十九 忘却されし物語

 忘れられていた過去があった。それらはそのまま風化するかと思われたが、決してそうはならなかった。

 村雲翼の過去――それは彼女が恐らく一般的に言われる“普通”であった頃のこと――彼女が生きた、中学時代の話だ。






「今日一緒に帰ろうよ、翼」

「あーっ……と、私今日部活があって。ごめんね」


 友達との会話を終え、翼はその友達へ手を振って別れる。


 これから向かう先は、体育館。

 中学二年生の翼は、バスケットボール部に所属していたごくごく普通の女の子であった。


 村雲翼、身長一五二センチ、体重四〇キロ丁度、A型。義瞞ぎまん中学校二年A組所属の十四歳。

 性格は大人しめで目立つこともなく、数人から形成される女子グループの輪に入ってはいるものの自らが発言することも提案することも滅多にないので印象としては薄いの一言。


 艶やかな黒髪は肩口に切り揃えられ、人形のような精巧な顔立ちをしていることからクラスの男子生徒からは密かな人気もあったかと言えばあっただろう。


 休み時間には自分の席で本を読んでいたりグループ内で談笑したりと、その枠から外れる行為は全くといってない。放課後のバスケットボール部での活動以外に特にこれといった活動らしき活動はしておらず、コミュニティは狭かった。


 素行も良く学業の成績も良く、模範の生徒であることは確かだ。学外での問題も特に存在せず、一人っ子で共働きの両親の実家に暮らしながらも決して悪い遊びなどはやらず、深夜外出などもない。毎日の就寝時間は決まって夜九時半と、品行方正の女の子だった。


 そんな彼女にも、春が来ることはある。

 お世辞にもコミュニティが広いとはいえなかった彼女がどんなきっかけで出逢いを果たしたのかどうか、一ヶ月前から付き合い始めた男子生徒がいた。名は斉沙木さいさぎすこやか。同じく二年A組に所属する、クラスでもかなりの人気を誇る男子である。


 部活帰りのこと。部活着のまま帰ろうとした翼は、校門の前で待っている男子生徒――健が待っていたことに気が付いた。慌てて部の女子達から離れ、急ぎがちに健の元へ向かう。


「ど、どうしたの……?」

「や、今日は僕も部活があってね。早めに終わったから、一緒に帰ろうというだけの話さ」


 彼は陸上部に所属している。しかし、普段翼が部活を終える頃に陸上部員の姿を見たことはない。

 少し、いや、かなり待ったはずだ。


「あ、ごめん……」


「気にしなくていいよ。それにしても翼は汗だくだな、ホラ、疲れたろう? 飲むかい」


「えっ……臭く、ないよね」


「いいや。それに、異性の汗は臭くは感じないものだよ。不潔であれば別だけど」


「不潔じゃないし……」


 健から渡された炭酸飲料を両手に持ち、翼はどきりと身を震わせて自身を見やる。タオルで拭きはしたが、髪は汗で肌に張り付き、部活着は汗でところどころが濡れている。ジャージを着ていたお陰で透けているかもしれない下着が見えてしまわなかったことに安堵し、翼はほっと溜め息を吐いた。


 しかし背後の方でバスケットボール部員の女子達が翼を冷やかしている声が微かに聞こえてくることに気付き、安堵も束の間、頬が高潮してしまう。


「行こうか」


「う、うん」


 だから、健のその提案が助け舟となって、二人は校門から姿を消した。

 そういった日々が、しばらく続いていた。


 斉沙木健という人物はクラスの人気者である。成績はそれほど良くはないが人間関係においては完璧だ。人の話をよく聞き、かといって頷くだけではなく時には建設的な意見を述べたりもする。面倒見が良く、周りが見え、空気が読めて他人に気を回すのが上手な人間。クラス、学校行事にも積極的に参加しているため、彼の人気は常に高かった。それに加えて悪い噂なども出回っておらず、中学生としては出来過ぎとも言える人間性であるが。

