2話 夜、漂ってくる美味しい匂い

 巨大な門をくぐって入ったオールブルームという街は、呆れるくらいにデカかった。

 門の前は広場になっており、そこから街の奥へ片道十二車線くらいありそうな、とにかく広い道が真っ直ぐ延びていた。

 広場には、街の全体図を記した案内板のようなものが建てられていたのだが……一瞬目を疑った。

 その案内板が正確なのだとしたら、この街は東京二十三区くらいの広さがあることになる。

 東京都二十三区を高さ30メートル級の分厚い壁でぐるっと囲ったようなものだ。あり得ないだろう、これ。どんだけ労力と金と時間を使ったんだよ? それとも、魔法でぱぱっと出来ちゃうものなのか?

 だいたい、外壁を持つ街なんて人口一万人程度の都市が限界だと思っていたのだが……


 オールブルームの街は全部で四十二区に分けられており、街の中心部に『中央区』というものが存在している。そこから、放射状に外へ向かって二区三区と番号が振られているようだ。ちなみに、今俺がいるのは三十区らしい。三十区から四十二区が外壁沿いに存在しており、外へ通じる門は複数の区にいくつか存在している。

 三十区といえばウィシャートとかいう貴族が統治しているらしいな。

 そして、このだだっ広い道を進めば中央区にたどり着くらしい。各区に荷物を運ぶため、ここの道はこんなに大きいんだな。


 街並みは綺麗に整理されており、レンガや石造りの家が目立つ。中に木造の建物もあるが、みすぼらしさは一切なく、むしろ木目の美しさが街の中に映える設計がされている。

 モダンという言葉がピッタリくるような、活気のよさとゆとりと遊び心が上手く調和した美しい街だ。

 三十区が特別なのか、他の区もこのレベルなのかは分からないが、文化レベルは割と高そうだ。飯の不味さと衣服の稚拙さから舐めてかかっていたのだが、馴染むことが出来れば快適に暮らせそうだ。


 となれば、早速香辛料を換金して寝床を確保しなけりゃな。

 三十区の領主に売るはずの香辛料を三十区で売り払うのはリスクが高いだろう。よし、隣の二十九区に行こう。結構歩かされそうだが、五百万円のためだと思えば、歩調も軽くなるってもんだ。


 俺はスキップ混じりで二十九区を目指した。







 おかしい。

 この街は明らかにおかしい。


 街の中を獣の顔をしたヤツが二足歩行で歩いているとか、草食系人種向けに雑草の炒め物が置いてあるとか、後ろ姿はすげぇ美女だったのに顔を見たらカタツムリだったとか、そんなことがどうでもよく思えるほどに、この街はおかしい。……いや、カタツムリ女は素で「ギャー!」って言っちゃったけども。

 そんなことよりもだ!


 この街では、嘘が吐けない!

 マジで、吐けないのだ。


 最初俺は、二十九区の食料品店で香辛料を買い取ってもらおうとした。

 すると、街の中での売買にはギルドの会員証か、区の住民票が必要だと言われた。そうでなければギルドに持っていって買い取ってもらえと。冒険者や商人以外で突発的な売買をしたい者は皆、ギルドに持ち込むらしい。

