183話 帰り道

 イメルダに馬車を借りていたことが、結果として功を奏した。


「四十二区では、お前たちが領主と給仕長であることは伏せておく」


 行きよりも狭くなった馬車の中で俺は一同にそう宣言しておく。

 六人乗りの馬車に俺たち三人と、トレーシー、ネネの二人を加えた五人が乗っている。

 正体を隠すために、トレーシーの家の馬車は使わないようにしたためだ。


 なぜ正体を隠すのか……それは、同調現象をあえて引き起こさせるためだ。


 トレーシーを領主として扱うような空気の中では、トレーシーはどこにいても領主で居続けるしかない。周りが思うような態度を、こいつらは無意識で選択し実行してしまうからだ。

 正体を隠し、陽だまり亭で働かせることで所謂「普通の感覚」というものをこいつらに体験させてやるのだ。


 つまり、トレーシーを『ネネが失態を犯しても叱責などしなくてもいい立場』に置いてやる。

 給仕長は完璧でなければいけない。

 そんな思いから、他人に注意される前に領主である自分がネネを叱り、正さなければいけないという固定観念からトレーシーを解放する。


 そしてネネには、『トレーシーに怒られないためだけの言動』をやめさせる。

 自身で最良だと思う行動を取る癖を付けさせることが出来れば、行動を起こす前にトレーシーの顔色を窺い過ぎて何も行動出来なくなる、なんてアホみたいな矛盾はなくなるだろう。

 ネネが給仕長でいるためには、トレーシーの一歩先を見据えて行動出来る思考回路の構築が必要不可欠なのだ。今みたいに、トレーシーの意見を窺っていてはそれは出来ない。


 こいつらはどちらも極端過ぎる性格をしている。

 悪癖を治す前に、その片寄った思考をフラットに戻してやる必要がある。


「――というわけで、身分がバレないよう努力するように」

「ヤシロ……君はよく平気な顔で他区の領主にそんな口を利けるよね……まぁ、今更だけどさ」


 心持ち青くなった顔で、エステラが嘆息する。

 あんまり気にするなよ。トレーシーもネネも、俺の言動に不快感を表してはいない。

 なにより、協力してやろうって言ってんだぞ? そんな細かいことでぐだぐだ文句言う方がおかしいだろう? 恩に着ろよ、崇め奉れ、唯々諾々と俺の指示に従えってんだ。


「あんまり気にし過ぎるとすり減るぞ」

「どこの話かはあえて聞かないけれど……君の頭皮が露出し始めたらまとめてやり返してやるからね……」


 こ、こいつは、なんと恐ろしいことを……「ならねぇ」と否定出来ないところが歯がゆい。

 ま、まぁ、俺は海藻が好きだし、きっと大丈夫だろうけどな! きっとな!


「ジネットちゃんたちにまで内緒にするつもりなのかい?」

「いや、あいつらにはちゃんと事情を話しておいた方がいいだろう。隠すより、協力を仰いだ方が賢明だ」


 隠し事はいつか露呈する。

 まぁ、特段重要な秘密ではないのだが、隠そうとする意識は日常動作にまで違和感を生み出してしまうもので、そういう異変が取り返しのつかない事態を引き起こすなんてのはままある話なのだ。


 ならば、仲間を信用してすべてを打ち明けた方がいい!

 ……なんてのは、詐欺師の俺的には全身鳥肌もののお寒い言葉ではあるのだが…………まぁ、あのメンツなら信頼を置いても問題はないだろう。


「ジネットは俺と同じように、良くも悪くも領主だからと態度を変えたりはしないし――」

「君と一緒にしないであげてくれるかな? 態度を変えない好例と悪例みたいな両極にいることを自覚してもらいたいね」


 人の話に余計な茶々を挟み込みやがって。

 誰が悪例だ。俺はいつだって素直なんだよ。心がピュアだからな。

 純度の高い詐欺師なんだよ、俺は。


「それに、マグダは器用だからこちらの思惑を汲んで上手くやってくれるだろうし、そもそも、マグダの表情を的確に読み取れるヤツなんかいないんだから何かあっても誰も気付かん」


