38話 ヤシロ、動く

「いいかお前ら!」


 突然やって来たイノシシ顔の男ゾルタルは、こちらが歓迎もしていないのに居座るつもり満々で、誰も望んでいないご高説を高らかとおっぱじめる。


「俺様はな、四十二区の領主様直々に勅命を受けて動いているんだ! お前らみたいな最底辺のゴミクズどもには意見する権利も考える余地もねぇ! お前らの取るべき行動はただ一つ! 俺様に言われた通りに今すぐここを出て行くことだけだ! 分かったらさっさと消えろ、目障りだからなっ!」


 ブヒィー!


 ――と、盛大な鼻息を漏らし、言ってやった感満載のドヤ顔である。


 …………わぁ、恥ずかしい。

 そもそもなに、『俺様』って?

 自分をそこまで高く見積もるヤツ初めて見たんですけど。

 自分を高く評価したいなら、せめて見栄えくらいもうちょっとマシにして来いよ。

 食いたいものを食って、飲みたい酒を飲んで、やりたくない運動を避け続けた結果ですと言わんばかりの醜い体をしてんじゃねぇか。


 詐欺師や交渉人も含め、『商売人』ってのは見た目が八割だぜ?

 お前みたいなタイプは、日本じゃ通用しねぇな。


 デカい体にデカい声で、高圧的な態度……それでゴリ押しするだけの戦法じゃ、精々こんな女子供にしか通用しねぇよな。

 たぶん、エステラやベルティーナ相手なら尻尾を巻いて逃げ帰るしかないレベルの小物だ。


 とはいえ……


 ロレッタやその兄妹たちには大いに効果があるようで、みんな怯えた表情を浮かべている。

 唯一気丈に振る舞っているロレッタでさえ、唇が微かに震えている。


 はぁ…………やれやれ。


 なんだっけか……『ヤシロさんと敵対関係になる方には、お気の毒』……だっけ?

 今回も、そんな風に思うのかよ、ジネット。


 チラリと横顔を窺うとバッチリ目が合った。

 なんだよ。完全に頼りにしてんじゃねぇかよ。

 困った時のヤシロさん。……そんな目で見んな。今はただ、たまたま利害関係が一致しているだけだからな。

 俺を善人だなんて勘違いすんなよ。……いや、まぁ、勘違いするのはそっちの勝手だってのが俺のよく使う言葉ではあるが……あぁ、まぁ、ともかく、なんだ…………なんつうの? 不安げな? 泣きそうな? 「なんとかしてあげたいけれどわたしにはそんな力がなくて、それがもどかしくて悔しくて……でもヤシロさんなら……」みたいな? ……まぁ、つまり、そんな目で見んな。


