184話 新人アルバイト

「よくお似合いですよ、お二人とも」


 ウェイトレスの格好に着替えたトレーシーとネネを、満面の笑みで見つめるジネット。

 なるほど、確かにトレーシーもよく似合っている。

 ネネは給仕長なので、エプロンが似合うってのは当然といえば当然なのかもしれないが、やはり給仕長のエプロンとウェイトレスのエプロンは違う。普段よりも可愛らしさを強調させた衣装に照れる姿がなんだか微笑ましい。

 トレーシーもなかなか様になっている。こうしていれば『癇癪姫』なんて名で呼ばれている人物にはとても見えない。


「……マグダが教育をする。しっかり言うことを聞くように、新人たち」

「はい。マグダ先輩」

「よろしくお願いします、マグダ先輩」

「……うむ」


 マグダは、この二人が領主と給仕長だと知った上でこの態度である。……お前の肝は座り過ぎてるよな。マグダ先輩って……まぁ、トレーシーたちが楽しそうにしているからいいけども。


「……接客業の基本は笑顔。常ににっこり微笑んでいるように」

「「はい」」

「いや、今のは突っ込むところだぞ、二人とも」


 お前が言うか、ってな。


「うふふ。なんだかわくわくします。私、こうしてお仕事をするのは初めてなんです」


 トレーシーのテンションが上がっている。

 エプロンを摘まんでみたり、回ってみたり、食堂内をキョロキョロしたりしている。


「ネネさん。頑張りましょうね」

「はい。微力ながら、サポートさせていただきます」

「あら、ダメよ。ここでは私たちは対等。同じ『新人アルバイト』なんですから。仕事も平等に、切磋琢磨するつもりで……ううん、いっそ蹴落とし合うくらいでないと!」

「いや、蹴落とすなよ! 協力してやってくれ」


 初めて体験するアルバイトに、トレーシーは気合い十分だ。というか、楽しんでやがる。

 お金持ちが庶民の生活を体験して喜ぶなんてのは、よく聞く話だしな。トレーシーもご多聞に漏れずそのタイプなのだろう。


「で、ですが……もし万が一のことがあったら……」

「ネネっ…………さん」


 一瞬、『癇癪癖』が発動しかけたが、なんとか「さん付け」によってブレーキがかかる。


「私たちのために場所と機会をくださった皆様にご迷惑をかけないよう、精一杯与えられた仕事を遂行する。それが、今考えるべきことなのではないですか?」

「そ、そうですね……おっしゃる通りです。トレーシー様……………………あっ!?」


 口にした後で、己の失態に気付き、ネネが青い顔をする。

 だが、もう遅い。ペナルティはきちんと受けてもらわないと……


「ジネット。よろしく」

「えっ!? わたしでいいんですかっ!?」


 おぉっと、なんだかすげぇ嬉しそうだ。

 何気に、やりたいのをずっと我慢してたんじゃないのか? …………溜まりに溜まった足つぼ欲が爆発するかもしれん…………ネネ、ご愁傷様です。


「では、ネネさん。ここではなんですので厨房の方へ」

「あ、あのっ、店長さん……っ、なんだか、お顔が、物凄く輝いているのですが…………お、お手柔らかに……あの……っ!」

「さぁ、行きましょう」


 るんるんと、ネネの手を引いて厨房へと入っていくジネット。

 その姿を見送るトレーシー。

 その表情は「うふふ。ネネさんったら、おっちょこちょいさんなんだから」的な微笑ましさと、自分はミスしなかったという優越に満ちていた。

 ……だが、そんな余裕をかましていられるのは今の内だぞ。


 ロレッタとマグダは厨房への入り口からすすすと遠ざかり、背を向けて、耳を塞いだ。

 その瞬間――



「ふにゃぁぁぁあああああああああああっ!?」



 天に突き刺さるような悲鳴が轟いた。

 食事中の客たちがギョッとした表情を見せ、食堂内が一時騒然となる。

 トレーシーはというと、先ほど浮かべた余裕の表情のまま固まって、冷や汗をダラダラと垂れ流していた。


「ジネットちゃん、張り切ってるみたいだね……」


 ジネットの足つぼを食らったことがあるエステラが、懸命に笑みを作ろうとして見事に失敗している。ジネット絶対擁護派のエステラをしても、足つぼモードのジネットは庇いきれないらしい。……バーサーカーだもんな、アレは。