 だが、門の前であれだけの騒ぎを起こした曰く付きの香辛料だ。ギルドに持ち込んだ途端御用になるのは目に見えている。

 そこでなんとか買い取ってもらえないかと交渉をしたのだが……おかしいんだよ、とにかく。


 食料品店の店主はまず、「その香辛料はどこで手に入れたんだ?」と聞いてきた。

 ノルベールが言っていた『精霊の審判』のこともある。嘘は吐かない方がいいだろうと判断して、俺はあいまいな表現を選んで答えた。

「気のいい商人から『いただいた』んだ」とな。

『いただく』には、盗んだという意味合いも含まれる。決して嘘ではない。

 これで上手くいくと思ったのだが……途端に店主が鬼の形相になり俺を叱責した。

「泥棒と取引するつもりはない! 今すぐ出て行かないと自警団へ突き出すぞ!」と。


 あまりの剣幕に、俺は店を飛び出した。

 逃げる俺の背後から店主がしつこく「くたばれ盗っ人野郎!」なんて罵声を浴びせてくれたもんだから、二十九区で俺のことがちょっと話題になってしまったようだ。

 二十九区での取引は諦めて俺は別の区へと向かった。


 二十八、二十七と順に進んでいこうかと思ったのだが、この街は中央区を中心に円を描くように区画整理されているらしい。

 二十九区の右隣が二十八区、その右が二十七区なのだが、二十九から二十七区までは随分と距離がある。綺麗に整理されているが故に、隣に行くには区を横断する必要があるのだ。

 ならば、円の内側へ進んだ方が早く違う区へ移動出来る。

 一番外が三十区から四十二区。二番目が二十三区から二十九区、次が十一区から二十二区、六区から十区、二区から五区と続き、その中心部に中央区が位置している。

 二十九区から見れば隣の二十八区より、内側の二十二区の方が近いのだ。


 そんなわけで、俺は二十二区へと足を踏み入れる。

 気分を一新して、さっさと大金をせしめてやろう。ふっふっふっ……


 しかし、そこでも同じことが起こったのだ。

 上手く言葉を濁したにもかかわらず「このコソ泥野郎! 手癖の悪い腕は切り落としてやるぞ!」と、鉈を振り上げた店主に追いかけ回された。


 誤魔化しが通用しない。

 かといってはっきり嘘を吐くと、きっと厄介なことになる……


「なんてこった……」


 この街では、マジで嘘が吐けないのかよ……


 おそらく『強制翻訳魔法』のせいなのだろう。

 言葉を濁しても、相手にとって馴染みのある言葉に翻訳されてしまうのだ。

 日本語の『私』も『俺』も『ボク』も『拙者』もみんな英語では『I』みたいなもんだ。

『いただいた』は『騙し取った』とか『盗んだ』と翻訳されるのだろう。

 ……厄介な街だ。


 結局、五百万の価値がある香辛料を持っているにもかかわらず、俺は無一文のままだ。

 日本円は正規の通貨だと説得を試みたりもしたのだが……この街ではルーベン硬貨以外は使用出来ないらしい。両替ギルドへ行けと言われた。……ギルドは、今は行きたくないんだっての……


 しかも、盗人が街をうろついているという噂が広まり始めてしまったのだ。

 こうなっては、二十二区にも長居は出来ない。さっさと退散することにする。


 ……が、噂の広まる速度は思っている以上に早く、比較的近くだった隣の二十一区に入った時にはすでに噂が浸透していた。慌てて十区へと避難するも、そこにもすでに噂は到達していた。

 早い。早過ぎる!

 おそらく、そういう情報を伝達する術が確立されているのだろう。ギルドが一枚噛んでいるのかもしれない。

 ギルドというのは、いわば組合みたいなものだ。同じ業種の者が組合を作り、互いに利益が出るように融通したり情報を交換したり助け合ったりしている。その代わり、課される義務もあるのだが。例えば分担金とか、規則とかな。


 なんにせよ、この付近には居づらくなってきた。

 一気に遠くまで行ってみるか……中央区とか…………いや、待てよ。


 俺は改めて街の中を見渡してみる。

 現在いるのは十区。三十区からどんどん街の中心部へと進んできたわけだが……街並みが綺麗だ。凄く整っていると思った三十区よりも、さらに洗練されたイメージなのだ。


 中央区がこの街の中心だと考えると…………数字が少ない方が位が高いのか?

