5話 聞こえ方

 異世界へやって来て四日目の朝。

 俺は四十二区のおんぼろ食堂『陽だまり亭』の二階にある一室で目覚めた。

 ……ワラの匂いがする。


 体を起こすと、頬についたワラがパラパラと落ちていった。

 四畳半くらいのこの狭い個室には、ベッドと机が備え付けられており、机の前に置かれている長持――蓋のついた長方形の大きな木箱だ――が荷物入れ兼椅子の役割を果たしている。いわば、ビジネスホテルのような一室と言っていい。

 ただ、ビジネスホテルとは違い、電気は通っておらず、壁や床は不安になるくらい老朽している。


 そして、何より酷いのがベッドだ。

 大きな木箱にワラを「これでもか!」と詰め込んだだけのベッド。……俺は最初『ワラ入れ』かと思ったよ。シーツも敷かないなんてな……

 おかげで顔にワラがつきまくる。

 虫が湧かないように煙で燻し、天日でよく干したワラを使用しているらしいが……アルプスの少女になった気分だよ、まったく。


 まだ頭がボーっとしている。あまり眠れなかったのかもしれない。あんなに無防備な巨乳ちゃんとひとつ屋根の下にいるかと思うと悶々と……いや、異世界に来て大変なことばかりだったから、ベッドで眠れることに感謝し、神様ってヤツにお祈りっぽいものを捧げていたせいで寝るのが遅くなってしまったのだ。

 まぁ、巡り合わせってやつには感謝してやってもいいかもな。

 よぉ、神様よ。ありがとちゃん。

 ま、これくらいで十分だろう。お釣りならいくらでも受け取るぞ。

 もう少し寝ていたいところだが、それはちょっと無理そうだ。


「……あぁ、めっちゃいい匂いがする」


 階下から、空きっ腹には堪らん匂いが漂ってきているのだ。

 今は何時くらいなのだろうか?

 窓には木の板が嵌め込まれているため、光は一切入ってこない。この木の板は上側の一辺を原始的な蝶番で固定されていて、外へ押し上げるようにして開くことが出来る。日中は木板を開け、つっかい棒で固定しておくのだ。

 窓ガラスはないらしい。いや、なくはないな。他の区で見た記憶がある。単にこの家が貧乏で手に入れられないだけなのだろう。まぁ、そこは贅沢を言うまい。屋根と壁があるだけでも幸せなのだ。……闇が怖い、カエルが怖い、追い剥ぎが怖い、ギルドも怖い…………ベッドのこと悪く言ってごめんなさい。アルプスの少女最高です。仔ヤギとかいたら、一緒にくるくる回っちゃいたいくらいです。


 なんにせよ、せっかく手に入れた寝床だ。やすやすと手放して堪るか。こっちでの生活基盤が整うまでは存分に利用させてもらおう。


 そんなわけで、家主が活動を始めたのなら俺も起きて手伝いをしなければいけないのだ。

 信用とは、そうやって勝ち取っていくものなのだから……そして、信用の先にあるのは、莫大な利益だ。それは、おそらくどの世界でも共通のことだろう。


 いまだ重い瞼をシャッキリさせるために、俺は窓の木板を押し上げる。

 太陽の光でも浴びれば目も覚めるだろう…………って! 外、暗っ!? まだ夜じゃねぇか。……そして、寒っ!

 春とはいえ、朝夕はまだまだ寒い。布団が恋しくなるぜ……

 こんな早くから活動してるのか、あの巨乳ちゃんは。


 俺は木板を閉め、真っ暗な中、部屋を出る。

 廊下に出ると、似たような扉が並んでいる。部屋数は、寝室が四つに物置部屋が一つの計五つ。階段を上って右――北側にジネットの部屋があり、左手に伸びた廊下に面して横一列に三部屋ある。廊下の突き当たりには今はほとんど使われていない物置があり、その真下が食堂の客席に当たる。

 田舎だから土地が安いんだろうな。こんな貧乏ボロ屋のくせに部屋が余ってやがる。

 中世は部屋なんて概念は希薄で、大部屋で家族が共に寝起きしていたらしいが……俺の知っている中世とは似て非なる世界ってわけか。文明レベルを思い込みで決めつけると痛い目を見そうだ。気を付けよう。


 この建物は間口が狭く、奥に長い。ウナギの寝床と呼ばれるような構造をしている。

 他の区を見る限り、この街においては一般的な建物と言えるだろう。

 もっとも……この陽だまり亭の周りには民家はおろか建物と呼べるものは何もなく、スペースは嫌というほど空いている。そんな場所にもかかわらず、なんでこんな細長い造りにしたのかは謎だ。昔の日本みたいに、間口の広さによって税金がかけられているのかもしれないが。……いや、でも入り口は側面にあるし、この場合間口ってどっちになるんだっけ?

