後日譚50 明日からも

 結婚式の翌日。

 俺たちは朝から後片付けに追われていた。

 キャパ以上の客を迎え入れた陽だまり亭。

 並びに、大通りではずっと出店が出ていたのだ。あっちもこっちもお祭り騒ぎで、夜の花火でテンションはマックス。街は結構酷い状態になっていた。


「洗い物、終わったデスヨ!」

「こっちも、ゴミはまとめ終わったダゾ!」


 シラハの護衛を兼ねて四十二区へ来ていたニッカとカールも、陽だまり亭の後片付けを手伝ってくれていた。

 ロレッタ率いるハムっ子たちは、教会の片付けに派遣してしまったので、正直助かった。


「そういや、昨日ってシラハも出席してたんだよな?」

「何言ってるデスカ? このあたりのテーブルに座ってたデスヨ! ちゃんと覚えておくデス!」

「ムチャ言うなよ。昨日はこっちもいっぱいいっぱいだったんだからよ。いちいち覚えてられねぇよ」


 シラハは、ルシアたちと同じテーブルに座っていたようだ。

 当然、オルキオも。


「結局、オルキオが三十五区へ行くことになったんだってな」

「そうデス。もともと、オルキオ様も三十五区のご出身デスカラ、それが妥当だと判断されたようデス」


 そうなると、ジネットが少し寂しがりそうだが……まぁ、ちょくちょく遊びに来ると言っていたし、きっと大丈夫だろう。


 そうそう。ニッカたちは、オルキオに敬語を使うようになっていた。

 シラハの屋敷でオルキオも一緒に暮らすことになったわけで、今後何かと接点も増えるだろうが、こいつらが過去は過去と割りきっているのなら問題は起こらないだろう。

 なにせこいつらは、バカがつくほど素直で真っ直ぐだからな。


「これからは、オルキオの面倒も見てやってくれよ。シラハのついででいいからよ」

「それは無理デスネ」


 あっさりと、そしてきっぱりと拒否された。

 あれ? まだしこりでも残ってるのか?


「ワタシは、海漁ギルドに入るデスから、シラハ様のお世話はもう出来ないデスネ」

「はぁ!?」


 海漁ギルドだと?


「昨日の鯛のカルパッチョ……あんな美味しいもの、初めて食べたデス! その材料の魚を、是非この手で捕ってみたいと思ったデスヨ!」


 聞けば、その場でマーシャに直談判したらしい。

 海に興味を持ち、熱い意志を真っ直ぐに向けるニッカを見たら、マーシャなら二つ返事でOKしそうだ。


「じゃあ、カールも海漁ギルドに入るのか?」

「俺は入らないダゾ」

「いや、でもいいのか? ……会えなくなるぞ?」


 こっそりと、耳打ちで忠告だけはしておいてやる。

 海漁ギルドは遠海まで漁に出ることがある。一ヶ月近く海の上で過ごすことだってあるのだ。当然そうなればニッカには会えなくなる。

 カールにそんな生活が耐えられるとも思えないんだが……


「俺は引っ越しギルドに入って、花火師になるんダゾ!」

「とりあえず、ツッコミたいところだらけなんだが……どういうわけか、この街ではそれが正しいんだよな」


 花火師になりたければ引っ越しギルドへ!

 そんな常識が出来上がっちまった。

 カブリエルが言うには、昨日の今日でギルドに入りたいってヤツが殺到したらしい。

 それほど、あの花火はインパクトがデカかったってことだな。


「それに、会えなくても平気ダゾ」

「強がんなよ、お前。どうせすぐ心配になって……」

「俺はニッカを信じるダゾ。結婚の約束もしたから、それは当然ダゾ」

「ふぁっ!?」


 こいつ、今、なんて言った!?

 結婚!?

 花園にも誘えなかったヘタレが、結婚!?


「カタクチイワシは知らないだろうデスケド……カールは、その……ずっと前からワタシのことが好きだったデスヨ……ぽっ」

「いや、知ってたけど……お前、よく思いきれたなぁ」


 付き合ってくださいを一足飛びで結婚してくださいとは……


「「昨日の結婚式を見たら、なんかいいなって思ったダゾ」デスヨ」

「お前ら、感化されやす過ぎるだろ!?」


 大丈夫か、こいつらの将来!?


「それじゃあ、ワタシたちはそろそろシラハ様のところへ戻るデスネ」

「カタクチイワシも、さっさと落ち着くとこに落ち着かなきゃダメダゾ」


 俺の肩にパンチを食らわせて、カールたちは陽だまり亭を出ていった。


 く……カールのヤツめ、偉っそうに。

 この前までは俺のサポートがないと二人で出掛けることも出来なかった分際で!


「ヤシロさん」

「ポォーウッ!?」


 カールたちの出ていった出入り口を睨んでいると、突然背後からジネットに声を掛けられてジャクソン的な声を上げてしまった。

 な、なんてタイミングで現れるんだ、お前は……


「あ、あの……わたし、何か悪いことをしましたか?」

「あぁ、いや。なんでもない。……悪いのはカールだ。全面的にな」

「カールさんが?」


 小首を傾げるジネット。

 あぁもう! そういう動きとか、もう!