 三十区よりも二十区が、二十区よりも十区が、より金を持っているということなのかもしれない。

 十区の道にはガス灯が建っている。

 これは二十二区には見られなかったものだ。

 それに、十区には劇場のような大きな建物まである。街行く人も高価そうな衣服に身を包んでいる。

 俺の推測はおそらく外れてはいないだろう。

 だとするならば……


 逃げるなら数字の多い……四十二区辺りが最適だな。

 数字が少ないほど高貴な人間が住んでいるのなら、世間の最底辺は数字の多い区に住んでいるということだ。

 この街で最も数字が大きかったのは四十二区。地図上では三十区の右隣に位置する場所だな。


 俺は踵を返して今来た道を引き返していった。

 ほとぼりが冷めるまでは、底辺の街で息を潜めるとしよう。







「崖……とか…………あり、かよっ!」


 俺は三十区に戻り、四十二区を目指して歩いていた。

 そしてたどり着いた区の境は、崖だった。

 遥か下にみすぼらしい街並みが見える。高さにして20メートル程度。ちょっとしたビルくらいの高さだ。

 なるほどなぁ。最底辺の区が格上の三十区に隣接してるってのが引っかかっていたんだが……これなら三十区の人間も安心ってわけだ。

 この高さなら、登ろうなんてバカはそうそういないだろう。ほとんど不可能だしな。

 けど、下りることなら出来そうだ。


 で、俺は今、必死に崖を下りているところだ。

 複数の区を行ったり来たりしているうちに、空はすっかり薄暗くなっていた。

 俺はいまだに宿を決めていないどころか飯すら食っていない。いや、そもそも金を手に入れていないのだ。

 なんとしても四十二区に入らねば。

 今から街の外周をぐるっと回っている時間はないのだ。

 俺の噂も広まっていることだろうし、顔を指されるのはマズい。


「だからって……異世界に来ていきなりダイ・ハードかよ…………つか、異世界に来たら不思議な力とかに目覚めてるもんなんじゃねぇのかよ!? 筋力も体力も高校生レベルじゃねぇかよ!?」


 チート能力とか、神に与えられし力とか、そういうのは一切ないらしい。

 まぁ、三十六歳の体よりかは動いてくれるがな……


「こりゃ……明後日筋肉痛確定だな…………あ、若いと明日来るのか……どっちでもいいわ」


 ビルほどもある崖を、命綱なしで下りる恐怖。

 おまけに酷い空腹と歩き回ったことによる疲労。

 俺の体力は限界だった。


 そして……


 ほんの一瞬気を抜いただけで、俺の体はあっけなく崖から滑り落ち、空中へと投げ出された。


 ……あ、死ぬ。


 こっちに来て何度目かの死の予感に、ほとほと嫌気が差す。

 神様よ、そんなに俺が嫌いかい?


 滞空時間はわずかだった。半分くらいは下りていたからな。

 そして、俺の体は無残にも地面へと叩きつけられ……



 バッシャーン!



 ……バシャン?


 俺の耳に聞こえたのは水音だった。

 俺が落ちた場所は、空気の澱んだ湿気っぽい沼が広がる湿地帯だった。


 助かった……のか?


 体を起こすと、耳の中にごっそり水草が詰まっていた。

 水草を取り、辺りを見渡す。

 うん。生きてるな。

 なんか沼臭いし。俺の五感は正常に機能しているらしい。

 つか……あ~ぁ、服がドロドロ……どっかで洗わなきゃな。これ一着しかないのに……ったく。


 俺が落ちた沼は、深さが膝くらいで、沼底は柔らかい泥で埋め尽くされていた。

 おかげで助かった。臭いけど。まぁ、死ぬよりマシだな。臭いけど。


 沼から出ようと立ち上がると……沼の中で何かが動いた。


 なんだ?

 何かいる…………


 息を殺して沼を注視する……と、一匹のカエルが顔を出した。

 なんだ、カエルか………………………………って、デカくない?


 そのカエルは、体長が80センチほどもあり、なぜか服を着ていた。

 これはアレか、カエル人族とかいうことか? オウム人族とかいたし。

 ってことはあれか、ここに住んでる人か。

 挨拶……するべきだよな?

