39話 四十二区の領主様
招かれざる訪問者を追い返し、号泣していた頑張り屋の長女が泣き止むと、ようやくこの場所に静けさが戻ってきた。
「……お恥ずかしいところをお見せしましたです……」
恥ずかしいところ?
「お前の尻尾はまだ見せてもらってないが?」
「違いますですっ! そういう恥ずかしさではないです!」
「もう、ヤシロさん。めっ、ですよ」
え、なに、ジネット、その可愛い叱り方?
今後そういう感じなの?
「あ、いえ、あの……そんな目で見られましても…………ヤ、ヤシロさんは先ほどとても頑張ってくださったので、懺悔を強要するのは憚られまして……ですので…………ぁうう、み、見ないでください……っ」
『めっ』はさすがに恥ずかしかったのか、ジネットがみるみる赤く染まっていく顔を覆い隠して蹲る。これに取っ手がついていたら持って帰るところだ。
ふと視線を上げると、俺たちからかなり距離を取った場所に幼い兄妹たちが固まってこちらを見ていた。
何も言わず、誰も動かず、ジッと俺を見つめている。
……ゾルタルとのやり取りを見て、俺のことが怖くなったのかもな。
まぁいいさ。
もともと子供は苦手なんだ。向こうが近寄ってこないのなら、こちらから関わる必要もない。
けどまぁ……さっきの格闘ごっこは楽しかったろうになぁ。一気に逆転されちまうんだな、好感度ってのは。
それはちょっと寂しいような……まぁ、いいけどね! 俺には教会のガキどもがいるし……って! ガキは嫌いなんだよ、俺は! 馴れ馴れしいし、空気読まねぇし、すぐ泣くし、……一人じゃ、生きられねぇしな。
「あの、お兄ちゃん……どうかしたですか?」
赤く腫らした目で、ロレッタが俺の顔を覗き込んでくる。
こいつに心配されるような表情なんかしてないつもりだったのだが……
気にされるのも癪だ。話題を変えよう。
「ゾルタルはもうここには来ないと思うが……『ゾルタル以外の誰か』が同じようなちょっかいを出してくる可能性はまだ残っている」
「そう……なんですか?」
『二度とここに来るな』とは言ったが、『他のヤツに委託するな』とは言っていなかった。
詰めが甘かったか……?
「まぁ、もしまたおかしなヤツらがちょっかいかけてきたらすぐに言え」
「――っ!?」
「……ん? どした?」
「い、いえっ! あの……今の、なんだか…………とっても、お兄ちゃんっぽかったです」
慌てたように視線を外し、俯いてもじもじと指を絡める。
耳の先がカーッと赤みを帯びていく。
これまで兄妹のことと家のことと、全責任を一手に引き受けていた長女。その重責は、この小柄な少女の肩には負いきれるものではなかったのだろう。
ちょっとばかり頼れそうな相手が現れて、少し舞い上がっているのだ。決して恋心などではない。
……だから、ちょっと鎮まってくれるかな、俺の心臓。
「まぁ、職場の上司として、出来る範囲のことはしてやるよ」
「は、はいっ! ありがとうございますですっ!」
相変わらず、おかしな敬語を使うヤツだ。
『らしい』と言えば、凄く『らしい』のだが。
「ぅぅぅぅぅわぁぁあああああああっ! もう無理ー!」
「むりぃー!」
「おに~ちゃ~ん!」
「おでぃ~ちゅゎあ~ん!」
「おじぃーたーん!」
「おにぃちゃ~ん!」
「んななな、なんだなんだっ!?」
突然、先ほどまでじっと動かずこちらを見ているだけだった兄妹たちが、一斉に突撃してきた。
無数の小っこいネズミっ子――改め、ハムっ子たちが俺に飛びかかってくる。
「あっ! こら、あんたたち! 待機って言ったでしょう!?」
「むーりーだーもーん!」
「これ以上お兄ちゃんに迷惑かけちゃダメですっ!」
「めーわくじゃないもーん!」
……いや、すげぇ迷惑だが?
どうやら、兄妹たちはロレッタに言われて俺に飛びつくのを強制的に我慢させられていたらしい。そして今、その我慢が限界に達し、抑制された衝動が爆発してしまったと、そういうわけだ。
「兄ちゃんすげぇ! すげぇすげぇ!」
「イノシシのオッサンやっつけた!」
「お兄ちゃんかっこいい!」
「お兄ちゃん!」
「お兄ちゃん!」
「おでぃちゅゎん!」
「おじいちゃん!」
「お兄ちゃん!」
「おいっ! 誰か鼻詰まってるヤツいるだろ!? 『に』が『でぃ』になってるヤツ! それから、ちょいちょい俺のことジジイ呼ばわりしているヤツがこの中に一人いる!」
俺は気付いているぞ。
前に「じぃ~」っと見つめてきた時も、一人だけ「じじぃ~」って言っていたことに! その時はスルーしたけどもっ!
