十五 狂演輪舞

 狙われた対象は翼だ。


 ならば敵の狙いを撹乱するためにと、翼は瞬間移動を用いて様々な位置へ退避していた。

 よって【罠】は度々翼の姿を見失い、攻撃の手が止まる隙をリーフェ、唯華の能力が襲う。


「ちょこまかちょこまかと逃げるのは狡いねぇ! ちょっと本気出しちゃうよ!」


 しかしこの場は【罠】が事前に敷いていた戦場だ。気配遮断と瞬間移動だけで完全に意識を逸らすことはできず、地面に足を付けた翼の頭上と左右から岩石と木片が飛来する。


「……ふむ」


 それを数メートル後方に回避し、ぶつかり合う質量弾を眺めて呟いた。


「僕の位置が分かるのではなく、僕から罠に嵌まっているということか」


 足元から飛び出した蔦と岩弾をステップで避け、頭の半分ほどを思考に割く。


 事前の説明だけでは分からないこともある。


 ――敵は恐らく設置型の能力だ。と仮定すると、こちらから引っ掛からなければ作動はせず、【罠】が仕掛けられたまま残ったままになるのではないのか。

 動かないという愚かな選択肢は存在しないが、敵がそういった能力ならば話は早い。


 車が【罠】に引っ掛かった際もこちらから踏み込んだ罠で、視覚操作もこちらから干渉した結果だ。

 敵の攻撃パターンも計測はしていたが、物理的に襲ってくるのはこちらが何かをした時に限られる。

 つまり、一度見たり踏んだ場所は新たに【罠】が仕掛けられない限りは安全だ、ということ。

 そこまで考えて、翼は今までに自分が移動した位置を思い浮かべた。


 水町薫が【罠】へ突撃するのを確認した後、翼は最初に回避した場所を見据えて瞬間移動を行使した。


「……予想は正しい、か」


 一度目は着地と同時に【罠】に発見されたが、今回は攻撃されなかった。

 これで誰かが足を踏み入れた場所は設置された罠が消費されており、何も起きないことになる。


 だが向こうが翼の行動に気付いた場合は別だ。どういった手段で仕掛けを張り直すのかも分からないため、現状維持は好ましくない。


 早期決着が望ましいのは確かだ。


「……さて」


「みいいいいいいつけたああああ! いただきまーす!」


 相も変わらず流れ出る黒い液体から【罠】は現れ、翼を認知した瞬間に目をぎょろりと光らせて飛び込んでくる。


「……君が僕を狙う理由、それは僕が“不完全な狂人”だから、かい」


 敢えてその攻撃を避けもせずに受け止め、噛み付こうとしてきた顔面を押さえ付ける。


「――違うね。君は、君だから狙われているのさ」


 くぐもった言葉が、小さく確かに聞こえてきた。

 顔をしかめ、翼は【罠】の腹部を蹴り飛ばして退避する。どうせ偽者でダメージはない。


「僕を狙う理由、ね」


 翼の問いに対して、【罠】ははっきりと口にした。それは村雲翼が村雲翼であるから、という明確な理由。言葉そのものを鵜呑みにするわけにはいかなかったが、どうしても引っ掛かった。


 その時だ。


「遊びは終わりじゃな」


 余裕の表情で煙草を吸っている研究員とは違い、静観していた水子が全員に聞こえるよう言うと――視界が崩れ落ちた。


 大量の【罠】は消滅し、亀裂が収縮し、最後に草原そのものが消失してその景色は全く別に変貌する。

 そこは町外れの草原でもなんでもなく、ただの空き地だった。どこかも分からないが住宅街の風景が視界の端まで繋がっていて、電柱に書いてある住所を一瞥してまだここが雪浜町内のどこかであることを確認する。


