追想編10 パウラ

「父ちゃーん! 魔獣ソーセージ六本追加ねー!」


 昼時を過ぎても、店内にはまだまだお客さんが絶えない。

 目が回るような忙しさが過ぎてもまだ、休憩出来るほどの余裕はない。


「いらっしゃいませー! 空いてる席にどうぞー!」


 この『いらっしゃいませ』は、ヤシロに言われて言うようにした。

 昔は、お客さんは勝手に席に座って、呼ばれたら注文を聞くようなスタイルだった。

 けど、『いらっしゃいませ』って言うと、お客さんはちょっと嬉しそうな顔をする。

 そんな小さな感動が凄く大切なんだと思う。


 ヤシロは、そういうのをよく分かっている。


「おーい! ビール!」

「はぁーい、ただいまぁー!」


 お金を受け取り、カウンターに戻ってビールを注ぐ。

 そうこうしている間に魔獣のソーセージが焼き上がってカウンターに置かれる。

 それらを全部持って、ごった返す店内をすいすいと駆け抜けていく。


 途中、お尻を触ろうとする不埒な酔っ払いの手を尻尾で威嚇してやり過ごす。


 まったく……男の人ってみんなあぁなのかな?


 ……そういえば、ヤシロも最初、あたしの尻尾に興味津々だったな。

 ふふ……ホント、エッチなんだから。


 ……そんなことも、全部忘れちゃう……の、かな?


「おい、ネエチャン! これ違ぇよ!」

「え? ……あっ!? ごめんなさい! お客さんはビールだったよね。あははっ」


 いけない、いけない!

 仕事中にぼーっとしてちゃ、ダメ。


「はい、魔獣のソーセージ、六本お待ちどうさま!」

「違う違う! 魔獣ソーセージ、二本はこっちだよ!」

「あぁっ!? ごめんなさいっ!」


 ドッと、お客さんたちが笑う。

 ……うぅ。今日、あたしダメだ。


「珍しいなぁ、パウラちゃんがこんなにミスするなんてなぁ」

「こりゃ、今日はスペシャルな日になりそうだな」


 そんなからかいの言葉をもらって、えへへと愛想笑いを浮かべる。



 本当は、不安で不安で、泣きそうなのに。



 ヤシロに会いたい……

 会って、ずっとそばにいて、ちゃんとあたしのことを思い出すまで、いっぱいいっぱいお話したい。

 このまま……忘れられちゃうなんて…………


 そんなの…………やだ。


「………………いけない。お皿、下げなきゃ」


 また、気持ちが沈んじゃった。

 こんなんじゃダメ。仕事、ちゃんとしなきゃ。


 気を取り直して、空いたお皿を取りに行こうとしたら……また、お尻に手が伸びてきた。

 まったく……人がブルーな気分でも必死に頑張ろうとしてるのに……っ!


「ダメって言ってるでしょ!」


 伸びてきた手を、思いっきり尻尾で叩いてやった。

 どう? これで懲りて……


「ふふん! かかったな!? 実は尻尾が狙いだったのだ!」


 突然尻尾を掴まれて、遠慮なく「もふもふもふもふっ!」てされた。


「きゃあああああっ!」


 このチカンッ!

 成敗っ!


「どうっ!?」


 持っていたお盆で脳天を叩いてやった。

 遠慮なしのフルパワーで!


「…………い、痛い」

「当たり前でしょ! 変態!」

「なんだよぉ……冗談なのに」

「……え?」


 そこに座っていた変態は…………ヤシロだった。


「な……に、してる……の?」

「ん? チカンだけど?」

「さらっと犯罪行為を肯定しないで」

「いやぁ、こんだけ忙しいと見逃してもらえるんじゃないかと思ってな」

「そんなわけないでしょ!?」


 もう!

 もう! もう! もう!


 こっちは本当に、泣きそうなほど心配してたっていうのに……なにチカンなんかしに来てんのよ!?


「ヤシロは尻尾が好き過ぎっ!」

「いや、だってさ。お前の尻尾可愛いんだもんよ」

「――っ!?」


 ぼふっ!

 ……って、尻尾の毛が逆立った。


 か、かわいい…………え、えっ、……そんな風に思ってたの?