「そ、それで、なんだ? ムーンウォークでも教えてほしいのか?」

「むーんうぉーく?」

「いや、なんでもない。気にしないでくれ」


 通じるわけないか。

 見せてやるとビックリするだろうけどな。


「では、それはまた後日お願いするとして」


 お願いされちゃったよ……今でも出来るかな? 中学生の頃にふざけてよくやってはいたんだが…………あとでちょっと練習しとこう。


「わたし、これからシスターのところへ行ってこうようと思いまして」

「教会に?」


 向こうにはロレッタたちがいるから手伝いは不要だと思うんだが。


「陽だまり亭の片付けがあらかた終わりましたので、教会で頑張ってくださったみなさんのために夕飯などをご用意しようかと思うんです」


 まだ働くの、この人!?


「ジネット。お前も少しは休んだらどうだ?」

「はい。息抜きにお料理をさせてもらおうかと思います」


 息抜けてるのかなぁ、それ!?


「ですので、ヤシロさんとマグダさんはお部屋でゆっくりなさっていて構いませんよ。床掃除とかは、明日の朝、わたしがやっておきますので」


 いやいやいや……


「マグダぁ」

「……分かっている。店長のサポートはマグダの仕事。食材の運搬及び調理の補助を行う」

「んじゃ、俺が床とテーブル掃除しとくわ。それで完了だな?」

「……概ね。あとは、明日の下ごしらえを残すのみ」

「…………無くならないもんなんだな、仕事って」

「あの、あのっ! お二人はゆっくりしていてくださいね? お疲れでしょうし」


 お前以上に疲れている人間は、そうそういないだろうよ。

 ……むしろ、ジネットは疲れているというより『憑かれている』んじゃないのか? ブラック企業でこき使われている社員たちの怨念とかに。


「では、それが終わったらご飯を食べに来てくださいね。元気の出るものを作っておきますから」

「そりゃ楽しみだ」


 ジネットの無自覚社畜っぷりには乾いた笑いしか出ないな、もはや。


「もし、お客さんがいらした場合は、申し訳ないですけれど、教会へ来ていただけるよう伝言をお願いしますね」

「店を休む気すらないのか、お前は……」


 今日は街中が後片付けに終始しているというのに。

 四十二区だけじゃないぞ。三十五区まですべての区でだぞ。

 ……休めよ、たまには。思いっきり。昼まで寝るとかさぁ。


「……マーシャが言っていた。サメという海の生き物は、泳ぐのをやめると……死ぬと」

「それと同じ括りに入れんじゃねぇよ、ジネットを」


 限りなく近しいものはあるけどな。


 あ~ぁ、だな。


 時刻は昼をとうに過ぎて……っと、もうそろそろ16時か。思ってたよりも経ってたな。

 今から数十人分の飯を作ったとして、ありつけるのは18時頃か。


「じゃあ、ノーマとかデリアも呼んで、昨日の慰労会も含んじまおう」

「はい。それはいい考えですね」

「……では、マグダとロレッタで招待客を厳選し、招集をかけておく」

「ん。よろしくな」


 そうして、ジネットとマグダは荷車いっぱいの食材を持って教会へと向かった。

 陽だまり亭には俺だけが残される。

 静かなもんだ。

 昨日の騒動が嘘みたいだな。……この街に限って、嘘なんてことはないんだろうが。


 がらーんとした店内を見渡す。

 昨日は、奥の壁際にセロンとウェンディが座っていたんだよな。


「結婚……か」

「なんだ。結婚に興味があるのか、カタクチイワシ」

「パォーン!?」


 いつの間にか、店の中にルシアがいた。

 け、気配を殺すな! 思わずゾウみたいな声が出ちまったじゃねぇか。


「ねぇ、ヤシロ」


 ドアの向こうから顔を覗かせるエステラ。

 庭に視線を向けている。


「屋台がないけど、またどこかで商売をしているのかい?」

「あぁ。それなら教会だ。関係者の慰労会をやるって、ジネットが大張りきりでな」

「ジネットちゃん……タフだよね」


 エステラもここ数日……いや、なんだかんだで一ヶ月以上も走り回っていた口だ。

 さすがに疲れが溜まっているのだろう。浮かべる笑みは見事に引き攣っていた。


「お前も食いに来いよ。ナタリアと一緒に」

「そうさせてもらうよ。まだ仕事が残ってるから、それが済んだらね」


 仕事が残っているのに、エステラがここに来る理由なんてのは一つしかない。

 ジネットの料理を食いに来たのだろう。


「残念だったな。タッチの差でジネットは出てったぞ」

「え? あ、違う違う。ジネットちゃんに会いに来たんじゃないんだ」

「なんだ、違うのか?」

「君に用があったんだよ。――ルシアさんがね」


 俺に? ルシアが?


 視線を向けると、ルシアが一歩、俺へと近付いてきた。

 ……なんか、迫力あるよな。真正面から、こう至近距離で見ると。


「一先ずは、礼を言わせてもらう」

「……へ?」

「貴様の…………いや、そなたの働きは評価するに十分値する大きなものであった。これは一面上の事実であり、否定のしようもない」


 な、なんだ?

 ルシアが俺を褒めている?


