追想編11 ナタリア

 エステラ様は、朝からずっと執務室にこもりっきりです。

 まるで、何かに取り憑かれたかのように仕事に没頭している。


 ……そうしていなければ、つらいのでしょうね。


 ヤシロ様が、自分を忘れてしまう――


 そんなことを考えると、心が張り裂けそうになるのでしょう。

 分かります……


 私も……少なからず同じ思いを抱いていますから。


「給仕長。浴室の水漏れ、欠損箇所が見つかりました」

「では、直ちに修理を」

「トルベック工務店に依頼をかけますか?」

「それくらいは自分たちで出来るでしょう。当家のお金は領民のお金。無駄遣いは許しません」

「はい! では、六名ほど給仕をお借りしたいのですが」


 六名……多いですね。

 致し方ありませんか。


「分かりました。門番を連れて行きなさい。代わりに、私が門に立ちます」

「はい!」


 この一年で、四十二区の財政は飛躍的に豊かになった。

 もう、以前のように金策に頭をひねることも、飢えを我慢することも、見栄の一つも張れずに恥辱に歯がみすることもなくなりました。


 ですが。

 こうして生活が楽になったのもみんなヤシロ様のおかげ。無駄遣いなど出来ません。

 恩には報いたい。

 そのためには、ヤシロ様が必要とする時に必要とする働きが出来るようにしておかなければ。


 お金も、人も、……そして、私個人も。

 いつだって、ヤシロ様の思い描く通りに協力・提供出来る体制を整えておく。それが、私なりの恩返しであると考えます。


「ふふ……いつの間にか、主が二人になったようですね」


 人のいなくなった正門に立ち、頬を緩ませる。

 そんな自分が気恥ずかしく、また、頬が緩む。


 もういっそのこと、ヤシロ様が当家の主になってくださればそれで丸く収ま…………



 ……なんでしょう。不愉快ですね。


 なんでしょう、なんでしょう。

 どうしましょうか、この気持ち……


「………………ぺったんこ」


 あ……なんでしょう。少し溜飲が下がりました。

 不思議な言葉ですね、「ぺったんこ」。今後活用しましょう。


 ふふふ……

 まさか私がエステラ様にこんなことを思ったり、あまつさえ、面と向かって言うようになるとは……


 曾祖父の代よりクレアモナ家に仕え、母について先代の領主様にお仕えして……

 エステラ様とお会いしたのは、エステラ様がまだろくにしゃべれもしないくらいの幼い頃で……


「私の人生は、この方をお守りするためにあるのだ」――と、そう確信した。


 まだ未熟ながらも仕事を覚え、エステラ様をお守りしつつも私の方が癒されたりして……

 私は恵まれた環境にいるのだと実感していました。


 しかし、母が亡くなった直後は……、正直、もうダメかと思いました。


 給仕を取りまとめていた母がいなくなり、……当時の副給仕長は、仕事は出来ても人を動かす能力の無い方で……館内の統率は崩壊。

 クレアモナ家始まって以来の危機とも言われた、酷い有り様でした。

 時を同じくして、先代様がお体を悪くなされて……


 その後の重責を一身に背負われたのが……エステラ様。


 気丈に振る舞い、「絶対大丈夫だから」と皆を励まし……そして、幼少の頃からおそばに居させていただいた私を、ご自身の右腕として給仕長へ抜擢された。

 私は、あんな小さな体で懸命に頑張るエステラ様を、なんとしてでもお守りしなければと……少々強引な方法も取りつつ、給仕たちをまとめ上げた。


 それでも……四十二区は、ずっと崖っぷち……破綻と隣り合わせでした……


「よく……ここまで変われたものですね……」


 館の前の道は、四十一区とその先へと通じる街道として、美しく整備し直されています。

 道の両サイドには光るレンガが設置され、夜の闇を明るく照らす。


 たまに、ふと思うのです。

「本当に、ここは四十二区なのか」と。「もしかしたら、これらはすべて、私の見ている夢なのではないのか」と……

 過労で体力を磨り減らし、心労で心を磨り減らし、ついには倒れてしまった私が熱に浮かされて見ている、現実逃避の夢……なのではないのか、と。


 しかし。ここへ至るまでの歴史がそれを否定しています。

 何もいきなり変わったのではないのです。急激ではありましたが、それらは着実に、一歩一歩積み重ねていった結果だということを、私はちゃんと理解しています。


 エステラ様に変化が現れたのは、昨年の、間もなく大雨の時期に入ろうかという頃……


 ゴミ回収ギルドなどという意味不明なギルドを新設したり、『安いっ! 美味いっ! 可愛いっ!』などと書かれた服を着て帰ってきたり、海漁ギルドと交渉して海藻の絡まった網を預かってきたり……

