4話 ちょっ、待てよ!

 にこにこと笑顔を浮かべ、陽だまり亭の店員が俺に近付いてくる。

 ……その笑顔が、俺の中の恐怖心を増幅させていく。

 あいつが一言、『精霊の審判』と口にすれば、俺はカエルにされてしまうのだ。

 そして、人権を剥奪され、あの薄暗い湿地帯で不気味な連中の仲間入りを余儀なくされる…………イヤだ。逃げるか!?


「お客さん」

「は、はいっ!?」


 思わず、声が上擦ってしまった。

 他人に人生を握られているってのは、こうも居心地が悪いものなのか……


 陽だまり亭の店員は俺の目の前まで歩いてくると、スッと手を差し出してきた。

 来るっ!

 指をさして『精霊の審判』と言うつもりなのだ。

 俺の人生に終了宣言をするつもりなのだ!


 固く瞼を閉じ体を強張らせていると、不意に俺の手に柔らかいものが触れた。

 目を細く開け、様子を窺う……と、陽だまり亭の店員が俺の手を取っていた。

 まさかのフラグ!? 逆ナン的なヤツですか!?


「これをお返ししたくて、朝から探していたんですよ」


 にこりと笑い、陽だまり亭の店員は俺の手に財布を握らせる。

 それは、俺が囮として陽だまり亭に置いてきた財布だった。


 ……これを、返したくて?


「お客さん、これを忘れてどこかに行ってしまったので心配しました。一応、明け方までは待ってみたのですが、戻ってこられる雰囲気もなかったので、日の出とともに探しに来たんです」


 言葉が、見つからない。

 こいつは、何を言ってるんだ?


「遅くなってしまってすみません。コレがなくて困ったりはしていませんでしたか?」


 困るも何も、俺が意図して置いていったんだ。

 謝られるようなことも、心配されるようなことも、何もない。


「でも、見つかってよかったです。もう、忘れちゃダメですよ。意外とおっちょこちょいさんなんですね」


 くすくすと楽しそうに笑い、それから、ぺこりと頭を下げる。

 そして、陽だまり亭の店員は俺に背を向けて歩き始めてしまった。


 ……おいおい。料金を請求するの忘れてるぞ。

 お前は見た目通りおっちょこちょい過ぎるんじゃないか?


 なんなんだ、あいつは?

 食い逃げされたことに気が付いていないのか?

 戻らない俺を一晩中待っていた?

 明け方からずっと俺を探していた?

 忘れ物を届けるために?

 俺が困っているだろうからって心配して、見つけた途端にあんな安心した表情を見せて……で、肝心の支払いを受け取るのを忘れて…………バカなのか?


 遠ざかっていく後ろ姿に迷いはなく、胸を張って堂々と歩いている。


 バカだ……真性のバカがあそこにいる。

 商売に向いてないどころの話じゃない。

 あいつは、平穏な生活を送ることにすら向いていない。

 確実に泣きを見る。

 手酷く騙されて、取り返しのつかないところまで追い込まれて、くだらないヤツに、くだらないことで人生を滅茶苦茶にされて、そして、……諦めて死んじまうんだ。

「仕方ないよね」なんて言いながら、「ごめんね」なんて謝りながら……


 大通りを歩く小柄な背中を眺めていると、不意に親方と女将さんの姿を思い出した。

 お人好しで、バカを見て、それなのに何度痛い目を見ても他人を疑うことがなく、俺が何度言っても聞きやしないで、そんなとこばっかり変に頑固で、……結局、上手く生きることすら出来ないで…………

 そんな二人の姿が、遠ざかっていく小さな背中にダブって見えた。

 そして、陽だまり亭の店員の姿が見えなくなると同時に、激しい怒りが腹の底から湧き上がってきた。


 ふざけんな。

 俺に施したつもりか?

 冗談じゃない!

 俺はな、お前なんかよりもはるかに賢く生きられるんだ!

 誰かに騙されることも、人生に行き詰まって泣き言を漏らすこともない!

 お前が搾取される側の人間だとすれば、俺は搾取する側だ!

 絶対的に立ち位置が違うんだよ!

 俺は利口で、お前はバカだ!

