追想編2 ベルティーナ

「シスター、お花に水やってくるねー!」

「こーら、あんたたち、『やってきます』でしょー!」

「今度からそー言うー!」

「こらぁ! 待ちなさぁーい!」


 子供たちは、今日も元気よく走り回っています。

 ここにいる子たちは本当にみんないい子ばかりで、純粋に、真っ直ぐに育ってくれています。

 彼ら、彼女らに励まされているのは、いつも私の方です。


「……いけませんね。こんな沈んだ顔をしていては、子供たちを不安がらせてしまいます」


 誰もいなくなった談話室で、自分で自分に言い聞かせます。


 …………ヤシロさんの記憶は、本当に戻るのでしょうか。


「シスター! おにぎりの、お差し入れー!」

「シスター、朝ご飯食べてないからー」


 ロレッタさんの弟さんが二人、私におにぎりを持ってきてくれました。

 この子たちは本当によく気の利く子で、前から教会にいた子供たちともすぐに仲良くなって。

 本当に優しく、明るくて、よく出来た子たちです。


「ありがとうございます。ですが……今は食べられそうにありません。よければ、二人で分けて食べてください」

「シスターからのもらいものやー!」

「得した気分やー!」


 そんなことを言って、一つのおにぎりを半分に分け、二人で仲良く頬張る。その様がなんとも可愛らしくて、私はまた、癒されるのでした。

 少し単純過ぎるきらいはあるものの、このまま真っ直ぐに育ってくれることを切に願います。


「では、私は礼拝堂にいますので、何かあったら呼んでくださいね」

「「はーい!」」

「みんなと遊んできてください」

「おまかせー!」

「そういうの得意ー!」


 元気よく飛び出していく二人の背中を見て、思わず頬が緩みました。

 ……けれど、またすぐに強張ってしまいます。

 まったく。私の心配性は、いつになったら治るのでしょうか。

 よくジネットにも呆れられてしまいます。「シスターは心配性過ぎです」と。

 ジネットも、人のことは言えないと思うのですが。


 礼拝堂に入ると、私は懺悔室に向かいました。

 そして…………「あと一度だけ」と、自分に誓いを立てて……


「…………はぁ」


 私はため息を落としました。

 どんなにため息を吐いても、胸の奥に溜まった重苦しい気持ちは出ていってはくれません。それが分かっているから、ため息は吐かないようにしているのですが……


「精霊神様……」


 私は、精霊神様の前で跪き、手を組んで祈りを捧げます。


 ですが、なんと祈ればいいのでしょうか。


 彼の記憶が戻りますように……

 それとも、彼が無理をして苦痛にあえいだりしませんように……でしょうか。


 記憶がなくなったらもう一回やり直しだと、レジーナさんはおっしゃいました。

 また一から、あの時と同じように、もう一度出会って、そして積み重ねていく――彼がいなくなるわけではないのですから、それならそれでいいのかもしれません。

 お人好しで、少しひねくれて意地悪な部分もありますが、親切心が服を着て歩いているような彼のことです。きっとまたすぐにあの優しい顔を見せてくれることでしょう。


 そして、記憶を取り戻すには体力がいる……とも、レジーナさんはおっしゃっていました。

 無理矢理記憶を呼び戻そうとして、気絶してしまったと……


 私は、彼にそんな負担をかけたくはありません。

 私に出来ることは…………


「どうか……彼の心が穏やかでありますように」


 心からの祈りを捧げることのみです。


「ぅはははーいっ!」


 不意に、表が賑やかになりました。

 子供たちが庭で騒いでいるようです。


 ジネットがいつも作りに来てくれる朝食は、ジネットの店の準備がある関係でいつも早朝になります。

