後日譚4 人間と獣人族と

「俺が気付いたことを話してもいいか?」


 狩猟ギルド四十二区支部で『漢』の集いを開催した翌日、俺は一人でとある場所へとやって来ていた。

 会って話をしたいヤツがいるのだ。

 本当は、こいつにこういう話を振るのもどうかと思ったのだが……見て見ぬフリをいつまでも続けるわけにもいきそうにないしな。


 ジネットには話しにくい話だし、マグダやロレッタは獣人族だから……なんとなく、な。

 エステラに聞こうかと思ったのだが……まぁ、領主……だしな。

 ベルティーナやレジーナという線もあったにはあったのだが、分野が違う気がしたんだよな。ベルティーナはシスターだし、レジーナは元々外国の人間だからな。


 というわけで、こいつを選んだわけなのだが……


「おっぱい格差の話ですわね。耳タコですわ」


 ……今、ちょっと後悔し始めている。


「真面目な話だ」

「真面目におっぱいの話を? ……ヤシロさん、あなたという人はおっぱいのこと以外考えることが出来ませんの?」

「おっぱいの話を始めたのはお前だ!?」


 今日も丁寧に手入れがされている輝くようなブロンドをふわふわと揺らして、イメルダが優雅に紅茶を啜る。


「なんだか、最近……ヤシロさんのお顔を拝見すると、『おっぱい』という言葉が脳裏に浮かんでくるようになりましたの」

「それ、なんかの病気だからレジーナに診てもらえよ、な?」


 四十二区に住むようになって、こいつはおかしくなったよな……まぁ、出会った当初からかなりぶっ飛んだヤツではあったけども。


「貴族に関して、少し聞きたいことがあるんだ……というより、人間と獣人族に関して……と、言えばいいのか…………」

「……そうですの」


 イメルダの視線が少し鋭くなり、コトリと、静かな音を立ててティーカップがソーサーに置かれる。

 背筋がすっと伸びたことで、首筋がすっきりとして見える。

 細く長い首から鎖骨にかけてのラインが本当に綺麗なヤツだ。整った目鼻立ちと合わせて、まるで凛と咲く花のように艶やかな雰囲気がある。繊細なタッチの絵画を見ているような気分にさせられる。

 透き通るような白い肌に映える、色づいた桜のような薄紅の唇が静かに開かれる。


「貴族であろうと、獣人族であろうと……おっぱいの大きさに影響を及ぼす要因にはなりませんわ」

「おっぱいの話、もういいわっ!?」


 なに、この娘!? なんでこんなに頑ななの!?


「……お、『おっぱいの話、もういいわ』…………ですって…………」


 伸ばした背筋が反らされ、イメルダの体が椅子の背もたれへとしなだれかかる。

 ふらついた拍子に足がテーブルを蹴り、ティーカップが落下する。

 パリンと乾いた音と共に琥珀色の紅茶が床へと広がっていく。


「ヤシロさん……死なないでくださいましっ!」

「死ぬかっ!?」

「どこか具合が悪いんですのね!? きっと重い病気なんですわっ!?」

「そっくりそのまま返してやるよ!」


 なんだったんだよ、さっきの真面目な表情は!?

 つか、俺、ここに来てからおっぱいの話しか出来てない!

 もういっそ、こいつが飽きるまでおっぱいの話してから本題に入ろうか!? 語り尽くすまでさ!? その場合、三日くらい泊まることになるかもしれないけども!


 駆けつけた給仕たちが割れたカップを片付け、イメルダのスカートに飛んだ紅茶を拭き、取り乱したイメルダを落ち着かせ、俺にお悔やみの言葉を告げ去っていく。……って、コラ給仕。


 舞うような優雅で機敏な動作で仕事を終えた給仕たちが部屋の隅へと捌け、俺とイメルダは再びテーブルを挟んで対峙する。


 今度こそ真面目に……


「イメルダ……真面目に話を聞いてくれるか?」

「もちろんですわ」

「正直、あまり話したくないような内容なのだが……」

「ぷふーっ!」

「駄洒落じゃねぇぞ!? 話したく『ないよう』な『内容』とか、狙ってねぇから!? えぇい、肩をぷるぷるさせんなっ!」


 てか、どういう翻訳をしたんだ、『強制翻訳魔法』!? 真面目に話させろよっ!