 一見すれば、自棄を起こしてしまったのではないかと思うような奇想天外な行動が増え……そしてある日、私はついにその理由を知ることになる。


「よくもまぁ、長々と私に隠し事をしてくれましたよね、あのぺったんこは……」


 少し腹立たしくなって、エステラ様のいる執務室へ顔を向ける。


「ぺったんこー!」


 ギリギリ聞こえないであろう声量で、私の鬱憤を念に載せて送っておく。

 これで、少しでも縮めばいいのです。


「……仲良くしろよ、お前らは」


 突然、そんな声が聞こえて、驚いて視線を戻すと……そこにヤシロ様が立っていました。

 半ば、呆れたような顔をして。


「仲は良いですよ。近年類を見ないほどに良好です」

「それで『ぺったんこ』か?」

「本名をお呼びするほどに親密になったのです」

「……いつからあいつの本名は『ぺったんこ』になったんだ?」


 ……『あいつ』、ですか。


 にわかには信じ難かったのですが……やはり、ヤシロ様は忘れてしまわれているのですね、エステラ様の名前も…………そして、私の名前も。


「少々お待ちください。お取次いたします」


 現在エステラ様は仕事中。

 とはいえ、ヤシロ様の用件なら何はなくとも優先されるでしょう。

 エステラ様にとって、ヤシロ様に関する案件は最優先事項なのですから。


 早く取り次いで、さっさと用件を済ませていただきましょう。

 ヤシロ様の用件……おそらく、エステラ様を忘れないように記憶の定着を行うつもりなのでしょう。

 どれくらいの時間がかかるかは分かりませんが……


 早くしていただかないと、私の番まで回ってきませんから。


 ……私は信じますよ。

 たとえ体に負荷がかかろうと、どんな苦痛を味わおうと……あなたはきっと思い出してくださる。

 これまでも、ずっとそうしてきてくださったように……

 私たちの望む未来を、あなたは見せてくれる。



 私は、そう信じています。



 順番は、ずっとずっと後で、構いませんので。


 目礼をして、場を辞そうとした時――


「あ、いや、いいんだ」


 ――ヤシロ様に呼び止められました。

 振り返ると、少しばつが悪そうな、……いえ、どこか照れたような表情をされていました。


 …………まさか。

 いや、そんなまさか。


 けれど……期待してしまいます。

 期待してしまいますが……私の口からそれを言うわけにはいかない。


 私は立場を弁えて、あくまでヤシロ様の歩調に合わせ、付き従うのみ……


「……いい、とは?」


 落ち着いた声で、端的に問う。

 それが、ヤシロ様の望む反応。

 期待も不安も見せず、ただ、事務的に。


「今は、お前に会いに来たんだ」

「そう……なのですか」


 ……いけない。

 ここで喜ぶわけにはいかない。

 エステラ様の記憶はまだ戻っていない。


 きっと他にも、まだ記憶が戻っていないことを不安に思っている方がいるはずです。


 それを……

 自分の順番が早く回ってきたからと…………主を差し置いて、先に来たからと…………ヤシロ様に大切に思われている順なんじゃねぇの? ぷぷー! ぺったんこザマァ、などと…………


「ひゃほほいっ!」

「うん……俺、お前のそういう素直なところは割と嫌いじゃないけど……場を弁えろ?」


 はっ!?


 思わず取り乱してしまいました。

 いけませんね。

 ヤシロ様に会ってから……彼のあまりに自由な生き方が羨ましくて……そして、堪らなく眩しくて……


 ずっと憧れ続けて……


 …………伝染してしまいましたね。


「申し訳ありません。ヤシロ菌が体中に転移して、もう手遅れかもしれません」

「人のせいにすんな。あと『菌』って言うな」


 こんな、軽口を叩き合える人が現れるなど……考えてもいませんでした。


「私の名前は、まだ思い出せませんか?」


 単刀直入に尋ねる。

 どうも、回りくどいのは好きではないようです。

 ヤシロ様に出会ってから、新しい自分を次々発見して、戸惑ってばかりですが……


「お前は真っ直ぐだな」

「おっぱいですか? 失敬ですね。この見事なカーブが見えないのですか?」

「なんでそうなっちゃったんだろうな……この一年で」


 ヤシロ様も、私が変わったと思っているようですね。

 そんなに、分かりやすく変わったのでしょうか?


