182話 トレーシーとネネ

「では、皆様。ご案内いたします」


 ネネを先頭に、俺たちは食堂へと向かう。

 ネネの後ろをトレーシーとエステラが歩き、その後ろに俺とナタリアが続く。

 エステラに張りついている分、ナタリアの方が若干前にいる。


 食堂の大きなドアの前には別の給仕が二人控えており、ネネが合図を出すとそれぞれ左右のドアを同時に開け放った。

 完全に開け放たれたドアの向こうには、どこかの映画で見たような無駄に長いテーブルが置かれており、テーブルの上には純白のテーブルクロスが敷かれ、美しい花が飾られていた。

 テーブルクロス引きは出来そうにないな、この長さだと。


 そんなどうでもいいことを考えながら、俺たちは食堂へと足を踏み入れた。順番に。


 ネネとトレーシーが先んじて食堂へ入ると、細く長い部屋の両側、壁の前にずらりと並んだ給仕が一斉に礼をした。

 数瞬の乱れもなく衣擦れの音がする。軍隊かというほどに揃っている。

 三十人ほどもいる人間がまったく同じ行動を取ると圧倒されるものだな。

 どれも、まだうら若い女子たちだというのに、よく訓練されている。物凄く厳しい規律でもあるのだろうか。圧巻だ。


 そして、やや遅れてエステラが食堂へ入ると……空気が一変した。


「きゃあっ!」だの、「わぁ!」だの、なんだか黄色い声が方々から飛んできた。

 見れば、隣の者の肩を叩いて「ねぇ、見て見て! エステラ様よっ」「ホント、お綺麗ね~!」みたいなやりとりがあちらこちらで行われている。

 ……規律、どうした。割と緩い職場なのかな?


「確実に、トレーシーの影響だろうな、このエステラ人気」

「でしょうね」


 そんな会話を、すまし顔で俺と交わしたナタリアだったのだが……

 一歩、ナタリアが食堂に入った瞬間――



「「「「「きゃぁぁぁあああああああああああああっ!」」」」」



 ライブで国民的アイドルが登場した瞬間のような大声援が巻き起こった。

 中には、口元を押さえて感涙している女子までいる。


「…………」


 突然の大歓声にナタリアは足を止め、一瞬考えた後、静かに片手を上げた。



「「「「「きゃぁぁぁあああああああああああああっ!」」」」」



 何をやっても大歓声である。

 ……そうか。『BU』に加盟している区では情報が共有されているんだったな……ナタリア人気は、二十七区でも健在なのか。

 エステラにぞっこんなトレーシーと、トレーシーの顔色を窺うことに忙しいネネとしか会話してなかったからうっかり忘れそうになっていた。

 ナタリアは今、この限定された空間においては、マジでアイドルなのだ。

 途中で寄った喫茶店でも、知らない間に花束とかもらってたしな。


「ナタリア様ー!」

「こっち向いてくださーい!」


 なんか、カラフルな刺繍が施されたハンカチを広げたり振り回したりしている女子がいる……あれって、日本で言うとこのアイドル応援うちわみたいなもんなのかな……


 つか、いつの間にか名前まで浸透してるし……二十九区で騒がれ過ぎたせいかもしれないな……ナタリアの素性くらい、調べればすぐ分かるだろうし。


 エステラにナタリア。

 二十七区の若い女子が夢中になりそうな噂の二人の登場に、食堂内は歓迎ムードを通り越して、イケメン教師が赴任してきた女子高のような華やかな喧騒に包まれている。

 キャーキャーと飛び交う黄色い声が留まることを知らない。


 そんな食堂に、俺が一歩足を踏み入れた瞬間――



「「「「「いやぁぁぁぁあああああああああああああっ!」」」」」



 絶叫が轟いた。

 黄色かった声は恐怖一色に塗り潰され、阿鼻叫喚の巷と化す。

 ナタリアの時とは明らかに違う意味で泣き出す者が続出する始末だ。


「あぁ……なんと恐ろしい顔……」

「イヤァアッ!? こっち見たわっ!?」

「ウサギさんを返せぇー!」


 あぁ……うん。最後ので理由がよく分かった。

 こいつらが全員大食い大会を見に来ていたとは考えにくいから、おそらくそれを目撃したトレーシーあたりの話が尾ひれを盛大に付け足して広まったのだろう。同調現象も相まって、俺の評判は最悪を通り越して最凶となっているわけか………………けっ。


