43話 わたし、信じていました
「レジーナ! 開けてくれ!」
店のドアを乱打する。
嵌め込まれた磨りガラスがガタガタと騒がしい音を立てる。
「レジーナ!」
「はいはいはい! 今開けるさかい、ドア壊さんといてなぁ!」
ドアの向こうから声が聞こえる。しばらくして店内に灯りがともる。磨りガラスの向こうからぼんやりとした光が漏れてくる。
「もぅ、なんやのんな、こんな夜中に? 夜這いにしても、もうちょっと静かに……」
「ちょっと来てくれ!」
アホな話をしている暇はない。
俺はレジーナの腕を掴むと傘の中へと引き込んだ。悪いが、説明は教会へ向かいながらさせてもらう。拒否権は無しだ!
「ちょい待ちっ!」
だが、レジーナは足を踏ん張り抵抗を見せる。
そんなことしている暇はないんだ! 強引に引っ張っていく。
「待てっちゅうねん!」
「いっっでぇっ!」
突然右手に激痛が走った。
見ると、レジーナが手に持った何かを俺の手に押し当てていた。
「痴漢撃退用、食虫植物『食べるんです』や」
見ると、それは巨峰ほどのサイズの房状の植物で、房の下部を押さえると上部の口が開き、中から無数の棘が飛び出す仕組みらしい。
「こいつの棘は人の皮膚を溶かしてまうおっそろしい溶解液を出すんや。堪らん痛みやろ?」
「……痛ぅ……、誰が痴漢だ! 危険なもん持ち歩いてんじゃねぇよ! あと、名前が笑えん! 改名を要求する!」
「こんな夜中にやって来て、こっちの話も聞かんと強引に連れ去ろうなんて、立派な痴漢や! あ、立派や言うても……下ネタやないよ?」
……こいつ、殴りてぇ。
こっちは切羽詰まってるってのに。
「ウチに急用ってことは、薬が必要なんやろ? ほならちょっと待っとり。道具があらへんかったら、薬も作られへんわ。合理的に行動せな、助かるもんも助からんようなるで?」
「……すまん。事情は道すがら話すから、可能な限り急いでくれ」
「まかしとき。……あ、せや。さっきのは別に自分のアレが立派かどうかに言及したかったわけやないからな? ウチかて見たことないさかい、比べようもあらへんし……」
「急げつってんだろ!?」
ドアの向こうへレジーナを突き飛ばし、準備を急がせる。
店の中は相変わらず薬の匂いが充満していた。
暗い店内をランタンの頼りない灯りが照らしている。
「ほい、お待たせ。ほな行こか」
「……早いな」
「ウチ、これでもデキる女やねん。…………あ、デキる言うても……」
「さぁ、急ごうか!」
レジーナが余計なことを口走る前に強引に店の外へと連れ出す。
まったく、こいつは……
だが、感心もしていた。
レジーナは日頃からこういう事態を想定しているのか必要な物がすでにまとめられていたのだ。いつでも飛び出せるように、常にその状態が維持されているのだろう。
「お前は、ちゃんと薬剤師なんだな」
「せやで。……まぁもっとも、街の人はウチのことなんか頼りにしてくれへんやろうし、無駄な労力なんやろうけどな……笑いたかったら笑ぅてくれてえぇよ?」
ネガティブが暴走してやがる。
「笑うかよ。絶対笑わねぇよ」
「ほなら罵るか? はっ!? まさか辱めるんか!?」
暴走がおかしな方向へ向かっている。
誰かこいつに友達を紹介してやってくれ。心の闇を振り払ってくれるようないい友人を!