 突然降ってきた俺は、完全に不審者だろうし。

 いや、客観的に見れば明らかにカエルの方が不審ではあるんだけど、やっぱ先人は尊重するべきじゃん? なので、俺は笑顔でさわやかに挨拶をする。


「や、やぁ! 初めまして」


 どうしても引き攣ってしまうのだが、なんとか笑顔を作って挨拶をしてみる。

 すると、カエルは俺に向かって「ケロケロ!」と鳴いた。

 しゃべれねぇのかよ!?

 なにこの街!? オウムはしゃべるのに、カエルはしゃべらないの? その線引きが分からん。


 まぁいい。

 カエルの生態になど興味はない。

 俺はカエルを無視して沼から上がる。

 その間、カエルはジッと俺を見つめていた。……なんなんだよ、気持ち悪ぃな。


 沼から上がり、辺りを見渡して…………俺は硬直した。


 カエルが……大量にいる。


 沼を取り囲むように数百匹のカエルが立っており、こちらを見つめていたのだ。


「ぎ、…………ぎゃぁぁあああっ!」


 叫んだね。

 軽くトラウマものだぞ、あの光景は。

 ヌメヌメした、体調80センチの巨大ガエルが数百匹、二歩足で立ってジッとこちらを見つめているのだ。

 ホラーだぞ、マジで!


 俺は逃げるように湿地帯を後にし、我武者羅に走り続けた。

 立ち止まればカエルに追いつかれる。そんな気がして。

 捕まれば最後……俺はきっと沼の底へと沈めらるのだ。冗談じゃない!


 途中、幅の広い川に出た。

 流れは穏やかそうだが、如何せん暗い。水深も分からん。

 だが、迂回するような時間はない、つか、心にゆとりがない。

 カエルが、今にも追ってきそうなのだ。


「えぇい、構うか! 飛び込め! 汚れた服も綺麗になって一石二鳥だ!」


 闇とカエルの恐怖から、俺は迷わず川へ飛び込み、懸命に泳いだ。……割と深かった。

 川から這い出し、休む暇もなく再び走り出す。

 それからひたすら、俺は走りに走って、ふと、空腹であることを思い出した。

 そこで俺の体力は尽きた。


 舗装もされていない、土が剥き出しの道に倒れ込む。

 もうダメだ。もう一歩も動けない。


 見上げた空には、九割近くが欠けた頼りない月が浮かんでいた。

 月にすら見捨てられた気がした。

 ……あぁ、最悪。なんだよ、この世界。

 美人はいないし、チート能力は備わってないし、行き倒れていたところを助けてくれたお人好しを騙して香辛料を奪い取ったらあっちこっちで犯罪者扱いされるし…………あぁ、それは当然か。


 結局、俺は人を騙すことでしか糊口を凌げない男なんだな。

 その俺が嘘を封じられちまったんだ……人生終了のお知らせだな、これは。


 と、そこへ……微かにいい匂いが漂ってくる。

 これは…………なんだか懐かしい香りだ。

 子供の頃、暗くなるまで遊び回って家に帰ると、台所の窓から玄関の外にまで漂ってきていた夕飯の匂い。

 そんなものを思い出させるような、優しくて温かい匂いだ。


 俺は最後の力を振り絞って体を起こし、匂いのする方向へ足を動かした。







 たどり着いたのは、一軒のボロい建物だった。

 ドアは閉まっているが、建て付けが悪いのか隙間があいており、中から光が漏れている。

 木製のドアの横、頭より少し高い位置にブリキの看板がぶら下がっている。その鉄板の中央には、ナイフとフォークの形にくり抜きがされてあった。

 ここは……食堂か?


 ぐぅと、腹が鳴る。

 中から漂ってくる香りが胃を刺激したのだ。

 この匂いは堪らん。入るか。

 ……しかし、金がない。

 だからといって諦められる状況ではない。

 なら、どうする?