「それにしても、大したものだよね」

「何がだ?」

「トレーシーさん、ここに来てから一度も『癇癪』を起こしてないよね」

「ほっほぅ……『大したもの』とは、また随分上から目線だな」

「そ、そんなつもりはないよ!? 君の方策が功を奏していることに対して『大したものだ』と言ったんだよ!」


 ってことは何か? 俺には上から目線で構わないって認識か? 生意気な。

 まぁ、実際「さん付け」の効果は大したものだといえるだろう。

 エステラの言うように、トレーシーは陽だまり亭に着いてから一度もネネを怒鳴っていない。自身の館にいる時より、会話が増えているにもかかわらず、だ。


「環境が変わって、『癇癪癖』が悪化するんじゃないかと危惧していたんだけど」


 環境の変化によるストレス。トレーシーにとっては、呼べば駆けつける給仕がいなくなり、ネネしか心を許せる相手がいない状況だ。かなり心細いだろう。

 そんな中、過度のストレスによって『癇癪癖』が悪化する可能性は十分にあった。


「なんで、『さん付け』をするだけで怒鳴れなくなるんだろう?」

「馬車の中で説明してやったろう?」

「あれでしょ? 脳がブレーキをかけるとか、違和感がどうとか」


 ざっくりとした覚え方しやがって……


「例えばだ、エステラ。お前がナタリアのつまみ食いを発見したとする。叱るか?」

「そりゃもちろん」

「しかし、お前がつまみ食いの現場を目撃出来たのは、お前自身もつまみ食いをしていたからだった……って場合は、どうだ?」

「う……それは、叱り難い……というか、気まずくて叱れないね……」


 他人を怒鳴るヤツは、己の中の自尊心を満たそうという思考がどこかしらに働いているものなのだ。そうでなければ「怒鳴る」なんてカロリー消費の激しい方法ではなく、「注意」すればいいだけだからな。

