42話 雨音
夜が明けても、空を覆い尽くす分厚い雲のせいで街は闇に包まれたままだ。まるで時間が止まってしまったかのような錯覚に陥ってしまう。
低く唸る遠雷だけが、耳に届く音のすべてだった。
「……っしょっと」
肩に食い込む籠を背負い直し、最近通り慣れた森を突っ切っていく。
「あ、お兄ちゃん!」
スラムの入り口に二人の弟が立っていて、俺の姿を見つけると駆け寄ってくる。
こいつらは見張り役なのだ。
「よぉ。頑張ってるか」
「まぁ、何もすることはないけどね」
「いいことじゃねぇか。平和が一番だろ」
「まぁね」
兄妹の中で最年長組のこいつらは、さすがに他の兄妹と違い多少落ち着いた雰囲気を持っている。年齢は十四歳ということらしい。ロレッタの一つ下になる。
ロレッタが外に稼ぎに行っている間、スラムを守るのはこいつらの役目なのだ。
「あ~ぁ。俺も働きに出られればなぁ……」
俺を連れてスラムの中へと戻る道すがら、弟はそんな言葉を呟いた。
こいつらの外見はどこからどう見てもハムスターだ。
……まずは、スラム住民の立場を向上させないとこいつらに仕事は出来ないだろう。
仮に仕事にありつけても、長続きはしない。きっとどこかで摩擦が生じるはずだ。
「そうそう。その仕事を持ってきた。何人か手先の器用なヤツを用意してくれ」
肩に背負った籠を弟に渡す。
「これは?」
「網だ」
「網?」
「おっと、訂正。網と、宝物だ」
籠の中には、海藻が盛大に絡みついた海漁ギルドの網が入っている。
今回もワカメや昆布が大量に絡みついている。……どういう漁の仕方をすればこんなに海藻が絡みつくんだよ…………日本ではあっちこっちに生息しているようなものでもないんだがな。なんかもう、ワザと海藻掻き集めてんじゃねぇのか、ってくらいに海藻がわんさか絡みついているのだ。
こっちの世界は植物の成長が著しいのかもしれない。野菜は一年中いろんなのが採れるし。
落とし穴を避けて進み、スラムの中へと入っていく。
落とし穴ゾーンを超えると、あばら家が建ち並び、中から幼い兄妹たちがわらわらと姿を現してくる。
凄い数だ。
誰かがこいつらを養うなんてのは無理だ。
こいつら自身に仕事をしてもらわないと……
とりあえずは、網に絡まった海藻の外し方、網の補修の仕方、そして、回収した海藻の干し方をレクチャーしていく。
相変わらずの呑み込みの早さで、ハムっ子たちはそれらの技術を吸収していく。
なるほど。ウーマロが教育に熱を入れるのも頷ける。
こいつらは貪欲なのだ。仕事がしたいと、誰よりも思っているのだ。
……こんな仕事しか振ってやれないのが、申し訳なくなるほどに。
スラムを離れ、間もなく陽だまり亭へたどり着くというところで、ついに空が機嫌を損ねた。
大粒の雨が降り出したのだ。
叩きつけるような雨音が街をのみ込んでいく。
容赦なく俺を濡らす雨に、全力疾走を余儀なくされる。
あれこれ悩むのを一度やめ、ただ前を向いて走る。水たまりを蹴飛ばして、陽だまり亭の敷地へ駆け込むと、店の前に二台の屋台がひっそりと佇んでいた。
一瞬、ザワッと……心が毛羽立つのを感じた。
「……くそ」
目を逸らし、俺は陽だまり亭のドアを開ける。
「ジネットすまん、タオルを……」
「お帰りなさいませ、ご主人様」
そんな言葉で俺を迎えてくれたのは…………ナタリアだった。
しかも、……こいつは一体何考えてんだろうな…………ナタリアの着ている服の胸の部分にはこんな文字が躍っていた。
『 陽だまり亭・本店
安いっ! 美味いっ! 可愛いっ!
野菜炒め 20Rb~ !!