 少なくとも翼が普段関わるタイプの人種ではないことは確かであった。


 交流のきっかけは、掃除当番の時である。たまたま彼と一緒に掃除をしていた時に、向こうから話を振ってきたのが始まり。


「村雲さん、だよね」


「……? はい」


 回転箒でゴミを集めていた健がふと呟いたのは翼の名前、それに返事をすると彼は無邪気に笑ってこう返してきた。


「確か女バスの子だったよね。今、大会前で部活が忙しい時期なんだろう? 後は僕がやっておくから、よかったら部活行ってきなよ」


 それまで翼は健と話したことは一度もなかったが、その印象や評判通り――確かに気が回る人物だと感じた。


「どうして、それを?」


「いやね、今日僕は掃除当番を代わった身なんだけど、本来掃除するはずだった楠野(くすの)がそう言ってた。彼は男バスだけど、同じように女バスも忙しいらしいじゃないか。幸いにも僕にはこの後の予定というものは存在しないし、折角なら君の分もと思ってね」


 どうして自分がバスケットボール部に所属しているのか、とも聞きたくなったが、翼はそれを言うことはしなかった。

 彼は端から見ているだけでも分かるような、そういう人間だ。勉強に回せばいいその記憶力は人間関係に全て使われているのではないかというほど、他人のどうでもいい情報を覚えている。

 恐らく誰かとの話でたまたま耳にしたのではないか、と勝手に納得した。


「私補欠だから、別に大会には出ないから、いいよ」


 一軍ならともかく、翼は二軍にも入ることのない補欠メンバーだ。部活も頑張ってはいるが特出した点もなく、そのお陰か二軍上がりなどは一度もない。

 翼はそれなりの動きは出来るし、ミスも少ない。しかし、もう一歩先の技術を身に付けなければ自分は試合に出られないということは十二分に理解していた。


「……あ、そうなんだ。ごめん、お節介言って」


「ううん、気持ちだけで嬉しいから。ありがとう」


 そんな彼も流石に翼の部活事情までは知り得ていないようで、まあ当然といえば当然のことなのだが、翼はくすりと笑った。


「斉沙木君って、優しいんだね」


「そんなことはないよ。ただできることをしているだけで、別に優しくしてるつもりはないかな」


「優しいと思う。見ず知らずの私にこう言ってくれる人、斉沙木君以外に見たことないよ」


 こうして雑談を交わしながら掃除を終え、翼は部活に健は帰宅と別れていく。そんな些細なきっかけ、共通点といえばその程度くらいなものであった。


 それからというものの、翼には接点が一つだけ増えた。それは休み時間、たまに健とお話をするだけのことではあったが。彼女の世界はそれだけでもずっと広がった。普段聞くことのない男子の日常、価値観の違いなども知り。


 これまで男性との関わりが皆無だった翼が健に興味を抱くまでに然程の時間は掛からず、付き合う運びとなったのである。


 問題が起きたのは中学三年生に入った春、四月中旬辺りのこと。翼と健は付き合ってはいたが、その関係が周囲に知らされることはなかった。そのため学校での翼は依然として空気の薄く目立たない生徒のままであり、健は以前と変わらずクラスの人気者であり、休み時間に少し会話をするだけの関係は変わらなかった。

 そんな彼と遊ぶ時の大半は翼の家である。何をするといっても雑談を交わしたり、彼が持ち込んだ漫画を読んだり一緒になってゲームをしたり、たまに電車を使って遠出してファミレスで外食やショッピングを楽しんだり。

 それ以上のことはしていない。男女がすることの知識も翼は知っていたが、健とは“最後”までその行為をすることはなかった。


 そう、最後とはつまり、健との恋愛における関係性の破滅という意味での最後である。






「どうして、他の女の子と遊んでた……の?」


 健が翼の家に遊びに来た時、そこで初めて翼はそう言った。

 ――最初にそれを発見したのは十日も前のこと。たまたま急用が入って健との予定が崩れた翼は、たまたま外で“健が別の女の子と歩いている姿”を発見した。

 たったそれだけ。だが一緒に歩いている人物は、翼がそれなりに会話もしているクラスメートの女子だったことに衝撃を感じていた。ただそれだけのことだったが、そこから翼は十日間わざと健との予定を蹴って、こうして外部から健を尾行していた。