「前から割と大きかったんですよ?」

「うん。そこじゃないんだ、話の論点」


 違うのですかっ!?


「ま……まさか……そこまで重篤だったなんて……っ」

「おっぱいを健康のバロメーターにするのやめてくれるかな? おっぱいの話をしてない時もあるから」

「『精霊の……』っ!」

「揉むぞ、こらっ!?」

「あぁ、やはりヤシロ様ですね。少し安心しました」

「俺は不安になってきたよ……お前の将来が……」


 こんな会話は、おそらく他人から見れば「くだらない」の一言で済んでしまうのでしょう。

 ですが、私にとっては……


「ふふ……」


 堪らなく楽しいひと時なのです。

 こうしている間は、ヤシロ様の心を独占出来ている――そう思えるから。


 何より、ヤシロ様が私を忘れていない証拠にもなりますから。


「ヤシロ様は私にご用がおありだということですよね?」

「あぁ。まぁ、用っていうか、ダベりに来たんだよ」

「そうダベか」

「うん……お前の思考って、俺の求めてるものを掠って、物凄く遠くへ行っちゃうんだよな」


 きっと、一緒にいて飽きないと思いますよ。

 私があなたに対し、そう思っているように。


「では、私が話題を提供しても構いませんか?」

「おう。何か面白いことでもあったのか?」

「実は、我が主が『重曹で揉めば大きくなる!』とかいう噂を聞きつけ、明らかにおかしいだろうという量の重曹を浴室へ持ち込み、案の定排水管を詰まらせ、私たちにバレないように手近にあった棒でガッコンガッコン排水管を突っつき倒し、物の見事に水漏れを発生させたせいで現在館内の給仕たちが総出でその修復にかかっているという傍迷惑なエピソードはどうでもいいのですが……」

