143話 コーヒーの記憶

「でな! その時のネフェリーさんの美しさたるや……あぁ、今思い出しても胸がときめくぜぇ……スラリとした両手を広げて大空に向かってぴょんぴょん跳びはねる様は……まるで白鳥のように華麗だったなぁ……」

「残念だな、それはニワトリだ」


 ラストオーダーもとうに過ぎたというのに、四十区のパーシーがまだ陽だまり亭でくだらない世間話を繰り広げている。


 エステラから街門関連の説明を受けた数日後。

 今日は朝から適度に混み、適度に空き……というか、ダラダラと客足が途絶えず、頑張るのも休むのもどっちもなんだかなぁという感じの……微妙に疲れる一日だった。

 来るなら来てくれた方が諦めがつくのだ。

 接客業は、待機よりも、走り回ってる方が楽だったりもするからな。

 だが、今日みたいに手すきなのに客が途絶えない日というのは、ちょっと精神的にも肉体的にも疲労が溜まってしまうのだ。


 で、そんな一日のとどめが、このバカタヌキだ。


「早く帰れよ。馬車、無くなるぞ」


 大会が終わった後も、四十二区の街門の工事やその他諸々と、三区の交流は盛んになったままなので、馬車の定期便は運行を継続している。


「あ、もうこんな時間かぁ……終電無くなっちゃったぁ、泊めてくんない?」

「お前はどこの肉食系女子だ」


 あとな、『強制翻訳魔法』……「馬車」だから! 『終電』じゃねぇだろ!? 「その方が雰囲気出るでしょ?」的な変な気の遣い方しなくていいから!


「あっ! やっぱりここにいたぁ」


 閉店間際という、夜遅い時間に一人の少女が陽だまり亭へやって来る。頭にタヌキの耳を生やしたしっかり者の女の子。パーシーの妹のモリーだ。


「兄ちゃん。明日は砂糖の大量出荷の日でしょ。朝早いんだから、早く帰ってきてよね」

「えぇ~! い~じゃん、モリ~! 今日だけ!」

「だから……明日の朝から行商ギルドの人と大型取引があるんだよ。今日こそ帰らなきゃダメでしょ?」

「モリーが出来んじゃん。交渉、オレより上手いしさぁ。モリー可愛いから、行商ギルドのオッサンも高めに買ってくれんじゃねぇか? あはは………………モリーをそういう目で見るヤツは許さねぇ!」

「ごめんなさい、ヤシロさん。うるさい兄ちゃんで」

「いや、モリーは悪くない。罰は兄貴が受けるべきだ」


 そういや月の中頃を過ぎると大きな取引が頻発するとか言ってたっけな、アッスントが。

 そういうことなら代表者は帰らなきゃいかんよな。つうか帰れ。


「今日はオレ、陽だまり亭に泊まりたい気分なんだよ!」

「俺は今すぐお引き取り願いたい気分だが」

「またまたぁ! あんちゃん、冗談ばっかりぃ~!」

「兄ちゃん。ヤシロさんの目、全っ然笑ってないよ。気付いて。空気読めるようになろうね」


 可哀想な汚物を見るような目で兄貴を見つめるモリー。なんて可哀想な少女なのだろうか。家族は、選べないもんな。


「とにかく! オレは泊まるっつったら泊まっから! もし反対するってんなら、工場なんかやめてやる!」


 そう言えば、妹が折れると踏んでの行動なのだろうが……パーシーは腕を組んで徹底抗戦の構えを見せる。

 ……だが。


「……じゃあ、兄ちゃんはもう、ウチの子じゃありません」


 とても冷たい声で言い、モリーは踵を返して出口へと向かって歩き出した。


「ちょっ!? ちょちょちょっ! 冗談! 冗談じゃん! モリー!」

「ちょっと、触らないでもらえますか? 自警団呼びますよ?」

「なんでそんな他人行儀なんだよ!?」

「はい。他人ですので」

「おに~ちゃんだよっ!?」

「はい。先ほどまでは」

「フォーエヴァーブラザーだよ!?」


 あれ、その翻訳、それでいいのか『強制翻訳魔法』?

