後日譚31 愛のパワー

「シ…………ラハ?」

「そうよ~。あら? もしかして、ちょ~っと痩せちゃったから、ヤシロちゃん、私のこと分からなかったのかしら? な~んてね。うふふふ……」


 この街には、『精霊の審判』と呼ばれるものがあり、虚偽の発言をした者をカエルに変えることが出来る…………

 シラハ……


 どこが『ちょっと』だ?

 カエルにするぞ、コノヤロウ。


「えっと……ジネットちゃん…………本当、なの?」

「え……? あ、そうですよね。驚きますよね……あはは……」


 ジネットの笑いがカラッカラに乾いている。


「わたしも、まさかここまで劇的に変化があるとは思いもしませんで…………」

「毒を盛ったんじゃないのか?」

「とんでもないですよっ。きちんとしたダイエット食をお出ししただけです」

「ねぇ、ジネットちゃん。それってもしかして、一日一食……とか?」

「いいえ、エステラさん。昨日はきちんと三食、今朝も普通に召し上がられましたよ」

「…………じゃ、なんでだ?」

「それは…………精霊神様のみぞお知りになる……でしょうか?」


 普通のダイエット食に変えただけで、こんなに変化するか?

 それも、たったの二泊三日でだぞ?

 あり得ない。

 いくらなんでも痩せ過ぎだ。


「おそらく、オルキオさんに会いたい一心で、シラハさんの『美しくなりたい』と願う力が常識を覆す威力を発揮したのではないかと」

「そんな、精神論で!?」

「あと、わたしの料理を口にして、『食べる度に痩せる気がする』とおっしゃっていましたので……レジーナさんから以前お聞きした、『プラシーボ効果』というものも働いているのかもしれませんね」

「いやいや。思い込み激し過ぎるだろ、だとしたら」


 そのパワーがあれば、不治の病もビタミン剤で完治してしまうぞ。


「不思議なものよねぇ……」


 と、三十五区において最も不思議な生物がポツリと漏らす。


「あの人に会いたい……そう思うだけで、慢性的なヒザの痛みが和らいだのよ」

「体重が激減したからだよ」


 ヒザも、不当な重圧から解放されてさぞ喜んでいることだろうよ。


「それに、あまりお腹が空かなくなったのよ。……恋の病、かしらね。うふふ」

「いや、血糖値が上がり過ぎない食事に変えたからだろう」


 血糖値が下がる時、人は空腹を覚える。飢餓感といってもいい。

 昨日食べ過ぎたって日に限って小腹が空いた気になるのだ。

 もしくは、たまの外食なんかで、栄養を度外視した美食に傾倒すると、夜中に『お腹が重たいのに、変に小腹が空いてる気がする』みたいな状態に陥ってしまうことがある。

 それらは、血糖値の低下により引き起こされる。

 過食の人がどんどん物を食べてしまう原因は、そういうところにもある。


 急な血糖値の低下は、やはり急な血糖値の上昇に原因がある。

 具体的には、炭水化物を食えば血糖値は上がる。なので、空腹時に炭水化物や甘い物を食うと、脂肪がつき血糖値が急上昇する。

 そしてすぐに血糖値が下がり飢餓感に襲われる。


 こいつを克服するには、最初に食物繊維を多く含む野菜なんかをよく噛んで食っておくことだ。

 食物繊維は血糖値の上昇を緩やかにしてくれる。おまけに、腸内の余分な物を綺麗にしてくれる。


「ゴボウのサラダを気に入ってくださったようで、最初にそれを食べていただくようにしたんです。それから、以前ヤシロさんに教えていただいたけんちん汁。あれも美味しいと絶賛されていましたよ」

「うん、ゴボウはいいな、ゴボウは」

「食事でしっかりとお腹を満たしていただいて、間食を減らし、あとは適度な運動をしました。……といっても、このようなお散歩程度なんですが……」


 それでここまで痩せられるなら、世の女性が飛びつくだろう。

 世界からゴボウが消えてしまうぞ。


「一日で数十キロ痩せたんじゃないか?」

「最初は驚きました……雪だるまさんが溶けていくように、みるみるお痩せになっていかれましたので……」

「えっ、目視出来たの!?」


 変態じゃん!?