 そうだ! 騙されるヤツはバカなんだ! 利用されて、搾取されても笑っていられるような、そんなもんは優しさなんかじゃない! 愚かさだ!

 そんなことにすら気付いてない甘ちゃんが、この俺に施しを与えたつもりか?

 食い逃げしたことに気付いていないわけがない。

 支払いをもらい忘れるなんてこと、あるはずがない!

『精霊の審判』と一言言えば、俺の人生を終わらせることが出来る、そんな優位な立場にいながら、それをみすみす放棄しやがった。


 舐めんじゃねぇぞ!


 俺はな、お前なんかに同情されるような弱い人間じゃない!

 お前みたいなヤツに助けてもらわなきゃ生きていけないような、未熟な人間じゃない!


 俺のために犠牲になるようなマネ、してんじゃねぇよ!


「…………待てよ、このっ!」


 出所が分からない怒りに突き動かされ、俺は走り出した。

 何に怒ってるんだろ、俺?

 同情されたからか? あの女に見下されたと感じたからか?

 それとも、あいつが親方たちに似ているからか?

 過去のことを思い出して、心がざわついているのか?

 結局、何も出来なかった自分に、腹が立っているのか?

 何に怒っているんだ、俺は?

 誰に怒っているんだ、俺は?


 分からん。

 分からんが、この怒りをなかったことには出来ない!


 陽だまり亭の店員は、大通りの中ほどにある細い横道へ入っていった。陽だまり亭がある方向だ。店に戻るのだろう。

 だったら途中で捕まえて、飯代をその顔に叩きつけてやる!

「テメェの同情なんざいらねぇ」と。

「自分がクッソ貧乏なくせに他人に施してんじゃねぇ」と。

「自分の身を削ってまで他人に優しく出来るほど、テメェは偉くも強くもねぇだろう」と!


 お前みたいなバカで愚かなお人好しがな……誰かを助けるなんて、十年早いんだよ!

 思い上がるな!


 財布をブレザーのポケットにねじ込み、酒場で手に入れた3000Rbを握りしめる。

 銀貨がチャリチャリと音を鳴らす。

 三十枚あるってことは、この銀貨一枚が100Rbなのだろう。

 クズ野菜炒めの料金は20Rb……まぁ、いい。釣りはくれてやる!


 俺は100Rb銀貨を握りしめて、陽だまり亭の店員が曲がった横道を曲がろうとした……その時。


「げっ!?」


 思わず足が止まってしまった。

 曲がり角には大きな掲示板が設けられており、四十二区の全体図や、ギルドの勧誘メモのようなものが張り出されていた。

 その中に、とても見覚えのある顔があった。……俺だ。

 俺の似顔絵が描かれたチラシが、掲示板のど真ん中に張り出されていたのだ。


『 盗品を売りさばく極悪人。見つけた者はギルドまで知らせること

  捕らえた者には懸賞金 10万Rb 

  生死問わず


  特徴:軽薄な口調

     死んだ魚のような目

     身長170センチ前後

     中肉中背

     黒髪に黒い瞳

     高級な衣服を身に纏っている 』


 ピンチッ!

 俺、大ピンチ!

 指名手配されてんじゃん!?


 手配書を破いてやろうかと思ったのだが……

『掲示物を無断で剥がした者には精霊神様の呪いが降りかかる』と、ご丁寧に注意書きがされていたため断念した。


 ちっくしょう、なんだよ、これ!?

 いつから貼られていた?

『生死問わず』? ふざけんなよ! どこの西部劇だよ!?


 酒場ではこんな話は一切聞かなかった。

 張り出されてまだ間もないと考えるべきか……他にこの張り紙がされている場所はあるのだろうか?

 なんにせよ、早急に手を打たなければ……


 一番目立つものはなんだ……?

 髪染めなんか売ってるわけないし…………服。そうだ! 服を着替えよう!