 わっさわっさ……って、尻尾が勝手に揺れちゃう。

 ……だったら、ちょっとくらい、撫でさせてあげても………………はっ!?


「か、かかか、可愛いとか言ったって、チカンはチカン! やっちゃダメでしょ!?」

「うん。来年から気を付ける」

「今から気を付けるの!」

「明日から気を付ける」

「今から!」

「明日から本気出す」

「なにの!? チカンの!?」


 思わずお盆を構え直す。

 と、ヤシロは頭を両腕でガードした。怒られること言ってる自覚はあるんだ。


「そ、それより、どうしたの? あ、お腹空いた?」

「いや、飯は食ってきた」

「…………ウチで食べてってよ」

「ライバル店にそうやすやすと金を落とせるかよ」

「あたしもたまにケーキ食べに行ってるでしょう!?」


 まったくヤシロは。こういうところでちょっとセコいんだから。

『パウラに会うためなら魔獣のソーセージを十本だって頼んでやるぜ』くらいのこと言えないのかな?


「今日は飯じゃなくて、お前に会いに来たんだよ」

「え?」


 ……あたしに?


 ………………わさっ。わっさわっさ。


 あぁ、また尻尾が勝手に……っ!


「あ、あの、でも……仕事が……」

「おーい! 注文いいかー!?」

「はぁーい! ただいまぁー!」


 もう、どうしてこんな時に注文なんか……!

 ……むぅ、ウチ酒場だし、当然か。


「あ、あの……ヤシロ……」

「いいよ。行ってこいって。客は飲食店の宝だろ?」

「でも……」

「大丈夫。お前の働くところ見てるから」


 見てて……くれるの?


 ……わっさわっさわっさわっさ。


「尻尾。すげぇ揺れてんぞ」

「しっ、仕事が大好きだからよ! もう!」


 どうして、そういう無神経なことを口にするのかな!?

 尻尾は勝手に動いちゃうもんなんだから、見て見ぬフリするのが紳士のマナーでしょ!?

 もう! もうもう!


「また、すぐ戻ってくるから、それまでに反省しててね!」


 厳しく言って、お客さんのもとへと向かう。

 ちらりと後ろを振り返ると、ヤシロがひらひらと手を振っていた。


 ふふ……見ててくれるって。

 ……わっさわっさ。


 よぉし、がんばっちゃおう!

 ……わっさわっさわっさわっさ。


 お客さんの注文を取って、空いたお皿を下げて、父ちゃんが焼いたソーセージを持っていって……よし。一段落。

 あたしは急ぎ足でヤシロの元に向かう。


「それで、どうなの?」

「ん? 腹か? ……ちょっと空いたかな? この匂い嗅いでたら」

「そうじゃなくて……」

「あーい! ビールおかわり!」

「…………」

「呼んでるぞ」

「聞こえてるもん!」


 もう!

 ヤシロの記憶のこと聞きたかったのに、どうして今注文するの?

 ビールって、そんなにすぐ必要!?


 ……まぁ、ビール飲みに来てるんだから必要だよね、そりゃ。


「はぁい、ただいまぁー!」


 ヤシロに向かって「ごめんね」と言うと「気にすんな」って言ってくれて、アタシはすぐにビールのおかわりを取りに行く。

 その途中で二人、ビールのおかわりが追加されて、魔獣のソーセージとビッグベーコンの注文が入る。


「父ちゃん、魔獣が二つでビッグベーコンが一つね!」


 無口な父ちゃんが鷹揚に頷いて調理にかかる。


「あ、それから! 魔獣ソーセージの新しいヤツ一つ!」


『分かった』って感じで父ちゃんが手を上げる。

 これは、注文されてないんだけど……いいよね。あたしの奢りで。


 父ちゃんがソーセージを焼いている間も、お酒の注文が入って、あたしは店内を走り回る。

 ソーセージが焼けて、注文されたものをお客さんに届けると少しだけ余裕が出来た。


「ヤシロっ、これ!」

「ん? 俺頼んでないぞ?」


 目を丸くするヤシロに、そっと耳打ちをする。


「あたしの奢り」


 すると今度はヤシロがあたしの耳に口を近付けて、ぼそっと呟いた。


「いいのか?」


 ――っ!