 虫が成長してまったく別の姿に変わるって方の『変態』!

 さながら、さなぎから成虫になったくらいの変わりぶりだ…………虫人族って、体の作りを根幹から変化させることが可能なのか?


「これも、気概の差、なのかしらねぇ……」


 シラハが大きな羽を小刻みに羽ばたかせる。

 すると、シラハの体が30センチほど宙に浮いた。


「見て、飛べるようになったの」

「触角、関係なかったのかよ!?」


 やっぱ太り過ぎで飛べなかったんじゃん!?

 そりゃ、最初のうちはショックとか、そういうので飛べなかったのかもしれないけどさ!?

 ここ最近飛べなかったのは、明らかに体重のせいだよね!?


「まぁ、ちょっととはいえ飛べるようになったんだから、リハビリすれば以前のように飛べるかもしれないな」

「……? 全盛期でもこれくらいだったわよ?」

「こんだけしか飛べないの!?」


 もっと大空を飛び回れるのかと思ってた!

 やっぱ、人間の体は重たいんだろうねっ!?

 そりゃそうだよね!?


「これで、シワさえなくなれば……あの頃の私に戻れるのにねぇ……」


 本当に、驚異的な復元力だよ。

 少しすっきりする程度にしか痩せないと思ってた……


「ねぇねぇ、ジネットちゃん。シワをなくすお料理とか、ないかしら?」

「えっと……」

「やめろ、ジネット。こいつにそんな料理を食わせたら、思い込みで不老不死になりかねない」


 世界の理を平気で踏みにじっていきそうだ。


 二日前会った時は俺よりデカかったババアが、今日は俺より小柄になっている。

 ……なんで痩せて身長まで縮んでんだよ…………え、足の裏の脂肪? もしくは骨まで太ってたの?


「なぁ、ミリィ……虫人族って」

「ないよぅ……こんな変化、みりぃたちはしない、よ?」

「ルシア……」

「私も、正直驚きを隠せない…………これが、愛のパワーか」


 愛のパワーはそこまで万能じゃねぇだろ……

 が、しかし。それ以外では説明がつかない。

 とりあえず、変なのはシラハだけだって分かったから一安心だ。


「花の蜜を飲んで、一口でリバウンドとかしないだろうな?」

「さすがに、そこまで体が伸び縮みはしないと思いますよ………………しない、と、いいですね……」


 ジネットも自信はないらしい。


「ヤシロちゃん。またあの混ぜた蜜を作ってくれる?」

「いいぞ。さっき、こいつの名前はフラワーネクターって決まったんだ。まぁ、適当に『ネクター』とか呼んでくれ」

「うんうん。『ねくたぁ』ね」


 なんだろう。

 間違ってないのに、ちょっとお婆ちゃんっぽい発音なのは。

 こういうところに年齢って出るのかね…………って、そういうのも全部『強制翻訳魔法』の匙加減なんじゃねぇの? 遊ぶなよ。『っぽさ』とかいいからさ。


 新たにネクターを作り、ジネットとシラハに振る舞う。

 シラハはもちろん、ジネットも嬉しそうににこにことしていた。


「やっぱり、ヤシロさんといると楽しいです」

「え?」

「あ、決してシラハさんのお宅が楽しくなかったというわけではなくてですね……」


 慌てて弁明をした後、花のカップを両手で握り、花の匂いを嗅ぐような仕草で口元を隠す。微かに覗く口元は、ふにゃふにゃに緩んでいた。


「本当は、薄桃色の花の蜜をいただきに来たんです。シラハさんのお気に入りだということで。わたしはこの『ネクター』の正式な作り方を教わっていませんし、不完全な物を人様にお出しするのは憚られまして……ですが」


