32話 クマ耳と甘々

 マグダ脱走事件(通称、すっぽんぽんオジサン出没事件)の翌日。

 俺は川漁ギルドが仕事場としている四十二区の川へとやって来ていた。デリアに話しておかなければいけないことがあるのだ。


 現在、マグダは眠っている。昨晩から物凄く深い眠りに就いているようでまったく起きる気配がなかった。体力回復のために体が睡眠を欲しているのだろう。


 そんなわけで、店とマグダをジネットに任せ、俺は一人で川まで来ていた。

 まぁ、交渉というほどのこともないただの報告だ。俺一人で十分だろう。

 店の方も、レジーナとエステラがいてくれるし、まぁ、なんとかなるはずだ。


 先日まで続いた大雨の影響で川の水は随分とその量を増していた。茶色く濁り、流れも速い。

 ただ、昨日のうちに処置をしたようで、川縁には土嚢がうずたかく積み上げられていた。

 川の氾濫を防ぐためだろう。


「しかし、誰もいないなぁ……」


 川辺には人っ子一人見当たらない。

 やっぱり、水量の増した川には誰も近付かないか。危ないしな。


 なんてことを思っていたら、30メートルくらい離れた場所に見慣れたクマ人族の美女の姿を見つけた。デリアだ。

 ちょうど土嚢の陰になっていて全身は見えないが、長身故に頭だけがひょっこりと土嚢の上から覗いている。見覚えのあるまるっこいクマ耳がぴこぴこ動いていた。


「お~い、デリア!」


 手を上げて声をかける。

 俺の声に顔を上げ、こちらを振り返るデリア。俺に気が付くと目をまんまるく見開いて満面の笑みを浮かべた。


「お~、ヤシロ~!」


 言いながら、デリアが土嚢の陰からゆっくりと姿を現す。

 真っ先に「ドーン!」と突き出たおっぱいが姿を見せ、次いで引き締まったお腹が見える。

 それにしても凄い迫力だ……ダイナマイトボディとはまさにこのことだと思わせるような肉体美を誇っている。

 それでいて性格はサバけていて、話しやすい。俺は割とデリアが気に入っている。

 最初こそ怖かったが、今では会うのが楽しみなくらいだ。今後もいい関係を築いていければいいなとすら思っている。


 なので俺も友好的な笑みを浮かべ、確かな歩調でデリアに近付いていく。気さくに声をかけながら。


「今日はちょっと話したいことがあってのぅぅうわぁぁあああああああああああっ!?」


 土嚢の陰から姿を現したデリアだったのだが…………デリアの右腕には、全身ずぶ濡れでグッタリとした体長2メートルもある巨大なアライグマが掴まれていた。首を握られ、ぐったりとし、引き摺られている。


 ア…………ア………………


「アライグマが洗われてるぅぅぅうううっ!?」


 デリアめ、ついにヤっちまったのか!?

 それは間違いなく、川漁ギルド副ギルド長のオメロであり、……どう贔屓目に見ても健康体には見えない。よくて虫の息……でなければ………………


 いくら根性無しで使いものにならない副ギルド長だからって、こうもあっさり洗ってしまうとは思わなかった。

 

「よく来たなぁ!」


 俺の顔が引き攣っていることには気付かずに、嬉しさ爆発といった表情でデリアは大きく右手を上げ、盛大に振り回した。

 その手には、巨大アライグマが掴まれているわけで……、ぐったりしたアライグマが空中をぐわんぐわんと振り回され水しぶきを飛ばす。

 アライグマがっ!

 アライグマが物凄く乱暴に脱水されているっ!


「おっ、親方っ! し、死ぬっ! マジで、死んじゃいますってっ!」

「ん? あぁ、悪い悪い」


 一切悪びれる様子もなく、デリアは「やはは」と頭を掻いて巨大アライグマ……改め、アラワレグマのオメロを解放した。

 なんだ、生きてたのか。……ビビった。デリアとの付き合いをやめようかと本気で考えちまったぜ。


「何してたんだよ?」

「ん? あぁ。こいつがな、いまだに泳げないもんだから、あたいが泳ぎを教えてやってたんだよ」


 この増水した川で?