四十二区にて絶賛営業中!!
年中無休
来なきゃ損っ! 友人・家族を誘って是非お越しくださいっ!! 』
……何着てんだよ?
「……おや? 面白い顔を……おっと失礼、奇妙な顔をされていますね」
「言い直した方が失礼さ増量してんじゃねぇか!」
「私の挨拶は間違っていましたか?」
「挨拶以前に、なんか色々間違ってるよ、お前は」
つかそもそも、なぜお前がここにいる?
「以前、お嬢様がこちらで貸していただいた服があったと思い出しまして。店長さんにお願いして少し貸していただいたのです」
「お前も着てみたくなったのかよ?」
「いえ……そういうことではなくて…………」
ナタリアの手が俺の肩をガシッと掴む。
白く細い指が、肩にめり込んでいく。……痛い痛い痛いっ!
「どう見ても男物ですよね、これは? そして、この店に男性はただ一人しかいませんよね? そう、あなたです」
「…………え、なに? 俺、なんか怒られてる?」
「あの時は、奇妙な文言に思考が止まってしまいましたが………………アナタノ服ヲオ嬢様ニ着サセタワケデスネ?」
「怖い怖い怖い! あん時はそうするしかなかったんだよ! エステラが風邪を引くよりかはマシだろうが!」
「その後、この服は返却されたわけですが………………嗅ギマシタヨネ?」
「嗅ぐかっ! どこの変態だ!」
「私は今さっき嗅ぎましたが!?」
「嗅いでんじゃねぇよ!」
「残念ながらお嬢様の香りはせず、あなたの匂いしかしませんでした…………軽く殺意を覚えました」
「勝手に覚えてんじゃねぇよ」
なんなんだ。一体何をしに来たんだ、こいつは?
さっくりと追い返してやろうかと思ったのだが……
「……こほっ、こほっ。…………失礼」
よく見ると、ナタリアはどこか気怠そうで、顔も少し赤かった。
「お前、もしかして風邪でも引いてんのか?」
「気のせいです」
「んじゃ、俺の服を着て興奮してるのか」
「風邪です。今朝から少し調子が悪いのです。人の尊厳を踏みにじるような言いがかりはつけないでください」
やはり風邪なのか。あと言い過ぎだから。俺でもたまには傷付くからな? そこだけは忘れるな。
「あ、ヤシロさん。ちょうどよかったです」
薬箱を持って、ジネットが厨房から出てくる。
「どのお薬をお渡しすればいいのか少し不安で……ヤシロさん、診てあげてくれますか?」
「おぉ、薬か」
「お嬢様がもらってこいと……心配いりませんと何度訴えても聞いていただけなくて」
陽だまり亭には、レジーナの置き薬が揃っている。
エステラはそれを知っているので、ナタリアを寄越したのだろう。
「雨に降られなかったか?」
「少しだけ。ですが、今日はこれを着て帰りますので大丈夫です」
「……それ、俺の服なんだけど?」
「大丈夫です。我慢出来ます」
「いや……お前の心情的な問題じゃなくて……まぁ、いいけどよ」
なんだか妙に気に入られてしまったようだ。
文字Tシャツとか作ったら売れるかもしれないな。
「もしかして、昨日助けてくれた時も具合悪かったのか?」
カマキリ男に絡まれ、俺は危うく刃を振るうところだった。
あの時、ナタリアが現れていなければ、俺は今この場所にはいないだろう。
あの時も、こいつは体調を崩していたのだろうか?