「ど、どうしたルシア……重い病気にでもかかったのか?」

「そういうところがあるので、貴様自身を評価することは保留して、今回の働き『のみ』を評価しているのだ。察しろ、下郎が」

「暴言のバリエーション豊富だな、お前は」


 初めて言われたわ『下郎』。


 しかし、なんでかな、こんな会話で落ち着いてしまう俺がいる。


「見事であったぞ。大通りのパレードもしかり、長らくくすぶっていたかつてのしこりを取り払ってみせたこともな」

「俺だけの功績じゃねぇよ。そもそも、連中の気質が五割のお人好しと三割の好奇心と二割の単純さで出来ているから出来たことだ。褒めるなら自分の区の住民を褒めてやれよ」

「ふふん。貴様にしては随分と殊勝ではないか」

「お前に褒められてるとな、何か裏があるんじゃないかと思えて仕方ないんだよ」


 結局『貴様』に落ち着いた二人称。

 ルシアが不敵な……しかし嬉しそうな笑みを俺に向けている。


 あ……そうか。

 今日が終われば、もうこいつと会う理由が無くなるのか。

 少なくとも、こうやって意味もなく立ち話をする機会はグッと減るだろう。

 二度とないかもしれない。


 なにせ、ルシアは三十五区の領主なのだ。

 俺みたいな四十二区の一般人と会う理由も、割ける時間もないのだ。


「そう、寂しそうな顔をするな、カタクチイワシよ」

「どっちがだよ」


 ふん……と、鼻を鳴らすルシア。

 お前も寂しいんだろ? 俺みたいにずけずけと物を言ってくれるヤツは、お前のそばにはいないだろうからな。


「一つ、貴様に素晴らしい提案をしてやろう」


 得意満面で、ルシアが両腕を広げる。

 何を言う気か知らんが、そのドヤ顔…………恩着せがましさがすでに滲み出してるぞ。


「貴様が望むのであれば、私の家の養子にしてやっても構わんぞ?」

「「はぁっ!?」」


 思いのほか甲高い声が漏れてしまった。

 そして、俺の隣で同じように甲高い声を上げたのはエステラだ。


「あ、あの、ルシアさんっ、そ、それって……む、婿養子って、こと……ですか?」

「それは宣戦布告か、エステラよ?」


 おいこら。

 俺との結婚をほのめかすのは宣戦布告なのかよ?