 ウィシャート家のお抱え商人ノルベールも、服を見て俺を貴族の関係者だと判断していたようだし……高級な服ってのはそれだけで目を引くのかもしれない。

 ならば、早速そこらの店で服を一式揃えなければ。


 俺は大通りに戻り、近くにあった服屋に飛び込んだ。

 ブレザーを脱ぎ、小脇に抱えるようにして、なるべくみすぼらしく見えるようにカッターシャツのボタンをだらしなく開けて……


「いらっしゃい」


 店にいたのは、大きなおなかをした羊だった。この店の店主のようだ。落ち着いた雰囲気が責任者であると物語っている。

 ウール専門店か? いや、そういうわけでもなさそうだ。


「服を一式欲しいんだけど!」

「でも、そちらの服よりいいものは、ウチにはちょっと……」

「いいものじゃなくていいんだ! みすぼらしいものの方が都合がいい! あ、でも臭くないヤツな!」


 俺が捲し立てると、羊の店主は顔をしかめた。

 マズい……あまりおかしなことを言うと怪しまれるかもしれん。


「じ、実は、この服のせいで恐ろしい連中に狙われているんだ」


 ギルドとか、超恐ろしい。よし、嘘は言ってない。


「それで、身分を隠すために、あえてみすぼらしい格好をしようというわけだよ」

「あぁ、なるほどねぇ」


 その説明で納得したのか、羊の店主はうんうんと鷹揚に頷いた。


「この付近は治安があまりよくないですからねぇ。確かに、そんないい服を着て歩いてりゃ、いろんな連中に狙われてしまいますよね。うんうん。分かりますよ、はい」


 なんとか納得してくれた。

 つか、俺の服って、そんな見て分かるほどに高級感溢れてるのか?

 よかった、襲われなくて。

 夜中にうろついたりとか、酒場に出入りしたりとか、結構危険なことしてたのにな。


「そういうことでしたら、この辺りの服がいいですよ。四十二区の住人は、大体このレベルの服を着てますから」


 羊の店主の勧める一角には、明らかに古着と分かる安そうな服が山積みにされていた。

 確か、こういう世界だと……貴族がオーダーメイドで服を作って、上流階級がそのお下がりを着て、売り払われた古着を一般人が着る、みたいな流れだったはずだ。

 一体、何人の人間が袖を通したんだか、分かったもんじゃない。

 あんまり古着とか、得意じゃないんだけどなぁ……わがままは言っていられない。


 俺は、積み上げられた衣服の中から、汚れが少なく、縫製が丈夫そうなものを見繕って購入した。

 ついでに、脱いだブレザーを入れるショルダーバッグと、こっちの世界用の財布、そして目深に被れる帽子を購入した。


「あと、墨ってないかな?」

「墨……ですか? ウチで使っているものをお分けすることくらいは出来ますが……」

「じゃあ、それもくれ。出来たら、使い古した筆とセットで」


 そうして、すべての商品を精算してみると、……ちょうど3000Rbになった。

 ……なんて偶然。

 RPGのチュートリアルかってくらいによく出来た展開だった。

 これはもう、神様が悪ふざけをしているとしか思えないよな。……ふざけんなよ、マジで?


 店の試着室を借り、俺は服を着替える。

 ブレザーはカバンに詰め、空っぽの財布を懐にしまい、帽子を目深に被った。


 話をした感じでは、あの手配書はまだ周知されていないようだ。……よし。


 俺は店を出るやすぐさま掲示板へ向かい、分けてもらった墨をたっぷり含ませた筆で、似顔絵に髭を書き足した。ついでに、額のシワとほうれい線も書き足しておこう。

 うん。これでよし。

『破るな』とは書いてあるが、『落書きするな』とは書かれていない。

 これで俺には見えないだろう。


 買い物ついでに聞いた話だと、こういう手配書はこの掲示板にしか張り出されないらしい。

 ギルドに出回ってもよさそうなものだが、ギルドの種類が多過ぎてすべてに配布することは不可能なのだそうだ。

 布屋ギルド、鍛冶屋ギルド、飲食ギルド、薬師ギルドなどなど。

 各職業ごとにギルドが存在し、それが四十二区分あるのだ。

 コピー機のないこの世界では、それらすべてに手配書を配布するのは不可能だろう。

 この手配書も手書きだしな。

 で、一部にだけ渡したりすると、「どうしてウチにはないんだ?」「そのギルドだけ贔屓するのか!?」と揉め事の種になるらしい。

 なので、こういう伝達事項は、街の大通りかメイン広場に一枚張り出されるのだとか。


 ……ラッキー。

 これで、しばらくは誤魔化せるだろう。

 文明レベルが低いのも、たまにはいいことあるな。

 日本だったらこうはいかなかっただろう。即ネットで拡散されて、一瞬でジ・エンドだ。

 未開の地、万歳!


