追想編9 レジーナ
「ほ、ほな。おおきにな。あんじょう、お大事に」
ヤギ人族の奥様を店先まで見送り、たどたどしく頭を下げる。
はぁ……ホンマ。商売っちゅうんは、ウチには向いとらへんなぁ。
最近、少しずつお客が増えつつある。
理由は言わずもがな……
陽だまり亭と教会の置き薬が評判となり、個人的に買いに来る客が増えた。
……置き薬の方買ったらえぇのに。
まぁ、これは贅沢な悩みなんやろうけどな。
人見知りなウチには、不特定多数の人間に対して接客するなんてのは、常人の四倍近く骨の折れることなんや。
……せやいぅたかて、誰か売り子はんを雇うとかも難しいしなぁ。
薬の知識に明るく、自分の判断で臨機応変に対応出来、何よりウチが心を砕ける相手…………
「そんなもん、この世界にたった一人しかおらへんがな……」
けど、そのたった一人は、絶対にウチの売り子にはなってくれへん。
まぁ……もしその人がウチの店に来てくれるんやったら、売り子やのぅて、店主になってもらうんやけどなぁ……
「ははっ……ありえへんわ」
あの人は、ウチを選んだりはせぇへん。
それどころか…………
「今日にも、ウチのことを忘れてしまうかも……しれへん」
ギュッ……っと、胸が締めつけられた。
……はは。ホンマ、おもろいなぁ…………ウチに、こんな乙女みたいな感情が残っとったなんてなぁ……笑うわ、ホンマ……
「…………イヤやなぁ」
友達のホコリちゃんを探すが……あぁ、さっきお客が来てたからかなぁ……どこにも見当たらへんかった。
メガネを外してカウンターに突っ伏す。
アカン…………今日は、なんか……アカンわ。
「今日はもう、店じまいや」
そう呟くと、『いや、毎日開店休業状態だろうが』――と、あの人の声が脳内に再生される。
重症やな、ウチ……妄想まで彼一色とか…………
「アホか……大繁盛しとるわ。今日かて二人もお客が来て、ウチの体力はもう限界なんや」
『体力なさ過ぎだろう』
……小憎たらしい言い回しが彼そっくりや。大した再現力やな、ウチの妄想力。
「あ~ぁ、誰かお人好しで頼りがいのある人がお嫁にもらってくれへんかなぁ~」
『俺の故郷だと、そういう不良債権を押しつける行為は詐欺罪に問われることがあるんだぞ』
「誰が不良債権やねん。こんな巨乳美人捕まえて。ちゃんとしとったら、なかなか見れたもんなんやで?」
『ちゃんとしてる時間が年間六分くらいじゃねぇか』
「六分!? 自分、ウチを過労死させる気か?」
『……六分ももたねぇのかよ。あと死ぬなよ、ちゃんとしたくらいで』
ははっ。軽口までそっくりや……
あぁ……えぇなぁ。妄想でもなんでも、やっぱ彼と話すんは楽しいわ。
……妄想でもなんでも、こうやって会話が出来るなら…………ウチ、大丈夫かもしれへんな。
たとえ、彼がウチを忘れてしもたとしても……
せやな。
彼がこの店に
なんも問題あらへんわ。
「なぁ……妄想はん」
『誰が日々妄想大爆発人間だ!?』
「ウチや!」
『自信満々に言うことかよ……』
ふふ……アホなこと考えとんなぁ、ウチ。
なんやこの会話。
こんなん、他の誰とも出来へんわ。
やっぱり……特別、なんやなぁ……
せやな……
せやから、せめて……
「ウチ、今ちょっと落ち込んどんねん……慰めてんか」
妄想にくらい甘えたって罰は当たらへんやろう。
どうせ、本人はここにはおらへんのやさかい…………もう二度と、ここには来ぇへんかも、しれんのやさかい……
「…………っ。アカン……ホンマ…………ちょっと、つらい……なぁ」
ウソやと、思いたい。
こんなに弱くなってもうた自分も。
彼が、もう間もなくウチを忘れてしまうって現実も。
故郷を捨て、すべての者から逃げ出したウチが言えた義理やないかもしれへんけど……
ウチの居場所がなくなってしまう気がして…………ホンマに、怖いんや。
「アホゥ……魔草のアホ……ウチのアホ…………」
けど一番アホなんは、魔草なんかに寄生されてウチの記憶をなくしかけてる……彼や。
「アホゥ…………大アホ…………アホおっぱい……」
『初めて吐かれた暴言だな、それは』
呆れたような、困ったような声がして――
「……ぇ」
頭に、ふわっと、優しい感触が降ってくる。
子猫を撫でるような優しさでウチの髪が撫でられる。
…………妄想……?