 ……ガイアが俺に、食い逃げをしろと言っている。


 うん、そうに違いない。

 俺はガイアの後押しもあり、食堂の木戸を押し開いた。


 店内は薄暗く、誰の姿もなかった。

 入って右手にカウンターがあり、奥に部屋が続いているようだ。おそらく厨房があるのだろう。

 左手には四人掛けの丸テーブルが四つ並んでいる。

 土地の値段が安いのか、店は割と広かった。机を倍に増やしてもいけそうだ。

 だが、人がいない。客はもちろん、店員もだ。……もう閉まってるのか?

 ガランとした店内はやけに静かで、終業後のデパートのような物悲しさを醸し出している。


 俺は、恐る恐る店内へと足を踏み入れた。ギシッと床が悲鳴を上げる。

 なんだここは? すげぇボロいな。

 お化け屋敷の中でご飯が食べられる的な店か?

 机は穴だらけ、椅子はガタガタ。床は当然のように軋むし、おまけにべたべたしている。

 明かりも油代をケチっているのか、数本のろうそくが立っているだけだ。


 普段なら絶対に立ち寄らない、間違えて入っても即出て行く、そんなレベルの店だ。

 だが、今はそんな余裕はない。背に腹は代えられない。

 ここで我慢してやる!

 ……まぁ、支払える金など持ち合わせていないのだが。


「誰かいないのか?」


 店の奥へ向かって声をかける。

 と、しばらくして奥から一人の少女が顔を出した。


「あっ! すみません、気付きませんでした!」


 それは、息をのむような美少女だった。

 くりっとした大きな瞳に、果実のように瑞々しい桜色の唇。ゆるく弧を描く頬は真綿のように白く柔らかそうで、肩口で一つにまとめられた髪の毛はふわっとしていて触り心地のよさそうな印象を与える。

 少し痩せ過ぎている感はあるが、小柄な体の割に手足はすらっと長く均整がとれている。

 しかし、それらの好要素をすべて瑣末なことと思わせるような最強のウェポンがその胸元に備わっていた。


 パイオツ、カイデー!


 なにこの巨乳!? 体の栄養全部そこに行っちゃったんじゃないの!?

 安っぽいチュニックに上着を羽織っており、特に胸元を強調する格好ではない。にもかかわらず、自然の摂理へ謀反を起こすかのごとく小柄な体躯とは不釣り合いな膨らみが二つ、地味な衣服を押し上げ『我、ここにありっ!』と凄まじい自己主張をしているのだ。


「パイオツ、カイデー」


 思わず声に出してしまった俺を、誰が責められようか。

 思えば、復讐のために生きた二十年。……おまけにそれまでの十六年もだが……女っ気のない人生だった。こんな巨乳見たことないし、こんな巨乳と話したこともない。

 異世界って、すげぇなぁ。これぞ異世界。ザ・異世界!


「あ、あのぉ?」

「いや、なんでもない! 少し、昔のことを思い出していただけだ……」

「そうですか。それで、あの……『ぱいおつかいでー』ってなんですか?」

「うっ!?」


 思わず漏らした心の声に、巨乳店員が食いついてしまった。

 迂闊なことをした。

 本人に向かって、『君のおっぱいおっきいねってことさ』なんて言えるはずがない! いくら爽やかに言ったところで変態だ。いや、爽やかに言えば尚更変態だ。

 なんとか誤魔化して…………ん?


「なぜ、言葉が通じないんだ?」


 この街ではどんなに濁した言葉も、相手に理解出来る言葉に翻訳されて伝わるはずだ。

 なぜ伝わっていない? いや、伝わってもらっては困るのだが……


「あぁ、それはおそらく、一部の人にしか通じない作られた言葉だからだと思います」


 店員はにこやかに答えてくれる。

 一部の人にしか通じない作られた言葉……業界用語とか、専門用語のことか?