「また穴落としやろー!」
「やろー!」
「そんな危険な遊び、もうやっちゃダメです! いいからお兄ちゃんから離れるです!」
ガキどもを引き剥がしにかかるロレッタだが、如何せん数が多い。剥がしても剥がしても、夏の蛍光灯に群がる蛾の如く次々に飛びついてくるのだ。
江戸村のマスコットじゃねぇっつの……
「はぁぁあ……ヤシロさんが弟さんたちに揉みくちゃにされて、なんだかわきゃわきゃしてますっ!?」
先ほどまで蹲って身悶えていたジネットが、俺の置かれた状況を見て驚きの声を上げる。
……俺もわきゃわきゃされちゃってたか。
「あの、みなさん。ヤシロさんがそろそろ限界に近い表情になっていますので、解放してあげてください」
ジネットがハムっ子たちを説得し始めるも、全然効果が現れない。
……つか、そろそろマジで体力が持たん。体は十代でも、精神的には三十代なんだぞ。若人のパワーに当てられ続ければ疲弊もするわ。
やはりこれくらいのガキどもにはガツンと怒らなければ伝わらないのかもしれん。
「五秒前…………四…………三…………」
「みんな逃げろー!」
「退避っ! 総員退避せよっ!」
「お兄ちゃん顔怖~いっ!」
「おでぃちゃ…………ヘブシッ!」
「……じじい」
「二、一、ゼロッ!」
ゼロと同時に腕を振り上げ体を起こす。
その頃にはハムっ子どもは全員遠くまで逃げていた。
「鼻詰まってたヤツ、ちゃんと咬んどけ! それから『じじい』って言ったヤツ、絶っ対っ見つけてやるからな! 見た目は若人、頭脳は大人ってのは、そういうのメッチャ得意なんだからな!」
「まぁまぁ、ヤシロさん、落ち着いて。子供のしたことですし……」
「言うこと聞かないヤツは『めっ』だからな!」
「ヤシロさん、それはわたしに対する攻撃ですかぁ!?」
「『めっ』!」
「もうやめてくださいっ! 忘れてくださいっ!」
折角ハムっ子どもが全員離れていったというのに、今度はジネットが俺に飛びつき胸板をぽこぽこと叩いてくる。まったく痛くはない。腕力皆無か、こいつは?
そして、なんでそうなるのかは分からんのだが、手と足が連動している。右手を叩きつけると左足がぴょこんと上がり、左手を打ちつけると右足がぴょこんと上がる。体を左右に揺らしながらぽこぽこ胸を叩かれる……おぉう…………なに、このちょっとバカップルっぽいお戯れ……
「あ、イチャついてるー!」
「ふぇえっ!? ち、違いますよっ!? ね、違いますよね、ヤシロさん!?」
いや~……イチャついてたろ、今のは。だってちょっと楽しかったもん。
「あ、あぅ……あの、わ、わたしっ、ご飯の用意をしてきますっ!」
「あ、じゃあ弟たちに案内させますですね。あんたたちー! 店長さんをウチに案内してあげなさいですー!」
「「「はーいっ!」」」
そうして、ジネットは逃げていった。
今からあの人数分の飯を作ってたら、店には帰れないだろうな。
陽だまり亭を出たのが昼飯時が終わった頃で、ここまで歩いてきて、落とし穴に嵌って、弟たちと格闘技して、ゾルタルとやり合って…………空はすっかり赤く染まっていた。
「俺は一度陽だまり亭に戻るよ。さすがに、ウーマロを夜まで付き合わせるわけにはいかん」
「あ、じゃあ、あたしもお供しますです」
「そうか? …………ふむ」
時間的に考えて…………この後やるべきことを考慮して…………
ロレッタには一緒に来てもらった方がいいな。
「じゃあ、頼む」
「はいです!」
「あと、妹を何人か連れて行ってもいいか?」
「それは構いませんですけど……、でも、どうしてですか?」
「マグダを連れてきて、今日はこっちで夕飯を食おうかと思ってな」
時間的にも、この後の営業は無理だろう。今日は早じまいだ。
「夕飯の後、ついでにポップコーンも披露してやろう」
「わぁっ! 弟たち、きっと喜ぶですっ! あたしも楽しみです!」
そんなわけで、俺はロレッタと妹二人を伴って陽だまり亭に戻ることにした。
残りの兄妹にジネットへの伝言を任せて、俺たちはスラムを出る。
妹二人は、滅多にスラムの外に出ることがないのか、ずっと不安そうに身を寄せ合っていた。
ロレッタの左側に寄り添うように密着して歩いている。
右から、俺、ロレッタ、妹二人という並び順で、夕暮れ迫る道を歩く。
帰る道すがら、俺たちはこんな会話をしていた。
「お前は領主に会ったことがあるのか?」
「はい。あの地区を存続してもらえるように、何度かお願いに行ったことがあるです」
「領主本人に直談判したのか?」
「いえ。ほとんどはメイド長のナタリア・オーウェンという女性の方が対応してくださいましたです。……凄く怖い方で、実はちょっと苦手なんです」