「私はコレと決めた相手としか、そのような関係になるつもりはない。だが……」


 ルシアの目が俺を見る。

 謎の生物を偶然発見したマッドサイエンティストのような目だ。


「この男は非常に面白い。実に興味深い。観察してみるのも悪くないと思えるほどにな」


 それは、おそらく褒め言葉なのだろう。

 真っ平御免だが。


「だから、そうだな……私の弟にしてやってもいいぞ。姉を敬い、下僕のように尽くす栄誉をくれてやってもいいぞ?」

「熨斗つけて顔面に叩き返してやるよ」


 誰が下僕だ。


「そうか。不満か……」


 そこで、ルシアの顔がニヤリと歪んだ。

 これまで見せた中で、一番意地の悪い笑みだ。


「私の弟ということは貴族になるということだぞ?」

「他の男なら、それで喜ぶのかもしれんが、あいにく俺は貴族に興味がなくてな。なりたいとも思わねぇんだよ」

「そうか? もし貴族になれば……」


 そうして、とんでもない言葉を口にする。


「……家柄も釣り合うから、エステラを嫁にすることも可能だぞ」

「「ぷひょっ!?」」


 またまた変な音が出た、俺の鼻とエステラの口から。


「なっ、なな、なに、言ってるんですか、ルシアさんっ!?」

「なんだエステラ。カタクチイワシでは不満か?」

「ふ、不満とか……そういうわけじゃ…………じゃなくて! どうしていきなりそんな話になるんですか!?」

「なぁに、単純なことだ」


 ここでルシアは、なんとも貴族らしい表情を見せる。


「四十二区と懇意にしておくことが、今後三十五区にとってプラスになると感じた。特に、エステラ。そなたと、このカタクチイワシの二人とはな」

「そ、そうだとしても…………そんな、強引な……」


 俺がルシアの弟となりエステラと結婚すれば、ルシアが望む二人との縁が出来上がる。

 って、ことなんだろうが…………突拍子もない案だな、おい。


「それに、カタクチイワシがウチに来れば、ギルベルタも喜ぶだろうしな」


 そういえば、ギルベルタの姿が見えない。

 ルシアのそばを離れてどこに行ったんだ……と思った矢先、ルシアが庭に向かって声をかける。


「入ってくるのだ、ギルベルタ」

「了解した、私は」


 そうして、陽だまり亭に入ってきたギルベルタは、ふわふわとした可愛らしいドレスを身に纏っていた。


「貴様に見せたかったのだそうだ。昨日は給仕の仕事で、ドレスは着られなかったからな」

「変ではないか、私のドレスは?」


 少しだけ怯えたような表情で、ギルベルタが尋ねてくる。

 こいつは……本当に。


「ギルベルタ。そういう時は『似合うか?』と聞くもんだよ」

「そう、なのか? 分かった、私は、言う通りにする、友達のヤシロの」


 そうして、言い慣れていない感満載で改めて尋ねてくる。


「に、似合うか……私の、ドレスは?」

「あぁ。よく似合っている。可愛いぞ」

「あはっ!」


 小さくガッツポーズをして、くるりとその場で回転をする。

 ふわりとスカートが舞い、小柄なギルベルタがダンスをする妖精のように見えた。


「養子になる気になれば、いつだって申し出るがいい。ギルベルタはやらんが、鑑賞する権利くらいは分け与えてやる」

「そりゃ、極上の特権だな」

「だろう?」


 ニヤリと笑ってルシアはチラリとエステラの方へと視線を向けた。


「ぁう……っ」


 そんな声が聞こえたが、どんな顔をしているかまでは分からない。

 意地でも振り返ってはやらないつもりだ。

 ……そんな顔見せられたら、変に意識しちまうからな。


「エステラも、何か相談があれば、いつでも話しに来るがいい」

「も、もう! ルシアさんからかっているでしょう!?」

「ふふっ。よいではないか。そなたは、私に初めて出来た気の置けない友人なのだから」


 へぇ。

 ルシアがそんなことを言うとはな。

 エステラも、外交が上手くなったもんだな。

 もっとも、暴走するルシアにツッコミを入れ続けたってだけかもしれんがな。


「ルシア、ギルベルタ。お前らも飯を食っていくか?」


 教会でのディナーに誘ってみるが、ルシアは静かに首を振った。


「そうしたいのは山々なのだが、三十五区をこれ以上留守には出来ん。今日中には戻りたいのだ」


 夕飯を食えば、もう一泊することになる。

 四十二区と三十五区は、オールブルームの外周区の対角線上にあるのだ。

 今から出ても、到着は夜中になるだろう。


「安心してほしい、友達のヤシロ。また必ず会いに来る、私とルシア様は」

「うむ。ジネットの作る食事は美味いからな。必ず食べに来ると約束しよう」

「じゃあ、そう伝えておくよ」


 随分と濃い時間を共有してきた気がしたのだが……別れ際というのはあっさりとしたものだ。


 ルシアとギルベルタは軽く目礼だけを残して陽だまり亭を出ていってしまった。

 庭に馬車が停まっていたらしい。蹄の音が遠ざかっていく。


「真に……、受けないようにね」


 隣で、あさっての方向を向いたままエステラが言う。

 …………分かってるよ。


「ボクは別に、家柄とかは気にしないんだ。両親もそれでいいと言ってくれているし……」


 言い訳のようなことを語り出すエステラ。なのだが……それって、言い訳になってないんじゃないか?

 まぁ、深くは追及しないけどな。


「それに……」


 まだ言い訳が足りないのか、エステラはさらに言葉を重ねる。

 ただそれは、どことなく不機嫌そうな色味を含んだ声だった。


「……ヤシロは、貴族にはなりたいとも思ってないんだもんね」


 ……なんだろう、この棘のある言い方。

 それはお前、ほら、ルシアを煙に巻くためというか…………あぁ、もう。


「エステラ」


 俺は限りなくニュートラルに近い声を意識して発声する。


「飯、食いに行こうぜ」


 この話は保留だ。

 まだまだ結婚なんて早いさ。……俺らは、全員な。


「……うん。そうだね」


 ほんの一瞬だけ考えて、エステラも俺と同じ答えにたどり着いたはずだ。

 今ここでこねくり返して得になることなど何もない。

 今はただ、過ぎ去ったイベントの後片付けをして、それすら終えた後に待っている打ち上げを心待ちにする。それだけで十分だ。


「さぁ~あ! これでボクも、ようやく一息つけるよ。ゆっくりジネットちゃんと話がしたいや」

「それじゃあ俺はその隣で、お前らの会話を邪魔しないように細心の注意を払いつつ、この世の格差と不条理について黙考するとしよう」

「ははっ、二分に一回刺すけど、いい?」


 こんな時にまで懐にナイフを忍ばせているのか、お前は。

 物騒なヤツだなぁ。

 とか言う俺も、いざという時のために袖口にナイフを隠したりしてるわけだが……いつまで持っとくかな。この平和な街で。


「行こう。ヤシロ」

「おう」


 俺へと振り返り、俺の名を呼ぶエステラは、いつもの爽やかな顔をしていて、なんだかほっとした。





 教会での夕飯は、まさに戦場だった。


「あたしの方がいっぱい食べられるです!」

「あたいの方がすげぇよ!」

「あたしは大食い大会出場選手ですよ!?」

「あたいもだ!」


 大会で共に一敗を喫した二人が、くだらないことでいがみ合っている。

 聞けば、「どっちがたくさんたこ焼きを食べられるか」という勝負らしい。


 ……アホらしい。


 お前らがどんなに頑張ったところで、ベルティーナがナンバーワンになるのは目に見えてるんだから。

 無駄な争いは消耗するだけだぞ。


「「たこ焼きやきたいー!」」

「……残念ながら、この仕事は厳しい実技試験を受けて初めて免許皆伝になるもの。やすやすと譲るわけにはいかない」


 なんだかもう、たこ焼きの大食い大会は開催決定らしく、マグダがたこ焼き職人としての闘志を燃やしていた。

 妹たちは、おねだりするようにマグダの周りにまとわりついている。

 商品じゃないからやらせてやってもいいんじゃないか?