「そうですね…………多少は、というところでしょうか」
「全然分からなかったよ」
「普段の六分ほどの力しか出せませんでした」
「……お前はバケモノか?」
アレで六分って……こいつが100%の力を発揮したらどんなことになるのか、想像もしたくないな。
「じゃあ、ちょっと座れ。診てやるから」
ナタリアを椅子に座らせ、額に手を添える。細く柔らかい髪の毛が手の甲に触れ、くすぐったい。
「…………なんのマネですか?」
「熱を見てんだよ」
「熱はありません」
「いや、あるだろう、確実に」
体温計がないのではっきりとは分からんが、微熱程度はありそうだ。
「解熱剤がいるかもな」
「解熱剤はいらないので、消毒液をください」
「雨の中放り出すぞ、コノヤロウ」
涼しい顔をして憎まれ口を叩くナタリアだが、やはりどこかダルそうにしている。視線にも、いつものような鋭さがない。
頬に手を添え下瞼をくいっと押し下げる。毛細血管が密集しているこの箇所が白っぽくなっていると貧血の恐れがあるのだ。……とりあえずは大丈夫か。いい物食ってるんだろうな。
「…………なんのマネですか?」
「うっさいな、いちいち聞くな。ちゃんと意味はあるから、大人しく診察されてろ」
「頬に触れたりなどするから、キスをされるのかと思いました」
「するかっ!?」
とんでもない言いがかりだ。
だが、そんな言いがかりに対するリアクションは俺の隣から聞こえてきた。
「しないんですね? ……よかったです」
ジネットだ。
こいつは、何を考えているんだ……と、呆れつつジッとジネットの顔を見つめる。
「……え…………はっ!? あ、あのっ、よ、よかったっていうのは、別にそういう意味ではなく、お客さんにそのようなことをしてはいけないのでないかという心配からでして、あの、あぅ……」
「分かったから! 騒いでないでちょっと座ってろ」
「はい……すみません」
どうやら、ジネットもナタリアと同じことを考えていたらしい。
病人にキスして、「お前の風邪、俺がもらってやったぜ」なんて治療があって堪るか。
あと、俺は風邪を引きたくない。
「じゃあ、ちょっと口を開けろ」
「…………ディープキ……」
「しねぇよ! 喉が腫れてるかを見るの! ちょっと舌を出して『アー』って言ってみろ」
「………………アー」
素直でよろしい。
見たところ、扁桃腺が赤く腫れていた。
これでは唾を飲み込むのもつらかろう。
「お前んとこに紅茶があったよな? 熱湯で淹れた紅茶を水で薄めて、ぬるくしてからうがいをしておけ」
「紅茶で、ですか?」
「殺菌効果があるんだよ」
お茶の殺菌作用といえば緑茶のカテキンが有名だが、紅茶テアフラビンはさらに強力な殺菌効果を持っている。
この街には『ただいまの後にガラガラじんじんするヨード液』なんかないだろうから、紅茶うがいが最適だ。
「レジーナの薬には総合薬ってのはなかったからな……とりあえず解熱剤を持って帰るか?」
「いえ。治療法を教えていただいただけで十分です」
「いや、薬飲んどけって」
「私はお嬢様にお仕えする使用人。使用人が薬のような高価な物を、個人的な理由で使用するわけにはいきません」
「いや、薬は基本、個人的な用途でしか使わねぇだろうが」
個人が病気になった際、個人的に使うんだよ。
「お嬢様が大袈裟に言われるので、念のため伺ったまでです。お気遣いには感謝いたします」
「レジーナの薬はそんなに高くないから、もらっとけって」
「大丈夫です」
こいつ……頑固だな。
「そもそも、レジーナの薬を広めたがってるのはエステラなんだぞ? わざわざ俺をけしかけて、レジーナに対する不信感を払拭する工作までしやがったんだ。お前が使って、この薬の効果や利便性を広めれば、エステラの思惑に合致するだろうが」
いいからお前はお前の主に協力していればいいのだ。
と、そのようなことを言うと、ナタリアは驚いたような表情を見せた。
「驚きました。お嬢様のためにそこまでお考えを巡らせるとは……」
「いや、エステラのためっていうか……いいから、薬飲んどけよ」
「そうですね…………では、喉の薬をいただきましょうか」
「解熱剤は?」
「熱は本当に大したことがないのです。あまり薬に頼り過ぎるのもよくはないでしょうから」
まぁ、それはそうか。
あまり薬を飲むと眠たくなるかもしれないしな。もっとも、レジーナの薬に抗ヒスタミン剤が含まれているかなど、俺の知る由もないことではあるが。
「ジネット。喉の薬を。あとぬるま湯を持ってきてやってくれ。あぁ、あと、何か軽く胃に入れられるものを」
「はい! ただいま」
ジネットがパタパタと厨房へと駆けていく。
