追想編

追想編1 ヤシロ

 朝目が覚めた時、体に軽い違和感があった。


 ほんの少し熱っぽい。あと、関節が痛い。

 けれど、疲れが溜まるとそうなることはままあった。


 最近、社畜さに磨きがかかったからなぁ、あいつ……


 とある少女の顔を思い浮かべて苦笑を漏らす。

 さぁて。今日も一日お仕事を頑張りましょうかねぇ。



 ――と、ここまではありふれた日常だった。



「おはようございます、ヤシロさん」

「…………」

「ヤシロさん?」

「あ、あぁ。……おはよう」


 おかしい……

 なんだ?

 どうなってるんだ……?


 ここは陽だまり亭の厨房。

 俺はいつものように自分の部屋を出て、階段を降り、中庭を突っ切って、この厨房に入った。

 そこには、いつも目にする光景が広がっていた。

 火のついたかまど。立ち込めるいい匂い。下ごしらえ中の食材。

 にこにこと俺を出迎えてくれる、まるで太陽のような温かい笑顔。

 そのどれもこれもを、俺は『知っている』。


「あの、ヤシロさん?」


 当然、こいつのことも、俺は知っている。

 よく知っている。

 陽だまり亭の店長で、限度を知らないお人好しで、この街一番の爆乳で、今川焼きが好きで、疲れた時はコーヒーにミルクをたっぷりと入れて、エッチなことを言うといつも「懺悔してください」と言う、……一緒にいると、とても落ち着く――少女。



 こいつの名前が、思い出せない。



「……うっ!」

「ヤシロさん!?」


 激しい吐き気が腹の底から突き上げてきた。

 耐えきれなくて俺は床へと蹲る。

 世界が回る…………なんだこれ? なんなんだ?


「×××さん! ○○○○さんもっ! ヤシロさんが大変なんです!」


 少女が誰かを呼んでいる。

 なのに、誰を呼んでいるのかが分からない。


 名前が聞き取れない……


「……なにごと?」


 いつも無表情なトラ耳の少女の半眼が少し見開かれる。

 そう……分かる。この無表情の奥に見え隠れする感情を、俺だけははっきりと読み取れるんだ。……なのに、名前が分からない。


「ほゎぁあっ!? お兄ちゃん、どうしちゃったですか!?」


 いつも騒がしい、こいつのことも分かる。

 獣特徴こそほとんど現れていないが、こいつはハムスター人族で、下に弟妹がいっぱいいて、いじられキャラだけれど、本当は誰よりも思いやりがあって……

 昨日は、「今日はお泊まりしたい気分です!」とかなんとか、訳の分からん理由でここに泊まって…………そこまで分かるのに、どうしてか名前が分からない…………



 くそっ!

 なんだってんだ。


 頭にくる…………気持ちが、悪い…………くそ……



 俺の名を呼ぶ悲鳴にも似た声と、慌ただしく駆けていく足音を聞きながら、俺は意識を失った。





 目が覚めると、ワラのベッドに寝かされ、布団が掛けられていた。

 ここはおそらく俺の部屋だろう。


「ヤシロ。気が付いたみたいだね」


 俺を覗き込んでいた赤い髪の毛の少女がホッと息を漏らす。

 中性的な顔立ちだが、最近ではもっぱら可愛らしい表情を浮かべることが多くなっている。


「具合はどうさね? あっ、無理して起きなくてもいいさね」


 キツネの耳を生やした妖艶な美女が、起き上がろうとした俺の体を支えてくれる。

 この微かに甘い独特の香りは、葉煙草のものだろう。こいつはいつも煙管を懐に持ち歩いている。


「ぁの……てんとうむしさん……だいじょう、ぶ?」


 頭に大きなテントウムシの髪飾りをつけた小さな少女が、遠慮がちに俺の顔を窺っている。あの髪飾りは、俺が作ってプレゼントした物だ。

 極度の人見知りだったのに、俺の前では普通に振る舞ってくれるようになった。


「店長さんを呼んできますわ」


 ブロンドの美しい顔立ちをしたお嬢様が部屋を出ていく。

 あいつも、今は支部の方で忙しいだろうに、こんなところにいていいのか?