「大したもんだと思うぞ。絶賛してやる」
「……ほぅ…………さいですか」
褒めれば調子に乗るかと思ったのだが、歯切れの悪い言葉が返ってきた。
「な、なんや、普段の行いを褒められると……こ、こそばゆいなっ。背中かぃ~なってもうたわ」
わははと、ワザとらしく笑い、これまたわざとらしく背中をかいてみせる。
照れてるのか? らしくもない。
「けど……おおきにな。頼ってくれたんは、素直に嬉しいわ」
「なら、馬車馬の如く頼ってやる」
「その言葉おかしない? 適度に頼むな」
レジーナの肘が俺の脇腹を小突く。
照れはなくなり、いつもの雰囲気を取り戻している。
「前も借りたけど……便利やんなぁ、この傘とかいうの。お手軽やし、顔濡れへんし……って、自分、肩メッチャ濡れてるやん!?」
急いでいたせいもあり、傘は一つしか持ってこなかった。
相合傘をしながら教会へ向かっているのだが、さすがに二人で入るにはこの手作りの傘は狭い。
ならば、どちらかが濡れてしまうのは仕方のないことだろう。
「気にすんな。俺の国では男が濡れるのがマナーなんだよ」
「へぇ……紳士の国なんやな」
そうでもないけどな。
「愛のある道具やねぇ」
「そうか?」
「そう思うで。なんや、大切にされとる気になれるし」
大切に……まぁ、思ってはいるか。
「それに、晴れた日やったら、傘でこう前を隠して二人っきりの空間に出来るやん?」
「晴れた日に傘なんか差すかよ」
「差したらえぇねん。これさえあれば、大通りでも人目を憚らずエロいことがし放題……あぁっ、傘どかさんといて! 冷たい! ウチ今めっちゃ濡れてるてっ! アカンねん! 薬剤師が風邪引くとか、シャレにならへんねん! 店潰れてまうわ!」
くだらないことを言った罰として傘を思いっきり自分側へと傾けてやった。どしゃ降りの雨に打たれてレジーナがわたわたしている。
……ったく。
「……あぁ、ビックリした。自分、冗談通じひんなぁ…………」
傘を戻してやると、レジーナは肩や頭にかかった雨を手で払い退ける。
「けど、ようやっと落ち着いたみたいやね」
「え?」
「さっきまでの自分、今にも死にそうな顔しとったで。切羽詰まり過ぎや。緊急事態の時こそ、周りの人間が落ち着いて判断、行動せなアカン。せやろ?」
……こいつ。
それでワザとこんなふざけたことを…………
「あ、せや。さっきのウチがめっちゃ濡れてるいうのは、別に…………冷たぁ~い! 傘持ってかんといてぇ~!」
見直しかけて損をした。
こいつは素でこういうヤツなのだ。
もう二度と判断を誤ったりはしない。
だが。
「ありがとうな。少し冷静になれた。教会にいる連中はもっと取り乱しているはずだから、俺たちがしっかりしてなきゃな」
「そういうことや。ほんで、教会に行くんか?」
「あぁ。子供たちがちょっと大変なことになってな」
「置き薬が効かへんかったっちゅうことは、ちょっと難しい症状かもしれへんな。診てみななんとも言われへんけど」
こいつ、教会というキーワードだけで子供たちの状況を推測しやがった。
頭は回るヤツなんだな。
「下痢と嘔吐、それから発熱もあるらしい」
「原因に心当たりは?」
「水らしい。この雨で用水路が決壊して汚水や泥水が井戸に流れ込んだみたいだ」
「…………なるほど。危険やね」
ベルティーナに聞いた話を改めて整理すると、恐ろしいことになっているな。
症状も、コレラや腸チフスに似ているし……抗生物質なんかないぞ。どうやって治療すりゃいいんだよ。
「まずいなぁ……」
レジーナの口から嫌な言葉が漏れる。……まずい?