 それに合わせて、子供たちは早寝早起きをしています。

 ですので、これくらいの時間でも、いつも元気いっぱいなんです。


 ですが、お日様がちゃんと顔を出すまでは、大声で走り回ったりということは極力避けるようにと、いつも言い聞かせています。

 朝はゆっくり眠りたいという方も、いらっしゃるでしょうから。


 子供たちも、その言いつけをいつもきちんと守り、日の出までは畑の水やりや、工作室で日用品の修繕などに時間を使っています。


 そんな子供たちが、こんなに大はしゃぎをするなんて久しぶり…………そう、あの日、彼が初めてここを訪れた時以来ではないでしょうか。


「……まさか」


 無意識に早まる鼓動を感じつつ、私は懺悔室を後にしました。

 玄関へ回り、庭へ出てみると……


「一人一回ずつだっつってんだろ!?」

「きゃははは! こわーい!」

「うぎゃあああ、こわーい! きゃっきゃっきゃっきゃっ!」


 ヤシロさんが、子供たちを両脇に抱えてグルグルと回っていました。

 ……あの日と、同じように。


「はぁ……はぁ…………お前ら、数は増えるわ、成長して重くなるわ……そのくせ柔らかさはまだまだ未熟だわ…………散々だなっ!」

「「ぅはーい! さんざんだってー!」」

「何に喜んでんのか分かんねぇよ!」


 子供たちを降ろして、肩で息をするヤシロさん。

 言葉は乱暴でも、そこに含まれているのは計りようもないほどの優しさ……


「はぁ~……もう疲れた。俺、もうオッサンなんだから手加減しろよな」

「「「「おっさーん!」」」」

「自分で言うのはいいけど、人に言われんのはムカつくんだよ!」

「「「「きゃー! 怒ったー」」」」

「「「「回してー!」」」」

「「「「グルングルンしてー!」」」」

「一人一回までだっつってんだろ! 並ぶなっ!」


 ……くすっ。


「ふふ…………うふふふ」


 不思議なものです。

 彼の……ヤシロさんの顔を見た途端、先ほどまで重くのしかかっていた不安な気持ちが一瞬で消えてしまいました。


 このままでもいい。

 ヤシロさんが、こんな風に穏やかな表情を見せてくれるのであれば……たとえ私のことを忘れてしまっても…………


「ちょっと、いいかな?」


 群がる子供たちを引き剥がして、ヤシロさんが私の前にやって来ました。

 そして、いつもの静かな視線を私に向けます。


 どんな時も、明け方の空のように物静かな雰囲気と、夕暮れの空のように物悲しい色が混在している、ヤシロさん独特の目……

 ヤシロさんは、いつも心の中に誰にも話さない思いを秘めている。……私にはそう思えるのです。

 その心の奥底を垣間見てみたい……そんな、はしたない思いが、ないとは……言えません。


 ですが、ヤシロさんの心はヤシロさんのもの。


 私は、そばにいてそっと見守るしか出来ません。

 ですので、質問の答えはいつも決まっています。


「はい。構いませんよ」


 私に出来ることは、なんだってします。

 してあげたいのです。


 子供たちから距離を取り、二人だけで話せる場所へ移動する――その間の無言も、今は妙に落ち着きます。


 不思議な方ですね。

 そこにいてくれるだけで安心出来てしまうなんて。


「実を言うと……」


 歩きながら、ヤシロさんは話し始めました。

 面と向かって話し始めるより、その方がスムーズだと考えたのでしょう。

 私は、流れるように、さり気なく視線を向けます。


「しばらくの間、――具体的にはこの種が開花するまでの間、どこかに身を隠しておこうかとも考えたんだ」


 一瞬、世界が暗転しました。

 それはほんの一瞬でしたが、鈍器で後頭部を殴られたような、そんな気分でした。