「気分はどないや?」


 俺の周りにいた少女たちの間を縫って、緑色の髪をしたメガネの少女が顔を出す。

 独特のしゃべり方は、俺にとっては少し懐かしい。


「なんや、ちょっと呆けとるみたいやけど。ここがどこか分かるか?」

「…………俺の、部屋だ」

「ほなら、自分の名前は?」

「……オオバ、ヤシロ」

「ほなら、ウチの名前は?」

「………………」

「どないしたんや? ウチの名前やで? 言うてみ?」

「………………っ!」


 また、頭が痛む。

 おかしい。

 俺は知っているはずなんだ。

 こいつの名前も、ここにいる全員の名前も、一緒に過ごしてきたってことも……なのに、どうしてか名前だけが思い出せない。


「ねぇ。もしかして、ヤシロは……記憶喪失ってやつなのかい?」


 赤髪の少女が、緑髪の少女に尋ねる。

 その顔は、真っ青だった。


「分からへん……せやけど、自分の名前と、ここが自室であることは分かってるようやし…………」

「けど……どうも様子が変さね。なんだかぼーっとして……」

「ぅん……てんとうむしさんらしくなぃ……ょね?」


 と、その時。

 俺の鼓膜に慌てたような物音が響いてきた。


 ――ぷるんっぷるんっぷるんっぷるんっ!


「しっ! 大きなおっぱいが近付いてくる! 揺れる音が聞こえるっ!」


 俺がそう叫ぶと同時に、部屋のドアが開け放たれ、今朝見た爆乳の少女が部屋に駆け込んでくる。


「ヤシロさんっ! ……よかった。気が付かれたんですね……」


 とても安心したような、けれどまだ不安が残るような、儚げな笑みを浮かべる。


「…………ねぇ、ヤシロ。大丈夫なんじゃない?」

「そうさねぇ。特殊能力も健在みたいだしねぇ」

「ぇ、ぇっと……すごく、てんとうむしさん、っぽい……かも?」


 なんだろう。

 最初からここにいた面々の表情が「のぺー」っとしてしまった。

 さっきまでの不安げな空気はどこにもない。


 いや、緑髪の少女だけが先ほどよりも深刻な表情を見せている。


「……これは、深刻かもしれへんね……」

「ヤシロのおっぱい好きは、前からずっと深刻だよ」

「そうやないねん」


 緑髪の少女が、呆れ顔の赤髪の少女に真剣な眼差しを向ける。

 いつもふざけ倒して正常な思考が退化してしまった感のある緑髪の少女だけに、その真剣な眼差しには迫力があった。

 赤髪の少女が一瞬、怯む。


「これから、ちょっと真面目な話をさせてもらうな」


 ごくり……と、誰かの喉が鳴った。

 ……俺かもしれない。


 緑髪の少女が、薬剤師らしい雰囲気を身に纏い俺へと視線を向けた。


「自分、ちょっとえぇか?」

「な、……なんだよ?」

「すまんのやけど……乳首見せてんか」


 緑色の髪の毛が宙を舞う。

 赤髪の少女とキツネ耳の美女がまったく同じタイミングで緑髪の少女の後頭部を叩いた。

 つんのめって俺へと急接近する緑髪の変態。

 身の危険を感じるので少し距離を取る。


「ちゃうねん! ふざけとるんとちゃうんや! ウチは真剣に乳首が見たいんや!」

「尚更重症だよ!?」

「救いようがないさね!」

「だからちゃうねんって! なぁ、自分やったら分かってくれるやんな? ウチのこの必死さを!」

「あぁ……すげぇ必死に俺の乳首を見たがってて…………正直、引く」

「ちゃうねんって!」


 頭をかきむしる緑女。

 いや、もうむしろ乳首女だな、こいつは。


 ……ん?

 そうか。


「見せ合いっこっていうことならいくらでも……っ!」


 ……俺の髪の毛が宙を舞った。


 キツネ耳の美女の煙管がデコのドセンターにクリーンヒットし、頭が後方へ傾いたところへ、赤髪の少女のナイフが踊る。

 先ほどまで俺の鼻があった付近の空気を切り裂き、ついでとばかりに俺の前髪を数本切断した。


 今、確実に仕留めにきてたよね!? マジ怖い!