 う~ん……分からん。


 一階の前半分が陽だまり亭の客席。奥にキッチンがあり、その先には中庭と食糧庫がある。中庭ではニワトリが放し飼いにされており、ちょっとした畑が設けられている。

 居住スペースはすべて二階にあり、リビングはないようだ。客席がそれにあたるのかもしれんが。


 階段を下りると中庭に出る。

 階段は建物の外に作られているのだ。まぁ、外というか、吹き抜けなのだが。


 食堂から中へ入り、カウンターを越えて、キッチン横の廊下を抜けて、中庭に出た後階段を上り二階へ行くと自室がある。……非常に面倒くさい動線だ。匠に頼んでリフォームしてほしいくらいだな。

 何より、億劫なのがトイレだ。

 トイレはこの前行ったあそこだけだから、二階からトイレに行くにはさっき言ったルートを逆に進んで、さらに表に出て店の裏手に回らなければいけない。そこまでの苦労をしてたどり着いたトイレは、床に穴を開けただけのトイレとも呼べない代物で、当然明かりなどなく、おまけに臭い……最悪だ。

 夜はなるべくトイレに行かないようにしている。……真っ暗で怖いとかじゃなくてな。


 階段を下りきったところで、俺は中庭の異変に気が付いた。

 中庭が狭い。その原因は、まるで庭を間仕切るように張られた白い大きな布にあった。

 大きな布が中庭の一角に張られていたのだ。寝る前にはあんなものはなかった。つまり、ジネットが起きてからわざわざ張ったということだ。

 鶏小屋と畑を避けるように張られているせいで移動が非常に困難だ。

 ……一体、この布になんの意味があるんだ? 

 触れてみるも、濡れてはいない。干しているわけではないようだ。……じゃあなぜ?


「……失礼しま~す」


 気になるので、布を捲って中に入ってみる。暖簾をくぐって大きな布で間仕切られた向こう側へ……


「…………おぉっ!?」


 そこは、ひらひらふわふわした空間だった。

 やや丸まった三角形の布地が、洗濯ロープにぶら下げられて風にはためいていた。それも一つや二つではない。見渡す限り、一面だ。

 そう、これは男子共通の秘宝――パンツ――

 そこには、見渡す限り一面のパンツが。


 目の前に秘宝――パンツ――があれば、じっくり鑑賞するのが男子たるものの嗜みというもの。


 俺は、目利きの鑑定士が名画を観察するかの如き鋭い視線で、風と戯れるパンツをじっくりと眺めた。


 最初に目に飛び込んできたのは、眩い純白の清純派パンツ。フリルがあしらわれており、清純さの中に可愛らしさが演出されている。

 そして隣に視線をずらすと……、なんとレース編みだ! 腰に触れるサイドの部分がレースでしつらえられており、ちょっぴりシースルーになっている。

 さらに、男心を鷲掴みにする白とブルーのストライプ!


「……ここは、天国か?」


 なぜこんなお宝がこんなところに……神の御加護というヤツか……はっ! まさか、異世界のパンツはこうやって収穫されるのではないか!?

 なんてことだ!? 

 そういえば女将さんが、「もぎたての野菜は美味しい」って言ってたな。よし、ちょっともいでみるか……しかし、禁断の果実を手にしたアダムはその後痛い目を見ている……迂闊に手を出すのは危険だ……


「……ん?」


 ふと、足元を見ると、暗い闇の中に白く輝く小さな布が落ちているのを発見した……

 おぉ、ゴッド!

 これがあなたの慈悲というヤツか……


 禁断の果実に手を触れることは禁じても、地面に落ちた果実は見逃してくれるというわけだな。


 ならば拾おう、神の御心のままに!


「…………ふむ。フリルか」


 全体を覆うようにフリルが取り付けられており、肌に直接触れる布地を覆い隠している。

 だが、隠されている部分が多いからこそ、顔を覗かせている先端の小さな三角形が一層魅力的に見える。

 ひらひらとしたフォルムが全体的に可愛さを演出しながらも、その中に隠されたエロスがピリリと利いている。


 素晴らしい。


「いい仕事してますね」


 思わず呟いてしまった。

 称賛に値する。


 大通りで買った安物の服とは比べものにならない縫製技術だ。

 このクオリティの衣類を購入しようとすれば、相当値が張るはずだ。

 ……まさか、手作りか?

 そう言われてみれば、縫い目が不均一なような……


 これなら、俺の方が上手く作れるな…………


 俺はパンツを広げ、引っ張り、裏返し、びよんびよんさせてじっくりと観察する。


 店で売っているものと遜色ないクオリティだ。もしこれがジネットのお手製なのだとしたら、新しい商売になるかもしれない。

 少なくとも、わざわざ衣類を買う必要はなくなるだろう。


 まぁ、俺も裁縫は得意だし、色々と作れる。


 そんなわけで……


「参考資料として……」


 俺は手に入れたレースのパンツを懐にしまった。

 落ちているものを拾うことは罪ではない。

 そして、桃やリンゴやオレンジでもそうなのだが……落下してしまったものにはもう商品価値はないのだ。

 日本にいた頃、懇意にしていた農家のおじちゃんが、「落ちたヤツならいくらでも持ってきな。どうせ捨てちまうんだ」と言って、大量にくれたことがある。



 これはまさにその状況だ。


 ただそれが、桃かパンツか、それだけの違いなのだ。


 いうなればここは桃源郷だ。

 誰もが夢見る理想郷。

 そこは常春の地で、辺り一面にかぐわしい香りを放つ桃が生っている。

 ほらみろ、ここと同じではないか。


 ただ、生っているものが桃かパンツか、それだけの違いなのだ。


 俺がこの理想郷にたどり着けたのも神のお導きによるものだろう。

 神様。この巡り合わせに感謝します。

 いや、実は俺、前からあなたはやれば出来る子だと思ってたんスよ。

 こういうの。こういうの待ってた。


「さて、神様へのお祈りも済んだし、そろそろ行くか」


 桃源郷を離れた者は、二度とその地を訪れることは出来ないという。

 しかし、俺は必ず戻ってくる。またいつの日か、この理想郷に!