 もっとも、文明レベルが高かったら『生死問わず』なんて手配書は出回らないが。







 そんなわけで、寄り道をしていたらすっかり遅くなってしまった。

 服屋を出る時、羊の店主が「北の崖際にはスラムが広がってるから、近付かないようにね」なんてことを言っていた。……湿地帯に加え、スラムまであんのかよ。治安悪過ぎるだろ、四十二区……


 大通りを離れ細い路地を進んでいく。

 道が徐々にデコボコになり、建っている家もどんどんみすぼらしくなっていく。

 喧騒は遠ざかり、人通りもまばらになっていく。

 どんどんと、人里を離れていく感じがする。


 日が傾き始め、穴ぼこだらけの道が薄暗さと不気味さを増す。

 ……はは、今日もまともな飯を食ってない。グレープフルーツジュースを飲んだだけだ。

 歩く度に腹の虫がくぅくぅと鳴く。

 そして、空が真っ赤に染まる頃、俺は再びこの店の前にたどり着いた。


 陽だまり亭。


 ナイフとフォークの形にくり抜かれた看板が目印の、おんぼろ食堂だ。

 店の中からは、またしてもいい匂いが漂ってきている。


「……来ちまったけど…………」


 どうしたものか。

 手配書の一件で、怒りなんてものはすっかり消え失せていた。

 飯の代金を叩きつけてやろうにも、服を買ったせいで残金はゼロ。

 ……俺、何しにここに来たんだろう?


「やっぱ……帰るか」


 よく考えたら、俺が怒るなんてお門違いなんだよな。

 そもそも、俺は食い逃げをしたわけで、そのことを知ってか知らずか、ここの店員は口に出さなかった。

 このまま四十二区を離れれば、この一件は永遠に闇の中……忘れ去られてしまうだろう。

 それを、わざわざ蒸し返すような真似をしなくても……


 うん。そうだな。

 俺、ちょっとどうかしてたわ。

 親方たちのことを思い出して、感傷的になってたのかもな。


 いいじゃねぇか、飯がタダになったんだし。

『タダより尊いものはない』って、昔から言うもんな。

 よし! 引き返そう!

 折角のご厚意、ありがたく受け取っておくぜ。


 ドアの前でささやかながら感謝の言葉を述べ、俺は回れ右をする。

 もう二度と、あの店員に会うことはないだろう。

 そんな思いを胸に振り返った俺が見たものは……


 とっぷりと暮れた、薄暗い空だった。


「…………」


 遠くの空が、深い群青色に染まっている。

 大通りに続く細い道の先が暗くぼやけて、まるで冥界への入口のような雰囲気を醸し出している。

 油断すれば、のみ込まれてしまいそうな闇が……すぐそこにまで迫ってきていた。


「…………ふっ」


 まぁ、俺もな、この街に来て丸一日以上過ごしたわけで、いつまでも世間知らずな子猫ちゃん状態ってわけじゃねぇんだわ。

 夜の闇だって、昨日一度経験済みさ。

 そんなわけで……


「いらっしゃいませ、ようこそ陽だまり亭へ! ……って、あれ? お客さん?」

「……来ちゃった」


 強がりなんか投げ捨てて、甘えられるご厚意には甘え尽くそうかと思います。

 お願い! 泊めて!

 てか、この世界で俺が優位に立てそうなのって、お前しかいないんだわ。

 お前なら、どんなに油断しても、絶対寝首を掻かれるようなことはないと確信している!


「嬉しいです。また来てくださったんですね!?」


 無邪気な顔でそんなことを言い、ぴょんぴょんと飛び跳ねる店員。 

 ジャンプの度にぽいんぽいん揺れている。何がかは、あえて言わない。まぁ、しいて言うなれば……夢とロマンが揺れているのだ。


 あぁ、いかんいかん。

 夢のような光景を見つめながら夢の世界へ旅立つところだった。

 きちんと話をつけなければ……夜中に放り出されるのだけは勘弁してほしいからな。

 ……もう、暗いところで夜明かしするのとか、無理。


 とにかく、交渉だ。


「まず、最初に。昨日の飯代はきっちりと払う! だが、俺は今金がない」


 現状をきっぱりと告白する。

 店員は驚いた表情で、目をまんまるくしながらも、俺の話をじっと聞いてくれている。


「それで、あの高価な服を売っちゃったんですか?」


 ん?

