十八 血塗れのイデア

「――がっ、あ、っ」


 翼が階下に到着した時、見えた光景は水町薫が【血】の触手に貫かれているところだった。しかし動ずることはない。

 その彼は“偽者”だからだ。触手に貫かれた彼は霧散して消滅する。本人は鞭の範囲外へ避け、一瞬翼の方を見た。


「他は終わったようだね」


 周囲の状況を確かめるが、敵方の化身は見当たらず。唯華を抱きかかえるリーフェと水子がいるのみだ。

 では残るは【血】のみか。


 なら、共闘と行こうじゃないか。


 瞬間移動ができないために翼の機動力は封じられているが、新たに【白銀世界】が顕現している。

 元々の能力が使えないということを【血】に知られるわけにはいかないが――初手さえ受けてしまえば、あとはこちらの一方的な戦いだ。

 奴の能力に隠密の文字はなく、翼が認知できない攻撃など存在しないのだから。


「あぁ。君も勝ってしまったのか……僕一人と君達全員では、少々分が悪いね」


 血の仮面に覆われた彼は、半径五メートルほどまでに展開された血液のフィールドと触手を以ってして、そう呟いた。

 そうか、そこまで追い詰められているのか。先程一撃を入れた時に感じたが、彼も攻撃されればされるほど扱える血の量が多くなるようだし。


「残念じゃが、逃げられんよ。私がこの空間と外界を隔絶させるよう凍結させたんじゃ……それでも逃げたいのなら、私を殺してみせい」


 水子は不敵に笑った。完全に追い詰めた、そう言っているのだろう。


 重ねる戦いによる手負いの化身。片や二つ名持ちの狂人が三人と、翼の持つ【白銀世界】。どうなるかは明らかな状況だった。


「この中で一番戦いの経験のある君を殺して逃げる……そのようなことができているのなら、君達は既に死んでいるさ」


「そうじゃろうな」


 しかしながら【血】もしぶといものだ。あのような結界紛いの場を展開されてしまうと、容易に近づけない。近接戦闘の水町薫ではあれに近づくのも厳しいのだし、リーフェは唯華を置き去りにして戦おうとはしないだろう。

 水子も大したことを仕掛けない辺り、【血】の結界までもを破る術はないとみた。


 ならばこそ、攻撃されて初めて能力の発動が可能な翼が戦うのは道理だ。


「ふむ。僕があの結界を崩してみせようじゃないか」


 大仰な身振りと手振りで【血】を煽りつつ、翼は悠々と彼の下へと歩いてみせる。


「へぇ、そう無防備でいいのかい?」


 仮面越しに薄く嗤う【血】は、その触手を翼の前に突きつけようとする。

 それを強化された身体能力だけで躱し、吐き捨てた。


「やれるものならやってみるがいい。君では僕に傷一つ付けることすら不可能だ」


「……言うじゃないか」


 明らかに【血】は苛々している。そうだ、そうやって視野を狭めて考えの幅を少なくすればいい。

 四面楚歌、絶体絶命の状況下。どんなに強かろうが、これだけ囲まれてしまえば冷静さを掻くのも当然だ。雷に空間操作、存在そのものに干渉する水子。相手を欺く水町薫に、【白銀世界】を手に入れた翼。


 現在リーフェと唯華の支援は期待できないが、それでも十分すぎる戦力と言えるだろう。翼が前線で戦い、水子に後方支援をして貰いながら止めを水町薫に任せればいいのだ。


「来ないのなら、僕から行こう」


「――村雲、待て!」


 水町薫の制止は聞かない。そのまま床を蹴り、【血】へ突っ込んだ。


「……おや?」


 だが。

 それは、【血】が全力で避けることで完璧に躱されてしまった。血液の鞭は回避の速度を上げるための加速に使われ、翼から逃げるようにして血液の膜が開き、【血】は斜め後方へと後退する。


 それには翼も予想外だった。そのまま攻撃に転じればいいものの、彼はそうしない。翼に静止を掛けた水町薫も、【血】が逃げに徹したことに疑問を感じているようだ。


「……何か策を隠しているな、“村雲翼”」


 翼は次の攻撃を行おうとして、不可解な言動に眉を顰めた。

 この警戒のしようは少々可笑しい。


「どうして能力を使わないのだろうか? 僕はこう思う。君は何か奥の手を隠しているのだ。でなければ“中学の頃”と違って聡明な君が、無策に突貫してくるはずがない」


「へぇ。中学の頃、ね」


 仮面の中からでも嗤っているようにしか見えず、翼は渋面を作った。この状況下に落とされてまでまだ冷静に行こうというのか、【血】よ。


「言ったろう、僕は君のことを知っている。何でも知っているよ。その頃の君は馬鹿で単純だった、合っているだろ」


「気味の悪いことだ」


 ぞくりと走る寒気を感じ、ぶるりと身体を震わせる。この気持ち悪さはどうにも拭えないな。【罠】とはまた違う恐怖だ。何でも知っているとは、大胆にも限度がある。


「考察に戻ろう。君は上の階で【白銀世界】と戦っていたね……実は僕にはずっと懸念があったんだ。それは【白銀世界】と利害が一致しなかったことだよ。かといって目的が拮抗するわけじゃないのだけど、そういう相手を僕は信じないことにしているんだ」


