144話 あの頃の陽だまり亭
個室。
それは、俺だけが存在するプライベートスペース。
何人たりとも、この聖域を侵すことは許されな……
「お兄~ちゃ~ん! いつまでこもってるです~!?」
騒音が俺の聖域に割り込んでくる……
だが、そんなことで心を乱されることなどない。俺はこの聖域にいる限り無敵……
「も~ぅ、いい加減にしないとドア壊しちゃうですよ~……あ、開いてるです?」
聖域のドアが開けられた。
「人がトイレに入ってる時にドアを開けるんじゃねぇよ」
「うおぅっ!? まぶしっ!? 眩しいです、お兄ちゃん!?」
俺が小一時間トイレに立てこもり、懸命に便器を磨き上げていたところへ、ロレッタが乱入してきた。
「お腹でも壊してこもっているのかと思いきや……お掃除してたですか?」
「おう! トイレを綺麗にするとな、美人になるんだぜ!」
「…………さっぱり意味が分からないですが?」
まぁ、そりゃそうか。
「いくらお店が暇だからって、一時間もトイレを占領されると困るです」
「なんだ、トイレか? していいぞ。俺は邪魔にならないように便器を磨いているから」
「邪魔ですよ!? 物凄く邪魔ですからね、それ!?」
「お前っ、トイレを独り占めする気か!?」
「トイレは普通そういうもんですよっ!? で、今まで占領してたのはお兄ちゃんですよ!?」
まったく、何も分かっていないヤツだ。
飲食店において、水周りの清潔さがいかに大切か……そこが綺麗なだけで、どれだけ客に与える印象が変わると思ってるんだ……
「俺はな。入った瞬間に眼球が潰れるくらいに便器を輝かせたいんだ!」
「やめてです! 全力でやめてほしいです!」
水周りの重要さを理解しないロレッタに強制的に連れ出されてしまった。
おのれ、俺の使命を……俺の夢を……っ!
「あ、ヤシロさん。お掃除終わりましたか? ご苦労様です」
「やぁ、なに! 大したことじゃない! あ、そうだ! 今度は庭の草むしりをしてこよう! うん、そうしよう! じゃあな!」
ロレッタの腕を振り解き、俺は大急ぎで庭へと飛び出す。
「…………はぁ。ダメだ……」
今朝のことがあって、ジネットの顔がまともに見られない……
爺さんの話を聞いて……ジネットの過去の話を聞いて……俺は思わずジネットを抱きしめてしまったのだ。
「あぁ…………なんてことをしちまったんだ……」
くそ、せめて「おっぱいぽぃ~んで腕が回らなかったぜぇ!」とか、ウィットに富んだジョークでもかましておけば、まだ普通に接することが出来ただろうものを……
「はぁぁあ…………草、むしろう……」
考えても仕方ない。
こういうのは時間が解決してくれる。
つか、ジネットがすげぇ普通なんだよな…………なんとも思ってないのか?
ちょっと前は、俺がどこかに行こうとするだけで寂しそうな顔をしていたってのに、最近は一人ぼっちになることへの不安を見せないようになっている。
大会の後からだ。
…………まさか、大会で恋の芽が………………?
「うん、ないな」
ないない。あり得ない。あるわけがない。
そう思える理由?
んなもん、『俺が認めないから』だよ!
「あら、ヤシロちゃん。珍しいわねぇ。お仕事してるの?」
聞き覚えのある声がして、顔を上げる。
と、ムム婆さんが梅干しみたいなシワシワの顔をして立っていた。
「婆さんを見ると、炊きたての白飯が食いたくなるな」
「あらあら、そうなのぉ? うふふ」
この婆さんには、どんなイヤミも皮肉も通用しない。ある意味、最強のポジティブ人間なのだ。ポジティブというか、どんな悪意をも吸収昇華してしまう善意の塊のような婆さんなのだ。
…………即身仏?
