51話 偉大なるモノ
それは、この巨大都市オールブルームの歴史を塗り替えた瞬間だった。
長らくの念願であり、何よりも必要とされたもの……そう、言い換えるなら『人類の叡智』とでも呼ぶべき希望の象徴。
そんな素晴らしいものが完成したのだ。
……俺の悲願がついに叶ったのだ。
「……ついに…………ここまで、長く苦しい道のりだった」
俺の頬に伝うのは涙ではない。
これまで幾度となく味わってきた苦しみと絶望が浄化された証である追憶の欠片なのだ……
「では、試してみるか…………」
いざ…………万感の思いを込めて…………
俺は、白いボディの側面に取り付けられたレバーを『小』と書かれた方向へと引いた。
ジョザバァー…………コポコポコポ…………
「…………成功だ……っ!」
ついに……
ついに…………っ!
陽だまり亭に水洗トイレが設置されたのだっ!
この世界に来てからというもの、何度夜中のトイレで怖い思いをしたか!
それもこれも、この街に下水が整備されていないのが悪かったのだ。
飲食店において、悪臭を放つ不衛生の代名詞たる便所、厠、トイレットの類いは、室内に設けることが御法度、非常識だとされていた。
飲食店だけじゃない。この街では、トイレは家の裏にひっそりと設置されているものと相場が決まっていたのだ。
しかも、その『トイレ』と呼ぶのもおこがましい稚拙な設備は、地面に深い穴を掘っただけのお粗末にもほどがある造りで、使用しない時は木の蓋がぽ~んと置かれているだけなのだ! つか、使用する時にその木の蓋を『手で持って開ける』…………この苦痛!
嫌な臭いに、見たくもない穴の中の光景…………そして、……もし中に誰かいたらどうしよう……という、拭い去れない恐怖…………
それらに、俺は、今日まで苦しめられてきたのだ……っ! 泣いても、いいよね?
だがしかしっ!
下水が完備された今! 何を憚ることがあるだろう!?
飲食店にトイレ? あって当然じゃね?
不潔? 不衛生? 悪臭のもと?
ははっ! 何を言っているんだい?
……水洗だぜ?
「……凄いです……とても綺麗で、においも全然しません。それになんだか……スタイリッシュです……っ!」
俺と一緒に新設されたトイレに入っているジネットが感動に瞳を潤ませる。
……別にトイレに二人で入って何かをしていたわけではないぞ?
ここの責任者であるジネットに、水洗トイレの使い方を教えていただけだ。
「ボ、ボクにも見せてよ!」
「……店長、交代」
「あたしも見たいです!」
エステラにマグダにロレッタが、興奮した様子でトイレの前に列をなしている。
日本に水洗トイレが誕生した当初も、こんな感じだったのかなぁ?
ハムっ子たちの想像以上の大活躍により、下水の工事は予定よりも大幅に早く完了した。
ものの二ヶ月足らずで四十二区中を網羅する下水を作り切ってしまったのだ。
その後、海へと通じる川べりの、限りなく外壁に近い場所に下水処理場が設けられた。
下水の処理方法は水のろ過と工程が似ていて、下水管を通って処理場に集められた汚水は、まずは巨大なタンクへと集められる。そこで静かに寝かせ、大きな不純物を沈殿させる。
その後、ゆっくりと流れる水路を伝い、三回程違うタンクに移し替えていく。
その過程で汚水を浄化していくのだが、その浄化を行ってくれるのが微生物だ。ここが飲料水と決定的に違うところだな。
俺たちはその微生物を、『おがくず』から採取している。
日本でも『においの少ない簡易トイレ』『おがくずろ過装置』などでお馴染みの手法だ。
こいつらがいい働きをしてくれるおかげで、浄化された汚水は無色無臭になってくれる。想像以上の効果だった。……異世界では、微生物もパワフルなのかもしれないな。
で!
でだ!