 そして俺は、夢の世界と現実世界を隔てる白い大きな布をくぐり抜けた。


 ヒヤリとした風が肌を撫でていく。

 さっさと入ろう。

 中庭からキッチンへ続くドアをくぐり、俺は一階の室内へと入った。


「おはようございます、ヤシロさん。随分早いですね」


 俺がキッチンへ顔を出すと、ジネットは元気いっぱいな笑みをこちらに向けてきた。

 朝からフルパワーだな。


「お前の方が早いだろう。ちゃんと寝てるのか?」

「はい。わたし、寝るのが早いもので」


 確かに。

 こいつは割と早くに眠ってしまったようだ。

 おかげで、夜中のトイレに付き添いを頼めなかった。……あ、そういやずっと我慢してるんだった。行ってこようかな。…………まぁ、陽が出てからでいいや。


「今、下ごしらえをしていまして。急いで朝食をご用意しますね」


 そう言って、カマドにかけていた鍋を火から下ろす。


「あぁ、いいよ。終わってからで」

「でも、三食つけるとのお約束でしたし」

「だからって、俺に合わせなくてもいい。俺が合わせるから。何か手伝うことはあるか?」

「え…………そうですね……………………………………えっと………………」


 ないのかよ!?


 まぁ、年中暇そうな食堂だしな。

 しかし、結構な量を下ごしらえするんだな。

 俺が来たのは二回とも夜だし、もしかしたら昼間は繁盛してるのか?


「ヤシロさん」


 長らく考え込んでいたジネットがようやく顔を上げ、俺を呼ぶ。

「ん?」と返事をすると、ジネットはとても真剣な表情でこう言った。


「包丁って知ってますか?」

「お前は俺をバカにしてるのか?」

「いえ! 決してそんな!」


 両手をぶんぶんと振り、ジネットは困った表情を見せる。


「包丁って、料理人の間では有名ですけど、一般の方には馴染みがないものですので……」


 そう言われてみれば、包丁っていつ誕生したものなんだろう。身近にあり過ぎて当たり前になっていたけれど、あれだって長年の研究の末生み出された発明品なんだよな。


「一般家庭では、何で食材を切るんだ?」

「ナイフです」


 そう言って、懐から刃渡り10センチほどのナイフを取り出す。

 危ねぇ!?

 こいつ、刃物なんか隠し持ってやがったのか!? 

 うっかり巨乳ホイホイに手を突っ込んでいたらブッスリ刺されていたところだ。……危険なトラップだぜ。


「ところでジネット」

「はい」

「巨乳ホイホイって、巨乳『を』捕まえるものか、巨乳『で』捕まえるものか、どっちだろう?」

「知りませんけども!?」

「そうか、こっちの世界にはないのか……」

「ヤシロさんの故郷には、そんなものがあるんですか?」


 いや、見たことはないが、なかったと断言することは出来ない。ならばあったかもしれないではないか。きっとあったさ。


「俺のいた世界……街では、包丁はかなり普及していてな。一般的に使われていたんだ」

「そうなんですか。凄い街があるんですね。結構高いんですよ」


 まぁ、百均とかなさそうだしな。

 刃物は高いだろう。


「見せてもらってもいいか?」

「はい。どうぞ」


 ジネットが調理台の前から体をどかせる。

 調理台には、牛刀包丁に出刃包丁、菜切り包丁と柳刃包丁が並んでいた。少し離れたところにペティナイフもある。

 おぉ、出刃包丁があるってことは、この街では魚を三枚におろしたりもするってことか。柳刃包丁もあるところを見ると、もしかしたら魚の生食……つまり刺身が文化として根付いているかもしれない。

 道具は、その時代の文化を色濃く反映するものだからな。

 柳刃包丁を見ると尾頭付きをイメージしてしまうように、その道具にはそれに見合った使い方があるのだ。


「鋼の包丁だな。管理が難しい道具なのに、綺麗に手入れしてある」

「分かるんですか?」

「ん? あぁ、金属関係は、ちょっとな」


 親方にいろいろ叩き込まれたからな。

 親方は、ステンレスの包丁を認めなかった。

 包丁は鋼、それも鍛造ものしか使わない徹底ぶりだった。

 鋼の包丁は錆びやすく、ステンレスに比べて手入れの難しさが段違いだ。

 だが、その分切れ味は申し分なく、その包丁で切った食材は新たな命が吹き込まれたかのように力強いうまみを発揮する。

 鋼の包丁をここまで綺麗に維持しているなんて、相当丁寧に手入れをしている証拠だろう。えらいえらい。道具を大切に使う人間に好感が持てるのは、親方の影響が大きいのかもしれない。


「柳刃包丁があるってことは、刺身なんかも食うのか?」

「そうですね。滅多には食べませんが、お祝い事の時には尾頭付きを作ったりしますよ」

「へぇ、尾頭付きなんかもやるんだな」

「え? 『オカシラツキ』?」


 …………ん?


「あの、『オカシラツキ』って、なんですか?」

「なんですかって…………今、自分で言っただろう、『尾頭付き』って」

「いいえ。言ってませんよ」


 こいつ、本当に大丈夫か?


「じゃあ、さっきなんて言ったんだよ?」

「お刺身は滅多に食べませんけども、お祝い事の時には尾頭付きを作ったりします……」

「ほら、今! 『尾頭付き』って言ったじゃねぇか!」

「言ってませんよ!?」


 ……おかしい。

 どういうことだ?

『強制翻訳魔法』のエラーか?

 尾頭付きじゃないとなると…………あ、もしかして。


「『活き造り』?」

「そう! それです、私がさっきから言っているのは」

「リピートアフターミー。『活き造り』」

「『尾頭付き』」


 エラー出まくってんじゃねぇかよ!?


