十四 道化師の罠
こちらの方に出るのは初めてになる。
目的地に到着した翼は、そんなことを考えながら辺りを見回した。霞町より少しは発展しているという印象を受けるが、別段大した変わりはない。
「こっちか」
ナビを見て一人勝手に頷いた研究員は、入り組んだ路地に入りその中にあった有料駐車場に車を停めた。全員が外に出ると、今度はリーフェと唯華の案内で水子の住む家まで向かうこととなった。徒歩にして数分の距離にある一軒屋に着くと、研究員がインターホンを押す。
「早かったのう」
数十秒も時間を空けてから、牛嶋水子がようやく扉を開けて姿を現した。初めてその人物を見た翼は、まず彼女が老いていたことに少々驚いた。水町薫との通話では声まで洩れていなかったので、名前から性別は推測はできても相手の年齢までは推測できていなかったのである。
しわがれた首元の皮膚を片手で摘んで伸ばしつつ、水子はこちらの面々を見やる。
「まずはお礼と謝罪を。うちの二人が迷惑かけたようで、済まないと思うておる」
優しげな物言いとは裏腹に、鋭い手刀がリーフェと唯華の首筋を捉えた。
「あだっ!」
「いっ……」
反射的に首裏を押さえた二人へ水子は激昂する。
「なんべんも言うたろ、人様に迷惑だけはかけるなと私ゃ口を酸っぱくして言ったはずじゃ!」
「……すまない、婆さん」
「分かっておるのなら、もういいがの。お見苦しいところ、お見せした」
二人に頭を下げさせ、水子は水町薫へ向き直った。
「よう来てくれたの。本来ならば三人で解決せにゃならん依頼じゃったが……【順列一位】がこうして来てくれるとなれば、心強い。して、そちらの方は――」
「僕が
こちらを向いた水子の意図を察して答えると、彼女の垂れた頬が柔和に広がった。
「そうかい、それならいいんじゃが……。ともあれ、よろしく頼むよ」
彼女が頭を下げ、全員が家の中に案内された。
水子は独りで暮らしていた狂人である。
そんな彼女だったが、近年リーフェと唯華を家に引き入れてからその穏やかな日常は崩壊し、非常に五月蝿く、しかしどこか充実した毎日を過ごしている。
その住居がこの家というだけであり、狂人だからと言って危ない物が置かれていたり、裏で怪しい取引が行われているようなことも勿論ない。
水町薫の貸しアパートがそうであるように、表ではひっそりと暮らすただの老人の家だ。
しかしながら彼女は狂人。見た目に反して老いることを知らない膂力と敏捷性を当然のように持っており、全ての無機物に干渉する規格外の能力を行使することから【
大胆にもリビングのソファに一人で腰掛けた水町薫が彼女の情報を翼に伝えると、翼は「ふぅん」と頷いて水子を眺めていた。
「つまり、あの老婆と戦うことはそのまま世界を敵に回すに同じか」
「その認識でいいな」
部屋の端でコーヒーメーカーと奮闘している老婆、牛嶋水子。隣のリーフェに扱い方を教わる様を見ているだけでは、とても彼女がそのような力を持っている人物には見えなかった。
やはり見た目で人を判断するものではない。
「現在時刻は午前五時。ようし、お前ら俺に注目しやがれ」
左腕に付けた安物の腕時計を睨んでいた研究員が、白衣を邪魔そうに払いつつ各々に呼び掛けた。
当然、誰も集まらない。水町薫は彼を見もせず、翼に至っては聞こえているにも関わらず水町薫と話をしている。
辛うじて反応の示したリーフェや唯華も、怪訝そうに研究員を見やるばかりだ。
まるで場違いだとでも言われているような距離感を咳払い一つで誤魔化すと、唯一まともな反応をした水子がコーヒーのカップを片手に研究員の元へ寄った。
元来研究員といった存在は、その全員が狂人とも化身とも最小限の会話しかせず、常に見下した風な態度を放つような者達ばかりだ。
なのでこのようにふざけた態度を保ち、その上馴れ馴れしく狂人に絡んでくるような研究員などこの研究員を於いて他にはいない。
それでリーフェや唯華は戸惑っている、とは水町薫の談。
なるほど、と確かに異色の雰囲気を垂れ流しにしている研究員に仕方なく目を向けてやると、翼は彼のこれからする内容について耳を傾けることにした。
「敵の情報と構成をざっと説明する。とりあえず聞け」
研究員が話す内容は、ビジネスホテルを借りる化身とやらの情報であった。