 そっと花弁に口をつけ、蜜を口に含む。

 桜色の唇が微かに濡れて、つややかに光を跳ね返す。


「こうしてヤシロさんに会って、諦めていた『ネクター』をいただいて……」


 舌先がちろっと唇を撫でる仕草に、妙にドキッとさせられた。


「ヤシロさんといると、いつも思ってもいないことが次々起こってドキドキしっぱなしで……でも、同時にどこかで落ち着けて…………だから、ヤシロさんといると、とても楽しいです」


 今のジネットの笑顔を、花火が開いたようだと感じたのは、花火のことばかり考えていたせいだろうか。

 いつもの、花がほころぶような笑みよりもずっと力強く、ずっと輝いているように見えた。


「俺も……楽しいぞ。お前といると」

「……へっ?」


 言い返されるとは思っていなかったのか、ジネットは目をまんまるくして、微かに頬を染める。

 辺りには美しい花が咲き乱れ、芳しい香りが漂い、昼前の日差しはぽかぽかと暖かい。


 そうだな。

 やっぱり、ジネットといると楽しいよな。


「ことあるごとにおっぱいが揺れるから」

「懺悔してくださいっ!」


 ふん!

 思いがけない再会で、なんだか凄く久しぶりな気持ちになっちまってる時に『一緒にいると楽しい』だなんて、取りようによってはそういうニュアンスを含んでいるようにも聞こえなくもない言葉を真正面で言われた俺の気持ちが分かるか?

 今すぐ頭から布団を被って身もだえたいくらいに恥ずかしかったんだぞ!

 お前もちょっとは恥ずかしがれ!


 あんまり無自覚に思わせぶりなこと言うと揉んじゃうぞ! 揉んじゃうんだぞっ!


「……ねぇ、ヤシロ」

「どうしたエステラ?」

「……ボクといて、楽しい?」

「揺れなくても楽しいから、大丈夫だ!」

「おっぱい基準でしか考えられないのかい!?」

「お前がそういう流れの質問寄越してきたんだろうが!」


 なんか今にも死にそうな顔してたからフォローしてやったんだろうが!


「お前といると飽きないよ」

「へ…………そ、そう、かい」


 次々に色んな騒動に巻き込んでくれやがるからなぁ、こんちきしょうは。


「ではヤシロ様。適度に揺れて、一緒にいて飽きないミステリアスな私といる時が一番楽しいという解釈で間違いありませんね?」

「ごめん。俺、適度に癒しもほしいんだよね」


 ナタリアといると、物凄く疲れる。

 具体的に言えば、ツッコミ疲れだ。


「ヤシロちゃん、ヤシロちゃん」


 花のカップを握りしめて、シラハが俺の前へとやって来る。

 何かを頼みたいって顔だな、アレは。


「またおかわりか? 折角痩せたんだから、少しは我慢を……」

「ううん。ちょっと残っちゃったから、代わりに飲んでくれない?」

「…………………………は?」

「もう、おなかいっぱいで飲めないのよ」


 ……………………………………えっ?


「えぇっぇぇええええぇぇぇえええぃぁぁあああああぅぇぇええっ!?」

「なぁに? そんなにおかしいかしら?」

「おかしい! 病気か!? 死ぬのかっ!?」

「大袈裟ねぇ。ちょっとだけ、量が多かっただけじゃない」


 シラハの口から、「量が多い」っ!?

 天変地異の前触れか!?

 精霊神め、何を企んでやがる!?


「うふふ。ヤシロちゃん、面白いお顔ねぇ」

「いや、それは前からだけど……驚きだよね、ヤシロ」

「さらっと暴言吐いてんじゃねぇよ、エステラ」


 誰の顔が前から面白いか。


「やっぱり、お婆ちゃんの飲みかけは嫌よねぇ」

「いや、別にそんなことはないぞ」

「むしろ大喜びかっ!? カタクチイワシ、貴様っ、年配の方にまでそういう対象にっ!?」

「アホか!? いや、すまん。アホなんだったな」


 まったく、大丈夫なのか、三十五区の領主は!?