「なにボーっと突っ立ってんだ!? さっさと消えろつってんだろうが! 聞こえねぇのか!?」

「あ、あたしたちは……っ!」

「なんだぁ、こらぁ!?」

「……ひゅぐっ!?」


 果敢にも反論を試みたロレッタであったが、ゾルタルの発した奇声によってその言葉は掻き消された。


「何遍も言わせんなよ。な? これは領主様が許したことなんだよ。分かったら消えろ。お前ら全部だ! 今すぐ消えろ! 分かったな? なぁっ!?」


 耳元で怒鳴られ、ロレッタが鼻を押さえる。

 ……耳じゃないんだ。押さえるの。

 うるさいより臭いが勝ってんのか……うわぁ、こいつと会話したくねぇ…………


 けどまぁ、傍観しててもしゃあないか……


 そう、仕方がない。

 なので、俺は肘をピンと伸ばして真っ直ぐ挙手する。


「は~い、先生。質問でぇ~す」


 気の抜けたような声を出したおかげで、ここら一帯を覆っていた重苦しい空気がゆるっと緩和された。

 ロレッタは目を丸くして俺の顔を見てくるし、兄妹たちは身を寄せつつも、縮こまっていた首を伸ばして俺を窺っている。

 隣にいるジネットに至ってはぽかんとした表情で口をまんまるく開けている。


 誰も動かず、言葉一つも漏らさない時間が過ぎていく。

 ……腕、上げてるのって結構しんどいんだけどなぁ…………


 そして、たっぷりと間があいた後、猫背を丸めてロレッタに迫っていたゾルタルが、ゆっくりとこちらを振り返り、あからさまにイラついた目をギラリと光らせた。


「なんだ、お前は?」

「しっつもんでぇ~す!」


 そっちが脅し一辺倒で来るのなら、俺はこの感じで行こうじゃないか。

 柳に風作戦だ。


「なんなんだよ、お前は!? 邪魔すんのかっ!?」


 ゾルタルが俺に向かってドタドタと短い足を懸命に動かして接近してくる。

 そのまま頭突きでもされんじゃねぇかってくらいに顔を近付けて俺を睨んだまま、首を「かっくん!」と上、下、上と動かした。所謂「ガンをくれる」というやつだ。

 なんだか、ゾルタルの頭に深い剃り込みの入ったリーゼントを幻視しそうになる。


 なんつーか、『キアイ』入って『バリバリ』だな。『マブイ』『タレ』でも連れて『ブイブイ』言わせればいい。


 けれど、俺は落ち着いて、冷静に、間の抜けた声で、ガンをくれる瞳を見つめつつ、もう一度言う。


「質問があるんですけど?」

「………………チィッ!」


 いまだかつて、こんなに汚い舌打ちを俺は聞いたことがない。歯ぎしりみたいな周波数の舌打ちだ。

 で、ロレッタの気持ちがよく分かったよ。……口が臭い。吐き出された息とか、殺人事件の凶器として提出されても納得しそうなレベルだ。


「なんだよ、質問質問うっせぇな!? さっさとしろよ、質問!」


 あ、予告しとく。

 この勝負俺の勝ち。


 自分の要求を全撤廃してこちらの要求をのむようなヤツは舌戦には勝てない。

 全撤廃の理由が「面倒くさいから」なんて馬鹿げた思考停止だったなら、その確率は100%だ。


「さっきの、『分かったらお前ら全員消えろ』的な発言において、『お前ら』の中に俺たちは入ってるんですかぁ~?」


 言いながら、自分とジネットを交互に指さす。


「入ってるに決まってんだろ!?」

「決まってる? いつから?」

「いつからでもいいだろうが!」

「いつまで?」

「はぁ!?」

「決定された事案というのは、今後恒常的に新しい価値観と比較され検討されていくものであり、であるなら、今現在決まっている事柄であってもいつしかその効力は薄らいでいくと思われるのですが、その点いかがお考えですか?」

「訳分かんねぇこと言ってんじゃねぇよ!」

「『訳分かんない』じゃなくて、『理解出来ない』じゃないの?」

「ケンカ売ってんのか!?」

「そんなメニューはなかったかなぁ……」

「あぁーーーーーーあっ、ムカつく! 俺様が消えろつったら消えりゃあいいんだよ! 分かったら今すぐ消えろ!」

「分かんなかったらいていいってこと?」

「てめぇっ!」


 額に青筋を立てたゾルタルが俺の胸ぐらを乱暴に掴む。

 あ~ぁ、手出しちゃった。


「はい、そこまで!」


 両手を上げて声を張る。

 突然のことにゾルタルの動きが止まる。

 殴ろうとしていたのか、拳を握っていやがった。


「ついさっきまで、俺たちは部外者だった。この地区の住民でもなければ、こいつらの親族でもない。ただの知り合いに過ぎなかったんだが……」


 もし本当に、四十二区の領主様とやらがこのスラムの立ち退き云々に前向きで、ロレッタたちに立ち退きを要求しているのだとした場合、部外者がしゃしゃり出てそれを妨害するのはマズいだろう。

 おそらく、日本で言うところの威力業務妨害とか公務執行妨害的なものに引っかかるはずだ。


 なにせ、部外者だからな。


 そこの住人でもない赤の他人が、わざわざ自分から紛争地に出向いて「横暴を許すな!」「土地を守れ!」なんて叫んでもそんな言葉は響かない。

「いや、お前関係ないじゃん」の一言で終了だ。さっきまでの俺には発言権どころか、この一連のいざこざに参加する資格すらなかった。


「……だが、たった今当事者になった」


 ゾルタルは俺に危害を加えた。

 ならば、これはもう立派な正当防衛だ。

 そして、その危害を加えた理由が『スラムの立ち退きに関する質問をしたことによる逆切れ』であるのなら、俺が堂々と「そのスラム立ち退き計画はおかしいんじゃないか」と、表立って説明を要求出来るというものだ。

 なにせ、俺はその『スラム立ち退き計画』が原因で危害を加えられたんだからな。


 そのくだらない計画を全否定してやる。


 領主が黒幕?

 だとすりゃ、その領主ごとまとめてぶっ潰してやるよ。


 これも是非覚えておいてもらいたい事柄なのだが……

『ケンカ売ってんのか?』と口にするヤツほど……テメェが誰にケンカを売っているのかを理解していない。


 この馬鹿イノシシのようにな。


「まぁ、とりあえずこの手を離せよ」

「あぁんっ!?」


 あくまで安い威嚇を繰り返すゾルタル。

 俺は粛々と、袖口に忍ばせたナイフを取り出す。


 こいつはエステラにもらったもので、初心者でも扱いやすい小型のナイフだ。

 以前、狩猟ギルドに暗殺されるかもしれないなんて話をした際、エステラは「心配いらない」と言っていたが、あとになって「念のためにね」と、俺に渡してくれたのだ

 懐にしまっておけと言われたのだが、エステラくらい手慣れた動作ですぐに構えられるならば話は別だが、ナイフの扱いに慣れてないド素人の俺が真似をしたところで上手くいくはずもない。相手が先に武器を抜いてチェックメイトだ。

 それに、懐に手を突っ込むのは敵に警戒心を与えるばかりか、その行動自体が宣戦布告になりかねない。

 そこで、あれこれ考えた結果俺が採用したのが、暗器だ。

 袖に筒を仕込んで、そこに小型のナイフを忍ばせてあるのだ。腕を真下に強く振るだけでナイフが手のひらに自然と落ちてきてくれる。当然、普段の生活動作で落下しない工夫はしてある。エステラのナイフが小型だからこそ出来たことだ。俺がナイフで応戦出来る程度の相手ならこの程度の刃物で十分だろう。