 結果。この十日の内、翼との予定が無くなった彼は、必ずその女子と一緒にいる事実が判明した。これはもう――“確定”してしまったのだと。

 そう判断した翼は自ら自宅に健を呼び、勇気を振り絞って彼に問う。


 健はそんな翼を見て、至って普通の顔でこう呟いた。


「翼との予定がないから、かな」


 まるで友人同士の会話のように。淡々と――それが翼には解せなかった。


「私と、健は……付き合っているんだよね」


「そうだね。僕と翼は恋人同士だ」


「それじゃあなんで、別の女の子と――私が居ない日に、毎日っ……」


 それ以上続きを話すことはできなかった。翼の頭は健に撫でられ、身体が萎縮する。

 どうして、なんで。それしか浮かばない脳味噌は、未だ彼の行動の全てを理解できずにいた。


「とりあえず、部屋上がってもいいかな」


 そう、何事もないかのように言ってのけた健に――翼は小さく頷くことしかできなかった。

 部屋に上がった健は翼の先程の言動に激昂するでもなく殴るでもなく謝るのでもなく、ただただ上着を脱いでベッドの端に座った。

 そして、一息吐いた後に翼を見る。その瞳がいつもと同じ輝きを保っていたことに、ぞくりと背筋が凍えた。


「つまり、翼はあれかな。僕が他の女の子と遊んでいるところを、陰で見ていたわけだ」


「そう、だよ。浮気……でしょ? じゃないの?」


 逆にこうまで冷静だと、本当に彼が浮気をしていたのかが分からなくなってくる。本当はただ仲の良い友人だったりするのではないか。ただ自分が勘違いをしていただけではないのか。


「それを浮気と思うかそうでないと思うかは翼の感性に任せるよ。でも僕は、彼女ともお付き合いをしているよ。だから翼が駄目な日は彼女と一緒に遊んだりもする。これは事実だね」


「え……?」


 翼は、一瞬彼が何を喋ったのか分からなかった。


 彼はこう言ったのだ。彼女ともお付き合いしている、と。それはつまり翼以外とも付き合いがあるということに他ならず、間違いなく浮気をしている。

 だのに。何故、こうも平然としているのか――。


「なん、で」


「なんでかと言われれば、僕は彼女のことが好きだから付き合っているんだろうね。勿論、翼のことも好きだからこそ付き合っているんだよ」


 ――違う。何かがズレている。そう思った時はもう遅かった。


「ああ、ああ、翼は今もしかして“僕がいけないこと”をしていると思って、“僕に問い詰めている”んだね。それって僕が複数人の女の人とお付き合いをしているからで、それが“いけないこと”だからなのかい?」


「何を言っているの。当たり前、でしょ……? なんで浮気したの……?」


 出方次第では翼も怒ろう、とそう決めていた。なのに、健の発する言葉が、台詞が、単語が、分からない。彼が何を言っているのかが、全く理解できない。


「僕は別にそうは思わないよ。複数の人が好きなら付き合えばいいと思っているし、別に翼が他の男と何をしていようと悪いとは思わない。だから翼のそれは“偏見”だよ」


 まるで自分が可笑しいのだとでも言われているような、諭されているような、そんな口調で。


「ああ、もしかして翼が怒っているのは――昨日、僕と彼女が寝たことかい?」


 そう、言った。

 翼の中でぐるぐると彼の言葉が回り、黒い感情が渦巻いていく。今、なんと言ったのか。


「まだ翼とは寝ていないからね。愛が足りなかったってことなら……そうだね。じゃあ今日にするかい? 最初は痛いだろうから、勿論激しくはやら――」


 翼の拳が、健の顔面を殴り飛ばした。ベッドに仰向けで倒れた健に、翼は馬乗りになって殴りかかる。


「おかしいよ! ふざけないでよ! どうして私以外の女の子と付き合っているのかって、言ってるの! どうして私以外の女の人と、普通は、だって、私は健と付き合って……」