「まぁ、とにかく診てみななんとも言われへんわ。ちょっと急ごぉか」
「あぁ」
俺はレジーナに歩調を合わせつつ、可能な限り急ぎ足で教会を目指した。
「ヤシロッ!」
陽だまり亭の前まで来たところで、突然声をかけられた。
そこにいたのはマグダと、エステラだった。
「エステラ? どうしたんだよ、こんな時間に」
傘を差したエステラが駆け寄ってくる。
「ナタリアが高熱を出してね。料金を気にして解熱剤を固辞したと聞いて叱っておいたよ」
結局熱が上がってしまったのか。
「喉の調子はいいみたいだったよ。紅茶でうがいしてた」
「それはいいが、一人で来たのか? こんな夜中に……危険だろ」
「もちろん近衛兵を連れてきたさ。もっとも、彼女には解熱剤を持って一足先に帰ってもらったけどね」
ナタリアの具合も深刻なのだろう。
でなければ、こいつが一人でここに残るなんて言い出したとしても、その近衛兵とやらが帰ったりしないだろうからな。……つか、近衛兵も女なのか。領主の娘ってガード固いんだな。
「話はマグダから聞いた。ボクも教会へ行くよ」
「お前が来ても仕方ないだろう?」
「レジーナ。代金はボクが持つから、出来る限りの処置をしてやってほしい」
「さすが、男前やねぇ」
「お、男前って……」
レジーナの返しに、エステラは苦笑を浮かべる。
まぁ、今さら言っても大人しく帰りはしないだろうし、何より今から帰すとなれば今度こそ本当に一人歩きになってしまう。
時刻は深夜だ。何が起こっても不思議じゃない。
しょうがない。ここは一緒に行動するしかないだろう。
「よし、じゃあ少し急ぐぞ。マグダも来い」
一人にしておくより連れて行った方がいいだろう。
「あぁ、でも、それだと戸締まりをしていかないと……」
「……しておいた」
俺の言葉を遮るように言って、マグダは鍵束を見せる。
こいつも、意地でも付いてくるつもりだったんだな。
「よし、じゃあ行くぞ」
四人になった俺たちは、教会へ向かって歩き出した。足元に気を付けつつ、出来る限りの速足で。
教会に着いてすぐ、ジネットが俺たちを出迎えてくれ、そのまま談話室の脇の廊下を通り抜けて階段を上がり、子供たちの寝室へと案内された。
二階に来るのは初めてだが、そこには生活の匂いがそこかしこに感じられた。ここは完全にプライベートスペースなのだろう。
「こっちです」
かつては自身も暮らしていた場所を、ジネットは勝手知ったる感じで進んでいく。
子供部屋は二部屋あり、男女で分かれているようだった。
だが、今は看病をするために同じ部屋に男女十人が寝かされている。
子供たち全員が倒れたというのは本当だったようだ。いや、疑っていたわけではないのだが……こうして目の当たりにするまで信じられなかった。信じたくなかったということもあるかもしれないが。
「レジーナさん」
部屋に入ると、ベルティーナが俺たちのもとへやって来る。
憔悴しきっており、ついさっき見た時よりもさらにやつれたように見える。
「子供たちを……」
「あぁ、任しとき」
囁くような声で言葉を交わすとレジーナは横たわる子供たちへと近付いていく。
「あ、自分らはちょっと外出ててくれるか? 空気感染する病気かもしれへんし」
言いながら純白の布で口と鼻を覆う。
苦しそうなうめき声を上げる子供を、不安げな表情で見ているおばさんやお婆さんがいた。教会のシスターなのだろうか。彼女たちに退室を求めないということは、もし空気感染するウィルスだった場合、彼女たちは既に感染している可能性が高いと判断したのだろう。
ならば、感染した危険のある人物を俺たちと一緒に退室させるのは危険だ。
レジーナは第一に被害の拡大を防ごうとしている。
非情に見えるが、賢明な判断だと思う。
俺たちはレジーナの指示に従い部屋の外へと出る。
ドアを閉め、そのそばで祈るような気持ちで待機する。
……酷い状態だった。今朝まではあんなに元気だったガキどもが…………
「……どうして、代わってあげられないのでしょうか……?」
ジネットがそんな言葉を漏らす。
代われるのなら、自分が代わりにその苦しみを背負ってあげたい。そう思っているのだろう。
「そんなもん、決まってんだろ」
他の誰も、ジネットの問いに答える素振りを見せないので、仕方なく俺が答えてやる。
いいか、その頭によく刻み込んでおけよ。
「苦しんでるガキどもの看病をするためだ。お前が倒れたら誰が看病するんだ? 入れ替わって、ガキどもに寝ずの看病をさせる気か?」
「い、いえ……それは…………」
「弱っている時は不安になるもんだ。そんな時、頼りになる人間がそばにたくさんいてくれたら、寝込んでるヤツも心強いだろうが。お前は、あいつらを安心させてやるために代わってやれないようになってんだよ」
「………………そう、ですか」
無理やりなこじつけではあるが、ジネットは幾分か納得したような表情を見せた。
「…………そうですね。わたしがこんな顔してちゃ、みんなが不安がりますよね。しっかりしなくちゃ」
そう言って、自分の両頬をぺしりと叩く。
そして、まだ少し引き攣ってはいるが……無理矢理に笑みを浮かべて俺に向けてくる。
「ありがとうございます、ヤシロさん」
「……礼を言われるようなこっちゃねぇよ」
その健気な笑みに、俺は視線を向けていられなかった。
こんな口先だけの誤魔化ししか出来ない自分が、後ろめたかった。
無性に、何か別の話をしたくなった。
出来ることなら、どうでもいい話を。
「なぁ、ジネット」
「はい」
「中にいたババアとクソババアはどこから発生した妖怪だ?」
「し、失礼ですよ、ヤシロさんっ」
思ってもいない言葉を耳にして、ジネットは一瞬言葉に詰まった。
けれど、すぐに眉を寄せて俺を叱る。
非難するようなニュアンスは一切含まず、いつものように優しく窘めるように。
「彼女たちは寮母さんたちです。わたしたち……ここにいる子供たちのお母さんのような方たちなんですよ」
「寮母? ここは寮なのか?」
「行く当てのない子供たちが集う、共同生活寮です」
ってことは、あのババアどもは孤児院の職員みたいなもんなんだな。
ベルティーナが陽だまり亭で腹を壊した時は、あの寮母たちがガキどもの面倒を見ていたのか。
…………なら、朝飯くらいテメェらで作れよ!