 パイオツとか、総受けとか、wktkとかか?

 なるほど……これは使えるな…………


「それで、あの……『ぱいおつかいでー』とは、どんな意味なのでしょうか?」

「え……あ、あぁ…………それは、その……『笑顔が素敵だ』ってことだよ」

「わぁ、そうなんですか」


 店員は手を合わせ口元に添えると、嬉しそうに微笑んだ。


 って、しまった!?

 思わず嘘を吐いてしまった!

 巨乳に巨乳と言えなかったばかりに、俺は裁きを受けるのか!?


 しかし、身構える俺の体には、なんの変化も現れなかった。

 ……あれ? なんでだ?

 窺うように、店員へと視線を向ける。


 俺と目が合うと、店員はぺこりと頭を下げる。

 そして、顔を上げると満面の笑みで、嬉しそうにこんなことを言った。


「わたしのパイオツを褒めてくださってありがとうございます!」


 …………お、おぅ。どう、いたしまして。


 どうやら、『パイオツ』を『笑顔』、『カイデー』を『素敵』と解釈したらしい。


「これからも、パイオツカイデーで頑張ります!」

「う、うん。あんまり、そういうことは言わない方がいいかな~……なんて」

「あっ、そうですよね。自分で言うことではないですよね。では、お客様に『パイオツカイデーだね』と言われるように頑張ります!」

「うん、そういう客はあまり相手にしない方がいいかもしれないな」

「でも、お客様は言ってくださいましたよね?」

「うん、ごめん。ホントごめん」


 本当のことは、もう永遠に言えないだろう。

 この娘の人生に、大きな傷を付けてしまった気分だ。

 まぁ、いいか。どうせ今だけの関係だ。二度と会うこともないだろうし。


「それよりも、まだ店はやっているのか?」

「あ、はい! 少々お待ち下さい!」


 慌てた様子でカウンターから出てきた少女は、俺の目の前に立つとぺこりと可愛らしく頭を下げた。


「いらっしゃいませ! ようこそ、陽だまり亭へ!」


 そう言って、満面の笑みを浮かべる。

 ……陽だまり亭って…………名前負けもいいとこだな。


「こんな時間に、悪いな」

「いいえ! 材料も凄く余っていますし、全然大丈夫です!」

「いや、余ってるとか客に言わない方が……」

「…………え?」

「あぁ、ごめん。なんでもない。気にしないでくれ」


 あの顔は心底理解していない顔だった。

 きっと頭の弱い子なのだろう。深くは追及するまい。


「それでは、さっそく準備をいたしますね! お好きなお席でお待ちください!」


 そう言って店員は再びカウンターの奥へと入っていった。

 あいつが一人で切り盛りしてるのか?

 ってことは、抜けてそうに見えて、実はしっかり者なのかもしれないな。


 俺は店内で一番足がしっかりしていそうな椅子を選び、腰を掛ける。…………え~ん、グラグラするよぉ……一番まともなのでこれかよ。


 俺が椅子をガタガタさせていると、カウンターの奥から「ジャーッ!」という小気味よい音が聞こえてきた。やはり、あの奥が厨房なのだろう。

 カンカンと、金属がぶつかる音が聞こえてくる。

 フライパンとお玉があるのだろうか。だとすれば、料理の技術は割と進んでいることになる。調理器具の進化は、食文化の進化に追従するものだからな。


 腰を落ち着け、もう一度店内を見渡す。

 古いながらも綺麗に掃除されている。床のべたつきは、もうこびりついてしまっているのだろう。壁のシミや天井の傷みが、この食堂の歴史を物語っている。

 長い間大切に使われてきたのだとよく分かる。


 ……なんとなく、親方の工場を思い出した。


 さっさと買い換えればいいような物も、「体に馴染んでる物の方がいいんだよ」と、ぶっ壊れるまで使い続けていたっけ……………………いかん。なんだかセンチメンタルな気分になっている。この料理の匂いのせいかな。女将さんの作ってくれた夕食に似た、この匂いが昔の記憶をくすぐっているのかもしれない。