「至れり尽くせりですね」
「なに、これも商売の一環だ。気にするな」
「商売、ですか? 薬の代金にマージンは含まれていないと聞いておりますが?」
「薬の評判が上がれば、薬を求める人間がここに来るだろう? 薬はなるべく安い方がいいからマージンは取っていないが、客がここに来ることで生まれる利益もある」
「何も買わない人もいるのでは?」
「八割以上がそうだろうさ」
「……では、なぜ?」
「『一度も行ったことがない場所』と『一度行った場所』では、立ち入る際の抵抗感が雲泥なんだよ」
個人経営のレストランなんかでも、利益度外視の出血大サービスでとにかく客を一度店に呼ぶ努力をしたりする。同じ地域の店と連携してワインの試飲や料理の試食が出来るイベントをやったりな。
店にまで来てもらえれば最高。
でなければ、物産展で商品と店名だけでも知ってもらえればベターだ。
とにかく、名を覚えてもらうことはとても重要なのだ。
「確かに……レジーナさんのお店に入るのは、非常に勇気がいりましたね」
「怪しくないものが一つもないからな」
「上手い表現ですね。ですが、私たちは領内の住民が安心して使用出来る薬をどうしても確保したかったのです」
「それで、レジーナに会いに行ったわけだな」
「えぇ。ただ…………」
当時のことを思い出したのか、ナタリアの表情が曇る。
「店主が出てきた途端、『うっひょ~、美少年とクールメイド、キタコレ!』と叫び、続けざまに『当然美少年が年上メイドに開発されて……』と、そのあたりで店を出て、扉を閉ざし、以降一度も近付いてはいません」
「それは、従者として賢明な判断だったな。有能だよ、お前は」
……何やってんだ、あのバカは。
「そんなことがありましたので、彼女の薬は一切信用出来ませんが……お嬢様が信用されているのでしたら、私も考えを改めないといけませんね」
「最初は抵抗があるかもしれんが……」
「いえ」
短い否定は俺の言葉を遮り、真っ直ぐこちらに向けられた視線は次の言葉を封じた。
ゆっくりと流れる時間の中で、俺はナタリアの次の言葉を待っていた。
そうすることが当然かのように。
「……あなたも、信用しているのでしょう?」
俺に問いを投げかけてくるその瞳は、これまで見たことがないほどに優しく、ナタリアの中の女性らしさを垣間見せていた、
これが素の表情なのか、それともただ風邪で弱っているだけなのかは分からんが、緩やかに微笑むナタリアは、とても女性的で、美しかった。
「あぁ。レジーナの薬はよく効く。お前の風邪もすぐに治るさ」
「そうですか…………では、信用すると致しましょう」
ナタリアの視線が俺から外れ、厨房へと向けられる。
視線を追うと、ちょうどジネットが顔を出すところだった。
「お待たせしました~」
ナイスタイミング。と、言うよりピッタリ過ぎる。
俺が振り向いてピッタリってことは、……ナタリアはジネットが姿を現す前に気付いていたってことか? 気でも読めるのか? 怖っ。
お盆にぬるま湯とカットフルーツが載っている。
薬は、先ほどジネットが持ってきていた薬箱から俺が選んで出してある。
「…………不思議な気分です」
「何がだよ?」
「私は、お嬢様のお世話をする者です。そんな私が、このようにお世話をされているなんて……」
「そのお嬢様のお世話に支障をきたさないために、さっさと風邪を治せってことだろ」
「なるほど……道理は通っていますね。では、失礼して」
ナタリアはカットフルーツを一つ二つと口に運び、そして、薬を手に取る。
「私が薬を使うと、お嬢様のお役に立てるのですよね?」
「あぁ。もしかしたら、エステラはそのために、お前を寄越したのかもしれないしな」
あながち的外れな発想ではないはずだ。
もっとも、エステラは純粋にナタリアを心配してのことだろうが。
エステラが忙しくしていたということは、それを支えているナタリアはもっと大変だったということだ。
そういう人間を放っておきはしないのではないか……俺の考えるエステラという人物はそういうヤツだ。
ナタリアは薬を手に持ち、ジッとそれを見つめる。
少し、不安げな表情で。
「喜ばれる、……でしょうか?」
「たぶんな」
軽い口調でそう答えておく。それくらいが、今のナタリアにはちょうどいい塩梅だろう。
しばらく黙考した後、ナタリアは俺の方を向いて少し身を乗り出し、真剣な瞳で聞いてくる。
「……褒められますか?」
「上手くいけばな」
さらに身を乗り出し、ついには立ち上がり、グイグイと俺に詰め寄って、物凄い至近距離で聞いてくる。
「一緒に寝て、ギュッてしてもらえますか!?」
「それは知らん!」
どこまで望むんだ、お前は!?