その下水のおかげで、陽だまり亭に水洗トイレが誕生したのだ。
最初はにおいのしない簡易トイレのようなものにしようとしたのだが……
ハムっ子たちの頑張りによって工事が前倒しで完了したこともあって……立っている者は親でも使え……立っている者がウーマロなら優先的に使え。むしろ座ってても立たせて使え。――そんな言葉があるように、俺はウーマロに命じて陽だまり亭の『室内』に、清潔でスタイリッシュな水洗トイレを設置させたのだ。
デザインド、バイ、俺。
メイド、イン、ここ。
さすがにフッ素加工やセラミックス抗菌とまではいかないが、ウーマロが仕事で付き合いのある、腕のいい石大工に依頼して便器を作ってもらった。
掃除に手間はかかってしまうが、そんなもんはどうでもいい! 俺も頑張って磨いちゃうね!
なにせ、ここのトイレは……
洋式便器なのだから!
もうしゃがまなくていいのだ!
ちょこんと座れるのだ!
文明バンザイ!
俺、便座に頬ずりしたの生まれて初めてだよ。便座って、こんなに愛おしいものだったんだな。
「この水はどこから流れてくるんだい?」
エステラが水を流しながら尋ねてくる。
こらこら、無駄使いするなよ? 地味に面倒くさいんだから。
「基本は雨水をろ過したものだ。まぁ、雨が降らない時は、井戸から汲み上げることになるけどな」
トイレの屋根の上に巨大な貯水タンクを取り付け、そこに雨水が溜まるようになっている。落ち葉や埃など、不純物が混じる可能性を考慮して、貯水タンクの底には簡単なろ過装置を取り付けてある。そこから水を取り、トイレへと流しているのだ。
そこから先は日本のトイレとほぼ同じだ。
便器の背後に設置されたタンクに一回分の水を溜め、次回はその水を流す。
水を使用するとタンク内の『浮き』が沈み、梃子の原理でレバーが持ち上がる。すると外の貯水タンクに繋がる水路の門が開き、水が内部のタンクへと流れ込んでくる。
タンクの中に水が満たされると『浮き』が再び持ち上がり水路に蓋をする。
よく分からない人は、家のトイレのタンクを覗いてみるといい。ちょっとした後悔と共に「こんな仕組みなんだぁ」と感心することだろう。
……ん? 後悔? あぁ、すると思うぞ……タンクも結構汚れてるからな。
外の貯水タンクに水を入れるのは、井戸から引いた水路に取り付けた釣瓶を使って行う。
難しいことはない。タンクの高さに滑車を取り付け、紐を引くと水の入った桶がそこまで上っていくのだ。で、天辺までくれば勝手に傾いて貯水タンクに水を入れてくれる。
とはいえ……貯水タンクを満タンにするのは結構な重労働だったりするのだが……
ちなみに、貯水タンクの残りが少なくなると、内部に設置した仕掛けにより「カンッ!」とししおどしのような音が鳴るようになっている。タンクの『浮き』と似た原理で、水位が下がると仕掛けられた木片が木の板を打つのだ。
その合図があったら、裏に回って水を汲み上げるといった流れだ。
……全自動には程遠いな。
だが、水洗トイレだ! 出したものは下水を通って流れていくので衛生的でにおいもない!
真夜中だって、室内だから怖くない!