「お前にしか聞けないようなことなんだ。助けると思って、少し教えてくれ」

「ワタクシにしか……?」

「あぁ。他の連中だと……その…………少し、角が立つ」

「そう……ですの」


 すると、イメルダはそっと右手を上げる。

 それを見た給仕たちが一斉に部屋を出ていった。

 十人近くいた給仕たちが静かに、一人ずつ、礼をして部屋を出ていく。


「……これで、幾分話しやすくなったのではありませんこと?」

「あぁ。助かる」


 俺は居住まいを正し、静かな声で話し始める。


「俺が見てきた貴族は、みんな人間だった。……意味、分かるか?」

「えぇ……もちろんですわ」


 給仕たちが淹れ直していった紅茶に口をつけ、イメルダは少し沈黙の時間を取った。

 カチャリと、カップのぶつかる音がする。


「そうでしたわね……ヤシロさんは、異国からこの街においでになったのでしたわね」

「まぁな」

「でしたら、無理もありませんか……」


 細く長い息を吐き、イメルダは少し冷たい表情を覗かせる。

 イメルダの切れ長の瞳は、深い海の底を思わせる静けさを湛えていた。


「まず、ワタクシの家は生まれながらの貴族ではないと、前置きさせていただきますわ」

「木こりギルドで財を成し、貴族になったのか?」

「えぇ。そういうことですわ」


 国王が統治するような世界では、功績や名声、王国への貢献、潤沢な財産、それらによって貴族へ昇格する者がいる。爵位を与えられるのだ。

 木こりギルドは全区にまたがり活動するかなり権力の強いギルドだ。そこのトップに上り詰めたハビエル家は、貴族に相応しいと認められたのだろう。

 まぁ、納得の功績と反論の余地もない資産だな。


 だが、なぜそんな前置きをしたのか……


「エステラとは、格が違うってことか?」

「まぁ、それはその通りですが……そのことに関してどうこう言うよりも、あらかじめ線引きをしておいた方が分かりやすいと思ってそう申し上げたのですわ」

「線引き?」

「えぇ。ワタクシたちと、領主をはじめとする古くからの貴族は明確に違いますわ。これは、どう足掻いても埋まらない、深い深い溝なのです」


 王族と貴族の間にも、埋めることの出来ない隔たりがある。

 さらに、生粋の貴族と所謂『成金』の貴族の間には明確な差がある……と。


「なぜ、ここで改めてそのようなお話をしたかと申しますと……ワタクシたち、ハビエル家が『ギルド長』だからですわ」

「あ……そうか」


 イメルダは俺が言いたいことを察し、その上であえて分かりやすく差をつけてくれたのだ。


「ヤシロさんの考えはおそらく正しいですわ。貴族には人間しかおりません。言い換えれば……」


 イメルダの顔から一切の表情が消失する。


「獣人族は貴族にはなれませんわ」


 氷の彫刻のような冷たい無表情……

 こういう話をする際に一切の情を見せずにいられるのは、実に貴族らしい振る舞いのように思えた。

 驕ることも、同情することもない。ただ当然の事実として、世の成り立ちを把握している。

 ……こいつの性格上、そういう差別的なものはあまり好きではないはずなのだが……立場上はそれに対し個人の意見を垣間見せるわけにはいかないのだ。

 なぜなら、イメルダは貴族だから。

 貴族は、王族が支配するこの街の成り立ちを否定するわけにはいかないのだ。


「つまり、領主をはじめとする貴族は人間ばかりで、獣人族はそこに入ることが出来ない」

めかけとして……でしたら、その限りではありませんわね」


 妾……か。所謂愛人というヤツだ。貴族なら、愛人の一人や二人囲っているだろう。つか、同じ屋敷に住まわせていることもあるだろう。


「獣人族への差別というものは、確かに存在しましたわ……今では、そんなことを口にする者も限りなく減ってはいますが」


 この街には獣人族が溢れている。

 どいつも皆、前向きに生き、まっとうな暮らしを送っている。

 そこに差別の影は見えない。


「……けれど、完全になくなることもまた…………あり得ないと、思いますわ」


