162話 デリアの焦燥感

「出発は明日の朝だ。エステラの館に集まるように」


 二十九区へは、ルシアの馬車で向かうことになった。

 二頭立ての豪華な馬車を用意してくれているらしい。


「ということは、今日はエステラのところに泊まるのか?」

「いや。ニュータウンに泊めてもらおうと思っている」


 四十二区において、ルシアレベルの要人が宿泊出来るのはエステラの館くらいしかないと思っていたのだが、ルシア自身がニュータウンに泊まりたいと言い出した。

 確かに、ニュータウンにはかつてウーマロたちが仮の宿としていた宿泊施設がいくつかあるが、ルシアを泊めるには少々グレードが低い。

 そんなところでいいのか?


「出来ることなら、マグまぐやデリりんの家にお泊まりして一晩中はすはすしていたいところだが……」

「エステラ。四十二区の危機だ。この変態を今すぐ摘まみ出せ」

「まぁ、待って。一応思い留まっているから、今回は警告のみで見過ごそうじゃないか」


 誰がマグまぐとデリりんだ。変なあだ名を付けるなと言うのに。


「店長さんが『ジネぷー』で、マグダっちょが『マグまぐ』、デリアさんが『デリりん』ということは、あたしは『ロレっぴ』とかですかね?」


 自身の新しいあだ名を想像して瞳をキラキラさせるロレッタ。

 喜ぶなよ、こんなけったいなあだ名を。


「いや。そなたにはもっと相応しい呼び名がある」

「ほょ!? なんです? なんですか? 教えてほしいです!」


 柔和な笑みを浮かべるルシアに、ロレッタがぴょこりんと近付く。

 獣特徴が出ていなくても、ルシアの獣人族好きは発揮されるのだろうか。

 それとも、ジネットと同様に陽だまり亭メンバーはお気に入りだとでもいうのか。

 とにかく、非常に友好的なムードでロレッタを受け入れているように見える。


 まるで妹を見つめる姉のような優しい視線を向けて、ルシアがロレッタを呼ぶ。


「お義姉ちゃん。今夜一晩世話になるぞ」

「ロレッタ! 今すぐ帰ってハム摩呂を安全な場所に避難させてこい!」


 妹を見るような目じゃなかった!

 義理の姉に仕立て上げようとしている目だった!


