後日譚32 花園劇場

「私はシラハ。アゲハチョウ人族のシラハ。愛する人と離れ離れになって幾年月……太陽はこんなにもキラキラ眩しいというのに、私の心はロンリネス。このままじゃ私……心が迷子になっちゃうよ……」

「シラハーッ!」

「その声は……」

 ――ヒヒーン! パカランパカラン!

「オルキオしゃんっ!」

「白馬に乗って迎えに来たよ、僕の可愛い迷いネコちゃん」

「素敵だわ、オルキオしゃん……まるで、王子様のよう……」

「君を迎えに来るなら、これくらいは当然だろ。僕だけのお姫様」

「きゃっ☆」


 ……なに、この奥歯が抜けそうな不快感。

 堅く握りしめた拳でこめかみを「ドーン!」ってしてやりたい。


「素敵ですね……」

「えぇ……」


 三十五区の花園。そのすぐそばにある開けた場所で、ジジイとババアの小芝居が繰り広げられている。

 設定は、愛する男性と引き離された薄幸の美少女が、美しい花に囲まれて心の孤独を誤魔化しているところへ、その想い人が白馬に乗って迎えにやって来る――というものだ。

 まぁ現実は、薄幸の美少女ではなく発酵しかけてるババアなのだが……


 花園は乗り物での来場が禁止されているのだが、観客の心を惹きつける演出として、特別に領主から許可が下りている。

 そう。こいつは花園にいる虫人族たちに見せるためのお芝居なのだ。


「……(シラぴょん。みんなの前では『オルキオさん』だよ)」

「……(だって、オルキオしゃんはオルキオしゃんだもん)」

「……(もう、可愛いなぁ、シラぴょんは)」


 本人たちもノリノリのようだ。


「しかし、こんなことで虫人族たちとの摩擦が本当に軽減するのか?」


 オルキオたちから少し離れた場所にて、ルシアが厳めしい顔つきで俺に尋ねてくる。

 だがな、ルシア。よく周りを見てみろよ……


「花園にいる虫人族たち、みんなうっとりした目で二人を見てるじゃねぇか」


 俺の想像以上に、オルキオとシラハの恋愛小芝居は花園に集まる恋に恋する女子たちに効果を発揮しているようだった。

 並んで小芝居に釘付けになっている女子たちの目は、例外なくうるうると潤んでいた。

 そして、我が四十二区の面々も……


「シラハさん、幸せそうですね……くすん」

「出会えてよかったね……ボク、こういうの弱いんだ……」

「エステラ様。私の涙でぐしょ濡れになったハンカチでよろしければ、どうぞお使いください……うるうる」

「ぅう……しらはさん、とってもきれい……」

「はい。素敵な笑顔をされていますね……」


 …………号泣だ。

 えっと……どこで泣けるのかな、このショートコント?

 頭上から金ダライでも落ちてくれば綺麗にオチるんだけどな。


「確かに、効果はありそうだな…………かくいう私も、四度ほど泣きそうになったぞ……」

「そんなに!?」


 だから、どこで泣きゃあいいんだよ、このショートコント。


 ちなみに。

 これまで散々他人に小芝居をさせてきた俺ではあるが、今回の脚本は俺ではない。立案は俺だが、内容はシラハの理想をベースに、女子たちがわいわい話し合いながら決めたものだ。

 乙女たちの夢と理想が詰め込まれた、愛の物語になっている。


 ……おかげで、急遽白馬を用意したり、花園への乗りつけを許可したりと、いらん手間が増えたのだが…………


「シラハ様……お美しい……」

「あぁ……ワタシたちは勘違いをしていたのね……」

「こんなに愛し合っている二人が離れ離れになるなんて、あってはいけないことだわ……」


 と、観衆たちに絶大な支持を集めているので、まぁ、よしとするか。

 ……この街の住人の感性って、ちょっと理解出来ないかもなぁ…………あと、よくあれをシラハだと認識出来るよな。別人じゃん、どう見たって。いや、本人なんだけどさ、見た目がさ。