 小さくも鋭く研ぎ澄まされた高級感のあるナイフをゾルタルの眼前に突きつける。


「まぁ、とりあえず、この手を離せよ…………な?」

「…………うっ」


 怖々と、ゾルタルが腕を放す。

 締めつけられていた襟元が解放される。そして臭い息が遠ざかっていく。

 空気がおいしい。


「よし。じゃあ、ここからは俺がこのスラムの代表だ。お前ら、それでいいな?」


 ロレッタ、そして兄妹たちに向かって尋ねる。

 幼い兄妹たちはキョトンとしつつも無言で首肯し、ロレッタは不安げに俺を見つめていた。


「まぁ、任せとけ。悪いようにはしないから」

「…………はい。よろしくお願いしますです」


 不安そうな表情の中に、少しだけ笑みが浮かぶ。

 まぁ、笑えれば上等だ。


「というわけで、改めてお前の主張を聞こうか?」

「な、なんでお前に話さなきゃなんねぇんだよ!?」

「主張がないならそれで結構。今すぐここから立ち去り、二度とここに足を踏み入れるな。主張がないんだろ? なら、ここはこいつらの居場所だ。踏み荒らすな、くそイノシシが」

「だからっ! 領主がいいつったつってんだろ!?」

「だぁかぁらぁっ! その主張を言えつってんのが分かんねぇのかよ!?」


『だから』を使うヤツには『だから』を返せばいい。言葉に詰まるから。

 ちなみに、『要するに』を使うヤツには話の後に『要するに?』と聞き返してやるのが効果的だ。だいたいが要せていないからな。


「いくら怒鳴ろうが話は平行線だぞ? あとお前、今領主に『様』つけ忘れてたぞ」

「…………チッ」

「それからその舌打ちもやめろ。耳障りだ」

「これ以上ゴチャゴチャ抜かすなら力づくで黙らせんぞ、おぉっ!?」


 ナイフにビビって手を引いたくせに、何を今更粋がってんだこいつ?


「つまりお前の言い分はこうか? 四十二区の領主が『力づくでスラムを潰せ』と言った――ってことで間違いないか?」


 真っ直ぐに腕を伸ばし、ゾルタルを指さしながら問いかける。

 もし嘘を吐いたら、その瞬間『精霊の審判』を発動するぞという意思表示だ。

 それはきちんと伝わったようで、ゾルタルは半歩身を引いて逃げ腰になった。


「ち、『力づくで』とは…………言われてねぇよ」

「なら、平和的に話し合おうぜ」

「…………分かった」

「今、言質は取ったからな? ここから先、俺に指一本でも触れればカエルだぞ。いいな?」

「分かったつってんだろ!」


 ふむ。もうナイフはしまっていいだろう。

 ……実はナイフは今でもまだちょっと苦手なんだ。なんたって、俺はこれで一度殺されてるんだからな。


「改めて問う。お前は何をしにここに来たんだ?」


 極めて落ち着いた声で問いかける。

 ゾルタルも少しは頭が冷えたようで、声のトーンを落としてこちらの問いに答える。

 その際、懐から一枚の羊皮紙を取り出して。


「このエンブレムに見覚えはあるか? あるよな?」


 ゾルタルが得意満面で取り出した羊皮紙には見慣れたエンブレムが記されていた。

 双頭の鷲に蛇が絡みついた文様――四十二区の領主のものだ。


「これは、領主様から直々にいただいたものだ!」


 こいつが領主に『様』をつける時は、こちらに威圧感を与えたい時だ。

『権力者はこちらについているのだ』ということを殊更アピールしたいのだろう。いちいち『様』を立てて口にしている。

 けどまぁ、それは領主に逆らえない者にしか通用しない脅し文句だな。

「領主はこちらにあり!」と言われても、俺の場合「はぁ、そっすか」としか言えない。


「俺は、スラムの問題を領主様に訴えた。こんな穢れた場所があるせいで住民が困っていると! そして、他の区同様、スラムの完全撤廃を要求した!」


 今この時点で、すでに『領主の勅命を受けて』ってところに矛盾が出ていることに、こいつは気が付いていないのだろうか?


「このエンブレム入りの羊皮紙は、その時にいただいたものだ! 領主『様』から『直々に』だ!」


 いちいちうるさいヤツだ。


「じゃあ、その羊皮紙の中身を見せてもらってもいいか?」

「おっと! それは出来ねぇな」

「なぜ?」

「こいつは商売に関することが書かれているんだ。他人に見せられるものじゃねぇんだよ」


 じゃあなぜ持ち歩いてんだ、こいつは?

 理由は簡単。エンブレムを利用したいからだ。

 ……目的外使用は重罪なんじゃなかったっけ?


「仕事ってことは、地上げ屋か何かなのか、お前は?」

「仕事は関係ねぇんだよ!」


 図星か?