「ルシアさん。さすがにそれはないですよ」

「エステラよ。そなたはカタクチイワシを信じるというのか?」

「信じるというか……ヤシロはDカップ以上のおっぱいにしか興味を示しませんので」

「おっぱい基準か!?」


 あぁ、残念。

 ウチの領主もアホだった。


「変に意識してねぇから、気にもならねぇって言ってんだよ。ったく、シラハ。残ったやつを寄越せ。飲んでやるから」


 アホ領主を放置して、少食になったシラハの残りをいただく。食い物は粗末にしちゃいかんからな。

 そう思って手を出したのだが……シラハが花のカップを抱きかかえてしまった。


「ヤシロちゃん……私、人妻だから、そういうのは……」

「変に意識し始めてんじゃねぇよ! ないから! 絶対ないから!」


 ルシアたちの悪言により、シラハまでもがおかしくなってしまった。

 なんで三十五区に来てまで風評被害を撒き散らされねばならないのか……


「ヤシロ様、三十五区の花園(恋人たちのメッカ)にて、人妻(品のあるババア)にセクハラを試みるも、見事に玉砕。フラれる…………っと」

「おぉいっ! そこの風評被害を撒き散らす気満々の給仕長! 悪意ある偏向報道はやめてもらおうか!」


 あと、さらっと「ババア」とか言うな、な? 俺はいいけど、お前は我慢しろ。立場的に、な? 分かるよな?


「じゃあ、ジネット。シラハの残り、飲めるか?」

「えっ……あの、すみません。わたし、先ほどまでお昼ご飯の準備をしていまして……今はあまりおなかが……」


 ジネットは、料理を作るとなんとなく食べた気になってしまうタイプなのだ。

 だから、賄いでも一番後に食べることが多い。だいたい、俺やマグダが腹を空かせて先に食っちまうからな。

 時には、夕方近くまで昼飯を食わない時もあるほどだ。

 基本的に、そんなに食べる方でもないんだよな、ジネットは。


「じゃあ、エステラとかルシアとか……」

「ボクも、ちょっと……さっき飲んだばっかりだし……」

「私も、いささか飲み過ぎてしまってな」

「ナタリアは……」

「初対面のババアの飲みかけなど御免ですね」

「言い方っ! そこらへんデリケートな部分だからちゃんとして!」


 再教育が必要だな! エステラにやらせよう。

 だが、それは後日だ。


「んじゃ、カブリエルかマルクスはどうだ? ……あれ? あいつらは?」

「シラハさんの痩せた姿を見て放心しちゃったみたいだよ……」


 エステラがアゴで指す先に、花に埋もれて魂の抜けたような顔をさらしているカブリエルとマルクスがいた。花に囲まれて、ご出棺直前みたいな感じになってるぞ。

 そんなすっ転ぶほどビックリしたのかよ。


「シ、シラハ様が、ぎりぎり上限ストライクゾーンに入ってきた……だと?」

「お、俺もです……割と、有り……です」


 えぇ……お前ら、熟女マニアなの……上限、高過ぎるだろう。


「ちなみに、カブリエル、下はいくつまでOKだ?」

「四十八」

「高っ!? 上過ぎるだろう!?」


 下過ぎるハビエルよりかはまだマシだけれど! 犯罪にならない分ね!


「マルクスは?」

「きゅ……九歳、です」

「なんでもありか、お前は!?」


 カブリエルよりも上限が上で下限が一桁って……もはや、外れる人は一人で生きていけない人だけなんじゃ……


「やだ、もう……私、人妻なのに、そんな話して…………主人に悪いわ」

「満更でもなさそうなニュアンスを醸し出すな!」

「三人の男が私を取り合い……」

「俺をその中に入れるなっ!」

「けど、私はあの人が一番で唯一だから、三人とも、ごめんなさいね」

「ヤシロ様。二度目の失恋」

「失恋じゃねぇよ、ナタリア!」


 なんで俺がシラハに二度もフラれたことにされなきゃいかんのだ。

 甚だしく心外だ!