 それをわざわざ「怒鳴る」なんて選択をするには、それなりの理由がある。

 ぐうの音も出ないほど相手を打ち負かしたいとか、自分の正当性を証明してみせたいとか……要するに、さっき言った「自尊心を満たしたい」という思いが働いているわけだ。


 では、他人を怒鳴ることでその自尊心が逆に損なわれるような状況に追い込まれるとすればどうなるか……

 事前にそうなると分かっていれば、人は他人を怒鳴ったりはしない。わざわざ恥をかいたりはしたくないからな。


「自分のことを棚に上げて相手を怒鳴るヤツがいたら、周りの人間は例外なく怒鳴ってるヤツを生温かい目で見るだろう?」

「まぁ、そうだろうね」

「それが分かるから、そういう場面では脳がブレーキをかけてくれるのさ」

「自分が『さん付けをする』というルールを破ってしまっては、相手を怒鳴れない……ってことだね」

「そう。で、そうならないためにルールを守ろうとすれば『さん付け』をしなければいけなくなって……」

「今、なぜ自分が『さん付け』っていうルールを課せられているかを思い出せば、感情任せに怒鳴ったりはしなくなる……というわけか。なるほどねぇ」


 癖ってのは無意識にやってしまうから厄介なわけであって、意識がそちらに向けば抑えることも可能になる。

 それに……万が一ルールを破れば、地獄の足つぼが待っているからな……トレーシーはそうそう容易にルールを破れはしないだろう。


「…………うぅ、ただ今戻りました……」


 泣き顔のネネがふらふらと戻ってくる。


「申し訳ありませんでした……もう二度とルールを破ったりはいたしません……本当に……本当に申し訳ありませんでした…………」


 弱々しく、魂が気化して漏れ出していくかのように言葉を発する。

 ……ジネット。お前、どんな足つぼを施したんだよ…………


「あ、あの……少し、痛かったでしょうか?」

「とんでもありません! お手数をおかけして申し訳ありませんでした! むしろ私の方こそ申し訳ありませんでしたっ!」

「え、あの……っ?」


 こんなに怯えられているジネットは珍しい。

 ちなみに、マグダとロレッタはいまだに我関せずを貫いている。

 下手に絡むと……


「大丈夫だよ、ジネットちゃん。ネネさんは初めてだから、ちょっと驚いているだけさ」

「そ、そうですよね。何度か経験のあるエステラさんたちなら平気なレベルですよね」

「…………ん、それはどうかな……」

「あの……もしやり過ぎていたら申し訳ないので……エステラさん。ご協力いただけませんか!?」

「へっ!?」

「力加減を覚えたいんです! どのくらいが今回の罰に最適か……それを、一緒に調べていただけませんか!?」

「え……あの、それって……」

「エステラさん! 少しだけ足の裏を貸してくださいっ!」


 エステラが物凄い勢いでこちらを向く。

 なので、それ以上の勢いで顔を逸らす。


 そう。

 今、下手に絡むとこういう二次被害に巻き込まれるのだ。


 なんだかんだ、ジネットは足つぼが好きなのだ。そして、変に責任感が強いせいで融通が利かなくなる時がある。

 諦めろエステラ……俺たちでは、救ってやることは出来ない。


「では、エステラさん、こちらへ!」

「えっ!? ホントに!? 冗談じゃなくて!?」

「ご協力していただけるなら、あとでドーナツを御馳走しますから」

「買う! 自分で買うから!」

「全種類ですよ。豪華ですよ。ちょっとしたパーティーですよ」

「ジネットちゃん、笑顔が、なんか怖いよ!? ねぇ、ジネットちゃーん!」


 かくして、エステラは足つぼ魔王に拉致されて…………



「ふにゃぁぁあああああああっ!」



 悲劇は、繰り返されたのであった……


「が、頑張りましょうね、ネネさんっ!」

「はい、トレーシーさ……ん!」


 意気込みは大したものだが……ネネはあと五~六回はやられるだろうな、足つぼ。


「……生贄エステラが魔王の餌食になっている間に、接客の基本を教える」

「感付かれるといけないので、小声で話すです。よく聞いてほしいです」

「はい。分かりました」

「よろしくお願いします」


 こそこそと、密談するように業務内容の説明が始まる。

 魔王に感付かれたら「他の方はどう感じるのでしょう?」とか言って確実に巻き込まれるからな。

 ナタリアなんか、さっきから背景に溶け込んで一切の気配を消し続けているもんな。さすが給仕長。人の意識の外に身を置くプロだ。

 ……つか、自分に火の粉が降りかからないように逃げるのが上手いな、こいつは。


「……お客が来たら、しっかりもてなすこと」

「コーヒー豆をプレゼントするんですね」

「トレーシー。ここ四十二区だから。客に豆を押しつける習慣のない区だから」


 まぁ、領主は「いらっしゃいませ~」なんて出迎えしないもんな。

 何も知らないと思って、一から教えてやる必要があるだろう。


「ちょっとお手本を見せてやってくれ」

「はいです! じゃあしっかり見ててです!」


 タイミングよく店のドアが開き、新規の客が入店してくる。

 常連の大工たちだ。ウーマロに駆り出されてとどけ~る1号を作ってるヤツらだな。


「いらっしゃいませです!」


 ぱたぱた~と駆けていって、ロレッタは大工たちに笑顔を向ける。


「お仕事はどうですか?」