 失敗したやつはウーマロに食わせればいいんだし。


「勝負方法は簡単です! たこ焼きを多く食べた方が勝ちです!」

「おう! 熱かったからとか、あとで言い訳すんじゃねぇぞ!」

「こっちのセリフです!」

「こっちの…………『熱かった』って言い訳がロレッタのセリフってことは…………熱かったからとか、あとで言い訳すんじゃねぇぞ!」

「アレ!? 状況が変わってないですよ、デリアさん!?」

「ん?」


 ……大丈夫なのかな、こいつら。


「では、たこ焼き大食い大会! 勝者には、お兄ちゃんと一日デート出来る権利をプレゼントです!」


 ってコラ待て、ロレッタ。

 お前は何を勝手に……


「やったぁ! あたい、超頑張るっ!」


 ……あ~あ。デリアに「さっきのは冗談」とか、通じないぞ。

 デリア、そういうのすっごいヘコむんだからな…………ったく、しょうがねぇな。


「分かった。じゃあ、一日どこかに連れてってやるよ」

「やったです! 本人の許可が出たです!」

「俄然やる気が出てきたさね……」

「ボ、ボクも、ちょっと興味あるかもなぁ……い、いや! たこ焼きに、だよ! いっぱい食べてみたかったんだ、前から! ホントだよ!?」


 なんだか、ノーマとエステラも参戦するようだ。


「ぅう……みりぃ、そんなに食べられないし……でも、参加だけはしてみようかな」

「お家デートも可、やったら、ウチも出ようかな」

「「「「お家デート!? なんかいいなぁ、それ!?」」」」


 物凄い食い付いたな。

 つか、ミリィとレジーナも参加するのかよ。


「私は、家では全裸なのですが、その場合は……」

「おーいみんなぁー、ナタリアもう帰りたいってー!」

「冗談です! ちゃんと服は着ておきます! ですから参加権をください!」


 最近飛ばしまくりのナタリアには、熱ぅ~いお灸が必要かもな。

 まぁとにかく、これで参加者は出揃ったかな……


「……妹たち。あなたたちはもう一人前。きっと素晴らしいたこ焼きが作れるはず」

「って、こら。お前も参加する気か、マグダ」

「……浮ついた者たちに、たこ焼きの真髄を見せつけるには、マグダ自身が参加することこそが相応しいと判断した結果」

「へぇ、そうかい」

「……ちなみに、お家デートの際は日向ぼっこを所望」

「勝てたらな」


 マグダの目がキラキラしている。

 こいつの表情も、随分読み取れるようになってきたな。


「あらあら。面白そうですね。では、私も……」

「「「「「シスターはダメ!」」」」」

「えぇ……なぜでしょう?」


 いやぁ……なぜかって…………プロ、だからじゃないか?

 参加者が満場一致で拒否権を発動した。 ベルティーナの参加は無理だろう。


「あ、あの! わたしも、参加したいです!」

「えっ!? ジネットちゃんが!?」

「店長さんがこういうのに参加するのって、珍しいです!」

「……ダークホース」


 ジネットの参加表明に、そこにいた全員が目を丸くした。

 あまりこういうのには参加しないジネットなのだが、結婚式や祭りの雰囲気にでも当てられたのだろうか。


「わたしが勝ったら、ヤシロさんとお人形遊びがしたいです!」


 なんだとっ!?


「一日中、ずっとです!」

「俺も参加する!」

「お兄ちゃんまで!?」


 当たり前だろう、ロレッタよ。……お人形遊びに一日付き合わされて堪るか。


「……ヤシロが優勝すれば、ヤシロはヤシロの部屋で丸一日……」

「ただの引きこもりじゃないのかい、それって!? レジーナの日常じゃないか」

「失敬な領主はんやなぁ……まぁ、否定こそ、せぇへんけども!」


 誰がレジーナレベルだ。

 こうなったら意地でも優勝して、お前らの目論見をことごとく潰してやる!


「ヤシロさん……私の参加を認めてくだされば、ジネットの目論見は露と消えますよ?」

「ベルティーナが勝ったら一日中飯作らされるんだろ? ヤだよ、そんな高カロリーな休日」


 お前はお前で、勝負には参加せず、勝手にもりもり食ってろ。

 妹たちなら、文句も言わずに焼き続けてくれるだろうよ。


「「「「それじゃー、どんどん焼くよー!」」」」


 妹の声に俺たちの表情が引きしまる。

 ルールは簡単。

 一個ずつ順番に食っていき、食えなくなったら脱落。

 最後まで残っていたヤツが優勝だ。


 自分のペースで食い続けられる大食いとは異なり、食った後の待機時間が満腹を誘う、恐ろしいルールだ!