「大は小を兼ねるって言うし、この川で泳げるようになれば、普段の川なら余裕で泳げるようになるだろ?」


 いや、水に対する恐怖で近付くことすら出来なくなりそうだけど……?


「にしても、根性のないヤツだよなぁ。この程度の流れで音を上げてさ」


 いや……この増水した川で泳ぐなんて不可能だからな?


「つか、泳げないのかよ、川漁ギルド副ギルド長?」


 俺は、デリアから解放され、地べたでへたり込むオメロに尋ねる。

 オメロは今にも倒れそうな憔悴しきった生気のない顔で俺を見上げ、力なく笑う。


「洗うのは……得意なんだけどよぉ」

「いや、泳ぎと全然関係ねぇよ」


 こいつ、副ギルド長やめればいいのに。

 泳げないわ、ギルド長が怖くて話も通せないわ、相変わらず下半身は卑猥なビキニパンツ一丁だわ……


「そうだ、ヤシロも一緒に泳いでいくか?」

「業務上過失致傷って知ってるか?」


 この川に放り込まれたら確実に死ぬ。死ぬ自信がある。


「川は友達だぞ?」

「いくら友達でも、荒れ狂ってる時はそっと距離を取るだろうが」


 残念そうにしょげ返るデリアだが、そんな顔を見せられても「しょうがねぇな、一回だけだぞ!」とは言ってやるつもりにはなれない。

 この川の流れは近付いていいレベルを超えている。河童だって水から上がって河原からも避難するレベルだ。


「じゃあ、やめとくかぁ」


 つまらなそうに頭の後ろで手を組むデリア。

 思い留まってくれたようで何よりだ。


「……よ、よかったなぁ、兄ちゃんよぉ……」


 今にも死にそうな状態で、オメロが俺に這い寄ってくる。

 濡れたくないので手を貸すような真似はせず、じぃ~っと見下ろす。


「…………手ぇ、貸してくんねぇか?」

「えぇ~……」

「……オレ、死んじゃうぜ?」


 しょうがない。

 濡れた服のクリーニング代はあとで請求するとしよう。


 俺はしゃがんでオメロに肩を貸してやる。


「で、何がよかったって?」

「ん? ……あぁ、親方と一緒に泳ぐのは命に関わるってことさ」

「そりゃお前がカナヅチだからだろうが」

「そうじゃねぇ……ちょっと耳貸せ……」


 オメロがグッと顔を近付けてくる。

 明らかに背後に立つデリアを意識して、物凄く小さな声で囁く。


「親方は、泳ぐ時は裸なんだ」

「貴様っ! なぜそれを先に教えないっ!?」


 断っちまったじゃねぇか!

 今からキャンセル出来ないかな!?

 断るのはなしで、やっぱり泳ごうって。


「バッカ、おめぇ! 親方はあぁいう奔放な性格だから気にしないって言うんだが……もし、万が一劣情でも抱いてみろ…………洗われるぞ?」

「だから、それで怖がるのはお前だけだっつうの」

「洗われた後、脱水されて天日で干されてもいいのかっ!?」

「お前の例え、洗濯から離れられないルールでもあんの?」


 だいたい、自分から服を脱ぐんだ。そういう目で見られることくらい承知の上だろう?


「親方は、『そういう』つもりは一切ない。だから、『そういう』目で見てくるヤツを徹底的に嫌っている」

「あんな際どい服装でうろついてるのにか?」

「アレは『自分が』動きやすいからしている格好で、『誰か』を楽しませるためじゃねぇ」


 すげぇわがままな話だな。

『私はオシャレで露出度の高い服を着てるだけだから、いやらしい目では見るな』って、スカートがクッソ短い女子高生かよ。見るっつうの。


「親方がオレらの前で脱いだ時、オレたちはそこにあるものを大木だと自分に言い聞かせる。それが出来ないヤツは両目を自分で潰す」

「怖ぇよ!」

「そうした方がマシなんだよ!」

「それ以上のことされんのかよ!?」


 おいおい、デリア怖ぇ。超怖ぇよ。


「だから、泳ぎを断ったのは賢明な判断だったぜ」


 今日が穏やかなよく晴れた日でなくてよかった。

 もし川の流れが緩やかであったなら、俺はその誘いに乗っていただろう。そして…………


「なにこそこそ話してんだよ、男二人で」


 顔を近付けてひそひそと話していた俺とオメロ。その顔と顔の間に、デリアの顔が割り込んでくる。

 頬が触れ合う。ドキッとする。……二つの意味で。

 こんな密接なスキンシップをされても欲情しちゃダメなのかよ?