「……どうやら、翻訳のされ方におかしな点があるようだな」

「あぁ、なるほどです。私の発する『尾頭付き』が、ヤシロさんにとってもっとも馴染みのある言葉に変換されたのですが、その変換された言葉が私には馴染みのない言葉だったのですね」

「……なんか、厄介だな」

「『強制翻訳魔法』も、完璧ではありませんからね」


 完璧ではない……か。ならば、そこに付け入る隙がありそうだな……

 例えば、代金のことを『お愛想』と言えば、寿司屋には通じるが洋食屋には通じない、みたいな…………う~ん、金儲けには繋がらないか……


「それであの、『オカシラツキ』って、どんなものなんですか?」

「尾頭付きは、その字の通り、尾と頭が…………あぁ、実際見せた方が早いか。ちょっと魚を一匹もらうぞ」

「え? あ、はい。生で食べられるのはこちらになります」


 捌く以上は無駄にはしない。いいね。いい心がけだ。

 捌いた魚は、あとでスタッフが美味しくいただきました、ってやつだ。


「ん…………鯵だ」

「はい、鯵です。凄いですね。見ただけで分かるなんて。ヤシロさんは料理人さんなんですか?」

「いや、俺がいた国は島国だったからな。俺は料理よりも道具を作る方が得意だな」

「職人さんですか! 凄いです!」

「いや、職人ってほどではないんだけどな……」


 で、正式な職業はと聞かれれば『詐欺師』だ。

 けどまぁ、そこら辺はわざわざ言わなくてもいいだろう。突っ込まれる前に鯵を捌いてしまおう。


 普通に食うなら三枚におろすところだが、今回は尾頭付きにする必要がある。

 半身だけ切って、残りは後で捌こう。


「この辺は海が近いのか?」

「はい。外壁の外に行けば割とすぐに海に出られるそうですよ」

「……行ったことはないのか?」

「外壁の外に行くにも、お金がかかりますから」


 ジネットは固い笑みを零す。

 通行税が必要なのか? それとも、帰ってきた時に入門税を取られるのか……

 なんにしても、貧乏人は街から出ることすら出来ないらしいな。

 大丈夫か、この街のシステム。……ま、どこの国も金の流れを牛耳ってるヤツが、有るところからも無いところからも金を巻き上げる構図ってのは変わらないもんだよな。えぇい、忌々しい!


 ダン! と、鯵の身を叩き斬る。

 八つ当たりだ。ごめん、鯵。


「だ、ダイナミックですね……」

「すまん。ちょっとイラッてした」

「わたし、何かお気に障ることでも……?」

「あぁ、いや。気にしないでくれ。そういうことじゃないから」


 こいつにはもう少し考え方を改めさせた方がいいな。

 俺がイライラしていたら、「何かしてしまっただろうか?」と考えるより先に、「テメェ、ウチの厨房で暴れるな!」と怒るべきなのだ。でなければ、相手に舐められてしまう。

 舐められるというのは、すなわちその相手との交渉では常に不利益をもたらされることを意味する。

 絶対に、舐められてはいけないのだ。


 黙々と鯵の半身を捌き、頭と尾を残した体に盛りつける。

 ザックリとした出来栄えだが、これで鯵の尾頭付きの完成だ。


「わぁ……凄いです。これが『オカシラツキ』なんですね」

「あぁ。尾と頭がついているから尾頭付きだ」

「なるほどです。面白い盛りつけですね」

「なんか目出度い感じがするだろう?」

「はい。お祝い事の際には、是非真似させていただきます」

「じゃ、食べようか」

「そうですね! 折角ですので!」


 ジネットは弾けるような笑みを浮かべ、鯵の尾頭付きを持って厨房を出て行った。

 あ、やっぱり飯は客席で食うんだな。


 カウンターを横切って、ジネットが待つテーブルへと向かう。

 相変わらず椅子がガタつく。これもなんとかしないとなぁ。

 座る前に二度ほど椅子をガタガタさせてから着席する。

 と、向かいでジネットが深刻な表情をしていることに気が付いた。


「……どした?」

「ヤシロさん…………今、気が付いたのですが……」


 なんだ? 

 急に真剣な顔をして……尾頭付きに何かマズい点でもあったか?


「……ご飯の用意、何もしていません。鯵しかありません!」

「……うん、まぁ、そうだろうな」


 知ってるよ、見てたし。


「パンでもあればお出ししたいのですが……パンは諸事情により仕入れを控えておりまして……」

「仕入れ値が嵩む上に全然売れないんだろ?」

「なぜそれを!?」


 いや、分かるわ。街で買うのより10Rb高いパンを置いて、且つメニューを二本線で消してたらな。


「ヤシロさんって、なんだか不思議な人ですね」

「不思議ちゃんに言われたくはないな」

「わたしは不思議ではないですよ?」


 お前ほど不思議な生き物を、俺は見たことねぇよ。

 なんだその、「この世界に悪い人なんて一人もいないと思ってます」みたいな目は。特別天然記念物もビックリの希少性だな。


「あ、確か!」


 ジネットがガタガタの椅子をガタガタ言わせて立ち上がる。


「ナッツがあったはずです! それを持ってきましょう!」


 ナッツと刺身って……晩酌かよ。

 バタバタと厨房へ駆けていき、バタバタと戻ってくるジネット。手には四粒のラッカセイが握られていた。……四粒って。


「すみません、ちゃんとしたものをご用意したかったのですが……」

「これ食ってから作り直したら?」

「…………なるほど、その手がありましたね」


 ……この娘、大丈夫か? 放し飼いにしてていい生き物なのか?