 あぁ、そうか。今の俺はみすぼらしい服を着ているんだった。

 なるほどな。金がなくて服を売り払ったように見えるのか。まぁ、あえて訂正しないでおこう。


「それで、どうすれば飯の代金を払えるかを考えていたんだが……」

「いつでもいいですよ。わたし、お客さんのこと信用しますから」


 いやいや、俺みたいなヤツは一番信用しちゃダメだろうが。

 何を自信たっぷりに言ってるんだか。


「だって、お客さんはご自分のことを話してくれましたから。誠実な方なのだと、わたしは思います」


 うわぁ……この娘、ちょろ~……カモがネギどころじゃなくて、カモ鍋の素と、他の野菜まで背負ってやって来ちゃった状態じゃん。

 こいつ、よく今まで生きてこられたな。


「信じてくれるのはありがたい。だが、金の目処が立っていないんだ」

「気長にお待ちします」

「いや、そうしてくれるのはありがたいのだが、いつまでも待たせるのは違うと思う」

「わたしは気にしませんよ?」

「俺が気にするんだよ」


 つか、なんなの!?

 お前、お金嫌いなの?

 なんでもっと執着しないんだよ、金に!?

 金さえあれば、こんなボロい店じゃなくて、もっといい土地で商売だって出来るんだぞ?

 食材もいいものが手に入るし、内装だって好きなようにこだわれる。

 もっと金を求めろよ!

 人間の優しさなんてな、1円にだってなりゃしねぇンだぞ!?


「では、お客さんはどうすれば納得出来るんですか?」


 店員が小首を傾げて俺に尋ねる。

 金はない、が、待たせたくはない。

 そう言われれば、当然の問いだろう。

 そして、その先にあるのは、これまた当然の回答なのだ。


「俺を、ここで働かせてくれないか?」

「え……?」

「もちろん、給料なんてほんのわずかでいい。なくても……よくはないけど……まぁ、いい! その代わり……」


 俺は深々と頭を下げ、大声で言う。


「部屋と飯を提供してほしい! この通りだ!」


 俺には行き場がない。

 宿に泊まろうにも金がない。

 飯だって、結局全然食えてない。

 俺流の稼ぎ方で金を生み出すことは、おそらく可能だろう。

 だが、そのためにはこの街のことをよく知らなければいけない。

 なんの情報もないままに、ここで『商売』をするのはリスクが高過ぎる。

 ノルベールの香辛料をくすね盗ったのが、結局は地味に足を引っ張り、俺の行動を制限してしまっている。

『精霊の審判』にしても、たまたま運がよかっただけで、一歩間違えればカエルにされていたかもしれない。

 それにもし、他の区でギルドに捕まっていたら……


 ギリギリのラインで切り抜けてはきたが……人生の終了は、いつもすぐそこにまで迫ってきていたのだ。

 もう少し、この街のことを知る必要がある。

 そのためには、騙されやすくて、お人好しで、扱いやすい人間のそばに置いてもらうのがベストだ。

 すなわち、ここで住み込みとして働くのが、今の俺にとっては最良なのだ。


 しかし、懸念はある。

 まず、ここにはこの店員しかいないようだ。そんな家に、見ず知らずの男を置くだろうか?

 そして、俺は一度食い逃げをしているということだ。果たして、こいつは首を縦に振ってくれるだろうか……

 ダメでも、今晩一晩だけ、軒先でもいいから寝床を提供してもらいたい。


 だからこその、「飯代を払わせてくれ」アピールだ。

 俺の目的はあくまで踏み倒した飯代の賠償であって、巨乳美少女とお近付きになってキャッキャウフフしたいわけじゃないんだぜ~と、そういうアピールだ。


 上手く騙されてくれればいいのだが……


「嬉しいです!」

「……は?」


 顔を上げると、店員は握り拳を二つ揃えてアゴに添え、身悶えるように体を揺すっていた。

 目がキラキラと輝いて、頬が上気している。

 …………え?