 ほんの一瞬の、私の微かな動揺を、ヤシロさんは敏感に察知したのでしょう。不意に口調が優しいものに変わりました。


「俺なら、きっと上手くやれると思ったんだ。全部を忘れた後で『忘れていないフリ』をして、もう一度最初からやり直すことが。俺は、嘘吐きだから」


 おそらく、ヤシロさんならそのくらいのことはやってのけるのでしょう。

 私やジネットにすら気付かせることなく……ですが、それは…………


「つらくは、ありませんか?」


 ずっと、人を騙し続けるというのは、おそらくですが……人間の心の許容量を超える負荷を背負うことになるのではないでしょうか。


 ヤシロさんにそのような業を背負わせるのは…………私は、嫌です。


「私は、ヤシロさんが思うように行動することを望みます。ですがただ一つだけ……」


 それは、わがままな願いかもしれません。

 そうと分かりつつも、言わずにはいられませんでした。


「もし、私のことを忘れてしまったら……正直に、そう言ってください。そこから、もう一度、二人の思い出を作っていきたいですから」


 そうとは知らずに、ヤシロさんを苦しめ続けるなんて、私はしたくありません。

 私の負うはずだった苦しみや寂しさを、ヤシロさんに肩代わりさせるなど……


「たぶん、みんな同じような気持ちなんだろうなぁ」


 不意に、ヤシロさんがそのようなことを言いました。

 思いもかけずに漏れてしまった……本音のような気がして……


「そうだと思いますよ」


 私はそう答えました。

 これは私の予想でしかないのですが、きっとみなさん、同じ気持ちだと思うのです。


「だって……みなさん、ヤシロさんのことが大好きですから。……もちろん、私も含めて」


 ヤシロさんが一人で苦しむようなことは、もう二度とあってはいけない。

 あの大食い大会の日に、私はそう思ったのです。


「うん。俺もそう思うんだよなぁ……みんな、同じことを考えてるんじゃないかって…………だからさ」

「……ぁ」


 その時見せたヤシロさんの瞳が、なんだかとても寂しそうで…………


「……俺との思い出って、なくなっても別にいいもんだったんじゃないかって思うんだよな。もう一回最初からやればいい……やり直しの利く程度のさ」


 ……激しく、後悔しました。

 そんなこと……


「そんなこと、ないですっ!」


 柄にもなく、そして、子供たちを導く保護者としては落第点をもらいそうな程、私は感情に任せて声を荒らげてしまいました。

 この焦燥感は、自分に対する苛立ちです。


 私は、なんと迂闊だったのでしょうか。


「やり直せばいい」などと考え、あまつさえそれを思わせるような言葉を口にするなど……周りの者がしていいことでは、ありませんでした。


「……すみません。声を、荒らげてしまいました…………申し訳ありません」


 二度目の謝罪は、迂闊な身を恥じてです。


「くくっ…………」

「……ぇ?」


 おのれの非礼を、無神経な言動を、どうお詫びすればよいかと悩んでいると、突然ヤシロさんが肩を震わせて笑い始めたではありませんか。

 私は何がなんだか分からずに、ぽか~んと口を開けるしかありませんでした。


「……悪い…………冗談だよ」

「じょう…………だん?」


 冗談とは、一体、なんのことでしょう?


「そんなこと、思ってねぇよ。記憶が混乱してるっつっても、思い出せないのは名前だけなんだ。これまで過ごしてきた時間を忘れちまったわけじゃない。だから……」

「――ひゅむっ!?」


 いきなり耳を摘ままれて、自分でもよく分からない声が漏れてしまいました。

 なんなのでしょう『ひゅむっ』って…………長く生きて随分と落ち着きを得たと思っていたのですが…………ヤシロさんといると、自分も知らないような自分を発見させられてしまいます。