まぁ領主の家のメイド長なら、きっちりした性格なんだろうな。
「領主様は現在ご病気をされているようで、あまり人前には出てこないみたいですよ」
「病気なのか?」
「はい。ずっと伏せっていらっしゃるとか……心配ですね」
じゃあ、ゾルタルの
領主の口調には、一切弱っているような雰囲気は見受けられなかったが……まぁ、文字からじゃあ読み取れないだけかもしれないが……
「もう、一年近く人前には姿を見せていないです」
「そんなにか? 四十二区の自治に支障が出るんじゃないのか?」
「いえ。領主様には、お嬢様がいますですから。領主様が伏せって以降は、お嬢様が領主様の代わりとして表に出ているそうです」
「へぇ……お嬢様ねぇ……」
と、ロレッタが手のひらを合わせ、斜め上をポ~っと見上げながら呟く。
「とてもお美しい人なんですよ……」
憧れてますと言わんばかりのとろけた視線だ。
「気品に溢れ、知性的で、笑顔がステキで……女性なら誰もが憧れるような人なんです」
「見たことあるのか?」
「はいです! …………えへ、じ、実は、あたし……大ファンでして……たまに覗きに行ったり……」
「きゃー、ちかーん」
「ち、ちち、違いますですよっ!? 散歩コースに張り込んで後ろ姿だけでも拝見出来ればと……本当にそれだけですからっ!」
うんうん。
ストーカーなんだな。……俺も気を付けよ。
「じゃあ、やっぱり妹たちに来てもらって正解だったな」
「へ? 何がですか?」
「これから、その領主に会いに行く」
「………………ぇぇえええっ!?」
ロレッタの悲鳴が轟いたところで、ちょうど陽だまり亭に到着した。
「どうしたッスか!? 何事ッス!?」
ロレッタの悲鳴を聞きつけ、店内からウーマロが飛び出してきた。
「あ、ヤシロさんじゃないッスか。……何かあったッスか?」
「いや、これからちょっと領主に会ってくる」
「これからッスか?」
そう言ってウーマロは空を見上げる。
「さすがに、もう会ってくれないんじゃないッスかね? それに、四十二区の領主様は今病床に就いているッスよね?」
「だから、娘の方で我慢してやる」
「お、おおお、お兄ちゃんっ! 恐れ多いことを言うもんじゃないですよ!?」
「……『お兄ちゃん』? って、なんッスか?」
「あぁ、なんか、そういうことになった。気にするな」
「はぁ……まぁ、よく分かんないッスけど、領主様のお嬢様なら、尚のこと会えないと思うッスよ。こんな時間に男が訪ねていったら門前払いされるだけッス」
「何言ってんだよ、ウーマロ……」
ウーマロの首に腕を回し、狐のデカい耳にこそっと世の常識を囁いてやる。
「……年頃の女は夜遊びが好きなもんだろう?」
「危険ッス! ここに危険な男がいるッス!」
「……話は聞かせてもらった」
振り返ると、そこにマグダの姿があった。
手には巨大なマサカリが握られている。
「……お覚悟を」
「冗談だよ、マグダ。マサカリを人に向けるのはやめなさい」
「…………分かった。言う通りにする。……お兄ちゃん」
「お前、いつから話聞いてた!?」
完全に話を理解してんじゃねぇか!
まぁいい。
俺は今後の予定をマグダに話して聞かせた。
俺とロレッタはこれから領主の館へ行き、今回のゾルタルの件について意見をもらってくる。
そして、マグダは妹たちに付いてスラムへ行き、ジネットと合流して夕飯の準備。及び、食後にポップコーンのレクチャーをしてもらう。
今日領主に会った際、上手く話をつけることが出来れば移動販売に漕ぎつけることが出来るだろう。そのためにも、ハムっ子たちにはポップコーンを知っておいてもらわなければいけない。
「なるほどです。ゾルタルの件があるから、あたしが代表として付いていくですね」
「まぁ、そういうことだ」
「あの、ヤシロさん。オイラはどうすればいいッスか?」
「明日仕事は?」
「お休みッス!」
……こいつ、ここ最近休んでばっかりじゃねぇか? 失業したんじゃないだろうな。
「じゃあ、家でゆっくり休んでくれ」
「オイラも一緒に行きたいッス! 夕飯食べたいッス!」
トルベック工務店への報酬・三食提供の期間はいまだ継続中なのだが、連日の大雨とトルベック工務店の仕事が中断されていることもあって、現在は休止期間となっている。これはウーマロから申し出てきたことだ。大雨の中陽だまり亭に通わせるのも可哀想だしな。
まぁ、ウーマロはずっと来ているが。
なので、店を閉めればウーマロがウチの料理を食べることは叶わない。これで食べさせてしまったら特別扱いになってしまう。
「じゃ、じゃあ! 何かお手伝いするッス! 屋根の修理でも、壁の補強でも! 桶を作ったりも出来るッスよ!?」
必死だ。
そんなにマグダと一緒にいたいか?