 なんか、「もうパーシーだからこれでいっかぁ、メンドくさいしぃ」みたいな匂いがぷんぷんするんだけど?


「うぅ……あんちゃん……ウチの妹が兄貴に厳しいんだよぉ……」

「それだけ遊び呆けてて愛想尽かされてないだけありがたく思えよ、放蕩兄貴」


 ほんの少しの間、モリーに無視されて本気泣きのパーシーは、大人しく帰ることにしたようだ。


「んじゃ、また来るから」

「おう。今度はもっと早く帰れよ」

「んじゃ、またな!」

「へいへい」

「またね!」

「なんで語尾替えた?」

「ま・た・ね」

「キモいんですけど?」

「ま・た・ぬ」

「『ぬ』ってなんだよ!?」

「んもーーーー!」


 驚愕の真実! パーシーは実は牛だった!?


「なんだよ、ウーシー?」

「パーシー! なんだはこっちのセリフだぜ、あんちゃん! なんで挨拶してくれねぇんだよ!?」


 またその話かよ……


「パーシーさん」


 なんと言いくるめようかと考えていた時、ジネットが静かな歩調で近付いてきた。


「またのお越しを、『従業員一同』でお待ちしておりますね」

「……あ、はい」

「ほら、兄ちゃん。あんまり気を遣わせないの。空気読めるようになってって言ってるでしょう? 酸素吸うの禁止するよ?」

「怖ぇ! 怖ぇよ、モリー!? なに、お前そんな権限持ってんの!?」

「ごめんなさい、店長さん、ヤシロさん。アホな兄ちゃんで」

「いや、モリーは悪くない。罰は兄貴が受けるべきだ」

「それもパーシーさんの魅力の一つだと思いますよ」

「あ、あまり褒めないでください。調子に乗りますので。じゃあ、失礼します」


 モリーがパーシーの襟首を掴んで強引に引き摺っていく。


「さぁ、兄ちゃん『従業員一同』で待っててくれるって。それで納得してね」

「いや、でも……」

「空気読めるようになろうね、兄ちゃん。ニワトリさんに嫌われるよ」

「オレ、めっちゃ、空気、読める、ちゅーの!」

「あーはいはい。すごいねー」


 そんな会話が遠ざかっていく。

 モリー、逞しくなったなぁ……そりゃ、ひと月のうち二十日くらい遊び歩いてる兄貴を持つと強くもなるか。

 で、その原因のネフェリーは、やっぱあんま好きじゃないんだな。悪いのはネフェリーじゃないのにな。


「いいところに収まるといいですね」

「パーシーとネフェリーか? どうかなぁ?」


 望み薄かもしれないぞ。ネフェリー、獣特徴の無いヤツ好きじゃないみたいだし。あとやっぱお互いの家業の跡継ぎ問題がなぁ……


「いえ……まぁ、それもなんですが…………色々と」

「色々?」

「はい」


 くるりと振り返り、ニコリと微笑むジネット。


「色々とです」


 穏やかで優しい笑顔がそこにあって、ほんの少しだけ……胸がチクッとした。


「……ヤシロ」


 不意に、背後から声をかけられる。

 あぁ、そういえば、マグダはそろそろ眠たくなる時間だよなぁ……なんて思いながら振り返ると、マグダがフロアの真ん中に直立していた。


「……マグダは、新しい秘技を身に付けた」

「秘技? なんだよ?」


 まさか、『赤モヤ』がさらにパワーアップしたとか、そういうことか?

 いやでも。新しい秘技だっつってるし……つか、それを俺に教えたら『秘技』でもなんでもなくなっちまうけど、いいのかな?