 しかし単純だ。

 虫人族は極端なまでに素直で真っ直ぐな民族性を持っているような気がする。

 ルシアの言いつけを守るカブリエルたちや、シラハ第一主義のニッカたち。

 ウェンディやミリィも、人を疑うことを知らないような突き抜けたお人好しだ。


 そして、シラハの世話をしていたニッカ以外のアゲハチョウ人族たちも、例に漏れずそんな感じだった。


 脚本会議のために一度シラハの館へ行き、アゲハチョウ人族たちを説得したのだが、ニッカの言った通り彼女たちはすんなりと理解を示してくれた。

 ひっついて離れないオルキオとシラハを見て、そして、その時のシラハの幸せそうな顔を見て、自分たちの考えを改めてくれた。


 ルシアが「こんな簡単なことで……」と軽くショックを受けてはいたが、二人を会わせるのにも一苦労したんだし、まぁいいじゃねぇか。思惑に嵌るかどうかってとこなんだから、世論なんて。


 小一時間会議を行い、準備にもう一時間。

 そうして、昼飯を食ってから午後の日差しの中で小芝居開演という運びになったのだ。


「友達のヤシロ」


 シラハたちの小芝居を眺めていると、背後から落ち着いた声が聞こえてきた。

 大騒ぎする女子たちの中にいて、一人平静を保っているギルベルタ。

 こういうヤツがいてくれるとホッとする。

 どいつもこいつも感情移入し過ぎなんだよ。過剰だ、とにかく。


「大変なことになっている」

「観衆の熱気がか?」

「いや……私の首周りが」

「首?」


 振り返ると、ギルベルタが号泣していた。無表情で。


「どした!?」


 涙と鼻水で顔面はおろか、首周り、襟元までがぐっしょり濡れていた。


「なんだかドキドキしている、胸が……止めることが出来ない、私は、涙と鼻水を」

「あぁ、もう! お前もかよ!?」


 結局、こいつも他の乙女たちと同じなのか。

 ただ、それを上手く表現出来ないだけで。


「ほら、動くな。涙とか色々拭いてやるから!」

「かたじけない思う、私は。でも、止まらない、ドキドキが」


 感受性が高いというか、流されやすいというか……


「お前も、給仕長なんだから、ナタリアを見習って平常心を鍛えろよ」

「ヤシロ様。評価していただけていることはありがたいのですが、あいにくと、私も平常心というわけではありません」

「えぇ……お前もかよ……」

「はい。あのお二方を見ていると、こう……胸の奥の辺りが…………ムラムラします」

「お前はギルベルタを見習って、もう少しピュアな心を取り戻せよ」


 ダメだ……こいつは重症だ。

 手遅れだ。


「さぁ、シラハ。僕と一緒に来てほしいっ! 共に生きようっ!」

「はい、オルキオしゃんっ!」


 芝居はいよいよクライマックスを迎え、白馬の上で身を寄せ合う二人に観衆がわっと湧く。

 この場所を離れ、新しい世界を目指すぞ――と、そんな思いを滲ませるシーンだ。


「以上をもちまして、オルキオ・シラハの愛の劇場第一公演は終了いたします」

「第二公演は二時間後になる予定よ。お友達を誘って見に来てね」


 おい! 台無し、台無しっ!

 素に戻るんじゃねぇよ!


 しかし、観客からは割れんばかりの拍手が巻き起こっている。

 カーテンコールかよ……

 観客たちも、これを芝居だと割りきって楽しんでいたようだ。

 つか、第二公演ってなに? 何公演やるつもりなんだよ?


 パカランパカラン、ヒヒーンと、オルキオたちがこちらへやって来る。


「いやぁ、恥ずかしかったよ」

「そうねぇ、照れるわねぇ」

「え、お前らずっとあんな感じじゃん」


 アレを恥ずかしいと感じるのなら、もう少し自重してほしいものだな。


「でもシラぴょん。公演中は『オルキオさん』だよ」

「ん~、オルキオしゃんといるとドキドキして、つい、うっかり」

「あはは。可愛いなぁ、シラぴょんは~」

「えっ、それは恥ずかしくないの?」


 素でそっちの方が何倍も恥ずかしい事象だと思うけど?