そして、ウーマロは、つい今しがたまで俺に押しつけられていた店番を貸しだとは思っていないようだ。本人が苦じゃないと思っているのであればこちらから進んで借りを返すような真似はしない。
であるならば、今回の夕食は俺の貸しになるわけで……貸しはきちんと返してもらわねば。
「ちょっと変わった荷車を頼めるか?」
「荷車……っすか?」
「あぁ。設計図はあとで渡す」
「またハードルの高いものを…………でも、いいッスよ。それくらいならお安い御用ッス!」
「よし、じゃあとりあえずは二台頼む」
「二台!?」
「状況に応じて変更はあるかもしれんが、最終的に五台くらいは欲しいかな」
「五台!?」
「よろしくな、ウーマロ。期待してるぞ」
「ちょっ! ちょっと待ってくださいッスよ!? いくらなんでも五台は……っ!?」
「マグダ」
「……………………しゅん」
「んも~ぅ! マグダたんの小悪魔!」
マグダが大根演技でうな垂れてみせると、ウーマロの心にあるトキメキの導火線に火が点いたようで、気味の悪い笑みを浮かべて身悶え始めた。
「分かったッス! やるッス! その代わり、期間はちょっと欲しいッス!」
「あぁ。三日で頼む」
「鬼っ! ヤシロさんは鬼ッス!」
バカモノ、こっちは死活問題なんだよ。
大急ぎで頼む。
……という思いを乗せて、マグダの背中をポンと押す。
「……ウーマロ。ガンバ」
「頑張るッスよー!」
いいぞマグダ。お前はきっと女優になれる。
「んじゃ、サクッと行ってくるわ」
陽が沈んでしまう前に領主の館に着きたかった。
さすがに、風呂にでも入った後では会ってはくれないだろうからな。タイムリミットは風呂前までだ。
「……ヤシロ」
「どした?」
マグダはジッと俺を見上げ、大きくも虚ろな瞳をこちらに向けている。
微かに潤んで見えるのは、夕焼けのせいだろうか。
「…………ちゃんと、来る?」
不安げな表情……なのだろうか?
俺たちに置いていかれ、長時間留守番をした後、また別行動になる。それが寂しいのかもしれない。
「あぁ。すぐに合流するから、美味い飯を作って待っててくれ」
少しくらい、甘やかしてやってもいいだろう。
ネコ耳を押さえつけるようにもふもふと髪の毛を撫でる。
するとマグダは気持ちよさそうに目を細めた。
その様を見ていたロレッタが、マグダの前へ回り込み、顔を覗き込むようにして視線の高さを合わせる。
「もしかして……マグダっちょ……」
「……『まぐだっちょ』?」
「お兄ちゃんのこと好きですか?」
「………………」
突然投げかけられたド直球の質問に、マグダは動きを止めた。……というか、いつもの無表情なのでなんの変化も見られない、と言った方が的確かもしれないが……
「あ、あれ? あたしの見当違いでしたですか?」
マグダが反応を見せないので、ロレッタは慌てた様子を見せる。
違う意味で慌てていたのがウーマロだった。
「そそそそ、そうッスよ! マグダたんは天使ッスから、誰とも恋愛とかしないッス!」
「え、でも……それでいいんですか、お客さん的には?」
「オ、オイラは……マグダたんを見守るのがオイラの仕事ッスっ!」
いや、お前の仕事は大工だよ。
無表情のマグダを放って、ギャーギャーと周りが騒ぎ立てている。
でもな、ロレッタ。
よ~く見てみろ。
マグダの耳が忙しなくピクピク動いているだろう? 俺やお前の方に耳を向けては逸らし、向けては逸らしを繰り返している。
照れてるんだろうな。マグダの感情を読むとしたら……
『そんなこと、面と向かって聞くな』ってところかな。
ま、詳しくは分かりようもねぇけどな。
「んじゃ、ウーマロ。マグダと妹たちをよろしくな」
「任せてほしいッス!」
時間が迫っていることもあり、俺たちは挨拶もそこそこに陽だまり亭を後にした。
夕日はもう、ほとんど沈んでしまっていた。
領主の館に着いた時、空は重い灰色に染まっていた。
夕方雲間から差していた夕日も、今ではその輝きを見せることはない。
館の門は相変わらずデカく、四十二区にしては頑張っているレベルで綺麗だった。
ドアの横に大きな竹の板がぶら下がっており、その脇には木槌が備えつけてある。
これを打って人を呼ぶのか。ずげぇ原始的な呼び鈴だな。
カンッカンッカンッ! ――と、乾いた竹の音が小気味よく響く。
「どちら様でしょうか?」
すると、すぐに一人のメイドが現れた。
スラリと背が高く、とてもスリムな印象を受ける。
黒く艶やかな髪は短く切り揃えられており、首回りはすっきりとしている。反面、前髪は長くアゴにまで達し、けれどそれが邪魔にならないように綺麗に分けられている。
陶器のような白い肌。そのほとんどはシックで簡素なメイド服に包み隠され、鼻に載せた細いフレームのメガネが知的さと少しの厳しさを感じさせる。
だが何より特徴的なのは、猛禽類のように鋭い目。まるで鋭利なナイフを向けられているような気分になる視線だ。
そんな視線を、柵で出来た門の向こう側から、俺たちを値踏みするように上から下から舐め回すように浴びせてくる。正直、嫌な感じだ。
「どちら様で?」
「領主に会いたい」
「アポイントは?」
「ない」
断言すると、一瞬のうちにメイドは踵を返して立ち去ろうとする。
「待て! 今日中に話をしないと困ることになるんだ!」
「申し訳ございませんが。主様は現在、ご病気のため静養中ですので……」
「娘の方でいい!」
俺がそう言うと、引き返しかけていたメイドが凄まじい速度でこちらに迫り、更に凄まじい速度で懐からナイフを取り出し俺の喉元へと突きつけた。
…………速い。少年漫画のような動きだ。
「お嬢様に対し、失礼ではないですか?」
「…………で、です、かね?」
視線が痛い。
このメイドの視線にはこちらの痛覚をダイレクトに刺激する特殊能力でも備わっているのか?