「で、なんだ、その秘技ってのは?」

「……実は、マグダは………………すでに寝ている」

「なにぃっ!?」


 そんなバカな!? と、マグダの顔を覗き込んでみると…………


「……寝てる」


 それはもう、完全なる寝顔だった。

 鼻提灯まで膨らましている。

 俺はいまだかつて、起きながらにして鼻提灯を膨らませているヤツを見たことがない。

 つまりそれは、今現在マグダが完全に眠っているという証拠!?


「で、では、ヤシロさん……今、わたしたちが会話していたのは……」

「それは…………おそらく…………寝言」

「…………肯定。むにゃむにゃ……」

「起きてない?」

「……否定」

「マジでか……」

「……マジで。むにゃむにゃ」


 直立で眠りに落ち、且つ、他人との会話までを可能にするマグダの新しい秘技………………うん、需要ねぇ。


「もう上行って寝ような……」

「…………ふむ……そうする……」


 まったく……大会を経て少しは成長したような気がしてたんだがな…………まだまだ子供だな。


「よ……っと!」


 俺はマグダをお姫様抱っこする。

 あれ?

 こいつ、ちょっと重くなってないか?

 ついこの前、大会に勝利した直後に抱え上げた時は、興奮していて気付かなかったが……

 なんにしても……あっという間に大きくなるんだな、子供ってのは。


「ボインになる日も近いかもな」

「ヤシロさん。心の声が漏れてますよ」

「…………うっしっしっ。ボインになる日も……」

「ヤシロさん。言い直した意味が分かりませんよ」


 にこにことツッコミを入れてくるジネット。

 変わったと言えば、こいつも変わったかもな。なんというか……落ち着いた、かな? 雰囲気が。


「マグダさんを寝かせたら、ヤシロさんもそのままお休みになってください。戸締まりと後片付けはわたしがしておきますので」

「いや、お前こそ休めよ。働き詰めだったろう?」

「大丈夫ですよ」

「……そうか?」

「はい」


 まぁ、俺もパーシーの相手でちょっと疲れたしな……


「じゃ、先に休ませてもらうな」

「はい。おやすみなさい。マグダさんも」

「……むにゅ…………おやしゅ…………」


 最後まで言い切る前に、マグダは電池が切れてしまったようだ。

 秘技も終了か。


 マグダを抱え、俺は二階へと向かった。

 マグダを寝かせ、俺も早々に自室へとこもる。

 地味に疲れ、ベッドに入ればすぐにでも眠れる自信があった。


 実際、ベッドにもぐり込んで瞼を閉じると、じ~んわりと全身に疲労感が広がり、まどろむまではまだ到達しない程度に疲労感と眠気が襲ってくる。

 このまま瞼を閉じて二十も数えりゃ俺は夢の中へ……


「……っとに、困ったヤツだよな」


 どうも、最近周りの連中がおかしい。

 まぁ、大会のラストであんなことを俺がやっちまったせいなんだろうが…………いや、パーシーやモーマットはその前から少しおかしかった。


「……俺、そんなに顔に出てんのかなぁ……」


 頭で考えるのが億劫になり、つい口に出してしまう。

 別に誰に聞いてほしいわけじゃない。吐き出しといた方が、そのまま消えてくれそうな気がしたんだ。


「俺…………」


 詐欺師なんだけどなぁ……


「パーシーごときに感付かれてるようじゃ……そろそろ…………廃業……かもなぁ……」


 詐欺師なんか辞めちまって…………

 過去もみんな……忘れちまって…………

 このまま……ここで…………



 ………………はは、ないない。無理だっつの。



 もう寝てしまおう。

 そう思い、思考を放棄する。

 意識が遠のいていき、ぐぅ~……っと、体が沈み込んでいくような感覚に襲われる。

 眠りに『落ちる』という表現通りに、俺の意識は深い闇へとのみ込まれていく…………



 それから数時間……



「くそ……なんでか眠れねぇ」