 マグダから秘密が漏れるリスクは極めて低いと言える。


「でもロレッタは普通の娘だよ?」

「大丈夫だよ、ロレッタは」

「信用してるんだね」

「いや、ロレッタはただのアホの娘だからな。たぶん、領主ってのがどんなものなのか知らないんじゃないかな」

「いや……さすがにそれはないと思うけど……」


 エステラの表情が引き攣ったのは、おそらくロレッタを過大評価しているせいだろう。

 なにせあいつは、ちょいちょい俺に対して舐めた態度を取るからな。

 こんな身近にいる絶対的上位者に対してすら礼儀を貫き通せないのだ。身分とか階級というものを一切理解していないとしか思えない。

 あいつが理解出来るのは、精々姉弟内ヒエラルキーまでだ。職場内ヒエラルキーを教えてやらなければなという段階なのだ。


「あいつは、馴れ馴れしいとかいうレベルじゃなくて、たまに見下してきやがるからな」

「まぁ、若干『フレンドリー』という言葉の意味をはき違えている節はあるけどね……」


 エステラが乾いた笑いを漏らす。

 きっと、身に覚えがあるのだろう。両手の指では足りないくらいに。


「私も、陽だまり亭のみなさんなら問題ないと思います」


 ナタリアが俺の意見に賛同してくれる。


「こっそり購入した情報紙を見せても、私の偉大さを称える方が一人もおりませんでしたので……数名の常連客を含めても」

「何やってんのさ!?」


 二十九区でさり気なく情報紙を手に入れていたらしいナタリア。

 自分が載った雑誌を見せびらかして回る読モの卵みたいな行動だな……つか、あの情報紙に書かれてたのは「ナタリアに特徴がよく似た架空の人物」だろうに。


「とどけ~る1号が完成したら、定期的に送っていただく約束を取り付けてあります」

「なんでボクに相談もなくマーゥルさんと交渉してんの!? 見返りは何さ!?」

「エステラさ…………四十二区にいる面白おかしい変わり者の観察記録を要求されました」

「今、ボクの名前口走ったよね!? ボクの情報を売り渡す気だね!?」

「『エステラ様の』と断定したものではありません。ただ、エステラ様が筆頭なだけで」

「誰が『面白おかしい変わり者』の筆頭か!? ボクのプライベートを切り売りするのやめてくれるかな!?」

「ご安心ください。外交に関わるような内容は当然口外いたしません。どうでもいいようなクッソくだらない失敗エピソードを面白おかしくお伝えしようかと考えているだけです」

「そういうのが一番知られたくないんだよ!?」

「『そういうの』とは、先日マーゥル様のお館へお邪魔した日の夜、自室で着替える際、下着を裏表逆に穿いていたことが発覚したことなどですか?」

「なんでここでバラすのかなぁ!?」

「『マーゥルさんの前でなんて格好を……非礼に当たらないかな!?』と焦っておいででしたけど、マーゥル様はエステラ様の下着など知ったこっちゃないと思いますよ」

「だからなんで今ここで返答するのかな!?」


 エステラの、他区の貴族に知られたくない秘密が、他区の領主と給仕長の前で赤裸々に暴露されていく。……ナタリア。面白いけど、もうやめてやれ。いや、面白いんだけどな。


「エステラ様が、裏表…………ステキですっ」


 え、どこが!?

 つか、トレーシー。お前はエステラならなんでもいいんだろう、もはや。


「ヤシロ。トレーシーさんたちを陽だまり亭に連れて行くのはいいけれど、ナタリアはすぐに追い返そう! 四十二区に着いたと同時に!」


 エステラにとっては、他区の領主に被害が及ばないかということよりも、己の秘密が暴露されないかという危機感が勝るらしい。

 狭い馬車の中で睨み合うエステラとナタリア。……こいつらも、正しい主従関係かと問われれば疑問しか残らないけどな。


「あ、あの。それで……その『陽だまり亭』というお店のお手伝いをすれば、私の悪癖は治るのでしょうか?」

「治るかどうかは断言出来ないが、まぁ、改善はするだろう」

「そう……ですか。……よかった」


 これまでトレーシーは、一瞬でも甘い顔を見せればネネの甘えや優柔不断さ、弱さが抜けないと思い込んでいたらしく、今のような不安をネネに見せることはしてこなかったのだそうだ。