顔を上げて周りを見渡す。
店内には、……誰もいない。
誰の姿も見えない。
「なんや…………やっぱり誰もおらへんやん。凄いな、ウチの妄想力。ついに触覚にまで影響を及ぼすようになったんか」
聴覚くらいなもんやと思ぅとったんやけどなぁ。
……と、思ぅとったら、頭を撫でてた手に力がこめられ……ぎりぎりとウチの頭蓋骨を圧迫し始めよった。
「ひたたたたっ!」
『メガネかけろ。な?』
「なんやねん! なんやねんな!? 触覚に影響及ぼし過ぎやで、妄想はん!?」
妄想のし過ぎで頭痛がするとか……ウチもいよいよ末期かいな…………前から末期やっちゅうねん!
……こんな悲しいツッコミもないわなぁ。
『ほれ』
「ふゎっ!?」
突然、世界がクリアになる。
メガネが独りでにウチの顔に飛び乗ってきよった。
なんやねん。
ウチの妄想、物理的影響力まで発揮し始めたんかいな?
『んで、後ろ振り返ってみろ』
妄想の声に従って振り返ると……彼が立ってた。
「…………」
「分かったか?」
「……ウチの妄想、ついに視覚にまで…………」
「現実受け入れろよっ」
「ぁうっ」
額をぺしりと叩かれる。
そこにいたのは、紛れもなく……ここにいるはずのない……彼やった。
「なっ、何しとんねん、自分!? こんなところで……い、いつからそこにおってんな!?」
「いや、ずっと会話してたろうが!?」
「ウチが会話してたんわ、ウチの妄想とや! 人の会話に割り込んでこんといてんか!?」
「うわぁ……すげぇ理不尽に怒られてるな、俺、今」
聞かれてた?
ウチが吐いた弱音も、全部!?
アカン!
アカーン!
「せや、自分! 疲れてるやろ? ちょうど今、脳みそに重篤なダメージを与える薬があるさかい、飲んでいき」
「誰が飲むか、そんな毒物!」
せやかて、忘れてほしいことかてあるやんか、人間だもの!
…………いや、忘れてほしくないことの方が、多いけどな。
「まぁ、あれだ……」
ぽんっと、ウチの頭を叩いて、そしてカウンターの向こうにある椅子へ腰を下ろす。
「実現しないからこそ人は妄想で補完するわけであってだな」
そして、たまに見せる……あの、なんとも言えず優しくてこっちのすべてを包み込んでくれるような……ズルい顔をしてこんなことを言う。
「不安な妄想してたんなら安心しろ。たぶんそれ、実現しないから」
…………アホ。
そんなこと言ぅて……ウチが泣いてもぅたら、ちゃんと責任とれるんやろうな?
……ホンマは、自分がウチのとこに来てくれたら、なんて妄想もしとったから、実現せぇへん言われても手放しでは喜ばれへんのやけど…………励まそうっちゅう心遣いだけは、感謝して貰ぅとくわ。
「ほんなら、さっき妄想しとった、『自分がウチの色香にムラムラして「ネーちゃんえぇ乳しとるやないかい、ちょっと揉ませぇや!」っちゅうて襲いかかってハッスルハッスルする』っちゅうんも実現せぇへんわけやね?」
「初っ端の『ムラムラ』あたりからもうねぇよ!」
「『お前の丸底フラスコを俺に見せてみろ!』」
「言うか! どこのオッサンだ!?」
「『俺の薬研が粉を引くぜ!』」
「俺の体に、そんなコロコロ動く箇所はない!」
「『今夜、お前をオールブルーム!』」
「もう黙れ、お前!」
ふふ……ははは。
あぁ、やっぱえぇなぁ……
なんやろうなぁ。
なんで、こうも落ち着くんやろうなぁ。
「しゃ~ないなぁ、お茶でも入れたろか?」
「おぅ、頼むけど、その手に隠し持った怪しい薬はここに置いていけな?」
「大丈夫や。変な薬やないさかいに」
「なんの薬だよ?」
「三日間ほど深い眠りに落ちてまう薬や」
「変な薬じゃねぇか!?」
「『たとえどんなことを、どれだけねっとりべっちょりやられても絶対に目覚めない』深い眠りに落ちるだけの薬や」
「何する気だ、お前!?」
……何するか……やて?