「訂正を」
「え、えっと…………お嬢様『が』いい、です」
「…………まぁ、いいでしょう」
いいのかよ……
ナイフが喉元を離れ、俺は安堵のため息を漏らす。
怖い。
この人、超怖い。
殺人鬼でももうちょっと愛らしい目をしてるぞ、たぶん。
野生の熊でも一瞬で服従するに違いない。そういう目だ、あれは。
「しかしながら、お嬢様への面会は終わりの鐘までと決まりがありますので、お引き取り願います」
「そういうわけにもいかねぇんだよ」
「……拳で、語りますか?」
「こ、言葉で語ろうぜ…………えっと、俺の
陽が沈んだというのに、微かな光を集積させた鋭いナイフをきらりと輝かせるメイドに、俺は思わずロレッタ式の敬語で話してしまった。
「……ワケがおありのようですね。拝見しましょう」
メイドはそう言うと、姿勢を正し、静かにその場に佇んだ。まるで、森の中の木を見ているような、そこにあるのに一切その存在をこちらに感じさせないような、不思議な佇まいだ。
これが、主の邪魔をしないようにしつつも常に背後に控えるメイドの身のこなしというヤツか。
俺は、
そして、ゾルタルが領主の名を騙りスラムの乗っ取りを企てていたことを告げた。
「……そうですか。主様の名を騙って…………」
「早く対策を取らないと、またこのような事案が発生しかねないと思い、こんな時間だがお邪魔したわけだ」
「かしこまりました。主様のお耳には入れておきます。ですが本日はもうお時間が……」
「二度とこんなことが起こらないようにする秘策がある」
「…………」
言葉を被せると、メイドは言葉を止め、代わりに窺うような視線を俺に向ける。
「……お伺いしても?」
「門前払いするようなヤツに教えてやる義理はない」
「……………………少々お待ちを」
しばらく黙考した後、メイドは深々と頭を下げた。
そよ風一つ起こさない、優雅な所作だった。
「あ、ちょっと待ってくれ」
館に戻ろうとするメイドを呼び止め、俺は忘れていたもう一つの大事なことを伝える。
「オオバヤシロだ。『お嬢様』に伝えてくれ」
メイドは俺を見据え、静かな声で「承知しました」とだけ言うと、スッと消えるように館の中へと入っていった。
「あの人が、ナタリア・オーウェンさんです…………こ、怖かったです……」
アレがここのメイド長か。貫禄あるな。
いや、威厳か。
ナタリアに見つめられていたというだけで、ロレッタは体力のほとんどを奪い取られてしまったようだ。地面にしゃがみ、膝を抱えて蹲っている。
エナジードレインまで持ってるのか、ナタリアは。
数十分ほど待たされ、空が完全に暗くなった頃、ランタンをぶら下げたナタリアが門の前へと戻ってきた。
「お嬢様がお会いになるそうです。……こちらへ」
ナタリアが言うと、門の横に控えていた兵士が静かに門を開いた。
「す、すす、凄いです。お話を聞いてもらえるなんて……お、お兄ちゃんって、なんでも出来るんですね!?」
「なんでもは出来ねぇよ」
ただ、今回領主、もしくはその娘に会う自信はあった。
自分たちの名を悪事に利用されたのだ、早急に対策を立てたいだろうし、ここで被害者を粗雑に扱えば悪評が広がってしまう。
最悪、「ここの領主は地上げ屋を雇って住民を追い出そうとしている」なんて噂が立てばさすがの領主もダメージを受けるだろう。
と、もし会ってくれないというのであればこういう脅しを使うつもりでいたのだが……、よかった、穏便に会うことが出来て。
「こちらで、しばらくお待ちください」
通されたのは、応接間らしき一室だった。
天井が高く、白い壁は隅々まで綺麗に掃除されている。
足元にはふかふかの絨毯が敷かれ、部屋の中央には意匠の細かいアンティークなテーブルと、それに合わせたそこそこ高そうなソファが置かれている。ペルシャ絨毯のような模様の布地が張られたソファは、足と肘掛けの部分のみ木目を活かした造りになっている。
「いつ見ても凄いですねぇ……」
天井を見上げ、ロレッタが息を漏らす。……口開いてるぞ。
しかしまぁ、俺に言わせればちょっと古いホテルのロビー程度のクオリティだ。
そんなわけで、上座にどっかりと腰を下ろし、お嬢様とやらの登場を待つ。
ロレッタは何も言わず、俺の隣に腰掛ける。
……こいつは上座とか知らなそうだよな。
「あの……お兄ちゃん」
ソファに座ると、ロレッタが俺にこんなことを言ってきた。
「絶対失礼なことは言わないでくださいですよ?」
「俺がそんなことを言うように見えるか?」
「う…………あたしはお兄ちゃんのことを信じているです。でも正直に言えば、…………言うように見えるです」
はっはっはっ、図星過ぎて言い返せない。
その時、静かに応接室のドアがノックされた。
重厚な木の音が室内に響く。
間もなく、音もなくドアが開かれる。
先に入ってきたのはナタリアで、開いたドアを押さえて出入り口を広く開ける。
その後ろから現れたのは――
「わぁ…………」
ロレッタが思わず声を漏らすほどの美しいお嬢様だった。
かつてのフランス王国ブルボン朝を思わせるような、エレガントで華やかなドレスを身に纏い、そんなドレスにも決して引けを取らない美貌に微笑を湛え、清流の如き優雅な足取りでこちらに近付いてくる。