 特に、悪癖を治したいと思っているなんてことは、ネネには一言も言っていなかったらしい。


 その辺のことはランチの席で俺がネネにバラしたし、今更隠す必要はないと教えてやると、なんだか憑き物が落ちたかのような表情をしていた。

 もう無理して隠さなくていいと、安堵したのだろう。


 そのまま、「もう怒らなくていいんだ」と脳みそが学習してくれれば事は簡単だったのだが……


「ネネッ! 皆様がこうして尽力くださっているのだぞ! なぜ礼の一つも口に出来ないのだ!?」

「も、申し訳ありませんっ! 心より感謝しております!」

「言葉が軽ぅぅううーい!」

「申し訳ございませんっ!」


 ……悪癖はなかなか取れないから厄介なものだよな。体に染みついてやがる。


 トレーシーの中では――


「ネネの行動が気になる」→「怒り」→「怒鳴る」


 ――というプロセスが思考より早く作動してしまうようだ。

 なので、そのプロセスを阻害する仕掛けが必要になってくる。


 その秘策が……


「トレーシー。今日以降、ネネを『さん付け』で呼ぶんだ」

「『さん付け』……ですか?」


 そう。「さん付け」だ。


 これは、一般企業のパワハラ対策としても取り入れられている手法で、無自覚に人を罵倒してしまう上司に対し行われることがある。


 目上の者は絶対的存在で、目下の者にはどんな態度を取っても許されると思い込んでいる上司は割と多く、必要のないところでも部下を怒鳴ったり、パワハラに当たる暴言を吐いたりすることがある。

 そういった人物に「さん付け」と「敬語」を義務付けるのだ。


 もちろん、「さん付け」に「敬語」で相手を叱責する者もいる。

 だが、瞬間湯沸かし器のように他人を叱責するような人間は、言葉を理論的に組み立てて相手を追い詰めようという思考は持ち合わせていない。

 大きな声と迫力で相手を黙らせてやろう――そういう思考の人物にはこの「さん付け」が効果を発揮する。


 そういった人物というのはメンツやプライドといったものを何より大切にしている場合がほとんどで、他人に対するアピールとして怒鳴っている側面がある。

 要するに、「他人を叱責出来る強い自分」をカッコいいと思い込んでいる節があるのだ。


 それに加え、横柄で他人を平気で怒鳴りつけるような人物は、その多くが相手を呼び捨てにしていることが多い。

「さん付け」は、同等以上の人物にするものだという認識が体に刻み込まれているのだ。

 だから、目下の者を呼び捨てにする。

 だが、呼び捨てはその次に繋がる暴言を誘発しやすい。


「吉村、テメェ、コノヤロウ!」と言うヤツはいても、「吉村さん、テメェ、コノヤロウ!」と言うヤツはそうそういない。滑稽だからな。


 他人より上にいる自分。そんなものに酔いしれる人間にとって、目下の者に「さん付け」をするというのはハードルが高く、屈辱的と思うことすらある。

 だが、会社や社会が「そんなことすら出来ない人間なのか」というマイナス評価をするとなれば、メンツを重んじるその上司は「さん付け」を受け入れざるを得ない。


 たったそれだけのことを……ということが受け入れられない者はあまりに多い。

 だからこそ、昨今ではパワハラ防止の講習なんかを受講させる企業が増えているわけだ。


 しかし、トレーシーは違う。

 こいつは自分を上に見せたくてネネを怒鳴っているのではない。

 ならば、「さん付け」するだけで随分と悪癖を抑えられるだろう。


「さん付け」はある種、他人を敬う言葉でもある。

 敬いと叱責が同時に起ころうとすれば、脳が一瞬戸惑いを覚える。

 その一瞬が、瞬間湯沸かし器のような脳をクールダウンさせてくれるはずだ。


「ネネも、トレーシーを『さん付け』で呼ぶように」

「え、えっ!? 私が、トレーシー様をですか!?」


 狼狽しつつ、トレーシーを窺い見るネネ。

 仕える主を「さん付け」にする。

 立場が違えばその意味合いはまるで変わる。


「さん付け」は、相手を敬うという側面もあるが、ネネ視点で言えば、トレーシーの地位を下げることでもある。

「様」が「さん」にランクダウンするのだ。戸惑いは隠せないだろう。


 しかし、ネネがトレーシーの顔色を窺い過ぎるのは、トレーシーを領主としてしか見ておらず、さらに自分を必要以上に低く評価しているからだ。

 自分の意見はすべて間違いで、領主であるトレーシーの意見はすべてが正しい。そんな歪んだ思考回路では、ネネの悪癖は矯正出来ない。


 一度、同じ地位に立ってみればいい。

 陽だまり亭の新人バイトという同じ立ち位置に立つのだ。

 二人が幼く、どちらにもまだ肩書きが付いていなかった頃、そうであったように。


「さん付け」はお互いの間にある不要な落差を取り払ってくれる、コミュニケーションの基本みたいなもんだ。

 資産の差も、権力の差も、技術の差も、一度ある程度取り払い、同じ高さに並べてくれる。

 初対面の者が最初「さん付け」で接するのは、人間関係を築き上げる前段階だからだ。そこから仲が発展すれば「さん付け」はなくなり、各々のコミュニティーを形成していく。


 もっとも、ジネットのように誰に対しても「さん付け」をする者も少なくない数存在するため、一概に「さん付けの間は仲が発展していない」とは言えず、性格によるとしか言えないが……トレーシーとネネの場合は、これで上手くいくだろう。