そんなん、決まっとるやん。
たとえ、自分がウチを忘れてしもうても、ウチが絶対自分を忘れへんようにしっかり体に刻み込むんや。自分の温もりを…………添い寝で。
腕枕とか、してもうてな。
ふふ……アホみたいやろ、ウチ。
そんなこと、してみたいなんて、考えとるんやで。まぁ、自分は知らへんやろうけどな。
「……アカン。なんやムラムラしてきた。お茶淹れてこよ」
「不穏な発言を残していくなよ……」
顔を引き攣らせる彼を残して、ウチは店舗の奥……誰にも侵入を許さへん住居スペースに入る。
ここから先は、ウチ以外立ち入り禁止や。
「……香辛料の匂いや」
なんやかんや、故郷の香りは落ち着くもんや。
もう二度と、あの街には帰らへんのやろうけどな。
ウチは薬の研究に没頭して、没頭して、没頭し過ぎて……失敗した。
元来の人見知りと、面倒くさがりの性分から、根回しっちゅうもんを怠り過ぎた。
ウチの周りは敵だらけになってもうた。
ウチを潰そうとする敵。
ウチを利用しようとする敵。
ウチの存在を全否定する敵。
敵だらけになった街に、ウチの居場所なんかなかった。
世紀の天才ともてはやされ、祭り上げられて……散々利用されて…………
それでも。
あんな街でも、やっぱり懐かしい思うんやね。
こうやって、薬とは関係ない香辛料まで買い集めてしまうんは……ウチの体に流れるバオクリエア人の血がそうさせるんかもなぁ。
こんなん、誰にも見せられへん。
ホンマは自分の居場所がどこか分からへんようになって、過去と現在とを、都合よく使い分けて、必死に縋りついてるような、弱い女や……なんて。そんなん、誰にも知られたぁないわ。
「あと、掃除出来へん女やっちゅうんも、知られたぁないわな」
奥へ進むにつれ、足の踏み場がなくなっていく。
あ~ぁ~、こんなところに脱ぎ散らかして……あの彼が見たら「お宝や~!」言うて持って帰りよるで。……ふふっ。
「あらへんわ、そんなこと」
アホな妄想に、我ながら苦笑いしてまうわ。
世紀の天才も、女としては欠陥品なんやろうなぁ。
掃除も出来へん。
料理も出来へん。
綺麗に着飾ることも、旦那様を優しく労わることも、な~んにも出来へん。
ウチに出来るこというたら、毎日退屈せぇへんように、アホみたいな会話するくらいなもんや。
「……そんな女、誰が選ぶねん」
しゃべり倒しのボケ倒しや。
五分で疲れてまうわ。
それが一生続くなんて……耐えられる男なんかおるかいな。
ウチなら無理や。
きっと逃げ出して…………二度と帰って来ぅへん。
「そら……そやで」
こんな辛気臭いとこ……用事でもあらへんかったら、誰も来ぅへんっちゅうねん。
「アカン。ため息入ってもうた」
ため息交じりに淹れたお茶を捨て、もう一度淹れ直す。
お茶もろくに淹れられへんのかって、思われてまうからな。
これくらい出来るっちゅうねん。
さぁ。アホな妄想で勝手にヘコむんは終わりや。
今日で最後になるかもしれへん特別な時間を、たっぷり堪能させてもらおうやないか。
……魔草は、魔力を帯びた強力な植物や。
人間が精神論でどうこう出来る代物やない。
ウチは薬剤師やさかいな。
奇跡なんか起きひんことを知っとる。
アカン時は、何をやってもアカンもんや。
「自分が忘れても……ウチは絶対、忘れへんからな。忘れたるもんか……」
ウチの人生で初めて、『失いたくない』って思ったんは、自分なんやから。
故郷も、家族も、思い出の品も、懐かしい風景も、どんな金品も、使い慣れた商売道具も、なくなってしまう時はなくなるし、失ってもしゃーない思ぅてる。