「舞台を壊しちゃうなんてとんだ邪魔者だねぇ……? ちょっと困っちゃうよ」


「お主の事情は知らぬが、大人しく捕まってくれ」


 水子の能力は無機物に干渉するもの。静観していたのではなく仕掛けられた【罠】の全てを把握し掌握するために動いていたのか。


「あー参っちゃうなぁー? だから全員相手は無理ってあれほど口を酸っぱくして言ったのに! ま、いいや! また遊ぼう!」


 どうでもいい独り言を捲し立てた【罠】が逃走しようと身を翻す。

 仕掛けたものが全て壊され、戦えないと判断して逃げたか。――だがそうなった場合。


「やあ」


 翼は【罠】の眼前に瞬間移動で立ち塞がり、挨拶を送る。一拍置かなければ翼に気付くことのできない【罠】は、道化師の表情に確かな渋面を浮かべた。


「先程の話、詳しく聞かせて貰えるかな」


 短刀を【罠】の首元に潜り込ませる。そのまま、両断した。

 ――手応えはない。


「ああー遅かったねぇー? 間一髪大脱出! どうだい皆さん今度こそ楽しめたかい? それじゃあさようなら!」


 無傷のまま宙を舞った【罠】の口角がつり上がり、姿が掻き消える。


「……追いかけるかい? まだ見失ってはいないが」


「止めておけ」


 水町薫は制止を掛ける。翼は頷き、能力の使用を中断した。


 それから探知外へ離れていく【罠】を見届け、懐に入れてあった注射器を取り出す。


「どうして【罠】が単身で突っ込んで来たと思う?」


「さぁ。一人じゃ勝てないだとか言っていたが……」


 翼にしか聞こえない程度の声で重要なことを口走っていたようだが、一体何の理由があるのか――。


「お前ら、聞け」


 煙草を吸い終わった研究員が、吸殻を携帯灰皿に突っ込んだ。かさりと擦れる音だけが空き地へ広がり、研究員以外の全員がこれから彼の話す内容に耳を傾ける。


「どうしてか知らんが、向こうもこちらの情報を得ているようだな。【罠】の役割は十中八九、陽動だ」


 化身というのは、人間が本来持つ三大欲求――を凌駕する別の欲求に駆られ、それを第一に考えて動く者のことだ。アルコール中毒者や薬物依存などにも通ずるのだが、そのため他人の命令を絶対に聞かない。

 だからこそ、化身が六体も集団で行動をしていること自体が可笑しいのだ。それぞれの目的が一緒になった時に二体や三体で動くことはあれど、六体という前例はない。


 しかも【罠】の口ぶりだと化身を率いる統率者、そうでなくても命令できる何者かが構えていることになる。

 となると、一筋縄でいかない。ただの一体でさえも規格外の能力を持つ相手が六体だ。


「奴らが【罠】を単体で繰り出してきたのには必ず理由がある。ともあれ、ホテルから逃げる時間を稼ぎたかっただけかもしれない。まずはホテルまで向かうぞ、居なければ俺が捜索網を広げるまでだ、長くても半日あれば見つかるだろうさ」


 研究員は乗り込めと言わんばかりにさっさと運転席へ乗り込み、エンジンをかける。


「この事件、【血】が深く関係していそうだな」


 水町薫が呟き、他の三人がその名に興味を示した。水子が喉下の皺をひっぱりつつ、彼に尋ねる。


「その【血】というのは、そこまでの存在なのかい?」


「俺が一人で勝てない相手だ、と言えば分かるだろう」


「ふうむ。確かにそれは、中々厄介な相手よのう……身を引き締めなければいかんか」


 敵に居る【罠】という者も相当に厄介な能力を持っているが、そんな奴らが四体。残りの二体がただの化身なのは良かったと言うべきなのか……。


「リーフェ、気を付けましょう」


「あぁ……唯華こそ、気を付けろよ。今度死んだら、次こそ助からないからな」


 全員が研究員の車に乗り込み、予定より遅れて車が出発する。









 途中で襲撃もなく、ホテル『Relief』にはすぐに辿り着いた。早朝でまだ人気もなく、辺りは静けさに包まれている。

 翼はここに化身の存在を一早く感知していた。数は当初と同じ六体。逃げもせず隠れもせず、ホテルの中に滞在している。しかしこの中に【罠】の気配は感じられず――ということは別の化身が新たに存在している、ということに他ならなかった。


「研究員、君はここに居ても大丈夫なのかい?」


 また余裕そうな面持ちで煙草を吸い始めた研究員に、翼は聞く。


 わざわざ狂人が化身を狩るのは、研究員側が化身を押さえられないからだ。また研究員の中には誰一人として狂人はいないため、こうして化身がうじゃうじゃと居る場に現れることはない。