 お互いを「さん付け」で呼び合う対等の立ち位置に、一度こいつらを引き戻してやるのだ。

 おかしな方向へ向かって形成されてしまっていた主従関係を一度無しにして、もう一度構築し直すために。


「ほい、じゃあ練習な。まずはトレーシー」

「え……、あの……」


 突然振られて、目を丸くするトレーシー。

 だが、少し照れくさそうにしながらも――


「ネ……ネネ、さん」


 ――こちらの要求にしっかりと応えてみせた。

 本気で悪癖を治したいと、そう強く思っているのだろう。


 一方のネネは――


「ト、トレーシー……さん」


 ――と、床に土下座しながら呟いた。

 って、こら。


「おもてを上げ~いっ!」

「で、ですがっ、トレーシー様をさん付けになど……っ!」

「ネネッ! 皆様の言うことを素直に聞くことすら出来んのか貴様はっ!? ……さん!」

「どこに付けてんだ『さん』!? 取って付けたにもほどがあるわ!」


 陽だまり亭に着くまでの間に、何がなんでも「さん付け」で呼び合うようにしてやる。


「よし、お前ら。靴を脱げ」

「「……はい?」」


 笑顔で言う俺に、トレーシーとネネは引き攣った表情を見せる。

 そのまま笑顔で見つめ続けていると、二人は泣きそうな顔で裸足になり、素足を差し出してきた。


「これから、お互いをさん付けで呼べなかった時は、『足の裏をちょっと強めに』押すからな」

「あ、足の……裏ですか?」

「あ、あのオオバ様。私はともかく、トレーシー様にはあまり酷いことをふぉぉおおおうっ!」


 足つぼ、執行。


「痛いっ! 痛いですっ、オオバ様っ!」

「ネネっ!? 大丈夫ですくゎふぅ……っ! い、いたっ、痛いです、オオバヤシロさん!」

「トレーシー様っ!? 大丈夫でぇぇええええいっ!」

「ネネ、さん付けです! さぁあああーーーーん!」

「トレーシーさまぁぁあああん! さん! さんです! トレーシーさん!」

「ネネ……ネネさぁん! ネネさん! ネネさん!」


 とりあえず、さん付けが出来たので足を解放する。

 のたうち回り、椅子から転げ落ちそうな姿勢でぐったりとうな垂れるトレーシーとネネ。

 髪が乱れて、いい感じにセクシーだ。……魂が抜けたような顔をしているのが残念ではあるけども。


「や、やはり、お……恐ろしい方なのですね……オオバヤシロさんは……」

「そ、そのようですね……トレーシー様…………もといっ! さん! さんさんさんさん! さんです! トレーシーさんっ!」


 言い間違えれば、容赦なく足つぼを刺激する。

 刑は速やかに、滞りなく、無慈悲に執行される。


 ネネがすでに涙目ではあるが、気にしない。


「ヤシロ……ほどほどに、ね? 正体を隠すとはいっても、二十七区の領主なんだから」

「じゃあ、お前が身代わりになるか? トレーシーがミスったらエステラが、ネネがミスったらナタリアが足つぼを受けるということで……」

「頑張ってください、トレーシーさん! あなたならきっとマスター出来ます!」

「給仕長の意地を見せてくださいね、ネネさん!」


 エステラとナタリアは、他区の領主と給仕長を見捨てた。

 まぁ、お前らが身代わりになったら身に付かないだろうしな。


「ですが、私は大丈夫だと思います。問題は、『様付け』が習慣になっているネネの方だとおもぉぉほぉぉおおうっ!」

「トレーシー様っ……ぁぁあああああぃああああっ!?」


 ……こいつら、学習能力がないのか?