大胆に肩と胸元を露出したドレスは、卑猥さなど微塵も感じさせることなくただただ着る者の美しさを引き立たせ、楚々とした女性らしさまでもを感じさせる。淡い桃色のドレスに包まれた透き通るような白い肌が眩しい。
こちらを見つめる大きな瞳は、穢れを知らず澄みきっており、微笑により細められることでその美しさを際立たせている。彼女の赤い瞳は、そこいらの宝石がただの石ころに思えるほどに美しく尊い。もし宝石商がこの場にいれば、そんな賛美を送ることだろう。
品よく切り揃えられた赤い髪の毛は、お嬢様という言葉からイメージするよりかはいささか短いが、彼女の持つ明るいイメージにぴたりと合致していてとても好感が持てる。
俺と目が合うと、彼女は少し照れたような表情を見せた。微かに頬が赤く染まり、何度か視線を逃がし、唇は羞恥に耐えるようにキュッとすぼめられている。
それでも迎えるべき客人に非礼無きようにと浮かべられた微笑は、彼女の羞恥と相まってどんな名画にも劣らない芸術的な美しさだ。と、ここに絵画商がいればそう絶賛することだろう。
ロレッタは、先ほどから一度も瞬きをしておらず、登場したお嬢様に見惚れている。
俺は改めてそのお嬢様を見つめ、せめてもの礼儀にと――心に浮かんだ正直な気持ちを口にした。
「女装にでも目覚めたのか、エステラ?」
「他に言う言葉は思いつかなかったのかい、君はっ!?」
そこにいたのは、正真正銘、エステラその人だった。
ただ、とても美しいドレスを着て、今日はちょっとメイクまでしている。
こうして見ると、本当に女の子なんだなぁ、と思う。
「お嬢様」
「え、なに、ナタリア?」
「あの男を殺します」
「ちょっ! いいから! 彼はそういう男なんだ! 大丈夫、いつものことだから!」
「では死なないように苦痛を与え続けます!」
「ヤシロ! 早く謝って! いや、ボクのことを凄く褒めて!」
魔神の如きオーラを放つナタリアを懸命に押さえ込みながら、エステラがそんな注文を寄越してくる。
褒めろったって……
「その胸で、よくそんな胸元のザックリ開いたドレスが着れたな。凄い勇気だ。称賛に値する」
「……ナタリア。GO!」
「イエス・サー!」
「冗談! 冗談だ! 似合ってるから!」
「……三十点」
「お前が入ってきた時、大輪の花が咲き誇ったのかと思うほどすげぇ似合ってる!」
「………………六十七点。まぁ、及第点でしょう」
ナタリアがナイフをしまい、ドアの隣へと戻っていく。
……こ、怖ぇ…………あいつのナイフ捌きはエステラ以上だ……
「まったく。ヤシロはいつでもどこでもヤシロなんだね……」
呆れたように言って、下座であるのも気にせずエステラが椅子に腰を掛ける。俺の向かいだ。
「普通さ、いつも気軽に接している相手がこんな華やかな格好をして、それも『実は領主の娘でした!』なんて場面で登場すればだよ? 驚いて言葉を失ったり、いつもと全然違う雰囲気にときめいたりするものじゃないのかい?」
ぷりぷりと怒るエステラは、いつも見ているエステラそのものだった。
「なに言ってんだよ。驚くわけないだろう」
「……もしかして、バレてた?」
「なに、お前……隠してたの?」
だとすれば、こいつは迂闊過ぎると言える。
というか、頭はいいのにちょっと抜けているというか……まぁ、俺も確信を持ったのはついさっきだけどな。それまでは「そうじゃないかなぁ?」くらいのことだったのだが。
苗字が言えないとか、男物の服を着て帰るとひと悶着起きるとか、家にこっそり帰るのは無理だとか。こいつは色々なヒントをあちこちで口にしている。
そして、平気な顔をして金貨を使う。
更に、海漁の許可証をはじめ、各種の許可・申請手続きの滞りの無さ。
もっと言うならば、四十二区に雨による被害が出始めた途端、忙しくて顔を見せなくなったこととか……とにかく、こいつは自分が特別な人間であることを宣伝して歩いているようなものだった。
俺も、もしかしたら領主か……でなくても貴族の娘なんだろうなと思っていたのだが、スラムでゾルタルの
口調や言い回しがまんまエステラだったからな。
ただ、『領主=エステラ』とまではさすがに思えずちょっと混乱した。ゾルタルが『領主直々に』なんて言葉を繰り返し使いやがったもんだから尚更な。
そこでロレッタから得た情報だ。
『現在領主は伏せっており、その代行として娘が表に出ている』
ゾルタルは領主に謁見のアポイントを取った。が、実際に現れたのはその代行であるエステラだった。
代行として出てきた以上、その代行者の発言がイコール領主の発言だとゾルタルは受け止めたのだろう。
どこまでも拡大解釈するヤロウだな……で、そんなんが罷り通ってしまう『精霊の審判』にも、どこまで穴だらけなシステムなんだよと言ってやりたい。まぁ、『疑わしきは罰せず』ってところなんだろうが。
「でもさ、驚かせてやろうと思っていつもよりも念入りにメイクしてきたのに……一瞬で見破るんだもんなぁ……張り合いがないよ、本当」
「あのなぁ……」
お嬢様らしさの欠片もないような姿勢でエステラがため息を漏らす。
たぶん、俺以外の人間と会う時はもっとちゃんとしているのだろうが…………していると思いたい。
「どんな格好をしていても、エステラのことは一目見りゃ分かるよ」
「――っ!? ……………………へ…………へぇ……そう、なんだ…………」
男女問わず、ここまで胸が平らな人間は他にはいない!