 古くから続いた思想や価値観、制度といったものは、どれだけ時間が経とうが人間の心の奥底で『オリ』のように沈殿しているものなのだ。

 それは時代と共に変化し『暗黙のルール』という形で現在まで受け継がれている。


 獣人族は貴族になれない。


 それはきっと、この街の人間にとっては論争の種にすらならない当然のことなのだ。

 そして、それを混ぜっ返すのはきっと……正義ではない。


 この街の住人が選択した結果なのだ。

 誰もが平穏な暮らしを望み、それが今、こうして実を結んでいる。

 制度を否定することは争いを生み、多くの悲劇をもたらす。


 だからこそ、誰も触れないのだ。


 それに、差別のあった時代からどれほどの時間が経過したのかは知らんが、現状は随分と改善されている。

 その証拠に……


「ギルド長には、獣人族が多いよな」

「そうですわね。ギルドをまとめる資質が問われますもの。生半可な者には務まりませんわ」

「となれば、街門の外で活動するような、狩猟ギルド、海漁ギルドなんかは、獣人族が選ばれて当然というわけか」

「そうですわね。彼らのパワーには、ワタクシたち人間はどう転んでも太刀打ち出来ませんものね」


 ギルドの中で最も強いヤツをギルド長にしようと考えた場合、それは自然と獣人族となることが多い。純粋に、獣人族の身体能力は人間を凌駕しているからだ。

 そう考えると、大食い大会で戦ったゴリラ人族のオースティン、キジ人族のゼノビオスら、獣人族もいる中でギルド長の座に就いているハビエル家の凄さが浮き立つな。

 パワーだけでなく、あらゆる面で優れていたという証左になる。そりゃ、国王から爵位ももらえるよな。納得だ。


「お父様の功績や武勇は数知れず、ギルド長となり、そして王様直々に爵位をいただき……ワタクシたちハビエル家は貴族へとなったんですの」

「つまり、ハビエルが規格外のバケモノだったってわけだな」

「褒め言葉だと、受け取っておきますわ」


 イメルダがくすりと笑みを漏らす。

 じゃあ……ハビエルが引退すれば、こいつはギルド長の家系ではなくなってしまうのか。


「ちなみに、次期ギルド長はワタクシに内定していますわ。木こりギルド満場一致で、決定したことですの」

「わぁ、いいなぁ。バカに愛されてて」


『ギルド長はギルドをまとめ上げられる強者』とかいうこの街の制度を、いとも簡単に捻じ曲げやがったな。あのバカ親&バカギルド構成員。

 まぁ、人気で言えば文句なしなんだろうけどな。


「ワタクシたちハビエル家は、たとえギルド長でなくなったとしても、貴族でなくなることはありませんの。与えられた爵位は、そうそう剥奪されるものではありませんので……でも、だからこそ……」


 いつか見た、強い意志のこもった瞳が俺を見ている。


「ワタクシは木こりギルドのギルド長であり続けたいと思うのです。『ただの貴族』に成り下がらぬように」


 実力もないただの貴族。

 そんなものにはなりたくないと、イメルダなら考えるだろう。実にこいつらしい。


「他のギルド長たちは、どれほどの功績を上げようとも貴族にはなれませんものね」


 事実、メドラやマーシャは貴族ではない。

 あれだけ巨大な権力を誇る狩猟ギルド、海漁ギルドのギルド長であろうと、獣人族は貴族にはなれないのだ。

 もっとも、あの二人なら「貴族に興味なんかない」とか言いそうだけどな。


 と、ここまでの話は概ね俺の想像していた通りのものだった。

 俺が聞きたいのはここからだ。

 すなわち――


「人間と獣人族の結婚ってのは、この街では問題があるのか?」


 アッスントが言った言葉。

『四十二区の中にいては見えてこないことも、多々あるのですよ……この街には』

 あれはつまり、そういうことなんじゃないのか?


 貴族が人間だらけなのだとしたら、中央に行けば行くほど獣人族の数は減り、人間ばかりになるのだろう。そうなれば、獣人族に対する理解度も変わってくる。差別も、より顕著になるだろう。

