていった。

 俺の望むような街。

 あいつはどんな街を想像したのだろうか。


 俺がどんな街を望んでいるのか……そんなもん、俺にも分からんというのに。


 帰る間際、エステラが俺にこんな依頼を寄越してきやがった。



「マーゥルさんに手紙を書いておいてよ。二十四区の領主への招待状がもらえるように」



 ――そういうのは、お前の仕事だと思うんだが。


 俺の名でマーゥルに借りを作ることになるのだが……それを補って余りある貸しをエステラに作ったと思うことで、俺はこの労働を了承してやった。






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