 この男を除いて。


「俺の心配はいらねぇよ。いっつもこんなんだからな。んなことより、こいつらの殲滅が最優先だ。水子、状況は?」


「数は六だけど、この中に新手の化身が隠れているね。【罠】はこちらには来ていない。だけど何より一番気掛かりなのは、ホテルに人の気配がしないこと、くらいさね」


 言われて翼も探知の枠を広げたが、水子の言う通りに人の気配が一つも感じない。仮にもホテルだ、客はいなくても従業員はいるはずだが。

 化身に占領された、と考えるのが正しいか。


「そうか……まあ、仕方ないな。そんじゃ、お前ら全員でホテル内の化身を捕らえてくれ。一般人が誰もいねぇなら建物の被害は考えなくていいが……あんま壊されると報酬が減るからそこだけは気を付けるように」


 計画も何もあったものではない。つまりは数でぶつかり勝て、そう言いたいのだろう。

 研究員は「俺は外で待っている」とだけ残して煙草の煙を吐き出した。その場所は安全なのかと問いたいところだったが、あそこまで冷静なら大丈夫なのだろう、と根拠のない解答を下してホテルの入り口へ目を向ける。


「ふむ」


 翼は、相手方の化身がこちらへ近寄ってくる気配を感じた。ゆっくりと歩いているのか、近付く気配は落ち着いたものだ。それが気味悪さを感じさせる。


「お嬢ちゃんも気配の探知が優れているみたいだねぇ。今、向こうがどこまで来ているか分かるかい?」


「入り口の奥に全員が立っているね。まるで僕達を迎えるかのようだ」


 ホテルの奥。そこに化身達が揃ってこちらが乗り込むのを待つかのように佇んでいる。

 それがどんな罠なのかは知る由もないが。


「行くしかないだろうな」


 水町薫が先行して進み、他も彼に付いてホテルの自動ドアを入っていくと――。


 ぱちぱち、と乾いた拍手が一つ。妙に腹立たしい間隔を保って打ち鳴らされた。

 そこに居たのは灰色のフードを目深に被った少年。彼の後ろにはそれぞれ化身が立っており、興味がなさそうにこちらの面々を見据えていた。


「遅かったね。どうだい、前戯は楽しめたかい? 本番の会場へようこそ――それじゃあ、宴を始めようか」


 くつくつと笑った【血】はこちらの全員に評価を付けるように眺め、深く被ったフードを申し訳程度に摘まんで下にずらした。最初に見た時と変わらず顔を隠しているが、そこに一体何の意味があるのか。

 少しだけ疑問に感じたが、翼は特に口にして尋ねたりはしない。それが能力によるものか、それ自体が何かの罠である可能性も少なくはないからだ。あまりに不用意な発言はここでは避けた方がいいだろう。


「と、言いたいところだけど……」


 両腕の裾から血液で作られた鞭を出し、【血】は鞭から数滴の血液を落とす。それらは床に広がり、彼らの下を赤く染め上げた。


「それじゃあ楽しめないとは、思わないかい?」


「何が言いたい」


 水町薫が一歩前に出て、苛立たしげに発した。尚も鞭の先から血を滴り落とし、【血】が嘲るように嗤う。


「どうだい? 僕らで話し合ってお互いで選んだ者同士で一対一をしていく、というのは。決着は勿論、死ぬか戦えない状態まで瀕死に陥るかだよ。面白いだろう?」


「全然面白くねぇな。お前の案に乗ってやる理由はどこにもない――水子」


「私はそれでも構わないのじゃが……」


 水子はそこで言葉を止め、首元の皮を引っ張りながら目を細めている。リーフェと唯華は敵方の化身を睨み付け、そのまま静止していた。戦力分析をしているのか、化身にしては異質であろう言動に思うことでもあるのか。


「その選択をすることによって、そちら側の皆さんがどのような得をするのかが気になるのう」


「なるほど、大事な視点からの意見だね。ならば解答をしよう。僕ら――少なくとも僕ともう一人はそのような損得勘定で動く者ではないよ、純粋にこの物語をどう楽しくするか、が問題なんだ」