褒められるくらいでいいだろうが。
ナタリアを座らせて薬を飲むよう勧める。
「そうですね。いただきましょう」
椅子に座ると、背筋を伸ばし、非常に行儀よく粉薬を口に含み、ぬるま湯で流し込んだ。
かと思いきやすっくと立ち上がり、キラキラ輝く瞳で俺を見る。
「治りました!」
「そんなすぐ効くか!」
「なんと素晴らしい薬なのでしょう! 実は、黙っていましたが先ほどまでは今にも死んでしまいそうな程苦しかったのですが、この薬を飲んだ瞬間先ほどまでの苦しみが嘘のように霧散していきました!」
「それ、誇大広告だから! 俺の国じゃアウトだから! つか、完全に嘘だしね!」
「いいえ。そのような気分になったのは事実です。私はそのように感じたのです!」
「お前の主観なんぞ信用出来るか!」
「おまけに、幸運にも恵まれて彼氏でも出来そうな勢いですっ!」
「胡散臭さが倍増だよ!」
「彼氏いない歴=年齢の私にですよ!?」
「さらっと悲しい事実を告白してんじゃねぇよ!」
ちなみに、レジーナの薬に恋人が出来るというような副作用は含まれていない、……当たり前だけどな。
「この薬の素晴らしさを領内の住民に触れ回ってきます」
「やめろ! 悪評しか立たないのが火を見るより明らかだよ!」
こいつは、もしかして……バカなのか?
「私は、この感動を皆に伝えたいだけで……」
「もういいから、さっさと帰って今日くらいは大人しく寝てろ。な?」
「なぜ私の寝相が悪いことを知っているのですか!? ……覗きましたね!?」
「覗いてねぇし、知らねぇわ! 帰って寝ろ!」
「あまり睡眠を長く取ると筋肉痛になる恐れがあるのです」
「どんだけ動くんだよ、寝てる間に!?」
「あ~、よく寝たぁ~………………ここはどこだ?」みたいなことになってんじゃないだろうな?
「それでは、あなたの言う通りに帰って休ませてもらうとします」
「おう、エステラによろしくな」
「………………」
「返事しろよ! よろしく言うだけだよ!」
まったく、こいつは、優秀なのかアホなのか判断に悩むヤツだ。
「では、ナタリアさん。服と傘をお貸ししますので」
と、ジネットが傘を差し出す。……あ、服も貸すんだっけ?