「拝んでいいか?」
「あらあら。お迎えには、まだちょっと早いみたいだけどねぇ」
……この婆さん、どんな悪口も世間話に変えちまいそうだな。
「ジネットなら中にいるぞ」
「あら、そう。あ、そうだ。ねぇ、ヤシロちゃん」
食堂に入ろうとした婆さんが、手を叩き、くるりとこちらを振り返る。
「コーヒーゼリー、『てーかーとー』出来ないかしら?」
「……『テイクアウト』か?」
「そうそう、それそれ。ダメかしらねぇ?」
テイクアウトとなると、弁当箱に詰め込むことになるが……
「今んとこは出来ないな」
今後考えるにしても、今は無理だ。そういうサービスをやっていない。
例外を認めると色々厄介なこともあるしな。
品質が落ちるとか、最悪、食中毒とか……
「あら……そう……。まぁ、しょうがないわよね。ごめんなさいねぇ、変なこと聞いて」
一瞬だけ落ち込んだ婆さんは、息を吸うように機嫌を直し、ルンルン気分で食堂へと入っていった。
……なんか、気になるな。
俺は立ち上がり、たまたまいいタイミングで「あ、ヤシロさん。ご飯食べに来たッスー!」と現れたウーマロの服で手についた土を拭き、食堂へと入った。
「ちょっと!? いきなり何するんッスかぁー!?」
「あれ、ウーマロ。いたのか?」
「無意識っ!? 無意識でこの仕打ちッスか!?」
なんか喚いているが、まぁ気にする必要もないだろう。
だってウーマロだし。
「ジネットちゃん。こんにちは」
「あ、ムムお婆さん! こんにちは!」
相変わらず、ジネットは婆さんを見ると嬉しそうな顔をするな。
やっぱご利益でもあるのかな?
「いつものお茶でいいですか?」
「あ、今日はね、違うのよぉ」
「違う?」
「実はねぇ、お薬をもらいに来たの」
「ム、ムムお婆さんっ、どこか具合が悪いんですか!?」
顔色を変え、ジネットが婆さんに駆け寄る。
肩に手を添え、まじまじと顔を覗き込む。
「あらあら。違うのよぉ。私じゃないの」
「あ……違うんですか……よかった」
ホッと息を漏らし、でもすぐさま不安げな表情で婆さんに尋ねる。
「どなたか、具合の良くない方がいらっしゃるんですか?」
「えぇ。ジネットちゃん、ゼルマルって、覚えてる? ほら、あの厳つい顔の」
ゼルマル。聞いたことがない名前だ。
「はい。覚えています。お爺さんとよく……あの、ケンカを」
「そうそう。陽だまりの爺さんといつも口喧嘩してた、あのゼルマルよ」
爺さんの知り合いらしい。
ってことは、そのゼルマルもジジイなんだろうな。
「アレがねぇ……ちょっと熱を出しちゃってねぇ……全然下がらないのよ」
「そんな……っ!?」
ジネットの顔が真っ青になる。
まぁ、婆さんや爺さんの知り合いなら、ジネットにとっても大切なジジイなんだろう。心配もするだろうな。……つうか、ジジイババアが一気に増えてどのジジイか分かんなくなってきたな……
「そんな……歩けないほどお悪いんでしょうか……?」
「うぅん。そんなことないのよ。今朝もね、私んところまで来て『おかゆ作れ』とか『看病しに来い』とか、わざわざ言いに来たんだから。大通りの向こうに住んでるのに、わざわざよ。ふふふ……全然元気なのよ」
じゃあ野放しにしといても大丈夫だろう。
つか、そのジジイ、この婆さんに惚れてるのか? …………見たくないなぁ、よぼよぼラブストーリー。
「それでね、『だったら、ジネットちゃんのところに薬があるから、もらってきなさい』って言ったんだけど……アレ、偏屈でしょう? 陽だまりの爺さんが亡くなってから、な~んでか意固地になっちゃって、ここには来たくないって……」
「……そう、ですか…………」
「あら……あらあら、あの……ごめんなさいね。私ったら……あら……」
『ここには来たくない』
そんな言葉が、ジネットに刺さったのだろう。
爺さんの古い知り合いに拒絶されるのはつらいようだ。
まぁ、俺が来てから一度も見たことがないからな。ずっと避けられてたんだろうな。
「でも、あまり酷くないようで安心しました。お薬、渡してあげてください。それから………………」
何かを言いかけ、やめる。そして、再び口を開いて出てきた言葉は……
「『お大事に』と、伝えてください」