「順調だよ。見てな、ニュータウンにスッゲェもんおっ建てて見せるからよ!」

「じゃあ楽しみにしてるですね」

「「「むはぁあ! 俺、頑張っちゃうぅうっ!」」」


 大工どもがなんか気持ち悪い。

 もとい。大工どもが物凄く気持ち悪い。


「あれ? ヒジのところ擦り剥いてるですよ?」

「ん? あぁ、こんなもんかすり傷だよ。唾付けときゃ治るって」

「ダメですよ、ちゃんと手当てしないと! あたしが消毒してあげるです」

「「「ロッ、ロレッタちゃんの唾で!?」」」

「陽だまり亭には置き薬があるですから、それで消毒するです」

「「「ですよね~」」」


 気持ち悪いくらい仲いいな、大工ども。

 もとい。仲が良くて気持ち悪いな、大工ども。


「それじゃあ、席に案内するです。みなさんよく食べるですから、窓辺でいっぱい食べて、外を通るお客さんに『あ、美味しそうだな』って思わせる係に任命です!」

「「「ぅは~い! さり気なく利用されちゃった~い!」」」


 気持ち悪いからバカみたいな声を出すな、大工ども。

 もとい。気持ち悪いから声を出すな、バカ大工ども。


「……あんな感じ」

「いや、待てマグダ。アレは特殊な例過ぎて参考にならんぞ」


 ロレッタの話術も、大工どもの病も、一般例からはかけ離れ過ぎている。

 いきなりアレをやれと言っても不可能だろう。


「……習うより慣れろという言葉がある」

「いや、知識ゼロで放り込んだら、客が迷惑するだろうが」

「……獅子は我が子を千尋の谷へ突き落すという」

「そこまで逞しく育てる予定はないから」

「……規格外の爆乳は揉んで慣れろという」

「それはその通りだなっ!」

「お兄ちゃん、なんかうるさいです! 店内では静かにしてです!」


 遠くから、接客中のロレッタに叱られてしまった。……なぜ俺だけ。理不尽だ。


「……とにかく、一度やってみるといい。大丈夫。この時間に来るお客は気心の知れた常連が多い。それに、マグダがそばについている」


 ぽんっと、トレーシーの背を叩き、ドアのそばへと移動する。

 なんだかんだ、マグダは新人教育に熱心だし面倒見もいい。任せておいて問題ないだろう。

 それに、マグダが言ったように……


「この時間に来るのはトルベック工務店の連中だろうから、失礼があっても問題ないな」

「「「へいへーい、ヤシロさん! 聞こえてるぜーい!」」」


 注文を終えた大工たちが雛段芸人のように一斉に立ち上がって抗議してくる。

 よし、スルーだ。


「……では、次に来たお客を、さっきのロレッタのように出向かえてみて」

「は、はい! 頑張りますっ!」


 トレーシーが不安の色に染まる顔を気力で持ち上げ、力強い視線でドアを見つめる。

 そして、そんなトレーシーを、トレーシー以上に不安そうな目で見つめるネネ。こういう時は、大方いつも代わってやっていたはずだ。

 だが、今回はさせない。ネネにとっては、トレーシーの動きをしっかり見つめることもまた重要なのだ。


「ところでロレッタちゃん。あのべっぴんさんたちは誰なんだい?」

「新人さんかな?」

「だったら俺、通う頻度上げちゃうかもっ!」


 大工どもがトレーシーたちを見て騒ぎ始めている。

 見るな。お前らにはもったいない。


「あの二人は、今日と明日だけのアルバイトさんです」

「なんだぁ、明日までかぁ! 残念だなぁ」

「けどまぁ、あんな美人さんだ。多少失敗しても許せちゃうよな」

「分かる! あの人に出迎えてもらっただけでもう満足だよな!」


 大工のオッサンどもは、トレーシーとネネがえらくお気に召したようだ。

 威厳という衣を脱いだトレーシーは、どこか儚げな育ちのいいお嬢様にしか見えないからな。分からんではない。

 ネネもしかりだ。教育の行き届いた良家の娘に見える。……いや、見えるというか、そうなんだろうけど。


「……む。来る」


 マグダの耳がぴくりと動く。

 ドアの向こうから、客の足音が聞こえたのだろう。


 トレーシーが息をのみ、食堂内に緊張が走る。

 全員の視線がドアとトレーシーを行ったり来たりしている。


 胸の前で手を組み、不安げな表情でドアを見つめるトレーシー。


 そんな張り詰めた空気の中、ドアが静かに開かれた。


「こんにちわッスー! 夕飯を食べに来たッスよ~!」

「いらっしゃれ!」

「ふぉーうっ!? だ、だだ、誰ッスか、こここ、この美人さんはぁ!?」


 なんとタイミングの悪い……

 店に入ってきたのは、ウーマロだった。

 あいつは、どんな失礼を働いても問題ない半面、女性に対して緊張し過ぎるのでロレッタやジネットですらまともな接客が出来ない唯一の常連客なのだ。

 難易度はかなり高い。

 ……つか、変わった噛み方をしたな、トレーシー。


「お、お仕事は何をされているんですか!?」

「へっ!? あの!? いや、オイラ……!」

「おったてますか!?」

「なんか美人の口から飛び出しちゃいけない言葉が聞こえたッス!?」

「ヒ、ヒジ! あの、ヒジを摺り下ろしましょうか!?」

「怖いッス!? この美人さん、なんか凄く怖いッスよ!?」


 ロレッタの真似をしようと、さっき聞いた会話を踏襲しようとしたのだろうが……誰がいつヒジを摺り下ろしたんだよ……


「つ、唾をおかけしましょうか!?」