そうして、騒がしい珍客は陽だまり亭を後にし、降りしきる雨の中を帰っていった。
まったく……。
あまりの変わり者っぷりに、沈んでいた気分がすっかり軽くなっていた。
これを狙って、ワザと変わり者のフリを……ってのは、さすがに考え過ぎだろうな。
「……で、お前らは何をやってるんだ?」
厨房に食堂を窺う二つの影があった。
マグダとロレッタだ。
「……強敵。体調が万全でない時は対峙するのは避けるべき」
「ナタリアさん、ちょっと怖いですので、様子見を……」
そんな理由で、ずっと身を潜めていたらしい。
いや、仕事しろよ。
まぁ、他に客なんか一人もいないから、別にいいけどな。
雨は時間を追うごとに強くなり、午後にはバケツをひっくり返したようなどしゃ降りになっていた。
あ~ぁ。こりゃ今日はもう客は来ないかもな……
弱り目に祟り目とはよく言ったものだ。
ただでさえ移動販売が大きな壁にぶち当たって利益が落ちているというのに……
その日、結局、陽だまり亭を訪れた客は一人もいなかった。
どんよりと重々しく空を覆い隠す雲の陰鬱さが精神に伝染していくようだ。
「こんな日もあるさ」で、割り切るには……少しばかり負の要素が多過ぎる一日だった。
今日は早めにロレッタを帰した。雨も強くなっているしな。
気遣うような素振りを見せていたロレッタだが、多少強引に納得させた。
なに、明日になればまた潮目も変わるさ。
無理やりにでもそう思わないとやっていられない、そんな気分だった。
しかし、潮目が変わるどころか……
この日一番の災難は、閉店後――店の片付けをしている時にやってきやがった。
それは、ここ数日で見ても最悪な知らせだった。
激しくドアを乱打する音が店内に響く。
激しさを増した雨音に消されないようにしているのか、それともとても焦っているのか、とにかくそれは『ノック』などと呼べるような生易しい音ではなかった。
ドアを開けると、マントを羽織ったベルティーナが立っていた。
ずぶ濡れになりながら、小刻みに震えている。
だが、震えは寒さから来るものではなさそうだった。
顔色が悪い。
いつも冷静なベルティーナが取り乱したように、俺にすがりついてくる。
濡れた手が俺の肩を掴む。
ベルティーナの手は、氷で出来ているのかと思うような冷たさだった。
「……子供たちが…………っ」
その一言で、食堂内の空気は一変した。
ジネットの顔から血の気が引き、マグダも無表情の中に緊張感を窺わせる。
俺は俺で、情けないくらいに心臓が早鐘を打っていた。
誰も何も言えず、ただベルティーナを見つめていた。
もたらされるであろう次の言葉を、ひたすら待つだけの時間が続く。
時間にすれば、ほんの一瞬のことだったのかもしれないが、俺にはそれがとても長く感じられた。
何も聞きたくない。
けど、早く言ってほしい。
そんな複雑な気持ちで、俺は震えるベルティーナを見つめていた。
「く、薬を…………子供たち……に…………」
「シスター」
ジネットが、俺の肩に置かれたベルティーナの手に自分の手をそっと重ねる。
それだけで、ベルティーナの顔に少し血の気が戻ったように見えた。
取り乱していた心が、ほんの少し落ち着きを取り戻したのだろう。
「すみません……」
「いえ。それで……何があったんですか?」
ジネットの手に力がこもったのが分かった。
ジネットも怖いのだろう、その言葉を聞くのが。
だが、聞かずにはいられない。
幾分落ち着いたベルティーが、ゆっくりと状況の説明を始める。
「子供たちが倒れました。教会にいる十人、全員がです……高熱を出し、下痢に嘔吐……みんなどんどん弱っていって…………このままでは……っ」
「そんな……」
「レジーナの薬は? 教会にも置き薬があっただろう?」
切迫した状況に敬語を忘れてしまう。が、ベルティーナはそれを咎めるようなことはせず、青ざめた顔を横に振った。
「……効きませんでした。薬を飲ませても、嘔吐も、下痢も止まらず……熱も下がりませんでした…………」
薬が、効かない?
「流行病か……それとも…………何か、原因に心当たりはないのか?」
「あります……実は…………」
この後ベルティーナが語ったのは、ここ数日の集大成ともいえる――最悪な出来事だった。
「この大雨で川が氾濫し、用水路が決壊しました。そのせいで、泥水や汚水が井戸に流れ込んでしまったようなのです」
「飲み水が……汚染された…………?」
店の外では激しい雨音が、しつこいくらいに鳴り続けていた。
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