「あ、あの……みだりに女性の耳をぷにぷにするのは…………その……」


 恥ずかしいのでやめていただきたいのですが…………でも、少しだけ、嬉しいような気も……あぁ、でも、こんなところを誰かに見られでもしたら…………


「おかしいな。俺の記憶では耳をもふもふしてやると『むふー』って喜んでたはずなんだが……」

「それは、マグ……別の方の記憶なのではないですか?」


 ヤシロさんは今、私たちの名前を思い出せずにいて、無理矢理思い出させようとすると苦痛を味わうと、レジーナさんがおっしゃっていました。

 他の方であっても、名前を出すのは控えましょう。


「う~ん……そうだったかなぁ~」

「ふふ……また、冗談ですね。ヤシロさん、分かっていてやっているでしょう?」

「バレたか?」

「分かります。……バレるようにやっていることも、分かりますよ」


 きっとヤシロさんは、私たち全員を騙しきることが出来るのでしょう。

 それだけの頭脳と度胸と、そして優しさを、この人は持っています。

 私たちのために、私たちを騙しきれる……それだけの力を。


 だからこそ、こんな見え透いた冗談は、わざと見え透いた風にしているのでしょう。

 ヤシロさんが好むおふざけです。


 概ね……


「実は一回ぷにぷにしてみたかったんだよな。この尖った耳」


 ……そんなことだろうと思いました。


「ダメですよ。女性の肌に触れたいなどという欲求を持ち、あまつさえ、それを無断で実行するなんて」

「精霊神様ごめんちゃ~い」

「……それは、懺悔のつもりですか?」

「ん? これで十分だろ?」


 まったく……あなたという人は。


 そんな無邪気な顔で言われたら……怒れないじゃないですか。


「さぁ、もう手を離してください。……耳が取れてしまいます」


 ヤシロさん相手になら、こんな『嘘』とも取れる冗談が言えます。

 貴重な存在です。


 ……本当は、照れで熱くなった耳を触られるのが、恥ずかしいだけなんですけれど。


「ヤシロさん。とんでもないわがままを言ってもいいでしょうか?」

「ウェディングケーキを独り占めしたいのか?」

「それも魅力的ですが、もっと別のことです」

「小脇に抱えてグルグル回ってほしいとか?」

「それは確か、大人は別料金……でしたっけ? うふふ。今ならお支払い出来るかもしれませんね。臨時収入がありましたので」


 結婚式前後のあれやこれやで、領主様より対価をいただいたのです。

 結婚式に伴う行為のすべては奉仕の心で行うため、お金は必要ないと申し出たのですが、ヤシロさんが「線引きは必要で、それがないと今後結婚式自体が破綻するから」と、「そう思うなら使わずに貯めて、子供たちへのご褒美にでも使ってやれ」と、おっしゃってくださったのです。

 それで私は、僭越ながら対価をいただきました。


 そして、ヤシロさんは最後にもう一言。

「そうはいっても、これはお前の金だから、好きなように使うのが正しい使い方だ」とも。


 なんともくすぐったいですね、「私のお金」などというものは。

 自由に使っていいと言われると、何に使っていいのか悩んでしまいます。


 そうなんですね。こういう時に使わせていただくのもいいかもしれませんね。


「ヤシロさん。お願いしてもいいですか?」

「ん?」

「グルグル回ってみたくなりました」

「おいおい……それは冗談で言ったつもりなんだが……」

「はい、分かっています。ですが、たった今、どうしても回ってみたくなったんです」

「あぁ……藪蛇だったか……」


 ヤシロさんが手で目を覆い、天を仰ぎました。

 この感じ。

 こういう態度を見せる時は、「しょうがないな」と言いながらもこちらの願いを叶えてくれる時です。

 ……どうしましょう。少しドキドキしてきました。

 子供たちのように大きな声が出てしまったらどうしましょうか?

 はしたなくは、ないでしょうか?