「それよりも、ひとつ確認したいことがあるんだが」

「なんでしょうか?」

「『強制翻訳魔法』は万能じゃないんだよな?」

「そうですね………………じゅる」


 考え込んだかと思った矢先、よだれを垂らしやがった。


「……召し上がれ」

「す、すすす、すみません! はしたない真似を!」

「いいから、食いながら話してくれればいいから」

「は、はい」


 ジネットは恐縮した様子で、箸を手に持つ。

 箸使えるのかよ!?

 どこの文化圏に似てるんだろう、この街……その考え方自体を改めなきゃいけないのかな。


 ジネットは箸で器用に鯵の刺身をひょいっと一切れ摘まみ上げる。


「あぁ……久しぶりの海魚です」

「魚はあまり食べないのか?」

「いえ。川魚でしたら、ほら、メニューにもありますし。よく食べますよ」

「海魚は高級なのか?」

「外壁の外へ捕りに行かなければいけませんから、その分割高になるんです」


 なるほど。

 門の通過で税をかけられるのだとすれば、その分魚の料金に上乗せされていくわけか。


「この鯵は、知り合いの方がご厚意で分けてくださったんです」

「毎日分けてくれって言っとけよ」

「そんな! とんでもないですよ」


 ジネットは恐れ多いとばかりに両手を振る。


「こうしていただけただけでもありがたいことですのに」

「厚意ってのは、もらってやることも親切なんだぞ」

「そう、なんですか?」

「例えばだ、お前は厚意でそのナッツを持ってきてくれたよな?」


 先ほどジネットが持ってきたナッツを指さして言う。

 ジネットは手元のナッツをジッと見つめる。


「そのナッツをだ、『そんなもん食えるかよ!』って、俺が突っぱねたらどうだ?」

「う…………申し訳ない、です」


 そこで「申し訳ない」って言葉が出てくるところがなぁ……まぁ、いいや。


「じゃあ、『やった! 俺ナッツ大好きなんだよな。ありがとう』って美味しそうに食べたら」

「嬉しいです!」

「そういうことだ」


 言いながら、ナッツを一粒摘まみ上げる。

 それを指でころころと転がしながら、ジネットへ視線を向ける。


「厚意はもらってやった方が相手も喜ぶ。自分も利益が出る。いいこと尽くめだろう? 逆に遠慮すれば、相手にも不愉快な思いをさせるし、自分の手元には何も残らない。誰も得をしないんだ」

「…………なるほど、です」


 ジネットの目からうろこが落ちていく様を、俺は確かに目撃した。

 そう言いたくなるほど分かりやすく、ジネットは感心してみせた。


「だから、その知り合いとやらに『毎日大量に海魚を献上しやがれ』って言ってやれ。きっと大喜びして踊り出すぞ」

「はい! 分かりまし………………喜びますかね?」


 はは、一瞬信じてやんの。

 まぁ、ドMの変わり者なら喜んでくれるんじゃないか。


 そう、そんなことよりもだ。


「『強制翻訳魔法』について、いくつか聞きたいことがあるんだが」

「はい。わたしに分かる範囲でならお教え出来ますよ」

「嘘を吐くとどうなる?」

「呪いでカエルになります」

「確実にか?」

「えっと…………」


 ジネットは箸を置き、背筋を伸ばして俺を見る。


「『精霊の審判』にかけられれば、確実にカエルに変えられてしまいます」

「『精霊の審判』にかけられなかった嘘はどうなる?」

「どんなに時間が経過した後でも、当事者が『精霊の審判』にかければ、その時点から呪いは発動します。ただし、嘘を吐かれた方が『精霊の審判』を発動させなければ、その嘘は聞かれなかったこととして、罰せられることはないと思います」


 思います、か……


「つまり、バレなければ、嘘が吐けるって解釈でいいか?」

「バレない嘘はありませんよ」


 そういうことじゃなくてだな……言い方を変えるか。


「告発されない嘘ならどうだ? 例えば……『優しい嘘』とか」

「優しい嘘……ですか?」

「俺が、もう助かる見込みのない病にかかったとする」

「えっ!?」


 ジネットがガタガタの椅子をガッタンバタンと倒しながら立ち上がる。


「例え話だ……座れ。大丈夫だから」

「そうなんですか? あぁ……よかった」


 どこまで信じやすいんだよ、お前は。


 胸を両手で押さえ、ホッと安堵の息を吐いて、ジネットは腰を下ろす。が、椅子はさっきジネット自身が倒していたので、そのままジネットは床へと尻もちをついた。


「にゃあっ!?」


 ……どん臭過ぎる…………お前は漫画の世界の住人か?


「あ、あの……そんな、驚いた顔をしないでいただけますか? 割と恥ずかしいですので、むしろ笑っていただけた方が……」

「お前の将来が心配だ」

「やめてください! お願いですから、憐れまないでください、こんなことで!」


 尻についた埃を払い、椅子を起こしてから、ジネットは椅子に腰掛けた。


「それで、なんの話でしたっけ?」


 マジで忘れてそうだな。

 俺は要点をかいつまんでサクッと質問をする。


「例えば、俺が重い病で明日をも知れぬ身だったとして、それを気遣って『大丈夫、きっと良くなるよ』という嘘を吐いた場合、『精霊の審判』はその嘘に罰を与えるのか?」


 ジネットは腕を組み「う~ん……」と首をひねる。

 やがて組んだ腕を解くと、自信なさげながらも明確な解を俺にくれた。


「おそらくは、呪いは発動するはずです。理由や過程ではなく、『発言に嘘があったかどうか』が精霊の呪いの発動条件になっているはずですから」


 発言に嘘が……か。今のは重要なポイントだな。

 もう少し確証が欲しいところだが、会話の記録が残っているあたり、その言葉は真実なのだろう。では、言葉にしなかった嘘はどうなるのだろうか?