「寮母さんの多くはご自宅からの通勤になりますので、基本的に早朝はシスターしかいないんですよ」
質問もしていないのに、ジネットが俺の顔を見てそんな説明をする。
俺の顔はそんなに分かりやすいのだろうか?
「そうですね。ヤシロさんは割と顔に表れる方だと思いますよ」
会話しちゃってない?
そこまで分かるもんなのか?
試しに……
あの寮母はシスターってわけではないんだな?
「……?」
右手を上げてくれ。
「……?」
1+1=?
「……?」
今日も凄まじいまでの爆乳だな。
「懺悔してくださいっ!」
……なぜこれだけ伝わってしまうのか…………
「まったく。こんな時に何を考えているんだい、ヤシロは」
「……ヤシロは、おっぱいが好き過ぎ」
お前らにまで伝わってたのか……今後気を付けよう。
「…………わたし、頑張って看病をします。……ですから…………どうか、子供たちを御救いください……」
ジネットが手を組み精霊神に祈りを捧げる。
もし神様がいるなら、お前を信じて毎日祈りを捧げる子供たちを病気になんかしてんじゃねぇとぶん殴ってやりたいところだ。
……ジネットにあんなつらそうな顔をさせたこと、忘れんじゃねぇぞ。
「みんな、ちょっとえぇか?」
その時、ドアが開いてレジーナが顔を出した。
鼻と口を覆っていた布は下げられており、今は首元に巻きついている。
感染病ではなかったということだろうか。
レジーナは部屋から出ると、後ろ手にドアを閉めた。
俺たちだけに話したいことがあるのか?
「原因はやっぱり飲料水やね。ちょっとタチの悪い病原菌がお腹ん中に入って悪さをしてもうとるんや」
「空気感染の心配は?」
「ないね。あの病気やったら、まだ地元におったころ何回か診とるし、特効薬の作り方も知っとるよ」
「本当ですかっ!?」
特効薬という言葉に、ジネットが表情を輝かせる。
だが、それと反比例するようにレジーナの表情は曇っていく。
ジネットのこの表情。ベルティーナや寮母にこの表情をさせないように俺たちだけに話そうと思ったのだろう。
つまり……
「……けど、残念ながら、その特効薬は作られへんねん」
「………………え?」
ジネットの顔から血の気が引いていく。
血の気と一緒に、表情までもがなくなってしまった。
「その特効薬には必要不可欠な素材があるんやけど、それが手に入らへんのや」
「何が必要なんだい? 言ってくれれば、ボクが用意するよ。たとえ中央区に掛け合ってでも……」
「ちゃうねん。四十二区にないんやのぅて、この街、オールブルームにないんや」
「……そん、な」
ついにジネットは眩暈を起こし、廊下へとへたり込んでしまった。
マグダがすかさず歩み寄り、ジネットの背中を撫でてやっている。
「どうしてないと断言出来るんだい?」
諦めきれないのか、エステラがレジーナに食ってかかる。
なんとしてでも探し出してみせると言わんばかりの気迫だ。
「ウチの地元の名産品やさかいな。少々値が張っても定期的に購入しとったんやけど、一ヶ月前から急に市場から姿を消したんや。今現在は手に入らへんようになってもうてる。もっとも、紛い物はぎょ~さん出回っとるみたいやけどな」
レジーナの地元の名産品で、この一ヶ月で市場から消え、紛い物が出回る……つまり偽物を作りたくなるほど価値のある物……そんなもんは、アレしかないだろう。
「それがあると薬が作れるのか?」
「それがなかったら薬は作られへんのや。今からバオクリエアに向かっても、戻ってくる頃には、あの子たちはもう……」
「…………そうか」
なんだかなぁ……と、思う。
「じゃ、しょうがねぇな」
そんな言葉しか口に出来なかった。
立ち去ろうと足を出すも、足が凄く重い。
視界がフラフラする。フラフラしてんのは、俺の方か。
「ヤシロ、どこに行くんだい?」
エステラの声が俺を呼び止めるが、そんなもんに構ってやる気にもなれない。
あ~ぁ、だ。
本当に…………本っっっ当に、底意地の悪いヤツだぜ、神様ってヤロウはな。
なんだ?