 ここ最近、どうも寝つきが悪い。

 体は疲れ、意識もまどろみ、眠れそうな気はするのだが……いざ寝ようとすると、余計なことが脳内にグルグルと駆け巡り、脳みその回転がいつまでたっても止まらない。


 そうして寝返りを打つうちに目覚めの鐘が鳴る……なんて日もあったくらいだ。


 今日も、そうなりそうな気がする。

 疲れてるのに、眠れない。


「あぁくそ……」


 俺は体を起こしコーヒーでも飲もうと部屋を出た。

 今日はもう寝ない。

 たぶん、この後どんなに頑張っても眠れないだろうしな。


 今何時くらいなのかなぁ……なんてことを考えて中庭に降りると……


「あれ?」

「あっ、おはようございます。ヤシロさん」

「おや、お早いですね。おはようございます、ヤシロさん」


 裏口にジネットとアッスントがいた。


「……アッスントがいると言って譲らない架空の嫁に報告しなければ」

「待ってください、ヤシロさん。ジネットさんとはそういう関係ではありませんし、嫁は実在します。で、架空だと思い込んでいるのでしたら報告の必要はなく…………あの、一度のセリフにいくつもぶっこんでくるのやめていただけませんかね?」


 律儀に全部のボケにツッコミを入れてくれるアッスント。

 早朝から几帳面なヤツだ。


「今日は入荷の日じゃないだろう?」


 陽だまり亭の食材は、基本的に月初めと中頃にまとめて購入している。とはいえ、それ以降は臨機応変というか、状況に応じてアッスントに発注をかけて買い足しをするのだが、どちらにしても事前にジネットから報告があるものなのだ。

「明日、アッスントさんがいらっしゃます」と。

 そう言われた日は、俺もなるべく早起きをするように心がけている。


 心がけているだけで早起きした日は限りなく少ないが。


 だが、今日アッスントが来るとは聞いていない。

 だからこそ……


「やっぱり脳内嫁に……」

「ヤシロさん。いますから、嫁」


 だってお前、見せてくれないじゃん!


「あの、ヤシロさん。今日は、わたしの個人的な注文ですのでお知らせしなかったんですよ」

「個人的な?」


 ……ジネットがアッスントに?


「俺らに内緒で美味いものを独り占めしようと……」


 なんてことだ。ジネットがそこまで食い意地の張った娘だったなんて……


「えっと…………な、なんでやねん」

「「えっ!?」」


 ジネットが……コテコテのツッコミを!?


「あ、あの、アッスントさんの真似を…………すみません、ガラにもないことを……」

「あの、私は一体どういう目で見られているんでしょうか?」


 アッスントが複雑な表情を見せる。

 だが、そんなことよりもだ!


「ジネットはおっぱいとパンツのことにしか突っ込まないんだと思ってた」

「そんなことないですよっ!?」


 あ、こういうのはすんなり出てくるんだな。

 やっぱ、ツッコミって狙ってやるとダメだよなぁ。自然体でいかないと。

 …………なんの話だよ。


「あ、あの。実はですね」


 ジネットがやや慌てた感じで話題の転換を試みる。

 弄られるのがちょっと恥ずかしいんだろうな。


「コーヒー豆を、持ってきていただいたんです」

「コーヒー豆?」


 コーヒー豆なら、まだまだ大量に倉庫に残っている。

 確か、需要が少ないから大口購入しか出来ないと言っていたはずだ。だから毎年使い切ることなくダメにしてしまうと。

 それを、なんでこのタイミングで?


「その……今日は、お爺さんの命日なんです」

「あ……」


 今日……なんだ。


「それで、毎年この日は新しいコーヒー豆を買って、それでお爺さんと一緒に、一番最初のコーヒーを飲もうって決めているんです」


 ふわっとしたジネットの笑顔は、なんだか、これまでに見たことがない表情のような感じがして、俺は何も言えなかった。

 俺の知らない時間の話だから、かな?