「どうでもいいことでお前んとこの主が赤っ恥かかされてる件について、何か言及したいことはないか?」

「特に」

「ないんだ……」


 そんな、日常の一コマはどうでもいいのです。

 ただバラしたかっただけなんです。


 それよりも……


「覚えていますか? 私とヤシロ様が初めてお会いした日のことを」

「あぁ。確か……この場所だったな」


 クレアモナ家の正門。


 そう。

 私はこの場所で、初めてヤシロ様に出会った。


 日が暮れてからの訪問に、私は最初ヤシロ様を警戒していました。

 それも、最上級の。


 その後、エステラ様と会談されている様を見て…………


「二度ほど、本気で刺してやろうと思いました」

「あれぇ、おかしいなぁ。俺は四度ほど殺されるかもって思ったんだけどな」

「大丈夫です。ヤシロ様は毒入りの雨水などでは死なないと、私は信じています」

「お前の信頼と俺の心肺停止にはなんの因果関係もないからな? つか、毒まで入ってたのか、あの雨水!?」

「あぁ、『毒』というと聞こえが悪いですね……『強制終了飲料』といったところです」

「うん、毒だね。それもたぶん猛毒だ」

「これでも、領主を守る給仕長ですので」

「あん時のお前は、ただ単純にあいつに近付く男が気に入らなかっただけだろうが」

「とんでもない! 純粋に、胡散臭い目をした不審な男を始末しようと思っていただけです!」

「物凄くきっぱりと俺の心抉りに来るよね!?」


 ふふ……あぁ、なんて楽しいのでしょう。

 ヤシロ様と向かい合っていると、次々に言葉が生まれては唇を滑り落ちていきますね。

 その度に心が弾み、世界が幸福に包まれていく、そんな気がします。


 本当に、不思議なものです。

 あの頃は、エステラ様に近付く悪い虫だと、ただただ敵視していましたが……


 はて、いつからこうなったのでしょう……


 私が、ヤシロ様を敵視するのではなく、心を開くようになったきっかけは…………


「――っ!?」


 思い出して、顔が熱くなりました。


 そう……あれは、大雨が続き、仕事が立て込んでかなり無理をして……私は体調を崩した。

 そして、それを彼に見抜かれて…………おでこに手を……


「――っ!?」


 ……ちょっと間を置いて……


「――っ!?」

「なにビクビクしてんだよ、さっきから!?」


 仕方のないことです。

 言いようのない、これまでに感じたこともないような感情が体の奥底から湧き上がってくるのですから。


 なんでしょう……なんでしょう、この感じ。

 自然と頬が緩むくせに、どこか不安で眉が下がる……


 恥ずかしくて顔が見られないのに、どうしても顔が見たい…………チラッ。

 ぎゃああ、ダメだ! ダメです。今はちょっと、無理です。


「ヤシロ様。顔を取り外して、埋めてください」

「なんだろうなぁ、お前の暴言って予想外の角度で飛んでくるよなぁ」


 言葉を投げれば返ってくる。


 それがいかに『特別』なことか。

 私にとっては……


 給仕長たる私は、呼ばれるまでは物を言わず待機をし、無駄な言葉は発さず、求められるものに答えるのみ……


 それが、あなたは……


 私の望みを、いつも叶えてくれる。

 話しかければ返事をくれる。


 いつしか、その笑顔を見るために、私は言葉を探すようになっていました。


 なんと言えば、あなたが笑ってくれるのか。

 なんと言えば、あなたに喜んでもらえるのか。

 なんと言えば、……あなたが私を見つめてくれるのか。


 そんな言葉探しが、私の日常となり……それ以上に、あなたにもらった言葉を思い返す時間が増えました。

会話記録カンバセーション・レコード』など必要ありません。

 あなたの言葉は……いつもこの胸の中で、何度も何度も繰り返し私に語りかけてくれるのです。


「悪いな」と、気遣うように。

「ありがとな」と、はにかみながら。

「頼むな」と、信頼を込めて。


 誰かを助けるための裏方。サポート。

 それが私の領分。


 頼られることが、何よりも幸せ……


 たとえ、それが何かの陰に隠れていようとも。

 見つめてもらえることが、なかったとしても……私は…………


「なぁ。なんか、顔赤くないか?」

「――っ!?」


 目の前に、ヤシロ様の顔がありました。


 私としたことが、柄にもなくセンチメンタルに浸ってしまっていたのでしょうか……接近に気付きませんでした。

 ……ヤシロ様だから、油断したのでしょうか…………


「お前さ、もしかして熱あるんじゃないのか?」


 心配そうな顔をして、ヤシロ様が私のおでこに、手を……置きました。


「――っ!?」


 ……あぁ、やはり油断していたのでしょうね。

 これは……非常事態です。

 瞳孔が開く感覚というものを感じています。

 全身から汗が噴き出して、心臓がおかしいくらいに収縮して、呼吸が……苦しい。


 あの時と同じ……

 あの時……私がほんの少しとはいえ、ヤシロ様に心を開いた時と……


「ちょっと動くなよ」


 そして、あの時と同じように、頬に手を添えて下まぶたを下に引き下げる……

 ジッと、私の目を覗き込んで、見つめる。


 ヤシロ様。私は、以前も言いましたよね。

「頬に触れたりなどするから、キスをされるのかと思いました」と。


 どうして、今、再び同じことをするのですか?

 そして、どうして、今、再び同じことを思わせるのですか。


 ……あの時よりも、はるかに心を開け広げてしまった私に対して。


「お前、やっぱちょっと熱あるな。解熱剤持ってきてやろうか?」

「解熱剤はいらないので、消毒液をください」

「……お前、前にもそんなこと言ってなかったか?」


 仕方がないじゃないですか。

 そうでも言わなければ、あなたはずっと優しくするでしょう?

 私を心配して、守るような視線を向けてくるでしょう?