 チラリとオメロを見ると――


「残りの人生を捨てたくないのなら耐えろ」


 ――という視線を送られた。

 ……どんな拷問が待ってんだよ。


「そ、そうだ、デリア。お前に話があったんだよ」


 俺は、話題を変えつつデリアから距離を取る。

 ジネットみたいな絵本の世界の純真無垢生物とか、マグダみたいなお子様とか、エステラみたいなしょんぼりおっぱいと違って、デリアは完全に成熟した女性なのだ。……リビドーを抑えつけるのも楽じゃないっつうの。


「実はな、マグダが怪我をしちまってな」

「マグダってのは、あのトラ人族の娘か?」

「あぁ、そいつだ。だから、しばらく川漁ギルドから買い取る魚の量を減らしてほしい」

「なんでだい!?」

「よく食うヤツが食わなくなったからだよ」


 マグダが狩りをする際、大量の食糧を消費する。

 そのためにゴミ回収ギルドでは農業ギルドや川漁ギルドからこれまでの三倍近くの量を買い込むようになっていた。

 それを、マグダの傷が癒えるまでの間元に戻してもらうのだ。マグダが狩りに出られない以上、そんなに食料は必要ないからな。


「……そんな。ただでさえ川がこんな状態で漁が出来ないってのに…………収入が……」


 デリアの顔が真っ青になっていく。


 川の増水に伴い漁が出来なくなったのだろう。

 それで行商ギルドとの取引も出来ず、ゴミ回収ギルドとの取引もセーブされて、一気に収入がなくなったのだ。


「……こうなったら…………やりたくはないが…………体で稼ぐしか……」

「ふぁっ!?」


 思いがけないデリアの発言に変な声が出てしまった。

 デ、デリア……お前、まさか…………


「金を持っていそうな旅人を背後から襲って……金品を……っ!」

「俺の思ってた稼ぎ方と随分違った!?」

「ほら、親方……これで結構乙女だからよぉ」


 いや、オメロ。俺の知っている乙女はそんな野党みたいな発想を持ち合わせてはいないんだが。


「そうだ、オメロ! お前の泳ぎを監督してやるから年会費を払え!」

「えぇっ!?」

「なんだよ? お前も泳げるようになりたいだろ?」

「い、いや…………(泳げるようになる前に三途の川を渡っちまう気がするんですが……)」


 後半部分は物凄く小さい声な上に三倍速ばりの早口だったが、俺にははっきりと聞き取れた。


「どうにかしてお金を稼がなきゃヤバいんだよ。協力してくれよぉ!」


 オメロに詰め寄るデリア。オメロは涙目で俺に助けを求める視線を投げつけてくる。

 ……こいつ、本当に副ギルド長やめた方がいいんじゃねぇか?


「デリア。お前、借金でもあるのか?」


 真っ先に浮かんだのは、大通りで見かけたゴッフレードだ。

 あいつに借りた金を返せないと、カエルにされてしまう。恐ろしい男だ。


「いや……借金はないけど…………ただ……」


 ごにょごにょとデリアが呟く。

 照れたように俯き、上目遣いで俺を見つめてくる。


「甘い物が……食べたいから」


 は?