 アッスントは実績を積み上げて中央区へ食い込もうとしていた。

 もしかしたら…………アッスントが最底辺の四十区から四十二区支部を担当させられているのは、アッスントが獣人族だから……かも、しれない。


 言われてみりゃ、人間と獣人族の夫婦を、俺は見たことがないのだ。

 エステラの両親は共に人間だし、トウモロコシ農家のヤップロック一家はどちらもオコジョ人族だ。

 セロンとウェンディのカップルは異色と言えるのかもしれない。


「問題は、ありませんわ」


 問題『は』ない……

 イメルダが言ったことが正しく、昨今は獣人族に対する差別はほとんどなくなっているのだとすれば、人間と獣人族の結婚に問題などないだろう。

 だが……


「快く思わない者は、少なからずいる……ってことだな?」

「そうですわね。いるのだと思いますわ。確信は持てませんが……いないと言い切る自信もありませんもの」


 ウェンディが家族の話をセロンにしないのはそのためかもしれない。

 もしかしたら、ウェンディの両親は思っているのかもしれないな……かつて、自分たちを差別した『人間』に、可愛い娘を渡したくない……と。


 それに、さっきイメルダが言っていたことも気になる。

 貴族が獣人族を『めかけ』にしているというヤツだ。


 ウェンディの両親が、ウェンディが妾にされると思っている可能性も否定は出来ない。

 セロンは貴族ではないが、『人間はそういう生き物だ』と思い込んでいるのなら、そんなこともあり得るだろう。


「この世界って、重婚は『有り』なのか?」

「『無し』な国があるのですか?」


 あ、そういう認識なんだ……

 まぁ、こういう世界なら一族の断絶とかを物凄く嫌いそうな感じはあるよな。それこそ、跡取りのためにならなんだってやるってのが当たり前な感じだ。


「もっとも、最近では王族や、その周囲の位の高い貴族くらいしかそういうことは致しませんけどね」

「そうなのか?」

「お金がかかりますもの、複数の配偶者を持つということは」

「ま、それもそうか」


 だが、アッスントやポンペーオなら、それくらいの金銭的余裕はありそうだけどな。


「じゃあ、一般人でももちろん重婚は可能なんだな?」

「ええ。制度的には問題はありませんわ。それだけの甲斐性があるのでしたら……」


 と、イメルダの目が一瞬で凍てつくような冷たさを見せる。

 不機嫌というよりかは……なんとなく、殺意に近しいものを感じたのだが…………

 まぁ、さすがにそこまで大それたことではないとは思うが。


「ハビエルにも側室や妾がいたりするのか?」

「もしいたら……」


 ズルリ……と、テーブルの下からハンドアックスが現れた。


「…………ワタクシの手で、とどめを刺しますわ」

「……た、たぶん、無いんじゃないかなぁ……ハビエル、奥さんのこと凄く大切にするタイプっぽいし……はは」


 そこまで大それたことだった……メチャクチャ殺意を振りまいてんじゃねぇか。

 侮蔑、嫌悪、生理的不快感。そんなものを隠すことなく顔に表している。

 イメルダが刃物を持っている姿を初めて見たが……恐ろしいな。一端の木こりとして、街門の外でも逞しくやっていけそうだ。


 話を聞く限り、一夫多妻は認められているが、あまりいい印象は持たれていないようだな。特に、跡取り問題も深刻に受け止められてないような気もするし。

 イメルダもエステラも一人娘なのに、どちらの親も息子を得ようとはしてはいない…………ん、そういえば。


「エステラも複数の婿をもらうことが出来るのか?」

「無理ですわね」


 重婚が認められていると言いながらも、その件に関しては即答で否定された。


「あんな抉れ乳では、結婚そのものが怪しいですわ」

「いや、本人の資質じゃなくて、制度的にな?」


 抉れ乳でもいいってヤツだって一定数いるんだから。

 そうじゃなくてだな……


「それも無理ですわね」

「男が複数の嫁をもらうことは可能でも、逆はダメなのか?」

「貞操観念が緩い女主人など、いい笑い者ですわ。それに、婿が複数となれば、跡取り問題で骨肉の争いは必至……目に見えている争いの火種を歓迎する領民など、いるはずありませんわ」


 どこの領民も、平穏な生活を望んでいるってわけだ。

 領内で権力争いなんか起きた日にゃ、目も当てられないもんな。


「『あくまで』制度として重婚は認められていますが、世間がそれをどう受け止めるかはまた別の話ですから」

「違法ではないってだけで、進んでやるようなことじゃねぇってわけか」

「えぇ。それに、一夫一妻の普遍的な愛こそが美しいと思いませんこと?」

「住民の認識がそういう風に変わってきてるんだな」

「やはり、少々不誠実な気がしますものね、一夫多妻は」

「そんなもんか」

「あら? ヤシロさんは複数の奥方をお持ちになりたいんですの?」


 まさか。

 一人でも手に余りそうなのに、複数なんか御免だね。

 絶対面倒くさいことになる。序列とかヤキモチとか……考えただけでも面倒くさい。

 俺は一人の女性を愛し、愛され………………って、なに言ってんだ俺?


 自分の思考に、ちょっと照れてしまった。


 そもそも、俺なんかが結婚なんて……ないない。似合わねぇよ。

 ……俺のことなんかどうでもいいんだっつの。


 俺が黙ってしまったせいか、イメルダの視線が鋭さを増す。まるで、俺の脳内を透視でもしようとしているようだ。

 ……やめろ。そんな目で俺を見るな。穴が開いたらどうする。


「ごほん!」


 なんだか纏わりつくような嫌な空気になったので、咳払いを一つ挟み込む。

 ……ったく、イメルダのヤツめ……ったく、ったく。


「これまでの話をひっくるめて、一つ聞かせてほしい」


 貴族は人間でなければなれない。

 貴族でなくても、人間という種族は若干高く見られており、獣人族とは区別されている節がある。

 重婚は制度的に認められており、中央区辺りでは側室や妾を囲っている貴族もいるだろう。

 ただし、獣人族は側室にすらなれず、妾扱いが精々だ。


 そして、一般人であろうとも重婚は可能である。ただし、それは倫理的にあまり好ましいものではない……と。


 つまり、獣人族であるウェンディの家族が、人間のセロンとの結婚において『ウチの娘は人間の妾にされる』または、『それと同等の扱いを受けるのではないか』と考えることになんら不思議はないってわけだ。