 ……わっさわっさ。


 み、耳元でヤシロの囁くような声を聴かされると…………なんだか背筋がぞくぞくっとした。


 うぅ……


「あ、あの。ほら、前に教えてくれたでしょ? リンゴのチップ。それで作ったソーセージなの」


 以前。

 カンタルチカで虫騒動があった時にヤシロが教えてくれた、新しい燻製。

 ブナやリンゴのチップを使えば風味が変わるって。

 色々試してみて、つい先日ついに新商品が完成したの。

 まだ、お客さんには出してないけど、明日にでもお店に出すつもり。


「ヤシロがお客さん第一号だから。食べて」


 それだけ言って顔を離すと、ヤシロが「ちょいちょい」って手招きをした。

 うぅ……もう一回?

 こわごわと顔を近付けると、さっきよりもはっきりとした声でヤシロが囁く。


「ありがとうな」


 ぞわぞわぞわっ!

 ……わっさわっさわっさわっさ!


 ふぅうう…………っ! 


「き、気にしないで! これは、あの、ほら、アレだから! そう! お礼!」


 堪らず顔を離す。

 なんだろう。なんでヤシロの声って、こう、ぞわぞわするんだろう。

 今も、なんだか背筋がむずむずする……っ!


 ……わっさわっさ。


「んんっ! 悔しいけど、メッチャうめぇ!」


 新魔獣のソーセージを食べて、ヤシロが唸る。

 そうでしょ!? 美味しいよね!?

 ふふん、どんなもんよ。すっごく研究したんだから!


「やっぱ、ちょっとだけリンゴの香りがするな」

「微かにね。イヌ人族とヤシロくらいしか気付かないと思うけど」

「いや、俺をその括りに入れるなよ」


 だって、ヤシロはウチの父ちゃんよりも味とか香りに敏感なんだもん。

 イヌ人族としては、ヤシロは特別枠ってことにしておきたいんだよね。


「けど、名前がまだ決まってないんだよね」

「魔獣のソーセージ(リンゴ)とかでいいんじゃないのか?」

「ダメだよ、そんなの! ……リンゴのチップを使ってるのは企業秘密だもん」

「……俺にバラすなよ、じゃあ」

「ヤシロはいいの!」


 ヤシロに教えてもらったんだし、どうせ一口食べたら言い当てちゃうだろうし。


「けど、このリンゴっぽい香りは売りにしたいんだよねぇ」

「んじゃあ、リンゴってことだけを隠して、『フルーティーソーセージ』とかどうだ?」

「――っ!? それ、いい! ねぇ、その名前使ってもいい!?」

「あぁ。いいぞ」

「やったぁ!」


 リンゴは秘密にしたまま、新しいソーセージの売りは説明出来る!

 ヤシロ、凄い! やっぱり凄い!

 もう! 本当に、ウチに欲しいくらいだよ!


 もしヤシロがウチに来てくれたら…………あたしとヤシロの二人で…………


 ……わっさふっさぶわっさ、わっさふっさぶわっさ!


「お、おいおい! 尻尾! 尻尾が物凄いことになってるぞ!」

「はっ!?」


 慌ててお尻を押さえる。

 もう……どうしてこう正直に動いちゃうの、あたしの尻尾!?


「そんなに気に入ったのか、フルーティーソーセージ?」

「へ? あ、ぁあ、うん。凄くいい名前!」


 ……よかった。バレてない、よね。


 ……けど。

 本当に、一回考えてくれないかなぁ……ウチに来るってこと。


「ね、ねぇ、ヤシロ…………飲食店に興味とか……ない?」

「え、なに? 突っ込めばいいの?」


 ……だよねぇ。

 そういう反応になるよねぇ。

 陽だまり亭があるもんね……


 あ~ぁ……ジネットが羨ましいなぁ。


 あたしも、あの時……ヤシロがグレープフルーツジュースを頼んだ時……ご馳走してあげてれば…………もしかしたら、ヤシロはウチに、いた……の、かな?