 そんなことをされたら、――甘えたくなるじゃないですか。



 私は、あなたがそうであろうと思っているほど、強くはないのですよ。

 今すぐにでもあなたの胸に飛び込んで、わがままを言いたいのですよ。


「私を思い出してください」と。

「名前を呼んでください」と。


 そして――


「その気にさせたのなら、きちんと責任を取って……キス、してください」と。



 私の油断は、願望から来ているのかもしれません。

 油断したから接近を許したのではなく……接触を許したのではなく……

 そうしてほしいから、警戒心を解いていたのかもしれませんよ。


 多少強引にでもいい。

 紳士的にスマートにでもいい。

 恋も知らない少年のようにぎこちなくでもいい。


 あなたに、抱きしめてほしいのです。



 けれど、そんなこと、言えないじゃないですか。

 だから、ふざけたことを口にするのですよ、私は。

 あなたを呆れさせるような言葉を探すのですよ、私は。


 私は給仕長。

 人を支え、サポートする者。


 私が支えられていては、いい笑い者じゃないですか。


「熱は大丈夫です」

「ホントだろうな?」

「『精霊の審判』を使用されますか?」

「はは。ねーよ」


 こうして、信頼を向けてもらえるのも、私が給仕として忠実に職務をこなすから。

 ヤシロ様が私に求めるものは……的確に仕事をこなすスキルと思慮。


 それ以外のものなど……


「たまには息抜きもしろよ。俺でよかったら、付き合うからよ」

「…………」


 あなたは、本当に……


「……私を、ダメにしたいのですか?」


 どうしてそんなに優しくするのですか。

 あなたが分かりません。


「私は、忠実に仕事をこなすことでのみ存在意義を見出せるのです。遊んでなど……」

「存在意義なんて、いくらでもあんだろうが」


 おのれを否定しようとした私の言葉を遮り、ヤシロ様はこんな言葉を……私にくださいました。


「俺はお前といると楽しい。それだけで、十分意義あるじゃねぇか」


 ……あぁ、ダメになる。

 どんなに瀬戸際で踏ん張っても、この人には敵わない。


 いいんですか、それで?


 私、甘え方とか、よく知りませんので、きっと下手ですよ?

 止め時も分からず、際限なく甘えてしまいますよ?


「あまり優しくしないでください。……甘えたくなります」


 ほら、もうすでに抑えが効かなくなってきているじゃないですか。

 あなたに構ってほしい。

 気にかけてほしいって、そんな見え透いた下心が言葉の端々に滲み出しているじゃないですか。


 そして、察しのいいあなたはそれに気付いて……


「いいじゃねぇか、甘えりゃ」


 ……そう言ってくれる。

 私を、受け止めてくれる…………


「たまには思いっきり甘えてみろよ」


 だから、私はダメになる。

 今、もし甘えてしまったら…………後戻り、出来なくなる。


 とす……っと、ヤシロ様の肩に頭を載せる。

 あぁ……ヤシロ様の体温がおでこから伝わってくる。


 ゆっくりと、後頭部をぽんぽんと、二度叩かれる。


 ……溢れ出す。


 影であるべきサポート役が、舞台の中央にしゃしゃり出ていくような……滑稽な結末を迎えてしまおうとも、……もう、止められない。


 ヤシロ様……私を、見てください。


「私を、思い出してください……」


 どんな言葉でもいい…………私だけに、語りかけてください。


「私の名前を……呼んでください」


 そして……もし、叶うのなら……



 私をその気にさせたのなら、きちんと責任を取って……キスを…………




「……ナタリア」

「――っ!?」


 私を思い出して……名を呼んで……


「不安にさせて悪かったな。ちゃんと、思い出したから、もう心配すんな」


 ……あぁ。

 やっぱり敵わない。


 ここぞという時に、必ず結果を残す……

 私を、思い出してくれたんですね……

 私の名を……また、呼んでくれましたね。


 私が、そう望んだ通りに……


 私は柄にもなく、有頂天になり……少し大胆になる。

 ヤシロ様の唇を……私の…………唇に…………



 ぼんっ!



「熱っ!?」


 思わずでしょう。ヤシロ様が私の頭を払いのけました。


 ぽ~んと払われ、くるくるーと回転し、地面へとくずおれる。

 …………ない。

 それはないです、私。


 無理です、無理。

 想像しただけで体温が十度くらい急上昇した気分です。


 キスなんてしたら…………



「むぁぁぁあああっ!」

「どうした、ナタリア!?」


 致し方なし! これは、致し方のないこと。


 いくらなんでも順序を飛ばし過ぎです。

 ただの影だった私を、陽だまりの中に連れ出してくれた。私のこともちゃんと見ていてくれた。

 それだけでいいじゃないですか。


 それを独占しようなどと…………


 物事には順番があるのです。

 手順を踏むべきなのです……


 ですから……


「ヤシロ様……」

「なんだ?」

「交換日記をいたしましょう!」

「……えっと、メンドイから、パス」


 あぁ……その呆れたような顔…………悔しいかな、落ち着きます。


 ふと見ると、ヤシロ様の足元に小さな種が転がっていました。

 魔草の種でしょうか。


 ……ふふ。これで、私のことはもう、忘れない。


 そうですね。今回は、それで満足いたしましょう。

 だから最後に一言だけ。


「ぺったんこー!」

「だから、なんで煽んだって!?」


 ……不甲斐ない自分への苛立ちを八つ当たりに変えて、エステラ様のいる執務室へと叩き込んでおきました。



 それでヤシロ様がいつものように笑ってくださるなら……今は、それで満足なのです。

 今は――




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