「おのれ、カタクチイワシッ! 私の初恋を邪魔する気かっ!?」

「大真面目に狙いに来てんじゃねぇよ!」


 青少年保護育成条例とか、この街には早急に必要なんじゃないだろうか。

 領主とかギルド長という権力者に、度し難い変態が多過ぎる。


 本能が危険を察知したのか、ロレッタがジネットの背中に身を隠している。

 領主で貴族だが、あんなヤツを身内に招き入れてはいけない。

 ロレッタ、お前の本能は正しい判断をしたようだな。さすがだ。


「ルシアさん。川の視察をしましょう。『BU』との話し合いに備えて」


 変態道を全力疾走しているルシアに、エステラがまっとうな意見を持ちかける。

 軽く睨まれて一瞬怯んだりするものの、そこは領主、毅然とした態度でルシアに対峙している。


「うむ。四十二区の現状を把握し、二十九区の行った処置がいかに非道であるかを訴える必要があるな。非人道的であり、とても容認出来ないと」


 水は生命線だ。

 それを堰き止めるということは、宣戦布告と取られてもおかしくない暴挙だ。


 もっとも、戦争なんぞ四十二区の領主、領民共に望むわけもないので、非難程度に収めるのだろうが。


「な、なぁっ!」


 デリアが立ち上がり声を上げる。

 テーブルに手を置いて、身を乗り出すように俺たちに険しい表情を向ける。


「統括裁判所に訴えられないのか? だって、二十九区のヤツは悪いことしてんだろ!?」


 水門を封鎖するなど言語道断だと、訴えてはどうかと、そう言うのだろう。

 だが、エステラもルシアも、その意見にはあまりいい顔をしなかった。


「悪いという判断基準は明確ではないからね。もう少し慎重にならざるを得ないよ」

「なんでだよ!? 意地悪してんだろ、二十九区は!」


 意地悪。

 単純な言葉を使えば、まさに二十九区をはじめとした『BU』の行っている行為は意地悪そのものだ。

 だが……


「裁判っていうのは、そういう単純なものじゃないんだよ」

「だってさ! 悪いことしたら怒られるだろ!? されたら怒るだろ!?」

「う~ん……それはそうなんだけど……」


 エステラは本当にデリアのような素直な感性の持ち主を説得するのが下手だ。

 領主故に言葉を濁す癖があるエステラと、相手の言葉の裏の意図を汲み取るのが苦手なデリア。この二人の会話はなかなか噛み合いにくい。


 ……ま、時間もないしな。


「デリア、ちょっといいか」


 デリアを納得させる手伝いくらいはしてやろう。


「悪いっていうのは、立場が変われば見え方が百八十度変わるんだ」

「そうかな? 悪いことは誰が見たって悪いんじゃないのか?」

「例えば、俺はおっぱいが触りたい、いや、揉みたい! だが、ジネットは触らせてくれない」

「あ、当たり前ですよ!?」

「な? ジネットは酷いヤツだろう?」

「いや、それはヤシロが悪いだろう」

「ボクもデリアに賛成だね」

「……疑う余地もなく」

「お兄ちゃんを擁護は出来ないです」

「滅びろカタクチイワシ」

「仕方ない思う、このケースでは、客観的に見て」


 く……多勢に無勢か……。これだから多数決で決まるような世の中は害悪(ポイズン)なんだ。

 これではデリアの「悪いことは誰が見ても悪い」を証明する結果になっている。

 もう少し、デリアに寄せた例え話をした方がいいな。


「デリア。お前はジネットのビーフカツレツを食ったことがあるか?」

「いや? あたいはいつも鮭を食べてるからな」

「もったいねぇなぁ!」

「え?」


 デリアを納得させるには、理不尽さを味わってもらうのが一番だろう。

 少しもやもやさせちまうが……我慢してくれよ。


「ジネットのビーフカツレツは最高に美味いんだぞ! 生まれてきたことに感謝したくなるくらいに絶品なんだ」

「ふぇっ!? そ、そんなっ、お、大袈裟ですよ……うふふ」


 後方でジネットが身悶えているが、……まぁ、今はちょっと無視しておく。

 デリアを説得するための例え話だから、多少大袈裟に表現しているだけだ。


「だからデリア。お前は今後、鮭なんか食うのやめて、ビーフカツレツを食えよ」

「はぁ!? なんでだよ。あたいは鮭が好きだから食ってるんだぞ」

「ビーフカツレツはすげぇ美味いんだって。食べた方がいいから! 鮭食ってる場合じゃないから! お前のためなんだって、これは!」

「あたいは鮭が好きなんだよ!」


 こうして、話が平行線になったところで、次の要素を取り入れる。


「なぁ、エステラ。ビーフカツレツ、美味いよな?」


 話を振ると、俺の意思を汲み取って、エステラは大袈裟な手ぶりを交えて乗ってくれた。


「当然さ。なにせ、ボクの大好物だからね。ジネットちゃんのビーフカツレツを食べると幸せな気持ちになれるんだ。それくらいに美味しいよ」

「エ、エステラさんまで……もう、褒め過ぎですよ…………えへへ」


 両手で頬と口元を押さえて体を揺するジネット。

 耳まで真っ赤に染めて喜んでいる。


「だからさ、デリア。君も鮭なんかじゃなくて、ビーフカツレツを食べるといいよ。おすすめだ」

「だからっ、あたいは……!」

「デリりんよ、まぁ落ち着くのだ。他人の意見を聞くというのも、人生においては重要なことだぞ」


 デリアの反論を、ルシアが遮る。

 その横にはマグダとロレッタが控えている。

 こいつらも、俺の意思を汲み取ってくれたのだろう。協力してくれるつもりらしい。


「ジネぷーのビーフカツレツは食べたことがないが、あれはなかなか美味いものだぞ。ジネぷーが作ったものならなおのこと、逸品と呼ぶに相応しいものなのであろう」

「……店長のビーフカツレツは、至高の一品(ひとしな)」

「サクッとした衣の中に閉じ込められたお肉からじゅわぁ~っと滲み出す肉汁は甘辛いソースと絡まって極上の味わいを生み出すです。揚げると硬くなりがちなお肉ですが、そこは我らが陽だまり亭の料理長こと店長さんです、神業と呼ぶに躊躇うこともないスペシャルな技術で調理されたビーフカツレツですから、お肉がとっても柔らかいです! あれの美味しさが分からない人はこの世界には存在しないと、あたしは確信を持っているです! それくらいに美味しいですよ、店長のビーフカツレツは!」