 ……しゅん。

 と、尻尾がうな垂れる。


 あたし……なに考えてるんだろ。


 ジネットも友達なのに、こんな、奪うみたいなこと考えるなんて…………卑怯者のすることだよね。


「お~い! ビールおかわり!」

「こっちもだ!」

「はぁーい! ただいまぁー!」


 また注文が入って、……今度は、ちょっと助かったって思った。


「じゃ、また行ってくる」

「おう。あ、手が空いたら俺にも飲み物頼む」

「何がいい?」

「あとでいいよ。オッサンたち、待たせるとうるさいだろ?」

「うふふ。だね。じゃ、また後でね」


 小さく手を振って、あたしは駆け出す。


 あぁ、本当に忙しいなぁ。

 ここ数ヶ月で、一気にお客さんの入りが増えたもんね。


 陽だまり亭七号店とのコラボとか、四十一区のフードコートとか、大人様ランチとか。

 いろんなところでウチのソーセージの味を知って食べに来てくれる人が増えた。

 それに、街門が出来て、狩猟ギルドや木こりギルドの人の出入りも多くなった。


 ……一時期は、本当に店を畳んじゃおうって、真剣に悩んだのにね。


 ちょうど一年くらい前。

 大雨の影響で四十二区の野菜がダメになって……

 食料の値段があり得ないくらいに高騰して、あたしたち飲食店は軒並み大ダメージを受けた。

 閉店を検討するお店は十や二十じゃ足りなかった


 あたしなんて…………いざとなったら、この身を犠牲にする覚悟だって…………


 ヤシロに止められちゃったけどね。

「もっと自分を大切にしろ」って、怒られた。…………あれ、嬉しかったなぁ。



 そして、あたしたちを絶望の淵から救ってくれたのもまた、ヤシロだった。



 あの時は、まだ名前も覚えてないような、ただのお客さんと店員くらいの関係でしかなかったのに……ヤシロ、真剣になって考えてくれたんだよね。

 お店の料理を値上げしないようにって、自分たちのご飯を我慢して、全部お店に食べ物を回して…………お腹空いて倒れそうで…………そんな時に、ヤシロがタコスをくれた。

 あの時のタコスの味は、あたし一生忘れない。


 ヤシロがみんなをまとめて、行商ギルドにズルいことをやめさせて……四十二区は大きく変わった。


 下水が出来てから、大通りは不快な匂いからも解放された。


 ホント、なんなんだろう、ヤシロって。

 精霊神様の使いなんじゃないかって、近所のお年寄りが噂してた。

 セロンさんたちは、『英雄様』なんて呼んでる。

 けど、……ふふ。ヤシロには悪いけど、ヤシロってそんな感じじゃないよね。


 目つき悪いし、時々ズルいし、基本的にセコイし、それに凄くエッチだし。

 なのに、頭がよくて、なんでも知ってて、どんな小さなことにも気が付いて……優しくて…………ちょっとだけ、弱くて。


 ヤシロはヤシロだよ。

 精霊神様の使いでも英雄様でもない。

 ヤシロは、ヤシロって名前の、他の誰よりも凄い、特別な男の子。


 ……だから、こんなに恋してる。


 ヤシロは、いつでもすぐ近くにいてくれる、優しい男の子。

 そんな特別な人じゃない。



 だから、好きでいても……いいよね?

 ね、ヤシロ?



 ヤシロは、あたしが困った時はいつだって助けてくれた。

 虫騒動の時もそう。

 それ以外だって、いつだって、いつだって……


 ちらりとヤシロに視線を向けると、ヤシロはあたしを見ていてくれた。

 なんだか、それだけでちょっと幸せな気分になれた。

 ……わっさわっさ。


 ちゃんと見ててくれてる。

 あたしの働くとこ、ちゃんと。


 あたし、自分では、働いている時が一番可愛いと思ってる。

 だって、やりがいあるし、楽しいし。

 そんなことを一所懸命してる女の子って、絶対可愛いじゃない。


 だから嬉しい。

 あたしの一番可愛いところを見ていてくれることが。


 あ~ぁ……どうにかして、あたしのこと好きになってくれないかなぁ。

 空いた皿を下げる途中にもう一度視線を向けると、ヤシロは何かジェスチャーをしていた。


 なになに?