「あ、あたいは、甘い物が大好きなんだよ! 一日の終わりに甘い物が食べられないと悪夢を見るんだ! 凄く怖い悪夢なんだぞ! 泣いちゃうんだからな!?」


 なに、その可愛い理由……


「だからオメロ! 漁が出来ない間、お前を川底に沈めて金を巻き上げる!」

「親方、それもう監督でもなんでもないですっ!」


 脅迫、恐喝、強盗事件だよな。

 水責めは苦しいらしいしな……オメロが号泣しながらこちらに助けを求める視線を投げまくってくる。


「オメロ。有り金全部貢いだらどうだ?」

「それはダメだ! いくらギルドの仲間だからって金銭関連はきちんとしておかないと、組織が崩壊してしまうだろ? 貸し借りはもちろん、贈与も禁止されてんだよ。だから、あたいはきっちりこいつを川底に沈めなきゃいけないんだ!」


 途中まではもっともな意見だったんだが、「だから」以降が一切理解出来ない。


「兄ちゃん…………オレの遺言、聞き届けてくれるかい?」

「待て待て。まだ人生を諦めるのは早いぞ、オメロ」


 涙も枯れ果て、切腹直前の侍みたいに悟り切った表情になったオメロに、俺はとりあえず待ったをかける。

 さすがに見殺しは後味が悪い。


 ここで俺はオメロにアイコンタクトを送る。


「お前を助けてやったら、見返りに何をしてくれる?」と。


 するとすぐさまオメロから――


「なんだってやる! 殺しと泥棒、親方の機嫌を損ねないことならなんだって!」


 ――と返ってきた。

 デリアの機嫌を損ねるのはそこに並ぶほどの重罪なのか?


 では……と、俺は考える。

 オメロに頼みたいこと……オメロが役に立ちそうなことで、俺が欲しているもの…………川魚の取引はデリアと直接行っているからオメロに言って量を増やしてもらうことは出来ないし、こいつからデリアに融通するように口添えしてもらうことは不可能だろうし…………オメロ単体で出来そうなこと…………あっ、アレがあったな。


 すぐさま俺はオメロにアイコンタクトを送る。


「雑草まみれの小道があるんだが、お前の巨体で雑草を踏み固めて道を作ってくれないか?」

「やる! それくらいお安い御用だ! 道がぬかるんでいるうちに雑草を排除して、土が乾いたら踏み固め、道が安定するまでオレが責任を持って踏み固めてみせるっ!」


 瞬時にそんな意思疎通を行い、俺たちは目と目で契約を結んだ。

 これで、ヤップロックの家に行く獣道も通りやすくなるだろう。無駄にデカいだけのヤツもたまには役に立つんだな。


 んじゃ、助けてやるか。


「デリア。甘い物ならなんでもいいのか?」

「ん? あぁ、なんでもいいんだ。カボチャでも、煮豆でもいい……」


 範囲広いなっ!?

 そこまで「甘い物」のカテゴリーに入れていいのか!?

 日本でオシャレ女子に「甘い物食べに行こう」って声かけて、煮豆を出したら殴られるぞ?


 けどまぁ、なんでもいいんなら……


「これなんてどうだ?」


 腰にぶら下げた袋からハニーポップコーンを取り出す。

 またマグダが脱走してもいいように、陽だまり亭関係者には毎朝一食分のハニーポップコーンの携帯を義務づけたのだ。

 また帰って作ればいいし、ここでデリアにやっても問題ないだろう。


「なんだい、これはぁぁぁぁああああっ、めっちゃ甘い匂いがするぅぅうぅっ!」


 ハニーポップコーンの袋を開けると、デリアが凄まじい勢いで飛びついてきた。


「くんかくんかっ! はすはすはすっ!」

「怖い怖い怖い! 食われそうで、すげぇ怖いっ!」


 俺よりも頭半分ほどデカいデリアが俺を組み伏すように覆い被さってくる。

 野生の熊に同じことをされたら人生を諦めてしまうに違いない。


「な、なななな、なんだ、これ!? なにこれ!? 夢? これは夢のお菓子?」

「お、落ち着け! とりあえず一個食ってみろ。な? そして落ち着いてくれ!」


 グイグイと迫ってくるデリア。

 元々薄着で、あっちこっちの肌が露出している目に毒な衣装を着ている上に、こうまで密着されては『そういう』感情を抱いてしまうだろうが。……あぁ、くそ。さっきまでずぶ濡れのアライグマ振り回してたくせになんだかちょっと甘い女の子の匂いがしてドキドキする!