雪浜町三番街の通りに位置するビジネスホテル『Relief』。化身が六人構成のために二人部屋を三つ借りており、三○三号室には【
「さて、チェックアウトが終わる前にお前らにはこいつらを始末して貰おう。理由は簡単、密室の方が潰しやすいからだ。勿論ホテルの方に迷惑はかけられん。そのため、牛嶋水子には空間凍結を行って貰い、建物の破損を防ぐ。その上での制圧だが……水子、お前“一人”で担当できるか?」
「ふぅむ。私の身を案じるのか、心配しなくともその程度ならば可能じゃよ。それで?」
無機物に干渉する能力がそこまで猛威を振るうのか、というところまで考えたところで、翼はふと研究員の言葉に違和感を覚えた。
「この水子という人と同じ能力を、今の面子に使える者がいるのかい?」
「いいや、誰も使えねぇよ。そうだった場合は新たな策を提案するだけだぜ。で、だ。牛嶋水子、お前には四○四号室を相手して欲しい。リーフェ・エリルガンドと北条唯華は三○四号室を、水町薫と村雲翼は三○三号室だ。相性ならこれが無難だが――水町薫、なんか意見はあるか?」
資料の紙を片手に淡々と作戦を説明していく研究員だったが、最後に水町薫と視線を合わせてそう訊いた。
このまま研究員の提案を実行に移した場合、水町薫は【血】と戦えないことになる。あれだけ因縁を付けられた相手を自分で下せないことに不満がある、というのを先に解消するつもりか。
「……いいや。俺が戦いたかったのは【血】だが、別に誰がやろうと関係はないさ。それでいい」
「ああそうしとけ、お前より水子の方が適任だ」
余計な一言で締め括り、研究員は懐から血液の詰まった注射器を一本取り出した。
そいつを翼に投げて寄越し、彼は懐に両手を突っ込んだ。
「村雲翼、俺が直々に戦闘することを許可しよう。が、お前は他の狂人と同じなわけじゃないからな。その注射器は戦闘後すぐに自分に注射しろ。使い方はピストン部分を左に強く回してロックを解除し、腕の血管に刺して血液を入れるだけだ。まぁ衛生面としちゃ全く良くないが、別に病気にはならんから気にすんなよ」
「影響しないのならその余計な一言も言わないでくれると助かるのだけど」
「一応だよ一応、そうかっかすんなよ別に死にやしねぇ。そも普通は血液型が違うと注入しただけで死んじまうんだぜ? お前はそうはならん、つまり大丈夫だ」
「……そうしておくよ」
これ以上何かを言っても無駄になりそうだったので口を閉ざし、頬の上を掻いた。それから注射器をハーフコートの内側に入れ、翼は自身の肉体を一度だけ見回す。
あれからまだ、身体の異常は一度たりとも発生していない。それは研究員の言う通りに定期的に血を摂取しているからか……。
まだ、様子見の段階ということだ。その内明らかになっていくのだろう。
各々の戦闘準備は最初から完了している。翼は水町薫から渡された短刀を一本だけコートの内に仕込み、一息吐いた。
これから戦う【罠】は文字通りに能力で罠を張り巡らせて戦う化身だが、これに関しては翼と水町薫に何の問題もない。
あるとすれば【白銀世界】と呼ばれるもう片方の存在だ。能力はまだ少ししか解明されておらず、とにかくこちらから“攻撃”を仕掛けなければ能力は発動しないとのことだから、真っ先に【罠】を潰してしまうのは確定なのだが。
「村雲のお嬢ちゃんや」
水町薫に続いて外へ出ようとすると、背後から水子に呼び掛けられた。その足を止め、後ろに視線をやる。
もう他の面子は先に行ってしまって、この場には水子のみ。
「なんだい」
「お嬢ちゃんは、この生活になったのは最近かい?」
「ん、そうだが……」
狂人――いいや、中途半端な存在と成り果ててから、一ヶ月と少し。実際に狂人として活動していた期間はもっと短いのだが、濃く凝縮された日々は長かったと言われればそのようにも感じる。
「それじゃあ、まだじゃのう。お嬢ちゃん、お嬢ちゃんには果たすべき事はあるのかい?」
水子はそんなことを呟きながら、若干ばかり曲がった腰を擦った。
果たすべき事。そのようなものは翼にはない。
「ないよ。この質問に何か意味が?」
「意味はないかもねぇ。ただ、理由はあるさな」
全員が外で待っている。それなのに水子は自分のペースを崩さないままコーヒーを啜り、空にしたカップをソーサーの上に置いた。