ワザとか?
全部テメェの手のひらの上か?
必死に駆け回っている俺を見て嘲笑ってやがったのかよ、クソヤロウ。
「ヤシロさんっ!」
教会の入り口まで追ってきたジネットが俺に向かって声をかける。
だが俺は止まらない。
水溜まりが跳ねる。
全身に叩きつける雨は、さっきより強くなっている気がする。
……あれ、俺はいつの間に外に出ていたんだ?
それで、どこに向かって走ってるんだ?
なんてよ、とぼけてんのも分かってんだよな、『神様』?
それを見て、お前今、笑ってんのか?
数分走り続け、見えてきたのは陽だまり亭。俺の目的地だ。
マグダから預かっていた鍵でドアを開ける。
食堂を突っ切り、中庭に出て、階段を駆け上がると脇目も振らずに自分の部屋を目指す。
いちいち行く手を阻むドアを乱暴に蹴り上げる。
何もない簡素な部屋。
あるのはベッドと生活用品を入れておく長持だけ。
泥棒が入れば、迷うことなくこの長持を持ち出すだろう。
だが残念だったな。そっちはフェイクだ。
本当に高価なものはベッドの下に作りつけた秘密の引き出しにしまってあるのだ。
木箱にワラを敷き詰め、シーツを被せただけの質素なベッド。その底に、俺があとから作った引き出しがあり、その中に、布袋いっぱいに詰まった『高価な物』が入っている。
末端価格50万Rbオーバー、日本円にして五百万円以上。
かつては金と同じ値段で取引されたとまで言われた畑の宝石。
俺がこの街で背負うことになった数々のしがらみや足枷の元凶。
バオクリエア産の香辛料だ。
初めてこの街にたどり着いた時、行商人のノルベールから巻き上げた盗品。
結局、そのノルベールにしても、この香辛料を盗んできていたようで、現在市場への流通が遮断されている曰くつきの逸品。
いつかほとぼりが冷めたら金に換えてやろうと思っていたのに…………
「だから俺は、神とか仏とか、上から目線のヤツらが大っ嫌いなんだよ!」
負け惜しみの悪態を吐いて、俺は大雨降りしきる店の外へと飛び出していく。
もう濡れ過ぎてどうでもいい気分だ。
いっそのこと、このイライラも、戸惑いも、呆れも、ついでに込み上げてくる変な高揚感と使命感も、みんなみんな洗い流してくれればいい。
駆け抜けてきた道を全速力で駆け戻っていく。
毎朝毎朝、嫌んなるほど往復した道だ。
雨の勢いに瞼を開けていられなくても、雨で前が見えなくても、教会までなら余裕でたどり着ける。
灯りがともっているのに妙に静まり返っている教会。談話室横の廊下を駆け抜け、階段を駆け上がる。
ガキどもが寝ている部屋。そのドアの前にいたのはエステラだけだった。
「みんなは、中で子供たちの看病さ」
「……はぁ……はぁ…………お前は、何をしている?」
「何をしているは、君にこそ聞きたいセリフだけど……いいよ、答えてあげよう」
エステラはすべてを知っていると言わんばかりの表情で俺へと歩み寄ってくる。
「君を待っていたんだ。何かを仕出かすつもりの、君をね。観衆がいた方が君の張り合いが出るだろう?」
ふん。
そんなもんいらん。
観衆も張り合いも、俺には必要ない。
「頑張るのはレジーナだ」
俺は握りしめていた布袋をエステラの手にポンと載せる。
「スゲェいいヤツが『これを使え』ってよ」
「へぇ。凄くいい人が……なるほど。こんな高価なものをくれるんだから、相当にいい人なんだろうね」
「あぁ、お人好し過ぎで反吐が出そうだ。あぁ、あとそれから……『出所は詮索するな』とも言っていたかな」
「なるほど……けれど、子供たちの命には代えられない。たとえこれが『悪事の動かぬ証拠』であっても、ボクはありがたく使わせてもらおうと思うよ」
不敵な笑みが俺を見つめる。
……だからなんだ。目なんか逸らしてやるもんか。