 つか、馬から降りろやコラ。いつまで白馬に跨ってんだ。見下ろすな、俺を。


「このまま、四十二区に連れて帰りたいよ」

「まぁっ、愛の逃避行ね」

「いや、帰宅だろ」


 オルキオにとってはただの帰り道だ。


 白馬がゆっくりと歩き出し、花園にいる観客たちへと近付いていく。

 ファンサービスか? 芸が細かいな。

 ……ただ単に、自分の嫁を自慢したいだけだろ、オルキオ?


「は、白馬さえあれば、俺もきっと……ダゾ」


『オルキオ・シラハの愛の劇場(笑)』の裏方を任されていたカールが何かをブツブツ言っている。

 いや~……たぶんな、白馬じゃないと思うぞ、お前に足りないの。


「カタクチイワシ。シラハ様は一度館に戻られるデスカラ、お前たちも休憩すればいいデスヨ」


 同じく裏方のニッカが俺の前へと降り立つ。

 まぁ、20センチくらいしか浮いていなかったわけだけども。


「第二公演が近くなったらまた呼びに行くデスカラ、好きなところで時間を潰すといいデスヨ」

「俺らも館に戻って一服するよ」

「なら、お茶くらいは出してやるデス。お前のは出がらしデスケド」


 ニッカが高圧的な笑みを向けてくる。

 こいつは…………

 睨み返すとべーっと舌を出された。

 嫌われているのは変わらないようだが、拒絶されるようなことはなくなった。

 むしろ、あれやこれやと話しかけてくるようになっていた。

 段取りにしても、こちらの意見を尊重するようになったし、細かいことでも逐一確認しに来る。すべてはシラハのため……とはいえ、これは結構な変化だ。


「なんだか、随分と協力的になったよな、お前ら」

「何かモンクあるデスカ?」

「い~や。やりやすくて助かるよ」

「フンッ……デス」


 不機嫌そうな顔をしているが、さほど怒っているわけではないようだ。


「……あんなに幸せな顔、初めて見たデスカラ」


 それはもちろん、シラハを指しての発言だ。

 ニッカやカールはまだまだ若い。

 幼い頃からずっとシラハのそばにいて、シラハにはどう接するべきかを一族の者たちに教え込まれ、それを疑うことなく実行してきた。

 長年、シラハの一番近くにいて、シラハのために生きてきた。


 けれど、心の底からの笑顔は見たことがなかった。


「ワタシたちは……間違っていたデスカネ?」

「それを決めるのは、これからのお前たち自身だ」


 人生に『if』は存在しない。

 過ぎた時間は戻せないし、そこで行ってきたことも消せはしない。

 その行いを『間違っていた』と嘆いて現実から目を逸らすならば、過去は無駄だったことになる。

 だが、これまでの時間が未来に繋がれば……あの時間があったからこそ、今があるのだとそう思えるならば、多少やらかしちまったとしても、それは『間違いだった』とは言えないんじゃないか?