 そんなこんなで小一時間。

 俺による地獄の猛特訓が馬車の中で行われ、トレーシーとネネがへろへろになったところで、馬車は陽だまり亭へとたどり着いた。


「……着きましたね、ネネさん……」

「はい……私たち、生きているんですね、トレーシーさん……」


 馬車から降りて、互いの両手を握り合うトレーシーとネネ。

 オーバーなヤツらだな、ホント。


「ナタリア。馬車の中でのことは絶対口外しないようにね……」

「いたしませんとも……外交問題どころでは済まなくなりますから」


 こっちはこっちで大袈裟な密談をしていやがる。

 ほんのちょっと、出来の悪い生徒を懲らしめつつ教育してやっただけなのに。


「あっ、やっぱりヤシロさんでしたか」


 馬車の音を聞きつけて、ジネットが陽だまり亭から顔を出す。


「おかえりなさい、ヤシロさん」


 姿勢を正し、俺に笑みを向けてくれる。

 そして、地べたに蹲り、手を取り合って涙ぐんでいるトレーシーとネネを見つけて目を丸くする。


「あの……こちらは?」

「ちょっと事情があってな。今日明日と陽だまり亭の仕事を手伝わせたいんだが、構わないか?」

「はい。もちろんです。お手伝いしていただけるのでしたら、喜んで」


 なんの疑いもなく、ジネットは快諾する。

 そうなるとは思っていたが……こいつには猜疑心ってもんがないのか?


「あの、オオバヤシロさん……こちらの方が店長さんなのですか?」

「あぁ。店長のジネットだ」

「それはそれは……ネネさん。立ち上がりましょう」

「そうですね。立ち上がってきちんとご挨拶をいたしましょう、トレーシーさん」

「…………ただ、足の裏が痛くて……」

「……我慢ですよ。きちんとご挨拶をしなくては……ご厄介になるわけですし」


 生まれたての小鹿のように、足をぷるぷると震わせて、トレーシーとネネが支え合いながら立ち上がる。


「初めまして。トレーシーと申します。二十七区よりやってまいりました」

「同じく、ネネと申します。ご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします」

「はい。陽だまり亭店長のジネットです。こちらこそ、よろしくお願いしますね」


 三人がそれぞれ深々と頭を下げる。


「ちなみに、ウチの店長……足つぼが超得意だ」

「何卒、穏便によろしくお願いしますっ」

「ご迷惑をおかけするとは思いますが、穏便にっ!」

「ぅえぇええっ!?」


 俺の情報を聞いた瞬間、トレーシーとネネが土下座した。

 足つぼがトラウマになってしまったようだ。


「あ、ちなみにジネット。この二人、領主と、そこの給仕長だから」

「ぅえぇええぇえぇっ!?」


 ジネットが驚きっぱなしだ。

 リアクション芸人みたいだぞ、お前。


「あ、あの、とりあえず顔を上げてください! 服が汚れますから!」


 蹲ってぷるぷる震える二人を抱き起こし、ジネットが慌てて裾の汚れを払ったりしている。

 まったく……


「騒がしいったらないな」

「君には、元凶だという自覚がないのかい?」


 元凶? 俺が?

 こいつらが騒がしいのは、こいつらの生まれ持った資質のせいだろうに。心外だな、まったく。


「あの、ヤシロさん……馬車の中でどんなお話をされてきたんですか? 怯え方が尋常ではないようなんですけど……?」

「話自体は、特に変わったことはしてないぞ」


「さん付け」を忘れた時に、これでもかと足つぼを刺激しただけで、話の内容はよくある、当たり障りのないものだった。


「ジネットは人類の規格を超越した爆乳だとか、マグダは絵画かってくらい表情が変わらないヤツだとか、ロレッタは普通を極めた最強の普通だとか、そんな話だ」

「人類の規格を超越なんかしてませんもん!」


 むぅむぅと、両腕を振り回して俺をぽかぽか叩くジネット。

 ほらほら、そういうことすると揺れるから……、いいぞもっとやれ。


「店長さ~ん。何かあったです? やけに騒がしいですけど……あ、お兄ちゃん! 帰ってたですか!」


 ひょっこりとロレッタが顔を出し、俺たちを見つけるや、嬉しそうな顔をして店から出てきた。


「むむ? こちらの綺麗なお二方は一体誰です?」

「「あ、ロレッタさんですね」」

「なんで知ってるです!? この二人何者なんですかっ!?」


 うむ。

 ロレッタの特徴はしっかりと伝えられていたようだ。ロレッタの『普通』さは、一目で分かるらしい。さすが、世界一の『普通』だ。


「この二人は陽だまり亭の臨時バイトだ」

「おぉっと!? 新人さんですか!? 歓迎するです!」

「ただし、トレーシーは二十七区の領主で、ネネはそこの給仕長だ」

「な、なんとっ!? 凄い人たちじゃないですか!?」


 いささかオーバーなリアクションでひとしきり驚いてみせた後、ロレッタはケロッとした顔で言い切った。


「けど、ここではあたしの方が先輩ですから、ちゃんとあたしの言うことを聞くですよ」


 うん。

 やっぱりロレッタは、ロレッタなんだな。うん。


 こうしてその日の夕方から、陽だまり亭に「訳アリ」の新人アルバイトが二名加入することになったのだった。






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