……おそらく、最初に言おうとした言葉とは違うものだったのだろう。
これは推測でしかないが、最初にジネットが言おうとした言葉はこうだ。
『また、陽だまり亭に来てください』
そう、伝えたかったに違いない。
ジネット検定準一級同等の資格を持つ俺にかかれば、顔を見ただけでそれくらいのことは読み取れるのだ。
ったく。しょうがねぇな。
「婆さん。その……えっと、なんだっけ……『絶滅』?」
「ゼルマルのことかい? ヤシロちゃん」
「あぁ、そうそう、その死にかけのジジイ」
「ヤシロさん……」
ジネットがちょっと怒った目で見てくる。
……いや、不謹慎なギャグって、こう、逆に? 場の空気を軽くする効果が……悪かったって。もう言わねぇよ。
「ゼルマルの容体はどうなんだ?」
「容体? ……そうねぇ、熱があるって言ってたねぇ」
「何度くらいだ?」
「さぁ……そこまでは聞いていないねぇ」
「ふむ……困ったな」
と、俺は腕を組んでみせる。
もちろん、この婆さんをいじめたくてこんなことをしているわけではない。
「食欲の有無や、腹の調子が悪くないか、頭痛や吐き気は無いか、脱水症状は起こしてないか……と、薬を処方する前に色々と調べないと大変なことになるんだ」
とか、もっともらしいことを言ってみる。
「そうなのかい? あらあら……私、もっとちゃんと聞いてくればよかったねぇ」
「いやいや。婆さんが知らせてくれたおかげで次の手が打てるんだ。婆さん、グッジョブだ!」
「『ごっじょぬ』? なぁに、それ。ハイカラねぇ」
ハイカラって……
「あの、ヤシロさん。それでは、ゼルマルさんは……どう、なるのでしょうか?」
「ん? 心配か?」
「はい。それはもちろん。……お爺さんの、大切なご友人でしたから」
店に顔を出さなくなった元常連。
気にはしつつも、ジネットの方から「来い」とは言いにくかったのだろう。
そして、時間が経ち過ぎて、今度は気軽に会いに行くことすら出来なくなっている。
同じ四十二区内に住んでいながら、ジネットはそのゼルマルとかいうジジイにずっと会っていないのだ。
体調を崩したと聞いただけで、こんなに心配するくせに。
だったら――
「そうか。ならすぐに準備しろ」
「え?」
「診察に行くぞ、そのゼルマルのところへ」
「えぇっ!?」
――無理矢理連れ出してやる。
この先ずっと気にして、不安げな顔をし続けるくらいなら、相手に迷惑をかけてでもスッキリさせてやった方がいい。
自己満足? あぁ、その通りだ!
親切なんてもんは、される側のメリットばかりが大きいんだ。する方にだってちょっとくらいメリットがあってもいいだろう。
ま、俺が会いたくないヤツに同じことをやられたら、問答無用でぶっ飛ばすけどな。
小さな親切大きなお世話だっつうの。
「でも、あの……ご迷惑ではないでしょうか? もしかしたら、ゼルマルさんは、わたしには会いたくないかもしれませんし……」
「そんなことないわよぉ、ジネットちゃん」
ジネットの不安を払いのけるように、婆さんがジネットの腕を叩く。
「アレはね、ことあるごとにジネットちゃんのことを聞いてくるのよ? やれ『店は上手くいってるのか』、やれ『働き過ぎてないか』ってね」
「そう……だったんですか?」
婆さんの言葉に、ジネットは目を丸くする。
話を聞く限り、なんとなく疎遠になり、お互いに会う口実を失ってしまったという感じか。
まぁ、ジネットにとっては祖父で、ゼルマルにとっては友人であった爺さんがいなくなったんだ。会いにくくなる気持ちも分かる。
「ジネット。これは置き薬を預かっている陽だまり亭の責務だ。ここに来ることが出来ない患者がいるなら往診に行ってやらなきゃいかん。そうは思わんか?」
弱い者を放っておけないジネットの性格を利用し、意地の悪い質問を投げかける。
『ノー』とは言えない、結果ありきの質問だ。
「……そう、ですよね」
ジネットは小さく頷き、それでも少し不安そうに顔を上げる。
「大丈夫だ。もしゼルマルがお前に『何しに来た、帰れ!』とか抜かしやがったら、俺がソッコーで息の根を止めてやるから」
「いえ、それはやめてくださいねっ」
なんでだ? さすがの俺も、ジジイくらいには勝てるぞ?