「そいつは結構だな。……だが、確かに戦いを引き延ばしてお前らが有利になるようなもんは思いつかない。いいだろう、その提案に乗ってやろうじゃないか」


 この短時間に水子が【罠】の解析をしていたらしい。お互いが頷き合って、二人はそう判断する。

 そうして水子と水町薫が【血】と会話をする間、翼はリーフェや唯華のように化身を観察していた。

 中央の先頭で喋る【血】は置いておくにして――。


 左端に佇んで微動だにしない化身は遠い目をしてこちら側を見つめ続けている。女だ。流れがついた長髪をセンターで分けて、後ろへ退かしている。鼻筋は高く、切れ長の眼だが、ぱちりと開いている瞳からは凛々しいイメージを抱いた。

 全体的に白を基調とした服装ではあるが、その分首元に巻いた桃色のストールが強調されている。


 端で立っているだけなので印象としては薄いが、能力持ちであることにはまず間違いない。【白銀世界】【共痛】【天災】のどれかまでは特定するまでに至らないが、憶測で判断すると足元を掬われてしまいそうだ。


 その隣にいる化身は単色の黒いシャツを着てジーンズ姿で身体を揺らし、今か今かと目を血走らせている。

 この化身は能力を持たないな、と、とても分かりやすい気配を放っているが、襲ってこないのは【血】が関係しているに違いない。奴は以前も化身と共に行動していたが、仲間というよりかは化身を使役しているような扱いだった。


 現在【血】の右隣で同じような格好をした能力持ちでない化身が、その更に右の男から髪の毛を掴まれたり首根っ子を掴まれ持ち上げられたりと手荒い扱いを受けている。その男の方はぼさぼさの黒髪を首元まで垂らし、にやにやと汚い笑みをして化身を弄くっていた。黄のジャケットを羽織っているが、中肉中背のなのが一目で分かる。化身も狂人も見た目では判断できない膂力を持っているので、体格を把握したところでどうにかなるものではないが。


 最後は一番左端の女の化身と同じく、薄い印象の男がじっと翼を凝視していた。ショートに切られた髪は癖毛なのか様々な方向へ跳ね、細められた眼光は翼を真っ直ぐに射ている。痩せぎすで白と黒の衣類を何枚も着用しているにも関わらず、それでもなお細いと思わせるものだった。無論、化身の膂力を考えれば体格の分析など意味があるかどうかすら疑問であるが……。