 銃を向けられた際、両手を上げて反抗の意志がないと示した上で反抗するとか、そういう嘘はどう捉えられるのか……検証するにはリスクが高過ぎるな。もう少し情報が欲しいところだ。


「仮に、ジネットが俺に嘘を吐いたとして、俺がそれを訴えなかったらどうなる? 俺に気を遣って病のことを黙っていてくれたお前を、カエルにする理由がないからな」

「その時は………………」


 ゆっくりと思考して、ジネットはある程度の確信を持って答える。


「呪いは発動しません。訴えがない限り、その嘘はなかったものとみなされますので」


 よし。

 つまりは、バレなければ嘘は嘘ではなくなるのだ。

 ……もっとも、リスクが高過ぎておいそれとは出来ないけどな。


「もうひとついいか?」

「はい」


 ずっと引っかかっていたことがある。

 ウィシャート家お抱え商人のノルベールからくすねた香辛料を、『いただいた』と表現した際、街の人間は全員『盗んだ』と解釈しやがった。『強制翻訳魔法』がそうさせたのだろう。

 しかし、俺がここで食い逃げをする際、トイレに行くと見せかけて『(どこか遠くへ)行ってくる』と言った時、ジネットは何も言わなかった。『逃げる』とは翻訳されなかったのだ。

 ジネットの、極度なお人好しを度外視しても、トイレに行くと言っていたヤツが『逃げる』と言い出せば、さすがに何かを言うだろう。言わないまでも表情には表れるはずだ。

 あの時のジネットは、100%俺の言うことを信用していた。


『いただいた』が『盗んだ』に翻訳されて、『行ってくる』が『逃げる』に翻訳されなかったのはなぜか……

 推察するに、『代替言葉』は翻訳され、『省略言葉』は翻訳されないのではないか、という仮説が立てられる。


 先ほどの『活き造り』が『尾頭付き』に翻訳されたのは、俺が普段活き造りを『尾頭付き』と呼んでいるからだろう。同じものを差す時、言い方を変えようとも、そのものを示す言葉に翻訳されるのではないかと思われるのだ。


 つまり、『パンツ』を『パンティ』と呼ぼうが『スキャンティ』と呼ぼうが『ズロース』と呼ぼうが『トレジャー』と呼ぼうが、『強制翻訳魔法』は等しく『パンツ』と翻訳するのだ。

『君のトレジャーを見せてくれ』と言えば殴られるわけだ。


 いや、しかし待てよ……なら、なぜ『パイオツカイデー』は伝わらなかったんだ?

 ……少し検証してみるか。


「ジネット」

「はい」

「これから俺が言う言葉を聞いて、意味が通じるかどうかを教えてくれ」

「分かりました。意味が分かるかどうかを言えばいいんですね」

「そういうことだ」


 さて、例文はどんなものにするかな…………反応が分かりやすい方がいいか……なら……


「ジネット。俺とモーニングコーヒーを飲まないか?」

「コーヒーですか? 淹れましょうか?」


 立ち上がりかけるジネットを手で制する。

 確実に『モーニングコーヒーを飲む』という意味で捉えているな。

 裏に隠された意味には気付く素振りもない。


 では、次だ。


「ジネット、俺とにゃんにゃんしないか?」

「ネコ、ですかにゃん?」


 おぉう、なんだ、そのネコ語!? ちょっと可愛いじゃねぇか!

 ……じゃ、なくて。

 伝わっていないな。チョメチョメでも一緒だろう。


 じゃあ、次は本格的に……


「ジネット。お前を抱きたい」

「ぅぅえええっ!?」


 反応あり、だ。

『抱く』を『抱く』以外の意味で受け取った。

『強制翻訳魔法』の翻訳結果は、こちらが思っていることがそのまま伝わるというよりかは、相手がその言葉の『正しい意味』を理解しているかどうかによるところが大きいのかもしれない。


「ジネット。一発ぶちかまさねぇか?」

「なっ! なにを、言っているんですか!? エ、エッチなのはダメですよ! ざ、ざざ、懺悔してくださいっ!」


 耳まで真っ赤にして、ジネットが怒っている。

『一発』はちゃんと通じるのか。


「ジネット。ズッコンバッコン……」

「懺悔してくださいっ!!」


 流れで言葉の意味を解釈したようだ。

 擬音は、使い方によってはどちらにも転ぶということか。

 たぶんこの流れで『にゃんにゃん』と言えば、意味は通じるだろう。


「な、なんなんですか!? 急にエッチことを言い出して」

「いや、すまん。お前の素の反応を見るために、あえてエロいことを言ったんだ。気に障ったなら謝る」

「い、いえ……そんなに、怒っているわけではありませんし……で、でも……急にそういうことを言われると……その…………恥ずかしいです」


 顔を真っ赤に染め、肩をすくめてもじもじとし始める。

 わぁ……にゃんにゃんしたぁ~い…………


 はっ!?