「……ネネ」

「は、はいっ! なんでしょうか、オオバ様」

「ウサギさんリンゴを用意してくれるかなぁ?」

「お怒りなのですねっ!? 給仕たちを代表して私が心より謝罪いたしますっ! ですので、その『実際に見せて給仕たちの心にトラウマを植えつけてやろうか?』と物語るような表情をどうかおやめくださいませっ! ご不快な思いをさせてしまって申し訳ございません!」


 持ち前のネガティブがこいつの中の危機管理能力を爆発的に昇華させたのか、俺の顔色を的確に読み取って三十人分の非礼を一身に背負ったような全身全霊のお辞儀を寄越してくる。土下座でもしそうな勢いだ。


 つか、こんなに騒がしいと、またトレーシーの『癇癪癖』が発動するんじゃないか?


「静まりなさい。口を慎むのです。私のお招きしたお客様に失礼ですよ」


 しかし、予想に反してトレーシーはいたって冷静な――むしろ、優しいくらいの柔らかい物腰で給仕たちを叱る。

 給仕たちも、そんなトレーシーの言葉を素直に聞き、俺に向かって非礼を詫びるような礼を寄越してくる。スカートの裾を摘まんで、可愛らしく会釈する。……表情が恐怖でガッチガチに固まっているけどな、どいつもこいつも。


「それに、よく見るのです。オオバヤシロさんは……、とても可愛いですよ」


 いや、そんな胸を張って宣言せんでも……また『さらし』が破れるぞ。望むところではあるが。


「かわ……いい?」

「えっと……ト、トレーシー様が……そう、おっしゃるなら……」

「そ、そうですね……トレーシー様が可愛いとおっしゃるのならきっと…………」

「か、わ…………いい?」


 あ、そこはすんなりいかないんだ。

 やっぱり、全体の空気がそっち方向に向いていないとここの連中であっても釣られないんだな。人が言ったからってそれに同調するってわけではないようだ。

 特に、感性が丸っきり変化してしまうトレーシーみたいな例は稀有なものなのだろう。


 もっとも、俺を「可愛い」というトレーシー自身が、俺に対しかなりよそよそしい態度を取っているから説得力がないのかもしれない。

 まぁ、その、なんだ……俺を可愛がったせいで『さらし』が破壊されたわけだからな。気まずい部分もあるのだろう。


 しかし、噂だけで泣き出すヤツが出るほど怖がられるとは……

 なんとも居心地の悪い雰囲気だ。

 給仕たちが全員びくびくしていて、猛獣を見るような目で見てきやがる。


「エステラ。もう一度俺を可愛がってみないか?」

「お断りだよ!」


 何かを警戒するように、両脇をぐっと締めて俺から距離を取る。

 まぁ、確かに。冷静に考えてみれば、さっきのアレはいささか戯れが過ぎたかもしれない……いくら確証が欲しかったとはいえ……

 ネネも言ってたっけな。「婚礼前の娘は男との過度な触れ合いを避けるべきだ」と。……エステラも婚礼前なんだよな。ちょっとは気を遣ってやるべきなのかもしれないな。


「さぁ、エステラ様。こちらの席へ」


 にこにこと、トレーシー自らがエステラをエスコートしている。

 これは友好の証とか、外交的なあれこれは一切関係なく、単なる職権乱用、役得というヤツなのだろう。

 エステラに話しかけているトレーシーはとても幸せそうだ。


「さぁさ、ナタリア様! こちらへ!」

「ありがとうございます」

「「「きゃぁぁあーっ!」」」


 ほとんどの給仕がナタリアに群がって、我も我もと世話を焼いている。

 あっちはあっちで姦しいな。

 一瞬ナタリアが俺へと視線を向けてきた。

 助けを求めたそうな雰囲気も見て取れたのだが……けれど諦めたようで、ナタリアは静かに椅子へと腰を下ろした。

 下手に動かない方が、こういう騒ぎは落ち着きを見せるからな。


 そして。


「あ……あの……オ、オオバ様は、私が…………私なんかでご不満かもしれませんが……」


 俺の前にはネネが立っていた。

 相変わらずネガティブであり、俺を怖がっているのか視線が泳いでいる。


「そんなに怖いか? 庭で話した時はそんなに怖がってなかったろ?」

「怖いだなんて、とんでもありません。ただ……オオバ様は、トレーシー様が可愛いとお褒めになられた方ですので…………失礼があってはいけないと……あ、あのっ、わた、わた、ワタシハ精一杯ガンバリマス……!」