 当然だが、ジネットには俺と出会う前の過去がある。俺の知らない時間を生きてきた思い出がある。

 そこは、誰も侵せないジネットだけの領域で、俺が踏み込んでいい場所ではない。


 ない…………なのに。


「もし、よかったら。ヤシロさんも、一緒に飲んでいただけませんか?」


 ジネットはこうして、俺をその領域へと招き入れてくれる。


「今の陽だまり亭があるのはヤシロさんのおかげですし、お爺さんにきちんと紹介しておきたくて……あ、いえ、そんな深い意味はなくてですね……その…………もし、よろしければ」

「……ん。分かった。いただくよ」

「ホントですかっ! では、早速準備してきますね!」


 手と手を合わせ、嬉しそうに破顔する。


「あ、アッスントさん。どうもありがとうございました」

「いえいえ、毎度ありがとうございます」


 ぺこりと礼を交わし、ジネットは大きなコーヒー豆の袋を抱えて厨房へと入っていく。

 それくらい手伝おうかとも思ったのだが……なんだか、この最初のコーヒーを淹れるための行為は、どこか侵しがたい神聖な儀式のような、ジネットにとってとても大切なことのような気がして……手を出すことが躊躇われた。


「あんなに楽しそうな顔をされていたのは初めてですね」


 聞いてもいない情報を、アッスントが寄越してくる。

 なんだか、含みのある言い方だ。


「お前のことが嫌いだったんじゃないか、去年までは」

「ほほほ……その可能性は否めませんね」


 心底おかしそうに笑って、でも、やはりどこか含みのある言い方でこんなことを言う。


「けれど、もっと違う理由があると、私は思いますけどね」

「……ふん」


 お前の言わんとするところを言外で理解しようとすればきっと出来るだろうが、悪いな、今は徹夜明けで頭を使いたくないんだ。察してなんかやらないからな。


「ふふ……酷い顔ですね」


 逸らした俺の横顔を見つめ、アッスントが言う。


「……うるせ。生まれつきだ」

「おや、そうなのですか? 普段はもう少し整ったお顔をされていると思っていたのですが……これは認識を変える必要があるかもしれませんね」

「ふん」


 うるせ……言外に意味を含ませんなっつの。

 お前との会話は頭使って面倒くさいんだよ。……ったく。お節介焼きが。


『ジネットさんは去年よりずっと明るくなりましたね。この一年で心境が変わるようなことが何かあったのでしょうね。さぁ、それはなんでしょう?』とでも言いたいんだろう。

 そして……『だというのに、あなたはどうしてそんな酷い顔をしているんですか』と。


 …………うるせ。


「さて、ではそろそろお暇させていただきましょう」

「人気のない暗い道には気を付けろよ。俺に刺されないように」

「ほほほ……そうですね。最近出来た親しい友人との楽しいおしゃべりを、もう少し長く楽しんでいたいですからね。気が合うのですよ、彼とは。昔は大の苦手でしたのに……不思議ですね」


 くすりと笑い、荷車を押して裏口から外へと出ていく。

 扉を閉める直前、アッスントはこんな言葉を残していった。


「この世に変わらないものなんて、おそらく存在しないのでしょね。けれど……それに対し『変わらないでほしい』と願う心は……きっと変わることはないのだと思います。では、よい一日を」