「街の人がみんな困ってんだよ! 俺はそんな住民の声を代表してスラムを潰しに来たんだよ。分かるか? 民意ってやつだ」

「さっきは勅命、今度は民意か……」


 権力者とオーディエンスを獲得しようと必死だな。

 それが胡散臭さを増す原因になるってのに。


「その時の会話記録カンバセーション・レコードを見せてもらおうか。勅命を受けた時の領主とお前の会話だ」

「なんでそんなもんを見せなきゃなんねぇんだよ!?」

「話し合いを早期に、完全かつ完璧に終了させるためだ」


 会話記録カンバセーション・レコードを見れば一目瞭然だろうぜ。ゾルタルが領主から勅命など受けていないってことがな。


 最初こそ、「ここの領主はスラムの住民を追い出すようなヤツなのか」と疑いもしたが、ゾルタルの話を聞いていればそうでないことがよく分かった。

 ゾルタルの話は要領を欠き、そして不定形だ。つまり、都合の悪い部分を隠して話しているということだ。



 では、こいつが隠すべき事柄は何か?



 最も知られたくないのは、自分の主張に正統性がないことだろうな。

 こいつは自分の利益のためにスラムを乗っ取ろうとしている。おそらくは、ロレッタたち姉弟を追い出した後、再開発の責任者にでも滑り込むつもりだったのだろう。


 そうまでして欲しいものは何か…………まぁ、『川』だろうな。

 二十九区から凄まじい高低差の崖を水が流れ落ちているのだ。水車の一つでも作れば一財産当てられるだろう。

 また、下流で漁を行う川漁ギルドに対し強い態度に出ることが可能になる。

『川を堰き止めるぞ』と言えば、川漁ギルドは何も出来なくなる。

 もちろん、そんな率直な言い方はしないだろう。事業がどうこう、水質検査がどうこうと、理由などいくらでもでっち上げられる。

『水質調査のために一ヶ月漁をやめてくれ』と言えば、川漁ギルドには大打撃を与えられるだろう。

 もしかすれば、そこから水路を引いているモーマットたち農業ギルドに対しても強く出られるかもしれない。


 この川を制する者は四十二区を制することが出来る……とまで言うと大袈裟ではあるが、それに近しい状況にまでは持っていけるだろう。


『領主様の勅令』ね…………


「話し合いの必要なんかねぇんだよ! これが目に入らねぇのか!? この領主様のエンブレムが!」

「そのエンブレムがなんだって?」

「これこそが、俺様の主張に正統性があると決定づける証拠だ!」

「エンブレムなら、俺も持ってるぞ」


 言いながら、俺は胸ポケットに忍ばせていた折り畳まれた一枚の紙を取り出す。

 そこには、双頭の鷲に蛇が絡みついた文様が克明に記されている。


「俺は、『スラムをよろしく頼む』と託されている」


 エンブレムを見せ、堂々とした声で言ってやると、ゾルタルは言葉を失ったように静かになった。

 そこで黙るのは、これまでの自分の発言がでっち上げだったと自白するようなものじゃないか?

 真実を語っていたのであれば、自分と相反する意見に対し「そんなはずはない」くらい言えるだろうしな。


「……そ、そんなバカな……」

「何がバカだよ? そう何度も顔を合わせたわけではないが、結構気が合ってな。家族を紹介されたよ。その時に『スラムを頼む』と……あ、いや。『お願いします』と頭を下げられたんだっけな?」