「硬い硬い硬い!」


 がっちがちに緊張している。

 こいつは、俺が大食い大会でやらかしたあれこれに恐怖を抱いているのではなく、俺に無礼を働いてトレーシーに叱られるのが怖いのだ。


「も、もっとも……私も、大食い大会をトレーシー様の隣で観戦させていただきましたので…………オオバ様への恐怖が完全にないと言えば嘘になりますが……」


 なんかぷるぷる震え始めた。

 怖いは怖いんだな。仕事上、そういう素振りを見せないだけで。


「今でもたまに、夢に出てくるんです………………」


 美少女に「今でもあなたが夢に出てくるの」なんて言われるなんて、本来なら歓喜するシチュエーションなのかもしれんが…………はは、苦笑いしか出て来ねぇ。


「……私は、あの時、あの場所で…………自分はここで死ぬのだと、覚悟をしました」


 トレーシーとまったく同じことを言ってやがる。


「仲がいいんだな、お前とトレーシーは」

「……へ?」


 同じものを見て、同じ感想を抱くってのは、感性が近いってことだ。

 同じ空間で同じ時間を生きてきた者同士なら、そういうこともあり得る。むしろそうなる確率が高い。


「幼馴染なんだってな」

「おさな…………あ、あの。それを、どこで?」

「どこって、トレーシーがそう言ってたんだよ」

「トレーシー様が……っ!?」


 驚きの表情を浮かべ、身を引く。若干驚き過ぎて、無人の椅子に体当たりをしてしまったほどだ。

 どこにそんな、驚くような要素があるんだ? それ以外に考えられないだろうに。



「覚えて……いてくださったんですね…………」

「いや、覚えてるだろう、普通!?」


 いくらなんでも、ガキの頃から一緒にいて、幼馴染だったことを忘れるヤツはいないだろう!?

 どこかで一回記憶でもなくさない限りは。


「自分に仕える給仕長は、お前以外あり得ないって言ってたぞ」

「ぼぅぅうううっ!?」

「なんの意思表示だ、その音は!?」

「ぼ…………っ……ぼぅっ…………ぼ……嬉しい……っ」

「どっから出てきた音だよ『ぼ』っ!?」


 やたら長いテーブルの前に並んだ無数の椅子。

 俺とその隣の椅子の間に蹲り、身を丸くしてむせび泣くネネ。

 顔を覆った両手の隙間から、「ぼぅっ……ぼぅっ……」と、謎の鳴き声が漏れてくる。……もうちょっと可愛く泣いてもらいたいものだな、美少女には。


「わ、私も……お仕えするのは、トレーシー様しか……いないと、常々…………っ」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で本音を吐露するネネ。その言葉に嘘は一切見られない。

 怒鳴られてばかりの毎日でも、ネネはトレーシーを慕っているようだ。


「トレーシー様がいなければ、私は…………生きている意味が…………トレーシー様がいなければ、私など………………雨の日の大通りに落ちている手袋(片方のみ)ほどの価値もなくて……」

「だから、ネガティブ発想やめいっつのにっ!」


 何と比較してんだ!?

 そして、この世界にもあるんだな、道路の真ん中に落ちてる謎の手袋(片方のみ)! 日本では軍手率が高いけどな。


「いつも怒鳴られてばかりの、役立たずな私のことを……そんな風に思っていてくださったなんて………………今すぐ死んでも悔いはありませんっ!」

「発想が逆走してんぞ、お前!?」


 生きてこそだろうが! お前以外に給仕長を任せたくないっつってんだから。


「うぅ……嬉しいです……嬉し過ぎて今晩眠れそうにないです…………」

「その感情はよく分からんが……嫌になったりはしないのか? こう毎日、ことあるごとに怒鳴られてさ」

「嫌になる? ……私が、トレーシー様を?」


 涙で赤く染まった目を大きく見開き、奈良の大仏が立ち上がってムーンウォークをするくらいにあり得ないものを見るような驚きの表情をさらすネネ。

 そして、その顔には怒りにも似た感情が広がっていく。


「とんでもないですっ! 私は生まれて一度も、トレーシー様を疎ましく思ったことはありません! むしろ、こんな私をずっとおそばに置いてくださることへの感謝ばかりで……嫌になるなんて、考えたことも、頭をよぎったこともありません!」