「た、たた、食べていいのか?」

「ポップコーンをな!」

「食べるっ!」

「ポップコーンをなっ!」


 俺ごと丸呑みにしそうな勢いのデリア。もはや制止の声も届かない。

 仕方ないので、俺はハニーポップコーンを一粒摘まみ、デリアの口へと放り込んだ。


「っ!?」


 ポップコーンが舌に触れると同時に、デリアの口が閉じられる。

 そして、最初は舌の上で転がし……ゆっくりと咀嚼する。


 ――しゃく……………………しゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくしゃくっ!


 噛み過ぎっ! もう原型残ってないだろう、それ!?

 と、突然デリアが脱力したように地面にへたり込んだ。

 正座した両足を左右に投げ出しぺたりと尻を地面につける――いわゆる『女の子座り』という格好で、デリアは自身の顔を両手で覆い隠す。

 …………なんだ?


「…………ぅぇぇえええええっ!」


 泣き出したっ!?


「甘いよぉ…………美味しいよぉ…………」


 感激してたっ!?


 どうやら、デリアの甘い物好きは相当重症なようで、初めて食べるハニーポップコーンに感涙しているようだった。

 ……キャラじゃねぇなぁ…………


「そ、そんなに甘いのか? オ、オレにも一粒分けてくんねぇか、兄ちゃん?」


 のそりと這い寄ってきたオメロ。

 だが、ゆらりと顔を上げたデリアに一睨みされて、近付いてきた時の三十八倍の速度で100メートル近く後退していった。

 ……こちらからデリアの顔は見えないが…………立ち昇るオーラだけで、相当恐ろしい表情をしていることは察しがつく。

 ……オメロよ。お前、デリアの地雷を的確に踏み抜いていくよな…………


「大丈夫だ、デリア。まだたくさんある。これは全部お前にやるから、オメロを食わないでやってくれ」

「ほ、本当に全部くれるのかっ!?」


 デリアが「ぐりんっ!」とこちらに向き直る。

 立ち昇っていた怒気むんむんのオーラは霧散し、ハートが飛び交う桃色のオーラが代わりに広がっていく。

 幸せそうな顔をしている。


 売れば買ったかもしれんが、今オメロを失うとヤップロックの家に行く道の整備をする者がいなくなる。……いや、亡くなる。

 オメロの命をポップコーンで買ったと思えば安いものだろう。……軽いなぁ、あいつの命。


 ポップコーンの袋を渡すと、デリアは大切そうに両手で抱え、一粒口に放り込む。


「…………ん~~~~~っ!」


 小さく身もだえ、とろけるような笑顔を見せる。

 こうしていると小さな女の子のようだ。座ってるしな。

 クマ耳がぴこぴこと動き、機嫌のよさが窺える。


 これでもう、オメロの命は危険にさらされることもないだろう。


 目の前にいるのは、甘いお菓子に夢中な女の子だ。

 可愛いものじゃないか。


 目の前でぴこぴこと揺れ動くまるっこいクマ耳を見ていると、無性にもふっとしたくなってくる。

 …………………………もふっとしてみたいなぁ……機嫌よさそうだし、頭を撫でるくらいの気安さで…………


「えい」

「――っ!?」


 ぴこぴこ揺れていたクマ耳をもふっと摘まんでみる。

 おぉっ、肉厚でぷにぷにモフモフしていて……これは触り心地がいい。

 肉球をぷにぷにしているような感じだ。癖になりそうだ。


「なっ、なにやってんだ兄ちゃんっ!?」


 100メートル先から、オメロが世界陸上100メートル男子決勝レベルの高速で駆けてきて、その勢いのまま俺の体を抱え上げて更に100メートルほど走り抜ける。

 は、腹に腕が食い込んで…………朝食を吐きそうになった。


「な……なに、しやがる……?」

「それはこっちのセリフだよっ!」


 なんだ? 俺が何かしたか?