 水町薫も水子も、【血】のする話に耳を傾けているようだ。今は聞くべき時か、と翼も動かず彼を見据える。あの仮面の下は、まるでこちらの心でも読んでいるようだ。

 ここまで見透かされた口調で話されると――見抜かれているのではないか、と思う。いいや。


「もしもの話をしよう。【白銀世界】が僕のことを邪魔者だと思っていて、排除するきっかけが欲しかった。そこで敵である君に協力を申し込んできたとしたら? 奴の能力は知っている、それをずっと考察していた。だから僕は、奴の弱点を隅々まで熟知している。そして――」


 翼の身体が、何かに貫かれた。


「万が一君と【白銀世界】が身体(しんたい)を共にしていた場合の可能性を考え、僕は君の“死角”を狙って確証を得ることにしよう、というわけさ」


「な……」


 死角からの攻撃。翼が腹部の傷口へ目をやるその時には、もうどこにも証拠は残っていなかった。ぼたぼたと流れる血液が、能力発動の失敗を示している。

 やはり、勘付いていたか。


「その顔。正しいみたいだね。君は【白銀世界】と同化したのだろう? そうだろう? 村雲翼」


「そうか……君は思慮深いな。その通りだよ」


 口から血を吐き、修復を始める身体を案じて大人しく下がった。やはり遅い。いくら同化の力で回復力を得ているとしたって、翼自体は狂人ではなくなっている――のだ。早く化身か狂人の血液を投与しなければならない。


 すっかりペースを戻され、【血】は半ば安堵したように深い溜め息を吐いた。


「危なかったよ。僕の心配性な性格がいい方向に進んでくれたみていで、よかったよ。もう少し判断が遅れていたら、君を攻撃するところだった。――でもこれで、君の血も手に入れた。良かった良かった。心の底から嬉しいよ、そうは思わないかな」


 水町薫は下がる僕の前へ立ちはだかり、後ろも向かずに激怒する。


「だから待てと言った。村雲」


「……済まない」


 翼の早計が招いた結果だ。謝る以外に他はない。この判断の失敗がどこまで響くのか、【血】の言動が少しばかり気になるが。


「水子、悔しいが俺達は撤退だ。“血”が吸収されちゃ、村雲が危うい」


「そうさねぇ……仕方ないのう」


 水町薫の判断に水子が同意する。

 そうか。血を取られるということは、そこまで危ないことなのか。だがもう遅い。翼は【血】の攻撃で血を流すこととなった。その血は彼が手にしている。


「血を取られると、どんな効果があるんだい?」


「奴に能力が通用しなくなるのと、血を持った相手と相対すると限定的に奴の力が倍増する。だからこっちは一度でも血を吸われれば勝ち目は薄くなるんだ。わかったな、お前を守りながら今のこいつを相手にするのは危険だ。他の化身を捕らえられただけでも上出来と思え」


 早口に捲し立て、彼は水子へ指示を飛ばす。それにより水子が凍結したという空間を解除したのか、【血】は周囲を確認してから面白そうに嗤った。


「僕を逃がしてしまっていいのかい? 捕まえられる時に捕まえるのが最善だと思うよ、僕は」


 捨て台詞を残して宙へ浮かび、地を纏いながら出口へ背を向けたまま後退していく。


「ああ、そのようだな。だからお前にはここで捕まって貰おう」


 その胴体が唐突に四散し、細切れになって消滅した。呻いた【血】の頭部が破壊され、その頭部が背後から何者かに掴まれる。

 翼には一瞬何が起こったのか分からなかった。だが水町薫も水子も平然としていたことに違和を感じ、出口の先へと視線を凝らす。


「――ったく、あんま世話掛けさせんなよ」


 そこにいたのは。【血】の頭部を鷲掴みにしていたのは、研究員だった。

 彼は空いた手で煙草を持ち、気だるげに言葉を発する。


「知ってていいのはお前ら二人だけ、んなのは分かってんだろ」


「なら出しゃばらなきゃ良かっただろうが」


 当人同士でしか分からない内容だろう。研究員が言い、即座に水町薫がそう返す。翼は何の話か理解することはできなかったが、この研究員が何かを隠していることは知ることができた。


 彼からは狂人然とした力が周囲に洩れ出ていて、誰の目から見ても彼が能力を使ったのだと分かってしまう。そして、それを今まで隠していたのだ、ということも。


「ならまたコイツを逃がすか? 俺はそっちの方が困るね、お前らの力不足を俺のせいにするんじゃねぇ――でよ」


 研究員は【血】の首筋に注射針を刺し、それが一杯になるまで血を奪い取る。それから満杯になった注射器を白衣に仕舞い、くわえた煙草を吐き捨てた。フィルターぎりぎりまで吸われた煙草は無残に靴裏で踏まれ、燃えていた火が消滅した。


 研究員は翼を一瞥し、その後でリーフェと唯華の二人へ視線を映す。

 翼は動かず、研究員を凝視していた。


「そんじゃ、例のアレは実行させて貰う。例外的に村雲翼に知られたのは黙っておくにしても、リーフェ・エリルガンドと北条唯華は別だ。いいな、水子」


「そうじゃの、拒否する理由もあるまいて」


 研究員の言葉を翼が思考する暇はなかった。それどころか周りを見る余裕さえも今の翼にはなく。


 研究員――正確には彼が掴んでいる【血】の頭部を睨み、その目を丸くして固まっていた。


「君、は――」


 血の仮面が剥がれた【血】のその顔は――。


 翼が確かにあの時殺し、死体を確認したはずの。

 男子生徒の顔だった。

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