「ヤシロさぁーん! 大至急状況の説明をお願いしたいッス! なんなんッスか、これ!?」


 散々だ……

 唾かけプレイなんてサービス、ウチではやってねぇんだよ。

 だからな、大工ども。ウーマロの後ろに並ぼうとしてんじゃねぇよ。出禁にすんぞ、お前ら全員。


「ネネ。とりあえず、トレーシーをジネットのところへ連れて行ってくれるか?」

「え……店長さんのところへ、ですか?」

「あぁ……『唾をおかけしましょうか』には、罰が必要だ」

「あぁ……おいたわしい……トレーシーさ………………『ん』!」


 ネネ、ギリギリセーフ。


 まぁとりあえず、頭を冷やす意味も込めて、かる~く頭の冴えるつぼでも押してもらってくればいい。

 ネネが遠慮がちに近付いて、トレーシーへと耳打ちをする。

 その瞬間、トレーシーが膝から床へ崩れ落ちた。……ショック、デカいな……


 かくして、数分後に厨房からもうすでに聞き慣れた感の出始めた悲鳴が轟き、涙目のトレーシーとエステラが二人揃って戻ってきた。


「……エステラ様。領民の暮らしというのは、かくも厳しいものなのですね……」

「はは……今日は、特別だよ……」

「私、領民に優しい領主になれるよう、一層努力します」

「うん。それはいいことだと思うよ……そう思うようになった理由は、ちょっとアレだけど」


 なんだか、領主間の絆が強くなったようだ。

 ジネット。お前、外交の役に立ったみたいだぞ。そのうち『足つぼ大臣』とかに任命されんじゃねぇか。


「……ヤシロ」


 トレーシーに代わってウーマロの接客をしていたマグダが、俺のもとへとやって来る。

 何かを悟ったような、少し成長したような雰囲気を身に纏って。


「……最初は、きっちりと基本を覚えてもらうところから始めることにする」

「あぁ、そうしてやれ。つか、俺、最初にそう言ったよな?」

「……トレーシーは、獅子じゃない」

「それも、俺は分かってたんだ」


 マグダの教育方針が変わったことで、その日は接客業の基本を教え込むことに終始した。

 挨拶の仕方。注文の取り方。食器の片付け方に、テーブルメイク。


 いつもの常連が見守る中、懸命に仕事を覚えようとする二人は、その見た目も相まって、あっという間に人気者になっていた。

 テーブルを拭けば拍手が起こり、食器を下げる際には声援が飛び、挙句に「話がしたいから」と普段は頼まないデザートを頼むヤツが続出した。

 ……オッサンども、分かりやすいな。


 日が落ちる頃には、二人とも拙いながらもそれなりに職務をこなせるようになっていた。

 誰が言い触らしたの知らんが、新人バイトが奮闘しているという噂が流れたようで、男性客がどっと押し寄せてきやがった。


 客が増え、仕事が増えるとベテランでもテンパることがある。新人ならパニックだ。

 だが、そんないっぱいいっぱいな姿が客たちに受け、普段より数段落ちる行き届かないサービスが逆に好評だった。


 よく言えば、見守るような穏やかな空気に包まれて、新人バイトは懸命に働いていた。

 ……悪く言えば、「オッサンどものニヤニヤした視線に見つめられる中」ってことになるんだろうけどな。


「ふふ。なんだか楽しいですね、ネネさん」

「はい。とてもいいところですよね、トレーシー様」

「はいっ、ネネさん、アウトー!」

「ふにょ!? い、今のはうっかりで……な、無しです! 今のは無しで!」

「店長さ~ん、今ネネさんが~」

「トレーシーさん、告げ口とかよくないと思いま…………はぁあぅっ、店長さんが笑顔で手招きをっ!?」


 領主と給仕長という肩書から解放された二人は、仲のいい幼馴染に戻り、楽しそうに会話するようになっていた。

 きっと、昔はこんな風によく笑い合っていたのだろう。


「ふにゃぁぁぁああああっ!」


 ネネの悲鳴が定期的に聞かれる中、トレーシーは結局一度も癇癪を起こすことなくこの日を終えた。

 場の空気が穏やかだから、同調現象によって心が穏やかになっていたのだろう。


 あとは、二十七区に戻ってもそれを維持出来るか、だな。


 ただまぁ。罰を受けるネネを、いたずらが成功した子供のような笑顔で見つめている姿を見れば、もう大丈夫な気がするけどな。


「ネネ~。しっかり反省するんですよ~」

「あっ! あぁー! 今! 今『ネネ』って呼び捨てにしました! しましたよ、店長さん!」

「い、今のは、いい呼び捨てですもん! 愛情がこもった呼び捨てだったので、今のはセーフの呼び捨てです!」

「いいえ、ルールはルールです! さぁ、店長さん、お仕置きをっ!」

「ネネッ! どうしてそう融通の利かない発言を!? こういう時は臨機応変に…………はぁあぅっ、店長さんが笑顔で手招きをっ!?」

「トレーシーさん。ご武運を」

「覚えておきなさいよ、ネネェー!」


 ま。こんだけ戯れられれば問題ないだろう。

 その後、トレーシーの悲鳴が三度轟いて、食堂内は笑いに包まれた。

 リアクション芸人扱いだな、二十七区の領主と給仕長。


 というか、ジネット……なんとなくなんだが…………ベルティーナに似てきている気がしないでもないな、あいつ。


 それから営業時間終了まで、ジネットはいつにもまして上機嫌だった。






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