「しょうがねぇな」


 うふふ……ほら、やっぱり。


「んじゃ、一回20Rbになります」

「あら? 意外とお安かったんですね」

「初回限定価格だ。次からは500Rbもらう」

「まぁ、お得なんですね。では、是非ともお願いしませんと。うふふ」


 話せば話すほど、心が軽くなっていく……本当に、不思議な方ですね、ヤシロさんは。


「大人はさすがに小脇には抱えられないからな、後ろから抱き上げる形でもいいか?」

「えぇ、構いませんよ」


 向かい合って抱きしめられるのでなければ、きっと恥ずかしくはないはずですので。


「その際、不可抗力で仕方なく、抗うことは不可避となって、両乳を鷲掴みすることになるわけだが……」

「ヤシロさん。ちょうどさっき懺悔室があいたところなんですよ」


 にこりと笑うと、ヤシロさんの口が止まりました。

 そんなに怖い顔をしているつもりはないのですが、こうするとヤシロさんはいつも黙ります。

 そんなに、怖いのでしょうか?

 でも、ヤシロさんが悪いんですよ。


「じゃ、じゃあ、足を抱えて振り回すことにしよう。その際、遠心力でスカートが捲れ上がってパンツ丸出しになるが……」

「ヤシロさん」


 ヤシロさんの表情が一層引き攣りました。

 どうして、結果の見えていることを律儀なまでに行うのでしょう。

 エッチな話をしないと、寿命でも縮まるのでしょうか?


「じゃあ……これで、いいか?」


 そう言って、両腕をそっと広げるヤシロさん。

 ……あぁ、やっぱり、大人を振り回すとなるとしっかりと固定する必要があるのでしょうね。

 向かい合うように抱き合って、私はヤシロさんの首に腕を回し……ヤシロさんは私の腰に腕を回す…………ということなのでしょう。


 さっきのおふざけは、きっとヤシロさんもこの体勢が恥ずかしかったから、照れ隠しをしていたのでしょう。


 なら、安心です。

 恥ずかしいのは、私だけではなかったんですから。


「失礼します」

「ん……おう」


 少し緊張しますが、私はそっとヤシロさんの胸に体を添わせ、首に腕を回しました。

 ヤシロさんの腕が腰に回され、そっと抱き寄せられます。


 …………かなり、恥ずかしいですね。


「じゃあ、回すぞ」

「は、はい…………」


 耳元でヤシロさんの声がして……もう、顔を見ることは出来ません。

 首にしがみつき、身を固くしました。


 ――と。


「ふんっ!」

「ぇ…………きゃあっ!?」


 突然、私の体が宙に浮きました。

 いえ、「回すぞ」と言っていただいたので突然ではなかったのですが、これまでに体験したことのないような浮遊感と疾走感に私の理解が追いついていかないのです。


「きゃあ! ちょ…………ヤシ…………きゃぁぁあああっ!」


 足が持ち上がり、体が地面と水平になっているのではないかと思うような浮遊感に包まれ、油断すると吹き飛ばされそうな感覚に、思わずヤシロさんの首にしがみつく腕に力がこもりました。


 こ、怖いです。

 こんな怖いことを、子供たちはどうして何度もやってほしがるのでしょう?


「きゃあ! きゃぁああああっ! きゃぁぁぁあああああああっ!」


 声が抑えられません。

 自然と大きな声が口から漏れていくのです。


 本当に怖い。

 なのに……すぐそこにヤシロさんの温もりを感じるから、どこか、妙に落ち着く…………ヤシロさんの香り…………あぁ、子供たちが夢中になる理由が、少しだけ分かる気がします。