「理解出来る、私は。食べたことはないが想像に難くない思う、友達のジネットの料理の味は」


 最後にギルベルタまでもが加わって、全員がビーフカツレツの美味さを訴えてくれた。

 そこで、とどめだ。


「だからな、デリア。お前、今日から鮭禁止な」

「えぇっ!? なんでそうなるんだよ!?」

「そうでもしなきゃ、お前はビーフカツレツを食べないだろう? みんなが美味しいって言ってるものを食べさせてやりたいんだよ、善意で。これがお前のためだから」

「あたいは……っ!」

「ビーフカツレツを食べた方がいいと思う人っ!」


 言いながら、俺は自分の腕をピンと伸ばして上げる。

 つられるように、他の連中も挙手をする。


「な? みんな親切心でそう言ってるんだ。お前のためにさ」


 これは意地悪なんかじゃない。

 完全なる善意で言っているんだぞと、念を押す。


 ……まぁ、意地悪なんだけどな。


 そこで、エステラが口を開く。締めはこいつに任せるか。


「デリア、これが裁判というものなんだよ。……もっとも、随分と簡略化された極端なものだったけどね」


 さすがにあからさま過ぎる流れに苦笑を漏らし肩をすくめるエステラ。

 けれど、柔らかいながらも真剣な表情でデリアに言い聞かせる。


「デリアからすれば、ボクたちの行為は意地悪に映っただろう? けれど、ボクたちはデリアのためを思ってビーフカツレツを勧めたんだ。『美味しいから是非食べてほしい』ってね」

「でも、だからって鮭を禁止とか……」

「それは方法の一つだよ。悪意の証明にはならない」



「鮭禁止」という処置は、「デリアにビーフカツレツの美味さを知ってほしい」という善意を否定するものではない。

 もし争点が『善意の有無』であった場合、勝訴するのはこちら側だ。

『鮭禁止はやり過ぎではないか』という争点なら、結果は逆になるかもしれないけどな。


「統括裁判所は公明正大な機関ではないんだ」


 思い切ったことを言う。

 言った後で、エステラはちらりとルシアを窺い見たが、ルシアは特に何も口にしなかった。


「水門を封鎖して水を堰き止めるのは酷い行為だ。イジメや意地悪だと言われても仕方のない最低な行為だと思う。けれど、だからと言って裁判で勝てるとは限らないんだよ」


 さっきのビーフカツレツにしたって、第三者が見れば「デリアの好きなものを食わせてやれよ」という感想を持たれるだろう。

 だが、今この場においては「デリアの鮭禁止措置」も致し方なしという雰囲気が形成されている。

 そして、裁判というのは、その場で決まったことがすべてだ。

 覆すには、もう一度裁判を起こさなければいけない。

 終わった後で「やっぱ今の無しで」とは、いかない。



 特に、今みたいな多数決をひっくり返すのは、かなり困難なのだ。



「統括裁判所への提訴は、明確な敵対行為の表明になるんだよ。今の段階で行うのは得策とは言えない。まずは、話を聞いて、話し合いを重ねて、慎重に策を練る。平和的に解決出来る方法があるなら、それを最優先させたいんだ。分かるね?」