……俺は、たぶん、この日のためにこれまで頑張ってきたんだ…………そうに違いない。
「それにしても……室内にお手洗いがあるなんて……やっぱり変な感じだね」
ひとしきり水洗トイレを眺めた後でエステラがそんな感想を漏らす。
そして、少し照れたようにこんな疑問を口にした。
「本当に大丈夫なのかい? その……お、音とか、におい、とか……」
「なら試してみればいい。さぁ、遠慮なく!」
「こんな大勢の前で出来るわけないだろう!?」
なんだよ。折角貸してやると言っているのに。
「ヤシロさん。パスタの準備が出来ました」
「おぉ、サンキュウ。今行く」
「またパスタかい? よほど好きなんだね」
「そうじゃねぇよ! 折角作った新メニューだ。普及させなきゃもったいないだろうが!」
肩をすくめるエステラを尻目に、俺は四人も入ってギュウギュウ詰めになっていたトイレから出た。
「はい。お待たせしました」
「おぉ、美味そうだなぁ!」
テーブルに着くと、ジネットが俺の前にミートソースパスタを置いてくれる。
小麦粉があるなら作れるはずだと、俺はパスタをメニューに加えることにしたのだが……これが全然売れてくれない。
まず、どいつもこいつもパスタを知らないのだ。
写真でもあれば、メニューに貼りつけて「こういう食い物だっ!」と宣伝出来るのだが……この世界に写真などというものはない。
ならばと、俺が絵に描いてみたのだが……
「……脳みそ?」と、マグダにバッサリ切り捨てられた。
医学の発達していないこの世界で脳みその形状を知っているとはさすがマグダだ、と思ったのは余談だ。
出来は悪くなかった。俺は福沢諭吉を寸分もたがわずに模写することが出来るほど絵心が…………おっと、まぁ、そこら辺はいいじゃないか、詳しく聞くな。
とにかく、絵は上手いのだ。実物と絵を見比べさせるとみんな「似てる」「上手い」と言ってくれた。
しかし、……『パスタを知らない人間』に見せても、これがなんなのか一切理解してくれないのだ。「なんだかぐにゃぐにゃした気持ちの悪い絵」という評価だ。パスタにかかっているミートソースがまた、赤くてドロッとして、刻み野菜が絶妙の混入具合で……とても不評だった。
ならば仕方ないと、俺は実物を見せる作戦に出た。
つまり、こうやって客が来たタイミングで俺が実際に食ってみせるのだ。さも美味そうに!
「うん! 美味い! さすがジネットだ!」
「ありがとうございます」
実際、作り方を覚えたばかりとは思えないほどの出来栄えだ。味も申し分ない。それどころか、日本で食ったどの店よりも美味い。
……なの、だが。
「へぇ、変わったもんもあるんだなぁ……あ、俺鮭定食」
「こっちは日替わりね」
「は~い! 少々お待ちください!」
……四十二区の連中は保守的過ぎる…………一度覚えた味以外のものに挑戦しようという気概がないのだ……これではパスタが死んでしまう。
パスタはお手軽に楽しめる上に、種類も豊富で、おまけに複数の味を一店舗で用意しやすい扱いやすい料理なのだ。その基本となるミートソースで躓いているのは非常に痛い。
なんとかして定番メニューにしなくては……
「毎日同じものばかりで飽きなのかい?」
トイレを堪能して戻ってきたエステラが俺の向かいに座る。
「飽きるよ! もう飽きてるよ! パスタは週一くらいでちょうどいいんだよ!」
「もう二週間くらいパスタばっかりじゃないか。……見てるこっちが飽きてきたよ」
「そう思うなら、お前らも広報活動に協力しろよ。食ってもらえりゃ、タコスみたいにヒット間違いなしなんだからよ!」
「ん~……それはどうかなぁ」
エステラの表情は冴えない。
「ボクも一度食べたけど……結構普通だったよ?」
「普通ってなんだよ!?」
「新たな感動っていうのかな? そういうのがなくて、『あ、こんな料理もあるんだ』くらいの軽い発見に留まる感じ……っていうのかな?」
「美味いだろうが、パスタ!」
「美味しくないとは言ってないよ! でも、わざわざ頼むほどのものでもないかなって」
く……こいつらは…………日本の食い物は異世界に持ち込めば無条件で大人気になるのがルールなんじゃないのか!?
なんだよ、その微妙な評価は!
「だって、このソース。タコスと同じ味なんだもん、新鮮味がないよ」
「タコスのはトマトソースで、こっちはミートソースだ!」
「どう違うの? サルサソースが美味しいから、ボクはそっちでいいかな」
……なぜだ。
パスタがヒットすれば…………利益が上がるというのにっ!
「……ヤシロは、焦っている」
マグダが、苦悩して頭を抱える俺の背を撫でてくれる。
…………いや待て。お前、今俺で手を拭いたんじゃないだろうな?