 過去なんか、どんなに足掻いたってどうすることも出来ない。

 消すことも、誤魔化すことも。

 ならせめて、未来がプラスになるための糧にしてやればいい。役に立てるなら、失敗だって捨てたもんじゃない。


「シラハ様は、オルキオ氏に会えなかった時間をどんな気持ちで過ごしていたのデスカネ……?」


 自分たちがよかれと思いやってきたことが根底から覆された今、こいつらの足元はぐらついて不安定になっている。下手をすれば二度と立ち上がれなくなるかもしれない。

 そんな不安を抱えたままで、シラハのそばに置いておくわけにはいかない。


「自分たちがいない方がよかったのではないか」なんて思い始めているこいつらを見たら、シラハは自分の幸せを後ろめたく思ってしまう。


 困るんだよ、それじゃ。

 どいつもこいつもひっくるめて、底抜けにハッピーになってくれないと。


 こっちは結婚式を定着させようとしてるんだ。

 今回関わった連中は、一人の例外もなく、頭の先からつま先まで幸せ満開でいてもらわなければいけない。

 結婚式ってのは最高に幸せなものだと、大々的に宣伝するんだからな。


 俺の利益のために、お前らの不幸は俺が没収する。


「俺には正解は分からんが、一つだけ言えることがある」


 触角を揺らしながら顔をこちらに向け、ニッカは決壊寸前の瞳を瞬かせる。


「お前たちと過ごした時間、シラハは不幸なんかじゃなかった。それは確かだ」

「な……なんでそんなこと言えるデスカ? お前なんか、ちょっとしか会ったことないくせに……知った風なこと言うなデス……」

「じゃあ聞くが、シラハはお前たちにつらく当たったことはあるか? 邪険にされたことは? 怒鳴られたことは? 無視されたことは?」

「そ、そんなこと、一度もないデスヨッ! シラハ様はそんな酷いことする人じゃないデス! シラハ様は、いつも優しくて、ワタシたちにもとてもよくしてくれるデスカラッ!」