『尻尾……ゆっさゆっさ……可愛い…………頬摺りしたい』?


 もう!

 エッチ!


 ベーッ! っと舌を出して、お盆で尻尾を隠す。

 まったく。どうしてヤシロはあぁエッチなんだろう。


 あんな様子じゃきっと、結婚とかしたらず~っと尻尾触ってきそうだよね。夜寝る時とか、朝起きてすぐとか…………尻尾を………………


 ぼふっ!


 尻尾の毛が、これまでにないくらいに逆立った。


 ――わっさぶわっさ、わっさぶわっさ!


 ね、ねねね、寝る時とか……な、なに考えてるの、あたし!?

 そ、そりゃ、そうなったら嬉しいし……、嬉しい…………けど……


 ヤシロは、あたしの名前を忘れちゃってるんだよね。


 あぁ……ダメだよ。

 ヤシロが見てるのに、こんな顔してちゃ……こんな顔見せちゃ、ダメだよ。


 しっかりしなきゃ……


 一通り仕事を終えて、もう一度ヤシロのところへ戻る。

 暗い顔は取り払って、いつもの明るい、可愛いパウラちゃんで接客しなきゃ!


「何飲むか決まってる?」


 さっき注文聞けなかったから、そんなことを聞く。

 まぁ、ヤシロだったら間違いなくフレッシュジュースで……


「酒は何がある?」


 え?

 お酒?


 だって、ヤシロ。お酒飲まないじゃん。


 ……珍しく飲みたいのかな?


「ワインにエール、ビールもあるよ」


 そして、ヤシロは少し考える素振りを見せる。

 ……あれ?

 この光景……どこかで……


「ソフトドリンクはあるか?」


 あっ!?

 そうだ、これ……


「グレープフルーツジュースかブドウジュースなら」


 記憶を頼りに、あの時と同じ言葉を口にする。


「じゃあ、グレープフルーツジュースを」


 そうしたら、記憶の通りの言葉が返ってきた。


 そうだ。

 これ……あたしが初めてヤシロと交わした会話だ。


 ……たまに、なんとな~くだけど、『会話記録カンバセーション・レコード』で読み返したりしてるから、あたしは覚えてるけど……


 ヤシロも、覚えててくれたんだ……


 あ……


 ……わっさわっさ。


 ちょっと、嬉しい……っ。


 目の前にはにっこり笑うヤシロ。

 ……もう。こういう冗談、好きだよね、ヤシロは。

 じゃあ……もうちょっと先まで思い出させてあげる。


 あたしは手のひらを上にして、すっと手を差し出した。


「20Rb!」

「…………え?」


 ヤシロが真顔になる。


「グレープフルーツジュースは、20Rbだよ!」

「え…………」


 そうそう。

 前もヤシロ、ここでこんな素っ頓狂な顔をしたんだよね。

 それであたしピーンときたんだ。


「お客さん。食い逃げするつもりでウチに来たんだとしたら、父ちゃんが黙っちゃいないからね?」


 犬歯をキラリと光らせて、ヤシロに笑みを向ける。

 これ、悪客撃退用笑顔なんだよね。あたしが考えて、すっごく練習したの。

 この顔をすれば、大抵の小狡い客は逃げてっちゃうんだ。


 けど、ヤシロは。


「どうせなら、お前に噛みつかれたいな」

「へっ!?」


 ……そ、そんなこと、あの時は言ってなかったよね?


「さぁ、どこに噛みつく? 腕か? 足か?」

「え、いや……ちょっと、待って……」

「それとも……」


 言いながら、ヤシロは襟をグイッと引き下げて鎖骨を露わにする。


「……首筋か?」

「――っ!?」


 ぼふっ! って、顔が真っ赤に染まった。


 く、首筋にか、噛みつくなんて…………出来るわけないでしょうっ。


「も、もう! からかわないで! お金がないなら商品出してあげない!」

「じゃあ、また奢ってくれよ、あの時みたいに」

「やだもん!」

「じゃあ、何か賭けをするか?」


 賭け……


 あの時、あたしはヤシロと賭けをした。

 それで、まんまと一杯食わされて、グレープフルーツジュースを驕ったんだよね。


「…………いいよ」


 賭けくらい、乗ってあげる。

 その代わり…………


「あたしの名前を言えたら、ご馳走してあげる」


 その代わり……忘れないでよ。

 あたし、こんなに覚えてるよ?