 子供たちはただ、ヤシロさんに甘えたいんですね。

 今の、私のように。


「ぬぅゎあいっ! おしまいっ!」


 浮遊感がなくなり、私の足が地面につきました。

 ですが……


「きゃ……っ」

「おい、大丈夫か!?」


 ヒザに力が入らず、ヤシロさんにもたれかかってしまいました。

 足が、がくがく震えています。


「す、すみません…………あの、少しだけ、このままでも?」

「……この状況で断れるかよ…………」


 それは、「しょうがねぇな」という雰囲気を纏った声でした。


「……はぁ…………怖かったです」

「大人には、結構きついだろ?」

「でも……楽しかったです」

「…………次は500Rbだからな」

「では、頑張って貯金します」


 照れ隠しに、そんな冗談を言い合って…………ふと、言いようのない寂しさが込み上げてきてしまいました。

 先ほど言いかけて、言わなかった「とんでもないわがまま」を、どうしても、口にしたくなりました。


 ……それはおそらく、ヤシロさんを追い詰めて、苦しめる、利己的な思いで…………


「ヤシロさん…………」


 シスターである私が、抱いてはいけないのかもしれない感情で…………


「私を、忘れないでください……っ」


 なのに、そんな子供のようなわがままを…………つい、口にしてしまいました。


「…………ん」


 ギュッと、私の頭が抱きかかえられ、ヤシロさんの胸に押しつけられました。

 鼻の奥に、ヤシロさんの香りが広がり、耳には、ヤシロさんの鼓動が聞こえました。


「……前にさ。大食い大会の前、俺がすげぇ不安だった時にこうしてくれたことがあったろ? あれ、すげぇ落ち着いてさ」


 その声は、まるでヤシロさんの心臓から聞こえてくるかのように温かく、鼓膜を震わせ、私の心へと浸透していきました。


「だから、いつかベルティーナが不安になった時は、俺がこうしてやろうって決めてたんだ」

「…………えっ!?」


 思わず、本当はもう少しあの温もりに包まれていたかったのですが……私は体を引き離し、ヤシロさんの顔を覗き込んでしまいました。


「い、いま…………」


 ヤシロさんは、『ベルティーナ』って……


「そのわがまま、聞いてやるよ。俺は、ベルティーナのことを忘れない」

「ヤシロさ…………っ」


 嬉しくて……

 そんなたった一言が、堪らなく嬉しくて……


 目の奥に熱いものが込み上げてきて……


 でも、泣いてはいけない。

 まだ、不安を抱いている人がたくさんいるのだから、自分のことだけ考えて喜んではいけないと、精一杯自分を律し…………


「もぅ……また、呼び捨てにして」


 精一杯の強がりを、彼に向けました。


「ははっ。いいじゃねぇか。初対面でもあるまいし。俺とベルティーナの仲だろう?」


 まったく。

 彼はズルい……


 そんな無邪気な顔を見せられては……怒れないじゃないですか。


「ヤシロさんだけですよ」


 ……私を呼び捨てにしていいのは。

 という部分は、口にしないでおきました。


「あ……」


 不意に、ヤシロさんの服の中から一粒の種が落ちてきました。

 これは、寄生型魔草の種……


「うっし! まずは第一歩だ!」


 気合いのこもった声を上げて、ヤシロさんは拳を握りました。

 第一歩……ということは、ヤシロさんは最初から諦めてなどいなかった。

 最初から、全員の名前を思い出すつもりだったのでしょう。


 そうですよね。

 だって、ヤシロさんですもの。


 ヤシロさんは、私たちを少しでも悲しませるようなことは……絶対にしません。

 分かりきっていたことなのに…………私もまだまだですね。


「ヤシロさん」


 これから、ヤシロさんは自分との戦いに挑むのでしょう。

 魔草に負けない、強い心で。


 そんな彼に手向けの言葉を贈るべきなのでしょうが、いけませんね、一度甘えてしまうと甘え癖がついてしまうようで……私は、素直な気持ちを伝えることにしました。


「一番最初にここへ来てくださったこと、嬉しく思います」


 ヤシロさんが困った時に、真っ先に駆け込める場所。

 そんな場所であり続けたい。


 私は、ずっとそう思っています。


「何かあったら、いつでも頼ってくださいね」

「おう。分かってる」


 そうですか。分かっていてくれたんですか。


「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ」

「はい。頑張ってください」


 腕を上げて駆けていくヤシロさん。

 その背中が見えなくなるまで、私はずっと見送っていました。



 ヤシロさん。

 忘れないでくださいね。


 私はいつでも、いつまでも、あなたを見守っていますからね。




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