「まぁ、そう気を落とすな、カタクチイワシ……」

「初めて優しくする場面が今っておかしくねっ!?」


 俺の背中をぽんぽんすんじゃねぇよ!

 泣いてねぇよ!


「シラハは既婚者だからな、お前の望みを叶えてやるわけにはいかんが……」

「俺はシラハに何も望んじゃいねぇよ」


 強いて言えば、痩せてさっさとオルキオとの仲睦まじさを世に知らしめてほしいってことくらいだ。


「だが、私が口添えをしてやれば、飲みかけの蜜くらいは、領主の権限をフル活用すれば……万が一ということがある。力を貸してやろうか?」

「そうまでして飲みたいって、俺がいつ言った!? 言ってないよね!?」

「本来はあってはならないことなのだが、今回だけは特別にっ!」

「テメェ、絶対面白がってんだろ!?」

「にやにや……なんのことかな? にやにや」

「ヤな領主だな、ここの領主は!」


 なんだろう、一切仲良くなれる気がしない。

 ここまで相性の悪いヤツも珍しいってくらいに分かり合えそうにないな!


「ヤシロちゃん……そうまでして、私の飲みかけを……」

「誰か一人くらい、まともに俺の話を聞いてくれぇ!」


 ジネットに助けを求めるが、ミリィと二人並んで苦笑いを浮かべるだけだった。

 そうだよな。こいつら、面白がってるだけだもんな。……シラハ以外は。

 シラハだけが真に受けてるってのが性質が悪い……


「カタクチイワシィィィイッ! お前、シラハ様に何してるデスカ!?」


 怒気を孕んだ声を響かせ、ニッカが猛スピードで空を飛んでくる。

 ……訂正。

 地面から20センチほど浮いてこちらへ突っ込んでくる。

 こいつら、本当に高く飛べないんだな…………


「清純なるシラハ様に不届きを働くと承知しないデスヨッ!」

「不届きを働いてたのは俺の周りにいる権力者どもだよ……」


 俺は被害者。

 まぁ、聞く耳持ってくれやしないんだろうけどな。


「聞く耳持たないデスネッ!」

「うん。だと思った。知ってた知ってた」

「シラハ様の飲みかけをぺろぺろしたいとか、全身に浴びたいとか、気持ちの悪い発想はやめるデスヨッ!」

「お前も重病だな!? いい薬剤師紹介しようか!? 腕以外はとてつもなく残念な逸材だけど!」


 気持ちの悪い発想をしてるのはお前だ。

 ……飲みかけを浴びて、何すりゃいいんだよ? 想像の範疇を超えてるよ…………


「さぁ、シラハ様! こんな危険な男から早く離れるデスヨ! 近くにいるだけで穢れがうつるデスカラッ!」

「でも、でもね……、ヤシロちゃんは、私のために色々考えてくれた優しい人なのよ。それに……」


 すっかり細くなったシラハの腕が、しっかりとジネットの手を握る。


「私を、あの頃の私に戻してくれたジネットちゃんの大切な人でもあるのよ」

「ぅぇえぇえええぃっ!?」


 ジネットが奇声を上げる。

 なんか、チャラい大学生みたいだな。「うぇ~い!」って。


「シ、シシシ、シラハさんっ!? な、なに、なに、なにをっ、おっしゃしゃしゃしゃっ!?」

「あら? ヤシロちゃん、いらない子?」

「いえ! 大切ですよっ!? とても大切な方です! はい、間違いなく!」


 ジネットがチラチラとこちらに視線を飛ばしてくる。

「他意はないんですよ」と、必死に言い訳しているような目だ。

 分かってるよ。変な勘違いはしないさ。

 ただな……ちょっとだけ俺、向こう向くな。深い意味はないから。


「ぷーっくすくす! カタクチイワシはいらない子デスネ」

「そこは否定されたろう!? 聞いとけよ、ちゃんと!」

「そうよ、ニッカ。ヤシロちゃんは、大切な人なの。私にとってもね。だから……」


 俺をフォローし、俺の敵( ニッカ )を諫めるシラハ。

 あぁ、味方なんだなぁ、と油断したところで、花のカップが俺へと差し出される。


「だから……浴びても、いいわよ……ぽっ」

「『ぽっ』じゃねぇわっ!」


 いつの間に浴びることが決定したの!?