 ヤシロのこと、いっぱい、いっぱい、覚えてるよ?


 ねぇ知ってる?

 あたし、毎日寝る前にね、ヤシロのこと考えちゃうんだよ?

 明日は会えるかな、お話し出来るかなって。


 あたしの心の中、ヤシロのことでいっぱいなんだよ?


 あたしだけがこんなに覚えてて…………ヤシロはそれ全部忘れちゃうなんて…………悲し過ぎるじゃない……っ!


 だから、ねぇ…………あたしの名前、呼んでよ。

 ヤシロの声で、聞きたいよ……


「……ほら、早く言ってみて、あたしの名前」


 ヤシロは、難しそうな顔をして、あたしを見上げている。

 …………本当に、分からないんだね。……ヤシロ。


「……もし、分からないなら…………もう、帰って……」


 きっと、あたし……泣いちゃうから。

 ……泣いてる顔なんて、見せたくないから…………


「……分かった」


 静かに言って、ヤシロが立ち上がる。


 ………………そっか。

 あたしの名前……分から、ないんだ…………


 自然と視線が下がる。

 肩も頭も重たくて……あたしはその場でうな垂れる。


 世界が、真っ暗に塗り潰されていく…………


「……この賭け」


 すぐそばで声がして……耳に息がかかる。


「俺の勝ちだな、パウラ」

「――っ!?」


 思わず顔を上げたら、すぐ目の前にヤシロの顔があって「きゃっ!?」って悲鳴を上げると同時に足がもつれて……あぁ、もう! なにテンパってんのよ、あたし!

 あたしは、ヤシロの胸に倒れ込むようにして寄りかかった。


「おっと。大丈夫か、パウラ?」

「名前……思い出したの?」

「あぁ。ついさっきな」

「…………なによ。思い出したならすぐ言いなさいよ……っ、バカ」


 嬉しいのと悔しいのがごっちゃになって、あたしはヤシロの胸に顔を押しつけて、握った拳でぽかぽか殴ってやった。


 ……バカ。バカヤシロ。

 すごく不安だったんだから……すごくすごく……怖かったんだからっ!


「悪かったな。でも、もう大丈夫だ」


 後頭部に、優しい感触……ヤシロの手が頭を撫でてくれる。

 そして、反対の手のひらには小さな種…………これ、魔草の?


「な? これでもう二度と……」


 そして、完全に油断したところで……


「パウラのことは忘れない」


 耳元でそんなことを囁かれた。


 ぼふっ!


 あたし史上、最大の大きさに、尻尾の毛が膨らむ。

 ……わっさわっさわっさわっさ! わっさわっさわっさわっさ!


 あぁぁぁ、もう! 尻尾のわっさわっさが止まらないっ!


 恥ずかしい……恥ずかしい…………けど……嬉しいよぉぉおおっ!


 で、でもね、今だけ……今だけだからっ!


「ヤシロォォッ!」


 首に飛びついて、思いっきり抱きしめた。

 尻尾が揺れるのも気にしない!

 今だけだからいいんだもん!


「パウラ……尻尾が凄いことになってるぞ」

「もう! 言わないでって言ったのに…………いいんだもん、今は!」

「いやでも……」

「いいの!」


 心配させた罰なんだから!

 しばらく黙ってこうされてなさい!


「……尻尾がわっさわっさし過ぎて尻尾穴が広がってよぉ…………パンチラしてるぞ?」

「――っ!?」


 慌てて飛び退いて尻尾を両手で隠す。


 も…………も~ぅ!


「そういうデリカシーないこと言うなってばぁ! ヤシロのバカァ!」



 もう!

 グレープフルーツジュース、とびっきり酸っぱいヤツ出してやるから!

 覚悟しないさいよね!



 ……でも、思い出してくれて、ありがとね。ヤシロ。




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