「あ、でも……お店はどうしましょうか」
「マグダとロレッタに任せればいい」
言いながら、俺は頼もしく成長した二人の従業員の間に立つ。
二人の肩に手を置いて、そしてはっきりと言う。
「こいつらは、もう十分一人前だ。信じて任せてやればいい」
「ほゎぁあああっ!? お、おに、お兄ちゃんが、あ、あたしを認めてくれたですっ!? こ、これは一大事です!」
「……確かに……少し、嬉しい」
ロレッタとマグダは大いに喜び、そして自信に満ち溢れた表情で胸を張る。
「任せてです、店長さん! あたしがばっさばっさとお客さんを捌いてみせるです!」
「……マグダがロレッタとウーマロを上手く操縦して乗り切ってみせる」
「はぁぁあん! さり気なく数に入れられてるッスけど、マグダたんはマジ天使ッス!」
頼もしい表明と変態の雄叫びを聞き、ジネットに視線を向ける。
「だ、そうだぞ」
「……みなさん」
ジネットはくすぐったそうな、でもとても嬉しそうな表情を浮かべ、深々と頭を下げた。
「では、みなさん。留守中、よろしくお願いいたします」
「はいです!」
「……任せて」
「オイラも頑張るッス!」
いや、ウーマロ。お前は街門と街道を早く完成させてくれ。な?
「あの、ヤシロさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げるジネット。
おいおい、気が早いだろ。
「ゼルマルに薬を渡してからにしてくれ」
「あ、そうですね。では、また後で」
嬉しそうに言って、ジネットは薬箱を取りに向かう。
「ヤシロちゃん」
ジネットが行ったのを見計らって、婆さんが俺に声をかける。
「あんた、ずっとジネットちゃんとこにいてあげてくれるのかい?」
……ドストレートに答えにくい質問を…………
「……神のみぞ知る、だな」
「あら、そうなの。うふふ。それじゃあ安心ね」
何に安堵したのか、婆さんはすっかりしぼんでしまった胸を撫でる。
「今日という日に、それを聞けてよかったわ」
にこにこと、いつもの笑顔を浮かべる婆さん。
その言葉と、微かに漂うどこか特別な雰囲気で分かる。
あえて口にはしないが、こいつもちゃんと覚えてるんだな、ジネットの爺さんの命日を。
「ヤシロさん、準備が出来ました」
「んじゃ行くか」
婆さんにも付いてきてほしかったのだが、仕事があるそうで無理だった。
場所はジネットが知っているようなので、二人でゼルマルの家へと向かうことにした。
ゼルマルの家はおんぼろの木造一階建てで、平屋ではあるが横に長く、住居と何かの作業場が併設されているような建物だった。
場所は、大通りを渡った、もっとずっと先、レジーナの家の近くだ。
「じゃあ、レジーナのとこに行きゃいいのにな」
「……そうなると、たぶんレジーナさんが……」
何か、とても言いにくいことでも言おうとしたのか、ジネットが盛大に口ごもった。
その時。
「誰じゃ、ワシの家に勝手に入っとるのは!?」
背後からしわがれた声が飛んできた。
「あ……っ」
「おっ……あんたは……」
振り返ったジネットと、その視線の先にいた干しブドウみたいにしわだらけのジジイが揃って目を丸くする。
「ジネット。こいつが……?」
「はい……」
「干しブドウか?」
「違います! ゼルマルさんです!」
なんか、物凄く驚いた顔をされた。
そんなに驚くほどのことでもなかろうに。
「あ、あの……ゼルマルさん。ご無沙汰しております」
「お……おぉ。元気そうじゃな」
「はい。おかげ様で」
「そうか……元気か…………そうか」
居心地が悪そうに、ジジイが視線をさまよわせている。
「ジジイがもじもじしてても一切可愛くないな」
「なんじゃ、この無礼なクソガキは!?」
俺には元気に怒鳴るんだな。
本当に病気なのか?
「あの、ゼルマルさん。こちらは、オオバヤシロさんといいまして、今、陽だまり亭で一緒に働いている方なんです」
「ほぅ…………お主が、オオバか……」
……『大馬鹿』って言われた気がして、ちょっとムッとした。
「何やら、色々と目立っておるようじゃのぅ」
「ご覧の通りのイケメンでな」
「ワシの若い頃の方がずっとハンサムじゃったわい!」
ハンサムときたか……
なんだこのジジイは。負けず嫌いか?