「…………うん」


 エステラの説得に、デリアが首肯する。

 分かってくれたことに、ほっと息を漏らす。


 エステラが言わなかったもう一つの側面を話さずに済んで安心したのかもしれないな。


『統括裁判所は公明正大な機関ではない』と、エステラは言った。

 つまりは、「下位の貴族、ギルド長などが上位の者を訴えても、不利な判決が出ることが多い」と、そういうことなのだろう。


 貴族が運営する機関なのだ。

 貴族に有利になるような仕組みになっているであろうことは想像に難くない。

 むしろ、そうでなければおかしいとすら思える。


 こちらから仕掛けるのは愚策だろう。


「とにかく、今は冷静になって話し合いの場を持つことが重要なんだ。そして幸いなことに、その場を向こうが設けてくれると言っている」


 決して、「幸い」だなどとは思ってもいないような表情でエステラが言う。


「ボクたちが話を聞いてくるから、それまでは待っていてよ」


 そう言って、この話にケリをつける。

 最後に、俺に向かって「ありがとね」みたいな視線を飛ばしてきたエステラだが、感謝してるなら可愛らしいウィンクの一つでも寄越せってんだ。


「じゃあ、ルシアさん。まずは川を見て、その後水路と溜め池を見てください」

「うむ。出来れば畑や森、作物の状況も見ておきたいな」

「案内します」

「頼む」


 二、三言葉を交わして出て行こうとするエステラとルシア。


「ま、待ってくれ!」


 そこへ、デリアが駆け寄っていく。


「あたいも、その話し合いに連れて行ってくれねぇか!? あ、……ですか!?」


 一応、ルシアの手前敬語を使わなければという意思が働いたらしい。

 飛びかかりたい衝動を抑えるかのように、歯がゆそうな表情でデリアが言葉を発する。もどかしそうに、けれど懸命に。


「あたいはなんとしても、水門を開けさせたい! ……です! 何が出来るか分かんないけど、とにかくじっとしていられないんだ! ……です! 頼むから、あたいも一緒に連れて行ってくれ! ……ですか!」