 食べ物を粗末にするなっつう話だったはずなんだけどな!?


 あぁ、もう面倒くさいから捨てちまおうかな……


「ちょっと待ったぁっ!」


 高らかに、バブル期の日本を思い出させるようなセリフが響き渡る。

 その声に聞き覚えのある俺とジネットは互いに顔を見合わせる。

 そしてもう一人、その声に反応を示したのは……


「あ……あぁ…………あの声は……」


 太っていた時は肉に埋もれて細かった目を大きく見開いて、少女のような無垢な恥じらいを滲ませているシラハ……

 そう、この声は。


「…………オルキオしゃんっ!」

「シラぴょんっ!」


 オルキオが花園に駆け込んでくる。

 見ている者をハラハラさせながら、ジジイが全速力で大地を蹴る。

 一方のシラハは、脳内の妄想が具現化したかのように、スローモーションで全身にキラキラと光を反射させてそれを迎える。


 両腕を広げて接近するジジイとババア。


「あの勢いでぶつかったら、シワとシワが噛み合って離れなくなりそうだな」

「そんなことないですよ!? 感動的な再会のシーンですよっ!?」


 それはない。感動的ではないだろう、ジネット。


 感極まって抱き合うのか……と思いきや、オルキオとシラハはそうなる前に立ち止まり、互いをジッと見つめ合った。


「あぁ、あなた…………本当に、本当にあなたなのね……」

「あぁ、僕だよ…………会いたかった」

「私もよ…………ずっと、会いたかった……」

「君は、ちっとも変わらないね……」

「そんなこと……」


 ないな。うん、ないよ。

 だってこの数日で物凄い激変してるもん。


「あ、あの、ごめん。ちょっと待ってくれるかな。えっと……どうしてオルキオがここに?」


 二人きりの世界に浸るオルキオとシラハだったが、エステラがそんな二人に待ったをかける。

 随分と驚いた表情をしている。

 そりゃそうだ。

 オルキオとシラハを会わせるのは、今日の話し合いの後改めて日取りを決めてということになっていた。

 それが、話し合いの前に姿を現したのだ。驚きもする。


「すみません、領主様。ヤシロ君から話を聞き、手筈は知っていたのですが……」


 俺の話を聞いて、そして俺たちが今日シラハに会うと知って、会いたい気持ちが抑えられなくなったとでも言うのだろうか。

 何十年も手紙のやり取りだけで、会うことをずっと我慢していたオルキオが……


「ヤシロ君は可愛い娘にすぐ手を出すと評判だったから……」

「俺、信用されてねぇな!?」


 誰だ、そんな出鱈目を吹聴して回ってるヤツは!? どこの薬剤師だ!?


「ヤキモチを……妬いてくれたの?」

「え? あ、いや……その…………年甲斐もなく……恥ずかしいな」

「ううん……そんなことない。嬉しいわ、私。私のことを心配してくれて」

「心配するさ。だって、君の素晴らしさを、僕が一番よく知っているからね」

「まぁ……」

「ジネット……バケツないか?」

「吐くんですか!? 感動的なシーンですよっ!?」


 えぇ……感動する場面か、ここ?

 胃から酸っぱいものが込み上げてきてるんだが。


 ジジババが向かい合ってイチャコライチャコラ…………全世界がドン引きする光景だ。全米が泣くどころの騒ぎじゃねぇぞ。

 と、周りを見渡してみると…………なんでだろう。俺以外の全員が涙を流していた。


 ん?

 いや、一人だけ、眉間にシワを寄せて嫌そうな顔をしているヤツがいた。


「ニッカ! 仲間だなっ!」

「一緒にするなデスヨ!」

「泣けないよな!?」

「な、泣きそうだから堪えているデスヨッ!?」


 はぁ!?