「お主……その娘に、妙な真似はしとらんじゃろうの?」
「その娘って誰だよ? 名前くらい呼んでやれよ、ジジイ」
「誰がジジイじゃ!?」
「お前だよ!」
「ワシはまだ若い! まだまだ若いもんには…………ごほっごほっ!」
「ゼルマルさん!」
はしゃぎ過ぎてむせ出したジジイに、ジネットが駆け寄り、背中をさすってやる。
「あぁ! だ、大丈夫じゃ! 陽だまりの爺さんの孫にそんなことをさせては申し訳が立たん!」
しかし、ジジイはすぐさまジネットから離れる。
「何を照れてんだよ、ジジイ。年甲斐もなく」
「バッ、バッカモン! 結納も済ませとらん男女が触れ合うなど、あってはならんことじゃろうが!」
結納……って、この世界にその概念があるのか?
「あのな、ジジイ。今の時代、手とかおっぱいくらいは触れ合って当然なんだよ」
「おっぱいはダメですよ!? ……はっ!? な、なんて言葉を言わせるんですか!?」
今の『おっぱい』発言は自爆だろうよ。
「クソガキ……貴様ッ!?」
「まてまて、戦時中の兵隊みたいな目で俺を見るな、ジジイ」
拳を振り上げてぷるぷる震えるジジイの腕を押さえる。
と、……結構熱いな。
「ジジイ、熱が相当あるのに、なに出歩いてるんだよ。家で寝てろ」
「ふん! 熱くらいで家に閉じこもっておったらウィルスに舐められるわい!」
ウィルスという言葉がこれほど似合わない人物もそうそういまい。
出来る限り横文字は使わないでくれ。違和感が半端ない。
「今日は、ムム婆さんに言われてお前の診察に来たんだよ。ババアとジネット、二人に心配かけて、それでも駄々をこねるなんて男らしくないんじゃないのか?」
「なんじゃと!?」
「男なら、この一時をグッとこらえて、さっさと病を治し、婦女子に安心を与えてやれよ」
「…………クソガキが、いっぱしの口を利きおるわい…………いいじゃろう。上がれ」
このタイプのジジイなら、こう言われると逆らえないだろうなと踏んだ通りの結果になったな。
ここまで分かりやすい性格だと扱いやすくて助かるぜ。
ジジイの家は、必要最低限の物しか置いていない、簡素なものだった。
「ジジイは今、なんの仕事してんだ?」
「仕事なんぞしとらんわ……とうに引退しとるわ」
この街にも引退って制度はあるんだな。……まだまだ働けそうだけどな、このジジイは。
「ムム婆さんは自営業だから引退が遅いのか?」
「はい。ウチのお爺さんも、最期の時までお店に出ていましたし」
ジネットの言葉に、ゼルマルのジジイは顔をしかめる。
『最期の時』ってのが、ちょっと刺さったようだ。
「あ……すみません」
「あぁ、いや…………気にせんでくれ」
ジネットもそれに気付いて、少ししんみりした空気が漂い始める。
あぁ、俺、この空気嫌い。
「じゃ、診察を始めるぞ。ジジイ、舌を出せ」
「バッ、バカモン! 婦女子の前でおパンツなんぞさらけ出せるか!」
「『下』じゃねぇ『舌』だよ! あと『おパンツ』言うな!」
つうかさ……こっちでも似てるのか、『下』と『舌』……なぁ、『強制翻訳魔法』よ?
ジジイの診察をした結果、まぁただの風邪だろうと見当をつける。
解熱剤でも飲ませときゃいいだろう。悪化したらレジーナに助けてもらえ。
……あぁ、なるほど。さっきジネットが言いかけたことが分かった。
このジジイが客で来たら、確かにレジーナはぶっ倒れるかもしれないな。色々怒鳴られそうだもんな。
「あの、もし食欲があるようでしたら、何かお作りしましょうか?」
「や。構わんでくれ」
ジネットの申し出をきっぱりと断るジジイ。
「そうですか。すみませんでした、差し出がましい真似を」
「いや……結納も交わしてない婦女子に手料理を作ってもらうなど……」
「いや、ジジイ。お前ムム婆さんにおかゆねだったんだろ?」
「なっ!? なんでお主がそれを知っとるんじゃ!?」
「いや、ムム婆さんに聞いたしよ」
「違うんじゃ! 違うんじゃ! 別に深い意味などないんじゃ!」
と、顔を真っ赤にして否定した後、頭からすっぽり布団を被って隠れるジジイ。
……純愛してんじゃねぇよ、シワシワのカッサカサのクセに。
「このジジイ、ムム婆さんに惚れてんだな」
「実は……昔からなんです」
布団に包まるジジイに気を配り、小声で耳打ちしてくるジネット。
「昔から、ウチのお爺さんと二人でムムお婆さんを取り合っていたんだそうです」
「やめて……ジジババのラブコメとか、笑えない」
「結局、決着はつかず、どちらとも付き合わないまま、現在に至っているんです」
「はっ!?」
え、……じゃあなに?