 言いたいことを言って帰っていく。

 なんなんだよ、ったく。


 変わらないものはない……確かにそうなんだろうな。

 けどよ……


「……変われないヤツってのは、いんだろうがよ」


 例えば、……ここに一人な。


 裏庭のドアに施錠をし、俺は厨房へと入る。

 厨房の中には、香ばしいコーヒー豆の香りが立ち込めていた。


 それから、俺は食堂へ行き、椅子に座ってコーヒーが出来るのを待った。



 誰もいない、静かなフロアで一人……俺は俺の知らない陽だまり亭に思いを馳せる。



 爺さんがいて、幼いジネットがいて……その頃の常連客がここでコーヒーなんかを飲んでて……

 そんなことを考えながら、俺はゆったりとした時間に身を委ねていた。





「ヤシロさん」


 どれくらいの時間が経ったのだろうか……どうやら少し眠っていたようだ。

 ジネットが俺の肩を揺すって起こしてくれた。


「まだ眠いですか?」

「いや、平気だ。すまん」

「いいえ。コーヒー、淹れましたよ」

「あぁ……悪いな」


 ジネットが俺の前にコーヒーを置く。

 そして、俺の隣に一つと、向かいにも一つ。


「失礼します」


 そう言って、ジネットは俺の隣へ腰を下ろす。

 向かいに置かれたコーヒーは、爺さんの分らしい。


「なんだか、近いですね」


 少し照れくさそうに、ジネットが肩をすくめる。

 このテーブルに並んで座ることは何度かあったが、向かいがあいている状態だと、なんだか普段よりも近い気がした。

「えへへ」と、照れ笑いを浮かべるジネットに、照れをうつされた。……くそ。


「飲んでいいのか? それとも、祈りを捧げたりするのか?」

「え? あ、どうぞ。召し上がってください。冷めてしまいますから」

「そっか。……じゃ」


 なんとなく、カップを持ち上げた後に、爺さんの席に向かって目礼をする。


「あ……」


 と、ジネットが微かに声を漏らす。


「なんだ? 俺、なんかいけないことでもしたか?」

「いえ……。やっぱり、ヤシロさんって不思議な方だなと思いまして」


 不思議?


「亡くなった方の魂は、精霊神様のお導きにより天界へ召され、現世にはもう存在しない……というのが精霊教会の考え方なんです。ですから、わたしたちが故人を偲ぶ際は、記憶の中にある在りし日の姿に思いを馳せるんです」


 この世界には写真などない。死んだ後は、近しい人間の心の中だけが、唯一存在出来る場所となる。


「ですので、あまり馴染みのなかった方は、今みたいに敬意を払ってくださることはそうそうないんです」

「この陽だまり亭を作った人なんだろ? そりゃ、敬意くらい払うさ」


 この街に来てから経験した、本当にいろんな出来事……そのすべてが、この陽だまり亭から始まっていた。

 この場所の創始者ってのは、ちょっと凄い存在だと思うぞ。


「ありがとうございます」


 こちらに体を向け、丁寧に頭を下げる。

 顔を上げると、照れくさかったりしたのだろうか、くすくすと笑い出した。


「ヤシロさん、オバケは怖いのに、故人の魂には敬意を払ってくださるんですね」

「うるせっ」


 照れじゃなく、からかわれていたようだ。こいつめ。


「よいしょ……」


 体をこちらに向けたせいでずれてしまった椅子を、ジネットは一度立ち上がり、元の位置へと戻す。そして再び腰を掛けたのだが…………さっきより、近くなってない?

 今にも肩が触れそうな距離だ。まだ暗い静かな食堂で二人きり……さすがにちょっと緊張する。


「あの……ヤシロさん」


 微かに、ジネットの声が震える。ジネットも、緊張とか……しているのだろうか。


「少しだけ長くなるかもしれないのですが…………お爺さんのお話を、聞いていただけますか?」


 こちらを見ないまま、ジッとコーヒーカップを見つめて、そんなことを言う。

 こいつが相手を見ずに話すなんてのは珍しい。やっぱ、緊張してんのか?