「デリア、落ち着いて」


 裁判所の件は納得したが、水門に関する危機感は拭えていない。だから、何か行動を起こしたい。そんな思いが溢れている。

 瞳孔が開きっぱなしのデリアを、エステラが宥める。

 まぁ、デリアの気持ちも分からんではないが、領主たちの会議にデリアを連れて行くことは出来ない。


 本来なら、俺だって場違いなのだろうが……まぁ、当事者ってことで例外扱いかな、俺は。


「デリアの気持ちはよく分かる。だけど、今回はボクたちに任せてほしい」

「けど……」

「大丈夫。水門はボクたちが必ず開けさせてみせるよ。約束する」

「ホント……か?」

「もし違えたなら、ボクをカエルに変えたっていい」


 約束という言葉を使い、エステラはデリアに安心を与える。

 もちろん、デリアにそんな意志などないだろうが、かなり危険な行為だ。


「川の水は四十二区の経済、そしてそこに住む領民の命をも脅かしかねない重要なものだ。それを堰き止める水門は、何がなんでも解放させる。それも、最優先で」


 デリアの肩に手を置き、力強くも爽やかな笑みでエステラは宣言する。


「『水門を開けなければ話し合いに応じない』とでも言ってやるからさ」

「……そう、か。…………うん。じゃあ、エステラを信じる」


 それで、ようやくデリアの肩から力が抜ける。

 それでも、まだ不安の色は拭いきれていない。


「でも、お兄ちゃん。そう簡単に水門を開けてもらえるですかね?」


 そんな疑問を口にしたのはロレッタだった。

 こいつはこいつで、弟妹が水浴びをする川を早く取り戻したいのだろう。


「二十九区も水不足に陥ってるですよね? だったら、水門の開放を渋りそうな気がするです。というか、あたしが二十九区の領主なら渋るです」

「お前は正直だな、ロレッタ」


 まぁ、誰しも不安材料は潰しておきたい。

 水不足の懸念があるなら、懸念が解消されるまでは安全策を講じておきたいだろう。


 だが。


「水門は開かれる。明日中にな」


 俺はそれを断言出来る。

 なぜなら、こいつは詐欺師がよく使う手だからだ。


「ヤシロ。断言出来るだけの確信を、君は持っているのかい?」


 水門の開放を第一条件と位置付けたエステラ。苦労を覚悟していたのだろう、眼差しが真剣だ。

 水門の開放に自信を持てる要素があるなら是非聞きたいといったところか。


「この書簡が、水門開放が容易である証明になる」


 と、エステラの元に届いた書簡を差し出す。

 こいつの中にすべてが書かれているのだ、ヤツらの、浅ましい腹積もりがな。


「おかしいと思わなかったか? この書簡」

「え?」


 書簡を受け取り内容を目で追うエステラ。

 ルシアも寄り添い、同じく黙読する。


「水不足だから水門を閉じる……それは、人道的かどうかは別にして、おかしな行動ではないと思うけど?」


 水不足を懸念して川の水を確保する。

 その行為自体に矛盾はない。


「なら、何故今なんだ?」


 水不足は、一ヶ月以上も続く日照りによって起こった。

 ここ数週間は特に酷く、四十二区でも倒れる者が出るくらいに水不足に悩まされていた。


 だが……水門が閉じられたのは、大雨が降った直後の今朝になってからだ。


「水不足を懸念しての処置なら、川の水位が下がっていた大雨以前でなければおかしくないか?」

「でも、雨が降ったからこそ、再び水不足にならないように……」

「そうじゃない、エステラ」


 結果論で見るのではなく、時系列順に、人間の心理に視点を絞って物事を見てみるんだ。


「雨が降ったのは突然だった。兆候などなかった。そうだな?」

「……そう、だったね」


 しっかりと思い出し、明確に肯定する。


「つまり、雨が降るまでは『この水不足はいつまで続くんだ』と多くの者が思っていた。『このまま日照りが続けば危ない』とな」


 終わりの見えない苦境は、人間の心をすり減らし、凶行へと駆り立てる要因になる。

 そんな苦しい状況に追いやられ、非人道的であると理解しつつも水門を閉じる決断を下したというのなら理解は出来る。


 だが、水門が閉じられたのは大雨が降り、水位がある程度回復した後だ。


「大雨が降り、水位が回復して、これでしばらくは大丈夫だろうという段階で水門を閉じるのは、どう考えてもタイミングがおかしい。非難が集まる危険を冒してまで水門を閉じるより先に、打てる手がいくらでもあるんだからな」