「それからな……今世紀最大のお人好しが言うにはな、『もし余ったら返却してほしいなぁ』だそうだ」
「残念だね。そうしてあげたいのは山々なんだけれど、ボクはその人の顔も名前も知らないんだ。どんな人だったんだい?」
「…………一目見た瞬間気絶するような絶世の美少年だったよ」
「あはは……見たことないなぁ、そんな人」
テメェの目の前にいんだろうが。
「それじゃ、ボクはこれをレジーナに渡してくるよ。君は今すぐ一階へ降りて厨房へ向かうべきだよ」
「夜食でも作らせようってのか?」
「ジネットちゃんがお湯を沸かしてくれている。『ヤシロさんがきっと子供たちをなんとかしてくださいます』と言ってね。戻ってきた君が寒さで震えずに済むようにって」
ジネットめ……俺なんかを信用するなと、何度言えば分かるんだ。
まぁ、湯が沸いているのはありがたい。
寒くて死にそうだからな。……ホント、何やってんだろうな俺は。傘、差せばよかったのに。
「あぁ、そうそう」
厨房へ向かおうとした時、背後からエステラの声が飛んできた。
「とある街の領主関係者が言っていたことなんだけどね……『もし、盗品を私利私欲のために換金していたら、きっとボクは全力をもってそいつを潰していただろう』……だって」
俺は振り向かない。
だから、今エステラがどんな顔をしているのかは分からない。知りようがないからな。
「……そうかよ。当事者に伝わるといいな」
「伝わらなくてもいいんじゃないかな。きっと、もうその必要もないだろうしね」
「悪人はどこまでいっても悪人のままだぞ。下手な期待をすると、いつか泣きを見ることになるんじゃないか」
「ということはだよ。根っからの善人はどこまでいっても、結局は善人ってことだよね。……過去に何があったって、どんなに悪ぶっていたって……そういうのに関係なく、さ」
それは、ただの理想だな……
「早く持っていってやれ。ガキの体力なんかたかが知れてんだぞ」
「そうするよ。君も、早く体を温めてくるといいよ」
振り向かないまま、手を上げて返事の代わりとする。
階段を下り、下りてすぐのドアをくぐる。
毎朝ジネットが三十人前もの朝食を作っているその場所に、そこが定位置かのようにジネットが立っていた。
大きな鍋で大量のお湯を沸かしている。
寸胴のような鍋と、五右衛門の釜茹でを思わせるような巨大な釜。二つが竃にかけられてぐつぐつと湯気を立てていた。
「小さな子が多いですので、いつでもお湯を沸かせるようにしてあるんですよ。オネショしちゃう子とか、結構いますので」
厨房に入った俺に、そんな話をしてくる。
何も聞かず、何も言わず、いつものように接してくる。
「……俺はオネショ小僧と同類かよ」
「全身ずぶ濡れですので、もっと大変ですね」
くすくすと笑うその顔には、まだどこか不安げな影が見え隠れしていた。
「お前もお世話になったことがあるのか?」
「秘密です」
「無い、とは言わないんだな」
「秘密です」
はぐらかしつつ、ジネットは寸胴に入っているお湯を床に置いた大きなタライへと移し換えている。
「とりあえずは、これで足を温めてください。濡れた服は脱いで、これで体を覆ってください」
テキパキと足湯の用意をして、ジネットは俺に椅子を勧める。
脇には、タオルと大きめの布、濡れた服を入れる籠が置かれている。
「向こうを向いていますので、着替えが済んだら教えてくださいね」
「お前の前で真っ裸になるのか?」
「……っ、う、後ろで、ですよ」
少し照れたようで、急いで俺に背を向ける。
後ろも前も同じじゃねぇか。……脱ぎにきぃ…………
しかし、これ以上は本当に風邪を引いてしまう。
しょうがない。
俺は、向こうを向くジネットの背後で服を脱ぎ、用意された布に包まって、湯気の上るタライへと足を浸けた。