 凄まじい気迫だ。

 真剣過ぎる瞳は鬼気迫るものがあり、「ふざけたことを抜かすとぶっ殺すぞ」くらい言われそうな迫力に満ち満ちている。

 全身全霊の否定。

 ネネは、トレーシーを心底慕っている。

 それは間違いなさそうだ。


「でもよ、怒鳴られるのはつらくないか?」

「つらいのだとすれば、トレーシー様にそのようなことをさせてしまっている、自分の不甲斐なさがです」

「けど、理不尽な叱責もあるだろう?」

「理不尽とは、理に敵わない行動という意味です。トレーシー様が私のためを思い、その言葉で、声で、私の至らぬ部分を指摘してくださっている――これほど理に適ったことはないのではないでしょうか?」


 つまり、理不尽な叱責など一度もされていないというのか。……こいつ、本気か?

 ここが日本で、俺がとある会社のパワハラ撲滅に駆り出されたコンサルタントで、ネネがその企業の人間であったならば、立場的にそのような発言をして保身に走っているのだと考えたかもしれない。……が、こいつの目は真剣そのものだ。


 自身が置かれ続けてきた環境を『普通』だと思い込み、疑うことをはなっから放棄して……いや、そんなことすら考えもしないで生きてきたのだろう。

 幼い頃から異常な同調現象の中で生活していたこいつらは、とにかく「自分の意見を持つ」とか、「他人を疑ってかかる」ということを放棄しているように見える。


 それが、こいつらの『普通』なのか……


 まるで、小学生のような純粋さだ。

 先生にやるなと言われたことはやらない。ルールを破る者は「悪者」として糾弾され、そしてそんな対応に疑問を抱かない。

 個性が芽生える前に集団としてのルールを教え込むことは重要で、それが不十分だと道徳観念に乏しい人間になってしまう。

 だが、逆に個を殺して集団であることを強要し過ぎると、自分で考えるという大切な能力を削いでしまう危険がある。


 それが、二十九区のマーゥルの館であった、給仕候補生たちのような連中だ。

 マニュアル通りの受け答えしか出来ず、イレギュラーに対応出来ない。


 ネネも、そんな『BU』の若者の一人なんだろうな。


「ネネ。お前は、トレーシーに怒鳴られたくないとか考えないのか?」

「毎日考えています。『トレーシー様に注意を受けなくて済むような完璧な給仕長になりたい』と」


 ……うん。怒鳴られたくない理由が俺の言っているものとはまるで別物だな。

 こうまで噛み合わないとは。


 だが、怒鳴られないようになりたいとは思っているわけか。

 なら、トレーシーの望みとネネの望みは合致していると言ってもいいだろう。


 まぁ、その望みを叶えるためには、双方ともに意識改革が必要だけどな。


 トレーシーは、怒る必要もないところでも癖で怒鳴ってしまう悪癖を。

 ネネは、怒られないことを最優先とし、相手の顔色を窺ってしまう悪癖を。


 こいつらの体に刻み込まれた同調現象過多の性質を利用すれば、それもなんとか出来るかもしれない。

 その悪癖が顔を覗かせる余地もないような環境に置けば……悪癖が出ない環境が普通であると認識させることが出来れば……こいつらの悪癖は根底から消え去るかもしれない。

 やってみる価値はある。


 恐怖の対象だった俺を、「可愛い」と思わせることには成功したのだ。

 環境さえ整えば、きっと……


「お前の望みを叶えてやろうか?」

「えっ……?」


 トレーシーに怒鳴られずに済むように――他人の顔色を窺うばかりで、逆に不興を買っている無責任な事なかれ主義を矯正する。

 それが出来る場所に、心当たりがあるんでな。


「俺が、お前たちに協力してやる」


 ただし、お前たちの切なる願いを聞き入れ、望みを叶えてやるんだ。相応の報酬は覚悟してもらわないといけない。


「も、申し訳ございません! ……お気持ちは嬉しいのですが」

「え……断る気か?」

「は、はい……本音を言えば、是非にもご協力いただき、今すぐトレーシー様に負担をおかけしない自分に生まれ変わりたいのですが…………オオバ様のお力を借りるということになりますと…………」


 信頼されていないからか?