「あぁ、聞かせてくれ」


 ジネットが自分の過去を話すのは珍しい。

 それも、聞いてほしそうにするなんてことは、ちょっと記憶にない。


 どこかホッとした表情を浮かべて、ジネットはぽつりぽつりと語り出した。


「わたしは、九歳の年から、ここにお手伝いに来るようになりました」


『九歳の年』ということは、ジネットが九歳になる年……つまり八歳の頃ってことか。


「まだ幼かったわたしは、お手伝いどころかずっと足手まといで……お爺さんの仕事を余計に増やしてばかりでした」


 今からは想像もつかないが……八歳の子供ならしょうがないかと思える。


「けれど、お爺さんはいつも優しくて、『お前がいてくれるだけで、店が明るくなるんだよ』と、そんなことを、いつも言ってくれていました」


 それでも、そんなことには甘んじず、ジネットは一つずつ丁寧に仕事を覚えていったのだろう。


「常連のお客さんも、同じようなことを言って……とても可愛がっていただきました」


 その風景が目に浮かぶようだ……

 ジジイが経営する店には、やっぱりジジイやババアが集まるのだろう。そんな中に、懸命に頑張る八歳の少女がやって来たのだ。

 ジジイババアはこぞって可愛がったに違いない。


 それが、ジネットの言う『あの頃の陽だまり亭』なのだろう。


「それから、なんとか仕事を覚えて、十二歳の年に、わたしは正式にこの家へと迎え入れられました」


 十一歳の頃だ。

 今のマグダよりも、一つ年下だったんだな。


「とても楽しくて、とても、幸せでした」


 ジネットがコーヒーに口をつける。

 ゆらりと上る湯気が空気へ溶けていく。


「ずっと、この幸せが続けばいいと思っていました。……いえ、続くと、思い込んでいました」


 けれど、別れは突然やって来る。


「この家の子になって、一年と少し……あの日、わたしはいつもと同じように買い出しに向かったんです。なんということはない、なんでもない、普通の買い出しでした」


 ジネットの顔に、影が落ちる。

 散々泣き尽くして、もう涙も出ない。そんな憔悴しきった表情に、俺には見えた。


「買い出しから戻ると……お爺さんが倒れていました…………」


 カチャリと……コーヒーカップが音を立てる。


「大量に、血を吐いていて…………わたしは、どうしていいのか、分からなくて……結局、何も出来ないまま、お爺さんはそのまま…………」


 ジネットの唇が……キュッと結ばれる。


 …………分かる。

 その時のお前の気持ち…………分かるよ。


 何も考えずに毎日を過ごして、当たり前に日常は続くと思っていた。

 今日も明日も明後日も……ずっとずっと変わることなんてないと思ってた。


 けれど、それは突然やって来る。


 自分が、何も考えずに適当に過ごしてしまった時間を、どれだけ悔やむか。もっと真剣に向き合って、もっときちんと伝えておけばよかった、そんなことがどれほどたくさんあるか。


 俺には、分かる。


「え……きゃっ」


 思わず……

 そう、何も考えずに……



 俺はジネットを抱き寄せていた。



 椅子ががたんと音を立て、体は窮屈に折れ曲がっていて……それでも、強く……抱きしめずにはいられなかった。


「……ヤシロ、さん?」


 耳元で、戸惑ったような声が聞こえる。

 微かに震える吐息が温かくて、少しくすぐったい。


「お前が……泣きそうだったから」


 そんな言い訳を、口にする。

 そして、ギュッと、腕に力をこめる。


「わたしは、大丈夫ですよ?」


 諭すように、ジネットが言う。

 けれど……


「もう少しだけ……このままで」


 もう少しだけで、いいから……


「……はい」


 静かな囁きが耳を撫で……そっと、ジネットの手が背中へと回される。

 まるで、子供をあやすように、ジネットは俺の背中をゆっくりと撫でてくれた。


 …………あ、ダメだ。



 泣きそうなのは、ジネットじゃない…………俺だ。

 ジネットの話が、そのまま…………自分の過去と重なって…………堪らなくなった。


 奥歯を噛みしめ、漏れそうになる息をのみ込んで……ギリギリのところでこらえる。

 呼吸が……乱れる。


「大丈夫ですよ……」


 囁くような、柔らかい声がする。


「もう、一人じゃないですから……」


 それは、お前がか…………それとも、俺がか……



 それからしばらくの間、俺は何も言えずにジネットを抱きしめていた。

 その間、ジネットも何も言わずに、ただ俺に体を預けていてくれた。




 早朝の陽だまり亭は、とても静かだった。






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