「普通の人間では“狂人”にも“化身”にも成ることはできない。今のは私が永き時を生きてきた経験論じゃよ。お嬢ちゃんも、いずれは分かる。それまでは、ゆっくり考えておけばいいんじゃよ」
「うん……? 考えておくよ」
それじゃあ行こうかの、と水子は翼の背を手の平で優しく押した。
狂人になった理由、とは。
車に乗るまで頭の片隅で思考を続けていたが、遂に結論が出ることはなかった。
翼は殺人者。
いつ死んでも構わないと思って生きてきた、世界から外れた異端者の一人。
思考を続ければいずれ答えは出るのだろうか。
と考えた辺りで助手席の水町薫が言葉を発したので、そちらに意識を集中させるため、そこで思考は胸の奥にしまい込んだ。
「なんか可笑しいなぁ、って思ったらよ」
車を走らせてから半時ほど。研究員は何度か不審げに外を確認していたが、唐突に道の脇で車を停めた。
到着したのだろうかと窓から外を覗こうとして、“可笑しい”ことに翼も気付く。
「さっきまで道路を走ってなかったかい?」
そこから降り、一同は遠くに見える雪浜町を眺めて各々困惑の表情を浮かべた。
車を走らせていた間、車窓から見えていた風景は雪浜町の町並みであったはずだ。それで道の脇に停車させたはずの車、だが。
停めた瞬間、そこから見えていた景色は自然に移り変わっていた。普通じゃ車が通ることなどないであろう、草原。道などとうに外れている。
草木を押し潰して停まった車のタイヤ跡が向こうまでずっと続いていたことから、翼はなるほどと一人納得した。
「【罠】に嵌められていた、ってぇことだよ」
研究員が苦笑する。と同時、気分の悪くなるようなねばついた声が上から降り掛かった。
「はぁーぁいどうもぉ! まんまと引っ掛かってこれ幸い、本日のショーはどうだった皆様どうだったぁ? 楽しめたかな?」
朝日の射し込む天からゆらりと落ちてくるそれ。道化師とでも言いたげな奇妙な服に身を包み、その顔が「んんーっ?」と腹立たしく斜めに傾けられる。
黒と原色の赤が混じった長髪の隙間、そこから覗く丸っこい眼が翼を凝視した。
化身の登場だ。それも、ホテルにいるはずの【罠】が。
「ただの時間稼ぎじゃ楽しめるわけねーだろ」
研究員は棒立ちのまま【罠】を睨み付けてそう吐き捨てる。研究員は狂人ではないはずだが、化身に対する恐怖はないのだろうか。
「じ、か、ん、か、せ、ぎ。今君はそう言ったのかな? ここは罠の世界。ショーはこれから、君達はまだまだまだまだまだまだまだまだまだ、まだ入場しただけ。さァ! それなら、さっさと手早くおっ始めようじゃないかァ!」
顎を震わせてけたけたと小刻みに笑い、そいつは中空に溶けて姿形を失っていく。その瞬間、草原だった空間が崩れ出し、亀裂から黒い液体が流れ出す。
「視覚が操作されているだけじゃよ。何も起きてはおらん」
「ったく……俺らの動向が化身に掴まれてるんじゃ、しかたねぇな」
水子が辺りの状況を説明し、水町薫は短刀を二本取り出してそれを交差させる。
「予定変更だ。向こうも俺達が来るということを知っていたとなれば、奇襲は難しい。一先ずこの状態を抜けるぞ」
研究員は気だるそうに言い、車に寄り掛かって煙草を取り出した。まさかこの状態で一服をする気なのか。戦いに参加できないとはいえ、気分をリラックスさせるタイミングではなかろうに。
少々呆気に取られた翼だったがすぐに気を取り直し、自身の感覚を鋭敏化させる。視覚が駄目でも、この感覚で得た情報は誤魔化せない。
「ふむ、この空間には【罠】しかいないようだね」
現状、視覚を使えなければ翼の能力の大半は失われているようなものだが、化身が一体となればそれほど危険な状況ではない。寧ろどうしてこの場に【罠】が一人でやってきたのかが疑問ではあるが――。
「狙いは君に、きーめたぁあああああああ!」
黒い液体から何人もの【罠】が姿を現し、その全員が翼を凝視しして奇怪な笑みを浮かべる。まあ、この場で考えてもしょうがない。
「やれるものなら、やってみるといい」
短刀を右手に構え、翼は能力を行使した。
戦闘、開始。
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