「で、なんの話だったっけ。チクビーナ?」

「誰がチクビーナやねん!? 『意外と可愛いチクビーナ』や!」

「……そんな名前でもないさね、あんたは」


 この赤髪の少女とチクビーナとキツネ耳の美女は、これからもずっとこうなんだろうな……可哀想に。

 俺もなるべく関わらないようにしよう。


「自分。ウチらの名前は分からへんけど、ウチらのことは分かるんやろ?」

「え? あ、いや、ん~ちょっとどうかなぁ……」

「嘘や! その目は『分かってるけど知り合いや思われたぁないからしらばっくれといたろ』っちゅう顔や! ウチには分かるんやで!」


 くっ。……鋭い変態だな。変態のくせに。


「あ、あの……。ヤシロさんは一体どうされてしまったのでしょうか?」

「それなんやけどなぁ……ウチの予想が正しかったら、結構厄介なことになってもぅてるで」

「厄介…………あ、あの……もちろん、治りますよね? お薬があるんですよねっ!?」

「ま、まぁまぁ落ち着きぃや、店長はん!」


 ぐいぐいと詰め寄る巨乳店長を、緑の変態チクビーナが制止する。


「なぁ、自分。この店の名前、分かるか?」


 俺は、少し考えて答える。


「…………陽だまり亭」


 なんだろう……当たり前に知っている名前なのに、一瞬引っかかった。

 まるで、本が風化して、色褪せたページの文字を必死に読んでいるような……そんな感じがした。


「ほんなら、これは?」


 と、チクビーナが自分の胸を指す。


「巨乳」

「ほなら、これは?」


 次いで巨乳店長の胸を指さす。


「爆乳」

「ほなら、あれは?」


 と、赤髪の少女の胸を指す。


「…………誤差?」

「誰の胸が誤差だ!?」

「偽乳」

「今日は入れてないよ!」

「……頑張れ」

「励ますな! 頑張ってるよ!」

「……と、いうわけや」

「あ、あの……さっぱり意味が分からないんですが?」


 巨乳店長の戸惑いがピークに達したようだ。

 そこで、緑髪の薬剤師・チクビーナがキリッとした顔で語り出す。


「記憶はなくなってへん。せやけど、欠損している部分がある。ウチの予想はおそらく外れてへん。その証拠が……」


 言いながら俺に近付いてきたチクビーナ。

 突然俺の服を掴むと、勢いよく引っ張り上げた。

 俺の腹から胸にかけての肌が露出させられる。


「きゃっ!?」


 両手で顔を押さえ、薄く頬を染める巨乳店長。

 それとは対照的に、絶対変態神・チクビーナZはアゴを摘まみ、真剣な眼差しを俺の胸元に注ぐ。


「やっぱりや…………」


 俺の胸元を見て、何かを悟ったらしいチクビーナ。


「ちょっと、これを見てみぃ」


 俺の服を捲り上げたまま、その場にいる少女たちに俺の肌を見せつける。


「…………ふむ。綺麗なピンク色」

「ホントです……っ、想像以上に綺麗なピンクです」

「見るんは乳首ちゃう! もうちょい上や!」

「上って…………あっ!?」


 トラ耳少女と普通っ娘を叱るチクビーナ。

 そして、赤髪の少女が何かを発見して声を上げる。

 驚いた表情のまま、俺の胸元を震える指で指し示す。


「何か、付いてる……っ!?」


 赤髪の少女の言葉に、その場にいた少女たちが一斉に俺の胸元を覗き込む。

 そして、同時に息をのんだ。


「……そいつが、今回の原因や」


 緑髪の少女がそう言ったことで、空気が一気に重たくなってしまった。





 なんでも、食堂にも俺を心配して駆けつけてくれた者たちがいるということで、そいつらも交えて、今俺に起こっている状況の説明を緑髪の少女がしてくれるようだ。


 中庭を抜けて食堂へ向かう。

 空はまだ真っ暗だ。俺が起きたのが四時前で、今は五時過ぎというところらしい。


 そんな早朝にもかかわらず、多くの者たちが集まっていた。


 銀髪の美しいシスターに、おっとりした雰囲気の人魚、健康美溢れる肉体をしたクマ耳美女、黒髪にメガネをかけた給仕服姿の美女に、ゴールデンレトリバーのような耳を頭に生やした少女。そしてニワトリ。

 見知った顔がずらりと勢揃いしていた。

 ……だが、誰一人として、名前を思い出すことは出来なかった。


 そして、そんな面々に向かって緑髪の少女がはっきりと言った。


「これは、寄生型魔草の仕業や」


 寄生型魔草。

 初めて聞く名だが……なんとなく想像が出来てしまうな。物凄く嫌な想像だが。


「この胸んところにくっついとるんが『種』や」


 俺の胸にくっついた種を指さして、緑髪の少女は言う。


 種は全部で14個ついていた。

 つか……集まった美女美少女の前で胸をはだけさせてるの、ちょっと恥ずかしいんだが……


「この魔草は、人体に寄生して、宿主の記憶を食べて成長するんや」

「記憶を……っ」


 食堂内がざわつく。

 陽だまり亭の店長が、今にも倒れそうな青い顔をしている。


「その人にとって、大切な記憶を好んで食べる厄介な植物でなぁ……記憶がなくなったわけやないのに、親しい人物の名前がすっぽり抜け落ちてるっちゅうんは、その初期症状なんや」