「さぁ、大食い《ゲーム》を始めようか」


 こうして始まったたこ焼きロワイヤルは……二時間の死闘の末、ノーマが優勝を勝ち取った。

 いやぁ、あまりに地味過ぎて語ることがないのだが……とりあえずしばらくたこ焼きは見たくない。


 そうだな……、ノーマの家に行くなら何か美味いもんでも食わせてもらおうかな。


「おにーちゃん、粉なくなったー」

「シスター、まだ食べたいってー」

「小麦畑にでも叩き込んでおけよ、もう!」


 ベルティーナなら、粉になってなくても美味しくいただけることだろう。


 折角ジネットがあれこれと作ってくれたのに、胃袋のほとんどを小麦粉とタコが占領している。……何やってんだかなぁ、ホント。


 その後、長い長い食休みを経て、俺たちは各々の帰るべき場所へと帰っていった。


 俺はもちろん――陽だまり亭にだ。





「マグダさん、寝ちゃいました」


 夜になり、陽だまり亭には静けさが戻っていた。

 なんだか久しぶりに感じるな、この空気感。


 俺は今、食堂のテーブルに着き、ジネットと差し向かいでコーヒーを飲んでいる。


 陽だまり亭に戻ってすぐ、ジネットに誘われたのだ。

「一緒にコーヒーを飲みませんか」と。

 夕飯で腹いっぱいになった気がしたのだが、たこ焼きしか食ってなかったせいか、今になって妙に小腹が空いていた。

 ジネットが軽く何かを作ってくれるというので、俺は一度部屋に戻った後で食堂へ降りてきたのだった。


 ジネットはジネットで、昨日今日と何かと走り回っていたマグダを部屋まで運んでいたらしい。

 俺といた時は「……まだ平気」とか言ってたんだが、そのすぐ後に電池が切れたのだろう。

 言ってくれりゃ俺が部屋まで運んだのに。


 そうして、現在は広い食堂で二人きりだ。

 なんでかな。席はたくさんあるのに、いつも一番奥の、この隅っこの席に座ってしまうのは。

 貧乏性なんだろうな、俺もジネットも。


「凄かったですね」


 ほぅ……っと、コーヒーを飲んで一息ついて、最初の言葉がそれだった。

 今日のジネットのコーヒーにはミルクがたっぷりと注がれている。

 疲れてるんだろうな。

 それとも、胃を労わろうとしてんのか。


「まさか、ノーマにあれだけの根性があるとはな」

「へ?」

「今回みたいなチキンレース形式だと、胃のキャパシティを根性が凌駕しちまうんだなぁ。正直、デリアが勝つと思ってたんだが、ノーマの食いっぷりには執念を見たよ」


 決勝はデリアとノーマの獣人族対決だったのだが、根競べとも言える戦いは駆け引きの上手さ分ノーマが有利だったのだろう。

 デリアが凄く悔しがっていた。


 ちなみに、最初にデリアと一騎打ちをしようと息巻いていたロレッタは、下から四番目だった。……なんて地味なポジションだ。

 順位は、ノーマ、デリア、マグダ、俺、ナタリア、エステラ、ロレッタ、ミリィ、ジネット、レジーナの順だった。

 関西弁故に、レジーナには期待したのだが、三つくらい食べて「もうおなかいっぱいやぁ」とあっさりリタイヤしやがった。

 根性見せろよ! 関西人としての誇りはないのかっ!?

 ……って、レジーナは別に関西人でもなんでもないんだけどな。


「ジネットも、名乗り出た割には大したことなかったな」

「あ、いえ……思ってたよりも、すぐお腹いっぱいになっちゃいまして。『こなもの』って、すぐにお腹が膨れちゃうんですね」

「その分、すぐに減るけどな」

「もっと作りましょうか?」

「いや、これで十分だよ」


 ジネットは、葉野菜の煮びたしと、焼き魚を出してくれていた。

 教会で作った夕飯の残り物だ。

 こいつをちまちまつつくくらいでちょうどいい。


「あ、それでその……そうではなくてですね」

「ん?」

「凄かったって言ったのは、結婚式のことなんです」

「あぁ、そっちな」


 確かに、そうそうたる顔ぶれで、かなりの人間を巻き込んで行われた大イベントだったもんな。

 今回は広報という意味合いが多く含まれていたためにこういう感じになったのだが、ど派手にぶちかましただけの成果はあったと言えるだろう。


「あれだけ多くの人が、同じものを見て感動を覚えるって……なかなか出来ないことですよね」

「まぁ、今回はその裏にある色んな感情を逆手に取ったからな。そうそう出来ることじゃないさ」


 人間と虫人族の悲恋……そんなものが生み出していたありもしない確執。

 この街の誕生以来、ずっとこびりついて剥がせなかった『劣等感』と『差別意識』。それは、誰もがなくしたいと思いつつも、誰も手を付けられなかった難題だった。

 だが、なくしたいと思っているヤツが大多数なら、『誰か』が行動を起こすのではなく『みんなで』やってしまえばいい。

 そうやって実現したのが、今回のバカ騒ぎだ。


 どうにかしたかった厄介なものを、どうにか出来るんじゃないかと思わせる、そんな大きなムーブメントに巻き込んで強引に意識を変えてしまう。


 その結果が、誰もが望んでいた方向へ進むってんなら、そりゃ盛り上がりもするさ。


「言葉だけじゃなくて、これで本当にこの街の人たちは『ひとつになれた』……そんな気がしました」

「これでもう、亜種とか亜系統なんていう言葉で作り出されていた『壁』もなくなるだろう」


『自分たちは亜系統だから……』なんて卑屈な考えはなくなり、『同じ街に住む、同じ人間だ』という意識が定着していけば、大昔の争いの最中に生まれてしまった不要な格差も失われていくだろう。


「ようやく、本当の意味で、虫人族たちはこの街の一員になれたのかもな。移住したのが先だ後だなんて、くだらない線引きはなくなって、な」

「はい。そう思います。そして……」


 ――と、ジネットが俺の手にそっと触れてきた。

 両手で包み込むように、俺の右手を優しく握る。


「『他所者』なんて、この街には一人だっていない……そう、確信出来ました」


 微かに、ジネットの指先が動く。

 ほんの少しだけ、勇気を振り絞る……そのための、小さな動作のように思えた。


「この街は、訪れるすべての人々を温かく迎え入れてくれる、そういう素晴らしい街ですから」


 こいつ……


 不意に、今回のあれやこれやの経緯が脳内で順に再生されていく。

 その中で、ジネットは普段見せないような積極性を幾度となく垣間見せていた。


 自分から名乗り出て他区へ行ったり、そこで外泊をしたり、積極的に見知らぬ者たちとコンタクトをとったり……


 それらの行動は、もしかしたら……



『この街に他所者なんていないんですよ』



 それを証明するためのものだったのかもしれない。

 たったそれだけのことを、口にすれば数秒とかからず言い切れてしまう程度のことを……言葉では伝えきれないほどの想いを伝えるために。


 俺が、他所者だなんて言ったから……



 バカだなぁ。

 いつまでも気にしてんじゃねぇよ。

 俺はちゃんと腹をくくって、ここの従業員になって、ここにいようって…………



「ジネット」

「はい」


 ……けれど、言葉にしないと伝わらないことも、きっとあるんだろうな。


「ありがとうな」

「…………はい」


 普段なら「いいえ」と言いそうな場面で、ジネットはしっかりと「はい」と言った。

 俺の感謝を、ちゃんと受け取ってくれたということだ。


 これで少しは軽減するのか。お前の不安が。

 そうでなければ、少しは増してくれるだろうか。

 お前が安心して過ごせる時間が。不安に駆られず、穏やかに眠れる夜が。



 なぁ、ジネット。

 俺はここにいてもいいんだよな?