「さっき言ったよな!? 親方はピュアで純真無垢なエンジェルのような乙女だって!」

「修飾語がものすげぇ増えてるが、まぁ、言ってたな。

「だから、『そういう』ことはしちゃダメだって言ったよな!?」

「耳をモフってただけだろうが」

「クマ人族の耳は……その、とってもデリケートな箇所で…………おっぱいと同じくらい触っちゃいけない場所なんだよ!」

「なんだって!?」


 俺の中を、凄まじい衝撃が駆け抜ける。


「じゃあ、おっぱいを触っておけばよかった!」

「そういうことじゃねぇよ!」

「いや、どうせ怒られるなら!」

「怒られるくらいで済むわけねぇだろ! 兄ちゃん、今すぐ街を出ろ! 後ろを振り返らず真っ直ぐ街門まで走るんだ! 親方のオーラを見ちまったら恐怖で足が動かなくなるからな!」


 オメロの表情は真剣そのものだった。

 ……これは、マジでヤバい状況なのか?


「いや、俺……陽だまり亭に荷物とか置いてあるし……」

「荷物と命と、どっちが大事なんだよ!?」


 四十秒すら準備する時間をくれないってのか?


「兄ちゃん、あんたのことは一生忘れねぇ。違う街に行っても達者でやれよ」

「ちょっと待ってくれよ。他の街ったって当てもないし……」

「親方の本気のオーラは、触れただけで意識を失うレベルでヤバ……………………っ」


 そこまで言ったところで、急にオメロの体がグラリと揺れた。

 コマ送りのような速度でオメロの体が右へ傾いでいく。

 巨体が横倒しになるにつれ、その背後にもう一人、別の人物の姿が見えてくる。


 …………デリアだ。


 オメロの背後にデリアが立っていた。

 オメロは、デリアの発するオーラに当てられて気絶してしまったようだ…………俺、死ぬの?


「…………ヤシロ……」


 俯いたデリアが、ぼそりと呟く。

 小さな声なのに、いやにはっきりと鼓膜に届いた。

 ……あ、俺、死んだ。


「…………い、いきなり…………変なこと、するなよ……な」

「…………へ?」


 なんだか、様子がおかしい……


 オメロの話では、『そういう』行為をすると、デリアに瞬殺されてもおかしくないということだったはずで、俺がやったクマ耳もふもふは『そういう』行為に該当するはずで、故に俺は瞬殺される以外に道はないはすだったのだが…………


「…………ヤシロだから、特別に、許すけどさ…………こ、今回だけ、だからな」


 俯いて、手を後ろで組み、腰をひねるように肩を揺すっている。

 そして、顔ははっきりと分かるくらいに真っ赤に染まっていた。


 え………………ええええええええええっ!?


「ポ、ポップコーン、美味しかったし! そ、それでだからな!」


 なにその、ツンデレ丸出しの言い訳。

 俺、いつフラグ立ててたの?


「お、親方……」


 デリアの足元に転がっている毛の塊――オメロが意識を取り戻し、デリアを見上げる。


「ひょっとして、親方はこの兄ちゃんのことが好――」


 デリアの右足がオメロの腹部にめり込んだ。地鳴りのような音が響き、微かに大地が揺れた。

 オメロは再び意識を失ったようだ。……ホント、地雷踏み過ぎだろ、お前。


「そ、そうだ、ヤシロっ!」


 話題を変えるように、デリアが大きな声を出す。

 とてもいいことを思いついた――デリアの顔にはそんな言葉がぎっしりと書き込まれているようだった。


「トラ人族の娘が怪我しちまって、人手が足りてないんだよな?」


 いや、まぁ……マグダが怪我をしたおかげで狩りは休みを余儀なくされているが、人手が足りないということはない。

 店ならジネット一人で切り盛り出来るし、俺やエステラが手伝うことも出来るし……


「川漁が出来ない間、あたいが店を手伝ってやろうか?」


 ……………………えぇ…………


「な、なんだよぉ! 嫌なのかよぉ!?」

「いや……嫌というか……」


 断言するが、デリアに接客業は無理だ。

 こいつなら、平気で客を殴る。

 いや、その前に、デリアを怖がって客が寄りつかなくなるかもしれない。


 ……それは困る。


「お、お金はいらないぞ!」

「いや、お前お金がないと困るんだろ?」

「これがあればいい!」


 そう言って、ハニーポップコーンの袋を両手で突き出す。

 ……ポップコーンで支払い?