 昔のことなんか思い出してもいいことなんかない。

 それよりも今は、今夜の寝床をどうするか……と、ここの支払いをどうするかを考えなくては。

 ………………やっぱ、ここの支払いはアレしかないな。全力ダッシュ。

 まぁ、あの店員、ドンクサそうだったし、逃げ切れるだろう。


「お客さん」

「ぅおっ!?」


 食い逃げの算段をしている時に声をかけられ、俺の心臓が少し跳ねた。

 顔を上げると、目の前に店員が立っていた。

 いつからそこにいたんだ?


「な、なんだ?」


 早まる心臓を気合いで鎮め、平静を装って返事をする。

 すると、店員は満面の笑みでこんなことを聞いてきた。


「ご注文はお決まりですか?」


 ……は?


「いや、お前……もう何か作り始めてるよな?」

「はい、うっかり。それで、もうすぐ完成というところで『あ、注文聞いてないや!』ということに気が付きまして」


 あぁ……この娘、アホの子なんだ。


「…………じゃあ、その完成間近のものでいい。それにしてくれ」

「いいんですか!? よかったぁ……お客さん、優しい人なんですね」


 優しい……?

 俺が?

 これから食い逃げしようって男が、優しい?

 ははっ、笑ってしまうな。まったく、世間知らずなヤツだ。


 店員が厨房へ戻り、俺は壁に貼られたメニューに視線を向ける。


『クズ野菜の炒め物 …………20Rb』

『川の魚の焼き魚 …………25Rb』

『獣の肉の煮込み …………30Rb』

『川の魚の煮込み …………30Rb』

『黒パン …………25Rb』

『白パン …………80Rb』


 ……パンが一番高いってどういうことだよ。

 あと、ネーミングが酷過ぎる。なぜいちいち『クズ野菜』などとバカ正直に書いているのか理解に悩む。

 そして、白パンの文字は太い二本線で消されている。メニューから外したのだろう。おそらく注文する者がおらず、仕入れなくなったのだ。

 まぁ、ここで買うならパン屋で買うわな。二十二区で見かけたパン屋に並んでいたパンは70Rbほどだったし。店の利益分だけ、ここのパンは割高になっているのだろう。


 にしても、この店は商売する気がないのかと疑いたくなるな。

 いろいろと酷い。

 客が来たことに気付かない店員もそうだが、無いメニューを二本線で消したまま表示していることもそうだ。残念な気持ちになるだろう、たとえ食べるつもりがなかったとしても、「あ、これは食べられないんだ」という、ちょっと損した気分にさせられる。

 店員は可愛いんだけどなぁ。……ちょっとアホだけど。


 と、そんなことを考えていると、アホの店員が皿を持ってこちらにやって来た。


「お待たせしました。クズ野菜の炒め物です」

「なんでいちいちクズ野菜なんて言うんだ? 普通に野菜炒めでいいだろう?」

「でも、クズ野菜は嫌だというお客様もいますのであらかじめ伝えておきませんと」


 バカ正直にもほどがある。


「さぁ、どうぞお召し上がりください。お口に合えばいいんですけど」


 手を後ろで組み、気恥ずかしそうに俺を見つめる店員。……食うとこ見られるのか、俺?