「ならそれが答えだろ」

「へ…………?」

「自分を不幸に陥れるヤツに、人は優しくなんて出来ない。お前だって、役目ってだけじゃなくて、シラハが好きだから尽くしてきたんじゃないのか?」

「そ、そう……デス。ワタシたちはみんな、シラハ様が大好きで……お役に立ちたくて……」

「それが分かっているから、そんな連中がそばにいてくれることに、シラハは幸せを感じていた」


 ぼとりと、ニッカの瞳から雫が落ちる。


 今日一日、俺たちと会ってからずっと、ニッカは忙しく走り回っていた。

 それは、ややもすると不安にのみ込まれそうになる心を守るために、余計なことを脳が考えないように、無理矢理そうやって動き回っていたのだろう。


 大好きな人を、自分たちが不幸にしていたかもしれない。そんな不安が拭い去れなくて。


「そん……なの…………分かんないデス……だって、シラハ様が本当はどう思ってるかなんて………………」

「お前は他人から寄せられる好意に鈍感過ぎる」

「な、なんでデスカッ!? そんなことないデスヨッ!」

「こんな間近で好き好きビーム出されても気が付かないんだもんな」


 ちらりとカールを見ると、大慌てで腕を『×』と交差させていた。

 言わねぇよ。バラしゃしねぇし、どんなに匂わせたってこいつは気が付かねぇよ。


「わ……分かんないデスカラ……人が好意を寄せているとか…………そんなの、不確定で、ちゃんと聞かないと……分からないデスカラ……」

「じゃあ何か? お前は、『目が大きくて可愛いから好きだ』とか『元気いっぱいで、そばにいると楽しいから好きだ』って、いちいち言われなきゃ信用出来ないのかよ?」

「なっ!? ……な、んデスカッ、急に!? バ、バカデスカッ!?」


 別に俺が告白してるわけじゃねぇよ。

 そういうの、空気で感じるだろって話だ。

「あ、この人、私のこと好きなんだろうな」って、そういう空気感じたことねぇのかよ。


「シラハに、いちいち全部、『今幸せよ』『それ嬉しいわ』って言わせたいのか?」

「う…………出来、れば…………」


 こいつは面倒くさいヤツだな。

 虫人族の面倒くささが凝縮されたような性格をしてやがる。


 なんとなくだが……こいつを納得させることが出来れば、虫人族たちの持つ人間に対する偏見は克服出来るような気がする。

 こいつはそのモデルケースってわけだ。


 ならやってみるか。

 言葉を使わない、最も簡単な意思伝達方法を。


 一度でも感覚を掴めば、こいつだって分かるだろう。

 気持ちを伝えるのに、言葉はそれほど必要じゃないってことに。


「シラハぁ~!」

「は~い。何かしら?」


 白馬に乗ってシラハとオルキオがこちらにやって来る。

 もう降りない気なんだな、きっと。そんなに嫌か、ほんのちょっと離れるのが。

 もう、いいけどよ、馬上でも。


「ニッカが裏方仕事を頑張ってくれたぞ」

「あらあら。ありがとうね、ニッカ」

「い、いえ! これくらい……当然、デスカラ……」


 後ろめたさが顔に出てしまうのか、ニッカはシラハから視線を逸らし俯いてしまった。

 ま、そうなるだろうなと思ってシラハを呼んだのだが。

 さぁ、食いつけシラハ。

 お前なら、目の前でこんな反応をされれば食いつかずにはいられないはずだ。


「あら? どうかしたの、ニッカ?」


 よし。

 そこで、ニッカ。お前は謙虚な発言をするのだ。するよな、お前の性格なら?


「……いえ、なんでもない、デスヨ」


 よし。

 うんうん。虫人族、すげぇ扱いやすいわ。


「ちょっと疲れちまったんだよ。ずっと走りっぱなしだったから。な?」


 ニッカの肩を抱き、俯いた顔を覗き込む。

 と、物凄く怖い顔で睨まれた。

「何がしたいんデスカ、お前は!?」と、顔に書いてある。


 すべてが思惑通りだ。

 何がしたいか?

 お前に分からせてやりたいのさ。


 まぁ、あとは深く考えず、感じるだけでいい。あるものをあるがまま受け取れ。


 ほら、来るぞ。

 3……2……1…………



 ふぁさ……



「……ふぇ……っ」


 シラハの小さな手が、俯いたニッカの頭に載せられる。

 柔らかそうな髪を優しく撫でる。髪と一緒にニッカの触角が揺れる。


「あんまり、無理しちゃダメよ。いつもありがとうね、ニッカ」

「…………ぁ………………は、はぃ…………分かった、デス……」


 俺を睨んでいた瞳に水の膜が張る。

 俺に見られているのが恥ずかしかったのか、ニッカは俺の顔を張り手で押し退ける。

 向こうを向こうにも、そちらにはシラハがいて出来ない。

 だから、俺を退かせるしかなかった。

 分かる。分かるぞ。

 ……ただ、張り手の威力はちょっとばかり想定外だったけどな。加減、覚えろ。な?