「一日頑張って働いたら、仕事終わりにこれを一人前くれればいい! あたいは、寝る前に甘い物を食べられればそれでいいんだ!」


 確かに、破格の条件だ。

 接客業が無理でも、薪割りや荷物の運搬など、力仕事を頼むのもいいだろう。

 …………ふむ。


 とはいえ。


「たぶん、給金なしはウチの店長が許可しないだろう」

「あたいがいらないって言ってんだぞ?」

「それでも、聞かないのがウチの店長なんだよ」


 自分が貧乏なくせに他人に対しては律儀に筋を通そうとする。そういうヤツなのだ。


「だから、給金は格安にして、昼夕の飯と仕事終わりのポップコーンってことでどうだ?」

「そんなにいいのかっ!? やる! やらせてくれ!」


 デリアは興奮が抑えきれず、俺の両手を握り上下にぶんぶんと振る。……肩がっ、外れるっ!


「はっ!? ご、ごめん!」


 苦悶に歪む俺の顔を見て、デリアは手を離す。

 くるりと反転して俺に背を向ける。


 そして、繋いでいた手をジッと見つめて頬をぽっと染める。


 …………いやいや、そんな乙女チックなことじゃなくて、こっちは傷害事件一歩手前だったんだが?


「…………これで、ヤシロと一緒にいられる」


 何をそんなに気に入ってくれたのかは知らんが、まぁ、好感を持たれているのは悪いことではない。色々融通が利くようになるしな。

 まぁ、もっとも。それをこれ見よがしに振りかざして交渉カードにするのはいただけないが。

 なので、今の発言は聞こえなかったことにしておく。


「それじゃあ、一度陽だまり亭に来てくれ。ジネット――店長に話してみるから」

「うん! 分かった! 今から行こう!」

「今から? いいのか、オメロの泳ぎの特訓は?」


 チラリと視線を向けると、オメロが「なに余計なこと言ってんだよ!? いいから今すぐ連れて行けよ!」と必死な形相で念を送りつけてきていた。

 …………断っちゃおうかなぁ、バイト。


「オメロはどうせ何をやっても泳げないから、別にいいんだ」

「えっ!?」


 驚愕の発言に声を漏らしたのはオメロだった。

 ……完全に見捨てられてるな……つか、ならなぜこんな川のコンディションが最悪な日にトレーニングを…………まぁ暇だったんだろうな。


「じゃあ、行くか」

「あぁ!」


 俺が歩き出すと、デリアがそれに付いてくる。

 きっと今頃、オメロは歓喜の表情を浮かべていることだろう。


「あ……っ」


 数歩歩いたところで、デリアが声を上げる。

 振り返ると、デリアは赤い顔をして自分の耳を押さえていた。


「一つだけ……約束、してほしいことがある」


 少し照れくさそうに、逃げる視線を懸命に俺に固定して、デリアが口を開く。


「ひ、人前で耳を触るのは…………な、無しだからな」


 ……人前じゃなきゃいいのかよ。

 クマ耳はおっぱいと同等なんだよな?


「分かった。もう触らねぇよ」


 どうせなら、おっぱいの方が楽しいしな。

 かと言っておっぱいを触らせてくれとも言えん……あぁ、無常。世の中は世知辛いものだ。


「絶対だぞ!」

「分かったよ」

「絶対に絶対だぞ!」

「はいはい」

「本当に絶対だからな!」

「あんまりしつこいと両方いっぺんにモフモフするぞ!?」

「――っ! もうっ! エッチだな、ヤシロはっ!」


 こういう会話の後、女子が「ぺしぃっ!」って肩を叩いたりする……なんてのは、男子なら誰もが憧れる行為だろう。だが、その相手がデリアならどうなるのか……


 解――骨が粉砕したかと思うような激痛にのたうち回ることになる。


 痛い。

 痛いなんてものじゃないほどに痛い。

 俺の骨密度がほんの少しでも低かったら粉砕されていたことだろう。


 教訓。

 セクハラはほどほどに。

 それから、カルシウムは摂取しといた方が身のためだ。






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