 特に気にしないようにして、クズ野菜の炒め物を口へと運ぶ。


「んっ!? 美味い!」

「本当ですか!? よかったぁ」


 クズ野菜だから大きさはバラバラだが、そこが逆にいいアクセントになっている。

 ニンジンのヘタや菜っ葉の切れっ端のようなものが混ざっているにもかかわらず、生焼けのものや火が通り過ぎたものもない。火の通りやすさを考慮して個別に炒めてある証拠だ。

 食材が悪い分、手間暇をかけて美味しく調理する。

 女将さんがよくやっていた、心のこもった調理法だ。


「それでは、ごゆっくりしていってくださいね」


 俺の反応に満足したのか、店員はぺこりと頭を下げるとカウンターの奥へと戻っていった。

 空腹も手伝って、飯を口へ運ぶ手は止まらなかった。

 懐かしい味に、また過去の思い出がよみがえる。

 俺が美味そうに飯を食う様を見つめる、女将さんの嬉しそうな顔が頭をよぎる。


 クソ真面目でお人好し。そして、妥協をしない姿勢。

 あの店員は、俺の両親にそっくりだ。


 …………だからこそ、ムカついた。


 あんなお人好しは、きっと誰かに騙される。

 騙されたのに、それに怒ることすらせずに、周りの人間に迷惑をかけまいと自分一人で奔走するのだろう。あいつはそういうタイプに違いない。


 第一、店に俺一人のこの状況で、なぜ奥へ引っ込む?

 片付けなら後でも出来るだろう。俺が逃げないと、なぜ思い込んでいるのか……


 これはちょっと、現実を思い知らせてやる必要があるだろう。

 お人好しがどういう目に遭うか……

『騙されるヤツがバカなんだ』ってことを、身をもって思い知るがいい。

 ……まぁ、どっちにせよ金がないから逃げる以外に選択肢はないんだけどな。


 目の前の皿は空になっていた。菜っ葉の切れ端一枚残っていない。

 腹も膨れたし、これなら十分走れるだろう。

 だが、それではダメだ。

 ここで走って逃げるだけじゃ、あの店員は気が付かないだろう。騙されることの愚かさに。

 だから、もっと分かりやすく、徹底的に騙してやる。

 信じた上で裏切られる。その悔しさを味わうがいい。


 俺はカウンターまで歩いていき、肘をかけて奥の厨房に向かって声をかけた。


「店員!」

「はぁ~い!」


 俺の呼びかけに、店員はパタパタと足音をさせて厨房から出てきた。

 のんきな顔をして。


「すまんが、手洗いはどこだ?」

「お手洗いは、店を出ていただいて、裏に回っていただくとございます」

「……店の、外にあるのか?」

「食堂の中にお手洗いは……」


 なるほど。失念していた。

 この世界では下水が整備されていないんだ。つまりは汲み取り式だ。それも、相当原始的なものに違いない。

 確かに、食堂の中にそんなもんは置けないよな。


「じゃあ、ちょっと借りるぞ」

「え、あの……でも」

「心配しなくても、財布を置いていく」


 そう言って、空にした財布をカウンターへ載せる。

 店員がホッとした表情を見せる。

 財布を置いたことで、俺が代金を支払わずに逃げることはないと思い込んだのだろう。空の財布だとは知らずに。

 勝手に人の財布を開けるヤツなんかいないし……これで逃げる時間はいくらでも稼げる。

 お前はそうやって俺を信用して……まんまと裏切られればいい。


「じゃ、行ってくる」


 ――どこか、別の区までな。


 俺はそう言い残して店を出た。

 念のため裏に回り、一度トイレを見に行く。……汚い床に穴が開いただけの、なんとも原始的なトイレだった。いや、これはトイレと呼ぶのもおこがましい。便所か厠といったレベルだ。

 悪臭を放つ便所を後にし、俺はそのまま食堂を離れた。足音をさせないように、出来るだけ急いで……


 食堂がすっかり見えなくなったところで、俺は一度振り返り、あのお人好しの店員に向けて一言だけ言ってやる。


「世の中にはな、悪人の方がずっと多いんだよ。勉強になったな」


 夜はすっかり深くなり、俺は野宿を決意する。

 川でひと泳ぎしたせいですげぇ寒い……

 どこか雨風が凌げそうな場所を探して、俺は四十二区の中をさまよい歩いた。






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