「わたし、ずっと一人でこのお店をやってきたんですが、どうにもお客さんの入りが悪くて……誰か力を貸してくれる方はいないでしょうかと思い悩んでいたところなんです!」

「は、はぁ……」


 店員は、両手で俺の手を掴み、鼻息荒く急接近してくる。


「これって、運命かもしれませんね!」

「いや、それは、ちょっと大袈裟なんじゃ……」

「いいえ! 精霊神アルヴィ様のお導きに違いありません! あぁ、毎日ご奉仕していてよかった……やっぱり、アルヴィ様はわたしたちを見ていてくださったのですね!」


 いや~……たぶんだけどな、神様ってそこまで暇じゃないと思うぞ。


「こちらこそ、是非お願いします! 部屋はいくつか空いていますので、お好きなところを使ってください。掃除はまめに行っていますので、すぐにでも使えるはずです」


 そんな説明をしながら、俺のカバンを手に取り、奥へと歩いていく。


「何か必要なものがあれば言ってください。お金がないので手に入れられないものがほとんどですが、自作出来るものでしたら用意しますので」


 しゃべりながら、ずんずんと奥へ進んでいく。

 俺を置いて。


「あれ? どうされました?」


 俺がカウンター前から動いていないことに気付き、店員は駆け足で戻ってくる。


「いや、いいのか?」

「何がですか?」

「俺を雇うってヤツ」

「はい! ……ただ、お給料は、本当に期待しないでいただきたいのですが……お食事は三食きちんとご提供いたしますので!」

「……お前、一人でここに住んでるんだよな?」

「はい。……数年前までは、お爺さんと二人で暮らしていたのですが…………」


 おぉっと。そんな暗い話は聞きたくないんだ。

 要するに、一人暮らしで間違いないんだな?


「……いいのか? 男を、そんなほいほい家に上げたりして」

「え? ………………………………いけませんか?」


 こいつマジか!?

 マジで危機感がないのか!?

 ビッチなのか!? 見かけによらず超遊びまくっているのか!?

 もしくは、妖精や精霊の類か!? 穢れを知らな過ぎるのか!?


「あのな……俺は、大きなおっぱいが大好きだ!」

「ふぇえっ!?」


 真剣な顔をして……………………俺は何を言っているんだ?

 いや、違うんだ。

 こいつがあまりに無防備過ぎるので……多少なりとも緊張感を持っておいてもらわないと、俺の理性が……いや、いい距離感を保つことこそが共同生活を円滑に運ぶ上で最も重要なことだと、俺は思うわけだうん。……あんまり無防備過ぎると、イケナイことをしてしまいかねない……そうなると、後々厄介なことになるからな。


「え、えっと……わた、わたしは、その……神に仕える身ですので、その、異性の方と、そ、そういった行為は固く禁じられており……それ故に……」

「あぁ、待ってくれ!」


 盛大に慌て出した店員を見て、俺は少しだけ安堵した。

 こいつにも、一応危機感というものは存在しているようだ。ただ、物凄く希薄なだけで。


「別にお前をどうこうしようというつもりはない。そこは信じてくれ」

「はい。信じます」


 だから、早いんだよ、信用するのが……


「ただ、そういうことを踏まえた上で、もう一度尋ねるぞ」


 俺は、真剣な表情で店員に尋ねた。


「俺を雇ってくれるのか?」

「はい。歓迎いたします」


 こいつは…………

 正真正銘のバカだ。

 いやぁ、バカがいてくれて助かった。

 これで、この世界での地盤固めがやりやすくなるってもんだ。

 …………その間、こいつには、ちょっとだけ世間の厳しさを教えてやらなきゃな。


「分かった。お前の信用を裏切らないように努めるよ」

「はい。よろしくお願いします」


 俺が手を差し出すと、店員はなんの躊躇いもなくその手を握った。しかも両手で、包み込むように。……やめてよ、ドキドキするじゃない。

 とにかく、俺たちは握手を交わした。握手とはすなわち、契約の証だ。


「俺はオオバ・ヤシロ。文化圏の違いで分かりにくいかもしれんが、オオバが名字でヤシロが名前だ」


 雇主となる店主に自己紹介をしておく。

 海外に行ったことのない俺は、どうも名前と名字を逆さまにすることに抵抗があってな。俺はオオバ・ヤシロであって、ヤシロ・オオバではない。ワンタイムの関係ならともかく、しばらく世話になる人間には、正式に名乗っておきたかった。


「分かりました。では、『ヤシロさん』とお呼びしますね」


 いきなり名前呼び!?