「――初めて名前だけで呼んでくれたね。いつも恥ずかしがっていたからね、嬉しいよ、翼」


 その顔を思い切り殴りつけようとして、健の手にその腕を締め上げられた。


「でも、どうして僕を殴るのかがよくわからないのだけどね。翼は一体どう考えているんだい、普通は恋人は一人って思っているのならそれは違うと思うんだ。実はこんなことが前にもあってね――」


「嫌っ……嫌ぁ!」


 男の力はここまで強いのか、と眉根を寄せた瞬間、健に腕を捻られて逆に翼が押し倒される。今度は彼が上に。最早彼に抱く感情は、恐怖に塗り潰されていた。


 そして彼の目は、そんな色に満ちていた。

 見るだけで凍えてしまうような、遠くを見つめているような、冷徹で怜悧で恐ろしい目に。


「そう。確かあれは同じクラスメイトの佐奈という女の子だったかな。彼女も同じように“そんなのはおかしい”と言ってきた。彼女が言いたいのはつまり、僕が色んな女の子と同時に付き合うのは駄目だって、そう言いたいらしいんだ。結局僕が彼女と別れるということで終わったんだけど、終わったら彼女は僕に嫌がらせをするようになってしまった。あることないこと変な噂を流したり、男の先輩が僕にちょっかいを出してきたり。でも、僕は悪いことをした覚えはなかったのでね。本当はやりたくなかったんだけど、友達や関わりのある大人達に色々と話をして貰って、皆は僕の話に耳を傾けてくれてね、それでケリを付けたんだ。お陰で僕が爪弾きにされるようなことはなくなった、ああして佐奈も何事もないかのように生活しているよ。でもそれっておかしくないのかな。佐奈は僕と考えが合わなかったから別れたんだろう? じゃあどうして何もかも終わったはずの僕を貶めようとするのかな……ずっと分からなかったんだ。でも翼もそう感じているんなら、翼に聞いてみよう。ずっと気になっていたんだ。どうして“複数人とのお付き合いがいけないんだい”?」


 それは最早狂気であった。翼は今すぐにでも彼からの拘束を振り払って逃げたかったが、それができたら苦労はしない。大声を出しても家族はいない。誰も助けに来てくれる状況でもなく、結局は彼からの質問に答えるしかなくなってしまった。


 彼の目はずっと輝いていて真っ直ぐだった。

 それが怖かった。純粋に。圧倒的に。


「浮気をされたら……悲しいから、じゃないの」


 そうだ。

 翼は純粋に悲しかったのだ。初めて付き合った男がまさかこんな人間だとは。表での彼はもっと気配りができる人間で、全くそうではなかったのに。いつでも他人のことを正確に見抜いていたのに。どうしてそんなことが分からないのか。

 浮気をされた翼がこうして泣いているのに、答えを貰った彼が平然と納得した様子で頷くのは何故なのか。


「ああ……悲しい、か。なるほど」


「そうだよ。私は浮気されて、悲しい。とっても、辛い」


「じゃあ、僕と君は単純に合わないってことなんだね。翼は浮気をされると悲しくて、僕は悲しくない。それって決定的で致命的な欠陥だとは思わないかい。僕は翼の全てを許容するつもりでいたけれど、翼が許容できないならどうしても綻びが生まれてしまう。それは恋人関係を続けるにはとても重い壁で、枷だと思うんだ。そうなると翼は僕のことが好きではなくなることになる。でも告白したのは翼からだったから、これは矛盾だね。どうして矛盾が生まれてしまうのだろう」


「もう、離して……退いて、近寄らないで……」


「まぁでも、僕のことを知ったのが最近なら仕方ないね。翼、どうする? 僕は今でも翼のことが好きだけど、翼が僕のことを好きじゃなくなってしまったのなら仕方ないと思う。僕も翼のことを諦めるよ。そう、人間の心は直ぐに移り変わってしまうからね。翼が僕と別れるというのならそれで構わないよ。それが人生というものだしね」