「あら……? ニッカ?」

「大丈夫だ」


 俯き、肩を震わせるニッカに、シラハが心配そうな視線を注ぐ。


「こいつは今、初めて経験したんだよ」

「初めて?」

「あぁ。人から想いをもらうってことをな」


 それだけで、シラハは何かを感じ、すべてを悟ってくれたようだ。

 伊達に年を取っているわけではない。

 こいつは、ずっと長い時間、様々な感情の中に身をさらしていた。自分の気持ちを押し殺すことだって少なくなかっただろう。

 だからこそ、敏感なんだ。


「そうなの……そうねぇ…………私は今までもらってばかりだったものね。悪かったわ」

「そ、そんなこと……っ!?」

「ありがとうね、ニッカ。私、みんなが大好きよ」

「…………っ!?」


 顔を上げ、涙を飛び散らせながら反論しようとして、シラハの笑顔に言葉を奪われるニッカ。


「ニッカのことも、とっても好きよ」

「…………ゎ……」


 溢れるほどの想いを載せた言葉を真正面から渡されて、ニッカのいつも見せている取り澄ました表情が崩れた。

 ぐしゃぐしゃに歪み、涙と鼻水でびしゃびしゃになって、飾らない、ありのままの、心から発せられた声で叫ぶ。


「分かってるデスヨォッ!」


 子供のように大声を上げて泣き、溢れる涙を乱暴にこする。


「知ってるデスヨォ! ずっとずっと、知ってたデスヨォ!」


 こいつはソレを知らなかった。

 けれど、教わってみたら――なんてことはない。ソレはいつも感じていたものだった。


 つまり。

 自分は、昔からずっとずっと、ず~っと、愛され続けていたのだと、ニッカは今気が付いたのだ。


「この……温かいの……ワタシ、知ってるデス…………知ってたデス…………ッ」


 自身のつむじに置かれたシラハの手を両手で握り、ニッカは嗚咽を漏らして泣き続ける。

 シラハは不幸なんかじゃなかった。

 自分たちは疎まれてはいなかった。

 それどころか、こんなにも大切に思われていた……


 言葉にされないと分からないと思っていたことを、ニッカは今、心で感じ取ったのだ。


 言葉は嘘吐きだが、心は正直だ。

 ニッカみたいな純粋なヤツは、心の方を信じていればいい。


 言葉は、俺みたいな詐欺師が最大限有効利用するためのものだからな。


「あらあら、大変……オルキオしゃん」

「うん。行ってあげなさい」


 オルキオに断りを入れ、シラハが馬を降りる。

 そして、ニッカの前に立つと小さな体を精一杯伸ばして、ニッカの体を抱きしめた。

 シラハの手が触れると、ニッカはその場にへたり込み、俯いて……また泣き出した。

 蹲るニッカを、シラハはそっと包み込む。

 泣きじゃくる娘を宥める祖母のように。


 シラハにとってニッカは、オルキオから離れてでも慰めてやりたいくらいに大切なのだろう。

 それは結構凄いことだぞ。誇っていいぞ、ニッカ。


「ヤシロ君」

「ん? ……あぁ、そうだな」


 オルキオが馬上で俺に目配せをする。

 少し離れようか、って合図だ。

 今は、二人きりにしてやった方がいい。


 オルキオの白馬の隣に並び、シラハたちから距離を取る。

 穏やかな顔をして、オルキオは誰に言うでもなく呟いた。


「よかった。彼女の時間が幸せに満ちていて」


 離れ離れだった時間、シラハが幸せに暮らしていたことへの安堵。

 それをまた、自分にとっての幸せだと思える。老齢の二人の想いは、すっかりと熟成されているようだ。

 離れていても、こいつらの心はずっと一緒にいたのかもしれない。片時も忘れることはなかったのだろうな。


「あの、オルキオさん」


 微かに、目尻を赤く染めたジネットがゆっくりと近付いてくる。

 少し残る涙の痕は、一体何に起因するものなのか。

 赤い目をしているから、今のジネットの表情はとても儚げに見えた。


 そんな不安げな表情で、ジネットはオルキオに尋ねる。

 きっと、ずっと聞きたかった事柄を。


「オルキオさんは、シラハさんと会えないでいたその時間………………幸せでしたか?」


 オルキオがシラハに会えなかった時間。

 それは、ジネットが知るオルキオの時間のすべてでもある。


 その時間を、オルキオは何を思って過ごしていたのか……


「もちろん、寂しかった。……苦しかったし、つらかった。……もともとね、私は一人が苦手なんだ。幼い時から、そばにはいつもシラぴょんがいたからね」


 きゅっ……と、ジネットの手が結ばれる。

 胸を押さえるように、祈りにも似た格好でじっと身を固くする。


「孤独がつらくて、独りが怖くて、私は逃げ出したんだよ。ひたすら逃げて、逃げて……逃げた先に、陽だまり亭があった」


 心を闇に覆われた者は、得てして闇へと歩を進めがちになる。

 繁華街を避け路地裏へ、人の温もりを避け誰もいない場所を目指してしまう。


 けれど、人間は弱い。