「こいつらって、もしかして…………未婚?」
「はい。ウチのお爺さんも未婚でしたよ」
……何十年片想いしてんだよ、お前ら……ちょっと、引くわ。
「ジネット、おかゆか雑炊でも作ってやれ」
「え……でも」
「いいから。俺が許可する」
「はいっ!」
嬉しそうに返事をして、ジネットが厨房へと駆けていく。
「……勝手なことをしおって。人の家で……」
古民家に住み着いた妖怪のように、布団から顔だけを出してこちらを睨みつけてくるジジイ。
「文句があるなら気合いで治せ。治してから陽だまり亭に言いに来い。そうしたら聞いてやる」
「ふん……今更…………」
ジジイが、ぽつりと呟く。
「今更……行けるもんかい。陽だまりの爺さんが死んじまって……ずっと行けなかったんじゃ。あの娘が大変な時も、ワシは…………今更、どのツラ下げて陽だまり亭になんぞ行けるか」
あぁ、面倒くさい。とても面倒くさいジジイだ。
「ジジイ。臭い」
「誰が臭いか!?」
「すまん、ちょっと言葉が足りんかった。面倒くさい、だ」
「……ふん!」
ずっと行かなかったから行きにくい。
ジネットにしたって、ずっと来なかったのだから呼びにくい。
その実、ジジイは行きたいし、ジネットは来てほしいのだ。
けれど、このジジイはその単純な感情すらも理屈で捻じ曲げ、頑なに拒否し続けている。
「その薬代、陽だまり亭で受け取るから」
「なんじゃと!?」
「今、細かいものがないんだよ」
「……口の達者なヤツじゃ」
さて、これで観念してくれりゃあいいんだが……
「あ、あの、ゼルマルさん」
厨房へ向かったと思っていたジネットがすぐそこに立っていた。
「ムムお婆さんから伺いました。コーヒーゼリーを食べてみたいって」
「……う…………いや、それは……」
「食べに来ていただけませんか? 一度でも、構いませんので」
「う……むぅ…………」
「コーヒー豆がたくさんありまして。メニューにコーヒーを載せても飲まれる方が少なくて……余らせるのももったいないですし……是非に」
ジネットは、変わった。
自分の意志を、多少卑怯な手を使ってでも……貫ける強さを、得た。
人を動かすと、そこには責任が生じる。その責任を恐れることなく、ジネットは人を動かそうとしている。
「…………うむ、分かった。そういう事情があるなら……し、しょうがない、のぅ」
そして、見事に動かしてみせやがった。
「オルキオに、ボッバ、フロフトも呼んで、近いうちに顔を出す」
「はい。お待ちしております」
「……ふん。少し寝る。粥が出来たら、置いておいてくれ」
「はい。おやすみなさい。ゼルマルさん」
ジジイが名を上げた連中は、きっと昔の陽だまり亭の常連客だったのだろう。
そいつらも、きっと……顔を出したいのに出せなかったんだろうな。
「ジジイ。勝手にくたばって薬代踏み倒すんじゃねぇぞ」
「ふん! お主なんぞに心配されんでも大丈夫じゃわい!」
悪態を吐いて、ジジイは頭から布団を被る。
「……今日という日に、あの娘が会いに来たのも何かの縁じゃ……必ず行くわい」
それだけ言うと、ゼルマルのジジイは早々に寝息を立て始めてしまった。
寝るの早ぇな、ジジイは。
その日はそのまま退散し、陽だまり亭にてジジイたちの来訪を待つことになった。
それから二日後。
ジジイたちはまだ来ない。
「お風邪が長引いていらっしゃるんでしょうか?」
「大丈夫だろう。ウィルスに負けそうもないほど元気だったしよ」
「そうですね」
そう返してくる声も、どこか弱々しい。
「……もしかして、わたしのことが…………気に入らないのでしょうか」
「それはない」
それだけは、きっぱりと断言出来る。
「……言い切りましたね」
「当たり前だ。ムム婆さんとゼルマルのジジイは、お前の爺さんをなんて呼んでたよ?」
「え…………『陽だまりの爺さん』……ですけれど」
「あいつらの年齢は近しいんだろ?」