 他に手段があるなら、反発の少ないものから実施していくのが定石だ。

 だが、二十九区はそれに逆行した。


 最も悪手と思われるものを最初に打ってきたのだ。


 挑発行為以外では、この行動を説明出来ない。


「……ヤシロ。君は、これは宣戦布告だと言いたいのかい?」

「いや、そこまでの大事にしないための『脅迫』だと思っている」


 悪質な取り立て屋がよくやる手段だ。

「素直に言うことを聞かないと、どうなるか分かってるよな?」という、アレだ。


「大雨のおかげで、四十二区の貯水量は、数日は生活が可能なレベルにまで回復した。それを見越した上で水門を封鎖したんだろうよ」

「なるほどな」


 ルシアが険しい表情で俺の言葉尻を捉え、補足を寄越す。


「脅迫する相手は、『生きていない』と困るからな」


 事実。大雨が降る直前まで、四十二区はかなり疲弊していた。

 もし、あの時に水門が封鎖されていたら、……死人の一人も出た可能性が高い。


「そうなれば、話し合いなどという穏やかな手段は取れず、統括裁判所を巻き込んだ論争……果ては戦争となっていた可能性が高いというわけか」


 四十二区とは無縁に思える物騒な言葉ではあるが、領民の命を自分本位な行動で脅かされたとなれば、立ち上がる者も出てくるだろう。


 二十九区もそれが分かっていた。

 だからこそ、このタイミングで水門を封鎖し、書簡を寄越してきたのだ。


「『水門を開けてほしければ、こちらの言い分を聞きに来い』と、そういうメッセージなんだよ、その書簡は」


 エステラの持つ書簡を指さして言ってやると、微かにエステラの指に力が込められた。

 さすがに書簡を握り潰すなんてことはしなかったが、心情的にはそうしたかったことだろう。


「だからまぁ、水門は開かれる。明日中に、必ずな」


 確信を持って言っておく。

 二十九区をはじめ、『BU』の要望は、そんなところにはないのだから。


「きな臭い話だね」

「なぁに、『BU』の連中はいつもそんなものだ」


 俺に向けたエステラの言葉にルシアが反応して、エステラが少しだけ苦笑を漏らす。

 まるで、ルシアにタメ口を利いたような感じになったからか、『BU』の連中の評判を思ってのことか。

 苦笑を浮かべたまま、書簡を懐にしまう。


「とにかく、ボクたちは罠を罠と理解した上で飛び込んでいかなければいけないわけだ」

「そういうことだ」


 思わずという風に、エステラがため息を漏らす。


「とにかく、四十二区の状況を視察しようではないか。なに、私も付いているのだ。ヤツらの好き勝手にはさせないさ」

「はい。頼りにしています」


 ただの変態ではあるのだが、こういう時のルシアは妙に頼もしい。


「それじゃ、ルシアさんと視察に行ってくるよ」

「あっ、待ってください!」


 エステラたちが出て行こうとドアに手をかけると、いつの間に移動していたのか、ジネットが厨房から顔を出した。

 両手を真っ白にして、粉まみれの牛肉の載った皿を手に、エステラたちを呼び止める。


「あの、よろしければ、夕飯を食べに来てください。美味しいお料理を作ってお待ちしていますから!」


 というジネットの手に持たれているのは、どう見ても「この後ビーフカツレツになるんだろうな」という牛肉。

 ……どんだけ嬉しかったんだよ。


「うん。視察が終わったらまた来るよ」

「私も、また邪魔をさせてもらうとしよう」

「はい! お待ちしています」


 粉まみれの手も気にせず、深々と頭を下げる。

 そんなジネットを見てから、エステラとルシアは陽だまり亭を出て行った。


「お願いしたい、川漁ギルドの長であるあなたに、川への案内を」

「おう、任せとけ!」


 胸を叩き、デリアがエステラたちを追うように出ていき、ギルベルタもそれに付き従う。


 客がすべていなくなった後、ジネットは俺たちに向き直り、会心の笑みを浮かべて言った。


「それでは、美味しい料理を作ってきます!」


 天の川の生まれ変わりかと思うほどにキラキラ輝く表情で、ジネットが厨房へと戻っていく。

 ……今から作るのか? 夕飯の話だよな?

 まだ午前中だぞ?


「……ヤシロ。緊急事態」


 これまた、いつの間に移動していたのか、マグダが厨房から出て来て、小走りで俺に駆け寄ってくる。


「…………ビーフカツレツの乱」

「乱?」

「にょほぉ~!? なんですか、これはぁ!?」


 またまた、いつの間にか移動していたらしいロレッタの声が厨房から聞こえてくる。


「……何があったんだ、厨房で?」


 嫌な予感に背を押され、聞きたくもない問いをマグダに向ける。


「…………熱した油の中に、ビーフカツレツの群が沈んでいた」

「ウチはカツ屋かよ……」

「……下ごしらえされていたものを含めると、その数は優に二十を超える」

「おぉう……」


 ジネットの料理は美味い。

 いつも「美味い」と伝えてはいるし、他の連中も美味いと言っている。

 だが、今日の絶賛はいささか度が過ぎたようだ。


 ジネットの料理魂が業火に包まれてしまったらしい…………あいつ、結構のめり込むタイプなんだよな。足つぼとか……一つのことをやり始めると周りが見えなくなるというか…………褒められるのが、何気に大好きなんだよな、ジネットって。


「お、お兄ちゃん! 店長さんが、何か呪文を唱えながら、牛たちを絶滅させそうな勢いで牛肉を捌き始めていたです!」


 その『呪文』とやらはおそらく『鼻歌』なのだろう。ジネットのリズム感は独特だからな……


「……ヤシロ。対策が必要」

「今日はビーフカツレツしか提供出来ないです」


 なんということでしょう……

 これはあれか?

『藪蛇』ってやつか? それとも『瓢箪から駒』? 『嘘から出た実』?


 とにかく、なんとかしなけりゃな。


「夕飯もルシアが来るから貸し切りになるだろう」


 ルシアの素は、なるべく人目に触れさせてはいけない。


「だから、二号店と七号店を店の前に置いて、そこでビーフカツサンドを提供しよう」


 パンは値段的に使えないから、トルティーヤで挟んでしまおう。

 ビーフカツに千切りキャベツ、それからハニーマスタードをたっぷりと付ければそれっぽいものになるだろう。

 店先にテーブルを並べて、ビアガーデンのような感じにすれば、そこそこ見栄えもするだろう。


「……了解した。今すぐ手配する」

「それじゃあ、弟妹を何人か動員するです! あと、大通りで告知してくるです! 『今日はビーフカツ祭りです』って!」


 頼もしい従業員が二手に分かれて行動を開始する。

 陽だまり亭を飛び出して行った二人の背中を見送って、俺は自分の仕事に取りかかる。


 とりあえず……


「暴走するジネットを落ち着かせるか」


 いくら対策をとったところで、捌ききれないくらいに作られちゃ大赤字だからな。






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