「う、嘘だ! あの領主が人に頭など下げるものか!」

「お前が信じようが信じまいが、そんなことはどうでもいい。俺は一切の嘘偽りを口にはしていない」


 胸を張り、一歩踏み出す。

 同じ幅だけゾルタルが後退する。


会話記録カンバセーション・レコードを見せろよ。それではっきりするだろうぜ。俺とお前、どっちが嘘吐きかってことがな」

「…………くっ…………………………ん?」


 ゆっくりと移動をしながら話す俺を視線で追っていたゾルタルは、ある部分で眉を顰めた。

 ちょうど、俺がジネットの前を通過した付近でのことだ。


「…………へぇ……そういうことかよ」


 何かに合点が言ったように、ゾルタルはニヤリと笑みを浮かべる。


「おい、お前! 名前は?」

「名乗ってなかったか? そいつは悪かったな。オオバヤシロだ」

「オオバヤシロ……か。俺様はこう見えて親切でな。お前に選ばせてやるよ」


 勝利を確信した者が見せる、堂々たる笑みを浮かべて――ゾルタルが俺に嘲りの視線を向ける。


「カエルになるのと、領主に処刑されるのと……どちらで人生を終わらせたいかを、な」


 歯茎が見えるほどの笑みを浮かべるゾルタル。

 牙が剥き出しになり、醜悪な表情に拍車がかかる。


「言っている意味が分からんな」

「お前はスゲェよ。褒めてやってもいい。俺様にここまで言わせたんだ、誇りに思っていい」

「そりゃどうも。……で、なんの話だ?」

「この嘘吐き野郎が」


 ゾルタルの瞳がギラリと光る。


「そのエンブレムは本物か?」


 先ほど俺がやったように、腕を伸ばして俺を指さし、ゾルタルが問いかけてくる。

「嘘を吐けば『精霊の審判』を発動させる」という脅しを込めて。


 勝ちを確信した笑み。

 ゾルタルの顔に浮かんでいるのは、そんな余裕に満ち満ちた表情だった。


 だから俺はこう答える。

 考える素振りも見せずに、いつも通りの口調で――


「もちろん、本物だ」


 ――と。


 その瞬間、ゾルタルがバカみたいな笑い声を上げた。


「ぶははははっ! しくじったな、オオバヤシロ!」


 嬉しくて堪らないという顔で、ゾルタルが余裕の正体を教えてくれる。


「お前は凄いよ。よくもまぁ、そんな平然とした顔で嘘を吐けるもんだ。『精霊の審判』が怖くねぇのかただのバカなのかは知らねぇが、普通の神経の持ち主にゃあ出来ない芸当だ」

「真実を話すのに、恐怖を抱く必要はないだろう?」

「あぁ、もういい。もういいんだよ、オオバヤシロ。もう勝負は決まったんだ。これ以上嘘を重ねるな」

「嘘なんか吐いてねぇよ。このエンブレムは、正真正銘、本物だ」

「もうやめようぜ、オオバヤシロ! これ以上精霊神様を怒らせるのはよぉ」

「お前の言いたいことが見えないな。なぜ俺が嘘を吐いていると?」


 その問いに、待ってましたとばかりにゾルタルはアゴをクイッと上げる。

 俺の背後を指し示すように。


「お前は完璧だったよ。まるで嘘なんか吐いていないように見えた。むしろ、絶対的な自信のようなものまで感じたくらいだ。…………だがなっ! 後ろの姉ちゃんはダメだったな!」


 その言葉に、俺は背後を振り返る。

 ゾルタルには、完全に後頭部を向ける格好になる。

 振り返った先にいたのは、今にも泣きそうな顔をしたジネットだった。


「その姉ちゃんはお前と違って素直なもんだぜ? なにせ、お前が嘘を吐く度に泣きそうな顔をしていたんだからよぉ」

「…………ヤシロさん、……すみません」


 俺にだけ聞こえるような小さな声で、ジネットが謝罪の言葉を述べる。


「そいつは知っていたんだろう? お前の持つエンブレムが領主のものではないことを! 大方、お前が自分で作ったものだ。出来がよくて調子に乗っちまったってところか……だが、真実ってのはいつか必ず詳らかになるもんだよなぁ、えぇ? ぶははははっ!」


「あ、あの……ヤシロさ……っ」


 何かを言いかけたジネットに対し、俺は自分の唇に立てた人差し指を当てるジェスチャーを見せる。

『何もしゃべるな』という意思表示だ。

 そして、位置的にゾルタルには俺の顔が見えないことを確信して……つうか、そうなるようにこの位置取りをしたのだが……ジネットに満面の笑みを向けてやる。おまけにウィンクまでサービスしてやろう。『よくやった』という意思表示のために。