 お前は、こっち側の、心がカッサカサに乾いたチームの人間だろう!? そうなんだろう!?


「ニッカ。そなた、この場面を見て感動しているのか?」

「うっ!? ……そ、それは…………」


 ルシアの指摘に、ニッカが顔を逸らす。


「……カタクチイワシ、これのためにわざとワタシに声をかけたデスカ? …………侮りがたい男デスネ」


 いや、俺は純粋に仲間が欲しかっただけなのだが…………


「あなた……、ちっとも変ってないわ。あの頃のまんま。ううん。あの頃より、ずっと素敵よ」

「君こそ変わらないよ。まるで十六歳のまま時が止まってしまったようだ」

「『精霊の……』」

「ダメですよ、ヤシロさん!? 気持ち! 気持ちですから! オルキオさんは、それくらい愛おしいということを伝えたいのだと思いますっ!」


 真っ直ぐ伸ばした腕をジネットに押さえつけられた。

 くそ……なんか、アウェーだ。


「恥ずかしいけれど、久しぶりだから声に出して言わせておくれ……愛しているよ」

「わ…………私もよ…………オルキオしゃん」

「……シラぴょん」

「誰かっ! 鈍器を頼むっ!」

「ダメですって、ヤシロさん!? 今、物凄くいい場面ですから!」


『シラぴょん』『オルキオしゃん』のどこがいい場面だ!?

 ツッコミ待ちだろう、あんなもん! どう考えったって!


 えぇい、くそ! なぜだ!?

 なんでこんなふざけきった場面なのに、俺以外のヤツはみんなちょっと感動してるんだ!?

 ミリィなんか、真っ赤な顔をしながらも瞳をうるうるさせちゃってるしっ!

 恋に恋する女の子みたいな目で眺めるシーンじゃないだろう、これ!?


「ニッカよ。よく見るのだ、あの二人を」


 ルシアが指さす先で、オルキオとシラハがゆっくりと腕を伸ばし、互いの体を寄せ合う。

 抱き合うジジイとババア。その瞬間、祝福交じりのため息が辺り一面から漏れ出す。


 ……うわぁ。

 花園中の人間がシラハたちをうっとりした目で見てやがる……え、俺の感性がおかしいの?


「こぅっ…………こ、これが…………シラ…………くっ!」


 何かを言いかけて、声を詰まらせ、ルシアは目頭を押さえて空を仰ぎ見る。


「…………カタクチイワシ。あとは頼む」

「えぇ…………」


 泣くほどのことか?

『シラぴょん』と『オルキオしゃん』がシワとシワを噛み合わせて連結されてるだけだぞ?

 あの二人を引き離したら、マジックテープみたいに「ビリビリバリッ」って音するんじゃね?


 けどまぁ、ニッカを説得しなきゃならんことは確かだな。

 ルシアに託された役割を全うしてやるか。


 俺は気持ちを切り替え、ニッカの説得にかかる。


「ニッカ。見えるか、あの二人が」

「み、見えているデス…………というか、当たり前デスネ。これだけ近くにいるデスカラ……」


 そうじゃねぇよ。

 きちんと向き合えているかってことだ。

 だが、そういう言い回しをするってことは、もう認めちまってるんだろ?


 二人が愛し合っているって。

 この二人の結婚は間違いではなかったって。


「確かに、人間のしたことでシラハは触角を失い、傷付いた。だが、それでシラハがオルキオを恨んだことなんか一度もないんだ。証拠なんかいらねぇよな? 見りゃ分かるだろう」