「それで、ボクたちのことは認識しているのに、名前が言えないんだね……」

「せや。大抵は、魔獣がウロついとるような深い森の中に生息して、魔獣の記憶を食べて成長する植物なんやけど……」

「……おそらく、街門を通って外の森の深層へ赴いた時に」

「ワタクシたちと一緒に外に出た、あの時に寄生されたというんですの?」

「木こりギルドのギルド長さんと勝負した時ですね。でも、あの時お兄ちゃんは特に異常はなかったです」

「潜伏期間が長いねん。宿主に気付かれんようにちょっとずつ成長する、厄介な植物なんや」


 なんだか、俺はとんでもないもんに寄生されてしまったようだ。


「だったらよぉ、その種を取っちまえばいいんじゃないのか?」


 クマ耳の美女が少々焦った表情で言う。

 一秒でも早く解決させたい。そんな感情が見て取れる顔で。


「それはアカン。初期症状が出始めたっちゅうことは、この種が記憶に根を張ったっちゅうことなんや。無理矢理取ったり潰したりしたら、…………記憶が丸ごとなくなってしまうかもしれへんのや」

「それじゃあ、どうしたらいいんさね?」


 唯一、事情を知っている緑髪の少女に、他の少女たちが群がる。

 陽だまり亭の店長と銀髪のシスターだけは、その場に留まりぼう然とした表情で俺を見つめている。


「待つしかないんや」

「待つ…………って、何をだい?」


 群がる美少女たちを代表して赤髪の少女が問う。


「記憶っちゅうんは、物理的にそこにあるわけやないんや。目には見えへんあやふやなもんや。せやから、そのあやふやなもんをしっかりと心に刻み込めれば、寄生型魔草は記憶を食べられへんようになるんや」

「記憶の、定着?」

「せや。寄生型魔草によって忘れさせられた記憶を、自分の力で取り戻した時、寄生型魔草は枯れて、体から自然に取れるんや」

「忘れさせられた記憶って……ボクたちの名前、かい?」

「せやな。名前を呼んでもらえた時は……自分の記憶が彼の心に刻み込まれて定着したっちゅう証になるやろう」


 俺が、こいつらの名前を思い出せれば……


「んじゃあさ! あたいの名前を紙に書いて、それで呼んでもらえばいいんじゃないのか?」

「それではアカンのや」

「なんでだよ!?」

「なくした記憶を思い出すんは相当な体力が必要なんや。無理矢理記憶をこじ開けて干渉するような真似をすれば、またさっきみたいに倒れて気絶してしまうで」


「気絶」という言葉で、その場にいた全員が黙ってしまった。

 俺が倒れて気を失ったと聞いてここに集まってくれたメンバーだ。同じ轍を踏ませまいとしてくれているのかもしれない。


「それじゃあ……ボクたちには何も出来ない…………ってことかい?」

「いや。あるで、出来ることが」

「なんだ!? 教えてくれ! あたい、なんだってするぞ!」

「アタシも協力は惜しまないさね」

「……それは、この場にいる全員がそう」


 トラ耳の少女の言葉に、全員が首肯をする。

 一同の視線が緑髪の少女に注がれる。


「自分らに出来ることはただ一つ……」


 そして、緑髪の少女が告げる。


「普段通り過ごすことや」


 何かをしようと意気込んでいた周りの面々は、見事に肩透かしを食らい間の抜けた表情をさらす。


「記憶っちゅうんはデリケートなもんやからな。忘れたくないもん、思い出したくないもん、人それぞれあるやろ? それを、周りが勝手に『アレ忘れんな』『コレ思い出せ』なんてしたらあかん。思い出は、自分のもんであるべきや」