 いかんな。

 体は高校生でも、心は三十代を折り返したオッサンなのだ。いささかオッサン丸出し過ぎだ。

 ちょっとセクハラが過ぎたか……自重しよう。


 もし、『強制翻訳魔法』の翻訳結果が、相手側の理解度によるところが大きいとなると、知識のある者には嘘は吐けないってことになる。……それは厄介だな。


 置き換え言葉は諸刃の剣だな。


 では、こちらが意図しない翻訳がされるなんてことはないのだろうか?

 こちらが全然まったく微塵もそんなつもりなく発した言葉が、相手に変な意味で伝えられるという場合だ。

 例えば、「新人のみよこちゃん、おっぱい大きいよねぇ」という『褒め言葉』が『セクハラ』と捉えられる場合……あ、これは違うな。もっと別の例えを……


「ジネット」

「はい」

「『ムスメ』の反対はなんだ?」

「え? ……『ムスコ』でしょうか?」

「それが、俺の子なら?」

「えっと……『ヤシロさんのムスコ』……?」


 ……ニヤリ。


「じゃあ、そいつが愚かなヤツだった場合は?」

「え~っと…………『ヤシロさんの愚息』……ですか?」


 ……ニヤニヤ。


「では、その愚かな息子がとても立派だったら!?」

「え、えっと! ……ヤ、『ヤシロさんのご立派な愚息』です! ……って、愚かなのに立派?」


 ……ニンマリ、ニヤニヤ。


 いやぁ、なんかニヤニヤしちゃうなぁ……って! 違う違う!

 女子にエッチな言葉言わせてニヤリしている場合じゃないんだ。

 中学の頃、黒板に『タケムラタケコ ラブラブポンチ』と書いて、「お前、この文章を逆さまから十秒以内に言えないだろ~!」とクラスの女子を挑発し、大声で音読させたことを思い出した。自分が発した言葉を理解した後の女子の顔といったら…………ニヤニヤニヤニヤ……

 って! だから! そんなセクハラをしている場合じゃないんだって!

 どうもいかんな。

 見た目は子供、頭脳は大人、性的好奇心は男子中学生! その名は、オオバヤシロ!

 ……って、俺は随分残念な生き物になってしまっているようだ……自重しよう……自重……


 ここで思考を切り替え、得た情報はきちんと精査しておく。


 ジネットが意識していないであろう言葉は、そのままこちらに伝わった。

 わざわざ卑猥な意味に変換されるということはなく、言った言葉は言ったままこちらに伝わったのだ。

 仮にエロい隠語を言わされたとしても、ドストレートに翻訳されるわけではないらしい。

『アソコ』は『アソコ』と訳され、放送禁止用語を発したことにはならないようだ。


 ということは、警察なんかが使う『ホシ』や『シロ・クロ』や『アカウマ』なんかはそのまま使えそうだな。ちなみに、『アカウマ』は『放火』のことだ。


 となれば……


 拾得物を自分の懐に入れることを『ねこばば』と言い、世間では泥棒だとされている。

 だが俺はそうは思わない。RPGの勇者も、横スクロールアクションのヒーローも、拾ったものは自分の所有物だとして憚らない。正義の象徴たる勇者やヒーローがだ。

 俺はそちらこそが正しいと思っている。拾ったものは俺のもの。だからそれを『盗んだ』などとは思わない。


 そこで、実験だ。


「ジネット」

「はい」


 この娘、ホント素直だよな……さっきあんな言葉を言わされたというのに。

 まぁ、今はその方が助かるけどな。


 俺は、先ほどから指先で転がしているナッツを手のひらに載せて差し出しながら言う。


「これは、さっき『いただいた』ものだ」

「はい。どうぞ、召し上がってください」


 ジネットはニコリと微笑む。


 では、次だ。

 俺は、懐に忍ばせた純白のトレジャーを取り出し、机の上に置く。

 パンツだ。


「これは、さっき中庭で『いただいた』ものだ」

「ふにょっ!? な、何してるんですか!?」


 ジネットは顔を真っ赤に染めて、大慌てで机の上のパンツをひったくった。


「返せ。それは俺のだ」

「わたしのですよ!?」

「中庭に落ちていたんだ」

「干してあったんですっ!」

「いいや、落ちていた!」

「風で飛んだんですよ、もうっ!」


 頬をぷっくりと膨らませて、ジネットは俺のトレジャーを握りしめ、俺から見えないように机の下に隠してしまう。

 ……おのれ、ドロボーめ…………


 と、まぁトレジャーに関しては後日改めて調達するとして。


「そこで質問なんだが」

「なんですか?」


 やや怒り気味ながらも、ジネットは丁寧に受け答えをしてくれる。

 ホント、役に立つお人好しだ。


「さっき俺が言った二つの『いただいた』は、同じ言葉に聞こえたか?」

「え? …………はい。同じ言葉でした」


 少しの間、俺の言葉を思い出すためだろうが、口を閉じたジネットは、はっきりと頷いた。


「ちなみに、先ほどの俺のトレジャーだが」

「わたしのパンツです! ……はっ!? な、なに言わせるんですか!?」


 理不尽なことで怒られた。

 それはいい。


「さっきのアレに関して、俺が『いただいた』ものだと、お前は信じるか?」

「信じませんよ! わたし、差し上げてませんもの!」


 と、いうことはだ。

 俺が「これは盗んだものではない」という確固たる自信を持って発言すればそれは嘘にならないのか。……まぁ、そこは微妙なラインだが。

 少なくとも、真実を知らされず、誰かに利用された人物が口にした言葉は嘘とはみなされないはずだ。

 例えば、ジネットが「『ヤシロさんのご立派な愚息』はエッチな言葉じゃない」と言った場合だ。

 真実は「は? 何言ってんだこいつ?」ということになるが、ジネットが嘘を吐いていない――嘘を吐いているという自覚がない場合において、それは嘘とみなされることはないのだろう。


 罠に嵌められてカエルにされる、ってことはないのかもしれん。


 香辛料の一件では、俺も、相手方も『盗んだ』という認識があった。そのために『いただいた』が『盗んだ』に翻訳されたのだと推察出来る。

 仮に俺が、落ちていた香辛料を拾って『いただいた』と発言したら……もしかしたら『盗んだ』にはならなかったんじゃないか? 