 大食い大会での悪印象が影響しているのだろうか。

 珍しく、自ら手を差し伸べてやったら、きっぱりと払いのけられた。


 その理由は、一体……


「四十一区の領主、リカルド様より聞き及んでおります。オオバ様は、Eカップ以下の者を人として扱わず、報酬はすべておっぱい由来の奉仕でなければ納得しないとっ!」

「お~い、エステラ~。帰りに四十一区寄ってくんねぇか? あそこのクソ領主を一発ぶん殴りに行かなきゃいけなくなったんだ」

「へぇ、奇遇だねぇ。ボクも、その男を一発ぶっ飛ばしたいと思っていたところなんだ」

「お供いたします、ヤシロ様、エステラ様」

「あ、あの……どなたか、止めなくてもよろしいのですか?」


 俺、エステラ、ナタリアの意志が合致して、それに対しトレーシーがおろおろと戸惑いを見せる。

 止める? なぜ?

 あそこのアホ領主は一回きちんと締めてやらなきゃ分からないようだ。これは親切だ、ある意味な。


 だがまぁ、リカルドを殴りに行くのはいつでも出来るから後回しにするとして……


「トレーシー。いつか時間を作ることは出来ないか?」

「時間、ですか……?」

「あぁ。一泊か二泊ほどなんだが、二十七区をあけることは可能か?」

「二泊も……一体、何をなさるつもりなんですか?」


 領主を外へ連れ出す。それも給仕長も一緒に。

 かなりな無茶を言っている自覚はある。

 だが、こいつらはここにいてはダメなのだ。悪癖を治すためには、あの場所へ連れて行かなければ……


「四十二区へ来てほしいんだ。宿泊は、エステラの館になると思うが……」

「作ります! ネネ、直ちに調整を行いなさい!」

「はい! ただいま!」


 ものすげぇ食いついたっ!?

 決断早かったなぁ……

「時間を取れるか」と聞いたら、「時間は作るものだぜ」と返された気分だ。


 しかし、こいつらを連れ出せればこちらのものだ。


「ただ四十二区に来るだけじゃなくて、お前たちの悪癖を治すための訓練を行ってもらう必要がある。観光ではない」

「あ、あの……具体的には何を……?」


 トレーシーとネネが一度視線を交わし、改めて俺を見つめる。

 まぁ、そう不安そうな顔をするな。そんな難しいことをやらせようってんじゃないんだ。

 ただな……


「ちょっとしたアルバイトをしてもらおうかと思ってな」


 いつも笑顔の絶えない、怒る雰囲気が形成されにくい空間で、怒る暇もないほど動き回って、頭を使って、笑顔と楽しいおしゃべりに溢れるあの場所で、自分の意志でやるべきことを見つけてそれを的確に、要領よくこなしていかなければならない。

 そんな場所で、しばらくアルバイトでもしてくれりゃあいい。


「ヤシロ、それってもしかして……」


 俺のやろうとしていることを察したエステラが焦り半分、戸惑い半分な顔で尋ねてくる。

 あぁ、そうだ。たぶんお前の考えていることは合っていると思うぞ。


「トレーシーとネネを、陽だまり亭で働かせてみようかと思う」


 人畜無害な最強社畜がトップを務める、あの職場でな。


「で、でも……他区の領主を働かせるなんて……それに、そんなことでトレーシーさんの癖が治るかどうかも怪しいし……」

「何言ってんだよ、エステラ」


 お前だって知ってるだろう?

『癇癪癖』なんて悪癖、陽だまり亭で少し働けばすぐに治っちまうさ。

 なにせ――


「ジネットのお人好しは、他人に伝染うつるんだぜ?」


 俺は自信に満ち溢れたウィンクを一つ、エステラへと飛ばしてやった。

 まぁ、見とけって。


 その後、トレーシーにせっつかれながらネネが奔走し……ランチを食べた後、つまり今日この後から、四十二区へ向かうこととなった。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る