 お前の大切な陽だまり亭に。


 爺さんや、ベルティーナ。ゼルマルたち古い常連客から、気心の知れた今の常連客。そんな連中との思い出がたくさん詰まったこの場所に、俺の席はあるんだよな?



 そんなことを聞こうとして、口に出すのはやめておいた。

 ジネットの手から伝わってくる温もりが、それにきちんと答えてくれている気がしたから。


 代わりに一言、こんなことを言っておく。


「ここ、俺の特等席にしよっと」


 一番奥の、いつも俺が座っている場所。

 なんだかんだ、ここが一番落ち着く。

 貧乏性向きの、ベストポジションだ。


 俺の言葉を聞いて、ジネットがくすりと笑う。


「もうとっくに、ですよ」


 くすくすと笑って、ゆっくりと手が離れていく。


 そうかい。

 もう、手を離しても消えてなくなりはしない――それくらいの信頼は勝ち取れたってことなんだな。



 あぁ、ちきしょう……

 胸の真ん中がぽかぽかしやがる。



 明日からはまた通常営業だ。

 この世界一穏やかなブラック企業である陽だまり亭は、連日連夜フル稼働なのだ。

 だから、夜は早めに眠らなければいけない。体がもたないからな。


 なのだが、今日だけはもう少し夜更かしをしたい気分だ。

 どうにも、眠れそうにないからな。


「ヤシロさん。コーヒー、もう一杯いかがですか?」


 どうやら、ジネットも同じ気持ちらしい。


「もらおうかな」

「はい。ありがとうございます」


 ありがとうってのは、「付き合ってくれて」か?

 そんくらい、いつだって、いくらでも、だ。

 嬉しそうに小走りで厨房へと向かう。そんな背中を見つめていると、ふと、ある言葉が脳裏をよぎった。



 ――結婚。



 ……………………はっ!?

 いやいやっ! 

 まぁ待て!

 そう焦るな!

 色々飛躍し過ぎだろう。


 まったく。

 セロンたちが結婚式をやったからって、それに当てられて先走るようなことがあれば、それはアレだ、ニッカやカールと同レベルということだ。そんなもん、俺のプライドが許さん。

 だからまぁ、その、なんだ…………一つの選択肢としては、…………まぁ、考慮の余地くらいはある……かも、しれない、的な? 精々その程度のもんだ。


 なんにせよ、こういうのはタイミングだ。

 時が来れば、おのずと行動に移すことになるだろう。

 いつの日か、その時が来れば、な。


「ヤシロさん。お待たせしました」

「もう来たの!?」

「へ…………? は、はい。コーヒー、です」

「あ…………あぁ、コーヒーね」


 くわっ!

 恥ずかしい!

 今すぐウーマロを叩き起こして八つ当たりしたい!


「うふふ。何か考え事ですか?」

「いや……俺のことは、今はいいから…………何か別の話をしてくれ」


 今ちょっと、恥ずかしくて全身がむずむずしてんだ。

 ちょっと空気を換えてくれ。


「別の話ですか……そうですねぇ…………」


 再び俺の向かいの席へ座り、ジネットがアゴに指を添える。

 考え事をする時の癖なのだろう、こいつはよくこのポーズをしている。


「あ、そういえば。セロンさんのプロポーズ、評判よかったみたいですよ」

「あぁ、みたいだな」


 そうなのだ。

 三十五区の花園で見せた、ウェンディの両親への言葉や、結婚式でのプロポーズが、女子たちの間で、凄まじい勢いで広がっていったのだ。

 昨日の今日だってのに、街はその話でもちきりだった。


「プロポーズされるなら、『セロンさん調』がいい、なんて噂されてるって、エステラさんから聞きました」

「でかした、セロン!」

「ふぇえっ!? ど、どうされたんですか、急に?」


 驚かしてすまん!

 だが仕方ないのだ!


 そう!

 そこなのだ!

 今回、俺がことのほか結婚式に力を注いでいた理由は!


 人は、大きな感動を覚えると、その時間を心に刻む。

 その時の景色や香り、感じたもののすべてと一緒に、記憶の中に大切にしまい込むのだ。


 だからこそ、今回のようなシーンで感動的なプロポーズの言葉が誕生するとだな……



『ヤシロ調』なんていうふざけたプロポーズの言葉なんか、一瞬で上書きされると踏んでいたのだ。



 何がなんでも消し去りたかった!

 俺が言ってもいない、『俺っぽいプロポーズの言葉』なんてものを!


 目標達成!

 今回もまた俺は大勝利を収めたと言えるだろう!


 巷では、『セロン調』のプロポーズと、『オルキオ調』のプロポーズ。この二大勢力が話題を掻っ攫っているのだ。

『ヤシロ調』の『ヤ』の字もない! どうだ! まいったか! ザマァみろ!