…………あぁ~………………じんじんするぅ……これは、気持ちがいい。
「もう、平気ですか?」
「あぁ……」
振り返ると、ジネットは間を置かず、脱ぎ捨ててある俺の衣服を回収し籠へと入れる。
そして、タオルを持って俺の背後に回り、俺の髪の毛を拭き始める。
「子供か、俺は?」
「大きな子供さんですね。任せてください。やんちゃボウズの相手は慣れているんです」
「……誰がやんちゃだ」
わっしゃわっしゃと、髪の毛が揉むように拭かれていく。
互いに黙り、布のこすれる音だけが聞こえる。
とても静かで……でもその静寂の中に、確かに他人の存在を感じる。
なんだか、心地よい空間だ。
「わたし、信じていました」
不意に、ジネットがそんなことを言う。
俺の髪を拭く手は止めずに。
「ここを飛び出していった時のヤシロさん、いつものアノ表情をされていましたから」
「…………『アノ表情』?」
「ご自分では意識されていないんですか?」
まるで自覚がない。
俺は基本、ポーカーフェイスのつもりなのだが。
「わたしたちが困った時、どうしていいか分からなくなった時、ヤシロさんはいつも同じ表情をされているんですよ。わたし、そばで見ているので知ってるんです」
自慢げに言って、くすっと笑い声を漏らす。
「そんなにユニークな顔なのか?」
「いえ。とても頼もしい顔ですよ」
ジネットの拭き方が変化する。
根元をしっかり押さえるようなものから、毛先をふんわりと拭くような手つきへ。
「『ここは任せろ』って、そう言われている気になる、そんな表情です」
とんでもない誤解だ。
そんなこと考えたこともない。たったの一度もだ。
「だから、わたし。信じていましたよ」
「あのな、ジネット」
まだ何も解決していないにもかかわらず『していました』と過去形なのも気になるが、それよりも何よりも……
「俺のことなんか信用するな。俺は、お前が思うようなスーパーマンじゃない。嘘も吐くし人も騙すし、巨乳が大好きだ」
「前にもおっしゃってましたね。それで、わたしに警戒しろと」
「それを覚えているなら、なぜ警戒していない? 俺の言うことを鵜呑みにするということは、いつ騙されて、酷い目に遭わされるか分からんということだ。ホイホイ他人を信用してんじゃねぇよ」
「う~ん…………」
短く唸り、そしてそのすぐ後、ジネットは「はい。分かりました」と、信憑性のない言葉を口にする。
「つまり、ヤシロさんの言葉を100%信用するのはいけないということですね」
「まぁ、そういうことだ」
こいつは絶対分かってないのだろうけど。
「でしたら、わたしは『ヤシロさんは嘘吐きで信用してはいけない』というヤシロさんの言葉を信用しません」
「はぁっ!?」
「うふふ。もう騙されませんからねぇ」
こ、こいつ…………真性のバカか?
「『ヤシロさんは嘘吐き』という嘘なんですよね」
「いや、それが真実なら俺は嘘吐きということになって、それが嘘なら嘘吐きではないということになるがそもそも嘘を吐いているという前提ならもうすでに嘘吐きで…………結局どっちも嘘吐きなんじゃねぇか」
「はい。ヤシロさんは嘘吐きなんですよね?」
「あぁ、そうだ……けど………………ん?」
あれ、いいのか?
けど絶対ジネットは俺の思っているのとは真逆の解釈をしている…………あぁ、ややこしい。
「もういい……好きにしろ」
「はい。します」
それからまた、二人とも黙って、静かな時間が流れていく。
タオル越しに俺の頭を撫でるジネットの手の感触を味わいつつ、この静寂は心地いいなと、改めて思った。
特効薬が完成したという一報が入ったのは、それから間もなくのことだった。
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