 これも微妙か。

 もう少し情報が欲しいところだ。


 しかし、どうやら『強制翻訳魔法』は、嘘を『完全に妨害する』ものではないらしい。

 それが分かっただけでも、めっけもんだ。


 嘘が嘘と判断される要因は、【こちらの認識】【相手の知識】【事実関係】といったところか。

 いいぞ。それならば……


 俺は、精霊神を騙せるかもしれない。


 神様を詐欺にかける。

 いいじゃねぇか。俺にピッタリの、デカいスケールだ。



 俺は絶対、この街で詐欺師として成功してやるぜ。



 となれば、もっと情報が欲しいところだ。

 そのためにも人脈を広げなきゃなぁ。


「ところでヤシロさん」


 俺が考え込んでいると、話が終わったと判断したのか、ジネットがこんなことを言ってきた。


「この後、ちょっと一緒に行っていただきたいところがあるのですが」

「トイレか?」

「違いますよ!?」


 なんだ、違うのか。

 ……俺はそろそろ限界なのだが。


「毎朝教会へ行っているんです」


 あぁ、そういやこいつは教会の信者だったっけな。


「アルヴィニストなのか?」

「精霊教会の信者のことでしたら、アルヴィスタンという呼称ですよ」


 キリシタンに似てるな。覚えやすくていいや。


「で、敬虔なるアルヴィスタンは毎朝教会までお祈りをしに行くわけか?」


 俺、無宗教なんだけどな。


「はい。毎朝のお祈りは欠かしませんが、それだけではなくてですね」


 ジネットは両手を胸の前で組み……その手の中にはパンツが握られているわけだが……穢れのない透き通るような笑みを浮かべて、とんでもないことを言いやがった。


「毎朝食事を届けているんです。わたしが出来る精一杯の奉仕活動として」


 奉仕活動…………ってことはなにか?

 さっき厨房で下ごしらえをしていた大量の食い物は店で出すものではなくて、教会に届けるためのものだってのか。

 しかも…………考えたくもないが…………


「……無料でか?」

「はい。寄付です」


 お前、バカじゃねぇーのっ!?


 こんな、椅子も真っ直ぐにならないような店のド貧乏人が、寄付!?

 しかも、さっき下ごしらえしていた飯の量はなんだ? あれは何人前だ!? 軽く見積もって十や二十ではないだろう。三十人前程度はあったぞ!?


 それが、みんな、無料!?


「……目眩がしてきた」

「大丈夫ですか!?」


 俺に駆け寄り、肩に手をかけようとしたジネットだったが、手にパンツを握っていることに気付き、慌てて両手を背中の後ろに隠す。

 俺の隣で、不安そうにこちらを見下ろしてくるジネット。


「では、教会へはわたし一人で行きますので、お部屋で休んでいてください」

「いや……俺も行く」


 こいつを一人で行かせるなんてとんでもない。

 そんなことをすれば、こいつは身の回りのものをすべて、大喜びで他人に差し出してしまうだろう。

 俺はここをしばしの拠点と定めた。この店がなくなるのは困るのだ。

 何より…………俺は、『無駄』と『浪費』が死ぬほど嫌いなのだ。


 神に寄付をして、お前は幸せになったか? なってないだろう。その証拠がこのガタつく椅子だ! こんなものすらまともに買い換えられないような極貧生活じゃねぇか!

 毎朝と言ったな? 毎朝、三十人分もの飯を無料で提供して、その見返りが何もなしとは……この世界の神ってのは、つくづく面の皮が厚いヤツだな。

 施してもらって当たり前か?

 敬虔なる仔羊がそのために飢えても知らぬフリか?


 だとしたら、そんな神のために行う奉仕活動など『無駄』以外の何ものでもない!

 寄付? する必要はない!

 世の中は、ギブアンドテイクで成り立っているのだ!

 サービスを提供したら対価をもらう! 逆もしかり! これ、世界の理、世の常識! 鉄則だ!


 俺がその教会に乗り込んで、今後一切の寄付を断ってやる。


「ジネット、これだけは覚えておけ」

「は、はい……?」

「俺の目の前で、無駄遣いは絶対にさせねぇ」


 ジネットを睨め上げる。と、ジネットは肩をビクリと震わせた。

 クズ野菜を丁寧に調理し、道具をきちんと手入れしていることから、こいつは節約精神のある素晴らしい女子だと思っていたのに…………とんだ浪費家だ!

 お前がやっている行為は、必要もない高額な壺をローンを組んでまで買うのと同じくらいに愚かなものだ!


 俺に言わせりゃ、宗教も詐欺も大差ない。目に見えるご利益がない以上、俺はそこに価値を見出さない。故に、金銭および物品の提供・支払いは一切認めない!


 やめさせてやる、寄付なんて。……絶対にだ。


 俺は残った鯵の刺身を掻っ食らい、来るべき決戦に向けて静かに闘志を燃やした。






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