 今後はセロンあたりが、『セロン調でプロポーズしました!』とか言われて悶絶すればいいのだ。


 ふっはっはっ!

 勝利の余韻に浸って飲むコーヒーの美味いことよ。

 俺は芳醇な香りを肺いっぱいに吸い込んで、苦めのコーヒーを口に含んだ。


「でも、わたしは……やっぱり『ヤシロさん調』がいいです。プロポーズされるなら」

「ぼふぅっ!」


 ――そして、含んだコーヒーを全部噴き出した。


「ヤ、ヤシロさん!? 大丈夫ですか!?」

「ごほっ! ゴフッ!」


 ジネット、お前…………深い意味がないにしても、今の発言はちょっとダメだろう。

 それじゃまるで――


 遠回しなプロポーズの催促みたいじゃねぇか。


 まったく、この迂闊な店長は…………


「あっ! そうです!」


 ぽんと手を叩き、ジネットがぱぁっと表情を輝かせる。

 そして――


「少し、待っていてくれますか? すぐ戻りますので」


 そう言って厨房へと駆けていく。

 足音が厨房を通り過ぎて中庭……階段を上がっていく……

 自室に戻ったようだ。


「………………はぁ~」


 なんだよもう。

 連日走り回ってクタクタだってのに、これ以上心臓を酷使したらストライキとか起こされちまうぞ。


 もうこの後は変な空気は避けて、穏やかに、心休まる感じにしよう。

 あと少しだけ話をして、部屋に戻って、ベッドで眠れば、また明日からいつも通りの陽だまり亭が開店するんだ。

 何も変わらない毎日がやって来るんだ。


「あ、あの……ヤシロさん」


 そう思っていたのだが……

 俺は思わず立ち上がり、息をのんだ。


「実は、ウェンディさんから、これをいただきまして……なんでも、ブーケをわたしにくださるつもりだったようなのですが、わたし取れませんで……それで、代わりにと……」


 俺の目の前にやって来たのは、非日常な……


「ベールだけ、なんですけれど…………」


 ウェディングドレスのベールを頭に被せたジネットだった。


「……あの…………どうでしょうか…………その……」


 恥ずかしそうに俯いて、胸の前で指先をもじもじと絡ませる。

 チラチラとこちらに向けられる上目遣いは、もう……反則級に可愛くて……


「…………似合い、ますか?」


 はい以外の選択肢が見つからなかった。

 つか、意表を突いてこれは……卑怯過ぎるだろう。


 心臓が深夜の大運動会を勝手に開催しているらしい。なんだか大はしゃぎをしている。


 この、脈打つ心臓を鎮めるためには…………


「…………へっ?」


 俺が腕を伸ばすと、ジネットが短い息を漏らす。

 構わずに、ジネットの顔にかかっているベールを両手でそっと掴む。

 それを捲り上げて頭の上へと載せる……と、真っ赤な顔をしたジネットの顔がすぐ近くにあって……目が合うと、呼吸を忘れてしまいそうな緊張感に包まれて…………


「ジネット」

「はっ…………はぃ」


 プロポーズをされるなら『ヤシロ調』がいいなんて言っていたこいつの言葉が脳裏をよぎって…………俺は――


「明日からも、頑張ろうな。陽だまり亭の仕事とか」

「………………へ?」


 そんな、どうでもいい言葉に逃げてしまった。


 だって!

 無理だって!

 ここでちょっとでもキザなことを口走ったら、俺の心臓スムージーみたいになって鼻の穴から「とろぉ~」って出てきちゃうぞ!? 出せる自信がある!


 だから、もう、寝よう!

 今日はなんかアレだ。ダメだ!

 きっと、セロンたちがここで甘々オーラ撒き散らしたせいだ。

 換気が足りてないんだ!


 だからもう、「なんかキザなことでも言うのかなぁ…………なんじゃそら!?」みたいな、軽い空気にして、今日は寝てしまおうぜ。な? お前もそう思うよな、ジネット?


 と、改めてジネットの顔を見ると……先ほどよりも赤く……深紅に染まっていた。


 …………ほゎい?


「ぁ…………あの…………っ」


 そうして、ジネットはわたわたと両手で頭を抱え、捲り上げられたベールを再び顔の前に垂らしてしまった。

 そのままこちらに背を向けて、音痴なインコみたいな声を上げる。


「は、はぃっ、それは、もちろんっ!」


 そして、油の切れたオートマタのようにぎこちない動きでゆっくり一歩俺から距離を取る。


 …………ほゎい?

 なぜ、かのじょはこんなにぽんこつになっているのですか?

 なぜ、つむじからゆげをたちのぼらせているのですか?


 そして、なぜ、俺の発した言葉にたった一言を追加して、こんなにも意味深にしてしまうのですか?


「明日からも、ずっと一緒に頑張りましょうね。陽だまり亭の仕事とか」


 ゼンマイの切れたからくり人形が最後に見せる暴走のような速さで、ジネットは厨房へと駆け込んでいった。


 残されたのは俺と、飲みかけのコーヒーと……


「明日からどんな顔して会えばいいんだよ……」


 そんな、答えの出ない難問だけだった。



 ただ、なんでだろうな。

 そんな感情すらどこか心地よく、落ち着くなどと感じてしまうあたり、俺は相当重症なのかもしれない。


 それは俺の居場所がここ――陽だまり亭であるのだと、自ら認めた何よりの証明であると、そんなことを実感したのだった。




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