せやけど…………どうしても…………
たった一人の特別な彼だけは、失いたくない……
「…………っ、アカン」
お茶を載せたお盆を一回手放す。
辛気臭い味が移ってまう。
「なんやねんな、……もう」
最近、涙腺のしまりが悪くなってきてる気がする。
しっかりせなアカンで。しまりの悪い女や~思われるで。
…………なんやねん。こんな最低なギャグ言うたってんから、笑いぃな、ウチ……
アホみたいに、へらへら笑ぅとったらえぇねん…………なんで、泣きそうなっとんねん。
「…………アカン。アカンで、こんな顔見せたら」
こんな辛気臭い顔見られたら、今度こそホンマに愛想尽かされて、メンドクサァ思われて、二度と寄りつかへんようになるで…………
って、あれ?
彼はもうここに来ぇへん思うて、それでもしゃーない思ぅてたんとちゃうんか、ウチ?
なんやねん。どないやねん……
よぅ分からんわ……
「……アホか。分かるやろ」
自分を否定する自分を否定して、自分でも自分が分からんくなった時……ウチの口からは、おそらくこれが本音なんやろうなって言葉が零れ落ちとった。
「忘れられたくない……これからも、これまでみたいに、一緒に……アホな話して…………勝手にときめいていたい…………に、決まっとるやろ」
なんちゅうこっちゃ……
ウチも女やったっちゅうことかいな。
恋とか愛とか、無縁やと思ぅとったのになぁ……
あぁ、もう! 腹立つ!
お茶ん中にラブラブオーラぶち込んどいたろ!
「めっちゃ好きじゃ、アホッ!」
……これでよし。
ほなら、行こか!
キッチンを出て、香辛料が並ぶ廊下を抜けて、店舗へとやって来る。
――と。
「飯食った後に、湯冷ましで飲むんだぞ。なるべくゆっくりな?」
彼が接客をしとった。
どこぞの幼い子供に、薬の飲み方を丁寧に教えて、頭を撫でて、送り出す。
「おう。遅かったな。客が来てたから薬売っといたぞ」
「様になっとったやん。もう、ここで働いたらえぇのに」
ほんの少しの願望を混ぜて、そんな冗談を口にする。
「俺は高ぇぞ」
「ほな、体で払うしかないなぁ」
「……お前、債務がどんどん増えていくぞ?」
「え、ウチがお金取られる方なん、それ?」
世知辛い世の中やなぁ。
まぁ、ウチなんかとそういう関係になって、喜ぶ男なんかおらへんわな。
「ほい、店長はん、お茶やで」
「俺がここの店長になったら、従業員は全員ミニスカで上はビキニを義務付けようかな」
「えぇ……ウチ見たないなぁ、自分のミニスカビキニ」
「俺もその格好すんのかよ!?」
「店長も従業員の一人やろ?」
「く……小癪な。これだから知恵の回るヤツは」
不満そうに漏らして、カウンター前の椅子に腰を下ろす。
作業台も兼ねるテーブルにお茶を置いて、ウチはカウンター奥の椅子に座る。
二人の距離は2メートル弱。
程よい距離感や。
「んっ、なんか美味いな今日のお茶」
「ごふっ!」
一口飲んで、そんなことを言う。
せやから、盛大にムセてもうた。
だって……だってやで?
今日のお茶には、ウチのラブラブオーラがてんこ盛りにぶち込んであるから…………まぁ、そんなんは関係ないんやろうけど…………さすがにちょっと照れたわ。
「お前……お茶を飲む体力までなくなってるのか?」
「ちゃうわ、アホ! ……ちょっと変なところに、いや、エロいところに入っただけや」
「なんで言い直した? 変なところでいいだろうが」
うっさい。照れとんねん、こっちは。
あぁ、もう!