 その言葉に、反論出来る者はいなかった。

 消化しきれない思いはあるものの、納得せざるを得ない、妙な説得力があった。


 そして、緑髪の少女は俺に優しい笑みを向けた。


「せやから、自分。自分は、自分の思うように行動しぃ。きっと、自分の無意識が、本能が、忘れたくないっちゅうもんを思い出させてくれるはずや」

「俺の、思うように?」

「せや。記憶が定着すれば、魔草は枯れて種が体から勝手に取れる。けど、もしその種から花が咲いてしもうたら……」


 種から、花が咲いたら……


「もう二度と、記憶は蘇らへん」


 寄生型魔草に記憶を食われた証拠……ってことか。


「あ、あのっ」


 店長が不安げな顔で声を上げる。

 襲いくる恐怖を振り払うように、眉をきゅっと吊り上げている。


「……もし、記憶がなくなってしまったら…………その……どう、なるのでしょうか?」

「もう一回やり直しや」

「……やり、直し…………?」

「せや。もう一回出会って、もう一回仲良ぅなって、もう一回新しい思い出を作っていく……やり直しや」

「…………そう、ですか」


 食堂内に、重い沈黙が落ちる。


 ……やり直し、か。

 言ってしまえば、それだけのことだ。

 別に命を落とすわけではない。


 忘れたことは、もう一度覚え直せばいい。


 もっとも、やり直した結果、元通りになるとは限らないけどな。


「そんな『どよ~ん』とした顔せんときぃや」


 妙に明るい声で、緑髪の少女が言う。

 この重くなった空気を払拭しようとしているのだろう。


「この寄生型魔草は、大切な記憶に取りつくんや。つまりは、そんだけ大切に思われてたっちゅうことなんやで?」

「……それは、そうかもしれないけど」


 赤髪の少女が反論をしようとして、やめる。

 その代わりとばかりに、俺にちらりと視線を寄越した。


「それにや。このお人はなぁ……」


 と、俺の肩にぽんと手を載せる。


「おっぱいのことは覚えとったんやで? つまりはここにいる全員が、『おっぱいよりも大切や』思われとるっちゅうわけや。自信持ちぃや」


 そんな、励ましなんだかふざけているんだか分からない微妙なことを言う。

『おっぱいより大切』と言われて喜ぶようなヤツがどこに……


「ボクたち、実は凄く大切に思われてたんだね!?」

「……ヤシロにとってのおっぱい以上とは」

「国宝級扱いです!」


 その場にいた全員が、物凄く嬉しそうな顔をしていた。

 …………あれぇ?


 なんだか妙に盛り上がる一同。

 そんな空元気にも思える賑やかな声に紛れるように、肩に手を置いた緑髪の少女がぽそっと、俺に耳打ちしてきた。


「よぅ見ときや。自分が、どれだけ大切にされてるか…………」


 目に映るのは、俺を心配してくれている者たちの、いまだ不安そうな顔。

 無理して笑ってみせても、ぎこちなさの取れない不器用な笑顔。


「自分の記憶は自分のもんやけどな、……思い出は、一人だけのもんやないんやからな」


 ぽんっ、と肩を叩かれ、緑髪の少女が俺のもとを離れていく。


「ほなら、みんなはそれぞれの仕事に戻りぃ。下手に画策したり、無理矢理記憶を掘り起こすようなことは考えんと、普段通りに過ごすこと。いつもの風景っちゅうんは、記憶を取り戻すのに一番効果があるんや。『懐かしいなぁ』っちゅう感情は、『それを忘れたくない』って思いの表れやからな」


 そう言って、食堂のドアを開ける。


「ほなら、あんじょうがんばりや」


 最後に一度、俺へと視線を向けて緑髪の少女は食堂を出ていった。

『あんじょう』ってのは確か、『いい感じに』みたいな意味だったかな。


「……私も、ニワトリの卵、採らなきゃ」

「あたしも。帰って、魔獣のソーセージ仕込まなきゃ」

「あたいは…………うぅ……」

「ほらほら、あんたも帰って漁に出るさよ。ヤシロを信じてやるんさよ」


 そんなことを言いながら、一人、また一人と食堂を後にする。


 全員が、帰り間際に俺へ視線を向けてドアから出ていく。


 そして、最終的にこの場に残った陽だまり亭の三人も……


「では、開店準備を始めましょう」

「……うむ。下ごしらえを手伝う」

「なら、あたしは掃除をするです!」


 それぞれの仕事にかかる。


「ヤシロさんは、今日はお休みしてください。あ、もちろん、働きたい時に働いてくださって構いませんので、好きなように行動してくださいね」


 店長が俺へ向ける笑顔は、とても柔らかくて…………


「じゃあ、ちょっと頭をスッキリさせるために、散歩に行ってくるわ」

「はい。まだ暗いですから、お気を付けて」



 ……忘れちゃいけないって、はっきりと思わせてくれた。

 俺は行動しなければ……



 こいつらのことを、誰一人として――


 俺は、忘れたくなんかない。そう確信していた。




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