――とかいう冗談を言うとナイフが飛んでくるんだろうな、二方向から。……やめとこ。
「あ、あのっ、ま、まぁヤシロなら、うん、そうかもね。それくらい……あは……わけないかもしれないよね、うん。へ、へぇ~、そうかぁ。ヤシロはボクのこと、よく分かってくれているのかぁ」
……エステラがおかしい。
笑顔を作ろうとしているようだがまるで成功していない。今の顔を写真に撮って百人に見せたら百人中九十人は『変顔』と定義するだろう。あとの十人は無言でそっと写真を返してくるに違いない。
乾いた笑いを漏らすエステラの前に、そっと紅茶が差し出される。
ナタリアが入れてくれたようだ。……って、めっちゃ怖い目で睨まれてるんですけど!? しかも俺を睨んだまま器用に次の紅茶を注いでロレッタの前に出してるんですけど!? そのティーポットを持ってきたワゴンに置いて、下の方から明らかに汚い水差しを取り出し、フチの欠けたコップにちょっと濁った雨水っぽい液体をなみなみと注いで、おぉーっと、それを俺の目の前に置いたぁーっ!
「…………どうぞ、召し上がれ」
「ナタリア……露骨過ぎる」
「おっしゃってる意味が分かりかねます」
だとしたらちょっと仕事を休んで長~い休養を取りな。精神が病んでいる証拠だから。
「エステラ。俺のとお前の飲み物、交換しないか?」
「ぅええっ!? そ、そんな……それは、ちょっと…………で、でもヤシロなら……まぁ」
「ダメです、お嬢様! はしたない!」
熱暴走を起こしているエステラを諌めるナタリアに気付かれないように、そっと濁り水と紅茶を取り替え…………途中でガシッと腕を掴まれた。
ナタリアがこっちを見ている……スゲェ見てる!
「……貴様…………お嬢様を殺す気か?」
「ってことは、お前は俺を殺す気だったんだな?」
「えぇ、そうですが。何か問題でも?」
「問題大有りだろうが!」
えぇい、もう! 埒が明かん。
「エステラ。真面目な話が二つある」
「二つ?」
話を振ると、エステラはいつもの引き締まった表情に戻った。
聞く態勢を取ってくれたので、俺は順を追って今日の出来事を話した。
「なるほど……ゾルタルが、そんなことを……」
「お前も、領主として発言している際は、言葉にはもうちょっと配慮しろよ。特に、悪用する気満々のヤツと会話する時はな」
「今、ボクの目の前にいる人物がその筆頭かな?」
「バカ。俺がお前を悪用なんかするかよ」
「……ウチのエンブレム、今日使ったよね?」
「………………大事の前の小事という言葉があってだな……」
マズいマズい。
エステラに無断でエンブレムを利用したことは伏せておくべきだった。
迂闊なのは俺もじゃねぇか。
「まぁ、今回だけは大目に見るよ。ボクの尻拭いをさせてしまったようだしね」
「えっ、俺はいつの間にそんな卑猥なことを!?」
「卑猥な意味合いは含んでないよ!」
こめかみを押さえて、エステラが話の先を促してくる。
「で、ボクにどうしろって言いたいのさ?」
「スラムには川がある。川を押さえられると川漁ギルドや農業ギルド……ほとんどのギルドが苦境に立たされることになる。だから、あの地域を領主の権力下に置いてほしい」
「とりあえず、という処置なら可能だけれど、恒久的にとなると難しいかもしれないな」
「その点は大丈夫だ。そこから先は、あそこに住む住民を改革することによって手出し出来なくさせる」
「改革?」
グッと身を乗り出してきたエステラ。
ふわっふわのスカートだが、その中で膝がこちらに向いていることがはっきりと分かる。
膝がこちらに向いている時は、対面に座る人物が自分の話に興味を持っている時だ。
ここで俺は、今回メインとなる話を持ちかける。
「ポップコーンの移動販売を許可してほしい」
「移動販売?」
「出来上がった商品を荷車に載せて、大通り辺りで売り歩くんだ」
「へぇ、移動する露天商か……面白そうだね」
「だろ? で、それを、スラムに住む子供たちに任せたい」
「その狙いは?」
「スラムに住む子供たちは仕事に就けていない。だから信用も低い。仕事に就いて住民たちからの信用を得られれば、無理矢理な乗っ取り行為は出来なくなるだろう。そうなれば、川の上流はあの地区が守ってくれるようになる」
「なるほど…………」
背もたれに深く身を沈め、エステラは静かに考えを巡らせている。
と、その隙に、さっきから一言もしゃべっていないロレッタに視線を向けると……