 発作的に逃げ出しても、いつか逃げることに疲れてしまう。

 疲れ果て動けなくなると、今度は怖くなる。

 孤独にのみ込まれそうな恐怖に取り憑かれ……そいつからは逃げ出せない。独りでは、絶対に。


 そんな時に、明かりが見えると――


「夕闇の迫る、誰もいない寂しい場所で、そこだけ火が灯ったように明るくて…………私は迷わず駆け込んだ」


 ――救われた気持ちになる。


「今でも覚えているよ。あの軋むドアの音も、店内に立ち込めるコーヒーの香りも……落ち着いた、陽だまりの爺さんのあの声も……」

「…………っ」


 微かに、ジネットが鼻を鳴らした。

 こいつも覚えているのだろう。爺さんの声や笑顔や、頭を撫でる手の感触を。


「決して出しゃばらず、けれどいつもそこにいて、いつだって迎え入れてくれる。……陽だまり亭がなければ、私はきっと、ダメだったろうね……」


 オルキオの頬に刻まれた深いシワがくの字に曲がる。

 その気持ちは……少しだけ共感出来るな、俺も。


「……彼は、私の唯一にして無二の親友だった。ゼルマルたちも、いい連中だが、彼は特別だ」

「…………はい」


 他人から聞く爺さんの話に、ジネットが涙を浮かべる。

 けれど、口元には笑みを湛え、まるで絵本の結末を知った直後の少女のように満足げな表情をしている。


「だからね、ジネットちゃん…………私は、ちゃんと、幸せだったよ」

「……はい。…………ありがとうございます」


 祖父を大切に思ってくれて――


 そんな言葉が続きそうなお礼の言葉だった。


「はは……なんだか、気恥ずかしいね」

「はい……ふふ、そうですね」


 顔を見合わせて、揃って照れ笑いを浮かべる。

 オルキオは口髭を撫でてから、馬を前進させた。

 少し一人になりたいのだろう。誰もいない場所へと向かう。


 ジネットは俺の前に立ち、オルキオの背中を視線で追う。こちらに背中を向ける格好になり、そのまましばらく黙っていた。

 オルキオの記憶の中に感じた爺さんの面影と、会話でもしているのかもしれないな。


「ヤシロさん……」


 背中を向けたまま、ジネットが俺を呼ぶ。


「ん?」


 短い返事。

 それ以上言葉を重ねるのは、野暮な気がした。


「わたし、陽だまり亭が好きです」

「ん……」


 おっぱいの大きな店員がいるからな、なんて冗談は、今は言わない。


「早く帰りたいです。陽だまり亭に。もう、随分長く帰っていない気がします」

「そうだな」


 俺も、そろそろ帰りてぇや。


「マグダが首を長くして待ってるぞ」

「そうですね。マグダさんは……ふふ……少し、甘えん坊さんですからね」

「少し、か?」

「うふふ……では、もう少し追加で」


 少しともう少しで、割と、くらいか。

 それでも激甘な評価だな。


「ヤシロさんは……」


 声音が変わる。

 微かな緊張……微かな不安……


「……幸せ、ですか?」


 こちらを向かないジネット。

 けれど、ジネットの耳は真っ赤に染まり、ジネットの心を如実に表している。

 答えてやるのは簡単だ……だが。


「聞きたいか?」


 言わない方がいい場合も、ある。


「…………いえ」


 長い髪を揺らして、ジネットが振り返る。


「やっぱり、いいです」


 真っ赤に染まり、困ったような照れ笑いを浮かべるジネットの顔は、どこかほっとするような優しさに満ちていた。

 これが、今の陽だまり亭を象徴する顔だ。


 爺さん見てるか?

 喜べよ。

 陽だまり亭は、無事ジネットに引き継がれてるぞ。


「俺も、陽だまり亭が好きだぞ」

「へ…………本当、ですか?」

「あぁ」


 夜明けの光が差し込むように、ジネットの顔に眩い笑みが広がっていく。

 半歩にも満たない小さな歩幅で、ジネットが少しずつこちらににじり寄ってくる。

 前進というより、我慢出来ずに体が前のめりになっている感じで。


「う、嬉しいです。ヤシロさんがそう言ってくださって、凄く嬉しいですっ!」


 そういえば、好きだと明言したことはなかったか…………

 ふむ。

 空気で察していても、やはり言葉にされると嬉しいことってのはあるもんなんだな。


「落ち着くし、飯は美味いし……」


 どんどん近付き、遂には俺の目の前にまで急接近してきたジネットに向かって、はっきりと言ってやる。


「おっぱいの大きな店員がいるからな」

「むぅっ! 懺悔してください」


 ぽかりと、鼻の頭を殴られた。全然痛くない、そよ風のようなパンチで。

 けれど、直後にジネットはおかしそうに笑った。


 そうそう、それそれ。



 その笑顔があるから、好きなんだよな――陽だまり亭。



 ま、口が裂けても言わないけどな。




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