 斉沙木健は、根本的に話が通じない人間だった。しかし普段のその性格からは全く本性が掴めず、クラスの人気を我が物としている。

 そういう化物。

 完璧な人間という皮を被った、ナニカ。

 ずっと、そうだったのだ。


 翼はがたがたと口を震わせながらも、決死の思いで叫んだ。


「離れて……! 別れて! もう、私に近寄らないで!」


 掴まれていた腕が、離される。健は、翼を見て何度か頷いた後、こう呟いた。


「それじゃあ、後始末をしなきゃいけないね。僕ももう同じような失敗はしたくないんだ。翼が佐奈のように僕を貶めに来ても困るし、それができないように今から色々と手を回すからね。最初は辛いだろうけど、少し我慢していてね。そうすれば佐奈のように、大人しい生活に戻れるよ」


 全てが終わった。

 何事もないような顔つきで玄関から出て行く健をただただ見つめ、なんとなく翼はそう思っていた。

 それからというものの、別段特に生活に変化はなかった。翼が健を貶めてやろうと思っていなかったというのが最たる理由なのかもしれなかったが――そう、特に変化はなかった。いつもの女子グループと話し、勉学に励み、部活もそれとなくやっていく。無くなったのは健と一緒に居る時間だが、それは別にどうでもよかった。


 だが。今までとの明確な差を、翼は感じていた。


「――何かが、違う」


 別に普通だ。唐突に周りからいじめられることもなければ、友人関係にこれといった変化が発生したこともない。ただ強いていうなら――。


 翼に関わる全ての人間の“何か”が違うような。そんな気がした。

 ナニカが。


 そうしてから翼の“何か”が壊れ、いつの間にか毎日のように健を遠くから尾行し続け、最終的には殺してしまうことになるのだが――それは、ただの後日談だ。







「――そうか。君だったのか」


 力ない瞳で僕を見据える“斉沙木さいさぎすこやか”を見やり、ふと呟く。殺したはずだったのが、化身になっていた。それならば翼に警察の手が回らないのも頷けるというものだ。

 何故なら彼は死んでいないのだから。では、彼と一緒に居た女子生徒の女はどうしたのか。果たして彼女も化身か狂人かのどちらかに成って生きているというのか――今更となってはどちらでもよかったが。


 頭一つ分がぎりぎり詰められそうな黒箱にその頭部が入れられるところまで確認した後、ようやくそこから視線を外す。


「まあ、全てが終わったことだ」


 斉沙木健――いいや。【血】はこのようにして捕まった。彼が何を成さんとしていたのかは知るところではないにしろ、もう彼にできることは何も無い。化身として捕らえられた後は、研究が完成するまで永遠に実験台とされるであろう。

 彼は敗北したのだ。


「水子、こいつらの記憶改竄は終了した。丁寧にやったから思い出さないとは思うが、なんかあったら連絡をくれ」


「そうじゃの。ではまた機会があれば、共闘でもしようじゃないかの」


「結構だ。争いはないほうがいい」


「ほっほ……その通り、じゃな」


 翼の腕が引かれる。彼の方を見やれば、彼はこちらを見ることもなくこう言った。


「おいどうした。帰るぞ」


「……ああ。そうだね」


 変な過去を変なタイミングで思い出したものだ。水町薫の横顔をしばらく眺めていた翼ではあったが、静かに首を横に振った。


「――別に似ていない、な」


「何がだ」


「いや。何でもないよ」


 どうして彼と姿が重なって見えたのか。今となっては――もう、覚えていない。恐らくは重なった姿のベクトルが違っただけ、なのだろう。

 研究員の車に乗り込んだ翼は、霞町に帰るまでの間、しばらくは得も言われぬ感傷に浸っていた。

 こうして【血】が引き起こした一件は、収束して終わりを迎えた。

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