「お前が一人で来ていたら、随分と不利な話し合いになっただろうが、仲間に足を引っ張られるとは……お前も脇が甘いな」

「ふん……」


 あえてゆっくりと、余裕たっぷりな雰囲気で振り返る。


「お前みたいに、腋が臭いよりかはマシだろう?」

「……っ! ほざけ!」


 安い挑発にまんまと乗っかり、ゾルタルは声を荒げる。


「カエルにして、いたぶり殺してやるよ」


 邪悪な笑みが俺を見ている。

 そして、ゆっくりと口を動かす。


「『精霊の』…………」

「待て」

「……なんだ? 今更命乞いか? もう遅ぇよ、バァーカッ!」

「そうじゃねぇよ。やりたきゃやれよ」

「あぁ、やってやるよ!」

「だが、その前にっ!」


 俺を指さすゾルタルを、指し返す。


「『精霊の審判』は相手の尊厳を踏みにじる行為だ。これでもし、俺がカエルにならなかった場合……謝罪程度では済まさんぞ?」

「…………ふっ。それで脅したつもりか?」

「脅しじゃねぇよ…………テメェをどん底に突き落としてやるつってんだよ」

「どうやってだよ?」

「領主の前に突き出してやるよ。エンブレムの不正利用を訴えてな」

「……っ!?」


 ゾルタルの顔が引き攣る。

 おそらくこいつは『精霊の審判』に引っかからない言葉を選んでしゃべっていたのだろう。

 感情的になりながらも、自分の身を守るための練習は相当していたに違いない。

 だからおそらく、こいつの発言を『精霊の審判』で裁くことは出来ない。


 なら、領主直々に裁いてもらえばいい。

 エステラが言っていたんだ。エンブレムの悪用は重罪だと。

『精霊の審判』や『統括裁判所』みたいな「公正な裁き」である必要はない。

 己の顔に泥を塗られたと憤る領主の『私刑』で十分だ。


「く…………好きにしろよ。どうせお前はカエルになるんだ!」

「じゃあ、やってみろよ」

「…………」

「やらないのか?」

「うっせぇ! カッコつけやがって……カエルになって後悔しやがれ! 『精霊の審判』!」

「ヤシロさんっ!」

「お兄ちゃんっ!」


 ジネットの悲痛な叫びとロレッタの驚愕の声が重なる。

 その時、俺の体は突然発生した淡い光に包み込まれていた。

 久しぶりの『精霊の審判』だ。


「これで、お前も終わりだ、オオバヤシロッ!」


 ところがどっこい。


 十秒経っても一分経っても、俺の姿に変化は見られず……ついに淡い霧は霧散した。

『精霊の審判』の結果、俺は嘘を言っていないと結論づけられた。


「……そ、そんな…………バカな……」

「バカはお前だったってわけだな」

「だってっ、そこの女が……っ!」

「女のことなどどうでもいい!」


 グダグダと言い訳を始めようとしたゾルタルに向かって俺は手を差し出す。


「さぁ、領主のもとへ行こうか?」

「……くっ」


 ゾルタルの顔が歪む。

 その表情から読み取れる感情は、焦り、後悔、絶望、緊張、戸惑い、恐怖…………そんなネガティブなものばかりだった。


「ここでの会話は会話記録カンバセーション・レコードを見てもらえば説明するまでもないだろ。あとの判断は領主に任せるさ」

「ま、待ってくれ! そ、それだけは…………勘弁してくれねぇか?」


 それが人に物を頼む態度か?

 このクソイノシシ。


「今さら命乞いか? もう遅せぇよバーカ」


 先ほど言われた言葉を、そっくりそのまま返してやる。ただし、感情は極限まで抜いてある。


「真実ってのはいつか必ず詳らかになるもんだよなぁ……」


 これも、先ほど言われた言葉だ。

 こいつもそっくりそのまま、熨斗をつけて返してやろう。

 ついでに、もう一つプレゼントだ。


 俺は腕を伸ばしゾルタルを指さす。


「約束を反故にするのも、裁かれる要因だよな?」


 ゾルタルの顔色がよくない。

 脂汗を顔中に浮かび上がらせている。


 だが、構わずに俺は会話記録カンバセーション・レコードの観覧を申請する。

 目の前に半透明のパネルが出現し、先ほどの会話を克明に映し出す。



『…………ふっ。それで脅したつもりか?』

『脅しじゃねぇよ…………テメェをどん底に突き落としてやるつってんだよ』

『どうやってだよ?』

『領主の前に突き出してやるよ。エンブレムの不正利用を訴えてな』

『……っ!? く…………好きにしろよ。どうせお前はカエルになるんだ!』



「…………『好きにしろよ』」


 会話記録カンバセーション・レコードの中から重要なワードを抜き出して口にする。

 ゾルタルは蒼白な顔で今にも倒れそうになっている。


「ゾルタル……。俺はこう見えて親切でな。テメェに選ばせてやるよ――カエルになるのと、領主に処刑されるのと……どちらで人生を終わらせたいかを、な」


 これも、ゾルタルが俺に言った言葉だ。

 で、こっからが俺のオリジナル。


「3……2……」

「ま、待ってくれ! いや、待ってください! この通りです!」


 ゾルタルが土下座をする。

 結局、命乞いをしたのはゾルタルの方だった。


会話記録カンバセーション・レコードを見せてくれるな?」

「………………はい」


 俯き、魂が抜けたような声でゾルタルが呟く。

 そして、会話記録カンバセーション・レコードを参照可能な状態にしてくれた。


 そこに書かれていたのは、こんな会話だった。



『スラム撤廃は、市民からも強い要望があるんだぜ、領主さんよぉ!』

『それでも、スラムを撤廃するつもりはない』

『他の区はみんなスラムを潰したじゃねぇか! なんで四十二区だけ土地を遊ばせておくんだよ!?』

『区が違えば施政方針も変わる。当然だろう』

『あんなネズミ共、追っ払っちまえばいいんだよ!』

『そうすれば、街に彼らが溢れ返ることになる。彼らの受け皿はどうするつもりかな?』

『そんなもん必要ねぇだろ! いらねぇヤツは全員追い出しちまえばいいんだよ!』

『そんな横暴な計画に、住民が納得するとは思えないがね』

『するさ。どいつもこいつもスラムなんかなくなってしまえと思っているんだからよ』

『ならば、君のやり方でやってみるがいい……そして証明してみせてくれよ』



 ――これのどこが領主様直々の勅令だ。

「やりたきゃやりゃあいいじゃん」っていう見放した発言を「やってもいいよ」と肯定的に捉え、尚且つ『証明してみせてくれよ』の『みせてくれよ』あたりで「自分は頼まれた」などと言っていたのだろう。