「……陽だまり亭の売り上げは落ちている」
「え、そうなのかい?」
実は、マグダの言う通りなのだ。
ここ数日、陽だまり亭の売り上げが落ちている。
というのも……
「……物価が、適正価格に戻ったせい」
「え? 物価が適正だと、なんで売り上げが落ちるんだい?」
「………………さぁ?」
マグダの限界はそこまでか。
仕方ないので、ここからの説明は俺が引き継ぐ。
「これまで陽だまり亭は、ゴミ回収ギルドを経由して、『適正価格より大幅に安く』大量の食材を仕入れていた。だが、行商ギルドの改変によって、モーマットたち生産者の食材が適正価格で取引されることになり、その結果、ゴミ回収ギルドに回ってこなくなった」
正確には、モーマットたちが気を遣っていくらかは回してくれてはいるが。
「行商ギルドから購入した食材は適正価格だから、以前よりも支出が増える。これで、店のメニューは据え置き価格だから自動的に利益は減る」
「なるほど。でも、モーマットの畑は随分と拡大したんじゃなかったかい? ハムっ子たちの働きによってさ」
モーマットのもとに預けたハムっ子たちは、それはもう盛大に頑張り、これまで眠っていた土地を掘り返し、見事な畑に昇華させていた。そこで次々に野菜を植え、次の収穫時には物凄いことになると、モーマットが太鼓判を押していた。
「ハムっ子たちが作った野菜は、陽だまり亭が優先的に取引出来るんだろう? なら、もう少し待てば利益は戻るんじゃないのかい?」
「その野菜は教会への寄付用だよ。食堂分は行商ギルドから買わざるを得ない状況なんだ」
「そうなんだ……」
「それに、もう一つ困ったことがある」
「え?」
行商ギルドが適正価格での取引を始めた恩恵は、何も生産者にだけ与えられるものではない。
商売をする者たち、個人事業主にも多大な恩恵を与えていたのだ。
つまり、陽だまり亭とは真逆で、仕入れ値が格段に下がったのだ。
そのせいで、どの店も料理の代金を大幅値下げして、更にはこれまで切り詰めていた料理の内容までもが大幅にグレードアップしたのだ。
従来よりも安い値段で、従来より美味しいものが、従来より多く食べられるとあって、大通り付近の飲食店は大盛況だ。
陽だまり亭に顔を出すのは、これまで頻繁に通っていた常連と、マグダ教の教祖様一行くらいになっていた。
「お得感で大きく出遅れているですね」
いつの間にか、俺たちの輪の中にロレッタが加わっていた。
おいおい。客を放ったらかしにしておしゃべりしてんじゃ…………客がいねぇ……
「最近、みなさん、食べたらすぐ帰っちゃうです」
「おそらく、酒を飲みに行ってるんだよ。ウチは酒が無いからな」
「なんで置かないです?」
「ジネットの方針だ」
ジネットの方針。それはすなわち、ジネットの爺さんの方針ということだ。
まぁ、酒はトラブルのもとだし、ウチは食堂であって酒場ではない。酒を置かないという判断もありだろう。
「にしても、客が居つかんな……」
ガランとした店内。
今日は天気がいいので窓を開放しているのだが……辺りはとても静かだ。
人通りが少なく、時折吹き抜ける風が草木を揺らしていくだけだ。
……ここに来て、また立地に悩まされるとは。
陽だまり亭は、『陽だまり亭に行こう!』という客しか訪れない、そんな店なのだ。
ふらりと立ち寄る客など、皆無に等しい。
「……マグダァ、ミートスパ、食う?」
「……食べる」
俺は、連日食べ続けていい加減うんざりしているミートソースパスタをマグダに託す。
間接キス? あぁ、知らん。マグダとならなんだって有りだ。こいつはもう、俺のサーバントみたいなものだからな。
「…………間接、ちゅう…………」
……あの、マグダさん。
そういうことを呟いて、その後ジッとこっち見つめるのやめてくれませんかね?