「はぁ…………綺麗…………」
エステラに見惚れていて、これまでの話を一切聞いていないようだ。
……おい。お前たち家族の話をしてんだぞ。
「ナタリア、羊皮紙とペンを」
「かしこまりました」
エステラの声に、ナタリアは素早く部屋を出て行く。
「いいよ、ヤシロ。四十二区内においてのみ、移動販売の許可を出そう。ただし、区外に出たり、トラブルを起こしたりすると許可は取り下げるからね」
「おう、助かる」
「あと……」
腰を浮かせ、エステラが顔を近付けてくる。
なので、そっと瞼を閉じてアゴを軽く上げ、エステラを受け入れる態勢を整える。
「なっ!? ち、違うよ、バカっ! 耳!」
「あぁ、そっちか」
「そっちしかないでしょう!? ……その、人の目もあるのに…………」
エステラの視線がロレッタに向かう。
で、視線がぶつかったことでロレッタは「きゅ~……です」と気絶してしまった。
……連れてくるんじゃなかった。マジで。
「面白い娘だね」
「陽だまり亭の新人だ」
「へぇ、じゃあまた会うこともあるだろうね」
ロレッタの心臓がその負荷に耐えられるか……不安だ。…………割とどうでもいいけど。
「で、なんだって?」
「あぁ、そうそう」
改めて、エステラが顔を近付けてくる。
「移動販売は許可するけれど、ヤツらが必ず妨害してくるはずだから、気を付けてね」
「ヤツら……行商ギルドか?」
エステラは無言で頷く。
俺たちが新しい場所で商売を始めれば、行商ギルドの連中にとっては面白くないはずだ。
ハムっ子たちだけに任せるのは危険か。最初は俺も付き添うとしよう。
「もう少し仕事が片付いたら、ボクも手伝いに行くよ」
「あぁ、期待しといてやるよ」
顔を寄せ合ったまま、囁くような声で言葉を交わす。
……もう風呂入ったのかな? すげぇ甘い香りがする。
あ、メイクの匂いかも。
「でも、よかったのか?」
「え? 何がだい?」
突然の俺の問いかけに、エステラはきょとんと目を丸くさせる。
「俺に正体なんかバラして」
「バラすも何も、もうバレてたんだろ?」
「自らバラすのと、詮索されてバレるのとじゃワケが違うだろうが。お前が領主の権限を持っていると自ら打ち明けたからには、俺はこれまで以上にお前を利用するぞ?」
至って真面目にそう言ってやると、エステラはクスッと笑いを零し、柔らかな表情を向けてきた。
「遅かれ早かれ、君がここを訪れることは予想してたからね。それに、別に隠してるってほどのことでもないから」
「俺には名字を隠したじゃねぇか」
「それはだって、出会った当初、君は油断のならない男だったからね」
「今は?」
「えっ!? ……ま、まぁ、今もその……油断のならない男だとは……思ってるけど……………………当初とは違う意味で……」
エステラが顔を赤らめごにょごにょと口ごもる。
その格好でそういう表情をするんじゃねぇよ。変に意識するだろうが。
「何はともあれ、あんま無茶するなよ」
「うん……ありがと」
「何かあったら、言えな。格安で助けてやるから」
「なんだよ、それ…………」
くすくすと笑うエステラの声は、本当に懐かしく思えた。
そういや、ずっと会ってなかったんだよな。
「お嬢様」
「「――っ!?」」
突然降ってきた冷たい声に、俺とエステラは弾け飛ぶように距離を取る。
別に何もやましいことはしていないのに、心臓が物凄い速度で脈打っている。
「羊皮紙とペンをお持ちしました」
「う、ううううう、うん、あ、あああああ、ありありあり、ありがとう! そこ、置いといて」
「かしこまりまし……たっ!」
「どぅっ!?」
トレーに載った羊皮紙とペンをテーブルに置くと同時に、ナタリアはカッチカチの黒パンを俺のみぞおち目掛けて放り投げてきた。
……お前、日本男児に生まれていたら、甲子園のヒーローになれたぜ…………呼吸が一秒止まって、真剣に泣きそうだ……
その後は、凄まじく鋭い視線に監視され、俺とエステラは事務的な会話しかせず、粛々と手続きを終え、気絶しているロレッタを叩き起こして領主の館を後にした。
とりあえず、スラムの応急処置と、移動販売の許可は取り付けた。
大成功だと言える。
なのに……なぜこうなるのだろう。
俺は、逃げるようにして館を去ったのだった。
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