 なんと浅ましい。

 なんてヤツだ。


「ゾルタル」

「は…………はい」


 蹲るゾルタルを見下ろしながら、俺は最後通牒を突きつける。


「今すぐここから立ち去り、二度とここに足を踏み入れるな。ここはこいつらの居場所だ。踏み荒らすな、くそイノシシが」


 最初に言ったのと同じ言葉だ。

 だが、返ってきた言葉はまるで違っていた。


「………………分かり、ました」

「もし、次見かけたら……」

「だっ…………大丈夫……です。もう……近寄りませんから…………」


 一応釘は刺しておく。

 まぁ、随分と効いたようなのでたぶん大丈夫だろう。


 虚言と虚勢が抜け落ち、抜け殻のようになったゾルタルは、ふらりと立ち上がり、よろよろと覚束ない足取りで去っていった。

 あのエンブレム入りの羊皮紙はやはり、領主から直々にもらった『別の用件が書かれた』羊皮紙だったんだな。


 ま、そこまでやっといて、なんで俺の『嘘』に気が付かなかったのかは謎だがな。


「ヤシロさんっ!」

「お兄ちゃん!」


 ゾルタルが立ち去った後、弾けるような勢いでジネットとロレッタが飛びついてきた。


「凄い…………凄いです、お兄ちゃん…………っ! ゾルタルを……追い返して…………凄いですっ!」


 嬉しそうに笑いながら、両目には涙を溜め、震える手を必死に押さえつけながらも込み上げてくる衝動に体を突き動かされて足をバタバタと踏み鳴らす。

 ロレッタの感情が爆発して訳が分からなくなっている。


「あた……あたし…………なんて言ったらいいのか…………でも……でも…………ありがとうございますですっ!」


 いつものように、十枚くらい積んだ瓦を一枚残らず粉砕しそうな勢いで頭を下げるロレッタ。

 そして、深く下げられた頭の方から「……くふっ」という息が詰まったような音が漏れ聞こえてきた。


「…………ふっ…………くっ…………ふぇぇぇええええっ!」


 ロレッタ、号泣である。


「こ、これで…………みんなで、ここに、これからも、一緒に、住め………………よかったです…………嬉しいですよぉ~!」


 地べたにぺたりと座り、誰に憚ることなく大声を上げて泣く。

 そんな姉の姿に弟や妹たちは群がり、抱きつく者、頭を撫でる者、一緒になって泣く者、そばで見守る者と、多種多様ではあるが……みんなが姉を心配し、励まそうとしていた。


 百人に及ぶハムスター人族の姉弟たちが一塊となり、お互いの身を寄せ合って泣いていた。


 俺はそれを邪魔しないようにそっと距離を取る。

 俺が移動すると、ジネットは同じ距離を保ちつつ黙って付いてきた。

 そして、ジッと俺の顔を見つめ続けている。


 ……見過ぎだ、見過ぎ。穴が開いたらどうする。


「……なんだよ?」

「ヤシロさん、凄いですっ!」

「はいはい。ありがとありがと」


 ジネットはいつも「凄い」と言ってくれる。

 何度も何度も言われて……にもかかわらず、毎回いちいち嬉しいのが悔しい。

 思わず邪険にしてしまっても、そりゃあ仕方ないだろう。

 素直に礼とか言えるか、照れくさい。


「けれど、不思議です……」


 そう漏らしたジネットの声はとても沈んで聞こえた。

 こいつの笑みが満面に見えなかったのはそれが原因だろう。


「わたし、本当にヤシロさんがカエルさんになってしまうと思いました。だって……あのエンブレムは…………だから、とても不安で……泣きそうで…………」


 まぁ、そのおかげでゾルタルは俺の罠に引っかかってくれたんだが…………こいつにはちょっと負担の大きいことをさせてしまったかもしれんな。


「あの、ヤシロさん! 教えてくれませんか? どうしてヤシロさんがカエルさんにならなかったのか」


 真剣な瞳が俺を見つめている。

 これは、下手な誤魔化しが通用しそうにない目だ。


 ま、元々教えるつもりだったからいいけどな。


「どうしても何も、『精霊の審判』が発動してカエルにならない理由なんか一つしかないだろう?」

「それは、なんですか?」

「俺が、嘘を吐いていないからだよ」

「でも……っ!」


 言いかけたジネットを左手で制して、俺はもう一度、会話記録カンバセーション・レコードを申請する。

 今日ここで俺が言ったセリフをもう一度振り返る。



『そのエンブレムは本物か?』

『もちろん、本物だぜ』

『ぶははははっ! しくじったな、オオバヤシロ! お前は凄いよ。よくもまぁ、そんな平然とした顔で嘘を吐けるもんだ。「精霊の審判」が怖くねぇのかただのバカなのかは知らねぇが、普通の神経の持ち主にゃあ出来ない芸当だ』