それは、さすがに照れるんで……
襲いくる脱力感に、俺は机に突っ伏した。
あぁ、もう……不貞寝したい。
「それにしても、いつの間に行商ギルドとの取引を再開したんだい? 二ヶ月前に、あんな派手な衝突したばかりなのにさ」
ここ最近、下水関連のあれやこれやで忙しくしていたエステラは色々と情報が不足しているようだ。
二ヶ月前、俺とアッスントは直接対決をした。
それから様々な手続きや、数十回に及ぶギルド長会議を経て、行商ギルドと四十二区の住民たちは新たな枠組みの中で生産活動を再開した。
そうしたらどうだ。
これまでアッスントが搾取に搾取を重ねて得ていた利益が、ほんの一週間で追い抜かれたのだ。
適正価格を徹底し、公正に公平に取引をした結果、経済が活性化したのだ。
野菜を高値で売りさばけたモーマットは、得た利益を使い新しい畑の開墾に取りかかり、それにより生産量が上がり、また今後利益を上げることだろう。
飲食店は先ほど述べた通り、大量の客の獲得に成功している。
そして、その客たちも自分たちの仕事が上手くいくようになり、賃金が上がり、懐具合も温かくなったことで財布のひもを緩め始めている。
すべてがいい方向に転がっているのだ。
先週、アッスントが見たこともないような満面の笑みで俺を訪ねてきて……
「いやぁ! ヤシロさん! いや、ヤシロ様! 私、今後はあなたのそばに付きっきりで商売することにしましたから! まさか、こんなに世界が変わるなんて……私が中央区に栄転する際は、是非一緒に参りましょう! あなたなら、中央区でも上手くやれます! 私が保証しますよ、マイフレンドッ!」
と、脂っぽい握手とハグ攻めに遭わされた。
とりあえず、工事中だったウチの水洗トイレの下水溝に落として上から砂をかけていじめてやったが、…………なんか、随分懐かれてしまったようだ。
「へぇ……すべてが上手くいっているんだね。……陽だまり亭以外は」
「…………」
エステラの言葉に、返す言葉もなかった。
頭を上げる気力もない。
「でも、屋台は大盛況ですよね」
洗い物を済ませたのだろう。ジネットが俺たちの輪に加わり比較的明るい話題を持ってくる。
「カンタルチカさんとのコラボ企画も上手くいっているようですし、売り上げは落ちましたが、まだまだ挽回のチャンスはありますよ、きっと」
楽観的な店長に、少し救われたような、大いに脱力させられたような……複雑な気持ちになる。
ジネットの言うコラボ企画とは、俺がパウラに持ちかけたもので、パウラの店先でウチのタコスを売るというものだ。
ただ店先を借りているわけではない。
タコスを少しピリ辛風にアレンジして、キンキンに冷えたビールとよく合う味付けにしたのだ。
これで、「ウチのタコスを食べながら、カンタルチカの冷えたビールを飲むと美味さ倍増だぞ!」という企画なのだ。
思惑は当たり、売上は上々。今や、陽だまり亭二号店は、ウチの主力になっている。
陽だまり亭七号店は、少し離れた場所でポップコーンを売っており、こちらは子供連れを中心に盛況を迎えている。
だが、タコスとポップコーン。これだけの売上で店を支えるのは不可能であり、非常に危険だ。
タコスがコケたら皆コケた。では、シャレにならないのだ。
閑古鳥の鳴く店内を見渡す。
最初に来た時も、こんな寂しい光景だったなぁ……
「…………また、たくさんの人が来てくださいますよ。きっと」
誰に言うでもなく呟かれたその言葉は、ジネットが自分自身に言い聞かせているように聞こえて…………それはつまり、「この状況は寂しい」と、お前自身が思っているんじゃないかと、俺に確信させるものだった。
「屋台を見てくる」
「え? あ、はい。お気を付けて」
ジネットの声を背に受け、俺は店を出る。
まったく……大口叩いたくせに情けない。
一度上って落ちるのはつらいな……なんて、そんな小さなことでヘコんでいる場合ではないのだ、俺は。
約束したじゃねぇか。ジネットと。
『陽だまり亭を立て直すぞ』って。
『もっと客を呼べる、人気の食堂にするんだ』って。
『毎日大勢の人が集まる、そんな場所にするんだ』ってよ……
そんなことを思い出し、変な焦燥感に襲われながら、俺は足早に大通りへと向かった。
大通りには、今日も鬱陶しいくらいの人間がひしめき合っていた。
普段どこに隠れてんだというくらいに人が湧いてきている。……あぁ、煩わしい。
どいつもこいつも懐が温かくなって浮かれてやがるのだ。
……つまり、この煩わしさは自業自得ってことか? 勘弁してくれよ、もう。
「ん?」
……なんだろう?
すれ違う連中のうち、何人かが俺の顔を見てこそこそ話してやがる。
「キャー見て、あの人超イケメ~ン」……とかって話か?