「……確かに……そのようデス、ネ」

「お前たちのやってきたことが間違いだったかどうか、それは分からん。お前たちにはお前たちの考えがあり、お前たちなりの正義があるんだろう。だが……」


 再会し、タガが外れたように互いの温もりを確かめ合うオルキオとシラハ。

 今この瞬間、この街において、こいつらよりも幸せなカップルはそういないだろう。

 それほどまでに、幸せ満開な笑顔を浮かべる二人を見つめて、俺は言う。


「こいつらが幸せかどうかは、こいつらに決めさせてやれよ。もうそろそろさ」


 周りの人間が『可哀想だから』とか『傷付いたに違いない』とか、そういう決めつけはもうやめにしてよ、本人の気持ちをきちんと聞いてやれよ。

 種族が違うとか、過去がどうとか、習わしがどうとか……そんなもん、あの二人の笑顔を見たら、すげぇ小さいことだって分かるだろう。


「人間でも、虫人族でも、そんなもん関係ないんだ。シラハはオルキオが好きで、オルキオはシラハが好きなんだ」


 あいつらは、お互いがお互いを、その人個人を好きになったんだ。たまたま人種が違っただけでな。

 それって別に、普通のことだろ?


「お前たちがシラハを大切に思っていることは知っている。だからこそ、お前たちに頼みたい」


 グラグラと揺れているであろうニッカの心を一気にこちらに傾けるべく、俺は誠心誠意、心を込めてお願いする。


「あの二人を、一緒にいさせてやってくんねぇか?」


 あの二人の心を代弁する形でな。


「…………ワタシ一人の意見では、決めかねるデス。話し合いが必要デス」


 顔を背け、素っ気ない口ぶりで吐き捨てる。

 だが、一度ゆっくり羽がはためき、花園の花を揺らすのと同時にニッカはもう一言呟いた。


「……でもたぶん、みんな快諾すると思うデスケド」


 この二人を見せられて、反対出来る人なんかいない。

 ニッカの悔しそうな照れ笑いは、そう物語っているようだった。


 本当は、もっと前から気が付いていたのかもしれない。

 たまに来る手紙を心待ちにしているシラハを見ていたのだから。


 だが、長年そうだと信じ、それが正しいと続けてきたことをひっくり返すのは難しい。

 物でも心でも、動かすためには最初に凄く力が必要になる。

 だが、一度動き始めれば後は一気に行くところまで行ってしまうものなのだ。


 シラハたちを取り巻く悪意なき足枷は、きっと取り払われることだろう。


 そして、人間と虫人族の軋轢の象徴に祭り上げられていたシラハが変われば、三十五区内に蔓延る目に見えない劣等感や敵対心も払拭されるかもしれない。

 少なくとも、大きな変化が起こるだろう。


 そうなれば、あとはルシアがなんとかしてくれる。

 ずっとそうしたくて、そうなるように働きかけ続けていたのだ。この機会を逃しはしないだろう。


「カタクチイワシ」


 俺の考えを肯定するかのように、凛々しい表情を見せるルシア。

 言葉もなく、右手が差し出される。

 握手かと思い俺も手を差し出したのだが……ルシアの手に花のカップが持たれていることに気が付いた。……なんだ?


「それで、まだ全身に浴びたいか? シラハの飲み残し」

「だから、浴びたいなんて一回も言ってねぇだろうってっ!?」


 感涙に目尻を濡らしながら何言ってんの、こいつ!?

 そして、花園中から注がれる「うわぁ……あの人最低……」みたいな眼差し。

 不評被害が留まることを知らねぇな、この街は!?


 再会したオルキオとシラハは、とても長い時間抱き合っていた。

 これまで離れていた分を取り戻すように。

 そして――



 ――もう二度と離れ離れにならないように。



 アゲハチョウ人族たちの説得はまだだが、……この二人を引き裂くのは、きっともう、どんなヤツにも不可能だろう。


 シラハの住む三十五区とオルキオの住む四十二区。それぞれの領主が居合わせていることもあり、その場でサクサクっと話をまとめ――二人は一緒に暮らすべきだと、俺たちは満場一致で結論づけた。

 新居等々は後で決めるということにして、この二人を一緒にいさせる方向で話を進めることになった。



 手始めに、シラハの屋敷にいるアゲハチョウ人族を説得し、俺たちは虫人族たちの根底に巣食う固定概念をひっくり返すために動き出した。




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