「はい。ゼルマルさんとウチのお爺さんは同い歳だったと伺っています」
なら確定じゃねぇか。
「同い歳の爺さん相手に、なんでゼルマルのジジイとムム婆さんが『陽だまりの爺さん』などと呼んでいるのか……お前、分かるか?」
「えっ……あの…………すみません、分かりません」
「お前がいるからだよ」
一般家庭でも、子供が生まれるとお互いを『パパ』『ママ』なんて呼び合ったりする。弟や妹が増えた時は『お兄ちゃん』『お姉ちゃん』と呼ばれるもんだ。
「お前が中心だったんだよ。この陽だまり亭は」
お前から見て、爺さんに当たるから、『陽だまりの爺さん』なんて呼び名が定着したんだよ、ここの爺さんは。
「……わたしが…………?」
「まぁ、心配しなくてもそのうち……」
と、俺が言い切る前に、陽だまり亭のドアが開かれ、しなびたミカンみたいなシワシワの顔をしたジジイが四人来店した。
「ゼルマルさん、オルキオさんにボッバさんにフロフトさんも!」
「私もいるよ、ジネットちゃん」
「ムムお婆さん!」
しわだらけのジジイ四人に続いて、しわしわババアが来店し、店内のシワ率をグッと引き上げる。
五人の来店に、ジネットは今にも泣きそうなほど喜んで、五人のジジババを席へと案内している。
「おぉ、綺麗になっとるのぅ!」
「陽だまりの爺さんにはもったいない店じゃな」
「久しぶりにコーヒーが飲めるのか。楽しみじゃ」
「あの小っちゃかった子が、こんなに立派に…………うぅっ」
「バカだね。何泣いてんだい。ジジイが、みっともない」
「さぁ、みなさん。ごゆっくりしていってくださいね」
ジジイたちは、最初こそぎこちなくといった感じだったのだが、次第に落ち着き、思い出話に花を咲かせ始めた。
コーヒーを持ってきたジネット。
出されるコーヒーゼリーに興味津々のジジイたち。
たまに発せられる、ツボの全然分からないジジイジョーク。しかも、そこそこウケている。
あぁ……これかぁ…………と、思った。
俺は一人、少し離れた場所からそのジジイたちの輪を眺めていた。
内装こそ変わってしまったが、これこそがジネットの言っていた『あの頃の陽だまり亭』の姿なんだ。
やたらと声のデカいジジイが悪態を吐き、それを周りの連中が大笑いして受け流す。
ジネットも楽しそうに笑っている。
自然と集まり、バカ話に花を咲かせて、みんなで笑顔になれるお店
それが、陽だまり亭だ。
今、目の前に広がっているのは……俺の知らない陽だまり亭。
ジネットが子供の頃毎日のように見ていた風景……
ジネットが望んでいた、かつての陽だまり亭……
時間はかかったけれど……戻ってきたのだ、当時の風景が…………
俺は、いつの頃からかずっと肌身離さず持ち歩いているポケットの中の20Rbを握りしめる。
俺が食い逃げをしたクズ野菜炒めの料金――20Rbだ。
これをジネットに返せば……俺は…………本当に…………
「ヤシロさん」
不意に、ジネットが俺を呼ぶ。
そして――
「ヤシロさんもご一緒にいかがですか、コーヒーゼリー?」
俺をその輪の中へと誘う。
あの頃の陽だまり亭へと……
「あぁ……」
握りしめた20Rbを、そっと手放す。
「今行く」
俺はこの時、少しだけ嬉しいと思っていた……俺の知らないジネットの世界に招き入れてもらえたことが、なんだか嬉しかった。
本当に、ガキみたいなヤキモチだったのかもしれないが…………
過去だろうがなんだろうが、ジネットの隣に俺の立つ場所がなかったことを、俺はイヤだと感じていたのだろう。
口の悪いジジイどもの輪に入り、俺も負けじと悪態を吐く。
言い返されても屁理屈で返す。ああ言われればこう言い、こう言われればそう言い返す。
そうして、ちゃっかりと……ジネットの横に立っていた。
あぁ、ちきしょう…………なんでこんなに落ち着くのかなぁ……この場所は。
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