『真実を話すのに、恐怖を抱く必要はないだろう?』

『あぁ、もういい。もういいんだよ、オオバヤシロ。もう勝負は決まったんだ。これ以上嘘を重ねるな』

『嘘なんか吐いてねぇよ。このエンブレムは、正真正銘、本物だ』



「ここです!」


 俺の呼び出した会話記録カンバセーション・レコードを俺と一緒に覗き込んでいたジネットがその一文を指し示す。


「ここで、ヤシロさんは『正真正銘、本物だ』とおっしゃっています。けれど、そのエンブレムは……その…………」


 と、辺りを窺う素振りを見せて、グッと身を乗り出して耳元でそっと囁く。


「……ヤシロさんが作った『偽物のエンブレム』なのでは……?」


 それだけ言うと、ジネットはまた俺から距離を取り、俺の顔をジッと覗き込んでくる。

 ……くっそ、いい匂いしたな。あと、耳元で囁かれるのって、なんかヤバい。


「違う。これは正真正銘、本物の領主のエンブレムだ」

「え……?」

「忘れたのか? 前にエステラから譲ってもらった失効印つきの許可証だよ」


 言って、俺は折り畳まれたその紙を広げてみせる。と、折り畳むことで上手く隠されてあった『失効』の二文字が顔を見せた。


「あ……っ!」


 途端、ジネットは目をまんまるに見開き、口に手を当て驚きの声を上げる。


 以前俺は、この許可証に捺されたエンブレムを元に、ジネットが言うところの『偽物のエンブレム』を作成した。

 そして、それを胸ポケットに忍ばせ、グーズーヤが食い逃げをした際に利用した。

 そのことが印象深くジネットの脳裏に焼きついていたのだろう。

 それがあったから、俺の胸ポケットから出されたエンブレムは、領主のものではない、俺が作った俺のエンブレムだと、ジネットはそう誤認したのだ。

 そして、そうジネットに『勘違い』させることが、あの場面における俺の本当の狙いでもあった。


 つまり俺が本当に欺きたかったのは、敵対するゾルタルではなく、味方であるジネット――そのジネットを騙すことで、ゾルタルを手のひらで転がしてやったのだ。

 騙しやすさでいえば、今しがた出会ったヤツより、付き合いがある相手の方が上だからな。こう動けばどう反応するか手に取るように分かるジネットなんて、身内に持ったら一番のカモだ。


 にしても、ゾルタルも詰めが甘い。

 自分と同じ手口を、なぜ相手がやっていないと確信出来るのか。


 まぁ、確信する以前の話だろうがな。

 そこ――エンブレム入りのその羊皮紙が、『別の用件が書かれた』ものであることは、ゾルタルがこの場において最も隠したかった部分だ。

 だからその点はゾルタルの思考から真っ先に排除された。俺が言ったように「中身を見せろ」などと要求することなど出来るわけもなく、疑うことも、もしかしたら考慮すらされなかったのかもしれない。

 自分が抱える『後ろめたさ』に足を掬われた形だな。


「それから、もう一つ。ヤシロさんが領主様と会話をしたというくだりですが……」

「領主と会話したなんて言ってないぞ」

「え、でも…………」


 そう言って、ジネットは会話記録カンバセーション・レコードをスクロールさせていく。


「ありました、ここです!」


 その場所を読んでみると――



『俺は、「スラムをよろしく頼む」と託されている』

『……そ、そんなバカな……』

『何がバカだよ? そう何度も顔を合わせたわけではないが、結構気が合ってな。家族を紹介されたよ。その時に「スラムを頼む」と……あ、いや。「お願いします」と頭を下げられたんだっけな?』



「ほら。ヤシロさんはこのように領主様に家族を紹介され、この地区を頼むと言われたと……」

「だから、これのどこに『領主』なんて言葉が出てきてんだよ?」

「……え? じゃあ、これは……………………………………あ」


 じっくりと考えて、ジネットは答えにたどり着いたようだ。


「……これ、ロレッタさんのことですか?」

「そうだぞ。ロレッタに家族を紹介されて、『スラムをお願いします』って頼まれてたろ、お前たちの目の前で」

「…………確かに」

「ゾルタルのヤツ、今さっき目撃したことなのに、まんまと騙されて、バカだよなぁ」


 軽く笑い飛ばす俺を、ジネットは小動物が初めてマッコウクジラを目撃した時のような表情で見つめていた。


「お前は俺をマッコウクジラだと思っているのか?」

「えっ、なんの話ですか!? 『まっこう……』って、なんですか?」


 謎の言葉をかけられて、ジネットが思考停止から復活する。

 そして、胸を押さえて浅い吐息を漏らした。


「あの、これはいい意味でなんですけれど……」


 そう前置きして、こいつはこんなことを言いやがった。


「やっぱり、ヤシロさんに敵対する方は、とても気の毒ですね」


 …………こんにゃろ。


「褒め言葉として受け取っとくよ」

「はい。とても褒めてますので」


 邪気を一切含まない笑顔を向けられて、反撃の糸口すら掴めない。

 あぁ、はいはい。

 分かってる分かってる。


 その笑顔が終了の合図なんだろ?

 つまり、俺が何かに巻き込まれた際は、ジネットがこうやって笑う結末にたどり着かなきゃいけないわけだ。

 それがどんなに面倒くさいことでもな。



 ……もしかして、こいつが一番の敵なんじゃないだろうな?



 そんなことを思いながらも、……なんでかな…………悪い気がしていない自分にちょっと苦笑を漏らしたい気持ちになった、そんな曇天の午後だった。





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