『オオバさん』と呼んでもらおうと思ってオオバが名字だと言ったのだが……こいつ、合コンで人気出る系女子なんじゃないのか? ……あぁ、こういう娘と合コンしたかったなぁ……


 そんな俺の悲哀には気付く素振りも見せず、店主は俺の手をにぎにぎしながら笑みを向けてくる。

 おぉう! にぎにぎ! なんかにぎにぎしてる!?


「あ、ごめんなさい」


 俺が手を見つめていたからだろうか、店主はにぎにぎをやめて手を放した。


「なんだか、ヤシロさんの手が大きくて……つい」


 こ、これが、噂に聞いた「わぁ、ヤシロ君って手、大きいねぇ」からのにぎにぎコンボかっ!?

 こいつ、やっぱり合コンで人気出る系女子なのか!?

 天然っぽいし、やっぱりそうなのか!?

 

「あ、あのっ、すみませんでした。なんだか、お爺さんの手に似ていたもので……」

「誰の手がシワシワか!?」

「い、いえ! そういうことではなくてですね……とにかく。不快な思いをさせてしまって、ごめんなさい」


 不快だなんてとんでもない!

「この娘手のひらやわらか~い」ってちょっとテンション上がっちゃっただけだ。

 ……ホント、こんな娘と合コンを……具体的には、王様ゲームとかしたかったな…………


「王様ゲームって知ってるか?」

「え? 王様ですか?」

「あぁ、いや。なんでもない」


 あの反応……やっぱりこっちの世界にはないのか……


「あ、あらためまして」


 こほんと咳払いをし、店主は姿勢を正した後で深々とお辞儀をした。


「私はジネットと言います。ジネットとお呼びください」

「…………うん。ジネットって呼ぶよ。それ以外の情報も開示されてないし」

「あ、すみません。ジネット・ティナールです。文化圏が違いますので分かりにくいかもしれませんが、ジネットが名前で……」

「あぁ、いやいい! 分かってるから」


 つか、それ言ったの俺じゃねぇか。

 分かってなかったら、わざわざそんな注釈つけるかってんだ。

 ……こいつ、やっぱりアホなんじゃないだろうか?


 思わず眉を顰めてしまった俺に、ジネットは変わらず太陽のような眩しい笑顔を向けてくる。

 歓迎されているのはよく分かった。だが、あまりに無防備過ぎて少し心配になってきた。

 これはあれか? 保護欲ってやつか?

 まさかな……


 とにかく、これで当面の拠点を手に入れたわけだ。

 この街のことを調べ、金儲けの種を探し……なんなら、この店を乗っ取ってやるのもいいかもしれん。こいつ……ジネットは、それくらいキツイお灸を据えてやらなければ己の愚かさに気が付かないだろう。授業料としてこの店を手に入れるのも、まぁ悪くないかもしれんな。


 視線を向けると、ジネットと目が合った。

 その瞬間、ジネットは小さくガッツポーズを作って、嬉しそうにこんなことを言った。


「これからも、パイオツカイデーで頑張りましょうね!」

「ぶふぅーっ!?」

「にゃっ!? お、お客さんっ!? どうしたんですか!? お客さん!?」


 蹲る俺の背中を、ジネットがそっと撫でてくれる…………

 いかん、こいつと一緒にいるのは相当危険かもしれない…………主に、俺の精神が持たない可能性がある。


 笑顔で何言ってんの、こいつ?

 ……まぁ、100%俺のせいなんだけどな…………



 こうして、俺は四十二区のおんぼろ食堂『陽だまり亭』にて、住み込みの従業員となった。

 仕事内容は主に……アホな店主へのツッコミ、だな。






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