お茶が美味い言われただけで、なんでこんな浮かれなあかんねんな。
ほんま、大概にしぃや。お茶やお茶。
葉っぱ入れてお湯注ぐだけ!
サルでも出来るわ。
そんなもん、褒められたかて……
「毎回思うけど、お前のお茶ってなんか美味いんだよな。こう、スモーキーっていうか、キリッとしててさ」
それはもしかしたら、大量に並べられた香辛料のせいかもしれへんな。
あそこの空気が、もう、そうなっとんねんやろうな、きっと。
「好きだぞ、俺は。お前のお茶」
「――っ!?」
……この男は…………
その一言が、どんだけ恐ろしい殺傷能力持っとるかも知らんと…………
思わず顔を逸らし、そっぽを向いて、敵の攻撃を拡散させるために言葉を連ねる。
「ま、まぁ、ウチにも一つくらいは特技あるっちゅうことやな。もっとも、それ以外はな~んにも出来へん欠陥品みたいな女やけどなぁ~はっはっはっ。どないする? 夕飯毎日お茶だけやったら? お腹ちゃぷちゃぷになって毎晩オネショやで? あぁ、そうか。自分はそういうプレイもお好みなんやったなぁ~、いや~、自分のマニアックさには脱毛やなぁ~って、誰がムダ毛濃い女やねん!? 脱帽や、脱帽!」
アホな言葉を捲し立てて、少しでも殺傷能力を薄めておかな、一瞬で撃ち抜かれてまうからな。
いやぁ、ホンマ、無自覚男の相手は疲れるなぁ~っと。
「お前のどこが欠陥品だよ」
…………へ?
「別に、料理だの掃除だのが出来なくったって、そんなもん気にすることじゃねぇだろうが。出来るに越したことはない程度の話であってよ。そんなことで欠陥品扱いなんかするヤツは、そいつこそが脳みそか心に欠陥があるんだよ」
なん……やねん。
なんで、ちょっと怒ってんの?
「せ、せや言ぅたかて……男は女に、そういうもん求めとるんちゃうんかいな?」
「なら俺は欠陥男かよ? 筋肉もねぇし、力も弱いし、夜道怖いし」
「そんなん。誰も自分にそういうんは求めてへんし……」
「お前にもな」
「…………え?」
いまだ、少し不機嫌そうな目でウチを見つめる。
けれど、口調はどこか気遣うような、くすぐったい声音でウチの鼓膜をくすぐる。
「お前はお前でいいんだ。誰もお前に料理だの掃除だのを求めちゃいねぇよ」
「……せ、せやな。ウチなんか別に誰にも必要とされて……」
「怒るぞ?」
「…………」
それは、割と真面目な目で……
ウチは何も言えなくなった。
ゆっくりと立ち上がり、こっちに近付いてくる。
顔が……ちょっと、怖い…………
カウンターに手を突いて、グッと身を乗り出して、ウチの顔を覗き込んでくる。
壁とカウンターと、彼に囲まれて……逃げ場がなくなる。
「お前を必要としている俺を無視して、なに勝手なこと言ってんだよ?」
ウチを、必要としてる……?
「俺はな、俺が気に入ってるもんを悪く言われるのが大っ嫌いなんだ。たとえ本人であってもな」
……ウチを、気に入ってる……?
「お前はお前でいい。何度も言わせんな」
ウチ…………このままで、いいんかいな?
ゆっくりと、彼の顔が離れていき、こちらに背を向けて、再びカウンター向こうの椅子へと戻っていく。
「……感謝してんだからよ、これでも」
なんて、囁くような声で、でもしっかりとこっちに届くように呟いて……照れたような顔でお茶を一気飲みする。
……自分、アカンで。
ホンマ、凶悪や。極悪や。
…………ウチの心、完全に射抜かれてもうたやないか……
泣きそうやっちゅうねん。
「な、なんやねんな、自分!? はっは~ん、さてはウチに惚れとるな!? べた惚れやな!? 分かる、分かるで! ウチ、ルックスとスタイルは文句なしやさかいなぁ、まぁ、しゃーないわなぁ。なんやったら、付き合ぅたろか!?」
ぎゃー!