「ふむ」


 全員の外見観察を終え、腕を組む。誰が誰でどの能力か。一対一で戦うのならあまり必要ではないのかもしれないが……。


「そうかい、では僕の提案を受けてくれるんだね。嬉しいよ」


「リーフェ、唯華。とのことじゃが、それで納得できるかい?」


「納得も何もって話だが、唯華がそれでいいんなら俺は」


「私は一向に構いませんわ。余興と娯楽に付き合って差し上げるくらいならば、さしあたっての支障などありません。どうせ勝利を得るのはこちら、ですわ」


 唯華の秀麗な顔が歪んだ。口元はひしゃげ、長い睫毛と二重の下で静けさを保った怜悧な視線が化身を一体ずつ舐めるように観察する。


「相手が誰であろうと、“化身”である限り――必ず死の淵まで追い込んで、絶望の声も死で塗り潰すだけですもの。そうでしょう」


 蝶のバレッタを愛しそうに撫で、唯華は先頭へ歩を進めた。


「私が行きますわ。さあ、何処からでも誰からでも掛かってよろしくてよ、化身共」




 ◇




「……ふぅ」


 研究員は煙草を口にくわえ、深く息を吸い込んだ。しばらくして不満げに紫煙を吐き出し、短くなった煙草を携帯灰皿に押し込む。

 空になった煙草のパッケージはくしゃりと右手で潰され、白衣の懐へ仕舞われた。


「相変わらず、不味いな」


 しかし、それでも煙草を吸っている意味はあった。いや、理由はあれど、既に意味はないのかもしれない。

 生えてきたばかりの無精髭を右手で擦り、車のドアに背を預けるのを止めた。


「……来ると思ったぜ」


 研究員は何の予備動作一つ見せず、遥か空中の彼方へ視線を寄越した。


「あーーーっはっはっはァアア!」


 空中から奇声を上げて降って来るのは、先ほど狂人の集団が逃した【罠】だ。

 そいつは重力を感じさせない足取りで研究員の前に着地すると、首を傾げて不思議そうに笑みを溢した。


「あれ、あれ? こんなところに獲物が一匹いるねぇ……さては君、ショーを見に来たんだろうそうだろう!」


 黄やら赤などの派手な衣装を見せびらかすよう踊り、不自然にも九十度に曲げた首で研究員を中心に捉えた。

 道化師。この男にはそれが一番、似合っている。


「ああ、見に来たぜ。お前が木端微塵に破壊されてくたばる愉快なショーをな」


 危険が降って現れたにも関わらず、研究員は一切の動揺すら刻まない。

 まるで予定調和であるかのように、決定事項を伝えるように、愉快と口にする割にはつまらなそうに言葉を紡ぐ。


「んんんんんーーーーっ? 木端微塵? そいつぁは言ってくれるじゃないかぁ! 種も仕掛けもあるのかな、能力もない君が、どうしてどうやったらこのワタシを粉砕できるのかとネ――」


「言うと思ったよ」


 瞬時。

 研究員の姿が掻き消えた。その異質な光景と結果に【罠】は目を見開き、同時に唐突に溢れ出た“狂人”特有の狂気が【罠】の身に突き刺さる。


「さあ。下らねぇショーとやらを、終わりにしようじゃねぇか」


「――ッハァ――ァアア!? なんだいなんだいその隠し種はァ! あはははあはは、面白くなってきたじゃあないか――!」


 常識――研究員に狂人は一人も存在しない。

 例外――それなのに、研究員が“狂人”の能力を行使した。


 そんなイレギュラーに興奮し、【罠】は歓喜に打ち震える表情で舞い上がる。


「喜ぶのはちと早いんじゃねぇか」


 研究員はその姿を再び現す――足元に設置された【罠】が作動、四方八方から銀糸が張り巡らされ、きゅるきゅるという音と共に刃と成した得物が研究員を切り刻まんと……。


 そこに研究員の姿はなかった。


 通常の方法で糸に完全包囲されていたあの位置から逃げられる可能性はゼロ。

 また何かしらの能力を使ったのだ。


 予定を狂わされた【罠】は、研究員から距離を取ろうと後方へ跳躍する。


「……さては君は研究員じゃないのかなぁ? どうして能力など――」


「決まってんだろ」


 その四肢が吹き飛んだ。手足を失った【罠】が無様に地面を転がり、研究員はその後頭部を踏みつける。


「捕獲完了だ」


 声と共に、ずぶり、と【罠】の首筋に針が刺さった。白衣から取り出された空の注射器だ。そこに【罠】から抜き出された血液が集まり、一杯になったところで針が抜かれる。この行程を二度行うと、頭を踏まれていた【罠】の全身がブロック状に切り刻まれた。

 踏まれた状態で。研究員は手も使わず、足もそのままで――。


 時間にして数十秒。

 頭部だけとなった【罠】を蹴り上げて自らと同じ目線まで移動させ、右手で荒々しく鷲掴みにする。


 慣れた手付きで車のトランクを開き、片手で何やら銀色の箱を取り出す。開けたその箱に【罠】の頭部を放り入れ、何事もなかったかのようにトランクへ入れ直した。


「さ、こっちの仕事は終わりだ。あいつらは何やら面白いことになっているみたいだが……静観といこうか」


 研究員が血肉と臓物で汚れた道路へ手を翳せば、あっという間に元の状態へ回帰する。そうしてから懐に手を突っ込んだが、もう煙草が尽きたのだと気付いて溜め息だけを吐いた。


「ねぇと色々困るんだがな……時間はありそうだな。ちょっくら買いに行ってくるか」


 財布の中身を確認し、一箱だけ購入できそうな小銭が入っていることに安堵する。研究員は気怠げに車へ乗り込み、ふと思い出したように呟いた。


「あぁ、忘れてた……んっと、確かこっちの方だな」


 運転席に座り、未だ“能力”を封印していないことに気付き、懐から新しく血液の入った注射器を取り出した。

 それを自らの首筋に刺し――当然、中身の赤々とした血液は研究員の体内へと入ってゆく。


「俺は俺を“否定”する」


 そうとだけ呟いて、車のエンジンを掛けた。

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