 そしておそらく、セロンもウェンディもそのことを重々承知している。


 これはもしかして……結構根深い問題かもしれんな…………


 少し、胸の奥の方が重苦しい感情に押し潰されそうになる。

 四十二区の中から出なければ、きっとセロンたちの結婚は上手くいくだろう。なんの問題もない、幸せな生活が送れるに違いない。

 なにせ、領主があのエステラなのだ。スラム問題をも乗り越えたこの四十二区には、差別なんてもんはもはや存在しないし、エステラがそれをさせないはずだ。


 だが、問題は三十五区に住んでいるというウェンディの両親…………


「なぁ、イメルダ。お前の考えでいい。なんの確証もなくて構わないから、思うままに答えてほしいんだが……」


 ただの世間話程度の信憑性で構わない。

 俺以外の人間の意見が聞きたかった。


「セロンとウェンディの結婚は、上手くいくと思うか?」

「いくと思いますわ」


 あっさりと、イメルダはそう答える。

 さも、当然のことであるかのように。

 そして。


「だって、ヤシロさんがそうなるように動くのでしょう?」


 期待を込めた視線を向けられた。


 いや、まぁ……そうなるようにするつもりだけどさ。

 そういうことじゃなくて、客観的な意見をだな…………


「好きな人と一緒にいたい……その気持ちと同じくらいに、好きな人には満たされていてほしい……そう思う気持ちは、ワタクシにも分かりますわ」


 ふと、乙女のような柔らかい表情を覗かせる。

 当たり前なのだが……イメルダも女の子なんだなと、思った。


「みんなが幸せになれる結末を、期待していますわ」

「……俺に過度の期待をするなよ。小心者なんだから」

「うふふ……面白い冗談ですわ」


 ふん。信じちゃいねぇか。


 聞きたいことも聞けたし、なんとなく問題のアウトラインも見えてきた。

 俺は席を立ち、イメルダに礼を述べる。

 すると、玄関まで見送りに来てくれたイメルダが、別れ際にこんなことを言ってきた。


「頼ってくださって、嬉しかったですわ。また、いつでも頼りに来てくださいまし」


 清々しく晴れた青空によく映える、爽やかな笑顔だった。 

 こんなことで喜ばれると、なんだか悪い気もしないではないが……また何かと力を借りることになるだろうし、その時は盛大に甘えてやろうと思った。






 イメルダの家を出て、陽だまり亭へと戻ってくる。

 店内に入ると……


「……マグダはこれがいい」

「あー! それあたしも狙ってたです! 微かにですが一番大きいヤツです!」

「あの、お二人とも。どれも同じ大きさですから。ね? 仲良く分けましょう」


 一つのテーブルを囲み、ジネットたちが何やら騒いでいた。


「何やってんだ?」

「あ、ヤシロさん。お帰りなさい」


 ジネットが俺に笑みを向けてくれる。が、マグダとロレッタはテーブルの上に置かれた物に夢中なようだった。


「チーズタルトか?」

「はい。『檸檬』のオーナーさんが、新作を作ったのでと持ってきてくださったんです」


 それは、ほのかに黄みがかったレアチーズのタルトだった。

 直径8センチ程度のチーズタルトが、綺麗に四等分されている。


「みんなで一緒に食べようと思いまして」


 一人前の小さなタルトを、包丁で細かく切り分けて……

 こんなもん、お前が食っちまえばよかったんだよ。二口ほどで完食出来るようなサイズだ。

 それを、こんな細かく分けて……


「……こういうのは可愛い順で選ぶものだから、ロレッタは後で」

「酷いです、マグダっちょ!? あたしもマグダっちょに負けず劣らず可愛いですよ!?」

「お二人とも。それくらいにしてみんなでいただきましょう」


 全員の前にチーズタルトを一つずつ配り、ぽんと手を合わせてジネットは言う。


「みんなで食べると、美味しいですからね」


 一片の曇りもない、ヒマワリのような笑顔を浮かべるジネットを見て、俺はどこかでほっとしていた。

 少なくとも……



 ここには、くだらない差別なんてものは入り込む余地すらないのだと、そう思えたから。





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