ウチ、何言ぅてんねん!?
テンパり過ぎにもほどがあるでっ!?
「……いやぁ、それはいいわ……」
「なんやねん、そのしょっぱそうな顔!? ちょっとは悩む素振り見せぇやっ!」
助かった!
上手いこと笑いに変わった!
けど、それはそれでムカつくなぁ!?
「俺はもうちょっと、今のままでいたいかなぁ」
テーブルに突っ伏して、ぐでっと体を弛緩させて、そんなことを言う。
今のまま…………
確かにな。
ウチも結構好きやで、自分とのこの距離感。
どんなことでも話せて、どんなことも話さんでもえぇ、ウチらだけのこの空気感。
「あぁ……やっぱ、ここいいわぁ。落ち着く……」
「…………」
こっちに顔も向けんと、ぐでぐでにだらけながらそんなことを言う。
アホ……今の発言、クリティカルヒットやっちゅうねん。
「お茶、なくなったな。もう一杯入れてきたるわ」
「ん~。たのむ~」
朝からバタバタしてたせいか、完全に弛緩モードに突入したみたいやな。
ちょうどえぇわ。
……今は、顔とか、ちょっと見られへんし。
彼の湯飲みを取って、もう一度住居スペースへ向かう。
『今のままでいたい』……か。
ほんなら、忘れんとってや……ウチのこと。
なんやかんや言うたかて…………名前、呼んでもらえへんのは、結構つらいんやで?
あ……そういえばウチ、名前、呼んでへんなぁ。
なんや、照れ臭ぅて、よう呼ばれへんねんなぁ。
けど……今、なんか…………ちょっと呼んでみたい気分やな。
「…………ヤシロ」
なんてな!
今更恥ずかしゅうて名前なんか呼べるかいな!
全っ然聞こえへん小さい声で囁くんが精一杯やっちゅうねん!
さぁ、アホなことしとらんと、お茶淹れに行こっ!
と、足を踏み出した時――
「ん? なんだ、レジーナ?」
――なんでやねん。
なんで聞こえとんねん。
ほんで……なんでこのタイミングで名前思い出してくれてんねんっ!
「…………っ!」
アカン。
嬉しい時に涙出るなんて、絶対嘘や思ぅてたのに…………ホンマやんか!
……こんな顔、見せられへんっちゅうねん!
「今日はやっぱりやめや! もう、美味しいお茶淹れられる気ぃせぇへん!」
カウンターに湯呑を置いて、弛緩するヤシ…………『彼』を無理矢理立たせて、そのままドアの向こうへと押し出す。
「ちょっ!? おい、なんだよ、レジーナ!?」
「今日はもう閉店なんや!」
「まだ昼過ぎだぞ!?」
「ウチの心はいつでも真夜中や!」
「年中卑猥タイムっていう風にしか聞こえねぇよ、お前が言うと!」
「あー、お店閉めて卑猥なことしよっ!」
「お前、ちょっとは女子としてのあれやこれやを身に付けろよ!」
ふん。
なに言ぅとんねん!
「あいにくやな。ウチにはな、『お前はお前のままでえぇ』っちゅうてくれる人がおるねんや!」
言いながら、彼を突き飛ばして素早くドアを閉める。
『おい、レジーナ!』
ドアにもたれて、彼の声に耳を傾ける。
『レジーナって!』
……もう一回。もう一回だけ、名前呼んでんか?
『……ったく』
そこで声は途切れる。
ふふ……やっぱり、思ぅてるだけでは通じひんか。
『レジーナ』
「――っ!?」
『また来るからな』
「…………まいど、あり」
遠ざかっていく足音。
膝の力が抜けて、ドアにもたれたまま、ずるずると体が床に沈んでいく。
……アカンわ。
ホンマ……自分、凶悪過ぎるわ。
最後の最後に、名前囁くとか…………惚れてまうやろっちゅうねん。
「……アカン。しばらく顔見られへん…………」
遠慮なく赤く熱を上げる顔を両手で隠し、彼の匂いが微かに残る店内で一人蹲る。
あぁ……もう。ウチ、末期やなぁ。
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