……いや、違うな。向こうでガチムチの髭オヤジが似た行動を取っている。
あんなガチムチ髭オヤジに「イケメ~ン」とか言われて堪るか。
……まぁ、大通りであれだけ目立つことをやったんだ。
何人かは俺の顔を覚えていても不思議はないだろう。そのうち風化するさ。
人の噂も七十五日って言うしな。……………………四十九日だっけ? ……百八…………?
「あー! おにーちゃーん!」
「おにーちゃーん!」
考え事をしながら道を歩いていると、大通りの中ほどに店を広げる妹たちに出会った。
こっちは七号店、ポップコーンの方だ。
ちんまいガキどもが甘い匂いにつられて群がってやがる。
「よう! どうだ、売れ行きは?」
「ぜっこーちょー!」
妹たちのこの元気溌剌な笑顔が、最近では人気を呼んでいるようだ。
もう、ハムスター人族を「スラムの住人」となじる者などいない。
俺も安心して店を任せられるというものだ。……というか、俺は知っている。
妹たちが屋台を出す場所には、アッスントが差し向けたボディーガードが、陰に隠れて目を光らせていることを。
カマキリ男を差し向けたことに対する謝罪のつもりなのか、単純に俺を味方に付けた方が利益になると踏んでなのかは知らんが、頼みもしないのにずっとボディーガードを付けてくれているのだ。
それも、俺に内緒で。…………って、俺にだけは気付かれるような、アノ微妙な隠れられてない感はわざとなのかもしれないが……
まぁ、俺自身、最早アッスントに対してわだかまりなどはないが、折角なのでもう少し好意に甘えておくとしよう。
「お兄ちゃん。完売したら遊びに行ってもい~ぃ?」
「い~ぃ?」
「完売してからなら構わんが……」
こいつらが遊びに行きたいなんて言うのは珍しい。
仕事自体が遊びの延長戦のような連中なのだ。それがあえて行きたいと言う。
「どこか行きたいところでもあるのか?」
「うん!」
「んー!」
元気過ぎる頷きが返ってくる。
この元気をほんのちょっとずつでいいから分けてほしいもんだ。
「あのね! 広場にね!」
「うんうん! 広場にね!」
「英雄の像があるの!」
「えーゆー!」
「英雄の像?」
広場というのは、この大通りの先にある、露天商が店を開く中央広場のことだろう。
俺の知る中世の常識では、教会が地区の中心にあり、その前に広がるのが中央広場と呼ばれるのだが……ここの教会はなんでかとてつもなく辺鄙なところにある。
よって、四十二区の中央広場は、本当にただの広場なのだ。
観光名所にも成り得ない、ただ広いだけの空き地。露天商がいれば、デートスポットくらいにはなるか……
そんなところに像などあったかな? と、頭をひねる。
しかも、英雄?
この街に来てから、英雄譚など耳にしたこともない。
異世界と言えば、不思議な伝承なんかが残っていて、英雄だの勇者だの光の戦士だのの活躍が語り継がれていたりするものなのだが……この街にはそんなものはない。
少なくとも、俺は聞いたことがない。
つか、だいたいアレなんだよな。
英雄譚とか伝承って、異世界からやって来た自分がその英雄だった、みたいなオチなんだよな。
…………………………まさかな?
不意に、俺の背中に冷たいものが走る。
ないないない。
ないない……とは、思いつつも…………
「すまんっ! 急用を思い出した! じゃあな!」
俺は妹たちに短く別れを告げ、人で混み合う大通りを駆け抜けた。
一路、中央広場を目指して。
そして――
「な……っ」
――俺は目撃した。
「なんじゃこりゃあっ!?」
露天商が円を描くように店を開いている中央広場のそのど真ん中に堂々と立てられている英雄の像を。
いや、英雄なんかじゃない!
この像は…………これは、どう見ても…………
「俺じゃねぇか!?」
誰が、なんのためにそうしたのかは分からんが……
中央広場のど真ん中に俺の像が立っていた。
それも、左手を腰に当て、右腕を真っ直ぐ斜め上に伸ばした、『群衆を導く英雄』とでも言わんばかりの恥ずかしい格好をした俺そっくりの像が。
一体、なんの冗談だよ、これは…………?
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